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目下ストレートに答えておきたい問題があります。しかし残念ながら、それはまだ今の私の手には余る作業です。そこで、それは置いておいて、少し回り道を書いておきます(昨晩、水村美苗『日本語が滅びるとき』買ってきたので書くかもしれません)。
この文書で私が言いたいことは、明治の文豪はまさに今、読むに足る面白さを提供しているということです。
危機から脱し続けた日本
グローバリゼーションが進行しつつある現在、私たち日本人は世界的な金融と IT の波に飲み込まれるかのようです。昭和という時代を通じて国民を守ってきた国境は、その役目を終えつつあるかように見えます。日本の没落を前にして、私たちは底知れぬ恐怖と危機感に襲われています。
これを黒船来航から明治維新に喩える人があります。また先の対戦の敗戦に喩える人もありましょう。枠組みは同じです。欧米は巨大であり、その前に日本はあまりに弱く、先が見えなかったのです。
しかし日本人は一度として諦めることはありませんでした。明治の人々、昭和の人々は、今から見れば絶望的な状況の中、日本を発展させているのです。
しかしながら、上の表現はあまりに大雑把かつ扇情的であり、過剰に右翼的とも思います。この点については異論があることも存じております。私は不用意なナショナリズムには反対ということは強く断っておきます。ですが、ここでは話を急いで、日本語と文藝の話に参りたいと思います。
繰り返される「外国語 国語化」論
こうした幾度の危機の中、日本語の廃止論や外国語の国語化は何度も唱えられました。明治初期、後の初代文部大臣森有礼が国語を英語にすることを唱えましたし、終戦直後には「憲政の神様」尾崎行雄が英語に、「小説の神様」志賀直哉がフランス語に代替せよと主張したものが有名です。
森はその主張をアメリカ人言語学者・詩人ホイットニーに書翰で送り、以下のようにホイットニーから厳しくたしなめられています。
一國の文化の發達は、必ずその國語に依らねばなりませぬ。さもないと、長年の敎育を受けられない多數の者は、たゞ外國語を學ぶために年月を費やして、大切な知識を得るまでに進むことが出來ませぬ。さうなると、その國には少數の學者社會と多數の無學者社會とが出來て、相互ににらみあひになつて交際がふさがり、同情が缺けるやうになるから、その國の開化を進めることが望まれなくなります。
また、昭和21年の志賀は以下のように書いています。
吾々は子供から今の国語にならされ、それほどに感じてはいないが、日本の国語程、不完全で不便なものはないと思う。その結果、如何に文化の進展が阻害されていたかを考えると、これは是非とも此の機会に解決しなければならぬ大きな問題である。此の事なくしては将来の日本が本統の文化国になれる希望はないと云っても誇張ではない。
存在しなかった「日本語」
こうした議論を今となって嗤うことは容易いことでしょうが、それは事の本質を見誤らせます。詳細な議論が必要ですが、一言だけ触れると、明治や戦後という時代はこれほどに日本や日本語というものの未来が見えなかった時代だということです。殊に明治初期にあっては西洋の知識を翻訳するに足る語彙がないことはもちろん、今では自明である「国語」や「日本語」という概念すら成立していなかったのですから。
これは日本が公的には話し言葉としての日本語を使う習慣がなかったことが大きな要因です。日本で初めての演説は福沢諭吉だったのであり、それ以前には自分の意見を他に示す手段は漢文や候文で書面に認めるというのが一般的であったのです。
それでも、こうした状況の下、日本人は漢語の教養を用い、膨大な語彙を創造し、西洋の知識の翻訳を可能にしました。
新しい時代を語るための「文体」
必要だったのは語彙だけではありません、そうした時代に合う新しい「文体」が必要だったのです。「単語」を作るのに比べると「文体」を創造することのイメージはつきにくいかもしれません。
明治の時代まで現在主流であるような常体や形体の文体は存在しませんでした。こうした現在利用されている文体も、彼らが西洋の知識を翻訳する過程で生まれたのです。現在では考えにくいことですが、なにせ日本語にはセンテンス(文)という概念がなく、故に句読点も存在していなかったのです。パラグラフ(段落)という概念がないのは勿論のことです。そうした全体としての文体を明治の日本人は作らねば、西洋の知識を翻訳することはできなかったのです。
また、文体が関わるのはこうした常体・敬体だけではありません。大切なのは人間は言葉によって世界を捉えており、言葉とは世界の捉え方の反映だということです。「語り口」というレベルで見た文体には、固有の世界観や美意識が含まれるものです。文体には常套句や決まった発想が付随し、それが思考を型にはめるものなのです。ですから新しい文体を獲得することは新しい世界の語り方を創出することであり、それは世界の新しい見方を創出することでもあるのです。
