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子供だからと言って「犯罪」を許してはならない。犯罪をゆるさないためには暴力装置が必要である。と、たぶん人がこんなこと書いたら、トンデモだと思って批判的に考えるんだろうけど、勢いでちょっとメモしておく。
犯罪に満ちた子供の世界
子供の世界は犯罪に満ちている。恐喝に強要に脅迫、名誉毀損に侮辱に信用毀損、窃盗に横領に器物破損、更には傷害に暴行である。小中学校の子供にとって、これらの犯罪のどれか一つにも遭遇しない日というはありえないだろう。
高校、大学となるうちに犯罪は減る。万引や横領は規模を拡大して行われ続けるが、対人的な犯罪は格段に減る。ただし、怪しげなサークルなどで盗撮や痴漢、強姦や拉致をする輩が大規模に存在するが、それはある種の「不良」ということで例外として考えておく。実際、彼らは犯罪を犯しているという自覚はあるはずだからである。高校時代に同級生が駅で盗撮をして警察に捕まった。彼は少なくともそれが犯罪だということは自覚していた筈だし、実際に犯罪として扱われれた。
問題は小中学生の犯罪である。性的なものこそ皆無だが、極めて悪意に満ちた対人的な犯罪に満ちている。端的に言葉や拳の暴力が飛び交い、所有物は奪われ、傷つけられる。
どうして子供は刑が軽いのかという問いに、社会が責任を負うからだと言う答がある。それ自体は納得できる。店舗などでの窃盗を「子供だから」とゆるすのは感覚としては分からなくもない。しかし、対人的な暴力を、どうしてああまで野放しにするのだろうか。心に深刻な傷が残る人はかなりの数にのぼるのではないかと思う。それでも社会としては「子供のしたこと」として厳罰では臨まない。
いや、問題は刑が軽いとか重いとかという問題ですらない。子供には犯罪を犯しているという意識がないのだと思う。だから、暴力は野放しとなる。そして、被害にあう子供は、そうした被害を大人に訴えることがない。その理由の一つに、訴えたところで、加害者への罰が現実的にほとんど無く、報復の方が恐ろしいからだろう。
保護されないことを通じ、子供は「自分に振りかかってきた火の粉は自分で振り払わねばならない」と考えざるを得なくなる。そして、弱いということを認めることが恥ずかしくなるだろう。いじめられる奴はそれなりに理由がある、という理屈である。言いたいことは分かる。しかし、これは酷であると思う。
問いはシンプルだ。犯罪はしてはならないと教えるわけにはいかないのだろうか。そして、犯罪はどうあれ刑罰を受けるということを実地に体験させるということである。そうしたことを通じ、被害者には弱いことを認めることは恥ずべきことではなく、罪を犯したものを当局に通報することこそ善であるというようなことを教えるべきではなかろうか。
子供時代の暴力の思い出
ここで、いつものように無駄な思い出話。
私は端的に暴力は振るっていいものだと思っていた。正義とは暴力が存在しないことではなく、暴力を制御することであるとは中学生の頃から考えていた。暴力が存在しない世界など想像もできなかった。
だからこそ、有効に根回しをし集団を作り上げ、不意を突いて敵を襲った。普通の人間において、人数差を凌ぐ個体差はありえない。集団を作ることが支配への道である。私は普段は優しく振舞い、時に集団の暴力を行使するにあたり残酷に振る舞った。
いざとなったら殺す気で釘を打った角材を持ってチャリンコを漕いで、「怖い兄貴」のいる不良の家に行ったこともある。ちょっとした不良ならバタフライ・ナイフを器用に扱っていたものだった。上級生数人に袋叩きにされたこともあるし、木刀をつきつけられ土下座して謝ったこともある。
ある日、ナイフを所持していたのを祖父に見られ「そんなの持ってると、やられるぞ」と言われたのだが、僕はそうした事情をどう祖父に説明したらいいのか分からなかった。武器もなしに、どう正義を為せるのか。意味が分からなかった。僕はナイフが怖かった。だから暴力には従うだろう。これは情けないことなのだろうか。ナイフが怖いのはいけないことなのだろうか。ナイフが怖くて、自分もナイフを持ち、ナイフに頼る輩が怖くて、ナイフに頼ることはいけないのだろうか。僕はこう考えたが、泣いてしまって、うまく言えなかった。
祖父は「逃げることだ」と教えてくれた。戦場を生き抜いた智恵であったかもしれない。しかし、自分の大切な友人も残して? 無力であることを恥しめられて? 固定された集団において、弱い者は更に弱くなり、奪われる者は最後の一つまで奪われるのである。どこまで逃げる? 不登校になればよいのか?
