2006-11-28

新しい言論へのメモ

どうせうまく言えないが、ま、そんなもんだと思って気楽に書いてみる。

言語とは自由な道具ではない。なぜなら、言語とはある集団によって生まれたものであり、その制度の内部には既に固有の価値観が反映されているからである。つまり、ある価値観を保有している言語において、その言説は一定の傾向を持ち、それを乗り越えることはできない。

故に、価値観を乗り越える言説を為すためには飛躍が必要になる。その飛躍とは言語の有効な利用であるというよりかは、言語の破壊、言語という制度の読み違えから生まれると考えられる。言語の間違いから、新しい価値が垣間見えることがありえる。逆に「美しい」とされる言語の運用は、それ以前の価値の反復であり、新たな価値を提出することはない。

有効な言説は、従来の諸制度からの離脱、破壊から生まれる。が、言語とは伝達の手段である以上、プロトコル、つまり制度を持たざるを得ない。制度なき言語は伝達ができない。故に、新たな言語の可能性のあった「読み違え」や「破壊」が偶発ができ、それが広まったとしても、それが新たな価値となることは難しい。それ自体が、新たな制度として、従来の制度に吸収されてしまうからである。それほど、現代の制度は老獪である。

十分に老獪な現状の制度は全てを呑みこむ。たとえ、それが、反対勢力であったとしても。「今の制度をぶっつぶせ」という運動すら、その感情すら、現代の制度は老獪に吸収し、運用する。かくしてロックは産業となった。また、「今の制度と関係なく」も「今の制度とどうにか付き合いながら」という運動も柔軟に吸収する。エコの試みの惨状を見よ。公害に関連した運動の惨状を見よ。

現代の制度は、言論のための言論、つまり言論産業による、言論産業のための、言論産業の言論を生む。その制度は全てを吸収する。かくして、完全に言論はその元来の力を失う。太平洋戦争、南京事件、オウム、北朝鮮。。。すべて有効な言論の彼方の言論である。

有効な言論とは何か? それは力である。人の力である。力とは何か? 人の集まり「これだ!」という力、「そうだ!」という力、これは制度に還元されない元来の力である。制度を乗り越え、その場、その場の局面を乗り越えてゆく人間の力である。しかし、それを名指す言葉は現在ない。「これだ!」とか「そうだ!」と人が感じる力、としか言えない、今の私には。なさけないことだが。

その力に基づいた言説以外に言説はありえない。力のない言葉など言葉ですらない。

言論は力である。言論は人の力である。現状は刻々と変化する。その場、その場でしか言説は有効ではない。制度として固定した価値や言説は現状の変化に対応できない。固定化した制度としての言論は、言論ではない。

すべての固定した概念は、狡猾な現代の制度が吸収し、あるいは無力化できるものである。それは有効ではない。

有効な言説のために、言説を為せる人の集まりを為さねばならない。

2006-11-24

自分の目で現実を見よう

状況は刻々と変わり続ける。しかし、往々にして、状況の変化に人はついてゆけない。

20世紀は過ぎ去った。しかし、人々の考えは20世紀と変わらない。「現状」と「常識」とが、ひたすらに離れてゆく。

現行のシステムのほころびが、ますます明瞭なものになっている。

崩れ始めた栄華を戻す術はない。一歩一歩積み重ねた繁栄は一夜にして崩解するだろう。なぜなら、幸福は一歩一歩、足音を立ててやって来ものだが、不幸の足音に人は気づかぬふりをするからだ。

これは、現行のシステムが「いい」とか「悪い」とかの問題ではない。常に「いいシステム」も「悪いシステム」もない。うまくやったシステムは「いいシステム」であり、うまくいかないシステムは「悪いシステム」なだけだ。現行のシステムは過去に確かに成功した。しかし、過去に「いいシステム」であった現行のシステムは、現在では「悪いシステム」になってはいないだろうか。

登校拒否、学級崩壊、必修未履修、定員割れの大学、フリーター、ニート、すぐに辞める新入社員……。これらの問題は、一つのことを示しているように思える。それは、現在を生きる人間にとって、こうしたシステムが機能していないということだ。

ある個人が学校にあわないとか、ある個人が会社にあわないとかそういう問題ではない。学校が現状にあっていないのであり、会社が現状にあっていないのだ。最近の子供が学校に適合できないのではない。現在の学校システムが今の子供にあっていないのだ。最近の若者が会社に適合できないのではない。現在の企業システムが今の若者にあっていないのだ。

新しいシステム、新しい発想が必要なのだ。状況を打開せねばならない。修正で済ませるには、問題は私達の常識の奥深くに根差しているように私には思える。問題は技術的な問題ではなく、私達の発想のしかたの問題、私達の「常識」の問題であると私は考えている。つまり、私達には「発想の転換」が必要だ。

残念ながら、私には新しい発想を示す能力がない。ただ、私には以下の以外に道は無いように思える。

  1. 現実を直視すること。
  2. そこから、現実的なビジョンをうみだしてゆくこと。

一人一人がこうしたことをやっていく以外に道はないだろう。もう、欺瞞はやめよう。自分の目で現実を見よう。そして、新しい発想を展開してゆこう。

*

古い人間の言う「常識」や「現実」は、状況が変化した世界では的外れになりがちだ。古い人間の言う「常識」や「現実的な生活」では、世界は以下のようになってしまう。

  • 資源は枯渇し、環境は汚染するだろう。
  • 貧富の差は拡大し、享楽的な消費と絶望的な飢えに世界は覆われるだろう。
  • 文化はことごとく商品化され、消費されてゆくだろう。
  • 家事、娯楽、交友は市場のターゲットとなり続け、私達は商品を通さずに物事に接することは不可能になるだろう。
  • あるいは、商品以外の経験をすることすら、できなくなるかもしれない。

古い人の教えなど捨てるしかないのではないだろうか。自分の目で現実を見て、自分の為すべき仕事をしていくしかないではないか。

*

私達は、古い人間の言う常識と現実を受けいれて生きてきたと思う。しかし、体の奥底、心の奥底では違和感を感じているのではないだろうか? なぜ、自分の本当の感性を押し殺しているのか? もしかしたら、私達のその感性にこそ、現在の問題を解決するヒントがあるのではないか?

私は自分の感性を信じている。古い人間の感性はあくまで昔のものだ。

「でも昔の人だって苦労して『現実』を受け入れたんじゃないか」とあなたは問うかもしれない。

そんなことはない!

古い人間には、自分の常識に対して、あなたが感じるような違和感などない。彼らは喜び勇んで資源を消費し、環境を汚染し、文化を商品にし続けているではないか。古い人間には、あなたが感じるような、迷いはない。

彼らが若い時に、登校拒否になったり、会社をすぐに辞めたりしただろうか? 彼らは喜んで仕事をしたのだ。彼らは喜んでオーディオを買い、テレビを買い、車を買ったのである。大量消費、大量生産万歳!

