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身体とは一つの場である。
身体という場の中で、自意識としての「私」と、様々な器官、更には細胞や最近の一つ一つとがコミュニケートしている。
細胞も一つの場である。細胞という場の中で、細胞膜や細胞質、リボソームやミトコンドリアなどがコミュニケートしている。同様に、分子という場には、原子が相互作用していて、また、原子という場では、原子核や電子が互いに間をとりあっている。
この循環に終わりはあるだろうか?
逆の循環もある。
私の身体は、この部屋という場にあり、部屋という場の中で、パソコンや床、照明器具などとコミュニケートしている。
そうして、私のいる部屋も、他の部屋と相互作用を持ちつつ家という場をなし、この家も他の……と循環してゆく。
あるいは、私は他の人とコミュニケーションをとりつつ場をつくり出しているとも考えられる。私は両親などと家族という場を構成しているし、この家族も他の家族との関係の中でより多きな集団をなしているだろう。会社も、国家も、それを構成する人々が創発した場である。
また、こうしたメッセージが読まれる中で、もしかしたら私と読んでいるあなたとで相互作用がうまれ、場が生まれるかもしれない。そして、そうした場も、より多きな場へとつながってゆくだろう。
この循環も「世界」という究極の概念へとつながってゆくだろう。
場の中には、構成要素がいて、互いに特定の間をとりつつ相互作用をしている。逆に言えば、構成要素が特定の間を取るからこそ、場が創発しているとも言えるだろう。
全てのものごとは場の中にある。また、全てのものごとは、それ自体が場であり、構成要素を持つ。
場の中で構成要素が特定の相互作用をする。この形式を私は間と呼ぶ。これは構成要素間のコミュニケーションの「型」のことであり、コミュニケーションで交換されるメッセージや情報に対する「メタ情報」「プロトコル」などと言えるものだろう。
万物は場の中にあるのだから、それが属する場における間に支配されている。一方で、場とは構成要素が間をとることによって成り立つのだから、間とは常に変更され続けるものでもある。
自由の本質は、間を変えることにあると私は考えている。私達は常々、どこかの場に属し、その中で、他者と間をとりあっているのだから、場における自由こそが自由の一番の問題であり、その場における自由とは、間に対する自由に他ならない。
私達は常にその場、その場で生きている。その場、その場は常に変化し、その間も変化する。ところが、人は「間」を固定したものと捉えがちであり、場への認識は閉塞する。これは思考がおかす間違いである。
閉塞した認識の場から自由になるためには、過去の記憶から開放し、その場その場に新鮮な眼を向けねばならない。その眼差しの中で、新たな場の可能性が無意識に与えられるのかもしれない。気付き、閃き、さとり等は「与えられる」。思考の帰結ではない。
間というメタ情報自体を改変するコミュニケーションはいかにして行われているのだろうか。
場の中の対話は、時に対話における間を変革する対話すらなしえる。コミュニケーションにおいて、そのコミュニケーションの基本となるプロトコルを改変するコミュニケーションのありかたがある。
それは水が沸騰するときのように、始めは疑い深く試すように、そしてある時を過ぎると激しく、激烈に。もしくは、情の芽生えのように。
それは「与えられる」。
ある瞬間において、新たな場、新たな間の中に「投げ込まれ」た自分に気が付く。自分で意図的に新たな場、新たな間となったのではない。気が付いたら、新たしい場に「投げ込まれ」ていた。
より広く大きな場を感じること。
より小さく些細な場も感じること。
場は常に流動し続けている。
過去にとらわれるのは「私」の意識だけだ。
目の前の場の中に、本当に必要なものを注ぎ込むのだ。