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「ありのままを受けいれる」は、言うに易く、行うに難い。人は簡単に言う「そりゃそうでしょ」「そういうモンだよ」「当たり前でしょ」「仕方ないよ」……。ハナからそう思えるなら、別に人になんて相談しはしない。「そりゃそうだ」と思えないから、「仕方ない」と思えないから苦しみ、その苦しみの声を他者にぶつけているのだから。
そういう人に、どうしたらいい? まあ、話を聞いてあげて、不平や不満、実存の不条理ってやつを共に嘆くくらいしかできないだろう。
そう。自分や他者の「怒り」すら受け入れねばならない。自分が怒っているなら、怒っていることを受け入れねばならない。
ここんとこを取り違えやすい。「怒っちゃだめでしょ。受け入れなきゃ」とかってのはアウト。「怒ってるね。いや、そりゃ怒るわな」と受け入れるのが普通。っていうか、「怒るな! 受け入れろ!」って人に言われて「そうか! 受け入れよう!」って気になる怒っている人ってのに(ドラマは除いて)実際に会ってみたいものだ。
だから自分が怒ったとしても、ネガティブな感情を持ったにしても、それは受け入れなきゃならない。
ふむ。カシコいな。そこである。
「怒っていること」と「怒っている自分を受け入れていること」は違うのである。
「怒っている」のでは状況に埋没していて、状況の否定しか生まない。そういう意味で、「怒っている」のはアウト。
しかし、怒っていることを受け入れているときは、怒っている自分に埋没してはいない。ここが重要である。自分が怒っているのに気づいている時には、怒りの中に自分は埋没していない。さめている。怒っている自分を静かに見つめる自分がいる。
誰しも経験があると思う。怒りながら、あるいは泣きながら「あれ? 俺、どーしてこんなに混乱してんだっけ?」となる瞬間が。ただ、そうした瞬間に「イカン、イカン。今は怒ってるんだった。怒るぞ、怒るぞー!」と、その瞬間的に醒めた自分を追い払ってしまうだろう。
「怒っている自分を受け入れること」は、そうした醒めた状態で、怒った自分を見つめていることである。だから、怒っていてもよい。怒るのは、それなりに事情があることであり、怒らないで我慢をするのはかえってよくない。人間は怒るように作られているのだから、しかるべきには怒るべきであり、泣き叫ぶべきである。
しかしながら、そうした自分を見つめていることも重要である。
例えば日本有数の怒る人である中島義道という哲学者がいる。著書を読めばわかるように、彼の怒りは一流であり、その技術、その熱意において、彼の怒りは常人の理解できる所を超えている。彼において、怒りは誇るべき技である。そうした彼は、確実に醒めた目で、怒る自分を眺めているのである。そして、その時にこそ、怒りは効果的になるのである。
よく悟った人は怒らないと勘違いしている人がいる。んなわけはない。怒るのである。ただ、その怒りは醒めた目によって眺められながら怒るのであると私は理解している。まあ、悟った人とかいうと難しいが、考えてもみてほしい。禅僧とかよく怒るじゃないか。それは無私の怒りであると言えるだろうし、その「無私の怒り」というのは、上で述べてきた「醒めた目で眺められた怒り」であろうし「怒りを受け入れていること」であると私は理解している。
さあ、怒ろう! 泣こう! 嘆こう! 世の中は不条理でいっぱいだ! 嘆き、怒ることだらけじゃないか! 「悟ったような」すました顔をして「そんなもんですよ」なんて言うのはオカシイだろ? はっきり言えば、そんな奴はサイテーだ。
そして、様々に怒り、嘆き、不条理と格闘して、あるときは「そんなもんですよ」となるのもいいだろう。深みのある余韻が漂うだろう。そのレベルじゃない奴が「そんなもんですよ」と言っても説得力もなにも、あったもんじゃない。ただのゴミである。
また、怒りながら闘い続けることもあるだろう。もちろん、自分のための怒りじゃない。無私の怒りだ。自らの怒りを醒めた目で眺めながら、進むことである。そうした怒りの中に、自分の使命を感じられるんじゃないか?
