たまに自分の書いた記事を検索することがある。しばしば参照する記事はここにまとめておく。

ブログについてちょっとだけ整理したくなったので書いておく。
ブログと一言で言っても様々な機能があり、様々なことを実現していると思う。いまちょっと考えても以下のことをブログは実現している。
digi-log は極めて 1 の傾向が強いながら、「読まれている」という意識が強まると 3 の傾向も持ってきたと言えると思う。最近は明らかにdigi-log: 匿名で書くこと で書いていたような気分では書いていない。
最近は「読まれていること」を意識してしまっている。誰かが読むのだから自分の考えを伝達したくなる。ただの繰り言を綴るチラシの裏や便所の壁であるより、ある程度の文書を不特定多数に簡単に公表する手段として、僕はブログを捉え始めている。こうして digi-log は、内面の吐露の記録ではなくなりつつある。
なぜか?
一つには、ネガコメが怖いからだろう。外面的な話のコメントというのは動揺を与えない。例えばどこかに行ったとか買ったとかいう話にネガコメを受けても大した衝撃にはならない(というかネガコメ自体しにくい)。それが内面の話になるとネガコメが気になる。だから次第に内面の吐露は減ってゆく。
結局、ネガコメに負けてゆくということになる。それでよいのか。いいのだろう。分からないが。
いや、別にネガコメだけじゃないのかもしれない。ポジティヴなコメントを貰えれば嬉しいし、アクセスがあれば嬉しい。こうした読まれていることへの反応が、このブログに質的な変化を与えた。
つまり、ただの「書きたい」という欲望だけで存在したブログが、次第に「読まれたい」という欲望も備えていった。後戻りはできないと思う。ここの二つの欲望のどこかで僕はバランスを保つだろう。それがこのブログのこの先の性格を決める。
僕は以前、全然別のブログを自宅サーバでやってた。YahooBBのADSLでDynamicDNSで。ApacheとかMTとかをGentooの上で転がしてた。
テーマは政経的時事ネタとパソコン関係だった。結構いい調子になってガツガツ書いていて、ある日アクセスが高まりサーバが落ちたりした。政経というのは人が集まるもんだと思った。それでなくてもアクセスが多くなると部屋にあるパソコンがうるさいし、夏には暑くて仕方なかった。ネガコメは勿論、スパムもウィルスも飛んで来たしアタックも受けた。僕はたまに本気で頭に来たりした。そう、予想以上にブログは時間も精神的エネルギーを奪うものだったのだ。
僕はブログをやめた。そして、そうした反省から digi-log にも時事ネタを書くことは避けた。丁寧にコメントに対応することもやめた。いらないコメは容赦なく削除するようにした。
ところで先日、以前のブログのエントリをいくつか目にしてみた(印刷してある)。そうするといろいろと考えさせられた。自分の考えというものは結構変わってくる。それを過去のブログが教えてくれるものだと思った。
僕は紙に色々と書く人間だ。しかし時事ネタのことを書くことは殆どない。時事ネタはどうせ時が過ぎれば興味が失せるから書き残すというモチベーションが湧いてこない。人と話すときのネタになるだけで、後から参照すべきようなものではないと考えてしまうのだ。
だから以前の時事ネタについて書いていたブログの過去ログはとても面白かった。誰かに見せることが前提になる文字にしなければ、こんなに色々と考えなかったと思うのだ。
それは役に立つのか?
