コンピュータは体を壊します。目を爛れさせ、首・肩・背中・腰を歪ませるのです。誰もそれを防いではくれません。私たちは自分で自分を守らねばなりません。
その方策を考えてみました。
自分の行動や感情などを意識的に言語化すると、恐怖や攻撃性に関係する扁桃体の興奮が収まるらしい(» The Science of Mindfulness Meditation - Psych Central News)。
このことに関連して、瞑想や鬱病などについて、最近思うところを雑駁に書いてみる。
健康と美容には、ちょっとした意識を持つだけで十分だ。最近そう感じるようになった。以前に 最近の心得 で書いたことを中心に、身体を健康に保つ上での注意点をまとめてみた。
時間がない? 大丈夫。時間を使うようなことはここでは薦めていない。
一番簡単で効果が大きいダイエット・美容法は、姿勢を良くすることだと思う。姿勢や歩き方は人の見た目の印象に無意識的に強い影響を与えているし、よい姿勢と深い呼吸は血流をよくし、無駄な肉を取り肌と体を美しくする。
意識を持つだけでも十分効果がある。下腹部に力を込めて、胃の辺りと項を伸ばすようにすればいい。また、呼吸を深くすると体と心の緊張は取れやすい。また、日頃から自分の呼吸に意識を向ける習慣をつけるだけで、呼吸は深く穏やかなものになり効果が現れる。
更に姿勢や呼吸をよくするためにはヨーガが一番だと思う。柔軟性・バランス感覚を養いつつ、姿勢を保つ筋力を向上させてくれるだろう。また、呼吸法を練習したり、心肺機能を鍛えるべく有酸素運動(ジョギング、水泳)をしてみるのもいいだろう。
間違った腹筋は腰痛の原因になるし、過度に腹直筋を使う癖をつけてしまう。姿勢と呼吸に気を使うだけで、若い男なら腹は十分に割れるし、女ならウェストはくびれる。要は常に下腹部に力こめて腹から呼吸すればいい。それだけで腹はひっこむ。
それでも腰回りの贅肉が気になるなら有酸素運動やヨーガ、バランスボールやスタビライゼーションなど筋力とバランス感覚を同時に鍛える運動をする方がよいと思う。
人間は暗い場所で眠るように出来ているので、明るいと睡眠の質が極端に下がる。だからに日の出の頃に目覚めるようにするのが効果的だ。そして起きたら太陽を眺めるようにすればサーカディアンリズムも整う。リズムが整うと驚くほどに身体が楽になる。日の出が無理でも起きる時刻は一定にした方が身体は楽なのは確実だと思う。
それに本当か嘘かしらないが23時と午前1時に寝ていると健康によいと言う。できることなら日没後には仕事をやめて日の出と共に働くようにしたい。digi-log: 朝起きるコツ や digi-log: 寝付きをよくするために も参照のこと。
噛むことは誰でもすぐ出来る効果の幅が広い健康法だ。よく噛むことはストレスを解消し、胃腸の問題を改善する。過食をなくすのでダイエット効果もある。固いものをしっかりと噛めば、こめかみから顎のコリをほぐし偏頭痛を取り、ひいては眼精疲労回復にも効果がある。
最近、顎が疲れるほど噛んだこと、あります?
頭や顔を洗う時に耳の裏から目の周辺にかけてをマッサージする。湯船の中で足の裏を揉む。暇があれば前腕や手の平を揉む。首や肩を伸ばす。寝る前に前屈や股割、合蹠などの柔軟を少しだけやってみる。どこも結構こっていると思う。
体は気を使わないといけない。病気の問題は勿論、肉体面の問題が思考や精神にも強い影響を与えるからだ。加えていえば、見た目が人に与える印象は絶大で、生活のストレスの大部分が人との関わりによるものである以上、見た目に気を使うのは合理的とも言える。
運動を生活に取り入れたとしても、それにかけた時間は能率アップでばっちり回収できるはずだ。ついでに言えば寿命も伸ばすだろうから、人生のアクティヴな時間を大幅に増やすことができるだろう。
Wikipediaで以下の文にぶつかった。
タバコは、世界で2番目に多い死因であり、10人に1人がタバコが原因で死亡(毎年540万人)している。現在喫煙している者のおよそ半数(約6億5千万人)が最終的にはタバコが原因で死亡するといわれている(以上、WHOによる)。世界銀行からの出版物[31]では、2030年までには、6人に1人(年間約1000万人)が喫煙によって死亡すると予測されている。喫煙は、世界で最大の予防可能な死因であるとされる。
本当ですか?
ちなみにオーストラリアのタバコ警告はすごい。
写真が入るとインパクトが違う。この箱からタバコを取り出して平気で吸えるってのはある意味、尊敬する。タバコ入れが売れそう。
更に火事の原因で一番らしい。
平成15年版消防白書によると、建物火災の10.6%、林野火災の14.7%がタバコが原因であり、放火に次ぐ主な出火原因となっている。かつてはタバコが出火原因のトップであった。
「体を曲げる」ときには、曲げようとしないことで、更に深く曲げることができる。
「曲げようとしなかったら、曲がらないではないか」と思うかもしれない。しかし、この問をする前にやることがあるだろう。実際に一人で床に腰を下ろし、「曲げようとしないで曲げるとはどういうことか」と問うことである。勘のよい人ならすぐに分かることと思う。
ただ「では考えて下さい」で終わりにしてはあんまりなので書くことにする。しかし、これで分かったのでは、自分の体で気づくという大切な瞬間を逃すことになる。[WEB] パーソナルトレーナー武田さんの感性(ブログ): 「気づき」とはを読んでから、以下を読んでいただけるとよいかと思う。
さて、「曲げようとしないで曲げる」とはどういうことか。
結論から言えば簡単である。曲げるポイントを深い場所にして、それ以外の場所は全力で曲げる方向の逆にするように意識することである。つまり、曲げるポイントだけリラックスして結果として曲げてゆき、それ以外は曲げる方向に対して逆に反るのである。
どうして、こうすると曲がるのだろうか。思うに、こうすことで、それは重力を有効に利用でき、無駄な緊張を解けるからである。
人の体は無意識に伸ばすことを警戒する。過度の伸展は、筋肉や靭帯の損傷の可能性があるからだ。故に、この「警戒」を解くことが重要である。その為には、曲げる場所以外での伸展を極力避ける必要があるのである。
分かりやすい例として長座での前屈を考える。この体位では股関節を曲げて、臀部から膝裏にかけてを伸ばすのがポイントとなるだろう。この際、腰や背中、首等の緊張を避けるため、顎を引き、胸を張り、肚を落とすのである。すると、骨盤が前傾してゆき、重心が前に移動する。結果として、股関節を中心として深く曲がり、臀部や膝裏が伸展される。
イメージとしては、肚が前へ、下へ落ちるようにイメージしつつ、胸を張り、顎を弾いて、体は逆に反ってゆき、あたかも曲がることに抵抗しているように動かすことである。こうすることで、股関節を中心とした部位以外の緊張は解け、同時に重力を利用して曲げられるので、曲げるために緊張することがなくなる。
骨盤の前傾を促進するために、リラックスして体を左右に揺するとよい。肚を落として重心を前に置くことに成功していた場合、これだけで自然に前屈の準備が完了してゆくだろう。
「曲げよう、曲げよう」と思っていると、先に頭や背中を伸ばしてしまうことになる。骨盤は後傾したままであり、故に重心は後にある。重心が後にあるのに、前に曲げようとするから、筋肉を使うことになり、緊張が解けない。そもそも、前屈など緊張していたら曲がるはずがない。
曲げる際に重さを利用して、それ以外を脱力すること、イメージとしては、体を反らすほどに真っ直ぐにして、頭頂を遠い位置へと持ってゆくことである。あとは重さに任せて、リラックスして体を揺すればよいのである。コツが分かると、不思議なほどにすーっと体が曲がってゆく。
思えば、前屈の時に背中を曲げるのが失敗なのである。骨盤を後傾させ、より曲がる股関節を利用しないで、曲げよう、曲げようとするから曲がらないし、痛いのである。股関節を利用するために、股関節の上に体が乗るようにしなければならないのである。
そうして静かに体を見つめ、細かい感覚をゆっくりと味わってみて欲しい。「この感覚は何か」「この痛みとは何か」などと。そこには新しい気づきが待っていることと思う。
冒頭でも教えは矛盾すると書いたが、大概は小手先での動作を戒めるものである。今回も「曲げる」という動作の緊張を解いて、重さを意識的に利用してリラックスして曲げることを書いた。
