2007-01-01

タバコをやめるということ - 「禁煙」に抗して

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身内と禁煙について話した。雑感を少々。まあ、どうせ、いつもの通り、うまくは言えないし、最後は「業」だとかなんだとかぼやくだけなので、そういうの嫌いなひとはあらかじめ。ということで。

禁煙って最近はやってるでしょ? んで、周りでも何人かいるわけです。「タバコ止めるぞー」とかね、宣言するわけです。すると周りの方々も「がんばれー」とか「気合いだぞー」とか言って、なんて言うのかな、「応援」ってやつをするわけ。

「気合い」だとか「頑張る」だとかって、そういう問題じゃないでしょ? だいたい「応援」って何だよと。中には「お前の精神力が試されていると思って」とか言う人もいるでしょ? いやー、そりゃないでしょ。っていうか「精神力」ってなに?

「やめる」とか「やめない」とか、そういう問題じゃない。欲望とは湧いてくるものであって、その欲望が湧いているうちは「禁煙」は成功していない。欲望は俺たちのコントロールの外にある。「禁煙するぞー」と思わなくなったときに禁煙は完成する。

だから、禁煙から離れて初めて禁煙はなる。それは自分の心身が「吸う」とか「吸わない」とかと別の次元に行ったときに成功する。「吸わない」といううちは成功できていない。もし、無理してるとしわ寄せが来るはずだ。また、ストレスで周りに迷惑ってのがオチ。

まあ、欲望をコントロールすることはできない、というのが俺のスタンス。我慢とかってのは、結局よくない、と思う。無駄なこと。

「おいおい、それじゃあ、人間の努力ってのは……」と思うかもしれない。うん。俺は基本的に努力だと思ってる努力というのは全て無駄だと思う。というか、それがもとで、変な方向に病んでいってしまうんじゃないかと思う。

「努力」というやつで目先の利益は掴めるかもしれない。でも、その努力で心身のどこかが病むことがある。何かにとらわれてしまうことがあるんだ。それは、とっても恐ろしいことだ。まあ、ならんとわからないけど、ならんほうがいいと思う。

「うん、俺、タバコいらんな」となるのが筋だと思う。っていうかそうなる筈。俺たちは「うん、とらわれてたけど、いらんな」「捨てた方が楽だな」という瞬間がある。努力じゃない。意志だとか精神力だとか気合いだとかじゃない。じゃあ何か。

それは気づくことだ。シンプルに、とても乾いた幸せな気分で、それが「いらない」ことに。それが「無駄」なことに。だから「禁煙」というやつで大切なことは「禁煙」しようという意志じゃないんだ。自分を見つめることなんだ。自分の動作に意識的であることなんだ。

タバコの箱を手にする自分を見つめるんだ。別に「やめよう」とか「いいじゃん」とかいう問題じゃなくて、ただ、見つめるんだ。そして、自分の心身の動きを観察するんだ。静かに、ゆっくりと。

自分がライターに手を伸ばす。火を付ける。そしたら、そうした自分を見つめるんだ。ネガティヴでもポジティブでもどうでもいい。静かにタバコを吸おうとしている自分を見つめることなんだ。その時、その場で、何がおきているんだ? それを見つめることだ。

ある日、タバコを吸おうと箱を見たとき、「ああ、吸う必要はないな」と思うかもしれない。あるいはある日、タバコをくわえ、ライターの火を見つめたときに、「ああ、いらないな」と感じるかもしれない。自然に、シンプルに乾いた気分で、気づくことができるんだ。逆に必要だと思うかもしれない。そしたら、それで結構なことじゃないか。

ただ、惰性をやめることなんだ。俺たちは惰性にとても弱い。その惰性を少しずつ意識的に減らすことで、本来の自然な心身に戻ることができるはずだ。

気合いだとかそういうモダンな概念じゃなくて、自然な治癒力に賭けた方がいい。そのためには惰性を排すること。自然に自分の心身が気づいてくれるよ。無理はとても危ないことなんだ。