イエス、と僕は思う。ただ自分だけに語りかけるよりも、人に語りかけている文書を持っているということは、自分の思わぬ面を自分に見せてくれる。だから、人に読まれることを前提とした文書を書いてゆくのも悪くはないのかもしれないと思った。
コメントにはスルーを前提にしてしまえばいいと思うようにもなった。たぶん「いい人」をしていると何の対価もないブログなんてやってられないのだから。そして元々の内面の吐露は、別のブログや紙にひっそりと書いておくことにしよう。それが元々の姿というような気がする。
どういう訳か今日、無駄にほのぼのとした気分で自分の中学校名をググってしまい、とある掲示板にぶちあたり、そこに自分のことが書かれていた。それは、私を知る人はほぼ100%私と分かるだけの「過去の情報」が載せてあり、かつ、そこに載っていた「私の現状」はほぼ100%嘘であった。
なんというか、匿名について考えてしまった。
こんなこと書くのもアホだが、なんというか、最近、このブログをついつい書いてしまっているので、ついつい書いてしまうことにする。ということで、書くのもアホなんで、読むのはもっとアホです。アホどうし、仲良くやりましょう。
昨日は匿名泡沫ブログを書くことを仮装パーティーと呼んだ。知ってる人が見れば誰か分かる筈なのに、一応、ばれてないことにしておいて、日常とは違う自分を楽しむというアレである。匿名であることによって、匿名でなければ恥ずかしくて書けないような稚拙なことが書けてしまう。そして、それを人様の見える場所に置いておくのである。とても不思議な行動であるが、そこに面白さがあるし、また、そうした表じゃなかなか書けないようなことが書かれるのであるから、匿名泡沫ブログを読むことにも面白さはあると思う。
しかし、こうした匿名泡沫ブログという遊戯は、暗黙のルールに支えられているのであって、誰かがルールを破れば簡単に破綻する。例えば、もし、このブログに対して私の実名なりを載せ、それを利用してグーグルなどから簡単にアクセスできるようになったら、私は即座にこのブログを消去するだろう。まあ、もちろん、archive.orgという手はあるが、まあ、それは見て見ぬふりをするのは簡単な筈だ。
ところで、匿名泡沫と書いたが、有名人でない場合、名前が書いてあっても事態は変わらないとも思った。実名を載せていても、その実名に対して「ワルサ」をする人がいなければ問題はない。そして普通は実名をさらしても誹謗中傷を受ける人は少ないのではないかと思う。普通は人の悪口を書いても得をすることなんてないからだ。
残念なことに、私はある程度有名(?)であって、そうした掲示板で実名がギリギリ載らないにしても「ああ、あいつね」と簡単にポインタを書かれてしまう。実名ほど強力なポインタでないにしても、そのコンテクストを理解する者全員にとって参照先がはっきりとしてしまうのだから、ある意味、実名のようなものである。
そして、そのポインタによって参照される人物としての私について、人様にそう思われたら私にとって残念な嘘が書かれてしまったのだから、とても残念である(アホみたいな文章である)。そして、私がその虚偽の情報を否定しないのであるから、そこを見た多くの人は、それが真実と思うことだろう。事実、もしそこに書かれていたのが私のことではなかったら、私だって「へー、あいつってそうなったんだー」とか思ってしまうかもしれない。
そして、その投稿者は大学名も明らかにし、その大学のサーバで私がサイトを開いていることも明らかにしていた。何人かは私のサイトにやって来たのかもしれない。もう、数年前の投稿なので、現在はその大学のサーバのサイトも消去されているのだが、なんだか、とても気持ちが悪い。
そう考えると、はっきり言うと、こんなブログ、書かない方がいいな、と思う。やっぱり、そんな結論になる。
無駄な文章を、しかも恥ずかしいような文章を何故、人様に見せているのか? この問いはどうしても残る。昨日の「おもしろいから」という答えは、何人かの「仮装パーティールール」を守らない知人によって脆くも崩れさる。なぜ、そうした危険を抱えながら、つまり、どっかの掲示板でさんざ虚偽に基づいた誹謗中傷を受け、現実にここに書かれた文章などをさらされて馬鹿にされる可能性をもちながら、私はアホな文章を書くのだろうか?(現実に今も書いて、そして、それを公開しようとしている)
誰か分かってくれるはずだ、という答をするには、私は歳を取りすぎている。そんな台詞は吐けない。
そんな馬鹿は無視すればいい、という答もあるにはあるが、掲示板の影響力を私はまだ計り切れていないのかもしれない。そこにあった誹謗中傷で、どこかで致命的な打撃をくらう可能性は十分にあるし、こうしたブログも参照され、アホな文章を引用でもされたら、結構やってられない気分になる筈だ。事実、このブログを消去したところで、 archive.org には記事は保存されているかもしれない(今見たら保存されてない)。まあ、そんな低いレベルの人間と関わりたくないが、関わらないという保証はない。
それでも、私はこのアホなブログを書く。なぜだろう?