しかし、結果としての方法を知っていても意味がない。体が曲がろうが、曲がらなかろうが、どうでもいいことである。
むしろ、そうした逆説的な教えを積極的に試して理解していったり、自分の体を利用して、気づきの瞬間を味わうことが大切と思う。体と向きあう時に出会う気づきが、私は面白くて仕方がない。
是非とも「曲げようとしないで曲げる」ということを、本ブログの読者にも試して頂きたい。
久々に野口晴哉『整体入門』を眺めていると、こんな文にぶつかった。
感情が高まってきた場合に、そのままにしておけば体に異常を起こす。そこで自然に泣く、怒る。そういうようなことも活元運動の一種で、昔々は今のように泣くとか怒るとかいうのがけっして悲しいとか口惜しいとかの表現ではなく、その人が自分のエネルギーの鬱散のために、怒ったり泣いたりしていることがあったのだろうと思います。
最初は身体反応しかなくて、「感情」なんて呼ばれるものは無かった、そして、次第に特定の身体反応が多くなり、また会話も増えたので「感情」という観念を生んだんじゃないかと考えた。と書いたが、「怒り」の問題はどうも奥が深そうだ。
「怒る」という身体の反応、その状態と、表現を考えねばならないし、その中間にあるらしい「感情」ということも理解しないといけない。
問題は、「怒る」という「身体動作・反応」が、どこからどこまでで、どこから先が「表現」としての「怒り」になっているのかだろうか。また、「身体動作・反応」を引き起こす「身体の状態」も怒りと呼べるだろう。
ちょっと簡単に分けて考えてみる。
私が思う「活元運動としての怒り」とは3を指す。2までの状況を3の動作をすることで解消するというわけである。また、怒声や暴力も喉や筋肉の緊張を解消するだろうから3に入れたいが、4との線引きが微妙である。
「怒るのを我慢する」というのは1-3まで起きたのに4をしないことだろう。また、本当に「怒らない人」というのは1を認識しない人なのだろう。というのは、1になれば2になるのが人間であり、それを3で解消しなければストレスが残り体に毒である。本当に怒らない人は、怒らないことでストレスが溜まらない人なのだから、2になってもいけない。
さて、問題は、この、どこに「怒りという感情」を置くかである。普通に考えると、3の前後になるだろうか。
うーん、よく分からないな。まあ、メモということで。調べれば、きっといい文献があるんだろうし。
人間は脊椎動物の一種です。中枢神経(脳と脊髄)を守る頭蓋骨や脊椎(背骨)はとても重要であり、損傷が発生すればかなりの被害が出ます。
よく知られているように、脳を経由しないでも運動が起こります。
脊髄が中枢となって起こる反応を脊髄反射と呼びます。例えば、熱いものに触った時に無意識に手を離す現象が脊髄反射です。他にも、つまずいてバランスが崩れた時にも反射が起こります。人は脳を利用しなくても運動をするのであり、脊髄は脳と同様に大切なものです。
そうした基本的な運動をすら司る脊髄を収めた脊椎は、それ自体の運動能力も高いものです。
「胴体力」「深層筋」などと呼ばれる筋力は、主に脊椎の中心からの運動に関連したものです。脊椎の筋肉は、手足の筋肉に比べると意識的な操作が難しいのですが、はるかに力の量も持久力もあるのです。また安定した優美な手足の動きを可能にします [*]。
特に呼吸や姿勢に関連した運動に関しての脊椎周辺の筋肉の能力の高さは本来驚くべきものの筈です。
私たちは無意識に無意識に横隔膜、鎖骨、肋骨や脊椎を動かしながら呼吸しますし、そうした中で絶えざる変化の中で常に無意識にバランスを取っています。しかも転びそうになると自動的に補正をします。そうした無意識のバランス補正ができなければ、いかに手足が健康でも、歩くことは勿論、立っていることすらできないのです。
呼吸や姿勢は小脳が司っているので、意識に上ることはあまりありません。しかし、その継続時間の長さと必要な力を考えれば、そうした運動を可能にしている脊椎の能力がいかに高いのかが分かるかと思います。
昔から「肚で持つ」とか「息で持ち上げる」などと言いますが、これは呼吸に関連させ脊椎周辺の深層筋を利用するための意識なのでしょう。こうした意識を利用して、昔の人は歳をとっても重い物を長時間運べたのでしょう。
そうした深層筋は意識に上ることが少いので、強い力を持続的に使用する必要のない多くの現代人は、深層筋を利用できていません。
それ故、巨大な力を持つそうした筋肉は凝り固まっています。
肩凝りや腰痛などの多くの場合は、こうした深層の意識しにくい筋肉が緊張状態になっている為に起こっています(勿論、構造上の疾患の可能性もあるので医師の診察が必要です)。特にストレスや不安、怒りなどの心理的緊張が、そのまま深層部の筋肉を緊張させている場合もあると考えられます [1]。
高い能力があった場合、それを使わないのは無駄なだけじゃなく、苦痛すら生んでしまうのです。
それではこうした脊椎の力を上手に利用するにはどうしたらいいのでしょうか。
本当は若い時から重い物を長時間、正しい姿勢で持ったり運んだりするのが一番です [2]。自然に呼吸で運ぶ息遣いを学べます。
ただ、それは成年した人には酷な話ですし、第一、急にそんなことをすると身体を壊してしまいます。
そこで成年に向けた様々な方法があります。イメージ訓練や呼吸法、そして立禅や坐禅など一定の姿勢を持続させるなどの方法がすぐに思い付きます [3]。
しかし、こうした方法は具体的な大きな動きがないので文字で説明しにくい上、それなりに一人でやっても手応えを感じにくいかもしれません。こうした方法はお近くの武術、気功、ヨーガ、瞑想、坐禅などの教室に通って長く続けてみるのがよいでしょう。
そこで、これからの連載では柔軟性を高める運動をする中で、深層筋の利用を促してゆきたいと思います。シンプルでゆっくりとした柔軟体操なら、安全に深層筋のコリを開放してあげられると思います。また、伸ばす中で意識しにくい深層筋の存在を意識できることと思います。
コツはゆっくりと小さく動かすことです。
せわしなく動かしたり、大きな動きであったりすると表面の動きにばかり意識がいってしまい深層に意識がいきません。静かに、小さな力の動きをしばらくすることで深層の動きがつかめるのです。
大きく動かすと「いかにも」という気分にはなりますが、効果は出にくいです。大きくて、せわしない動きには緊張がつきものだからです。目標は深層部の弛緩なのですから、心身を緊張させる「いかにも」な体操はやめて下さい。
また安全の面からもゆっくりと静かに動かせてあげて下さい。そして無理に曲げたりしないで、気持ちいい程度に動かして下さい。繰替えしますが緊張させても仕方ないのです。
残念ながら、このブログはあなたの結果に対して何の責任を負うこともできません。とにかくゆっくりと動かして下さい。これは効果を出す一番の方法でもあるのですから。
[*] 脊椎による動きと音楽については音楽における「白さ」についてを参照下さい。
[1] 怒りとシコリの関係については体の中の心 - 感情は実在するかを参照下さい。
[2] 長時間、意識して歩くことによる身体感覚の補正については体の動きに気づいたを参照下さい。
[3] 意識的な姿勢や呼吸による身体意識の補正についてはできることは自然の観察のみや行住坐臥 (1) はじめにをご覧下さい。
一方、子供は皆、まっすぐ座っている。小学生の高学年になるとダメである。もう「カッコ」をつけている。もっと小さな子供である。本当に自然にまっすぐ座っている。「素直」というのは、こういう事を言うのかと感心する。頭が思いからこそ、頭の重心の位置に極めて敏感に反応している。かくして頭痛、肩凝りには無縁なのである。我々は下手に首や肩の筋肉があり、頭部を変な場所に置けるからこそ、肩やら頭やらを痛めてしまうのである(勿論、その他の理由だってあるが、結構、顎をひくだけで肩凝りが無くなる人も多いと思う)。
さて、そんな7つの重心・神経ポイントだが、「さあ、これから意識して暮らしましょう」と口で言われてもなかなかできるもんじゃない。
そこで私は考えた、題して「音と色の瞑想法」である。楽しく7つのポイントを習得し、かつ、絶対音感や色彩の訓練にもなるかもしれない練習法である。ただし、私が本日、本を読みながら突発的に思い付いただけの瞑想法なので、効果が出るかは実証されていない!