ただし! 繰り返すが、怒りに埋没してはいけない。怒りの中で盲目になってはいけない。怒りに盲目になったとしても、その盲目になった自分を眺めなければいけない。
いつもの話だが、怒りも道具なのである。その道具は便利に使えば便利な道具になるのである。しかし、使い方を間違うと、「とらわれ」となり、苦しみを生むのである。要は、管理できればよいのである。
状況は刻々と変わる。心も無常である。だからこそ、自分を眺めている自分、これを大切にしなければならない。
そういう人に、どうしたらいい? まあ、話を聞いてあげて、不平や不満、実存の不条理ってやつを共に嘆くくらいしかできないだろう。
そう。自分や他者の「怒り」すら受け入れねばならない。自分が怒っているなら、怒っていることを受け入れねばならない。
ここんとこを取り違えやすい。「怒っちゃだめでしょ。受け入れなきゃ」とかってのはアウト。「怒ってるね。いや、そりゃ怒るわな」と受け入れるのが普通。っていうか、「怒るな! 受け入れろ!」って人に言われて「そうか! 受け入れよう!」って気になる怒っている人ってのに(ドラマは除いて)実際に会ってみたいものだ。
だから自分が怒ったとしても、ネガティブな感情を持ったにしても、それは受け入れなきゃならない。
怒りを受け入れることは怒りに埋没することじゃない
「センセイ! 質問! それじゃあ、人間はネガティブな感情になったままであり、受け入れるなどとは遠いことになってしまうのではありませんか? 怒りを受け入れていたら、怒ってもよいということになり、怒るということは状況の否定である以上、現状否定をしてもよいということになる筈であります」ふむ。カシコいな。そこである。
「怒っていること」と「怒っている自分を受け入れていること」は違うのである。
「怒っている」のでは状況に埋没していて、状況の否定しか生まない。そういう意味で、「怒っている」のはアウト。
しかし、怒っていることを受け入れているときは、怒っている自分に埋没してはいない。ここが重要である。自分が怒っているのに気づいている時には、怒りの中に自分は埋没していない。さめている。怒っている自分を静かに見つめる自分がいる。
誰しも経験があると思う。怒りながら、あるいは泣きながら「あれ? 俺、どーしてこんなに混乱してんだっけ?」となる瞬間が。ただ、そうした瞬間に「イカン、イカン。今は怒ってるんだった。怒るぞ、怒るぞー!」と、その瞬間的に醒めた自分を追い払ってしまうだろう。
「怒っている自分を受け入れること」は、そうした醒めた状態で、怒った自分を見つめていることである。だから、怒っていてもよい。怒るのは、それなりに事情があることであり、怒らないで我慢をするのはかえってよくない。人間は怒るように作られているのだから、しかるべきには怒るべきであり、泣き叫ぶべきである。
しかしながら、そうした自分を見つめていることも重要である。
怒ることを技にする
醒めながら怒るというと「そんな、バカな」と思うかもしれないが、一流の怒る人は、常に醒めた自分を持ちながら怒っている。例えば日本有数の怒る人である中島義道という哲学者がいる。著書を読めばわかるように、彼の怒りは一流であり、その技術、その熱意において、彼の怒りは常人の理解できる所を超えている。彼において、怒りは誇るべき技である。そうした彼は、確実に醒めた目で、怒る自分を眺めているのである。そして、その時にこそ、怒りは効果的になるのである。
よく悟った人は怒らないと勘違いしている人がいる。んなわけはない。怒るのである。ただ、その怒りは醒めた目によって眺められながら怒るのであると私は理解している。まあ、悟った人とかいうと難しいが、考えてもみてほしい。禅僧とかよく怒るじゃないか。それは無私の怒りであると言えるだろうし、その「無私の怒り」というのは、上で述べてきた「醒めた目で眺められた怒り」であろうし「怒りを受け入れていること」であると私は理解している。
さあ、怒ろう! 泣こう! 嘆こう! 世の中は不条理でいっぱいだ! 嘆き、怒ることだらけじゃないか! 「悟ったような」すました顔をして「そんなもんですよ」なんて言うのはオカシイだろ? はっきり言えば、そんな奴はサイテーだ。
そして、様々に怒り、嘆き、不条理と格闘して、あるときは「そんなもんですよ」となるのもいいだろう。深みのある余韻が漂うだろう。そのレベルじゃない奴が「そんなもんですよ」と言っても説得力もなにも、あったもんじゃない。ただのゴミである。
また、怒りながら闘い続けることもあるだろう。もちろん、自分のための怒りじゃない。無私の怒りだ。自らの怒りを醒めた目で眺めながら、進むことである。そうした怒りの中に、自分の使命を感じられるんじゃないか?
ただし! 繰り返すが、怒りに埋没してはいけない。怒りの中で盲目になってはいけない。怒りに盲目になったとしても、その盲目になった自分を眺めなければいけない。
いつもの話だが、怒りも道具なのである。その道具は便利に使えば便利な道具になるのである。しかし、使い方を間違うと、「とらわれ」となり、苦しみを生むのである。要は、管理できればよいのである。
状況は刻々と変わる。心も無常である。だからこそ、自分を眺めている自分、これを大切にしなければならない。