確かに、個人の名を明かして、責任を持った文章を書けばいいのかもしれない。確かに、そこそこアホじゃない文書を書く能力が私にもあるかもしれない。そうして論戦じみたものがあれば、無視したり消したりするのではなく、ちゃんと対応するという線もあるかもしれない。なんだかいかにも、好青年な線であるし、立派なブロガーの姿である。
しかし、そんな文章を私は書きたくはない。そんな文章は書いていてちっとも面白くないし、読んだってちっとも面白くない。
私はある種の匿名性を持つ泡沫ブログが大好きだ。ちょっとでも火がつけば、処理のしようもなく、ただ、サイトそのものを消すしかないような泡沫ブログが大好きだ。そういうレベルの、本当に気楽に書かれた、読まれることが確実であるにもかかわらず、あたかも誰にも読まれていないかのようなブログが大好きだ。そうした無責任で、でも時には、普通のメディアには絶対載ることがないような閃きを見せてくれる泡沫ブログが大好きだ。
なんか、あついな、俺。馬鹿みたいだ。はあ……。というか、結局「このブログを書いてるの○○だぜ。ばっかでー」と言われても、あまり傷つかない自分がいるから書いているのかもしれない。
ところで、卒業アルバムというものがある。最近読んでいるのだが、これは不思議なものだ。卒業アルバムの文章は、読まれる可能性があるにもかかわらず、何人かの人は、普段では人には見せられない内面を吐露している。もちろん、ほとんどの人は無難な線の文章のみである。しかし、何人かは、確実に自分の内面を、人からごちゃごちゃ言われたら傷つくしかないような内面を描いている。
これは勿論、それぞれが友人関係であるし、卒業アルバムが配布されるのが、卒業の後であり、それをネタにからかわれる可能性が低いこともあると思う。また、お互いに文章を載せているので、お互いにひけめがあり、ネタにしにくいというせいもあると思う。
しかし、そうした「仮装パーティー」な空間で書かれて内面は、すこぶる面白い。予想もできない感性が描かれているときがある。
はっきり言うが、恥ずかしいような表現じゃないと、面白くないんじゃないだろうか? 分かる人には分かるが、分からない人には「あいつ、あんなの書いててアホじゃねーの?」みたいな文章が、面白い人には一番面白いのではないだろうか? ブログとは、そうした楽しみがあるのではないだろうか?
それはただのオナニーか?
そうかもしれない。
しかし、更にアホなことを書くが、私のように「中立的」で「恥ずかしくない」文章がつまらない人間は、しっかりと存在するのではないだろうか? アホな文書の中にのみ、面白さを見出す人間がいるのではないだろうか? そうした人間が存在するのであれば、それはただの自慰ではないのではないだろうか?
まあ、我ながら、アホな文だな。
2006年10月に何気なく始めたブログです。情報技術関係や学習と健康などについて、思索的かつ説教臭い文章をつづっております。
カテゴリとしては ノート術 や 読書術、知的生産 などがよく読まれているようです。
私と感性の合う人に向けて、思うがままに書いてゆきたいと考えています。楽しんで読んでくれたら嬉しいです。
1980年に生まれ。男。長らくギリシアやドイツを中心とした西洋の哲学や文学に興味がありましたが、年のせいか、昨今はインドを中心とした東洋の文化に興味があります。影響を受けた文豪、思想家、芸術家など や おすすめ音楽CDトップ10 あたりを参照下されば、どんな趣味の男かは分かるかと思います。
ギターを弾きます。ギターでシャコンヌとかにコメントくれると嬉しいです。
内輪コミュニケーションなしの泡沫ブログとして楽しみたいので、個人的に私を知ってる人はスルーの方向でよろしく。人にも教えないように。
2011年10月23日現在で記事の数は397件になっています。せいぜい500件までは、このまま細々と自分の書きたいことをボチボチと書いてゆけたらな、と思っています。
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