2008-02-21

しっかり座って有意義に瞑想するために

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最近、瞑想まがいをすることを覚えたが、なかなかに難しい。その理由の一つには静止することが困難であるからだということに気がついた。

そんなこんなで静止することの難しさとその対策について少々。

瞑想については未だによく分からない。ただ「止観」という言葉があるように、瞑想には「止」と「観」の二つがあるということだけは分かった。「止」とは意識を「何か」と一体化させることであると思う。「観」とは観察することである。そして、そこから洞察を得てゆくことだ。通常は、優れた洞察を得るほどには精神が働いていないので、最初は「止」を行い、没我没入して主客合一した後に、洞察を得てゆくというプロセスになろう。

まず、そうした主客合一の状態になろうと座るわけだが、これがなかなかに難しい(そもそも意図がある時点でアウトだが)。なぜなら「止」の状態を十分に維持できないからである。

瞑想には最低でも数十分は座らねばならないと思う。私の感覚では、通常の動的な意識が静的なものに変わるのに数分は必要だし、身体の知覚が変わり始めるのには二十分は必要な気がするからだ。二十分くらいすると、なんと言うのだろうか、体が「動かすことを忘れた状態」になってゆくのである。特に腕の感覚の変化は顕著で、指を少しばかり動かそうとしたくらいでは、指が動かない感じになる。よく分からないが、こうした状態にならなければ、まともに観察なんてできないし、洞察も湧くはずがない。

そこで座るわけだが、長時間座ることは実に難しい。

一つには精神的な理由がある。禅寺で一時間を連続二回座ることは特に難しくは感じなかった。しかし自宅で一時間座ることは難しい。

なぜか? 「無駄」という言葉が襲いかかって来るからだ。座っているのが無駄な気がして耐えられないのである。これは典型的な「怠け心」なわけで、それに負けてはならないことは知っている。しかし「有意義なことをしたい」という誘惑は大きい。

これには、しっかりと予定を立て、時間を見積り、瞑想を投資と捉える視点が必要だろう。焦っても何にもならないのだ。持てる時間は限られているから有効な投資をしているのだという意識を高めねばならない。そもそも、そういう判断や決心ができないのならば、半端に瞑想の真似事などする必要はない。

もう片方は身体の問題である。結跏趺坐で長時間静止するには足首や膝、股関節に柔軟性が必要である。また正確な姿勢でない場合には、すぐに背中に問題が生じる。きちんと座れていないのだろう。だからすぐに苦しくなる。

これに対しては、瞑想とは別に、柔軟を重点的に行う必要がある。また半跏趺坐でバランス良く座ることも試みるのも良いかもしれない。

更に座るときには座布団を厚く重ね坐蒲を利用する必要がある。床の上に座るのと厚い座布団の上に座るのは短時間であれば大差ないが、長時間すわるとかなりの違いとなる。こうした準備も大切だろう。

結論から言えば、しっかりと準備をして望むことが必要ということだ。何気なくやっていても仕方ない。自分で決めてやるならやるでしっかりと取り組まねばならない。

それにしても、どっしりと身じろぎせずに座ることに苦しむと、普段、自分がいかにもぞもぞと動いているのかと反省させられる。情けない。