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この本は、五十を越えた中島が三十年前の二十歳そこそこの自分に手紙を送り、助言をするという形で進んでゆく。つまり「強い」今の中島が「弱い」若き日の中島に語りかけているのである。
中島がその三十年で得た強さとは世界を表象として捉えるということに尽きる。他者をことごとく自分の表象として、ただ自分の前に立ち現れる意味の集積として捉えることで、他者によって過剰な影響を与えられることがないようにしたというわけだ。
中島はこの作業を「殺す」という表現で表す。これは、中島にとって他者を表象として捉えるということが殺すのにも匹敵する覚悟が必要であり、なおかつ殺すのにも匹敵する他者の排除であったということを示している。私は普通の人であれば彼の程度の他者の排除・無理解を平気でしていると思う。世界を表象として捉えることが殺すことになるという中島の繊細な感性が哀しい。
また一方で中島は怒る技術が重要であるとも主張する。怒ることで自分の中の人間という動物を呼びさまさねばならないということだ。怒らない人は人間ではない、この主張には思い当たる節があるのではっとした。
この本は一見すると傲慢に破天荒なことをズケズケと言ってゆく本であり面白く読めるが、その背後にある中島の体験のつらさ、悲惨さが見え隠れし痛ましいほどである。こうした本を書く目的を、中島は到る所で親への復讐であると述べており、また、実際に「やさいい」親を非難し死んで四年過ぎた父親も許してはないと述べるほどであり、だからこそ、この本の後書の日付が母親の命日というのはあまりに痛ましすぎる。