2007-05-29

[書評] 仏教誕生 / 宮元啓一 (1995)

仏教誕生時のインド思想の状況から、釈尊の生涯、初期の基本的な仏教の教えの内容などがコンパクトにまとめられている。

著者によれば、釈尊の基本的スタンスは

生のニヒリズムに裏打ちされた経験論とにしてプラグマティズム
とのことである。「生のニヒリズム」とは生存欲を断つことである。ただし、全く生存能力が欠如するのではなく、生存にとって必要最低限の機能は果たせるように完全に制御できるようになることとのこと。
「生存欲を断ずる」ということを(……)仏教に即して見れば、それは文字どおりに食欲中枢、性欲中枢をまったくの機能不全に陥れようというのではなく、生存欲を持続的に抑制する、きわめて安定した心的状況を確立することだといいかえてもよい。
だから、生存欲が断たれても、そのまま飢えて死ぬということにはならない。

更に、著者は「生のニヒリズム」に到達した人は

この世に生きることになんの意味も見いださず、したがってまた、なんの価値判断も下すことがない。
のではないか捉える。そこで、そうした「生への意欲がなく、生存欲がない」人が、なおかつ生きたことを問題にし、その答として
意図的に意味ないし価値を「創出」したから
と答える。つまり無意味な世界に、醒めた目で、意味を与えたのである。
慈悲は、釈尊その人にとってはなんの意味ももたない世界を、あたかも意味があるかのごとく創出する一種の幻術である。ただ、幻術を自在に操ることのできるのは、世界と自己とになんの意味も見いださない「生のニヒリスト」以外にはない。
そして、その釈尊は
どうでもよい世界をどうでもよくはないと考えている人びとを、安全かつ迅速に導いて、世界にはなんの意味もないと気づかせるための、つまり生のニヒリズムへのいざないのための巧みな方便
を生きたのである。

2007-05-10

[書評] 百年の孤独 / ガルシア=マルケス

ガルシア=マルケスを読むのは初めてである。

様々な本を思い出しながら本書を読んだ。大江や中上、筒井などの作品が頭をよぎる。多くの日本文学好きの人も同様と思う。

こうした人々に本書が影響を与えたのか、それとも彼らがガルシア=マルケスに影響を与えたのか、それとも同時代的な響き合いがあったのか、私は知らない。調べる気もない。が、どうも本書が影響を与えたのだろうという気がする。

理由は、本書の「手探り」感である。上に挙げた作家の、こうしたスタイルの本は、どれも「既存の原型」に向かって書かれたという感覚があったのである。これは、何も現在、本書を読み終えたから言っているのではない。彼等の作品を読む大学生の日々に、そうした感覚を感じていたものである。原型というとものものしいが、何か「ねらい」のようなものである。それはエンターテイメント的なものでなく、いや、むしろエンターテイメントから遠い所で、狙われ、そこへ向かい積み重なってゆくというイメージである。そして、その「原型」のようなイメージが、漠然と「文学」という、これまた更に漠然とした営みをイメージさせてくれたのである。

本書が提供する「原型」とは(まあ、これは本書がウケたから「原型」になった訳で、書きつつある現在には原型でも何でもないのだが……)(いや、それでも書きつつある「現在」にこうした作家は「何か」を確実に与えられているから書いているのだろうが……そうでなければ、ただ手探りの中で、人は執筆という孤独に耐えられるのだろうか?)(いや、逆か、その孤独があるからこそ、手探りの中で「何か」に導かれるのか?)(まあ、いいや)、本書の向かった「原型」とは一言でいえば、陳腐な表現だが、既存の小説の破壊ということになる。具体的には「人」の小説ではなく「街」の小説、場所の小説であると言えると思う。

単一の主人公と世界の対立などという設定は勿論、確固としたキャラクター作りや、息をのむ緻密なドラマ(物語・筋書)作りなどという「小説を書く教科書」なるものに載っていそうな要素を激しく否定し去っている。小説というのは、「人」の物語だと一般には思われている。本書は違う。「場所」の物語である。小説というのは「フィクションをあたかもあるように書くこと」だと思われている。本書は違う。書かれたフィクションそのものが、まさにフィクションの中でもフィクションであると宣言されてしまうのである。

