2007-02-19

食文化試論

食文化について考えて久しい。「食」に対し自分が感じていること、一般的な「食」の「常識」に対する反発などをどうにか言葉にしたい、と感じていたのだが、最近、その方向性が見えてきた。

まあ、そんなポイントというかぼやきを少々。


さて、どこから話そうか。

まず料理とはレシピではない。つまり、レシピを見ながら料理を作ることは料理ではない。食材を買って来てレシピに沿ってメニューを作ることは料理ではない。いわんや、食文化とはレシピの集合体ではない。

なぜか?

それは私の料理の定義による。私の定義によれば、料理とは「やりくり」であるからである。料理とは与えられた状況に対する「やりくり」の技術だからである。どういう食材(や調味料、保存食)と調理器具があり、時間的、文化的(特に医療・宗教)な制約がある上で、それを保存したり、(食べる人間にとっておいしく)食べられるようにする、人間の工夫、やりくりを私は料理と呼ぶ。

その「やりくり」「工夫」の無い料理は料理ではない。少なくともそうした料理は食文化に貢献することはない。食文化の単純な消費でしかない。そしてすべての消費がそうであるように、そうした消費は食文化を破壊する。

これは「料理」という言葉の問題である。「まあ、うまく料理してやるよ」という日本語の発言は、与えられた状況をやりくりすることである。もし、そこに創意工夫が無いときは、私たちはそれを「料理」とは呼ばないだろう。


と、どんどん電波なことになってしまった。ふむ。まあ、続けるか。

そして食文化とはそうした「工夫」「やりくり」が創発したものである。「やりくり」に関する効率や組合せの問題から、自然に方向性が生まれるだろう。その方向性を決定するのは、実は人間の味覚の問題ではない。そうではなく、食材と器具の効率と組合せであるので、方向性を決定するのは、食材と器具なのである。

すると、食文化とは、存在する食材と器具の問題につきる。どのような食材があり、どのような器具があるかが、食文化を決定する。

「どういうものを食べたいか」という人間の趣向が食文化を生み出すのではない。既に成立した食文化によって人間が影響された上でしか、人間は食への趣向は持ち得ない。食の趣向は食文化があった上でのみ成立し、食文化は食材と器具の組合せと効率的な使用(つまり工夫)により創発する。故に、すべての食文化とは食材と器具がどのように存在するかに依存する。

もちろん、与えられた条件で、人間がどのような創意工夫を発揮するかも大きな問題だが、それは単純に偶然の問題とも考えられるし、それよりも言いたいのは、大概、人間の創意工夫といっても大枠は同じであり、同じような条件が与えられれば同じような工夫をする(とはいえ、それが既に成立した食文化の趣向に影響を与えられる場合もあるが)。


どんどんボロボロだが、まあ、続ける。

どうして調理の工夫の大枠が同じなのか? 創意工夫は無限ではないのか? 料理は無限ではないのか? こう思うかもしれない。

それはテレビの見すぎである。確かに「レシピ」は無限であるが、実はそれは「組合せ」の問題であり、料理における方法は有限である。

私の考えによれば、料理とは食材の以下の方法の有限の組合せである。

・切る(剥く、おろす、つぶすなども含む)

・和える(混ぜる、振り掛けるなども含む)

・火を加える(後述)

これらの操作を行えば全ての料理は完成する。もちろん、食材もほぼ無限にあり、操作を無限につなげることも可能と言えば可能である。しかし、入手する食材や操作の回数(所要時間)に現実的な線が存在するだろう。

そして操作の可能性すら、存在する調理器具に依存する(特別の事情が無い限り、すりこぎの無いところですりおろしはしないし、オーブンの無いところでローストはしないし、コンロの無いところで炒め物はしない)。