まさに、時代と彼らの感性は一致していたのだ。そして、今も生活スタイルの基本は全く変えず、退職するやいなや、迷わずに消費を続けているではないか。古い人間に、私たちが感じるような迷いなど存在しない。見えている世界が違うのだ。

それにひきかえ、私たちはどうだろう。私達は迷いの中で、学校に行き、会社へ行く。自分の感覚を「現実」の名の下に押し潰す前に、本当にするべきことは他にあるのではないか? 私達には私達の生きるべき本当の現実があるのではないか?

状況は常に変化する。古い人の時代は終わった。20世紀の物語は幕が下りたのだ。今度は、私たちが自分の物語を作り上げる番ではないのか? 今度は私たちが現実と常識を打ち立てる番ではないか?

*

考えて欲しい。古い人の言う「現実的」は本当に現実的なのか?

「環境なんて考えたら飯が食えない」という考えは現実的なのか? 今の日本で食事が、環境や資源の問題を越える問題なのだろうか? 現実的に考えたら、私達が為すべきなのは、食事の心配よりも、環境や資源の問題なのではないか? むしろ、今のままでは近い将来、本当に「飯が食えない」ことになるのではないか?

本当に自分の目で見た現実に対し、自分の心で考えてほしい。私達には私達の生きるべき本当の現実があるのではないか? 古い人の言う「現実的」は本当は昔話なだけではないだろうか。

私は、現代の本当の現実を考えたい。そして、現代の本当の現実を生き抜きたい。

*

現状は問題だらけであり、企業や国家はそれを解決できない。新しい方法が必要なのではないのか? どうだろう? 私達が古い人では考えないようなことを考え出さなかったら、いったい誰が考えてくれるのだろう?

「未来をどう生きるか?」「どういうビジョンを持つのか?」これは私達の問題である。私達一人一人の問題である。古い人は関係ない。彼らがそんなものを提示することは有り得ないではないか。企業と国家は古い人の道具だ。彼らがどうして問題を解決できるのだろう?

そもそも企業と国家は万能ではない。人類にとって最善のシステムでも、永遠に続くべきシステムでもない。市場と国家による社会の管理は、たかだか100年程度の現象に過ぎない。もちろん、有益なシステムであり、いきなり無くすというのは非現実的だ。しかし、物質的成長を目標とした市場と国家のシステムは、十分に役目を果たしたのではないだろうか? なぜ日本政府はGDPの成長を未だに最優先課題にしているか問うべきではないのか? 私達は本当はこう考えているのではないだろうか。「それは何年も前の問題であった」と。

今、私達に求められているのは、企業と国家への労働ではなく、それを補い、それに代わるシステムなのではないか? それに代わる未来のビジョンではないのか? 新しいシステムを生む想像力こそ、私達に求められているのではないだろうか?なぜ、本当の現実に目を向け、自分が為すべきと思うことに、おのれの力を使わないのか? 目の前の明かな問題があるというに、なぜ、古い人間の言う「人生の公式」なんぞに何故したがうのか?そんなことをしても、ただただ搾り取られるだけではないのか?

問題は山積みである。逆に言えば、これは、あなたのやれる仕事が多いということである。教育、医療、介護、治安、環境、資源、文化、交流……国家や市場が対応できない問題にきりはない。問題があるということは、国家や市場に代わって、それを補う仕事を生み出さねばならないということである。現実の難題と解決してゆくこと、これこそがが本当の「仕事」である。古い人のための社会を維持して、搾取されることが「仕事」ではない。

仕事は誰がやるのか? 誰が、現実の難題を解決するのか?

それは、私達がやるのだ。古い人間に新しい発想はできない。私達以外に誰が問題を解決するのだろう?

私たちは強大な古い人に育てられてきた。だから、彼らにとっての常識、彼らにとっての現実を乗り越えるのは難しいかもしれない。

彼らは私達の新しいシステム、新しいビジョン、新しい生き方を認めないかもしれない。しかし、それは仕方ないことだ。それが世代交代ということだ。世代交代とは、決して、私達が古い人たちの同じ働きを継ぐということではない。世代交代とは、現実の変化にあわせて、以前の世代を乗り越えることに他ならない。そもそも私達にとっての古い人は、それ以前の日本人の生き方への否定だったではないか。

私達は乗り越えねばならない。私達は新しい生き方を開拓せねばならない。現実の問題は目の前に迫って来ているのだから。

2006-11-23

じじいのぼやき(1)

なんというか、ほんと、じじいのぼやき。

最近はパソコンで書いてないで中心は手書きだから、どうも雰囲気がじじいになる。そんなじじいメモから何個か写してみるテスト。あ、ぼやきなんで、くれぐれもほっといて下さい。

くれぐれも気分が悪くなったら読まないで下さい。ただのぼやきです。

***

なせばなるとか努力しても無駄とかじゃない。

あることはなせばなるしあることはなしてもならない。その区別があきらかなものもあるが、大半はどちらだか分からない。

故に、なせばなるとおもいつとめ、ならねばならぬものだとあきらめるのみ。


常に今、まさにこの場で楽しいことのみをせよ。楽しく感ぜぬことを為す勿れ。

ただし、そのことが本当に楽しいのか考えねばならない。


そのばそのばでなすべきことをなせ。なすべきこととはおのれをよろこばせることである。

ただし、かんがえよ。おのれをつよくすること。おのれがおのれをこえてゆくこと。このほかにたのしみがあるだろうか?


我慢などしてはならぬ。無理がとおるほどに我々はつよくない。無理は無理とあきらめよ。


おかえしがないとくやむくらいなら、善意などばらまくな。

善意は「あげる」ものではない。捨てるものであり、盗ませるものである。

捨てる善意こそ、強者の贅沢でありよろこびである。


音楽の本質は、身のふり、心のはえ、まさにわざそのものにある。耳に聴こえる音はただの結果にすぎない。

武道における、かたやてと同じ。

映画「シャコンヌ」における、楽器を失った主人公の演奏の真似の場面を想起せよ。


ゆたかだからすてるのではない。すてるからゆたかなのだ。


えらい、立派と思わぬが本当にえらい。

祖母の毎朝夕の読経は本人は仏道としてよいことをしているなどとは考えていない。ただ気持ち良い、自己満足なだけと認識しながらやっている。まったくえらいなどとは考えていない。

だから、えらいと思う。


家、車、旅行、外食。この四つを節約すれば、あとは節約しないでもよい。


企業は満足できな消費者を増やそうとしている。満足することを一段低いことと思わせようとしている。

「あなたは今の○○に満足ですか?」
「そんな○○で我慢していていいんですか?」
「あなたはもっと贅沢していいんです」

まことに我慢は幸福の門であり、不満は不幸の門である。ただ、おのれを向上させよ。



出来事は実は二つしかありえない。

1。「いま」とりくむべきこと
2。とりくめるようになるまで、あるがままに受け入れること

不安や心配、後悔は不要である。

計画を立てることについては、きちんと時間をとり、計画を立てるべきときに冷静に取り組み、立てたら遂行に専念すべきであり、遂行しながら計画を考えたり、計画を立てながら遂行するというのは愚かである。反省も同様。

2006-11-22

学ぶのって嫌?

