2007-07-14

脳をきちんと考えると、常識を変えないといけなくなるかも

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最近、脳の本を読んでいると実に内容が哲学的なのに驚く。一昔前の脳の実体論的・万能論な常識は完全に通用しなくなっていることが分かる。また、世界の認識についても素朴な実在論は通用しないことも脳の科学が示してくれている。

別に脳の科学で全部を語れるとも、語るべきとも思わないが、脳科学の進歩に注意を払うのは、現代人でちょっと物を考える人には必要不可欠だろう。

今回は、そうした脳の科学が訴える「常識」の変革を少々。

脳と身体は一心同体

従来、脳と体の関係ってのは脳から体への一方通行の指令で、体をスポッと変えても脳の機能は変わらないとか考えられてきた。つまり、例えば脳みそを取り出して違う身体に移植したりできるんじゃないか、と。SFでよくあるパターン。

しかし、最近は、体が脳を決めている部分があることにも注目しなきゃいけないことが分かってきたんだ。つまり身体のあり方が脳のあり方を規定しているということ。だから、身体が変化したら脳の構造も変化しちゃうんだ。例えば指が四本しかない人は、四本に対応するだけしか脳の分化がなく、また、その人の指を手術で五本にしたら、なんと一週間足らずで脳の対応もきちんと五本のために分化するんだ。おそらく、私たちの指が六本になったら、脳も早急にそれに対応するだろうね。脳と身体はまさに一心同体なんだ。

よく私たちは脳の全体の数パーセントしか使ってないっていうよね? それくらいに脳というのは高機能で、どちらかというと私たちの身体の方がそれに追いついていないくらいなんだ。

脳に機能的余裕があるからこそ、私たちは自らの身体を使いこなすことを超え、道具を「手足のように」使いこなしたりできるんだろうと私は考える。事実、サルが道具を使っているときには、道具の先端を操作するときに、素手の時には指先の部分で反応していた神経が活動しているらしい。スポーツや楽器の演奏をする身体は高機能な脳に支えられているんだね。そしてその時、脳も変化しているんだ。

私たちが見えている世界

今、身体と脳の関係が普通に考えられているのは違うって言ったけど、実は世界と私たちの認識の関係も考え直す必要があるかもしれない。

私たちにとって「世界」とは脳が理解した世界なわけだよね。でも、脳が外部から取り入れている情報というのは実は完全なものじゃない。視神経で考えたって100万本しかないから100万画素しか取り込めないし、その情報すら脳内のほかの情報の影響を強く受けるんだ。

そして考えて欲しいんだけど、100万画素の画像はかなり荒い。でも私たちが見ている世界は「荒く」なんてないよね。つまり、かなり荒い情報しか入力していないのに荒くない映像が「見えている」ということは、脳が補完をして映像を作り出しているということなんだ。

するとどうだろう。自分が見えている世界が、実際にその通りにあることが疑わしく思うんじゃないかな。


こうして考えていると、本ブルグでも触れた『脳と仮想』『進化しすぎた脳』などを読んでみて、科学としての脳の研究の将来を考えたくなるかもしれない。

また一方で、素朴実在論という常識を離れてゆき、哲学や宗教などに興味が湧くかもしれない。宗教なら本ブログでも取り上げた『道元 - 自己・時間・世界はどのように成立するか』で日本最高の知性の一人の道元の思想に触れたり、『インテグラル・ヨーガ - パタンジャリのヨーガ・スートラ』でヨーガ思想を垣間見るのもよいかもしれない。同様に仏教の他の思想、例えば中観や唯識にも興味が湧くかもしれない。