既に

どういう食材(や調味料、保存食)と調理器具があり、時間的、文化的(特に医療・宗教)な制約がある上で、それを保存したり、(食べる人間にとっておいしく)食べられるようにする、人間の工夫、やりくりを私は料理と呼ぶ
と書いたが、入手食材に限度があり、調理器具が操作を限定し、更に時間的制約が操作回数を限定する。ある状況における料理の可能性は現実的には有限である。

そしてその有限の可能性の中から人間は最善と思う行動を選択する。効率の問題から調味料や保存食は同じものが使用されるからベースとなる味付けは決定され、趣向が生まれるだろう(日本の大豆発酵食品、インドのスパイス、フランスならソース)。その趣向が他の料理にも影響を与え、そして更にその料理が趣向を形成してゆく。

そして、その体系化を私は食文化と呼ぶ。趣向とは本質的には食材と調理器具の効率的な使用によって生み出されたものである。大切なのは「趣向」の問題ではなく、「有限の可能性」、つまり食材と調理器具が食文化を本質的に決定することである。


調理器具の問題を考えたい。これが料理を大きく左右する。

典型的なフランスの家庭に炒め物が出来るガスコンロはなく、日本の家庭にバーナーやオーブンはない(両者とも最近はあるが)。魚焼きグリルが日本ほど普及している国はないだろうし、圧力釜がインドほど普及する国も無いだろう(インドは豆や根菜を利用した料理が多い)。多くのアメリカ人にとって白米を炊く専用機の存在は不思議なのと同じく、多くの日本人にとって朝の野菜/フルーツジュース専用のジューサーの存在は不思議だろう。

これは「さて、ちと洒落た料理でも作るか」と料理本を見た時にぶちあたる壁である。「オーブン? ねーよ」「二時間煮ろ? ざっけんな」(これはオーブンに鍋ごと入れてほっとけるから出来る技といえる)「バーナーで肉の表面をあぶれ? おいおい」「チーズおろす?」「肉を叩く?」とか。食文化が違うと台所に置いてある道具が違う。

また、食材でも同様に「そんな食材うちにはありません。というか買いに行くのも面倒です」という壁にぶちあたる。最近ではバジルくらい常備する台所も増えただろうが、それでもイタリアンやらフレンチやらを作るだけの食材が常備されている家は少ないだろう。

そして、そうした台所から無理やりイタリアンやフレンチを作るもんだから話がおかしくなり、大して美味くも無いのに「いやあ、料理した」という気分になるのである。

元々冷蔵庫には普通の食い物があるというのに、レシピを見て食材を買いに行き(場合によっては道具も購入して)、自分の食文化と違う料理を作るのは料理の勉強というよりかは、それは「料理」そのものの破壊じゃないだろうか。

レシピばかりを見ても、道具や食材に対する知識や技法を知らなければ、浅い料理しか出来るはずは無い。料理のよしあしとは手順が必要なのはもちろんだが大切なのはコツである。そうしたコツは文章になることは無く、その土地土地、その家々で、口伝えで受け継がれてきたのだろう。コツの伝承が食文化である。

料理とは完成品としてのレシピやメニューではなく、調理器具と食材への知識や技法、つまりコツこそが食文化にとって肝心なのだろう。


はぁ、めちゃくちゃだな。なんか疲れたのでまた。

2007-02-11

[書評] クロワッサン特別編集 昔ながらの暮らしの知恵。

この本の第一印象は「きれいな本」。カラーページがほとんどで、ぱらぱらとページを開けば懐かしい印象の食べ物や小物などが目に飛び込んでくる。しっかりと丈夫そうな製本で、紙質が良いからページ数は130頁しかないのに、1cm以上の厚み。前回に引き続き「女性誌……というかクロワッサンってのはたいしたもんだ」と感じる。

俺はおっさんであり、女性誌を手にすることはありえない。しかし、実際にこういう本をぱらぱらしていると「おっさんだって、いや、おっさんだからこそ、昔ながらの暮らしの知恵を眺めるのもいいんじゃないか」とか思う。