最近やっと気がついた。人間ってのは学ぶのが嫌だってことに。

俺は完全に学ぶのが苦にならない。いうか好き。マニュアルとか取説とか読むの苦にならない。

でも、これは標準じゃないというのに実感としてやっと気がついた。というのは、俺もだんだん学ぶのが苦になってきたからだ。「ああ、面倒なんだろうなー」というのが分かってきた。今はまだマニュアルとかヘルプとか読むの苦じゃないけど、おそらく近い将来、読むのが苦になる時期がやって来ると思う。

苦になる人にとって、本当に嫌なんだなというのも分かった。だから、可哀想なことしたな、とか思う。普通の人にとってRTFM (Read The Fucking Manual: マニュアル読め!)というのは、あまりに過酷で非現実的なんだろう。

業務用シュレッダーとか問題になったじゃん? あれとかさ、業務用なんだから子供が触ることなんて想定外だし、そんなこと取説はおろか、機器の目につくとこにも「子供が触らないように」とか書いてあるんだよね。でも、現実には子供がばっちり居るとこで、オートモードで作動させとくのが普通の人なんだろうな、というのが実感として分かるようになってきた。「普通、そんなの読まねーよ」ってヤツ?

もひとつオマケに言えば偽装マンションの瑕疵担保責任とか。あれだって俺なら責任能力が無いの相手に一生分の金をつかうのって意味不明だった。けど今ならなんとなく「ま、そんなもんで深く考えないよな」とか思う。人間ってのは大切なことだって調べようとしないんだよね。

今まで人が読まないのとか学ばないのとか意味が分かんなかったんだ。だから平気で「マニュアル読めよ」とか「仕様書くらい読め」とか言ってた。ネット使って何かやろうとしてる奴がプロトコルやらHTMLや動画のエンコーディングやら基本的なプログラミングとか学ぶのは当然という気分だった。というか、俺は学び、色々なことが一人でできるようになるのが楽しいくらいだった。でも、普通の人は違うんだよね。やれやれ

だから、人に哲学やら社会学やらの会話するのとか、面倒だからもう一生しないんじゃないかな。基本文献すら読んでないんだもの。学部生はもちろん、院生だってアブナイ。授業で教授から聴いたゲロみたいな解説で済ませて、なんだか偉そうなこと言うだけ。ま、それが日本の文化なんだろうな、とか思う。悪いワケじゃない、それが日本の大学で生きてゆくということなんだから。

あと、コンピュータもね。基本からやってるヤツなんてほとんどいない。仕事見てりゃわかる。論理や数学とかの素養がないんだろうな。データベースとコンポーネントをゴチャゴチャつなげて、ゲロみたいなの作ってるのがほとんど。いや、それで悪いとかってワケじゃないよ、仕事なんだから。

学べないのに偉そうなこと言う人間とは、もう話さないんだろうな、俺は。昔は熱意があったからできるだけ話してたけど、もうこりた。

「いやー、私もよく知らないんです」みたいな人間になっちゃうかな。「いやーパソコン詳しくないんで」「音楽あまり聴きませんから」とか。

まあ、そんなわけだけど、俺は俺だからやっぱり学び読むしかないな。俺は読むし学ぶ。人は気にしない。人がどう言おうが俺は学ぶ。まあ、実際に少しばかりは苦になりはじめているんだけど。

ひとまず、人に学ばせたり読ませたりするのはやめよう。これは本当に悪い癖で俺の時間を無駄にした。

孤独のコミュニケーション

簡単にメモ。別に二つに類型化してどちらかを批判したいわけじゃない。

よくある「コミュニケーション」
→ 伝達より娯楽が目的
→ 個人より「場」を重視
→ 集団の中に個は埋没。個人の「役者化」
→ 言葉すら集団化(ex. オヤジギャグ、ギャル語、2ch語)

「ショッピングとは最大の娯楽である」
「コミュニケーションとは最大の娯楽である」
→ 「報酬系快楽」の悪用

孤独のコミュニケーション
→ 自己の奥底から湧き上がる言葉
→ 理解と不理解のギリギリを渡り合う
→ 孤としての個がぶつかり、偶然としての場ができる

業が深いという感覚

最近、業が深いなぁ、と感じる。

業なんて言葉は、古くさい、線香くさい、迷信の盲信だとしか感じていなかった言葉だというのに。

なんだか、つくづく自分は業が深い、と感じてしまう。


これは最近の仏教マイブームの影響ではない [1]。

業が深いという言葉、その言葉自体に共感しているんだと思う、

もちろん、その言葉には仏教の影響が色濃く残ってはいる、しかし、その「仏教」というやつも、日本でかなり変化してしまった日本仏教であり、私が感じる「業が深い」という感覚は釈迦のカルマとほとんど関係ない。

この日本の感覚に共感しちゃうあたりが、いかにもふけたんだな、俺、という気分である。


この「業が深い」という言葉で何を俺は感じているんだろう、

俺は罪深いんだな、という感じかもしれない、

過去の罪を今、償っているんだろう、みたいな、 俺は、なんだか、罪深い、というか、罪深かったな、という感じはある。


でも、それ以上に、しあわせなんだろうなという気分もある、

「業が深い」という言葉を使うときは、どちらかというとネガティヴなことがあったときだ、普通に考えると嫌な事があった時に「業が深い」と感じる、ただ、その時の気分はどちらかというとしあわせだ。

なぜだろう、よくわからん、

しかし、業が深いんだな、俺は、と感じて、なんだか前向きになる、不思議なものだ。


実はこの文章を書きながら、ブラウザが落ちた、そして文章がとんだ。

「ははは」と笑ってしまい「業が深いんだな」と感じる、

頭に来るとか腹が立つとかいう感じはなく、この「業が深いんだな」という感覚は、しみじみとしたしあわせの感覚に近い。

そう、しみじみとし、しあわせ、あきら、という言葉がふさわしいかもしれない。


ただ、こういうことを感じて、こういう運命にあいながら、俺は生きているんだな、という感覚は、しあわ、な感覚だ。

そういうことを、どうにかして言葉にしておきたかった。

notes

[1] 釈迦の言うカルマの意味は最近ある程度分かるようになった. 分かるが, それは結局, 通常の人間には分からないものだと思う.

三業の身口意の業は分かるし, それは意業を除けばある意味常識的だし, 意業にしたって, 心ある人(って意味不明な言葉だが)には分かる法則だろう.

