2006-10-25

西行にサビのはじまりを感じる

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西行の歌を引用したメールを友人よりもらう。気が向いたので、文芸について書いてみた。

人麻呂、憶良、道真。この奇跡の人々の後、西行こそ、西行こそ、新境地を進んだんだと思う。と、デタラメを言う俺。って、あんま本当は良く知らんのだけどね。

更にデタラメを加えると、西行の境地は鴨長明、慈円と共有されている。また、親鸞、一遍などの鎌倉新仏教は、日本の西行みたいな世界観の影響があると思う。オリジナルの仏教や、中国仏教だけじゃ説明がつかないと思う。そうそう、もちろん兼好さんも忘れられないね。

ここにあるのは厭世、ペシミズム。そして、美へのあこがれ。それは浄土や阿弥陀仏など、超越した存在者や場所への憧れになりやすい。

西行が彼らに影響を与えたのかは知らないけど、彼らが共有している感覚ってのを西行が鋭く表象しているんじゃないかな、とね、俺は感じる。

んで、この西行から、室町の観阿弥、世阿弥は更に新境地に行ったと思う。

そこには基本的な美意識は共有したまま、厭世思想やそれに伴う超越した存在者や場所への憧れは影をひそめる。不安定な世界、不完全な世界、それをそのまま肯定し、そこにこそ、自然の美を見出そうとしている。

この感覚は一休さんもうむだろうし、池坊の華道、珠光や紹鴎、そして利休の茶道を生み、江戸になれば芭蕉、良寛とつながってゆく。

生きてゆくしたたかさ、旺盛な生命力。しかし、円満かと言うと、何かが足りず、欠けていて、侘しく、錆びている。健康かと言うと、狂気であり数寄であり孤独である。しかし、それを厭うのではない。積極的に肯定する姿勢が強い。

いや、勿論、これは西行にもあった感覚だ。また道元にも確実にある。

西行が月を詠むとき、彼が花を詠むとき、厭うでも願うでもなく、ただ「ある」ことへの純粋な「いくづかい」は聴こえてくる。

どうだろう? 彼の不完全で不安定で無常で一切は苦の世界を肯定するでも否定するでもなく、美しいでもなく(!)醜いでもない、「ただ…ただ……ただ……ただ」というあることの「息遣い」がことのはを透かして現れてくるんじゃないかな?

道元でいえば有名な只管打坐ってやつだろうと俺は妄想する。

いや、今まで名前あげた人だって単純に厭世だけってわけじゃなくて、そこの現世との斬り結びに色気ってのかなぁ、シブさがあるわけなんだけどねー。特に兼好さんとかわかりやすいけど……でも兼好さんはクソジジイすぎってのかな、いや、いいんだけどさ……それは、それで。

と、まあ、ただ教科書に載ってそうな名前を羅列してみたりして……。わけわからんこと書いてな。えらそうに。