いいじゃないか、和食、いいじゃないか、火鉢。いいじゃないか、女性誌ならではの複雑なレイアウト、いいじゃないか、ありえないほど綺麗な写真、いいねえ、事実より情感優先の文章、いいよ、ネタがごったになってるとしか思えない複雑な構成、うん、それを反映した目次(「女性は目次は見ないんだろうな」とぼやく)……。

なんというか、本気で異次元。こう考えると、男性向けの本も女性向の本も両方読める女性ってのは本当に頭がいいんだな、とつくづく感じる(皮肉じゃないです)。ってか、ふつーに頭が切り替わるだけで、切り替わらない俺が変なのか、とか。

読み進めてゆくと(というか、こういう本はパラパラやるもんで、読み進める本じゃないのかもしれないが)、それぞれの知恵、技術が紹介者の母親や祖母の思い出と強く結びついている。ええ、この本のどのレシピ一つ取って見てもちゃんと思い出が詰まってます。「この料理はね、これがコツよ」みたいなおばあちゃんの声とか。

んで、そうした複数の人の思い出の声にしばらく浸っていると、なんだかこっちまで「夏の夕暮れ、縁側で涼みながら、ヒグラシの声に耳を傾けていると、どこか遠くで鐘の音が聞こえてきた」みたいな俺にはありえない懐かしさに満ちた「思い出」が脳内を占拠する。「あ、もちろん、浴衣ね、浴衣」

あー、ごめんなさい。俺が書くとダメなんだよ。どうしても皮肉みたいになっちまう。違うんだよ。いいじゃねえか、和食。いいじゃねえか、火鉢、いいじゃねえか、米のとぎ汁で床磨くの。んで、俺は浴衣でさ、とか。

はあ、そのためにはちゃんとアレだ。和な家建てないとな、とか。

いやいや、そういう問題じゃねえだろ? いいじゃねえか、和、まだ文化断絶してねえよ、和。

うーん、どうしてこの本を読むと、出てる人が外人というか自分の文化圏と違う人に見えてしまうんだろう? うーん。うーん。そういや、すりこぎとか火鉢とか最近みないし、焼き魚ですら、最近食べてないよな……。なんか、俺、この本を読むレベルに到達してないな。

いや、だからこそ、この本買おうぜ。みんなで読もうぜ。ぜってー、泣きたくなるから。自分が味わったことも無い「失ったもの」への懐かしさでね。


クロワッサン特別編集 昔ながらの暮らしの知恵。

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書評/

[書評] 進化しすぎた脳 / 池谷裕二

本書は2004年、慶応義塾ニューヨーク学院高等部にて中高生に対して行われた四回の講義を起こしたものとのこと。内容は最先端の脳科学、大脳生理学。

まず本書に先立ち2004年に朝日出版社より刊行され、それが今回、ブルーバックスで刊行となったとのこと。今回の刊行に際し、索引3頁、参考文献5頁を追加し、更に著者の所属する東京大学大学院薬学系研究科・薬学作用楽教室のメンバーとの追加講義一回を収録。追加講義はスカとしても索引と参考文献の整備は評価できる(というか、脳や神経の知識を元にしてとはいえ、「意識」や「心」の話は実証研究への言及なしだと、ただの「科学者の与太話」になってしまうだろう。そういう本多いよね)。

できれば入門書との位置付けを意識して推薦図書のような参考文献も付けてもらうと更に良かったと思う。まあ、この辺は後述。

397ページもあるが、もとが中高生への講義であり語り口はきわめて平易なため、さらっと読める。なにせ4回の講義の内容なだけなのでちょっとした時間で読了できた。中高生とのやりとりもさらっとしているというか、中高生もそこそこ知識あるからそんなに意表をついた発言も出てこないというかなので、普通に池谷さんの話が流れてゆく。いい意味でも悪い意味でも想定内の反応しかない。

内容については315頁から320頁までの「今までの講義をまとめて見よう」の節を読めば一発だろう。ここを読んで見た上で、全体の語り口とかを見て買うか買わないかを決めるのが吉かな。


さて、問題の内容なんだが、その前に分厚い帯に書いてあることについて少々。

帯には以下のようにある。

『しびれるくらいに面白い!』

最新の脳科学の研究成果を紹介する追加講義を新たに収録!