「日本語」を作り出した明治の文豪
明治の時代ほど、新しい日本語が求められた時代はないでしょう。そうした日本語を成立・普及させたのが明治の文豪なのです。つまりそれは坪内逍遥であり、二葉亭四迷であり、鴎外であり、漱石あったのです。いえ、福澤諭吉や西周など、それ以外にも無数の学者たちが、漢籍や古文という伝統という背骨の上に、彼の地でも十分に通用するほどの西洋の知識を習得し、その知力を果たして、時代を語るにふさわしい「文体」を構築していったのです。
こうした日本語を持って、彼らは日本を語っていったのです。あるときは近代化し強くなる日本を肯定する立身出世の話でしょうし、またあるいはそうした近代化により破壊されてしまったものを想う喪失の話でしょう。
そして、その言葉で彼らは思考を積み重ねたのです。思索と言うと考えることを放棄しがちな現代人にはどこか浮世離れした響きがあるかもしれません。しかし、帝国主義の世界の中で日本やアジアの将来を思索することは、常に危機の中でのシビアな思索であったのです。明治文学の中に、時に自嘲があり、時に裏切りへの懺悔が響くのはこうした政治事情と切り離せるものではないでしょう。そして、こうした文学を胸に、無数の日本人が日本のために努力をしたのだと思います。
現代に通じる明治文学のメッセージ
これが明治文学です。帝国主義の危機の中、日本を形作った一部が明治文学なのです。「明治の文豪の苦悩に思いを馳せる」などというと、いかにも現実感のない余裕のありすぎる行為に思われるかもしれません。しかし、静かに彼らの文字を辿ると、そこには確実に現代に通じる問題が描かれているのです。もちろん、つまらないものもあるでしょうし、時代の変化で陳腐になってしまったものもあるでしょう。それでも古くはならない、核心を突いた作品がそこにあります。
つまらなければ、読まなければいいのです。面白いものだけ読めばいいのです。いくつかの明治の文豪の作品は、面白いという言葉のいかなる意味においても、今でも十分に面白いのです。
例えば、漱石の『明暗』を凌ぐ日本の心理小説を私は今に至るまで存じません。我を張り、相手の心を読み合う日本人の厭らしさをこれほどに描けた小説はなく、それ故に日本の家族関係や世間、そして政治・経済について、私は様々な気づきを与えられました。他にも彼の手紙や講演には近代文明への彼の鋭い批判や知恵が満ち溢れています。
また、鴎外のいくつかの作品は海外と渡り合う日本のエリートの自負や苦悩、あるいは挫折や自嘲に溢れています。同時にいくつかの作品では構築された文体の美学にも触れられることでしょう。日本の伝統と近代との折り合いに関する思索もあります。
こうした彼らの知恵は今の時代でも、いや、グローバリゼーションが地球を覆い終えようとする今だからこそ、実に興味深く読めるものです。私たちは日々、考えています。国とは、経済とは何か? 一体、何をすべきなのか? 地域とは、家族とは、個人とは? いや何よりも「生きる」とは? こうした思索は大変に重要であり、何よりも面白いものです。そしてこうした問題に取り組んでいるのが「明治の文豪」なのです。こうした文学的興奮に出会える作品を無視してしまうことは、あまりにももったいないことだと思います。
一人一人が考えること
たしかに、こうした明治の文豪の苦悩は「贅沢な悩み」と言われれば返す言葉もありません。確かに小説・戯作などは余った時間に読むものです。
しかし、グローバリゼーションが進展し、誰もが外国と向き合う必要が生まれている現代において、彼らの苦悩について時間を費やすのは「贅沢」とは片付けるべきではない時代が来ているのではないかと思います。彼らの苦悩や問題意識は確実に現代の私たちに共通するものではないでしょうか?
だからこそ、こうしてグローバリゼーションが完成に向かうこの時代だからこそ、少なくとも若い人には「明治の文豪」に触れて欲しいのです。経済的な価値がますます強くなり、宗教的・倫理的な価値はもとより、郷土や家族という価値すらが殆ど消滅している時代だからこそ、そうした「近代」に向かい合った日本人の思索と覚悟に触れて欲しいのです。西欧の植民地支配を受けず、かつ、世界的にも認められる文学を育めた数少ない国の産物です。彼らの思索、彼らの決意、彼らの覚悟は、確実に私たちに力を与えてくれるものだと思います(まあ、たまに日本を見捨てた思索もちらほら見られますが……)。
もちろん、つまらなければそれでいいのです。影響を受けなければそれでいいのです。彼らの言葉はその程度だったということなのですから。
文学が生み出す「覚悟」
しかし、私の願いとしては、そこで考え、立ち止まり、覚悟をして欲しいのです。
どのような覚悟か?