方法は簡単である。坐るでも立つでも歩くでもよい。体幹が直立した姿勢で、7つのポイントを意識するのである。ただし! その時に7つのポイントの色と音を意識するのである。チャクラと音と色で書いた通りである。
赤、ド、会陰(肛門と性器の間)
橙、レ、丹田(ヘソ下三寸)
黄、ミ、鳩尾
緑、ファ、胸の中心
水色、ソ、喉(首の中心)
藍(紫?)、ラ、眉間の奥(頭部の中心)
シルバー、シ、百会(頭頂)
最初は音階練習をしてみて、聴覚意識には音、視覚意識に色、身体意識はポイントの場所に向けるのである。
慣れれば、知っているメロディーでも口ずさみならが、楽しく7つのポイントを楽しんでみるとよいと思う。これは「移動ド」で考えても「固定ド」でもよいと思う。
メロディーをやるには色と場所が足らない! という人は、場所と色を追加してみる。ちなみに、とてもいい加減であるので、注意。
ワインレッド、ドのシャープ、会陰と丹田の間
淡い緑、ミのフラット、丹田と鳩尾の間(おヘソ?)
深いブルー、ファのシャープ、胸の上部
赤紫、ラのフラット、口の奥
クリーム、シのフラット、おデコの奥
また、和音をやると更にいいと思う。同時に二箇所以上のポイントを意識し、色を思い浮かべ、音を出す。それらが、個性を守りながらも、ふわっと溶けてゆくのを感じる。なかなか、味わい深い世界である。
逆に色を見て、ポイントと音を意識することもできるかもしれないが、そういうアイディアは浮かばない。ひとまず、音先行で十分である、もしかしたら対位法も可能かもしれないし、そうしたらバッハとかやれたらとても気持ち良さそうでわくわくする。
こんなこと興味を持つ人も限られるだろうし、興味を持っても出来る人も更に限られるだろうが、そういう人は、是非。
いい加減な性分と自他共に認識しているが、行住坐臥という一連のシリーズ(?)はなんとなく書けてしまった。今回の五回目で終了である。
行住坐臥の最後の臥とは寝ることである。その寝た姿勢が死人のように、完全に脱力することが、理想となる。
ただ、これができない。足は開くし、倒れるし、腰や肩はうくのである。冷静に硬い床の上に寝てみて欲しい。きっとどこかが浮き、バランスが悪くなっているだろう。
ただ、それでも緊張が残る。背中の湾曲が残るためだ。人は寝ていても重力に対抗するのである。
人は体軸と重力線が一致して普段生きている。寝ているときは直行するというあまりない姿勢だ。その上、普段直行するのが普通の動物では心臓は背骨の下にあるが、仰向けの姿勢では心臓や臓器が骨の上にくる。
だから、俯せもたまにやるとよいと思う。マッサージとか浮けて気持ちいいのは、案外、普段はしない俯せをしているからかもしれないとタマに思う。俯せして、足をクッションに載せてあげてしばらく寝ていると、結構気持ちいいものだ。
一方で仰向けになる時というのは死人のように放心することだろう。全てを受け入れるように。犬が腹を見せる時のように。そういう感じで寝ると、ぼーっとなっていい感じに背中が床に押されて気持ちいいと思う。
この臥という姿勢がきれいにとれるっていのは、行住坐臥の成長の現れ、メルクマールなのかなとか思う。なかなか、この不自然に無防備な姿勢で安心できないかもしれない。でも、まあ、それが普通っちゃ普通だろう。なにしろ、俺たちはまだ死んでないんだから。
行住坐臥の肝はなにかと問われれば、私は迷うことなく「坐」と答えるだろう。坐こそは生活の本質である。日常の全てが「すわっている」こと。これが、坐の文化の国の本質であると信じている。
問題はなぜ座ったのかである。椅子がなかったからではない。歴史上、日本に椅子が入ったことは何度もある。しかし、その都度、日本の家屋からは自然に椅子は排除されたのである。腰掛けることと坐ることは本質的には別のことであると思う。
勿論、人類に当初、椅子はなく、地面に腰を下ろしたことだろう。このことから「日本人は地面に腰を下ろしたことに満足して、椅子という智恵を生みださなかった」と考える人もいるかもしれない。
私はそうは思わない。
坐は人類の智恵である。椅子よりもはるかに高度な智恵である。そう私は訴えたい。
なぜか? その問いに答えるためにも、坐ることを確認しよう。
坐ることは腰を掛けたり、下ろしたりすることではない。もし、日本の坐が、現代人のそれのように、ただ地べたに腰を下ろした状態であったとしたら、確かに坐ることは智恵ではない。私が言いたい坐とはそのようなものではない。
坐とは足を組み、姿勢を正すことである。この方法、この智恵の全体のことを、坐と呼ぶのである。坐とは足を組むなかで、自然に人間の姿勢が正されるような、そうした坐り方なのである。つまり、足を組んで、姿勢を正そうとするのでは、坐の意味はない。その坐法をとれば、自然に姿勢が正されてゆくような、そうした坐り方なのである。少々大袈裟だが、こう言えば、坐が椅子以上の智恵だということは理解して頂けるだろうか。
強いて言えば、こうも言えるかもしれない。自然に姿勢が正されぬ坐り方など、坐ることではない、と。意識しないと姿勢が整わないというのは、座れていないからである。整った姿勢が楽になるような坐り方なのである。脱力しても、たとえ気を失ったとしても、いや、たとえ死んだとしても、会陰から百会がまっすぐに保たれる坐り方なのである。それが、理想の坐である。他に坐はない。
坐ることで、姿勢が整い、そして姿勢が整うことで、精神が安定してゆくことを、坐の文化を持つ国の人間は発見したのである。以下、「坐ること」や「坐」とはこの意味でのみ使う。
ここで賢いあなたは、疑問が湧くかもしれない。「楽で、まっすぐがいいなら、寝ればいいじゃん? 楽だよー」と。
難問である。
当初、私は「そうしたら寝てしまうからではないか」と思った。これは間違いである。座っていても寝るときは寝るのである。そして気合しだいで臥せながらも、瞑想状態には簡単に入れるものである(というか、坐るよりも寝た方が初心者にはやりやすいと思う。別にそんな状態に入ったからエラいわけでも何でもないが……)。
私は大いに悩み苦しみながら、寝ることと坐ることを繰り返した。そして、数々の失敗と挫折の中から様々なことに気がついた(いつか書くかもしれない)。そして、実は寝る方が、脱力しにくいのではないかということに気がついたのである。つまり、完全に脱力した時にどうしても違和感が残るのである。
これは私が寝る脱力が下手なせいもある。特に腰のあたりの脱力が苦手である。しかし、私が個人的に考えるには、ヒトの腰はそもそも湾曲を描くものであり、寝て脱力すれば、この湾曲は失われる。そして、その湾曲が失われた状態というのは、ヒトにとって、理想的な状態ではないのではないだろうか? こう考えたのである(ただし、臥は、やはり行住坐臥の究極だろうから、次回にこうした問題も詳説する)。
そもそも、仰向けで一時間も二時間も集中(?)するのは難しい。そもそも、そんな長時間眠ってもいないのに寝ているというのは、精神的なかなかできるものではない。15分か30分もすれば確実に馬鹿らしさが襲ってくる。勿論、私が未熟だからかもしれないが(まあ、一体何に未熟なのかすら分からないが)。
