2007-11-26

イタリアン + インド・カレー

週末にイタリアンとインド・カレーのコースを楽しむ。

慣れた店であり、気楽にワインを飲み、前菜をつつく。ワインがうまい。名前は忘れたが、オーストラリアのシラー種。シラーでうまいのは、なんというか、こう、熱い、というか暴力的であると思う。粗雑さとの綱渡りとでもいうか。

まあ、ちょこちょこと色々食べたのだが、中で驚いたのが、焼いたミニ・トマト。口の中で、力強く、太陽が広がった。酸味と甘味が不可分に広がり、ただ「赤い!」と感じるのみ。

味はつけるものではない、引き出すものだ、と誠に思う。塩とスパイス、それに火加減が、トマトの味をここまで引き出したか。ここのシェフは開店当初から、野菜を焼いた料理を常に研究していたことを思い出す。

なんというか、うまいものは、びたーっとうまい。ちょこっとうまいというのは、あるのかもしれないが、私にはよく分からない。頭の芯がぼーっとするほど、痺れるほどにうまいものが、うまいのだと思う。小細工なく、理解がどうとか、舌が肥えたとかどうとかの次元でなく、その圧倒的な力で、俺を感動させて欲しい。それ以外は、別にどうでもいい。興味がない。

とか言いながら、自分の家の炬燵で、好きな音楽を聞きながら発泡酒でも飲みながら食べれば、何を食べたって痺れるほどにうまいのだが。まあ、恋人や母親、自分が作る家庭料理には敵わないものである。

追加で頼んだチキン・カレーは何故かいまいちだったが(だから追加でオーダーするまで出さなかったのかもしれない)、全般に満足する。ただ、問題は食べ過ぎたこと。

来週からは、質素に暮らしたい。「身ひとつに美食を好まず」が正しいと常に思い続けてはいるわけだし。

[続き]

2007-11-24

デスマでのプロマネで感じた3つの改善点

ある現場でプロマネをさせていただいた機会があり、プロジェクト管理について思ったことを書いておきます。

(1) 対話は投資 - もっとも効果的で有効な情報伝達方法は会話

今回の失敗の大きな部分はコミュニケーション上の失敗によるものと思われました。

その現場でのプロマネの前任者は OSS な BTS で、客との課題管理から不具合改修や要望の管理に利用していました。改善のために必要な質問も BTS 上で書かれるため、即時性のあるコミュニケーションが図れず、意思の疎通が十分でないまま時間が流れ続け、土壇場になって仕様が詰まっていないという状況になっていました。

また、内部の基本的なコミュニケーションも BTS でのアサインと IM であったため十分な客側の要求がPGに伝えられず、要求と実装に齟齬が発生し続けていました。

同時に、開発者と顧客が直接 IM や BTS でコミュニケーションが図れてしまい、情報が分散し、全て顧客に情報を晒してしまうという問題もありました。

今回の PM の経験を通じ「対話は投資」ということを実感しました。また、

開発チーム内で情報伝達を行う効果的で有効な方法は、Face to Faceによる会話である。
というアジャイルソフトウェア開発の原則も想起致しました。

(2) ヴィジョンを共有すること

前項と深く関係しますが、関係者のミーティングがきちんと開かれることはなく、私がプロジェクトのメンバーに紹介されるミーティングすらありませんでした。私は個別のPGと会話をして関係を構築しましたが、PGはSEに対し軽蔑に近い感情でいました(「あいつらプログラム分からない」「うちのSEはSEの面汚し」)。

PGにプロジェクトの全体の流れは把握する機会はありません。PMやSEはリソースとしてのPGを取り合っており、PGは一つの仕事をすれば、即座に他のプロジェクトの仕事を任されるという状況であした。プロジェクトへの専任はおろか、自分の出したバグを自分で改修することもできず、作った人が見たらすぐに直せるであろうバグを、ソースの理解から始めなければならないという状況でした。

上記の状況下ではPGがプロジェクトへのモチベーションを維持することは難しく、また、自己のプログラマーとしての成長の機会も奪われています。PGは「前のとこよりはマシだから」といいながらコーディング作業に従事していました。