しかし, 前世や先祖の業というような, 三業以外の業というのは, 通常の人間には分からない, ということははっきりしている. なぜなら, 普通の人間は前世や先祖との因果の連鎖を実感として感じないだろうから.

だから, 俺のこの「俺は業が深いんだなぁ」という感覚は仏教の影響ではない. 前世とか, 先祖とかそいういうのは関係ない. というか, そもそも釈迦が輪廻転生を説いたという考え自体に俺は反対で, 釈迦は輪廻はないと言ったような気がする. まあ, 気がするだけで, どうという訳はないが.

2006-11-21

体の動きに気づいた

実は体をつかうことは難しい。

自身の体の重心、垂直線を確認しつつ姿勢を保持する。 姿勢を保持しつつ、運動に最適な動作を行う。 これが、なかなかできない。

ある動作を長く続ければ続けるほど、小さな姿勢のズレ、動作の無駄が体に重大な影響を与える。

数分では大差はない。数時間単位で、悪条件の下で、長い期間に渡って、 ある動作をする時、わずかな体の動きのロスが大きな苦痛となる。

私は腰がねじれている。それゆえ、左足が長い。

また重心がとれていないので、足がまっすぐに前へと進んでいない。 首は微妙に右前に出ている。これにもねじりがある。

最近、まとまった時間、注意して歩いて初めて分かった。 そして注意して歩いて、足が自然にまっすぐ伸びるようになった。 意識してではない。自然になった。

「その動かし方、ちがうよ」

首と腰、足が自然に動いた。 自然に、動作と姿勢を補正した。

自分がまっすぐ歩いていると感じる。 体が軽い。頭も、腕も、足も。

まことに、ありがたい。

2006-11-18

「場の空気」という権力に抗して

そうそう、場の空気とか気にしちゃダメですよ。とか言いたくなった。

俺は「場」をかなり調べたし考えたし、人間の場については、いろいろ生活の中でも観察したり実験したりしてみた。

んで、結論。

「人間が認識した場は勘違いである」これが大切。

いやね、場は「ある」とは思うよ。んで、人間が感じることも、まあできんじゃないかなーとか思う、気とか霊とかと一緒でね、そういう知覚機能があるっちゃーあるんだと思うんよ? でもね、「この場はこうだ!」って場を対象にするともうアウトなんですよ。意識的に認識の対象にした瞬間に、もうそれは間違いになります。はい。

というのは場ってのは一瞬一瞬でコロコロかわっていくんです。だから「こうだ!」って判断した場は、過去の場であって現在の場ではないんです。つまり認識した場というのは、過去のもので目の前のものではない、つまり、役立たずなんです。

んだから、場を読むとかは普通の意味では役に立ちません。ええ、完全に無駄です。

でも、まあ日本のように、場の空気は固定化していることが望まれている社会では、「場を読む」という言葉で、過去からの仕来りになっている作法を行うということが望まれてしまい、作法から逸れた場合には「空気の読めねえヤツ」という批判をされます。でも、これは本質的な問題じゃないです。というか「空気の読めねえヤツ」の言ったこと、やったことの方が自然に出てきたものであった場合には、より全体の場の意味を高めることにもなるんです。

たとえば、5人くらいで会議をしていたところ、そん中の二人がもろに喧嘩になっちゃったとしますよね。会議室はめっちゃ険悪モード。二人は睨みあっていて、その他三人は息を飲んでいるという状況です。こういう時、どーします?二人の気持をおしはかったりして、黙りつづけてるのが、まあ、普通な反応だと思います。

でも、ここで「トイレ言っていいですか?」とか「腹へったよー」とか全然、場の空気からいくとダメそうなこと言った方がおっけーな時が多いです。いや、一瞬、そういうこと言った人間って「空気読めねーなー」みたいな反応されますよ? でも、「まあ、そりゃ腹へるわな」とか「はは、おいおい、トイレって小学生じゃねーんだから」みたいに、空気がゆるみます。んで、空気をゆるませることが、この場ではもっとも求められていたことだったりします。

そもそも、人間関係とかは刻々と変化する場の連続です。様々な場の変化の中では、本来、「こうあるべき」「こうすべき」という原則は成立しえません。むしろ目の前に目を向けて感じられるものが本物です。それが最も現実的な場へのアプローチです。

腹がへったら、それは本当に問題なので、飯くうべきです。空気とか気にしてるとバカを見ます。だいたい、喧嘩という場の空気を大切にしても意味ないです。

そうそう「日本人は場を重んじる」とか「場を大切にする」「場の能力が高い」とか言う人いますが、あれアホです。日本人は場の感覚が鈍いから、変な作法、仕来りを生んだとしか思えません。そうして場をジカに感じる努力をやめちゃったから、初対面の出会いとか、想定外の状況に弱いんです。場の能力があれば、それこそ「初」の状況が得意でなければなりません。

初対面の人間と、始めての場で出会うというのが、基本です。「こうすればいい」とかってありえません。その場、その場で、新しい初めての人と出会っている、初めての場に立ち合っていると考えるべきです。知ってる人でも初めて会うようにもてなすってのが大切です。一瞬、一瞬、初めての場なんです。その意味で「一期一会」とか、いい言葉ですね。

いや、だから今の作法まみれのお稽古の茶道とかじゃなくて、戦国時代の侘び茶とか、まじですごい技術だと思いますよ。敵対する武将を語らせようってんですから。肩書とか立場とか、ひとまず捨てて、狭いさびた部屋に入って、どーでもいい茶碗でお茶を飲み、にっくき相手と初めて出会った人間のように相手と話す……わけでしょ? これはすごい。

そういう時には、とにかくホストは相手を気にしてちゃダメです。そういう時こそ、自分の筋を通すことのみに集中しなければなりません。だから利休とかは普通に考えると相手を怒らせるような屁理屈をやります。でも、その屁理屈がその場にあっているものだからこそ、侘び茶のなかに、ゆとりができるんでしょう。相手は、利休の屁理屈そのものに納得するのではなく、その利休の感性そのものに自由を感じ、自らもやすらぎを感じるのだと思います。

とにかく、相手を気にするのは間違いです。気にするのは自分の感性と、自分の中の筋だけです。 怒ってなくても「怒っちゃった?」とか訊かれると頭にくるものです。場の空気とは認識や判断の対象ではないんです。ただ、そこで感じられるものです。

場は人間が意識的にコントロールできるものではありません。無意識に感じてゆくしかないものです。そして、時にそこで必要な行動は意外なものかもしれません。もし、その場からすると意外な行動を「すべき!」と感じたら、するのがベストです。「変かな」とか思っても、それを本当に感じているならやるべきです。その場は、その意外な行動を求めていたのです。