また、私は床擦れなどの医学的な問題に無知だが、やはり、臥せてみじろぎしないでいると、むずむずしてくるものである。一度、本気で究極の臥に挑戦しようと努力して頂ければ理解頂けるものと思うが、どこか、違和感があるし、なんというか難しいが、頭と胸と腹の流れを感じるわけだが、その流れの線がよじまがっているように感じるのである。
それに比べると、坐のなんと安定することか。結跏趺坐などでは当然のように長時間静止できる。そもそも、座れば坐るほどに、姿勢が安定してくるのである。自己の内にある軸に(それは時計回りに回転しているように個人的には感じている)意識を合わせながら、沈みこむように下へ下へ脱力すれば、自然に、おのずから、すうーっと上に上にと伸びてゆくのである。何度やっても不思議である。個人的は、特に鳩尾の辺りと、首の辺りの脱力の感じがとても不思議である。両手は印を組むなり合掌するなり、ただ重ねて置くなりすればいい(用途による)。
そして坐禅や瞑想の真似事やら、読書やら思考やら勉強やらをするわけであるが、まあ、こんな胡散臭い話、誰も信じてはいけません、と一応書くが、それでも、当然のように読書のスピードも早いし(まあ、ちょっとね)、考えても鋭いし(これは、まあ、気のせいかもしれないけど……だって計りようないしね)、なにより確実に言えるのは記憶力がよくなるのである(これは本当です、はい。おすすめです。記憶力には持論があるので暇があれば、また書きます)(ちなみに、残念ながらパソコンは「坐」してはやってません。本は書見台があれば、ひょいっと手を動かすだけで済むけど、パソコンとか執筆は両手が動いてしまって軸がとれないから)。
科学的には分からないが、人間は脱力してても背骨のS字湾曲は保たれた方が違和感がないのだろう。実際、ちょっと仰向けに寝てみても腰のあたりは浮いてしまうのではないだろうか? 力を抜こうとすればべったりと背骨が地面に着くだろうが、案外、そうした状態は気持悪く感じはしないだろうか?
なぜ、すわることで気持ちよく脱力できるのかは不明だし、そもそも力を抜いてまっすぐなど合理的じゃない。しかし、恐らく、人間は直立するように進化したのであって、その直立した状態での頭の働きがよくなるように作られているのではないかと思う(根拠なし)。湾曲が保たれた状態が自然であり、その状態で脱力することが神経や内蔵にもいいのだろうと勝手に考えている。
そして、重心の軸と体軸とが重なる状態というが理想なのではないかと思う。こうした重心と体の軸の知覚の問題は重要なので、この話は別の機会にまた詳しく書きたい。たぶん、重力の問題が坐における安定と関係が深いのだと思う。
さて、こうして書いてきて、「じゃあ、どう坐るんだ?」と興味を持つ方もいるかもしれない。まあ「基本は結跏趺坐である」とか「呼吸が身体の動きとして感じられるようになれ」とか「鳩尾と首の脱力はバランスの……」とか、ごちゃごちゃ教えたいが、これは、どうも書くのは難しい。というかメンドイ(だからいつか書くかもしれない。私は普段は書くのが嫌いであるが、たまに発作のようにどうしても何でもいいから書きたくなる。こういう病気なのだろう)。
それに書いたとしても間違いが多いだろうし、お近くの禅寺かヨガスタジオに行くのが、確実であると思う。坐とは技であり、習得のために練習の必要があり(股関節や膝関節の柔軟性も必要である)、口で言うよりも実際にやってみて、できてる人に直してもらうのが早道である。そうすれば、ほとんど全員がこの技を習得できるものと私は考えている。
自分で理解できてない「歩き」や「立ち」はごちゃごちゃ書いておいて、理解できてるつもりになってる「坐り」は「じゃ、寺やスタジオへ行って下さい」と投げてしまって書かないというのは、本当に私の性格の悪さを示す好例だと、我ながら関心する。あくまで書く中で、自分のために整理したいのであり、ハナから人様に何か有益なことを教えようというつもりがないのであろう。まったく、困った男である。
ところで、ここまで書いておいてなんだが、私は禅寺やヨーガスタジオに行ったことはない。人など信用していないからである。また、ヨーガの本も坐禅の本も読むには読んだが、やっぱり、本など全然あてにしていない。完全に我流である。「おいおい」と思う人もいるだろうし「はは、そうだろお前みたいなタイプ」と察っしている方もいるだろう。だから、私の書いたことも信用しないで欲しい(ただ、最近は立つことや歩くこと、お辞儀などを人に習いたいな、とも思う)。
ただ、現在の私の感覚から言えば、実は坐とは結構、基本的な技術だから、これなら人に習った方が早かったな、という感じである。それほど間違いを教える人はいなさそうだな、というのが実感である。そして、本を見てもほとんどの人が同じようなことを書いてあるのであり、そうしたことからも、間違いをしている人が少ないのが分かる。
ただ、たまに変なことを書いている人は居るにはいる。いや、結構いるな……。うーん、書こうかな……。うーん……。あー……
うーん。
あー……。やめた。この人、有名すぎるし、「信者」多そうだもんなぁ……。うーん、ヒント出したら一発でばれちゃうし……
あー……
まあ、いいや、とにかく「自然に楽になる」「沈みこむと、不思議と浮いてきて、まっすぐ」「軸の意識(ただし無理してじゃなく、自然に。バランスの結果としての軸)」ということは一般に言えると思うし、これに反してるような教えは、ちょっとおかしいんじゃないかと思う。
坐というのは行住坐臥の肝であると始まって、なんだか、こう書いていると「簡単」みたいだが、なんというか「簡単」なものなのかもしれない。これは、足を畳み、手も組むなり置くなりするので、体幹だけに意識を向けられるからかもしれない。つまり、小手先になりようがない。だから、本来の意識になりやすいのだと思う。
こうした坐の感覚を十分に身体化させ、それを行住坐臥にいかしてゆくことが大切だろう。もちろん、坐禅や瞑想などもお好みでやるとよいかもしれない(胡散臭いと思う人はやらんでよいが、残念なことにこんな文章を読む哀れなあなたは、きっとほっといても瞑想とかしてしまうことだろう)。
ところで、「すわりがいい」とか「すわってる」とか言うように、昔の日本人にとってすわってることは大切であり、そして、その感覚はほとんどの人が持っていたんだと思う。「ハラがすわっている」という言葉の質感を日常で持っていた日本の昔の人に対し、「ふーん、なるほどねー」と思うし、まあ、結構、今からでも習得しようと思えば、できないことはねーな、とか思ってみたりしている。うむ、「ハラのすわった人」ってのに、ちゃんとなりたいもんだ。
分かる人には分かって書く意味がないし、分からん人には分からんことを、また少々。
俺らは地球に立っている。いや、球なのかどうか知らないが、とにかく地面に立っているよね?