こうした対話を通じ、以下のヴィジョンを提供・共有することの重要性を痛感しました。

  1. 自己のプログラマーとしての成長のヴィジョン
  2. プロジェクトの成功のヴィジョン
  3. 会社の成功のヴィジョン

(3) 開発者に集中状態に入る状況を与えること

以下の状態に置かれたPGは、当然集中状態に入れません。

  1. 営業やSE, PMの電話や怒鳴り声
  2. 常に飛び交うIM、メール(しかも見ていないと「見てよ」と怒られる)
  3. SEから急に割り込みで頼まれる緊急のタスク

集中状態に入れないことで、PGはかなり無駄な時間を過ごしていることに気がつきました。

十分なコミュニケーションによって一定量の仕事をアサインした後は、PGは静寂に包んであげるべきと強く感じました。

一人のプログラマは「うるさいやつらはどっかにやって、開発メンバーがちゃぶ台を囲んで、濃いコミュニケーションをとりながら開発ができたら」と言っていました。

営業・マーケティングの視点も重要ですが、開発者にはとにかく集中状態に入る権利を与えるべきと感じました。

2007-11-23

学生時代の思い出と精神的な書物たち

昨晩は高校時代の友人と呑んだ。互いに限られた時間の中、共に将来を、夢を、肚の内を、「よみ」を語った。

仕事帰りのせいもあり、正直、私は彼の中に「怖さ」を感じた。「お疲れ」とグラスを合わせても、その空気はすぐには消えない。

それでも、国家について語る歳でもなくなったが国家を語り、哲学について語る歳でもなくなったが哲学について語り、経済を語る歳でもなくなったが経済を語り、精神について語る歳でもなくなったが精神について語る。まあ、それはそれで、可笑しいし楽しい。もちろん、女の苦労話にも華が咲いたが。

話は学生時代のことになる。

学生時代に共に抱えた「絶望」とは何だったろうかと問い掛ける。己の無力感 ── これは己が有能と信じたからこそ起こるものだが ── に襲われ、虚無感の中で苦しんだことは、何だったのだろうか、と。挫けそうになり、視線は真っ直ぐに「死」へと向かはざるを得なかったような「絶望」とは何だったのだろうか、と。

彼はカミュを読み解く中で、既に高校時代には「不条理」についての卓越した「覚悟」を固めていた。私は、彼を尊敬した ── 彼の能力に対してではない、彼の覚悟に対してである。

こんな逸話がある。

彼はアメリカ留学をしたのだが、その際にホームステイをすることになった。両親がいて、子供がいる、団欒の席で彼は食事を取ることとなった。

その雰囲気の中で数日暮らしていた彼は、私にメールをよこした。曰く、彼はそうした団欒の席において「俺は、こういう家庭を持つことはないのだろうな」と憂愁に襲われていたとのことである。彼が21、2の頃の話である。

その前にも、女性に告白された際にも「俺は彼女を作るということはしない。そんな時間は与えられていない」と言ってふっていたのだから、本当に頭が下がる(ちなみに、「時間がない」特に「読書の時間が失なわれる」という理由で女性をふったり別れたりした友人が私の周りには非常に多い)。

***

さて、何の話だったか。そう、学生時代の虚無感であり、絶望である。彼は若い自分に相当の覚悟を決めていた。もの静かに、筋の通った男として、生き抜いている。

そうした彼と話していて、思うことがあった。やはり精神的な書物は必要なのだな、と。そういう「無駄」な書物こそが、肚を作り、筋を通して生きるのには必要なのだろう、と。

最近、いわゆる「名ばかりの管理職」としてデスマのプロマネをした訳だが、その際にも感じたことである。自惚れ甚だしいが、私はそうした「なにかをマネッジする仕事」があっていると感じたのである。己の「よみ」を仲間に語り、集団でそれを共有し、肚をくくって未来の不確定に臨む ── こうしたことが、好きなのである。

考えてみれば、二十そこそこで起業して失敗してゆくまでは、班長、学級委員長、委員会長、生徒会長、部長と「長」が付くものは片っぱしからやっていた。好きでやっていたとは思わないし、言いたくないが、まあ、そういうことをする業かと思う。望まぬが、望んでいたのだろうかと。好かぬが、好いていたのかと。