メディアから絶賛の声が続々と!

『何度も感嘆の声を上げた。これほど深い専門的な内容を、これほど平易に説いた本は珍しい』――(朝日新聞、書評)

『高校生のストレートな質問とサポーティブな池谷氏の対話が、読者の頭にも快い知的な興奮をもたらす』――(毎日新聞、書評)

『講義らしい親しみやすい語り口はもちろん、興味をひく話題選びのうまさが光る』――(日本経済新聞、書評)

まあ、こういうのさらっと無視すりゃ良いんだろうけど、そういう性格でもないんで一言言う。まあ、全然私に限っては嘘っぱち」というか「全然そんなことないよ」と。

どちらかというと、脳なんて普通に考えて面白そうな分野を語った本でこの本程度でそんなに評価が高くなるのが不思議なくらい。

ただ、この本が良くないのかというとそうでもない。著者の考えには大筋でかなり共感するし、正直言えば「えらいなあ」とか思う。でも「しびれるくらいに面白い!」というのは私に限っての話だが、無い話ってだけ。「こういう過剰な物言いが全体のレベル下げんじゃねーの?」とか無駄なことすら言いたくなる。


講義は教科書風ではなく、著者の興味に沿って組み立てられていく(当初は生徒との創発を期待していたのだろうが、まあ、そうはならんよね)。目次の項目立ても十分に細かいし、上述の315頁から320頁までの「今までの講義をまとめて見よう」の節を読めば大体の内容把握はオーケーだろうからここで、全体のまとめは書かない。

その代わり、簡単に全体を通じて私なりに気になったポイントや知らなかったことをいくつか。

  • 脳と身体は相互に影響し合っている、身体の変化に合わせて脳も変化する
  • 私たちの認識する「世界」とは脳が作り上げている
  • 私たちの実感、覚醒感覚は言葉が作った。「心は咽頭がつくった」
  • 脳は部分の総合としてではなく、全体のネットワークとして機能する
  • 「脳の100ステップ問題」 脳の活動はたかだか100個程度のシナプスを通過するだけで行われている
  • 「バイオフィードバック」 本来感知することのできない生理学的な指標を科学的にとらえ、対象者に知覚できるようにフィードバックして体内状態を制御する技術、技法(wikipediaより)

ちなみに上記のポイントのうち、どれくらいが「科学的」に認められているのかきちんと私は確認していない。


ところで「この本を知り合い中高生に読ませたいか?」と訊かれれば答えは「ノー」。

「その理由は?」と訊かれたなら「本書は心や意識など、客観的に存在が確認できない事物を扱っているから」と答える。つまるところ「それは科学的じゃない」から。

科学が再現性のある事物における相関関係以外は示せないというのは著者も認めているとおり。つまり、まず、心や意識は一瞬一瞬で変化し続け、二度と同じ状態は現れないだろうから再現性がない。また、実験によって何か有意味な関係を示せたとしても、それは因果関係を示したことにならず、ただ、相関関係を示したことにしかならない。繰り返すがこれは著者の主張でもある。

そこからもう一歩進んで私は脳科学による精神の「説明」に対し警鐘をならしたい(本気にしないように)。

物理学が産業に貢献したように、脳科学が医療の技術として利用するならば確かに相関関係でも十分だろう。重力という概念は物質の働きの内に理解されるだけで十分であり、その本質が何かという問いは(一部の科学者などを除いて一般には)興味のある話ではない。つまり、重力というものが何であれ、その概念を用いて運動の予測ができればいいのだ。説明などは予測のおまけ程度とも言える。