これ、行住坐臥の時に感じる? つまり「地面があるな」って感じを。
まあ、この意識レベルでバイバイの人だらけだろうけど、もし「うん、地面がある」という意識を持って行住坐臥できる人は更に考えないかな? つまり「んじゃ、地面って何だ?」とか。
まあ、考えんわな、おーけ。バイバイ。
まあいいや。
球だか面だか知らんが、まあ「地」と呼ぼう。
姿勢と呼吸を極めようと思えば、必ず「地」と、それに不随して「天」の問題は外せないよね? 俺たちは地の上、天の下で、構え、呼吸をしているわけ、というか、構えと息は一致してたりするんだけど、まあ、これはまた別の機会でも。
今回考えたいのは、この「地」とは何か? と。
これは重力の問題だ。あんま引力とかって知らんけど、確か引力ってのがあって質量が大きいと物質を引付けるらしい。んで、地球は十分にでかいので、俺ら人とかが引かれてるらしい。個人的には今でも「まじかよ?」って感じだけど、まあ、そういうことらしい。
んで、この地球の引力が重力なわけで、地球が俺らをひっぱるわけだ。んで、そのひっぱってるのが「地」なわけ。
だから土じゃなくても地球の引っぱる力を感じさせるものであれば、それは「地」になる。
つまり、「地」とは重力の主体、というか重力という力の存在そのものなわけだ。「力」とか「存在」「主体」「行為」とかの話もメンドイから別の機会に。
んで、「地」は重力として俺らに働きかける。それだけじゃない、空気やらも重力によって俺らにのしかかっている。
だから、俺らはそれらに姿勢をとる。それは、重力との関係だ。
人類よりも先に重力があり、人類は重力への関係を「這う」より「立つ」ことに求めた。
上へ上へと伸びることで、一見逆説的に、重力と和解したのである。そして、自らの体軸と重力の線を重ねることで、強い中心と軸を持って生きてゆくことになった。
歩くとき、軸を感じられるかどうか。この問いは、歩く時に「地」を感じられるかという問いにつながる。
地が自らの下で動いていること。自らが中心として静止しつつ、重力線と体軸を一致させつつ、足の下の地が動きさってゆくことを感じること。
地の上を歩くのではない。また、地が自分を引くのですらない。
自分が地を引きつけているのであり、地が足の下で動いているのである。
自らの中心と軸の変化の結果として、地が動くのである。これは重力とのたわむれであり、自らが重力を扱うことである。
ここにおいてはじめて、私達は「重さ」を理解し、「力」を理解するだろう。
あくまで、力は己の内部のものである。己の中心を外部に求めてはならない。
重さの力を扱うなかではじめて、私達は動くことを学ぶ。いや、逆か。動く中で、私達は重さを学び、力を学ぶ。
重さと関係しない力はなく、重さと関係しない動きもない。
動きの中に「重」と「力」があることは偶然ではないのだろう。
そして、そのためには、強い軸と中心の意識が必要である。
意味不明。
前回に続いて、現時点の私の理想の立ち方について。
実は、立つ方が歩くより理想作りが難しいと現時点では感じている。歩くことは、重心の移動であり、その効率化の理想は打ち立てやすい。歩くことの究極は、重心の軸を一定の速度で移動させること、滑ることにつながる。軸を身体を一直線につらぬきながら、足首、膝、股関節、腰などにかかる負荷を最低限にすることはイメージとしてはつかみやすい。
しかし、立つことは違う。
人は何故、立つのだろう? とついつい考えたくなってしまう。
現時点での私は、「立つ」ことを以下のように考えている。
伸ばした平らな手の平の上に、傘の柄を載せ、傘を逆立ちさせてバランスをとっている状態だと。
握らずに、ただ載せただけで、倒れないように、落ちないように、バランスをとっている状態だと。
それほど、不自然であり、長時間立つには技が必要なのではないか、と。
技術的には、骨盤を垂直に保つことがなにより大切なのは分かっている。
そして、これがまず難しい。
方法としては、恥骨と腸骨の三角形の平面が、垂直になるようにするのではないかと感じている。
そうすると、腹と背/腰の力の按配が安定する気がする。
方法としては二つあると思う。
一つは上からぶら下げる方法で、腹と背を胸からぶら下げるように脱力し、骨盤を揺らしバランスを確認しつつ、会陰を締め上げてゆき、肚をその上に重く落とす(載せる)という方法。
もう一つは、下から積み上げる方法で、内踝からの垂直線状に会陰が来るように配置し(そうすると恥骨はやや前になる筈。また、股関節はやや前に付いているので、股関節に張りを感じるかもしれない)、そして、その前方に出た恥骨のあたりを軸に肚を載せて揺らしながらバランスを図るという方法。
現実的には上の方法の組み合わせであり、そのどちらの方法でも、あとは、その肚の上に胸を載せ、首を載せ、頭を載せるということになる。
そして何より、傘を手の平でバランスさせて立たせているように、会陰の上で、骨盤や胸、首、頭をバランスさせて載せているとイメージする必要がある。頭頂から会陰まで、天高くから地中深くへと伸びる、無限に長い、銀色の細い棒が通っていると感じること。
本当にバランスが整うと、上半身が驚く程、軽く感じられる筈だ。
頭を載せるコツをもう少し詳しく書く。
まず顎の下を脱力し(耳から顎がぶら下がる感じで。そうすると顎の下が凹む)、次第に頭頂が糸で天に吊られているイメージで、垂直に高くしてゆく。
そして、首が真っ直ぐになるのを感じながら、第一、二頚椎のあたりを脱力する。
そうすると頭部は前にいろいろ付いているので、頭部が前に転がり落ちる感覚になると思う。それを感じながら、重心を調整するために、やや、頭部全体を後に水平移動させる。
そうすると眉間と耳を結んだ辺りに、頭部の重心を感じると思う。
その重心を前後左右に揺らしてみて、丁度、首の上に乗る場所を探す。
とても難しいが、うまく乗ると、頭部が「ふわっ」と上に浮く感覚があるのですぐに分かると思う。
私は二十代後半にして初めて首の上に頭を載せるのに成功したので、最初、ポイントを見付けられた時はかなり感激した。即座に肩凝りとはオサラバとなった。
逆に会陰は、内踝の上にすえる。
この状態では、感覚としては、やや前につんのめった印象があるかもしれない。
しかし、これは人体の前後の重心がそう出来ているからであり、安定させるには、膝を緩めていけばよい(ただし、この時も、骨盤の角度を垂直に保つこと。もちろん、膝を緩めなくてもよい。しかし、緩めない場合には、股関節への意識と、その柔軟性が必要である)。
以上で、立てる筈である。
しかし、下から考えて、内踝、会陰、肚、胸、首、頭、頭頂(百会)を一列に載せるというのは、なかなか出来るものではないと思う。
できたとしても、それを持続させるのは、並のことではない。
立つことは、口で説明するより、自分の体で感じてゆくしかない。(全部、そうなのだけど、特に立つのは)
そこで、立つ練習をすることしかないと私は思う。
少し負担の大きい立ち方をすることで、体が「その姿勢じゃツラい」というのを学ばせる方法だ。
具体的には、「空気椅子」か「股割立ち」をする。
空気椅子とは、膝を曲げて、椅子に座ったような姿勢で立つことだ。
余裕があれば、踵を浮かして立つのもよいだろう。
股割立ちも、膝を曲げる運動であり、効果は空気椅子と同じだ。
まず、足を広く開き、次に、足を股関節から外旋させ、足首と膝を同じ方向に向ける(決して、足首や膝を回転させてはならない。股関節だけを旋回させること)。
次に腰を落してゆく。理想的には膝と膝の水平線上に恥骨が来ることだが、股関節の柔軟性がそこまで無い場合は無理をしない。
この股割立ちの方が臀部や肚の力具合が掴めやすいかもしれない。
この姿勢で、踵を浮かすと蹲踞の姿勢となるだろう。
この姿勢は膝に極端に負荷がかかる。
だから、もし、やるならこれから言うことに、本当に注意してやって欲しい。もし、以下のことが出来なかったり意味が分からないなら、やらないこと。
まず、最初は少しの時間しかやらないこと。次に、無理はしないこと。痛みがあれば、絶対に即座にやめること。
