2006-12-15

ビックリマン・チョコ

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身内と駄菓子とかについて話す。小学生の頃のビックリマンチョコ・ブームを思い出した。


いつだったかあいまいだが、ビックリマンのシールがはやってた。ガキはあほみたいにビックリマンチョコを買った。

駄菓子屋の脇のゴミ箱はビックリマンの包装であふれた。中にはお菓子も捨てられていた。おまけのシールが目当てだから、チョコ自体はどうでもよかった。それはある種の社会問題になって学校でも「食べ物を粗末にしないように!」と何度も指導があったのを覚えている。

俺はシールとか集めなかった。んで、さめた眼で眺めてた。ビックリマンはまってた友人とは、絶交というか、まあ、つきあいやめたやつもいた。はまってるやつには、シール持ってるやつとしか遊べないのだから。

そんときから「おいおい、どーしてそんなの集めんの?」と思っていた。んで、今日かんがえてたら「こりゃ、ラカン先生、出番じゃね?」という気分になった。



ガキはなぜシールを集めたのか?

実はシールそのものがかっこよかったなんて感じていた奴は少数もいいとこだった。シールそのものの使用による価値は無かったと言っていいだろう。シール貼ってた奴なんて、見たこともない。シールそのものが提供する機能が欲しかったのではないと言えるだろう。

ガキは、さしてカッコよくもなく、貼られることもないシールを何故集めたのか? その答えとして、「集めることそのものに意味があった」と答えることもできるだろう。シールが購入され、交換され続けたのは、シールそのものではなく購入や交換という行為そのものに快楽があったからである。

シールは欲望された。しかし、ガキがそのシールを求めたのは、他の誰かがそのシールを求めると信じているからである。「誰かが欲しがる」からこそ、それは求められたのである。ガキたちは、他人の欲望を欲望したと言える。繰り返すがシールそのものは魅力ではなかった。

シールを効率よく入手するための交換こそが、シールに魔力を持たせたのである。特定のシールを手に入れるためには、相手が欲しがるシールを持っていなればならない。そして、そのシールを持っているためには……とシール交換は無限の循環を生んでいった。

ガキは「誰からも欲しがられるシールを持っていること」を望んだのである。その理由は「そうすることで、どんなシールも手に入れられる」からである。

この論理の破綻をほぐすことはガキにはできない。ガキは「すげー」と言われたいのである。自分が「すげー」と思う必要はない。

自分の欲望は関係ない。だからこそ、欲望は無限のものとなったのである。ガキは無限の交換の中で、他者の欲望と戯れることに快楽を見出したのである。

これがビックリマン・ブームの鍵である。

ビックリマン・ブームとは欲望の拡大再生産の状況においてのみ成立した。ガキたちは、常に未来により多くの欲望が存在すると信じているからこそ、現在のシールを欲望しているのである。

故にビックリマン・ブームの衰退は、まさにビックリマン・シールが完全に覇権を握った時に訪れた。つまり、学校で誰もがシールを集め始め、シールが権力装置として機能し始め、シールの価値が驚異的に高騰したその時に、ビックリマン・ブームは死へと向かったのである [1]

人気の低下の速度は恐るべきものであった。一瞬にして、高嶺の花であったシールも簡単に入手できるようになり、程なくして、ガキたちはシール自体を恥ずかしいものかのように扱うようになった。

ビックリマンは、ガキにとってのバブル体験であったとも言えるかもしれない。


もう少し具体的なガキの行動を書き留めておく。

シールを入手するためにガキは様々な市場を編み出した。まず友人、次に親戚、更に友人の友人という形の人脈が急速に形成され、交換の場を生み出した。また、駄菓子屋の脇、校門や公園など人の集まりやすい場所は、人脈によらない交換の場として機能した。中にはチャリンコをこいで別の小学校に行く猛者も現れた。こうした出会いもビックリマンから派生した楽しみであったであろう。

他方、消費の快楽も明かだが、ガキはその快楽を更に高める方法を編み出していた。それは、質の高いシールを入手するための独特の方法でもあった。



当時の一部のガキには信仰があった。それは「駄菓子屋への一箱あたりの人気シールの割合は一定である。しかし、我々が手前から細々と購入すると、駄菓子屋は補充を不人気シールで行う。つまり人気シールは棚の奥で眠ることになるのである。それ故、我々はできるかぎり多くのチョコを一括購入しなればならない」というものである。

どう考えても筋は通らないが、これは信じられていた。

この信仰を信じるガキは、徒党を組み、金銭を募り、駄菓子屋でビックリマンチョコを一括大量購入したのである。交換の結合は、しばしば金銭的な結合ともなった。

一人のガキがチョコを買っても数枚買うのがいいとこである。しかし、ガキが数人、多い時で10人以上が、溜めた小遣いを出し合うことで「箱単位」での購入が可能になった。

そしてその金銭結合は「一括購入」のためにきわめて「禁欲的」であった。彼らの信仰によれば小出しの購入は質の低いシールを得ることにしかならず、一括大量購入こそが効率よく質の高いシールを獲得する道であった。集団の長はこの信仰を説き、構成員に対し、日々の小遣いの無駄遣いをきつく戒めたのである。

禁欲の日々の後の大量消費 ……「Xデー」はほぼ一カ月おきであった。唯でさえ無駄遣いが好きな方のガキが一カ月間、無駄遣いを我慢し、来たるべきビックリマン大量購入の日と待つのである。

目の前に広がるビックリマン・チョコの山にガキ達は歓喜した。即座にパッケージは破られ、チョコは捨てられ、シールは並べられる。これはまさに宴である。「食物を捨てること」を宴の要素とする文化も多いことも指摘しておきたい。

そして、出資額とシールの価値に基いて、シールは分配されたのである。このシステムはガキにしては極めて精巧にできていた。


notes


[1] まあ実際には公正取引委員会の注意で規格が変わったのが大きいんだろうけど。詳しいこと知らん。