しかし、心は重力などと異なり「それが何なのか」が問われている。確かに一定のインプットを与えた後でどのような変化が起こるかを予測できるというのも興味があるが、それが「はい、ここの電極に電流ながすと不安になるでしょ? そういうもんです」とか言われても「それは私の知りたい『心』じゃない」と言いたい。どういう入力をしたら、どういう反応になるかという問題ではなく「心そのものが何なのか」を私は知りたいのだ。そして、そうした説明のために人の文学的な営みはあったし、今もありつづけている(心とは何かを考えているのは宗教や哲学だけじゃないだろう)。

明らかに現在の科学による脳の理解は未熟であり、その未熟な知識に基づいた説明も未熟に過ぎない。現に科学は意識の定義もできていないし、そうしたものを科学的に検証できるだけの実験方法すら見出していない。

それなのに、現に脳科学者は意識や心を「説明」している。そこが私には不思議でたまらない。科学の研究というのは厳密に論理的な作業だろう。どうして、そういう作業をしている人が、いざ意識などを語るとこうもはじけてしまうのだろう?日々の厳密さの裏返しだろうか?そこにおいて、説明は「科学」ではなく「文学」になっている。悪く言えば「ぼやき」である。

しかし、こうした本を読む人はそれを「文学」とは捉えないだろう。科学者が言うんだから科学的と思うはずだ。そして、悪いことに、科学的というのは現代において絶対的な説得力を持ちかねない。

若いうちに、こうした未熟な説明によって精神文化を「理解・解釈」してしまうのはあまりにもったいない。

脳科学者が発見した知見も素晴らしいのは間違いない。しかし、人間存在を理解、解釈するには現時点では従来の文学や哲学に分がある。実際、本書で意識に付いて考えたときも脳科学的な言及ではなく、従来の思考実験的であり、故にかなりの部分が既に哲学で言われていることである(しかも、それが「科学的に」検証されてないっぽい)。

加えて言えば、文学や哲学などによって与えられる説明や解釈に対し、理解や解釈、批判などをする中で、哲学的思索や思考実験、内省などの豊かさを学べるものと私は考える。科学的な説明では「実験でこうなりました。だからこうだと言えます」「へー、そうですか。そうなっているんですか」となってしまいがちだろう(ちなみに、この批判精神のない姿勢は「科学的ではない」し、逆にいえばそういう姿勢で文学を読む輩もいるだろうが)。

本書にもあるが科学至上主義はほとんど宗教である。

池谷 僕がいま「科学的じゃないと信じない」と言ったよね。となると、「信じる信じないって何ぞや」という話になるわけ。「科学的なら信じる」という、その「信じる心」って一体なんですか、と。
学生U やっぱりアレですよ……信仰(笑い)。
池谷 そう、もはや宗教だよね。信じる信じないという話なんだからさ。思い切った言い方をすると、科学ってかなり宗教的なものなんじゃないかな。「科学的」というのは、自分が「科学的」だと信じて、よって立つ基盤の中での「科学的」なんだよね。そう考えると、科学ってかなり相対的で、危うい基盤の上に成立しているんだよ。
だから科学が扱えない領域の事物を科学に説明してほしいという気持ちはわかるが、それはやめておいたほうがいい。それは科学的な態度じゃない。

それに考えるのだが、心や意識もクオリアに過ぎないかもしれないわけで、そうだとしたら、本書でもある通り、クオリアは言葉が生んだということで、そういう問題には言葉の方でアプローチするのがいいんじゃないか、とか思っていたりする。まあ、長くなるのでこの話は略。

あと考えるのが、従来の哲学とか宗教とかの理論を脳科学で検証するってのが近道な気も。他の脳科学者の本読んでても思うんだけど「それ考えた人いたよ。哲学書、読めば?」って気分にたまになる。