そして、これがこの姿勢での体操の肝なのだが、これは足の負担を臀部の負担に移行させる練習なのだと思って欲しい。
落ちて来る体幹の重さを会陰で上に押し上げ、曲がってくる足を臀部と肚の力で押し返すのである。決して足の力を鍛える運動ではない。
普通の感覚で空気椅子をすれば膝に負担が掛かり、膝や太股前部が疲労するだろうが、そうではなくて、臀部と肚の力で足をコントロールして引っ張るようにして欲しい。
踵を浮かした場合も、脹脛の力で浮かすのではなく(そんなことをすれば脹脛はすぐに疲労する)、足首の可動域の限界まで足首を曲げることで、自然に足首が浮いてしまうという状況にすること。そのためには膝を曲げる必要がある。
膝は疲れやすいし、壊れやすいが、肚や臀部はとても強力だ。弱い場所よりも強い場所を使うことを、自然に体で身に付けて欲しい。
そして、そうする中で骨盤を立たせる姿勢が自然に身に付くのではないかと考えている。
とにかく、空気椅子や股割立ちは、体幹を鍛え、強力な骨盤のコントロールを学ぶ運動であることを忘れないように。
上記の運動が正しく行われた場合、確かに疲れるかもしれないが、立ったり歩いたりするのが「軽く」感じることと思う。
立つのも真っ直ぐと感じ、歩くのも床の上を滑るように感じると思う。
これは、勿論、急に負荷が減ったことによる負荷の錯覚や、疲労による麻痺が原因というのもあるだろう。
しかし、無駄な筋肉を使うのをやめた結果であることも見逃せない。体が立ち、歩く効率良い方法を学ぶのである。
そうしたら上記の立つことの説明にあるような身体のパーツを串刺しにするイメージをもって立ってみて欲しい。
きっと、浮くような軽さを感じられる筈だ。
立つことは、こうした運動と確認との繰り返しの中でやっとできることなのかもしれない。
ただ、結果として、やはり、前につんのめる印象は残ると思う。
ほうっておくと、前に倒れそうになり、それが故に、歩き始めてしまうのだ。
これを膝を曲げることで解消してもいいが、歩き出す直前の状態としてキープしておくのもいいのかもしれない。
そうすれば、すぐに動き出せることで、フットワークの軽さも光るし、動くのが億劫でなくなる。
現代人にとっては、どっしりと安定立つよりは、恥骨がやや前に張った状態でやや不安定さは残るが、膝の負担はなく、すらりといつでも動けるように立つのが、いいのかもしれない。
どちらがいいのか、現時点の私には分からない。本当に一長一短に思う。
しかしながら、「理想の」と考えている以上、時代や目的で立ち方があるのは私にとっては気持ち悪い。
やはり「理想」は一つであるべきと信じる。
前回だって様々な歩きがあるのを承知した上で、一つの歩きを「理想」としたのだから。
この文書というかブログは現実の話をしているのではない。
理想の話をしているのだ。
そもそも、殆どの人間がそれなりに生活に問題ない程度に立てていることくらいは私だって知っている。
考えるに、結局は立つとは、歩くことと坐ることの中にあるものと納得するしかないのかもしれない。
膝を曲げれ安定させるのは坐ることの途中ととれるし(事実、「空気椅子」や「股割立ち」「蹲踞」は坐ることに近い)、膝を伸ばせば、歩く一瞬前という感じだ。
考えれば考えるほど、立てば立つほど、理想の立ちは見えてこない。
そして考えれば考えるほど、行住坐臥という言葉の中で、住という字の坐りの悪さを感じずにはいられなくなる。
なぜ「住」なのか?
私はアホでバカで本当に恥ずかしいのだが、分からない。
そして調べることもせずに、妄想で考えて申し訳ないのだが、「住」とは「行」と「坐」との関係の中でのみ、立つにしかならないのではないだろうか?
考えるに、「行」とは行くことであり移動である。また「坐」とは、一箇所に腰を据えて落ち着くことである。
住とは、移動もなく、かといって、腰を据えるでもなく、ただ、「いる」「とどまっている」ということでしかないのではないか?
少し言葉にひっぱられ過ぎたかもしれない。
結局、現時点の私には立つことはよくわからない。
「自然体」は、私にはほど遠い。
残念だ。
私の現時点での理想の歩きについて
まず、なぜ立つよりも歩くが先なのかと問うかもしれないが、人間は立ったら歩いたのではない。歩いたから、立ったのである、と答えたい。
ま、そんなわけで、歩くことはとても大切です。ヴィパッサナー瞑想とかでも歩く瞑想が初心者に一番やりやすいと書いてあるし。
ま、そんなこんなで。
効率的な「歩き」は、ロボットのようであり、アボリジニーやネイティヴ・アメリカンのようでもあり、能や相撲のようであり、黒人のダンサー [1] のようであると私は考えている。
そして、現時点での私にとっての理想の歩きを言葉にすれば以下のようになる。
身は真っ直ぐに伸ばし、かと言って、腰を反らせたり尻を突き出したりせず、
尻、肛門、恥骨、肚、臍に力を込め、とはいえ胃のあたりの腹は空洞のよう力を抜き、
胸を進行方向に向け、とはいえ、胸を張るわけではなく、
脇を締め、肩の力を抜き、
そのまま足首から前傾させて重心を前に移動し、軸足は、踵で踏みながら、重心を感じつつ、
爪先が浮いて来た前足を、肚で滑らせるように運ぶのである。
そして、前足を今度は軸足とし、踵を踏みながら、その足の中で重心が移動する感覚を大切にしながら、同様に腰で後ろ足を運ぶのである。
膝は自然に緩め、必要があれば伸びるのも構わない。特に、歩幅を広くとった時や重心が高い時のの後ろ足の膝は伸びるだろう。
また、常に、足首より、膝頭が前にあるべきと私は考えている。そうで無ければ踵が踏めない。前足であっても膝頭は踝より前方に位置する。つまり、脛骨は常に前傾する訳だが、そうでなければ、前進にブレーキをかける力を生むだろうし、その摩擦や衝撃は膝や足首、腰などに負担をかける筈だ。
踵は常に地面に着くべきであるが、足首の曲がる範囲を越えて膝が前に出てしまい自然に踵が上がるのは問題ないと考える。特に、深い踏み込み、強い前傾姿勢では、足首の曲がる範囲を越えるため、踵は浮くだろう。
思うに、「歩く」とは、踵を前に出すことではない、踵で体を押し出すことである。
また、足が体を運ぶのではない、肚で足を運ぶのである。
どんな状況であれ、つまり、前傾であれ後傾であれ、前進であれ後進であれ、軸は常に安定させる。つまり、どの方向から急に押されても、対応できる姿勢でいることが大切である。
また、理想的には、頭は全く同じ速度で、ブレることなく、進行方向に移動する。「歩く」ときには、どんな状況であれ、頭は常に軸の上にある筈であり、その軸の移動を足裏で完全に意識しつつ進むのであるから、頭は完全に一定速度で進む筈である。前に進むのであれば、頭は上下左右にブレることはない。鏡に向かって前進すれば、頭が静止しているように見える筈である。
私はそれが最も効率のいい歩き方であると現在は考えている。
まあ、ゆっくり、じっくり長い時間をかけて身に付けるというか、自然になってゆくというのが大切ですので、別にこれを読んでも仕方ないとは思いますが [2]。
脊椎という体の中心から感じられるリズムかどうかが重要なのだ。首、背骨、骨盤という中心を動かしたリズム感だと「黒い」と感じるのだ。逆に言えば、中心が動かず、小手先を動かすのでは「白い」と感じることになる。踊りで考えると分かりやすい。たとえば手を挙げるとする。ただ、手だけで手を挙げるのが「小手先」であり、足腰の振りで手が自然に挙がるのが中心からの手と言える。音が「こーゆー音がココに出てればオーケー」というのが小手先であり「ノリに合わせてたら自然にソコに音が出た」というのが中心からの音と言える。
この文でも書いた通り、黒人か否かが大切なのではない。体幹で動くか小手先で動いているのかが、大切なのだ。
本文での「黒人ダンサー」というのは小手先で動いてない踊り手という意味だ。残念なことに、現代では黒人であっても小手先のダンサーをよく見掛けるようになった。 [2] ここんとこ、できることは自然の観察のみ 2006/12/09に詳しい。