別にこうしたスタイルは珍しくはないのだが、こうしたことを書くだけでも「ああ、文学ってのは」という気分になるものである。まあ、本書の本当の「ねらい」など書ける訳でもないので、この辺でお茶を濁しておく。


本書になぜ「手探り」を感じるのだろう。それは「人が不在」であるからである。勿論、人は登場するのであるが、妙な印象を受けると思う。その理由は最後に明かにされるが(そして、それが最大の「ねらい」だったと考えることも可能ではあるが、個人的には、そこだけを着目してはいけないと思う)、読み進めながらの違和感、人が描写されているというのに、人が不在であり空虚な印象を受けるという違和感が、本書の醍醐味ではないかと思う。そして、そこに、本書の「手探り」という質感を感じるのである。構想があるにしろ、ないにしろ、著者は書き進めながら、そして同時に読み進めながら、ある空虚さを感じ、そして、その感じが結果として最後の結末を生んでゆくことになったと思う。その空虚さとは、本書が描くものが「場所」であるからに他ならないだろう。場所とは本来空虚なものであり、空虚であるからこそ意味を持ちえるのである。そして、その土地の空虚さを描くためには、本質的には空虚ではあり得ない肉体を持つ人間を描く必要がある。その彼らが、生きる中で、その場の空気が描かれてゆくわけである。その意味で、本書は場の空気を描いたのであるが、それは人が生んだ場の空気ではなく、そもそも土地が定めていた場の空気を描いたのであり、その意味では、あるいは、人とは、人同士で場の空気など作れず、元来ある場の空気に、ただあやつられながら、あやつられているとは思わずに、充実した生活を送っていると思いながら、ただただ空虚さを積み重ねているだけなのかもしれない。いや、失礼。意味不明。

ただ、ある種の気持ち悪さがあるのである。大江や中上が「よくできた」という印象に比べ(いや、この言葉は賞賛なのだが、本人は怒るだろうが……)、この手探り感、本質的な空虚な質感というのは、私たちが本書を読むのを拒み、苦しめ、そして、それが故に、なにか価値を感じるのである。そして「土地」や「血筋」などに関わる表現には、その「手探り」感はふさわしい。(ただ勿論欠点でもある)

しかし、逆に言えば、中上がうまいということでもある。どっちが高いかという話を私はここでしたいわけじゃない。(実際、『千年の愉楽』なんて好きだし……ってあれ?『百年の孤独』と『千年の愉楽』ってやっぱ関係あるのかな? とにかく『愉楽』の方はオリュウノオバが居て安心させてくれる。それは冒頭の夏芙蓉の香りのように。銃殺隊から始まる物語とは違う訳である。それもまた、よし)


概観的なことしか書けないが、本書とはこうした本であると思う。普通の物語のようなものであると思って手に取ると必ず失敗すると思う。こうした本は「おもしろいかおもしろくないか」というある意味既存の価値判断枠から離れ「自分を魅きつけるのか?」という違った枠で挑むものであると思う。読みながら、つまらないと思いながらも、何かが魅きつけていると感じるならば、その何かは、多くの人を魅了した何かなのであり、それは本書を通じてしか得られない何かなのだと思う。そして、そうした何かを語る友がいたときに、他の本ではできない経験があると思う。「おもしろい」という経験そのものは、ある意味で他の本でも充分にできると思うし、それらの多くは語るに値しないのだから。


ちなみに私はメキシコ人の友人に「ガルシア=マルケス読んだよ」と言ったら「俺は嫌い。文が冗長で、物語もダラダラしてて、俺はボルヘスやカルロス=フエンテスが好き」とのこと。なかなか難しい。


百年の孤独

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書評/海外純文学

[書評] 脳と仮想 / 茂木健一郎

『脳と仮想』という題名から、脳と仮想の関係について書いてあると私は予想してしまった。事実は違う。ほぼ、脳の話は出てこないと言って間違いないと思う。『脳の仮想』ではどうかと思うが、それでも違うと思う。とにかく、脳の話があまりないのだから。片方の「仮想」のみがキーワードである。『「仮想」について』くらいで丁度良いと思う。

別に辛口な評価ではない。むしろ褒め言葉である。専門分野で有能でそもそも著名な科学者が、自分の専門と関係を持ちつつもその知識をほとんど利用せず、むしろ小林秀雄や漱石などの人文系の文書を利用して書物を創っていること、そのことだけでも素晴しい。「科学者ってのは実験ばっかりでなく、文学や哲学も知っているんだ」と素朴に感動するかもしれない。

