2007-07-28

結論めいたことを言うと

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まあ、「今、目の前だけ見てろ」と。つまり妄想に耽るなということ。

人類の異常な咽頭の発達が言語を生みだし、その記録から文字が生まれたとする、まあ、よくしらんけど。そして、その言語が文字に記録される中で形式化が進んだ、と。んでもって、その「言語の形式化」の中で思考も形式化を求められていった、と。そして、その形式化していった思考ってのは、ちょっと現実とズレがあったりして、その辺が、少年少女には苦しかったりするんだろうな、と。

ま、言葉は結局、言葉で鳴き声の延長でしかない。むしろ、その鳴き声が、「記録」や「反省」などによって、ここまで「言語思考」「論理思考」などとして形式化していった事の方が驚き。そして、その「思考」の中にのみ善悪や美、真理などの抽象概念がありえる訳だからややこしくなり、そういう観念や論理に悩むことは悩むということかと。

俺的には、こうした惱みは「病気」「欠点」って感じじゃなくて、「成長痛」のようなもんかと思う。人間、言語や論理、抽象的思考なんかを使えた方が便利な訳で、その道具の習得には、まあ、ある程度のケガは仕方ないなと。んで、使えるようになると、やっぱり便利な道具だな、とか思うわけだし。思考とか、抽象ってのは。あ、芸術とかもいれとく。

まあ、でも、それはそれとして、つまり道具として使わんといかんわけで、だんだんいいとしになると、それでケガすることも減るようになるんだと思う。だから子供は多いに抽象概念に迷い、苦しんでみて、大人を憎しみに満ちた目で睨んで「テメーラ、マチガッテル!」と叫べばいいんだと思う。そうして培った能力が未来を作るんじゃねーの? しらないけど。

ま、そんなこんなで抽象的なことに悩んだりして、最終的には「やっぱ、目の前しかありえない」ということになったりするんだと思う。時間は流れないし、過去も未来も実在しないし、自我も実在しないし、いかなる「本質」は実在しないし、いかなる抽象概念も実在しない……などなど。ただ、その場その場でありのままにあることしかなく、そうであるなら、ただただひたすらにやっていくしかない、ということになる。

かくして「世界は無である」ということに。ただ、その場、その場があるだけ。んで、その場ってのは? と思っても「そりゃ、場は無ですよ。何かが「ある」場なんて場じゃないでしょ」ということに。

はい。ここまでが第一段階。

んで、第二段階として、その実在しないものごとを実在しないと理解する訓練の段階があるのかと思う。これが、いわゆる精神的とか宗教的というやつかな。スピリチュアルとも言うのかな。でも、一般的な響きとは逆で、俺は、こうした修行・訓練は、形而上的なものや抽象的なものの「非実在」を体得するために行うんだと思ってる。「あ、やっぱ無だな」と普通に実感できるようにするために、瞑想とか禅とかしている。というか「ために」ってのもおかしくて、言葉、論理や概念で差されたものが無であることを実感するためなんだから、「ために」ってのはおかしい……いや、だから、「ために」ってのはおかしいんだよ……って無限矛盾の連鎖……。

かくして、自我/自己も本質も世界も何もかもが、まあ、なんでもない、ただの言葉として吹きとんでいくことになると思う。方法はよく分からんのだが、知覚のスピードが高速になると、対象知覚から概念形成の間の一瞬を気づけるようになるんじゃないかと思う。足元に黒いものが動いてて、虫かと思って「うわ」っと思ってのけぞったら、ただのゴミが風で飛んでただけだったとか、そういう知覚(この場合、色と運動)と認識(虫)の差をリアルタイムに認識できるようになるんじゃないかと思う。ようわからんけど。

そうなると周囲の変化に動じなくなる。何しろあらゆる無意識の意味づけを排除して反応できるんだから。

ここまでが、俺の求める第二段階。

んじゃ、第三段階ってのは何?思うんだけど、第二段階までで、妄想を離れてその場その場に没頭できるようになると、逆に従来ではなかった知覚も現れ、様々な現象を正確に把握し、それを制御できるようになるんじゃないかと思う。まあ、よくわからん。こうなるとヤバヤバだから、まあ、どうでもいいや。以上。


えーと、第2段階は具体的には瞑想でしょうね、きっと。別に妄想を拵えるために坐るんじゃなく(「無」とかも妄想なんで)、ただ、ひたすら、心の変化を観察するんです。そうすると人間が実際に疑いようもなく感じるものは直感のみであること、心は変化し続けることに自然に気がついてゆくんじゃないでしょうか。「ああ、何も確かなものはなく、あるのは移り変わるいまここだけだ。記憶も不安も妄想であった」とね。

そうした心の意識的な観察で「純粋知覚」→「概念表象」→「嫌悪や欲望」→「行為」などの流れを感じると思うんです。そして、その流れを見て「ああ、自分はこういう知覚の時、こういう概念化をしやすくて、そいつがこういう嫌悪や欲望を生んで、こういう行動になるという傾向があるんだな」とか直感的に思い付けばいいんだと思います。この自分の奥に潜む「傾向」を感じてゆくと、まあ、いわゆる魂ってやつは救われるんじゃないかな、と。

そうした心に対する観察を常に続けながら、つまり、気づきながら生きることが、2段階の完成になります。心を観察し続けるから、最初は離人症みたいな感覚を覚えるかもしれませんが、慣れると「私は心身を離れている」ことが当然になり、欲望や嫌悪が遠くなるので、生きるのが非常に楽になりますよ。まあ、常にってのは、私はまだ出来てませんが。