ある動作に対し、注意を向け続けることで、身体の方が自然に合理的な動きを獲得するのである。これは身体を用いる動作のほとんどに言えることだろう。意図して動きや意識を変えようとしてはならない。それは「わがまま」であり、「無理」を生むことにしかならない。いや、幾分かは練習にはなるから無益ではないが、それでは本格的な身体意識、身体動作の向上にはつながらない。
「わがまま」つまり「我が思うまま」に動かすのではなく、「ありのまま」「あるがまま」が大切なのである。そして、そのためには、身体の意識・感覚・動作などの観察しか私達にできることはないと肝に命じよう。変化という「自然」を見て取ることしか私達にはできない。
意拳という中国拳法がある。
創始者の名は王向斉といい、彼は「国を代表する達人『國手』であると人々から賞賛されていた」。そして彼の創始した意拳は「中国武術の精髄を集大成した拳法との意味で大成拳とも呼ばれる」 [1]。
その「中国武術の精髄」である意拳は、他の中国武術と違い「套路を持たない」。つまり型稽古がないのである。
「修行法としては站樁(タントウ、立禅)によって架式(適切な姿勢)と内功を練ることが中心となる」。
つまり「立つ」ことで、適切な姿勢が自然に身に付け、それにより「気」の力を得ることが修行の中心となるのである。
また、その意拳を学び、太気至誠拳法を創始した澤井健一も、「立禅」と「這」(ハイ、ゆっくりと粘り這うように歩くこと)を修行の根本とした [2]。
武術とは、ひとつの身体の究極である。
その武術において、「立つ」と「歩く」がこれほどに注目されることは、注目に値する。
立つことができ、それで歩ければ十分ということだろうか。そして、手は後からでもついてくる、ということだろうか。
考えるに、戦いにおいて、力(筋力)や技は有効である。しかし、力(筋力)には限度があり、状況は無限にあるが故に技も無限にあり、全ての技を身に付けるのは不可能である。
力でもない、技でもない、本質的な力が求められるのである。
あらゆる場において有効な力とは、身に付いている姿勢と「気」ということになるのだろうか。
また、昨今の深層筋「ブーム」にも目を向けたい。
深層筋とは表面にある筋肉と異なり、意識的に動かすことが難しい筋肉である。姿勢保持や呼吸などにも関わり、力も強く、持続力もある。
それ故、使えるか使えないかの差は、非常に大きい。
深層筋を鍛える/意識するためには、動作を遅く、長く行わなければならないとのことである。
「立つ」と「歩く」によって得られる力の一つに、この深層筋の力があると私は思う。
長い時間、立ったり、ゆっくり歩いたりすることは、実は難しい。
普通の立ち方でも歩き方でも、なかなかできない。特に意拳で行われるように、踵を浮かした中腰で両手を顔の前に上げて立ったり、這うように歩くのは、普通は長時間はできない。
立てば直ぐにふくらはぎや太股前部、腰の筋肉が痛くなるだろうし、歩けば軸がぶれてしまうはずだ。
これは表面の筋肉を使っているからであり、軸の感覚が弱いからである。
「立つ」と「歩く」を鍛えると、表面の小さな筋肉を自然に使わないようになり、奥の大きな筋肉を使えるようになる。また、軸の感覚も安定する。
日本の芸能の多くは「摺り足」を重視する。
これは、深層筋をフルに使い、軸を安定させて歩く結果なのだろう。
高く足を上げるのは無駄なのだ。
足を前方に運ぼうとすれば、脛の表面の筋肉の働きでなく、深層筋の力で自然に爪先が受くはずだ。そうすれば、踵を付けたまま、滑らかに重心の移動に合わせて足を運べる[3]。
そして、その効率的な所作に日本人は美を見出したのだろう。
どうように能が武士階級のものであったことも注目したい。彼らは見るだけでなく、自身も演じたのである。つまり、深層筋を有効に利用した歩きを自身も練習するための場でもあったのだろう。
この行住坐臥の文化について、ちょこちょこと書いてゆきたい。
最後に偉大な人の言葉を二つ。
荘子
真人の息は踵を以ってし、衆人の息は喉をもってす
王向斉
拳とは何か? 拳とは力を奮い起こすことである。局部の方法ではない。
意拳(いけん・yi quan)とは王向斉によって創始された中国武術。 中国武術の精髄を集大成した拳法との意味で大成拳と呼ばれることもある。(意味には別説あり。) 中国武術は複雑な套路(型)を持っている門派が多いが、意拳は套路を持たないことを最大の特徴としている。 修行法としては站樁(立禅)によって架式(適切な姿勢)と内功を練ることが中心となる。 また散手(組手)を積極的に行っており実戦武術としての評価も高い。 意拳の流れを汲む武術として太気拳(太気至誠拳法)、 韓氏意拳、 心会掌 、神意拳などがある。
王向斉(おうこうさい・王薌齋1886年 - 1963年)は、中国の武術家。意拳の創始者。[2] 木村文哉『武道的身体のつくり方』(2005、河出書房新社)に「澤井健一から、盧山が習った稽古法は『立禅』と『這』だけだった、と盧山は言う」とある。 [3] 多くの摺り足では踵が受くが、それは不自然に思う。少年時代に形意拳の代表的な達人であった郭雲深の閉門弟子(最後の弟子)となり、武術を学ぶ。 その後、南北をめぐって数々の中国武術を研究し、そのエッセンスを抽出して創意工夫の末に意拳を創始する。 実戦でのずば抜けた強さから当時、国を代表する達人「國手」であると人々から賞賛されていた。比武(試合)においては、王がただ相手に軽く手を触れたように見える何気ない攻撃を繰出しただけで、相手はまるで落雷に遭ったかのような衝撃を受けて倒れてしまったという。また対戦相手は王の動きを目で捉えることができず、まるで顔が七つあるかのようにも見えたという。
王の著名な弟子には姚宗勣、澤井健一などがいる。
浮かしたとしても、それは脹脛の力ではなく、足首の曲がる限界まで来て、結果として踵が浮いているという状態だろう。体を動かす力に使う程、脹脛は強くない。
宮本武蔵『五輪の書』に以下のようにある。
足のはこびやうの事は爪先を少しうけて踵を強くふむべし、足の使ひやう時によりて大小遅速はありとも常にあゆむが如し、足に飛足、浮足、ふみすゆる足とて是三つ嫌ふ足なり、此道の大事に陰陽の足と云ふことあり是れ肝要なり、陰陽の足とは片足ばかり動かさぬ物なり、きる時、引時、受る時までも陰陽とて右左ゝゝとふむ足なり、返すゞゝ片足ふむことあるべからず、能々吟味すべきものなり
尚、踵を浮かす健康法というものがあるらしいが、私は賛成しない。踵を浮かせば、脹脛に疲労がたまり、ひいては大腿四頭筋が固まり、最終的に腰を痛める筈である。その影響は首にもいくだろうし、膝も壊しかねない。
そうした人の脹脛にあるツボを押すと激痛が走るものである。ここでのコリは、漢方やアーユルヴェーダで考えると、冷え性や頭痛、便秘などの原因になる。
同様にハイヒールも良くない。これも「足を細くする」などと言っている者がいるが、上述の結果となるに決まっている。
意識してではない。自然になった。
「その動かし方、ちがうよ」
首と腰、足が自然に動いた。
自然に、動作と姿勢を補正した。
「わがまま」つまり「我が思うまま」に動かすのではなく、「ありのまま」「あるがまま」が大切なのである。そして、そのためには、身体の意識・感覚・動作などの観察しか私達にできることはないと肝に命じよう。変化という「自然」を見て取ることしか私達にはできない。
身内と禁煙について話した。雑感を少々。まあ、どうせ、いつもの通り、うまくは言えないし、最後は「業」だとかなんだとかぼやくだけなので、そういうの嫌いなひとはあらかじめ。ということで。
禁煙って最近はやってるでしょ? んで、周りでも何人かいるわけです。「タバコ止めるぞー」とかね、宣言するわけです。すると周りの方々も「がんばれー」とか「気合いだぞー」とか言って、なんて言うのかな、「応援」ってやつをするわけ。
「気合い」だとか「頑張る」だとかって、そういう問題じゃないでしょ? だいたい「応援」って何だよと。中には「お前の精神力が試されていると思って」とか言う人もいるでしょ? いやー、そりゃないでしょ。っていうか「精神力」ってなに?