また、一方で、本書の主張である現代までの科学では脳の問題、意識の問題は解明できないのだから、根本的な改革が必要だとの意識も、誠に評価できるものである。著者はデカルトの時代に戻って、と表現している。私も同意するし、大いに科学が方法を拡張・変革しながら、意識の問題を説いてくれるといいと思う。

上記のことより、『脳と仮想』よりも、「脳」の話がなくても読ませられる本であるという点で『「仮想」について』という書名を思うのは、賞賛である。科学者が、自分の分野を拡張・改革すべく、他の分野の知識を高度に扱うことは素晴しい。

だから、本書を脳の知識のために購入してはいけない。大失敗である。


さて、内容だが、著者は「仮想」や「クオリア」という単語を使いつつ、意識を考える必要性を説いている。そのために小林秀雄を始め漱石や一葉、清少納言、紫式部などの文章が引用される。科学はあまりにもこうした問題を考えてこなかったと訴えるのである。私個人としては科学とはそうした道具なのではないかと思うのだが、科学をそうした方向に改善しようとする著者の気概は高く評価したい。

ただ、本書で、その具体的な成果が読めるわけでもなく、ビジョンが示されている訳でもない。著者の現場の脳科学の話もほとんどないわけで、仮想や意識が脳でどう生まれるかという話は驚くほど少ない。

本書で示される話は極めて初歩的な哲学的問題と言ってさしつかえないと思う。別に「初歩」という言葉でレヴェルが低いとか非難をしたい訳じゃない。様々なバランスをとるために、著者は選択をしたのだと思う。

具体的には116頁から「現実と仮想の関係」をまず読むべきと思う。ここを読まないと本書を通じての、著者が使う「仮想」や「クオリア」という意味が掴めないと思う。構図としてはカントである。私達は「もの自体」を直接に知ることはできず「仮想」としてのみ、現実を知ることができる、その意味で私たちが知りえる「現実」は「現実の写し」である、ということになろうか。この「仮想」は「現象」でも同じだろうし、また、クオリアもそうした意味であるとまとめられると思う。

また167頁からの「志向性と空間」という節もキーである。私達は「現実自体」を直接に知りえない訳で、私達の体験は全て「脳内現象」であるということになる。

目の前の机も、コップも、自らが手に取る万年筆も、全ては「私」から絶対的に断絶している。私たちは、これらの「もの」を、神経細胞の活動の時空間パターンが作り出す表象を通して把握している。把握してはいるが、カントの表現で言えば、これらの「もの自体」には決して到達しない。「もの自体」の消息に、私たちは自らの脳内現象を通して間接的に触れることができるだけである。
そして「現実」は「志向性の束」と著者は表現する(志向性についての細かい説明はない。現象学を意識した上での用語か)。
空間とは、アプリオリ、客観的に存在するものではなく、自己の意識の中心から放たれる志向性の束によって形づくられる仮想なのである。

もし本書が『脳と仮想』という本であるなら、この問題について、脳科学でいかに説明するのかのみを語った本であったらよかったと私は思う。ただ、現状での限界への認識を示しただけでも評価はできると思う。

「仮想」というのが、要は私たちの知覚・認識・判断の全てを含む概念であるので、話は広大に広がってゆく。全体としては手を広げ過ぎた感があるのは否めないが、それでも「仮想の問題を考える必要性」を説くためには、ある程度の手広さは必要であるのだろう。そして、手広いのであるが、内容はなかなか読ませるものである。特に後半の4章は興味深く読ませて頂いた。

  • 他者という仮想
  • 思い出せない記憶
  • 仮想の系譜
  • 魂の問題
どちらかと言うと科学者の文を読むというより、そうした問題を中心とした哲学者のエッセイを読む気分で読むとよいと思う。専門と関係はありつつも、分野が違う教養で、これだけ書けるのだから大したものである。

本書に新しい知見を求めようとすると失敗するかと思う。脳科学の話はほとんど無い上に、哲学的な意味で見るものはない。しかし、こうした科学者が未来に向けた研究をしているというのは評価できると思う。著者には今後とも頑張っていただきたい。


脳と仮想

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