こうした人間として、早くから己の限界にぶつかり続け、「精神的な書物」を読まずにはいられなくなったのである。中学生の卒業文集には「人はもっと素晴らしいはずだ」という出だしに始まる「人の中の不安」と題した幼稚だが、今もって尚、私には深刻な問題に関する文章を書いている。たまに眺めても「今ではこうした文は書けないな」と思い可笑しい気分になる。中学時代の私は、現在とは比較にならないほど深刻であり、苦しんでいて、絶望していた。「あの頃の自分を尊敬している」と書けば、読者には笑われるだろうか。若い時は何も知らず、それが故に理想は高く美しく、挫折も深いものである。

そう昔から成長しない私は、ときどき一人、中学生の頃と同じ口癖を呟くことがある。「もっと頭がよければ……」「もっと力があれば……」

無い、のである。徹頭徹尾、そんなものは、無い、存在しない、存在しえない、のである。そもそも、そういう問題ですらないのである! ── なのに。

愚かなものだが、悩める魂はひたすらに回り道をしながら人の世を抜けていくしかない。そうした時に、人の言葉は、人の思索は、人の文藝は、人の受け継がれゆく「語り」という営みは、私を魅了した。

***

さて、何だったか。そう、絶望の中で出会う書物のことである。理性に信頼を寄せた私は逆に人間理性の限界を「知る」ことになるだろうし、言語に信頼を寄せた私は逆に言語の限界を「知る」ことになるだろう。そうして、世界の限界を「知る」ことになるだろう。

雷に打たれたように、人間理性というものは、頼るべき存在ではなく、逆に、小さな子供のような、可憐で愛らしいが、大人の男がしっかりと守ってあげねばならない存在であることに気づくだろうし、言葉は挨拶と謝罪と感謝ができればよく、後は沈黙することにもなるだろう。

それでもなお、書物を私が愛するのは、他ならぬ書物を持ってしか、私は私を変えられなかったと思うからである。受け継がれてきた書物がなかったらと思うと、やはり、私は愕然とするしかない。少なくとも、ニーチェがなかったら私は生き抜けなかったろうな、と感じる。いや、その他の藝術や哲学 ── 人の業かと疑うような人の営みがなければ、私は随分と寂しい男だったろう、と。

そして、語弊を覚悟で言えば、やはり人の営みにはそうした書物が欠かせないのだろうと。常に、ある種の人々に「精神的な書物」は必要不可欠なのであろうと。

時代は変われど、実は何も変わってはいない。結局、人と人である。常に、人は人と共に、予測のできない未来に相対しながら、今を生きている。いくら語ろうとも、予測しようとも、結局は裏切られ、思うようには絶対にならず、時に成功しても、それは「たまたま」「誰かのお陰」に過ぎない世界を生きている。

にもかかわらず ── いや、だからこそ ── 人は語るのである。人は、物語り、語り合い、肚を見せあい、未来に己を投げ掛けるのである。そうした、「未来に投げ掛ける営み」として、[人の語りの営み」があり、そこに、「精神的な書物」がありえるのである。

静かに考えてみれば、何も変わってはいない。ただただ、未来の不安、死への不安から、人が動いていることに、何の変わりもない。ある人間は娯楽の中で「誰かの欲望」の中に埋没して現を抜かすだろうし、ある人間は死を睨みつつ、その死をすら抜けこえて「今ここの場」に研ぎ澄まされるかもしれない。これは、どちらも同じ、記憶を持ち、未来を予測できてしまう人間の哀しい性である。どちらであったとしても、愚かであることに一寸の差もありはしない。

いや、娯楽と言ったが、他者の欲望に左右されているのでなく、本当に没頭しているのであれば、つまり、生を楽しんでいるのであれば、そちらの方が貴いと思う。問題は何をしているかではない。ただ、普通は「楽しいだろう」という程度では、結局楽しめず、夢、あるいは「使命」というものを睨みつつ、現在に没頭する方が、充実して生を楽しめることと思う。

