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「食」がテーマになって久しいが、最近、また一つ気付いたことがあった。それは、食とは「食べ物に力を与えられる」という受動的なものではなく、自らが味わい、力を引き出すという能動的なものなのではないかということだ。
宮崎駿が描く食がうまい理由
以前、食とはメッセージ という記事で「毎日の食事では、ストレスなく、静かに、食事を味わいたいと、私は求めているということだろう」と書いた。そして、日々の食事では派手さはなくともメッセージとして成立している食を摂りたいものだと述べた。いかに美味であれメッセージとして成立していない食を私は理解できない。
さて、そんなことを心の底に沈めているある日、宮崎駿が描く食事がうまい理由 - ラノ漫—ライトノベルのマンガを本気で作る編集者の雑記— という記事にて、宮崎駿の食が非常に質素かつ単調なものであることを知った。
その記事では、日々の食が質素であるからこそ、「ハレ」としてのご馳走が美味しく感じられるということで、確かにと頷いた。日々、贅沢な料理を食べていては味覚が麻痺してしまい、美味しいという感覚は消えてしまうことだろう。美味を追求した中国皇帝が、次第に食欲を失ってゆくようなものだ。逆に、戦後の貧しい時期に生まれた私の父が19にして初めてカツ丼を食った時に「世の中にこんなにうまいものがあったとは!」という興奮を味わうということが起こるのである。
また宮崎の描く食が旨そうであるのは、明かにメッセージとして成立しているからでもあるだろう。例えば、私はラピュタにおける肉団子スープや、パンとベーコンの朝食、シータが作った海賊たちの食事に憧れたものだったが、それはモノとしての食ではなくメッセージとしての食に憧れたのである。この点 J& blog http://new.ciao.jp/: 宮崎駿が描く食事がうまい理由 が非常に上手にまとめて下さっている。
うまい物を食べるのではなく、うまさを引き出す
私は「贅沢は創造力の敵」なのではないかと思う。これは上で書いた「ストレスなく、静かに、食事を味わいたい」という私の食への姿勢の延長である。
思うに、刺激が強い場合には、自分の側の感性は麻痺してしまう。簡素な食事であるからこそ、自分のリズムや感性が邪魔されない。逆に自分から何かを生みたい場合に、日々の刺激はノイズにしかならない。それがいかに美味であったとしてもだ。
自分で旨く食べるのではなく、美味しい食べ物を与えてほしいという、そうした受動的、他力本願的な姿勢は、全てのことに影響してしまうのではないだろうか。
押井守が描く「能動的な食」
ここで宮崎とも親しい押井守の映像をいくつか思い出す。彼もまた食の描写が卓越している。立食い師列伝は言うまでもなく、パトレーバーにおける柘植の食う立ち食い蕎麦や榊班長の食うアルミの弁当のシーンは思い浮かぶ。どちらも、モノとしての食べ物は別にしても、非常に旨そうに食べていた。
映像がないかと Youtube をうろついたところ以下の映像が見つかった。これも押井の積極的な食の姿勢がよく表れていると思う。
上の動画はいかにも大袈裟ではあるが、食い合せの塩梅や戦略は私も無意識にしろ行っていることだ。大切なのは「美味しいものを食べる」ことではなく、「美味しく食べる」ということなのだ。
この「与えられたものをただ食べる」のではなく、少しでもうまさを引き出すべく「迎え撃つ」という姿勢は押井や宮崎に共通した姿勢なのではないだろうか。
「飯が不味くなる」
「最近うまいもん食べた?」などと久々に会う友人に聞かれることがある。こうした問いを聞くたびに私は情けなくなる。人が少しでも旨いものを食いたいと思うのは本能であるだろう。しかし、ただ受動的に美味しいものを求める様は浅ましい。
大概そういう男と食事を摂ると、こちらまで飯が不味くなる。食卓に付くにモゾモゾと動き、姿勢は正さず、箸の作法も弁えず、挨拶もけじめもなくだらだらと飯を臓腑に入れている。食い終えたのか判然とせぬ皿には常に食べ残しがあり、下手をするとそのままに灰皿にしてしまう。こういう男に、美味しい食事を摂ることはかなわないだろう。
こうしたことは、殊に蕎麦を食うときに感じる。蕎麦ほど食う側の上手い下手が味を左右するものはないと思う。蕎麦が出て来たら即座に箸を割り、上から少しつまんで、三割ばかりつゆにひたし、即座に吸うものだと思う。蕎麦をつゆにつけこんでしまっては何のために蕎麦とつゆが別に出ているのか分からない。つゆの入った碗を机に置いたまま、肘をついて、ダラダラと食べるような男はどんなに美味しい蕎麦が出て来ても、その味を解することはないだろうと思う。天麩羅や蕎麦、ラーメンは屋台ものであり、ダラダラと食べるものではない。まあ好みもあるだろうが、見ているこちらまで不味くなるのは勘弁してほしい。
最近、都内の人々は「美味しく食べる」という能力を失いがちだと思う。
私は美味しいものをスリのような目付きで探し求めるのではなく、美味しいものを自分で作ったり、美味しく食べる技を研究した方が楽しいと思う。
そうした鋭敏な状態で食をとる方が精神も落ち着くと思う。結局、私たちは客観化されるような「美味」を求めているわけではなく、食からの満足を求めているのだ。だから、受動的に美味しいものを探していても、メッセージを欠いた飽食は飽食を呼ぶだけであり満足はやって来ない。