結論として、ふつーに批判精神のある人はこの本読んでもよし。読んだらすぐに影響受けるタイプは読まない方がベター。「心とかも科学で語れるぜ」とかなって人文書を見下す可能性あり。「いや、人間そんなシンプルじゃねーってば」。

まあ、いいや、結局、この本、中高生相手なわけで、あんま大人が本気になってというのも、大人げねーわな。夢もって脳科学の道いくのもいいしね。頑張れ、青年、夢見ろ、科学者(あ。皮肉じゃないからね)。

まあ、俺だったらふつーに定番なかんじの教科書みたいの読むよ。


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書評/サイエンス

2007-02-08

[書評] やさしいバイオテクノロジー / 芦田嘉之

なんというか、読後の印象は悪かった。しかし、それをどう言葉にすればいいのか、と考えるとこれがなかなか歯がゆい。陳腐な表現だが魚の骨が喉に詰まったようで、なかなか言葉が喉から出てこない。

ただし、この本の出来が悪かったからというわけではない、この本自体の出来はまあまあだ。そうじゃなくて、どうもこの「バイオテクノロジー」「遺伝子組換え」ってやつが、最後の最後で「あー、やっぱやだな」という気分になってしまったのだ。

ちなみに今までの私は「遺伝子組換えだから」とか言う理由で消費選択をしたことはなかった。ところが、「安全です」と書いてあるこの本を読んで「あー、やっぱ買うのよそうかな」という気分になった、作者には大変申し訳ないのだが。

なぜか? それは以下の文章による。

もし自分のクローンを作るとするなら、ありのままというより欠点を改善したいと思うでしょう。あるいは長所をより伸ばしたり、特定の能力が優れたクローンを作ろうと思うかもしれません。今の技術力でもそのような夢は原理的に実現可能です。ES細胞は培養できます。ということは、遺伝子組換えが可能です。つまり、自分と同じゲノムを基本形にし、一部の遺伝子を改変したES細胞を作り、体細胞クローン技術を使えば、改良したクローン個体を作ることが出来ます。もちろん、このようなヒトの遺伝子を改変することや、そのクローン個体を作ることは倫理的に許されませんし、法律でも禁止されています。
うーん、私の個人的な意見として、つまり、ぼやきとしてですが、いけないよ、そういうの、とか感じてしまう。まあ、作者も「倫理的に許されません」と書いているのだから私と同意見なのだろうが、なんというかこの文章から匂う「やっていいなら、やりたい」というような思いを感じざるを得ない(「~と思うでしょう」とか「夢」という言葉の使い方から)。

こういう作者の姿勢を感じただけで、どうも「いやだなー」という気分になってしまった。それに引きつられて、遺伝子組換えとかもやだなーという気分になった(まあ、論理的でも説得的でもないただの個人的な感情、ぼやきなので私と対立する意見の方は反論とかしないように。ちなみに明日には気分は変り、従来どおり遺伝子組換えとか意識せずに暮らすことでしょう)。

まあ「バイオテクノロジー」に対する立場はここで議論する気も無いので話題を変える。

本作りに関してはまあぼちぼちだと思う。新書サイズの206ページ。目次が3ページに索引が二ページ。8冊の教科書のみだが参考文献もついている。本文とイラストが半々になっていてイラストなどはカラー。デザインとしては良く出来ていると思う。

けちをつけるとすれば、まず紙質が他の新書ほどよくないこと。洋書のペーパーバックの紙みたい。

あと、最近多いんだけど、太い帯がついていること。これ外すには大きすぎるし、帯なので外さないと読みにくいと個人的には「やだな」と感じている。まあ、外して捨てれば良いんだろうけど。

