2008-04-11

情報の価値を決める4つの基準

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情報とは何か、情報の価値基準は何かについての偏った考察。

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世界の情報は、私を圧倒している。全てをしっかりと読むには新聞は大きく厚く、TVは膨大な時間のコンテンツを放映する。ウェブページは無限にあり、RSSは無数のエントリを運ぶ。電話やメールがパンクすることは私にはないが、世界は人に溢れていて、その気になればメールと電話のやりとりで時間を潰せることも目にみえている。DVDもCDも書籍も、追い掛けられる上限を遥かに越えている。

私は少しでも情報摂取を効率化しようとした。新聞は見出しを眺め速読し、TVは「ながら視聴」しかせず(個別情報のためというよりは、NHKがどのように報じているかを知るために)、ウェブのリンクを辿ることは禁止し、RSSリーダを利用し、登録フィードも50を越えないようにした。調べ事は事前にメモしておいてダラダラとブラウジングすることを避ける。集中したいときには携帯の電源を切り、人と会う前には話すことをメモし、電話をするならばメールをし、メールは即座に返事をする習慣をつける。DVDやCDは事前に視聴すべきものを調べてメモしておき、書籍もリストを作り、速読する……。

こうして速読や記憶術に触れ、メモやノートの技術を考え、時間管理術を覚えていった。無限の情報を圧縮し、少しでも自分の管理下に置こうとしたのである。情報管理の基本は一つである。自分にとって摂取すべき情報を規制するということ、つまり「情報の選別」と「情報の摂取」との二段階を明確に分離することである。そうすることで価値のない情報にかける時間を出来るかぎり減らすことができる。

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しかし、それでも情報は溢れていた。ここで私は立ち止まった。そして問うた。私は何をしているのか。情報を摂取しているのだろうか。そうだとしたら情報とは何か。なぜ情報に触れるのか。情報に触れることで何をしたがっているのだろうか。

情報とは何か。情報とは「それを摂取することによって、その後の行動が変わるもの」といえることに思い至った。そうだとしたら、その後の行動に影響を与えないものは情報ではないと言える。ここで、行動とは「私の行動」に他ならない。私が情報摂取することで他の人の行動が変化するということはありえないだろうから。

こう考えると、私が情報に触れる理由が分かる。情報に触れることで、私は、今の私が知らない自分を生み出したいのである。その情報に触れなかったら取らない行動によって導かれる未知の未来へと向かうために情報を摂取しているのだ。そうした未知へと向かわせる以外の情報の価値は低い。

それでは情報の価値基準を定義できないだろうか。4年前の手帳(2004-2-19)に以下のような走り書きを見付けた。少し考えてみるとそんなに悪くなさそうなので写してみる。

  1. 関わりがあったり、自分の関心があること。その事柄に興味があり、関わっているとき、大きく影響を与える。自分がその情報を使えるときに、その情報の価値は高い。逆に言えば、自分の関心のない事柄に関する情報は、いくら客観的な価値があると言われているにしろ情報ではない。
  2. 真実であること。リアルであること。別に情報が客観的事実である必要はない。主体にとってのリアルであり、真実であればよい。独特の説得力があればよい。ある種の世界を眺める視座や、分析する語り口が主体の行動に影響を与えるのは、その語りがリアルであり、切実であり、何よりも主体にとって真実であるからである。もちろん事実であるというのは強い説得力を持つが、詐術的メディアに囲まれた世界で「事実」ほど疑わしいものがあろうか。自分のリアルという感覚以外に何を頼れるのだろうか。事実であろうが真実を感じさせないもの、身を切るようなリアルな質感を感じさせない情報は情報ではない。
  3. 意外であること。未知であること。驚きを与える情報が主体の行動に変化を与える。既知であったり、当然である情報は行動に変化を与えない。それは情報ではない。
  4. 入手・摂取コストが高いこと。記号に対し、深く影響を受けるためにはコストをかける必要がある。ある意味で、意外さの驚きとはこの「コスト」かもしれない。時間をかけ取り組む必要があるということそれ自体が、主体に変化を与える要因となる。ある種の理解し難さが情報の価値を向上させるのである。コストが掛けられない場合には簡単に通り過ぎてしまい、主体に変化を与えない。長年つきあうには「手強さ」が必要である。

逆に言えば、価値が低い情報とは「自分との関わりや関心が低く、リアルさがなく、意外性がなく、入手も摂取もしやすい情報」ということになる。こうした情報は主体に何らの変化も起こさず、故に主体は未来に向かうのではない。こうした情報は人を「情報処理機」に堕とす。私たちを囲む、実に多くの「情報」が、こうした「情報」なのではなかろうか。真に意味のある情報と付き合いたいのなら、選別の過程でこうした「情報」を排除する必要がある。

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そうした自分を変えるような情報を見つける方法はあるのだろうか。価値のある情報は客観的には決めにくい。関心や好奇心、裏切られたりリアルに感じたりする感性は人それぞれである。一つだけ言えることは、自分の直感と予感を信じるということである。

藝術を愛好する人ならば、ある種の芸術作品が、理解のし難さで己にぶつかりつつも、何故かそこに価値の予感を感じることがあると思う。そして、それが、長い時間を経てからやっと分かる日が来ることがある。自分のその分野に関する強い関心、リアルさ、未知さ、理解コストの高さがあいまって、その作品の価値の高さとも言えると思う。その「理解」が出来たときには、自分は化学変化が起こっているのだから。

また、ある種の古典とは、価値のある情報である可能性が高いと思う。生き長らえる古典とは、長年に変わらない人間の関心を主題とし、意外な真実をリアルにあぶりだす。そして摂取コストが高いことが多い。そうした作品を鑑賞することで、異なった未来が開けるということが多いのだろうと思う。

片や人気のある作品とは、情報が低いことも多い。摂取や理解のしやすさが主体の変化の契機を奪うし、娯楽とは既に成立している感性の反復であるので、微妙に好奇心を煽りつつ、そこに意外性や未知は含まれていない。更にリアルさや関心の度合いは高いにしろ、時間の経過とともに風化してしまう。

所謂、成功本や金持ち本を読むと、平凡でない人は平凡でない情報に触れている場合が多い。古典にじっくりと取り組んでいる割合も多く感じる(本なのだから本を勧めるのはある意味当然だが)。あるいは、そうした外部のメディアに頼らず、「現実」や「自分」という未知に真っ向から挑んでいるのかと思う。