ただ、人は一人では弱い。己の夢も使命も背負うには厳しい。だから、己の「よみ」を共に語り合えた時、そして、その「よみ」が共有でき、それぞれの場に互いにしっくりとくることができた時、それは充実した仕事ができる。共に未来に己達を力一杯投げつけることができるのである。

このために、語りはある。ここに語りがある。己を語り開いてゆく中で、己ではなかったものが「開き」「現れる」のである。ここに語り合いの本質がある。この未知から現れる「語り開き」の中でこそ、互いの肚の底が見え、躍動があるのである。

不完全で、常に崩壊してゆき、不確定で、己の思う通りには断じてなりえない、この世界の中で、いかに生きるか、いかに生きるのかを、書物は教えてくれる。そして、その高い精神は、本当に「楽しい」のは何かを教えてくれる。それは、結局は、正直に、感謝して生きるしかないということである。

私は正直に、その通りだと思う。結局、正直に、感謝して、恥を知って、生きてゆくことが、「楽しい」のだと思う。己の充実した生を実感できるのである。世界が確定的で、思い通りになり得るのであれば、打算もありえる。いや、若者は多いに自らの才覚を信じ打算して、大人を出し抜けばよい! 存分にやりつくせばよい! しかし、結局は分を知り、足ることを知るに勝ることはありえないと、私は思わずにいられない。

不確定のものにぶつかりながら生きているのに、優れた精神の優れた語りがなければ、いかに苦しく、つらいだろうか。そして、そうした言葉を知れば、尚、不確定なものに挑みたくなる。

2007-11-18

食とはメッセージ

誰かが言ってそうなことだが、書いてみる。

が、結論をさらりと書かずに、こんな文書を書く経緯を書かせてもらいたい。

実は、9月からサラリーマンとなり、日中を東京で過ごした。ここで初めてサラリーマンの昼を経験し、驚いた。まともに昼食をとることが、これほどに難しいとは思わなかった。

つくづく、甘えた男だと思う一方で、極力、自分にとってベストな昼食を摂れるように努力した。そして、ある程度、値段的、味覚的、環境的にも理解できる店を見つけ、そこに通い続けた。

しかし、そこでも満足は来なかった。そして、それが自分で不思議でならなかった。「なぜ、美味しいのに、旨いと感じないのだろうか?」 「そもそも、うまいとは何だろうか」 私は毎日、その店で味わいながら、考え続けた。

一方で、帰宅してからの食事の美味しいことといったらなかった。服を楽に着替え、自室に腰を降ろし、テーブルの上に置かれた冷めきった食事を食べるのだが、これが滅法おいしくてたまらない。特に、米を口に入れて、噛みしめる一瞬前の「食べてる!」という実感が、全然違うのである。

最初は、環境がリラックスすることで全然味覚が変わるということだと考えた。同じ料理でも、楽な服装で食べた方が、おいしく感じるのは当然である。しかし、そうかと思って、実家で食べる感覚を思い出しながらランチを食べ、ランチを食べる感覚を思い出しながら実家で夕食を食べて、その味覚を考察していると、それだけではないと思い至った。

一つに水が違うのだと思い付いた。東京の水について云々しないが、やはり地元の水に慣れているのでおいしいのだろう。実家の米を電子レンジでチンしても気にならないが、昔、東京の水で炊いた米をチンしたら、臭くて食べられたものではなかった。冷たくてもいいから、臭いのはつらく感じた。

そして、しばらくは、ランチと実家の食事の差について「水の違い」として理解していた。しかし、昼食の時に、そうしたことを意識して考えながら食べていても、やはり、水だけでは説明がつかないことも多い(ただし、やはり水で説明がつくことも多い)。

ここで、当然のこととして、私が母の味に慣れているというのがある。食事を口に運んで、噛みしめる瞬間に、「うまい!」と感じるのは、まず味の予測があり、その予測の緊張の中で食物を口に運び、そして、その予測通りの味が口に広がるという解決を経験するからだと思う。音楽と同じである。

こうした、「予測(期待)」→「緊張」→「解決」というプロセスを、店では経験できない。予測や期待は、ほとんどアテにならないからである。

このことに思い至ったのは、ブリ大根を食べた時である。見た目から無意識に味を予想していたのだろう。口に運んで噛んだ際に「あれ?」っと思ったのである。予測していた味とあまりに違っていたのである。まずいのではない。ただ、予測が裏切られたのである。こうしたことが、ストレスになっているということに思い至った。

