2006-12-09

できることは自然の観察のみ

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先日、夜中に16km歩いた折、「首と腰、足が自然に動いた。自然に、動作と姿勢を補正した」[1]と書いた。ある動作に対し、注意を向け続けることで、身体の方が自然に合理的な動きを獲得するのである。これは身体を用いる動作のほとんどに言えることだろう。

意図して動きや意識を変えようとしてはならない。それは「わがまま」であり、「無理」を生むことにしかならない。いや、幾分かは練習にはなるから無益ではないが、それでは本格的な身体意識、身体動作の向上にはつながらない。

「わがまま」つまり「我が思うまま」に動かすのではなく、「ありのまま」「あるがまま」が大切なのである。そして、そのためには、身体の意識・感覚・動作などの観察しか私達にできることはないと肝に命じよう。変化という「自然」を見て取ることしか私達にはできない。

たとえばギターを弾くことを考えよう。

実は初心者ほど力が入っている。上達すればするほど、力を抜いて演奏できる。それ故、筋力そのものの差では説明がつかないほどに、初心者と上級者の持続力や瞬発力の差は開く。演奏の上達を、演奏の合理性の獲得と考えるならば、脱力とはまさに演奏上達の要である。

こうした時に「力を抜け」というアドヴァイスは実は意味をなさない。無駄な力そのものの存在に気が付かないからである。あるいは気付いても脱力の方法は分からない。知らない動作を、人はすることができない。

では、どうするか。一般的にはゆっくり弾いたり、あるいは極度にはやく弾くことで身体に気付かせるという手段がとられる。同じ速度で弾くよりも身体の知覚が変わることで気付きがはやいということだ。

もちろん「肩」「肘」「指」「腰」などの緊張部位を示すことも有益には違いない。一時的には意図的にそれらの部位を脱力することもできるかもしれない。しかし、本当に脱力が身に付くためには、身体で覚える、身体が気付くしかない。

ただし、ただ速度を変えて弾けばよいというわけではないのは、言うまでもないだろう。弾きながら、弾いている自分の身体の動作や知覚に「意識」や「注意」を集中させるのである。持続した動作の中から、身体が自然に合理的な動作を選択することを「観察」するのである。「弾くこと」を離れて、自分の身体を観察していると、身体は驚くほど柔軟にそれぞれの局面に対応してゆくのが分かるだろう。

ギター演奏の練習の中にあって、私達のできることは、演奏の観察しかないのである。観察のために、私達は演奏から離れねばならない。

繰り返しになるが、音楽とは人の意図で行うものでは断じてない。身体が行うものである。勿論、意図が有益に働く局面の存在を否定はしない。しかし身体の感性の豊かさこそ利用すべきであるし、その豊かさのない人間は音楽をやる必要はないだろう [2]



また呼吸の問題もいいたとえになるかもしれない [3]

静かに座る。姿勢を正す。ほどなくして外部の音声は意識の外に響く。故にあなたは聴きたい音を自由に選択できる。時計の秒針、木々のざわめき。いや、今は脈拍と呼吸に目を向けよう。

心臓が脈を打つ。身体がふくらみ、しぼみ呼吸を繰り返す。この二つの動作には強い関連があることにすぐに気付くだろう。私は医学的に無知だが、呼吸はいそぐと、脈拍もいそぐ。呼吸がゆるむと、拍動もゆるものである。わずかな差だが、明かに関連している。

脈拍と意識には(これも医学的に知らないが)強い関連があり、脈拍がはやまると意識は興奮し、脈拍がおそくなると意識はしずまる。これもわずかな差だが、明かに関連している。

さて、いま私達は意識をしずめたい。ならば脈拍を遅くすればよい。そして、脈を遅くするには呼吸を遅くすればよい。ということになる。しかし、ここで意図的に呼吸を遅くしても意味はない。苦しくなって息がもたない。ほどなくして、かえって荒い呼吸をすることになるだろう。

では、どうするか。ただ、ひたすらに自分の呼吸という身体動作に意識・注意を向け、その動作を観察するのである。ただ、ひたすらに、呼吸ごとの身体の膨らみ・縮みを観察する。呼吸は荒くなったり、しずまったりするだろう。そうした変化をありのままに見て取るのだ。そして、その中で自然に身体が呼吸を合理的に制御するのを待つのである。

こうして呼吸に目を向けることが、呼吸をしずめる一番の手段である。



繰り返すが、呼吸がしずまると、脈拍・意識もしずまる。それ故、姿勢を正し、呼吸に意識を向けるというのが、しずかに何かに取り組むときための一番の方法であるのではないだろうか。

もちろんギターの時と同様、観察するためには、意識はその個々の動作に埋没していてはならない。全体に対して無意識となってしまう。そうではなく、個々の動作を越えた次元で全体を感じる意識こそ求めねばならない。その観察の次元では呼吸も個々の動作の一つとなる。そして、そうした全ては自然なのである。

そうした状態、つまり完全に意識的な状態を維持することが私の理想となっている [4]。自然が自然に「ただある」ということを意識し続けているということだ。そして、そうした状態で、現代の日々を営むことである。遁世しようというわけではない。むしろ、情熱に燃え、そのために合理的に生きたいのだ[5]。本物の情熱、本当に豊かに湧き上がった情熱は「自然」である。ただし、自然が常識的な成功につながるかどうかは別問題だが。

最後に、とにかく無理はいけません。わがままはいけません。ありのまま、あるがままに生きましょう。ラクで楽しくね。


notes


[1] digi-log: 体の動きに気づいた
[2] digi-log: 音楽はない。あるのは音だけである が関連。人間の自由、感性、豊かさについてはそのうち書こうと思う。
[3] 以下は上座部仏教に由来するヴィパッサナー瞑想に強い影響を与えていただいた。身体の意識や知覚、動作などを考える場合に東洋の瞑想の知識は多いに参考になる。
[4] digi-log: 気付き続け、必然の中を自在に生きる 参照。
禅の理想をひとことで言うと、常に、一瞬たりとも途切れることなく、心に何が起きているのかを気付き続けられるようになること、ということになる

[5] 情熱は盲目ではない。情熱とは意図的なものではない。情熱とは自然なものである。情熱とは合理的に「あるがまま」に「あるべきところ」へ向かう「生の力」「人の力」そのものであると私は考えている。

この「力」についてはうまくいえないが、digi-log: 新しい言論へのメモ では
力とは何か?人の集まり「これだ!」という力、「そうだ!」という力、これは制度に還元されない元来の力である。制度を乗り越え、その場、その場の局面を乗り越えてゆく人間の力である。しかし、それを名指す言葉は現在ない。「これだ!」とか「そうだ!」と人が感じる力、としか言えない、今の私には。なさけないことだが。
と書いている。