それは「日本人として生きる」と言う覚悟です。
これは一見するとあまりに右翼的な言説に見え、更に下手をすると全体主義的な言説なので、自分で書きながら虫唾が走るのですが、一言で言えばそうなります。ただし、別に「日本人として」でなくてもいいのです。「東京の人間として」でもいいし「アジアの人間として」でもいい。「地球の一員として」でもいいのです。あなたがどこかの共同体に所属し、そこで生きていくという決意が大切なのです。
そして、ここからが大切なのですが、しかし、その共同体は必ずしもあなたに何かをしてくれるわけではありません。むしろ逆です。あなたがその共同体を育てるのです。大人になるあなたが、そこに暮らす老人と子供を養い、軍事や経済に貢献し、教育や文化を発展させるという自覚と覚悟です。
若いあなたは逃げたくなるかもしれません。自由が欲しい年頃です。義務はまっぴらかもしれません。しかし、自由の果てには何があるのでしょう? 共同体から逃げれば逃げるほど、あなたは孤立し、経済的な自分の能力にのみ頼る以外には生きられなくなるのです。それでは人間という存在は暮らせないものではないでしょうか。
しかし、いくばくかの自由を諦め、自分の所属する共同体を自分が担うのだと思ったとき、あなたは「自在」になれるのです。自分の利己主義だけでは生きていけないと思い、自分の所属する共同体に対して無私の奉仕をすることで、人は連帯することができます。そこの教育や文化に満足し、老人と子供を安心して養うことができるのです。欲しいのは金銭ではなく、安心した暮らしなのではないでしょうか。
確かに打算や利己主義では、義務を背負い込んでの満足というのは幻想に思えるかもしれません。しかし、その満足こそが人間が営みそのものであるのかもしれないのです。
与えない人間は与えられない
文学の意味はここにあるのだと私は思います。つまり、文学を読んでもあなたは何の得もしません。せいぜい時間つぶしな程度でしょう。
しかし、あなたはそこで人に奉仕することを学べるかもしれません。ある共同体で生きるということを学べるかもしれません。こうしたいくつかの文学が、こうしたいくつかの言葉が、家族や郷土、国、地球への愛を支えているのかもしれません。
もしも、そうした愛がないならば、全ての大人が義務から逃げ出してしまうならば、世界はどうなってしまうのでしょうか? もちろん、個人を抑圧する全体主義的ナショナリズムには断固反対ですし、ナショナリズムの象徴たる「近代文学」の彼らの作品にも「国家」に対しての二重の感情があります。それでも、国を超えるようなシステムが生み出せていない現在、共同体に関する思考としては、やはり近代文学は面白いのです。
だからこそ、私は若いうちに文学に触れて欲しいのです。少し言い過ぎますが、「日本の将来は駄目だ」「自分のために海外に逃げよう」などという浮ついた気持ちでは、あなたは何事もなせません。そんな男に誰が目を向けるでしょうか。そんな男を誰が信用するでしょうか。人間とは人の中で生きるものです。与えない人間は与えられません。人に信用されない人生など人間の人生ではないのです。
文学を読むことはあなたには何のメリットもないかもしれません。しかし、優れた文学を読む共同体は強くなるのです。そして、その共同体の「強さ」からのみ、人々は明るい未来へと向かえるです。
日本を支える無名のエリート
私の周りには、海外に逃亡しようと思えばいつでもできるだけの財力と職能を持っているのに、日本を支えるために頑張っている友人がいます。もっと高い給料があるとしても、彼は国内で仕事をしているのです。優秀な友人の何人かは外資の金融や多国籍企業に行きました。それでも、今は外資にいるとしても、何人かは確実に日本の未来のために不利な条件を自らに引き受けているのです。彼らは私の誇りです。私は彼を日本のエリートだと思います。彼らは無名のエリートなのです。
こうした無名のエリートの力はどこからくるのでしょうか。私はそれは高校時代に読んだ文学と友人と交わした議論、そして、そこで培われた正義感だと思います。もしも彼らがそうした時間がなく、ただ勉強やスポーツに追われていたとしたら、目の前の打算に従って動くだけの男であったことだろうと思います。人間、損をするのは厭なものです。損をできると言うのは余程の精神力を必要とするものです。
しかし、そうした正義感が私の友人を強く逞しくしているのです。だからこそ彼の元には人が集まるのです。彼らの職能や情報、財力や人脈に群がっている人がいるのも認めないわけではありませんが、本質的には日本のために無私の努力ができるからこそ、人が集まるのです。
私は日本にはこうした無名のエリートが沢山いて、それぞれが無私の努力をしていたのだし、今もしている人が沢山いるのだと思います。
変革の時代
今は危機の時代、変革の時期です。チャンスと捉える人もいますが、チャンスと言うにはあまりに深刻な変革の時期です。まさに常識すら信じられなくなり、予想がつきません。