そうした戦いの果てに、中学校時代の最後の頃、僕は「いじめ」の存在しない帝国を築きあげた。いじめの元を巧妙に制御したのである。「不良」を集団の暴力の下に無害化し、特に酷い「不良」は不登校においやった。「いじめ」は無くなった。私は本当にそう感じていた。正直に自惚れを書くが、僕は内心で惚れ惚れとしていた。が、実はそうだと感じていただけであり、私の見えないところで「いじめ」はあったらしいのだが。
私は果たして正義だったか。勿論、偽善であろう。だが、偽善であることに恐れはなかった。私は私の正義を実現すべきだと思った。出来うる限り、暴力を有効にコントロールし続けた。当時、正義に悩んでプラトンやソクラテスを読んだが、馬鹿らしくて投げ出してしまい、以後、ずっとプラトンとソクラテスは嫌いである。
権力のシミュレーションゲームをしていた気分の僕は、卒業アルバムで「誰とでも仲の良い人」にランクインしていて、なんというか笑ってしまった。何人かとはまともに付き合ったが、僕はどう考えても「誰とでも仲良く」するようなタイプではない。
子供の犯罪にどう向かいあうか
端的に、子供時代の暴力に関して、警察のお世話になるべきだったと思うことがいくつもある。僕は人間全ての人が、人の痛みが分かるわけではないと考えている。そして、人の痛みが分かる人は教えられなくても分かるものである。端的に、人の痛みに同情させようとする教育は馬鹿らしいと思う。彼等は人が苦しむのを見て喜ぶのであるから、B君が苦しむことはやめましょう、じゃ話にならないのである。
何人かの人間は人を騙しても平気であるし、何人かの人間は痛がる人間を見て楽しがる。これは疑いようもない。人の不幸は蜜の味である人は確実に存在する。僕はこういう人間が変わることは教育によっては起こらないのではないかと思う。よっぽど素晴しい女性が献身的に愛情を注げば別かもしれないが、大抵の場合、彼等は徹底的に親から損なわれていて、しかも幼年期から暴力による成功体験が豊富なので、通常の会話やら授業やらで更生できるような性質ではない。彼らの良心には期待はできないのである。
だから、国家には刑法が存在し、行政は強制執行権を持つのだろう。強制執行できない法律、つまり暴力を振るわない法など空虚でしかない。
ここで僕は、小中学生に対しても犯罪という概念を教えるべきだという発想になる。そして実際に恐喝や暴行があった場合には「A君すみませんでした」じゃなくて、もっと具体的に暴力が、振るわれるべきだと思う。つまり良心に訴えるのではなく、体罰か勾留、財の没収という形で「痛い目」にあわせるのである。
現状では暴力のふるったもん勝ちという状況である。そうしたことが成功体験としてインプットされる前に、犯罪はペイしないことを体験することが教育であるように思う。社会の原理として、私人の暴力は暴力支配装置たる当局が取り締まるものだと教えるのである。「子供だから」という形で暴力を野放しにするのはとても危険であると思う。
子供にとっての「当局の暴力」とはつまり学校の暴力ということになる。これを認めるしかないのだろうかと思う。学校は子供の所有物を「公共の福祉」のもとに「没収」し、子供の暴力に対し断固とした暴力による刑罰を与えるということである。少なくとも、先生が殴っていたら、子供の暴力があそこまで野放しではなかったと思う。そして殴る先生をもっと頼ったろうし、告発はもっと有効だったと思う。もし、学校が暴力装置であることを認めないのだとしたら、やはり暴力装置の親玉である警察に頼るしかないことになる。
どちらにしても、子供のすることだから、と言って何の強制力も発揮されず、被害者が自分の弱さに泣き寝入りするという状況はおかしいと思う。
と、ここまで書いて、やっぱり最初から感じていた、トンデモな話だなと感じる。これは僕が常々批判する恐ろしい管理社会を増長させるように思う。どこかで話のポイントが拡散している。けど、まあ、こんなとこで。そのうち整理できるかもいれないし。