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『脳と仮想』という題名から、脳と仮想の関係について書いてあると私は予想してしまった。事実は違う。ほぼ、脳の話は出てこないと言って間違いないと思う。『脳の仮想』ではどうかと思うが、それでも違うと思う。とにかく、脳の話があまりないのだから。片方の「仮想」のみがキーワードである。『「仮想」について』くらいで丁度良いと思う。
別に辛口な評価ではない。むしろ褒め言葉である。専門分野で有能でそもそも著名な科学者が、自分の専門と関係を持ちつつもその知識をほとんど利用せず、むしろ小林秀雄や漱石などの人文系の文書を利用して書物を創っていること、そのことだけでも素晴しい。「科学者ってのは実験ばっかりでなく、文学や哲学も知っているんだ」と素朴に感動するかもしれない。
また、一方で、本書の主張である現代までの科学では脳の問題、意識の問題は解明できないのだから、根本的な改革が必要だとの意識も、誠に評価できるものである。著者はデカルトの時代に戻って、と表現している。私も同意するし、大いに科学が方法を拡張・変革しながら、意識の問題を説いてくれるといいと思う。
上記のことより、『脳と仮想』よりも、「脳」の話がなくても読ませられる本であるという点で『「仮想」について』という書名を思うのは、賞賛である。科学者が、自分の分野を拡張・改革すべく、他の分野の知識を高度に扱うことは素晴しい。
だから、本書を脳の知識のために購入してはいけない。大失敗である。
さて、内容だが、著者は「仮想」や「クオリア」という単語を使いつつ、意識を考える必要性を説いている。そのために小林秀雄を始め漱石や一葉、清少納言、紫式部などの文章が引用される。科学はあまりにもこうした問題を考えてこなかったと訴えるのである。私個人としては科学とはそうした道具なのではないかと思うのだが、科学をそうした方向に改善しようとする著者の気概は高く評価したい。
ただ、本書で、その具体的な成果が読めるわけでもなく、ビジョンが示されている訳でもない。著者の現場の脳科学の話もほとんどないわけで、仮想や意識が脳でどう生まれるかという話は驚くほど少ない。
本書で示される話は極めて初歩的な哲学的問題と言ってさしつかえないと思う。別に「初歩」という言葉でレヴェルが低いとか非難をしたい訳じゃない。様々なバランスをとるために、著者は選択をしたのだと思う。
具体的には116頁から「現実と仮想の関係」をまず読むべきと思う。ここを読まないと本書を通じての、著者が使う「仮想」や「クオリア」という意味が掴めないと思う。構図としてはカントである。私達は「もの自体」を直接に知ることはできず「仮想」としてのみ、現実を知ることができる、その意味で私たちが知りえる「現実」は「現実の写し」である、ということになろうか。この「仮想」は「現象」でも同じだろうし、また、クオリアもそうした意味であるとまとめられると思う。
また167頁からの「志向性と空間」という節もキーである。私達は「現実自体」を直接に知りえない訳で、私達の体験は全て「脳内現象」であるということになる。
目の前の机も、コップも、自らが手に取る万年筆も、全ては「私」から絶対的に断絶している。私たちは、これらの「もの」を、神経細胞の活動の時空間パターンが作り出す表象を通して把握している。把握してはいるが、カントの表現で言えば、これらの「もの自体」には決して到達しない。「もの自体」の消息に、私たちは自らの脳内現象を通して間接的に触れることができるだけである。そして「現実」は「志向性の束」と著者は表現する(志向性についての細かい説明はない。現象学を意識した上での用語か)。
空間とは、アプリオリ、客観的に存在するものではなく、自己の意識の中心から放たれる志向性の束によって形づくられる仮想なのである。
もし本書が『脳と仮想』という本であるなら、この問題について、脳科学でいかに説明するのかのみを語った本であったらよかったと私は思う。ただ、現状での限界への認識を示しただけでも評価はできると思う。
「仮想」というのが、要は私たちの知覚・認識・判断の全てを含む概念であるので、話は広大に広がってゆく。全体としては手を広げ過ぎた感があるのは否めないが、それでも「仮想の問題を考える必要性」を説くためには、ある程度の手広さは必要であるのだろう。そして、手広いのであるが、内容はなかなか読ませるものである。特に後半の4章は興味深く読ませて頂いた。
- 他者という仮想
- 思い出せない記憶
- 仮想の系譜
- 魂の問題
本書に新しい知見を求めようとすると失敗するかと思う。脳科学の話はほとんど無い上に、哲学的な意味で見るものはない。しかし、こうした科学者が未来に向けた研究をしているというのは評価できると思う。著者には今後とも頑張っていただきたい。
- 茂木 健一郎
- 新潮社
- 460円
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