2007-01-09

「整体である」こと

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二泊三日で大学時代の友人の家に遊びに行っていた。お世話になったので、御礼といえるほどじゃないが、その友人と父親をマッサージをして整体をしてみた。二日やり、二人の姿勢が自然になり、本人も体が軽くなったと言う。そこで色々と感謝されるわけだが、まあ、それについて、俺は俺で雑感を少々 [1]

まず、身体の改善は、指圧や整体によるものではない。

つまり、私が揉んだり捻ったりしたから、体が治ったのではない。

ただ、私と友人の二人が、友人の体について一定の時間をとったことに意味があるのだ。

言い換えれば、私が「整体した」ことに意味があるのではなく、「整体としてあった」「整体であった」ことに意味があるのだ。




日常生活で自分の体に意識を向けることなど殆どないだろう。

意識が向くのは痛みを出した場所だけであり、痛んでやっとその場しのぎの対応をするのがせいぜいであろう。

そして、痛みを発するのは、痛みの原因とは違う場所も多いのにも関わらず、真剣に体をチェックする訳ではないので、本質的な問題には意識がいかないことも多いだろう。




私たちは日頃、それほどに自分の身体に対して無意識である。故に、意識を向けるだけで、体は自然に治癒の方向に向かってくれるものだ。

私は指圧や整体により、既に痛い場所ではない場所、思いもよらない場所が弱っていることを意識させる。

身体や脳は馬鹿ではない。

刺激することで、非施術者の身体は反応し、自然に緊張した場所は緩み、気の抜けている場所には張りが出るのである。

こうした改善は私の技ではない。非施術者の身体や脳の仕事である。




次に考えるのは、姿勢を良くしようと意図しても無駄であるということ。

私が身体を刺激すると、非施術者の姿勢は自ずと正しくなる。

しかし、もし身体が無意識の状態で、頭で「姿勢を良くしよう」と考えても、いい姿勢にはならない。

つまり姿勢が悪い人は人に「姿勢を良くしろ」と言われても、本当の意味でのいい姿勢にはなれないのである。




体が本当に理解しないと駄目なのである。

故に私の刺激が必要になる。私の刺激により、脳や体が緊張と弛緩を正しく理解すれば、おのずと姿勢は良くなる。

だからこそ、私は、施術後の改善された姿勢での、「楽さ」「軽さ」「気持ち良さ」を十分に味わってもらいたい。

本当に良い姿勢とは疲れるものでも、気をつかうものでもない。

自然に、気持ち良く、おのずからなるものなのである。




私が施術すると、ほとんどの人がすぐに体をグニャグニャ動かしたり、小走りしたりする。これは身体の自然な欲求として出てくるものだ。

昨晩は還暦の父親が夜だったのに「体を動かしたくなった」と言って、すぐに薪割りを始めた。体が軽く、楽しくできたそうだ。

こうした「気持ち良く」「楽に」体を動かしていることが、私の施術よりも全然重要なのだと考えている。



notes



[1] digi-log 2006/10/30 体の中の心 - 感情は実在するかでは、今回の自然反応の身体と異なり、精神についての雑感を書いた。

[2] digi-log 2006/11/21 体の動きに気づいた でも以下のように書いた。

意識してではない。自然になった。

「その動かし方、ちがうよ」

首と腰、足が自然に動いた。
自然に、動作と姿勢を補正した。


また、digi-log 2006/12/09: できることは自然の観察のみ でも同様に以下のように書いた。
「わがまま」つまり「我が思うまま」に動かすのではなく、「ありのまま」「あるがまま」が大切なのである。そして、そのためには、身体の意識・感覚・動作などの観察しか私達にできることはないと肝に命じよう。変化という「自然」を見て取ることしか私達にはできない。