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まず、身体の改善は、指圧や整体によるものではない。
つまり、私が揉んだり捻ったりしたから、体が治ったのではない。
ただ、私と友人の二人が、友人の体について一定の時間をとったことに意味があるのだ。
言い換えれば、私が「整体した」ことに意味があるのではなく、「整体としてあった」「整体であった」ことに意味があるのだ。
日常生活で自分の体に意識を向けることなど殆どないだろう。
意識が向くのは痛みを出した場所だけであり、痛んでやっとその場しのぎの対応をするのがせいぜいであろう。
そして、痛みを発するのは、痛みの原因とは違う場所も多いのにも関わらず、真剣に体をチェックする訳ではないので、本質的な問題には意識がいかないことも多いだろう。
私たちは日頃、それほどに自分の身体に対して無意識である。故に、意識を向けるだけで、体は自然に治癒の方向に向かってくれるものだ。
私は指圧や整体により、既に痛い場所ではない場所、思いもよらない場所が弱っていることを意識させる。
身体や脳は馬鹿ではない。
刺激することで、非施術者の身体は反応し、自然に緊張した場所は緩み、気の抜けている場所には張りが出るのである。
こうした改善は私の技ではない。非施術者の身体や脳の仕事である。
次に考えるのは、姿勢を良くしようと意図しても無駄であるということ。
私が身体を刺激すると、非施術者の姿勢は自ずと正しくなる。
しかし、もし身体が無意識の状態で、頭で「姿勢を良くしよう」と考えても、いい姿勢にはならない。
つまり姿勢が悪い人は人に「姿勢を良くしろ」と言われても、本当の意味でのいい姿勢にはなれないのである。
体が本当に理解しないと駄目なのである。
故に私の刺激が必要になる。私の刺激により、脳や体が緊張と弛緩を正しく理解すれば、おのずと姿勢は良くなる。
だからこそ、私は、施術後の改善された姿勢での、「楽さ」「軽さ」「気持ち良さ」を十分に味わってもらいたい。
本当に良い姿勢とは疲れるものでも、気をつかうものでもない。
自然に、気持ち良く、おのずからなるものなのである。
私が施術すると、ほとんどの人がすぐに体をグニャグニャ動かしたり、小走りしたりする。これは身体の自然な欲求として出てくるものだ。
昨晩は還暦の父親が夜だったのに「体を動かしたくなった」と言って、すぐに薪割りを始めた。体が軽く、楽しくできたそうだ。
こうした「気持ち良く」「楽に」体を動かしていることが、私の施術よりも全然重要なのだと考えている。
notes
[1] digi-log 2006/10/30 体の中の心 - 感情は実在するかでは、今回の自然反応の身体と異なり、精神についての雑感を書いた。
[2] digi-log 2006/11/21 体の動きに気づいた でも以下のように書いた。
意識してではない。自然になった。
「その動かし方、ちがうよ」
首と腰、足が自然に動いた。
自然に、動作と姿勢を補正した。
また、digi-log 2006/12/09: できることは自然の観察のみ でも同様に以下のように書いた。
「わがまま」つまり「我が思うまま」に動かすのではなく、「ありのまま」「あるがまま」が大切なのである。そして、そのためには、身体の意識・感覚・動作などの観察しか私達にできることはないと肝に命じよう。変化という「自然」を見て取ることしか私達にはできない。