「やめる」とか「やめない」とか、そういう問題じゃない。欲望とは湧いてくるものであって、その欲望が湧いているうちは「禁煙」は成功していない。欲望は俺たちのコントロールの外にある。「禁煙するぞー」と思わなくなったときに禁煙は完成する。
だから、禁煙から離れて初めて禁煙はなる。それは自分の心身が「吸う」とか「吸わない」とかと別の次元に行ったときに成功する。「吸わない」といううちは成功できていない。もし、無理してるとしわ寄せが来るはずだ。また、ストレスで周りに迷惑ってのがオチ。
まあ、欲望をコントロールすることはできない、というのが俺のスタンス。我慢とかってのは、結局よくない、と思う。無駄なこと。
「おいおい、それじゃあ、人間の努力ってのは……」と思うかもしれない。うん。俺は基本的に努力だと思ってる努力というのは全て無駄だと思う。というか、それがもとで、変な方向に病んでいってしまうんじゃないかと思う。
「努力」というやつで目先の利益は掴めるかもしれない。でも、その努力で心身のどこかが病むことがある。何かにとらわれてしまうことがあるんだ。それは、とっても恐ろしいことだ。まあ、ならんとわからないけど、ならんほうがいいと思う。
「うん、俺、タバコいらんな」となるのが筋だと思う。っていうかそうなる筈。俺たちは「うん、とらわれてたけど、いらんな」「捨てた方が楽だな」という瞬間がある。努力じゃない。意志だとか精神力だとか気合いだとかじゃない。じゃあ何か。
それは気づくことだ。シンプルに、とても乾いた幸せな気分で、それが「いらない」ことに。それが「無駄」なことに。だから「禁煙」というやつで大切なことは「禁煙」しようという意志じゃないんだ。自分を見つめることなんだ。自分の動作に意識的であることなんだ。
タバコの箱を手にする自分を見つめるんだ。別に「やめよう」とか「いいじゃん」とかいう問題じゃなくて、ただ、見つめるんだ。そして、自分の心身の動きを観察するんだ。静かに、ゆっくりと。
自分がライターに手を伸ばす。火を付ける。そしたら、そうした自分を見つめるんだ。ネガティヴでもポジティブでもどうでもいい。静かにタバコを吸おうとしている自分を見つめることなんだ。その時、その場で、何がおきているんだ? それを見つめることだ。
ある日、タバコを吸おうと箱を見たとき、「ああ、吸う必要はないな」と思うかもしれない。あるいはある日、タバコをくわえ、ライターの火を見つめたときに、「ああ、いらないな」と感じるかもしれない。自然に、シンプルに乾いた気分で、気づくことができるんだ。逆に必要だと思うかもしれない。そしたら、それで結構なことじゃないか。
ただ、惰性をやめることなんだ。俺たちは惰性にとても弱い。その惰性を少しずつ意識的に減らすことで、本来の自然な心身に戻ることができるはずだ。
気合いだとかそういうモダンな概念じゃなくて、自然な治癒力に賭けた方がいい。そのためには惰性を排すること。自然に自分の心身が気づいてくれるよ。無理はとても危ないことなんだ。
いまインドがマイブームだ。仏教からヴェーダ、ウパニシャッド、六派哲学、ヨーガ、アーユルヴェーダと興味は尽きない。
ところが、別に「インドに行きたい」とか「インドについてちゃんと学びたい」とかいうわけではない。なんというか、必要なことをしぼっている感じだ。そのヒントをインドの文化に与えてもらっているという感じ。
必要なこととは何だろう?
自分がコントロールしなければならない物事が世の中にはある。逆に、自分がコントロールしなくてもよい物事も世の中にはある。その中で、自分でコントロールしなければならない物事を学ぶのが大切だということに、やっと最近気がついたんだと思う。
あたり前だって? そう、当たり前だ。だから、自分がコントロールしなければならない物事を優先して学ばねばならないと思う。
そして、自分でコントロールしなければならない物事っていうのは、つまるところ、心と体だと思う。あとは精神っていうか、意志というか、志みたいなのもコントロールするべきものだと思う。でも、ひとまず意志は後回し。
自分の体を健康に保つことが、ひとつの大切な義務だと思う。そのために、自分の体を知らなければならない。
体のやることはつまるところ行住坐臥につきる。つまり、動く、立つ、座る、寝る。
それらを見直すと、結構、自分の体の使い方を知らないことに気付く。私の首と腰は明かに痛んでいる。でも、よく見るとそれだけじゃない。足の裏を見れば、親指の外側にはタコができていて、外反母趾になっているし、小指は哀れに折れ曲り内反小指になっている。クルブシを揉めば痛みがあるし、腓骨は膝の下で出かかっている。軽いO脚になっていて、左股関節は回すと音がする。「ああ、俺って体の使い方、なってないなー」と思う。
そうした間違った心身の使い方をインド文化を学ぶなかで勉強できるのかもしれない。心にも体にもヨーガやアーユルヴェーダがきく。医や食について見直せる。
先日、夜中に16km歩いた折、「首と腰、足が自然に動いた。自然に、動作と姿勢を補正した」[1]
と書いた。ある動作に対し、注意を向け続けることで、身体の方が自然に合理的な動きを獲得するのである。これは身体を用いる動作のほとんどに言えることだろう。
意図して動きや意識を変えようとしてはならない。それは「わがまま」であり、「無理」を生むことにしかならない。いや、幾分かは練習にはなるから無益ではないが、それでは本格的な身体意識、身体動作の向上にはつながらない。
「わがまま」つまり「我が思うまま」に動かすのではなく、「ありのまま」「あるがまま」が大切なのである。そして、そのためには、身体の意識・感覚・動作などの観察しか私達にできることはないと肝に命じよう。変化という「自然」を見て取ることしか私達にはできない。
禅の理想をひとことで言うと、常に、一瞬たりとも途切れることなく、心に何が起きているのかを気付き続けられるようになること、ということになる
力とは何か?人の集まり「これだ!」という力、「そうだ!」という力、これは制度に還元されない元来の力である。制度を乗り越え、その場、その場の局面を乗り越えてゆく人間の力である。しかし、それを名指す言葉は現在ない。「これだ!」とか「そうだ!」と人が感じる力、としか言えない、今の私には。なさけないことだが。と書いている。