この意味ではグローバリゼーションの波は収まる可能性もあります。少なくとも世界の労働条件を悪化させるたり、実物経済を不安定にしてしまうようなあまりに国家を超えた多国籍経済活動には、国際的に連携した規制が加えられてしかるべきでしょうし、それはまさに今こそ一番やりやすいタイミングではないでしょうか。「弱肉強食」と諦めるのではなく、積極的に未来に対して意見を述べる人が現れ、また、それを支持する人があればいいと思います。
こうした現代の世界情勢と明治後期の情勢を見るにつけ、明治の苦悩は今よりももっと大きなものだったろうと思うのです。
彼らの時代、弱肉強食の帝国主義とそれによる戦争への流れはとめようもなかったからです。明治の文豪は自分の無力さに時に自虐的になり、時に裏切りに懺悔するのです。
今は反戦ならば反戦、環境保護ならば環境保護といった世界的な声を挙げやすい。もしかしたら、産業空洞化や高所得者や多国籍企業への税優遇、労働条件が盥回しに悪くなる現象(例えば、メキシコから中国、中国からフィリピンへと工場が移動し、労働者の労働環境は国際的な「最低への競争」をさせられていること)に対しても、国際的な取り組みができるかもしれません。
明治の文豪から学ぶこと
以上のような問題を語る上でも私たちには言葉が必要なのです。私たちの時代の言葉、語り口、文体が必要なのです。
それは勿論、明治の言葉というわけではないでしょう。明治、明治と言いすぎていてはただの懐古趣味と私は思います。
明治の人に習うべきは彼らの結果ではありません。その姿勢、その眼差しです。調べてもらえば分かるように、実際、彼らはその天賦の才もさることながら、強烈な努力を重ねています。そして漢文や古文、西洋語から学ぶべきは学び、捨てるべきは捨ててゆきました。彼らは誠に大胆に新しい「語り口」を掴み取り、新しい思索を可能にしたのです。
私たちが従来の思索を一度整理し、新しい語り口を掴むことが重要と私は考えます。現代はあまりにも無批判に過去の語り口、海外の語り口を輸入しているのが多すぎます。しっかりと現代の文体を構築せねばなりません。そのためにも、私たちの時代が私たちの語り口、文体を創出する上でも彼らの努力は参考になるはずです。
そうして現代の問題を実際に語る文体をこそ、現代の文学者は構築してゆかねばなりません。そうした新しい取り組みは「散文」では行われえません。そのために芸術や文芸と呼ばれる領域が残っているのです。ただ面白い話を書いて小説となるのではありません。新しい人間の実存、その語り口を構築して初めて、意味のある文芸と言えるのだとわたしは考えます。人間の実存の新しい語り口、今まで光の向けられなかった人の「スタイル」を提供しない小説は罪です。モラルに反します。文体の構築が全てなのです。私が創作するのは、この点に於いてのみですし、私が読むのも、この点に於いてのみです。
最期に
ただし、繰り返しますが、一般的には文学は無益です。そればかり学んでいても仕方ありません。実際的な学問はきちんと行わねばなりません。
ですから、学校教育では、明治の文豪を少し触る程度でいいでしょう。名前も知らないのでは世間で笑われます。ただし、とかく学校での第一印象は悪くなり勝ちですから、強制するのはよろしくない。公教育を無視するのは愚かですが、それに過大な期待を寄せるのもまた愚かなものです。
大切なのは大人たる我々が国語の問題、世界の問題に正常なレベルでの関心を寄せていることです。大人が日々、そうした書物を紐解き、思索を積み重ねていると言うことです。自分はネットで駄文を読み、テレビのバラエティー番組で爆笑していて、息子には「明治の文豪を学校教育で」などと言うのは笑止千万です。まず己の背中で示すべきでしょう。
公教育としては、基本的には実学をしっかりと身に付けることです。もっと IT や金融に関する実際的な知識、それに英語の運用能力には投資してよいとわたしは考えます。すくなくとも、この状況で「明治の文豪」に投資するのはばかげています。
しかし、いくら日本人が職能的に優秀になったところで、私たちに利他の心、本当の個人主義、共同体への自覚などがないとしたら、そうした人間はただただ外部に流出してしまう可能性があります。日本人に強さがあるとしたら、それは何があっても逃げない、一枚岩の連帯だと私は想像します。もしも、そうした心が培われないのだとしたら、そして、そうした心を培う文学が絶えてしまったとしたら、それは本当に恐ろしいことだと思うのです。
ですから、明治の文学を今こそ読んでみて欲しい。今こそあなたが読んで欲しい。大人のあなたが実際にいま読み、いま考え、それを食卓で息子に語って欲しい。つまらなければつまらないでいい。今の時代と関係がないと思えばそれでいいのです。ただ、そこで何かを見つけられるかもしれませんし、その可能性は大きなものだと思います。