ついでに、疑問というかなんというかと思ったポイントを書いておく。

まず以下の記述が気になった。

生物が生物から誕生し、新しい種も「進化」により誕生したことは今や理論ではなく事実です。
その次のページでは以下のように書いてある。
創造説は検証も反証も不可能なため、科学で取り扱うことはできないからです。科学的であるためには反証可能性が必要です。反証できないものは科学の範囲外です。全能の絶対神がこの世と生物などありとあらゆるものをお創りになった、というのであれば、そうですかと受け入れるしかなく、反証しようがありません。
なんというか、「事実」と書いちゃいけないんじゃないだろうか。言葉の問題に過ぎないと言われればそれまでだが、進化論だって「科学的」なんだろうから、そうであれば「反証可能性」があるということになる。ところで、「事実」というのには「反証可能性」はないはずだ(疑いが差し込めるような判断は推論や理論である)。ここらへんが私には矛盾した物言いにしか思えない。

こうした「事実」と「理論」や「概念」との混同が随所で目に付く。まあ、分かりやすい本にしようとの配慮なのかもしれないが。例えば「遺伝子」が「概念」であり「情報単位」だという説明が弱かった気がする(つまり「情報」でなく「モノ」「実在物」に読める文が多い)。

例えば、音楽やCDというものを知らないヒトに「このCDいいんだよ」とか言うと「ん?このCDというモノはいいモノなんだな? 光加減とかか?」としか思わず、中の音楽がいいとは考えないだろう。またそのヒトに「この中にね音楽が入ってるんだよ。CDはその器。その音楽がいいと言ってるの」とか言っても「ふむ。このCDの中には音楽というモノが入っているのか。それはやっぱり光るのか?」とか考えるだろう。

遺伝子を情報、それもタンパク質などを生成するための有意味な情報とか最初の方で強く書かないとDNAとの関係で意味がわからなくなりそう。いや、この本の説明が悪いとか言いたいわけじゃないんだけど……。

あと冒頭は「生命」や「生物」「死」が定義できないと書いて始まるので「お、謙虚だな」と思って読んでいたら、こんな文にぶつかった。

なんだか見もフタもない話で始まりましたが、大丈夫です。定義できなくても説明するのが科学なのですから。
おいおい、とか感じてしまった。

そして次のページを開くと生物の分類の基本となる単位の「種」の説明に入るのだが、そこでも「実は、その定義もはっきりしません」とくる。更に

近年、植物が持つ葉緑体ゲノムの遺伝情報を解析することにより、新しい分類学が誕生しつつあり、その解析結果によると、子葉の枚数はそれほど根幹の分類には使えないことが明らかにされています。
とくると、「高校の生物の勉強はなんだったんだ?」とか思ってしまった。

ところで、これはけちつけようとしてるんじゃなくて、単純に驚いたのだが、発ガン物質の割合を「食品とくに植物由来」「タバコ」「放射線、ウィルス、その他、環境、セックス」のそれぞれが三分の一ずつであり、「残留農薬、食品添加物」は無視できるレベルと書いてあった。そんなにタバコと植物ってのは悪いもんかと驚いた。あとで調べてみたい。

最期に遺伝子とは何かについてはてなから引用しておく。なんというか、まあ、私みたいにセンターで生物つかってすっかり忘れた人間には以下のような説明というか定義が必要だった。んで、その定義も流動しているのが本書の最期のコラムで分かった。

遺伝子 - 生物の遺伝情報の単位。

元々はメンデルの法則を説明する仮想的な単位であったが、後の研究によりその実体がDNA*1であり、その情報はDNA上の4種類の塩基(A、T、G、C)の配列によって規定されている事が明らかとなった。

狭義には mRNA tRNA などに転写される単位(構造遺伝子)を示すが、それらの転写を制御するための領域も含めることもある。 簡単に説明するならば、1種類の遺伝子には、1種類のタンパク質の設計情報*2が収められていると考えるといいかもしれない。