場の空気に対する、積極的な自由で意外なアプローチ。これが大切です。

2006-11-16

ニーチェと仏教

ニーチェと佛教はある一点において交わり、同じ地平を見る。

世界に価値のないこと。いわば「苦」が全てであること。佛教用語の「苦」(ドゥッカ)とは不完全、無常であるということを謂う。つまり、世界に完全にして不変のものはないということ。あるいは、根本的な超越的存在への絶望か。

全てのものは永遠に回帰すること。ゆえに死は解決とはならず、「生死」そのものを問題とせねばならぬこと。問題は「人類」であり「衆生」、生きとし生けるもの。

運命愛や必然、法(ダンマ)を「信じた」こと。あることは、あるべくして、あるがままにあった。

絶対神、創造神を信ぜぬこと。逆に、己を超越させること。仏陀の「さとり」、仏陀。ニーチェの超人。

「意志」という概念を抹殺することを究極課題としたこと愛は「意志」によってはならない。愛は出会われるものであり、当人に「他者」より与えられるもの。「主体」への嫌悪、対象化を生み出す前を追ったのか。

問題は 仏陀の説くサンスカーラとアヴィジャー。ニーチェの運命愛、力への意志か。

2006-11-13

日本で初めての演説は福沢諭吉だった

それ以前に「演説」は日本に存在しなかった。

慶應義塾のサイトでこんな記事を見付けた。

古来わが国には演説という習慣がなく、自分の意見を他に示し賛同を求めるには、書面にしたためてこれを示す以外に方法がなく、重要なことは文章にするという文書第一主義が一般的であり、口頭による意見の発表は、十分に信頼のおけるものではないとの考えが支配的であった。しかし、この習慣を改めない限り、議会政治の開始はもとより、公平な裁判の実施すら覚束なくなるというので、慶應義塾では教室の中での教育以外に、社会教育の一方法として工夫されたのが、この演説であった。

当時最高の知識人の結社と見られた明六社のメンバーですら、日本語はヨーロッパの言語と違い、大衆に意見を伝えるには適さないなどと見当違いのことを言う者(森有礼)もいたが、その明六社の集会で先生はさり気なく時事問題について演説され、日本語でも立派に自分の意見を他人に伝達することの出来ることを証明されて、演説の必要をとなえられた。
慶應義塾豆百科 30 演説の創始

ま、こんな国だったんだね。とくに森有礼は後に文部大臣になり「国語は英語にしよう」と考え、アメリカ人に「いやいや、言葉は文化ですから」とたしなめられた人で有名。

そう考える人が出てくるくらい、当時の日本には「共通語」がなくて、離れた地域の人と話しても言葉が通じなかったことにも注意。

IT時代の〈モノ〉

最近、古代から中世にかけての記憶について本を読みまして、昔は印刷技術が確立した後でも、書物はあくまで記憶を助ける補助道具で、記憶にもとづいて瞑想や思考をすることが重視されたようです。

どこかに置いておいて「あそこに行けば手に入るな」というのは意味がなく、頭に叩き込むことに意味があったとのことです。

更に記憶は思惟の延長でるという考えがあり、記憶をするということによって思考や発想がとても影響をうけていたようです。特に、後期バロックまでに見られる様々なイコンやシンボル、模様などは、彼らの記憶術による影響が大きかったとのことです。あるイメージと一緒にあることを頭に入れているので切り離せないというわけです。

さて、ついにコンピューティングとネットワーキングによって「物」が従来の物ではなくなりました。そんなわけで、私は最近、フロリディによって提唱されている「情報哲学」という分野に強い興味があります。コンピューティングとネットワーキングの時代の存在論や認識論の構築です。音楽配信や電子図書館の時代に情報哲学はとてもマッチします。

2006-11-12

文章の長さ

だいたいの文の種類とその分量についてのメモ。野口悠紀雄『超文章法』を参考に改変

文の種類文字数原稿用紙A4換算
段落150 1/2
短文 article1,5003-41
長文 report15,00030-4010
本 book150,000300-400100

人が平均的に一分間に読める文字数は400字だったかな? とすると原稿用紙の枚数は、読む分数になる。

野口晴哉『偶感集』より

http://www.ne.jp/asahi/ki/shizenkh/top.html から

一片の花にも美しさを感じさせる秩序がある。
一つかみの雪にも自然の秩序が整然とある。その自然の秩序を人体上に現わしているものを健康と私らは感ずる。

健康を保つことは、どんな方法であっても、そのことが美として感ぜられねば、自然とはいえない。技術が真に行なわれれば美である。それ故、薬が苦く、注射が痛いことは間違っている。腹を割いて盲腸を切り取ることも美しく感ぜられない。治療することが美しい現われであるのに、何故その手段が美しく感ぜられないのだろう。
自然でないからである。

自然は美であり、快であり、それが善なのである。真はそこにある。
しかし投げ遣りにして抛っておくことは自然ではない。
自然は整然として動いている。それがそのまま現われるように生き、動くことが自然なのである。

鍛錬しぬいてのみ自然を会することが出来る。

懐手で知った自然は自然ではない。
頭で造った自然はもとより人為のものである。


「自然こそ全て」と語ることそれ自体はよく見る。しかし「投げ遣り」が自然なのではないと釘を刺す。自然とは鍛錬しぬいてのみ会することが出来ると説く。

これは私の「カタ」の考えと同じと思う。私は、人はカタをもって初めて、そこで安らぐことができると考えている。故に、ただ、なげやりになって座ったり、歩いたりしては、それは自然ではない。

カタがあって、整然とその所作を済ますことが自然であり、それが美であり、快であり、それが善なのである。つまり、美しくなかったり、快適でなかったり、善でないようなカタはありえないのである。無理をして、意図してカタをまねるということはありえない。カタとは、自然で整然として美しいものなのである。

稽古し、鍛錬し、吟味し、そこで初めて人は自然に会し、そのカタの中で安らぎ、くつろぐのである。

食文化

ちょっと空想する。

食文化も、農耕と同じように、エネルギー効率化の技術であったと思うんだ。消化をたすけ、病原を排除する。一つの食材が大量に取れる地域では、同じ食材を異なる味にし、また保存性を高めることは大切だったと感じる。

土、水、そして太陽の「恵み」をいかにいかすか。石油はおろか石炭すら無い社会では、動植物油か薪、木炭がせいぜいだ。枯渇性かつ環境を汚染する強力な化石資源利用はのぞめない。限られた恵みから食の効果をいかに引き出すか。これが食文化だと私は考えるんだ。

だから私は保存食や移動食に興味がある。伊勢物語……じゃない、土佐日記って確か米を干したの(「こわいい」だっけ?あれ全然違う?)を粥にして食べたりするシーンあるよね。干物食べたり。ああいうのに「へえー」って感じる。