勿論、予測もできない味を楽しみたい時もあるだろう。しかし、毎日の食事では、ストレスなく、静かに、食事を味わいたいと、私は求めているということだろう。特に、新しい職場に慣れる前だったり、プロマネをしたりしてストレスがあった訳で、ストレスなく静かに食事をしたかったのだろう。

こうした音楽との比較の中から、味について更にアイディアが広がった。

食とは、メッセージとして成立しているかどうかなのだと感じた。食事ということ、そのものの全体を味わっているのである。そして、その全てにしっかりとした関連があれば、私たちはそれを理解できて、安心して味わえるのではないだろうか。

綺麗な音、いい音をならし続けても、音楽にはならないのと同じで、食事もただ美味しいということは実は問題ではない。どちらも人間から人間へのメッセージなのであり、そのメッセージがきちんと成立していたときにのみ、味わい深いものとなる、ということだろう。

東京の食事はメッセージとして成立していないということになる。確かに食物は提供されている。調理もされているとも言える。しかし、その全体が、そのメッセージが成立してはいない。ただ、ひたすら、生物の死骸とカネを効率的に交換しているだけである。ウェイトレスはひたすらにせわしなく動き回り、料理人も「火」を使うことはなく、私たちは焼きたて炒めたてを口にすることはできない。

しかしながら、東京において、まともに「火」を使って調理をして、メッセージとして成立している店で食事などとろうとしたら、これは大変なことである。切りたての食材を、静かな環境で、焼きたて、炒めたてで食べられたら言うことはないのだが。なんだか、とても残念である。

なんだかいい加減だが、こんなところで。

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2007-11-13

昼下がり、近所の鰻屋に行った。いつぞやも書いた、思い出の店である。別にどうという話もできないが、少し記録しておく。

座敷に上がり、腰を下ろす。昔は広く思えた座敷が狭い。走り回り、転げ回り、机の角に頭をぶつけたこと、その店で酔っ払って寝てしまった祖父に悪戯して、おしぼりを顔の上に載せて、叱られたことを思い出す。

特上と上を一つずつ頼む。確か、祖父は上を頼んでいた。二つを比べてみたかった。

出て来た鰻の蓋を開けた瞬間、とてもがっかりした。「蒸し」に手を抜いたのが一目みて分かったし、「焼き」も繊細さに欠けている。まあ、昼休み前ギリギリに行ったのだから、火を落としていたのだろう。そこで若いのが入ったのだから急いで仕上げたのだろう。雑になるのも無理はないか。

鰻とは「裂き」「串打ち」「蒸し」「焼き」の技である。中でも、鰻職人は「焼き」が命である。しっかりとした職人は、焦げやむらがなく息を飲む程に美しい鰻を焼き上げるのである(実際には焦げるが)。更に関東の鰻は「蒸し」が入る。カリっとした触感を認めない訳ではないが、関東人の私は、この「蒸し」が入った、ふっくらと柔らかい鰻が大好きである。

落胆しつつ、上を食べる。予想通り、ふっくらとした触感は少く、雑に塗られたタレの雑味を感じる。ただ、鰻自体は新鮮なのだろう。すっきりとした味の中に、こみあげてくるエネルギーがある。

ややあって特上を食べる。更にすっきりと雑味のない鰻である。比べてみるとはっきりと分かる。そして、すっきりとしているのに脂がのっているのが分かる。

鰻は目にいいという。気のせいかもしれないが、眼精疲労が柔らいだ気がする。そして、なんとなく食べると頭がよくなるのではないかと思う。頭がすっきりと元気になっていった。

思い出の鰻はもっとおいしかった。が、そうした移ろいを感じながらも、やはり鰻は美味しく、元気を与えてくれた。

また訪れた折には、店の人と話してみたい。十年以上も前だが、あれだけ通っていた祖父と私を憶えているかもしれない。また、あの鰻を食べたいと思う。

雑駁だが、こんなところで。