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昨晩は高校時代の友人と呑んだ。互いに限られた時間の中、共に将来を、夢を、肚の内を、「よみ」を語った。
仕事帰りのせいもあり、正直、私は彼の中に「怖さ」を感じた。「お疲れ」とグラスを合わせても、その空気はすぐには消えない。
それでも、国家について語る歳でもなくなったが国家を語り、哲学について語る歳でもなくなったが哲学について語り、経済を語る歳でもなくなったが経済を語り、精神について語る歳でもなくなったが精神について語る。まあ、それはそれで、可笑しいし楽しい。もちろん、女の苦労話にも華が咲いたが。
話は学生時代のことになる。
学生時代に共に抱えた「絶望」とは何だったろうかと問い掛ける。己の無力感 ── これは己が有能と信じたからこそ起こるものだが ── に襲われ、虚無感の中で苦しんだことは、何だったのだろうか、と。挫けそうになり、視線は真っ直ぐに「死」へと向かはざるを得なかったような「絶望」とは何だったのだろうか、と。
彼はカミュを読み解く中で、既に高校時代には「不条理」についての卓越した「覚悟」を固めていた。私は、彼を尊敬した ── 彼の能力に対してではない、彼の覚悟に対してである。
こんな逸話がある。
彼はアメリカ留学をしたのだが、その際にホームステイをすることになった。両親がいて、子供がいる、団欒の席で彼は食事を取ることとなった。
その雰囲気の中で数日暮らしていた彼は、私にメールをよこした。曰く、彼はそうした団欒の席において「俺は、こういう家庭を持つことはないのだろうな」と憂愁に襲われていたとのことである。彼が21、2の頃の話である。
その前にも、女性に告白された際にも「俺は彼女を作るということはしない。そんな時間は与えられていない」と言ってふっていたのだから、本当に頭が下がる(ちなみに、「時間がない」特に「読書の時間が失なわれる」という理由で女性をふったり別れたりした友人が私の周りには非常に多い)。
さて、何の話だったか。そう、学生時代の虚無感であり、絶望である。彼は若い自分に相当の覚悟を決めていた。もの静かに、筋の通った男として、生き抜いている。
そうした彼と話していて、思うことがあった。やはり精神的な書物は必要なのだな、と。そういう「無駄」な書物こそが、肚を作り、筋を通して生きるのには必要なのだろう、と。
最近、いわゆる「名ばかりの管理職」としてデスマのプロマネをした訳だが、その際にも感じたことである。自惚れ甚だしいが、私はそうした「なにかをマネッジする仕事」があっていると感じたのである。己の「よみ」を仲間に語り、集団でそれを共有し、肚をくくって未来の不確定に臨む ── こうしたことが、好きなのである。
考えてみれば、二十そこそこで起業して失敗してゆくまでは、班長、学級委員長、委員会長、生徒会長、部長と「長」が付くものは片っぱしからやっていた。好きでやっていたとは思わないし、言いたくないが、まあ、そういうことをする業かと思う。望まぬが、望んでいたのだろうかと。好かぬが、好いていたのかと。
こうした人間として、早くから己の限界にぶつかり続け、「精神的な書物」を読まずにはいられなくなったのである。中学生の卒業文集には「人はもっと素晴らしいはずだ」という出だしに始まる「人の中の不安」と題した幼稚だが、今もって尚、私には深刻な問題に関する文章を書いている。たまに眺めても「今ではこうした文は書けないな」と思い可笑しい気分になる。中学時代の私は、現在とは比較にならないほど深刻であり、苦しんでいて、絶望していた。「あの頃の自分を尊敬している」と書けば、読者には笑われるだろうか。若い時は何も知らず、それが故に理想は高く美しく、挫折も深いものである。
そう昔から成長しない私は、ときどき一人、中学生の頃と同じ口癖を呟くことがある。「もっと頭がよければ……」「もっと力があれば……」
無い、のである。徹頭徹尾、そんなものは、無い、存在しない、存在しえない、のである。そもそも、そういう問題ですらないのである! ── なのに。
愚かなものだが、悩める魂はひたすらに回り道をしながら人の世を抜けていくしかない。そうした時に、人の言葉は、人の思索は、人の文藝は、人の受け継がれゆく「語り」という営みは、私を魅了した。