精進料理にも興味がある。最近も水上勉の『土を喰う人々』を古本で十円で買った。まだちゃんと読んでないのだが、拾い読んでも、その姿勢の美しさに興奮する。

所謂「グルメの本」より、食うこと貪ることのすさまじさについて書かれた本に興味がある。『もの食う人々』みたいな、ね。

更に気違いに書くと、その日々の食の熱意と限界、そのすさまじさといじらしさの上においてのみ「まつり」の饗宴は理解できると思う。

想像して欲しい。日々の貧しい粗食と祭の日の饗宴の激しいコントラストを。現代のグルメな人よりも、はるかに強烈な食の体験がそこにはあったと思う。

酒と肉の世界。日常でない時間では、タブーは破られる。動物は丸焼きにされ、油は耿々と夜空を照らす。穀物は空高く投げられ地面に散り、酒は飲まれるにとどまらずに浴びせられる。箸は立てられ、食器は打ち鳴らされる。

また「まつり」における贄も、この文脈で理解できるかもしれない。最も失いたくないものだから、贄となるのである。最も大きく美しい羊は我(= 鋸)によって裂かれ、外形から内蔵に至るまで羊が神に捧げる犠牲として義しいことが示される。漢字で「義」は犠牲の羊が完璧であることを意味する。

罪から始まる起源への想起、その祈りとそれでもなお未来を築く決意が「まつり」なのだと感じる。

って何のはなしやら。

鴎外感想メモ

『渋江抽斎』ある種の気後れがありながらも、知的で闊達な足取りで晴れ晴れしく朗らかに歩む鴎外の文には実に気分が良くなった。けど、それも俺の感覚じゃあ前半戦でおしまいだった。(いや、でも文体の魅力をもろに感じたのは生まれて初めてのことで驚いた)

『雁』『ヰタ・セクスアリス』はフィクションの見せ方に面白さもあり、また当然に『渋江』にも近い乾いた文体の魅力もあるけど、「はまる」には少し短かいな。

『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』という時代物は彼の問題意識の中心であったであろう殉死が描かれ、描写は価値観の無常さを滲み出しているように俺には感ぜられたし、読み物として非常に面白かったが、殉死や忠義、名誉、面子の問題は俺にはそれほど無く、どうしても読む際に『ああ、この時代の人だしな』という心理的な翻訳が必要になる。

『舞姫』『普請中』の恋愛は俺にはちとつらい、な、うん……。あと『高瀬舟』『山椒太夫』はそれほど興味をひかなかったかな。

毛色の違うのとして『妄想』は彼の知性と国・学問・哲学の悩みが表出されてて面白かった。高校の時に読みたかった。

家や国を大切にし、現代医学からひいては日本、東洋の学問の全てを背負い込み、それが故に苦しんだ鴎外の気持は結構痛いほど分かるんだけど(本当だよ!)、俺は結局、<家=親父>も<国=会社・役所>も<学問=大学?>も全部が全部投げてしまったからね。

いや、気楽に投げたんじゃないんだよ。親の腸を素手で抉る程の覚悟と苦しみがあったよ。だから鴎外の伝統価値観と真理探求心の中での苦しみは本当に良くわかるんだ。

でも、俺は結局投げてしまった。どんなに苦しいとは言え投げられたということは投げられるほどの問題だったんだと言えるよね、俺にとっての家と国の問題は。一方で陸軍の医者のテッペンになっちまう鴎外とは全く違う。結論から言えば全く違うと思う。

2006-11-11

俺なんて窓から投げ捨てろ

本音を言うと、みんな、俺から逃げていけばいいんだと思う。俺の思想はさ、って思想って言うほどなのか知らないし、俺の思想が仮にあったとしても、そんなものちゃんと伝わっていないんだから……って、何だっけ? そう、俺の思想はさ、俺以外の人にとっては病気というか、なんというか「よくないもの」なんだよね。

そう「良くないもの」「役に立たないもの」「生きずらくさせるもの」

でね、俺は別に俺の考えで人が生きずらくなるのを見るのは嬉しくないわけ。勝手にやってて欲しいんだよね。だから、俺のことも勝手にやらせて欲しい。

物欲ある人は物欲に従って生きればいいじゃん? 知識欲の無い人は勉強やめればいいじゃん? 名誉欲のある人は出世目指せばいいじゃん?

みんな、自分の本来の感覚を認めてつきあうしかないんだよ。俺は偶然、こういう人間だから無理なく、こういう人間として生きていけるわけで、みんなは違うんだと思う。無理するんなら、俺の考えなんてどっかに捨ててしまえばいいんだと思う。

昔から女に言われたよ。「あなたといると、どうにかなりそう。生きていけなくなる」ってね。はは。




だからね、正しいも、正しくないもないんだよ。みんな違うんだよ。んで、みんな違うんだけど、なんだか調和がとれてるってのがいいんだと思う。どうだろう? だってみんな同じになるなんて、ありえないし、それは豊かじゃないでしょ?

そりゃ、世界の皆がキリストやブッダや孔子みたいだったらいいとは思うよ。でもね、今の三人だって違いがあるでしょ? それぞれ個性というか、呼び方はどうでもいいけど違いがあるよね。んで、みんなそれぞれ成長の仕方も違ったわけだよね。そんなもんだと思う。

だから、ひとまず自分を受け入れて、自分にとって幸せになるように生きてゆくしかないんだと思う。んで、その「自分にとって」にとって、俺がジャマなら、俺なんて捨ててしまえばいいんだと思う。

「世界の平和」「環境保全」「平等の実現」……とかさ、そりゃ大切だと思うよ。だからフリートレードとかエコな暮らしとかいいと思うよ。

でもね、それで自分が無理してちゃダメなんだよ。「やらなきゃ!」じゃダメなんだよ。「ああ、こうやるとなんだか幸せだなー」ってんでやってるんじゃないとダメなんだよ。自分にとって、そうやって生きるのが心地良いから、それが周りに広がっていくんだと思う。




悪かった。そりゃ俺も昔は無理してた。ごめん。あやまる。いま書いてることと、矛盾してる。すみません。

でも今はこう思っているんだ。みんな、それぞれが気持ち良くて幸せになることをやればいいってね。んで、ちゃんと自分の心と体に目を向けていれば、少なくとも目の前の環境や自分の身体を大切にしようって思うんじゃないかな?

