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自分にとっての十二因縁説とは、認識論哲学と心理学を厳密に論理的に結合した理論である。主張としては、智恵が明るくないと、妄想や煩悩を生み、ありもしないことに苦しむということ述べていると思う。つまり「バカ → 妄想 → 欲望 → 行動 → 苦しみ」である。以下、私独自の解釈(勘違い)を述べる。
まず、以下のように考える。
1. 智恵が明くないこと(アヴィジャー)
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2. 概念形成すること、そのもの(サンスカーラ)
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3. 判断すること、そのもの (ヴィジュナーナ)
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4. 対象化すること (名前と形象、ナーマ・ルーパ)
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5. 主体の形成 (六入、感覚器官)
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6. 主客の接触 (触れること、 スパルシャ)
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7. 知覚 (受けること、 ヴェダナー)
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8. 衝動・欲望 (愛・渇愛、トリシュナー)
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9. 取得への執着 (取ること、ウパダーナ)
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10. 所有物や「存在する」ものごとへの執着 (有ること、バーヴァ)
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11. 生への執着 (生まれること、ジャーティ)
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12. 死や老いへの執着 (老死)
11の「生」の「生まれること」が苦しいのだが、これを「生への執着」と解釈すると、私的には論理が流れる。ポイントとしては、まず、人はよく知らない時に、何かを概念化してしまうのであり、そうして、概念化したものに判断をするようになる。そうする事で世界を客体と主体に分けることが始まる。こうしてお膳立ての揃った世界で、接触が起こり、感情(渇愛や嫌悪など)が生じ、行動が生じ、所有の執着が生じ、「我が物」という考えが起きることになる。そうした貪りが昂じると、何より我が身が恋しく、そうすると老死病などの恐怖・迷い苦しみが起こってゆく。こう私は考える。
逆に、老死病の恐怖・迷い・苦しみをなくすためには、そもそもの生への執着がなくなればよい。生の執着を無くすには、所有の心、つまり我が物という考えを無くすべきだろう。我が物という考えを捨てるためには、取得の行動を捨てるべきであり、そのためには、衝動を捨てればよい。衝動を捨てるためには、我と対象の接触が無ければよいのであり、そのためには、我も彼もなければよい。
そのためには判断一般の成立がなければ主客の分離は成立しないのであり、そのためには概念形成が無ければよいのである。あるいは判断一般と行ったが、それは意識とも呼ぶべきものかもしれず、その意識の成立は概念形成へと向かう意識の「どこかへ向かってしまう」性質と呼ぶべきものである。一見すると「意識」と「判断の成立」、「意識が向かうこと」と「概念形成」とは違うことのようだが、本質的には同じことに私には思える。
そして、その「概念形成」「意識が向かうこと」を捨てるためには、どうするか? それには暗いことを捨てるしかない。ただ、その無明を、どう照らすのかに、私は答を見出せない。ただ、何か「明るい」状態の時、サンカーラは生じず、判断的意識は成立しないのだろう。そう、私は理解している。
まず論理が一貫していることに注目して欲しい。初めから終りまで、前の項目が後の項目を生み、前者が無くなるとき後者も無くなる、前者が増えるとき後者も増えるという論理が一貫している。また、後の項目は前の項目で必ず説明され、どの項目も結局は妄想としての老死の苦へとつながる。
また認識論哲学と心理学の自然な結合も注目して欲しい。1から7までは認識論哲学であり、7から12は心理学である。これが論理的に自然に結合されていると思う。
そして、哲学や心理学の話題になる概念はこの十二因縁のどこかに必ずあてはまる。つまり、この理論によってその概念が何から生じ、何を生むのかが説明され得ることになる。
また、ある問題による苦労があった場合、その直前の項目を減らすことで、その苦労を除けるという、実際的な方法も与えてくれる。論理的な価値だけでなく、実際的な価値もこの理論にはある。
シッダールタは菩提樹の下でこの「十二因縁」説を閃いたから悟ったと『マハーヴァッガ』にある。ただ、その解釈がやはりいまいちよく分からない。
変更履歴
2006-12-03: 初出2007-05-13: 大幅に変更