さて、何だったか。そう、絶望の中で出会う書物のことである。理性に信頼を寄せた私は逆に人間理性の限界を「知る」ことになるだろうし、言語に信頼を寄せた私は逆に言語の限界を「知る」ことになるだろう。そうして、世界の限界を「知る」ことになるだろう。
雷に打たれたように、人間理性というものは、頼るべき存在ではなく、逆に、小さな子供のような、可憐で愛らしいが、大人の男がしっかりと守ってあげねばならない存在であることに気づくだろうし、言葉は挨拶と謝罪と感謝ができればよく、後は沈黙することにもなるだろう。
それでもなお、書物を私が愛するのは、他ならぬ書物を持ってしか、私は私を変えられなかったと思うからである。受け継がれてきた書物がなかったらと思うと、やはり、私は愕然とするしかない。少なくとも、ニーチェがなかったら私は生き抜けなかったろうな、と感じる。いや、その他の藝術や哲学 ── 人の業かと疑うような人の営みがなければ、私は随分と寂しい男だったろう、と。
そして、語弊を覚悟で言えば、やはり人の営みにはそうした書物が欠かせないのだろうと。常に、ある種の人々に「精神的な書物」は必要不可欠なのであろうと。
時代は変われど、実は何も変わってはいない。結局、人と人である。常に、人は人と共に、予測のできない未来に相対しながら、今を生きている。いくら語ろうとも、予測しようとも、結局は裏切られ、思うようには絶対にならず、時に成功しても、それは「たまたま」「誰かのお陰」に過ぎない世界を生きている。
にもかかわらず ── いや、だからこそ ── 人は語るのである。人は、物語り、語り合い、肚を見せあい、未来に己を投げ掛けるのである。そうした、「未来に投げ掛ける営み」として、[人の語りの営み」があり、そこに、「精神的な書物」がありえるのである。
静かに考えてみれば、何も変わってはいない。ただただ、未来の不安、死への不安から、人が動いていることに、何の変わりもない。ある人間は娯楽の中で「誰かの欲望」の中に埋没して現を抜かすだろうし、ある人間は死を睨みつつ、その死をすら抜けこえて「今ここの場」に研ぎ澄まされるかもしれない。これは、どちらも同じ、記憶を持ち、未来を予測できてしまう人間の哀しい性である。どちらであったとしても、愚かであることに一寸の差もありはしない。
いや、娯楽と言ったが、他者の欲望に左右されているのでなく、本当に没頭しているのであれば、つまり、生を楽しんでいるのであれば、そちらの方が貴いと思う。問題は何をしているかではない。ただ、普通は「楽しいだろう」という程度では、結局楽しめず、夢、あるいは「使命」というものを睨みつつ、現在に没頭する方が、充実して生を楽しめることと思う。
ただ、人は一人では弱い。己の夢も使命も背負うには厳しい。だから、己の「よみ」を共に語り合えた時、そして、その「よみ」が共有でき、それぞれの場に互いにしっくりとくることができた時、それは充実した仕事ができる。共に未来に己達を力一杯投げつけることができるのである。
このために、語りはある。ここに語りがある。己を語り開いてゆく中で、己ではなかったものが「開き」「現れる」のである。ここに語り合いの本質がある。この未知から現れる「語り開き」の中でこそ、互いの肚の底が見え、躍動があるのである。
不完全で、常に崩壊してゆき、不確定で、己の思う通りには断じてなりえない、この世界の中で、いかに生きるか、いかに生きるのかを、書物は教えてくれる。そして、その高い精神は、本当に「楽しい」のは何かを教えてくれる。それは、結局は、正直に、感謝して生きるしかないということである。
私は正直に、その通りだと思う。結局、正直に、感謝して、恥を知って、生きてゆくことが、「楽しい」のだと思う。己の充実した生を実感できるのである。世界が確定的で、思い通りになり得るのであれば、打算もありえる。いや、若者は多いに自らの才覚を信じ打算して、大人を出し抜けばよい! 存分にやりつくせばよい! しかし、結局は分を知り、足ることを知るに勝ることはありえないと、私は思わずにいられない。
不確定のものにぶつかりながら生きているのに、優れた精神の優れた語りがなければ、いかに苦しく、つらいだろうか。そして、そうした言葉を知れば、尚、不確定なものに挑みたくなる。