俺、思うんだよ。心や体を犠牲にしちゃ、人間は何もできないんじゃないかって。無理はできないんだよ。逆で、自分の心身を大切にしようって思ったら「世界平和」とか「環境保全」とかやりたくなるんだと思うんだよね。

どうだろう? 俺の言うことはおかしいかな? 無責任かな? そうかもしれない。ただ、いまの俺は、こう感じているんだ。

だから「金銭欲で動く男になったら、刺していい」とか言わないで欲しい。いいじゃん!それで。それが生きぬくべき現実だったんでしょ? それを生きぬくしかないじゃん。俺だって将来は分からないよ。でも、将来は知らないけど、今はこう考えて生きているだけなんだ。

結局、過去も未来もなくて、今をただ感じているだけなんだ。で、それしか無いんだと思う。だから、みんな、それぞれが自分が幸せになるように、自分の心身や環境が良くなるようにしていればいいんだと思う。

その上で、俺の思想は俺には役に立った。でも、他の人の役に立つかどうかは、その人による。

くれぐれも善悪とか義務・責任とかで動かない方がいい。そういうコトバには気を付けた方がいい! それは、あなたを殺してしまうかもしれないんだから。

<いいもの>としての神

俺はね、人は宗教を信じていた方がいいと思うんだよ。少なくとも近くにいる人とは、最低限の理解をし合える形で、<正しいなにか>を信じ合えていることは良いことだと思うんだ。

別に誰がどんな神さまを信じていてもいい。皆が<いいもの>を感じていることが大切なんだ。俺も人の神さまを「うん、いいね」 と言うだろうし、俺も人に 「うん、いいね」 と言われると嬉しいと思う。

他の人が他の人なりに <いいもの>を感じていて、それが自然で、「そうだねー」って感じで神を信じていたとしたら、それでいいんだ。

しかし、俺が出会った日本人の95%以上は真や善や美について語り得ぬとして笑い飛ばす。これが俺は哀しい。感情的でごめん。俺はとても残念なんだよ。




<神=いいもの> を信じられない人々が信じるものは、金か暴力しかないと思うんだよ。どうだろう? 「相対主義」とか「人それぞれ」とか「誰にも迷惑かけなきゃいいでしょー」とか言ってると、<いいもの>を語ることを忘れてしまうと、金か暴力でしか考えられない人になると思うんだよ。

って、ちょっと悲観的すぎかな?

もちろん、これは極論で、通常の会話ではまだ<いいもの>という価値は残っていてある程度の説得力があるからさほどの問題はないとは思うよ。

でもね、生きることへの考えや自分の生き方、自分が美しいと思うもの、為しとげたいと思うことを本当に語ろうと思うと、金か暴力以外に説得力を感じない人に何も言えないんだ。

だからね、「神」という言葉が強力な力を持っていたら、どんなに素晴しいだろう、と考えずにはいられなかったんだよ。はは。




ところで、日本人の中に神の概念はまだ残っている。

いいことがあると「神さまがしてくれたんだ」とか「神さまのおかげだね」くらいは「宗教臭くてキモイ」とか言われるほどではないと思う。嫌なことがあった時に「神さまがくれた試練だと思って成長させてもらう」とかもオーケーな範囲じゃないかと思う。

ただし、あくまでオーケーなだけで、このレヴェルでは説得力は無い。「成長させるために神さまがくれた試練だと思って努力しなさい」と言うと「キモイ」と言われると思う。かなり前向きな人じゃないと「そうだね」なんて言わないよ。

だから、こういう考えが皆で「うん、やっぱり神さまいるよ。だから頑張ろう」とかになると、ちゃんと宗教になるんだと思う。

これがいいな、と思うんだ。




逆に、共同体に<神>がないと実際に困ると思うんだ。正義とか善とかも無い。すると集団の意思決定は金と暴力に頼るしかなくなる。衆愚化だね。これは困るよ。

「さあ、どうしよう」
「俺はこれがいいと思う」
「私はこれ」
「いや、それはだめだよ。だって……」
「うるさいわね。なんで? 人の勝手でしょ。あなたの論理を言わないでよ」
「いや、だって、それは……」
「うるさいわよ。あなたがどう思おうと私はこう思うの」

2006-11-10

漱石とニーチェ

漱石の絶筆、未完の大作、『明暗』との出会いは遠ざかっていた興奮との再会であった。そして、漱石のいう禅的理想「自在」も私をひきつけた。

これは何か? 明暗には何かがある。まずドストエフスキーがある。しかし、ドストの饒舌さは日本人には現実味が薄いので、漱石はそれをいかにも日本人的な仄めかしやトボケの応酬として、ことなるエゴのぶつかり合いと、その雪崩を打つような破局へのダンスを描いてゆく。見事である。『こころ』で感じた女性描写の「うそ臭さ」は微塵もない。

そんな漱石もニーチェを読んでいた。そして彼らなりに吸収し、批判をしていた。

自らの文化と伝統への自信が彼らにはあった。彼らは西洋に遊べど、決して徒らな追従にふけることはなかった。その時の日本にとって必要なものは学び、必要でないことは堂々と無視したのである。

漱石による『ツァラトゥストラ』第三部「新旧の表」への書き込みから、そのことが端的にうかがえる。

世界中で最大の幸福者とは、必然が自由そのものとなっているような人である。この自在の境地こそ数多の禅僧や儒学の徒が行じてきた修行の究極目標でもある。彼らの到達した完成の境地はこれまで西洋の学徒が達し得たいかなる境地よりも更に高い。キリスト教徒にはかかる自由なるものがあるということを夢にも考えることができなかったのである。キリスト教徒は多数者の、弱者の、女性の、また奴隷や救いようのない人間たちのための宗教にほかならない。にもかかわらず彼らはこれこそ文明開化の民の奉ずる唯一の宗教なりと称する。彼らのうぬぼれはまさに限度を知らぬもののようである……

この自在の境地。これこそまさしく私も求めたものである。

2006-11-03

人間の演奏、機械の演奏

また気違いの戯言。なぜ適切に処理された電子楽器の演奏より、適切な練習を積んだ生身の人間の演奏の方が優れていると感じるのかを考えてみる。

本当は音響とか考えるべきなんだろうけど、ひとまず全ての音はスピーカーから出ることにして考える。

まず、生身の演奏家とほとんど同じ機械の演奏を作成することは原理的に可能だと思う。なぜなら、機械への入力を完璧にしたら、スピーカーから全く同じ音を出すことはできるはずだからね。

しかし、そのためには、電子楽器の演奏の情報を入力しなければならない。強弱やリズムの微妙な揺らし、音色の変化などなど。これは非常に煩雑であり、多大な情報を入力しないと満足する演奏は出てこない。手を抜けばいかにも機械の演奏だと分かる、味気のない演奏になってしまう。

更に機械の演奏は不利がある。入力者は音楽の完璧なイメージを頭の中で作り上げていないと、機械に入力はできない。すでにある音楽を入力するなら話は別だけど、音楽の訓練を受けない人が、ある理想的な音楽の詳細なイメージを作り上げ、それを機械に入力できるというのは、ちょっと考えにくい。入力しては演奏させ、さらに入力する……という動作も想像できるけど、これもかなりの労力が必要となるだろうね。

だから「機械での演奏は可能であるが現実的でない」と言えるんじゃないかな。

一方で生身の演奏家には入力作業は必要ない。練習でその場その場で適切な音を出せるようにしてあればいい。そして楽器をモノにしていれば、微妙なニュアンスは簡単に使いわけられる。また、当然、練習する中で表現を学べる。練習は演奏なので機械にデータを入力するような苦痛はないはずだね。とにかく自然に表現を学び楽器に習熟すればいいんだ。

こう考えてみればよいかもしれない。優れたCG画家がいて写真のようなCGを書くとする。本当に写真のように見えるCGをつくるためには多くの入力をしなければならない。一方で写真は一瞬でネガに焼きつけられる。もちろん人間が写真のように描くことは原理的には無理じゃない。でも、その為には一点一点を丁寧に入力する必要があり現実的ではないよね。たぶん、こういう話なんだと思う。

2006-11-02

武術の現実とスポーツ・舞踏・医術

武術は実演できない。人を殺してしまうからである。

故に武術はスポーツとなる。ルールを作り安全を図り、その枠内での優劣を競う。

あるいは武術は舞踏となる。人を壊す技を演じることで、その技が的確に身に付いているかを確かめる。

あるいは武術は医術となる。的確に人を壊す技は治す技に応用できる。

2006-11-01

音楽における「白さ」について

リズムに対する独断と偏見。

テクノやJ-POP、カラオケや白人ダンス音楽への気持ち悪さを以前から不思議に思っていた。

機械の伴奏だと、歌ったり踊ったりできない。「のれない」「つかれる」「きもちわるい」とてもじゃないが音楽に加わることなどできない。メトロノームでギター演奏はできるし、たぶん歌うこともできる(だから「機械=ダメ」という訳じゃない。使い方の問題[2007-04-16追記])。それ故、決まったテンポでの音楽活動はできるのは知っていた。というか、テンポを保てないのなら音楽なぞできない。問題は、なぜ機械が楽曲の伴奏をすると拒否反応となるのか?だ。

また一方でJ-POPもできない。黒夢などに顕著な頭を喰うリズムは端的に気持ち悪いし、Judy and Mary やスピッツのような三拍目まで「トントン」と置いていって、どこかすっとぼけているようなリズムも身体的に知覚不能だった。原宿などでストリートの人の演奏を聴くと「これはできねーなー」と感じたものだった。

一方で黒人音楽は全般的に好きだった。母親の影響からレゲエ、ファンクを子守唄に聴いたせいもあって、ブルースやジャズはもとより(ラップやヒップホップもオーケーである[2007-04-16追記])、南米の音楽も黒ければ黒いリズムほど好きだ。サンバ、ボサノバ、タンゴ、サルサなどに手を出した。しかし、白人化した音楽はジャズであってもブルースであっても、タンゴでもサルサでも、何でもダメだった。

こう考えると、黒人音楽だけが好きであとはダメみたいに思える。黒人音楽であっても「白人化」を感じるとダメなのだ。

「白さ」と「黒さ」は人種に関係ない

「白人化ってなんだ?」と思うかもしれない。自分でもよくわからないが、とにかく聴けば「あ、これ白人っぽい」と感じるのである。

フラメンコや東欧のツィゴイネルの音楽など「ジプシー」や「ロマ」と呼ばれる人々の音楽は黒人ではないのに好きだ。そしてフラメンコやロマの音楽も「白人化」すると「あ、これダメだ」と感じるのだ。

また、タンゴのピアソラのリズムは白人とは感じない。他のタンゴの演奏家と比べて明かに「白人化してない!」と感じる。というか、ほとんどの他の演奏家のは「白人化」していると思う。

クラシックでも、ほとんどの演奏家は「白人化」したリズムだと感じるが、一方でグールドやニコラーエワのリズムは「白くない」と感じる。

そして黒人であっても何人かの演奏家のリズムは「白人化」していると感じる。これは有名な演奏家であってもそう感じる人がいる。

「俺の感じる白人って何だろう?」こうした疑問が私の中に常にあった。

最近、七類誠一郎『黒人リズム感の秘密』(amazon)を読んでヒントをもらえた。

彼も白人音楽では踊れないらしい。また、黒人のアーディストであっても踊れないものがあり、白人のものであっても踊れるものがあるという。

ここで問題が一つはっきりした。「白人か黒人か」という人種的な問題ではなく、リズムに対する態度に問題があるのだろう。

「黒い」リズムは脊椎でとっている

結論を言おう。脊椎という体の中心から感じられるリズムかどうかが重要なのだ。首、背骨、骨盤という中心を動かしたリズム感だと「黒い」と感じるのだ。逆に言えば、中心が動かず、小手先を動かすのでは「白い」と感じることになる。

踊りで考えると分かりやすい。たとえば手を挙げるとする。ただ、手だけで手を挙げるのが「小手先」であり、足腰の振りで手が自然に挙がるのが中心からの手と言える。音が「こーゆー音がココに出てればオーケー」というのが小手先であり「ノリに合わせてたら自然にソコに音が出た」というのが中心からの音と言える。

黒いリズムの3つの基準

次に客観的な基準となることを考えてみる。これらは相互に連関している。

1. 意識する拍が速すぎないこと

タメやクイによりノリを出すには基本の拍が速すぎてはいけない。もちろんBPMも完全に数字で言える訳ではない。グルーヴによる。ラテンやファンクはきざみが細かいから早く聴こえるが、ビート自体はそれほどでもない。要はユーロビートみたいのだと早いということ。

フラメンコの場合はコンパスという考えがある。主なものは12拍で1コンパスとなる。フラメンコはこのコンパスで基本的なノリをつくるので、拍が早くともノリを感じられる。

またBPMが早くても強烈なシンコペーションや裏打ち、ビートチェンジなどがあると意識する拍の速度が遅くなる。逆に表だけ打たれるとBPMが遅くても感覚する速度は早くなると思う。ツィゴイネルの音楽では強烈な裏打ちとシンコペーション、それに自在に緩急をつけた演奏が「しなり」を与えてくれる。[2007-04-16追記]

2. 大きな流れとしてノリを意識する

拍、グルーヴやコンパスなど、鳴っている細かい音符よりも長い音価の何かを感じられればノレるということになる。大きな流れを確固としたものにすることで、細かい音符をノリやタメとして感じられると気持がよくなる。

3. 適切な細かい音の処理がノリを実現する

最後に、大きな流れの中で、細かい音符が適切に処理されること。大きな流れのノリの真髄は細部に宿る。スタッカート、テヌートやタメ、クイなどが全体のノリに大きな影響を与える。この細かい音符を全体の流れの中で適切に処理しなければならない。

この逆に、大きな流れがないと単調になりノレない。細かい音符は機械的に出てくるだけなので意味をなさない。結果として「ドンドコ、ドンドコ」となる。つまり、単に楽譜上で音が出る場所に合わせて音を出すというだけになる。まさに小手先。

リズムに関しては、まあ、ひとまずこの程度で。まあ、あと「白い」と感じるのは音程もある。これは、また、そのうち。

更新履歴

2006-11-01: 公開
2007-04-16: 3箇所追記