んで、最期のページのコラム「RNA新大陸発見」。
1つの転写単位が1つの遺伝子で1つのタンパク質を作るといったかなり古い概念は完全に崩壊し、1つの転写単位から種種の転写物が合成されることが分かってきました。これらの新発見が正しいのなら生物のゲノム単位での解析の考え方を大きく変える必要があります。ゲノムレベルでの解析には、主として塩基配列や遺伝子部分の相同性を調べるだけでなく、タンパク質に翻訳されない膨大なRNAやそれらが複雑に絡み合っていると思われるネットワークまで解析することに目を向ける必要が出てきました。遺伝子組換え食品などを作るときの遺伝子挿入部分も考慮する必要が出てきます。なぜなら、従来の考えでは、いわゆる「ジャンク」の領域に挿入するのなら、ゲノムに大きな影響は無いと考えられていましたが、、新大陸の発見により「ジャンク」領域が狭められたことから、挿入部分が限られてくるからです。

なんていうか、この最後の最後で「じゃ、今の遺伝子組換えじゃ不安ありってことじゃん?」という気分に落とされる。遺伝子という概念すら動揺しているんじゃ、まだバイオテクノロジーは始まったばかりなんだな、と実感させられる。


やさしいバイオテクノロジー 血液型や遺伝子組換え食品の真実を知る

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書評/サイエンス

2007-02-05

「食うこと」の想い出

俺は食い物の前で嬉しそうにしているイラストに弱い。

以前もドイツ語の教科書のイラストで、太ったドイツのおっさんがハンバーガー(サンドイッチ?)を両手で持って、ニコニコしているのを見て、なんというか泣きたいような、そんな気分になった。

こういう気分、分かるかなあ。

ま、別に分かんなくてオーケーなんだけど、いろいろ理由があると思うんでちとつっこむ。

以前も書いたように、俺はちと飯を分析的に食うところがある、というかあった(過去形のハズ)。それに俺は人の目とか、そういうのも気にする奴だった(過去形のハズ)。

んなもんだから、安そうなもの、粗雑そうなものを食って嬉しそうにするというのが、どうも気恥ずかしい、ということだった(過去形の……)。

なんていうかな。

例えばだよ? そのハンバーガー食ってめっちゃ嬉しそうなおっさんに、誰かが「あら、そんなもので、あなたの舌は満足なの?」とか言われると、なんだかさ、なんだかじゃん?

更に「ほら、こちらのお料理の方が上品ですことよ」とか言われてさ、そいでそっち食ったら、そりゃ確かにそっちの方がうまかったりしてね。

んで「ほうら。あなたの味覚と言いますか、食文化と言いますか……」とか言われちゃったりするとさ、なんかさ、あちゃーって感じじゃん?

そういうこと、なんか考えちゃうんだよね。


あるいはこうも考えられる。

欲望をむきだしの顔を見ると、その欲望が叶えられない時のことが可哀そうに見えるのかもしれない。

食事の喜びは直接的だ。だからこそ、それが奪われると直接的に哀しいし、怒りにもなりやすい。

「うまそうだなー」と思ってパクっと言ってめっちゃまずかったり、それを人にブン取られたりして「うおー!」ってなるのを見てしまって、なんだかな、という気分になるのかもしれない。

そんなことを感じているから、俺は小さいときから欲望を直接むきだしにすることはなかった(過去形のハズ)。


なんかそんなこと書くと思い出すことがある。

中学校の頃だった。弁当を食っていると、前にいた女の子が「お弁当、おいしくないの?」と俺に訊いたことがあった。なんかさ、あわれんだような声でね。

俺、おどろいたよ。自分がそんなにまずそうに飯を食ってたなんて。

でもね? 俺ね、その前までは「いつも、なんでも、うまそうに食べるねぇ」とかって親戚に言われてたんよ?

で、実際に珍味だろうが、ゲテモンだろうが、失敗した料理だろうが何だろうが方っぱしから食うわけよ。んなもんだから「残飯処理」とか言われたりしたし、俺はなんでも食うって妹と父親にはバカにされたりしてね。

ほら、でも、それって結局パフォーマンスだったりして、何も考えてないと、ホントまずそーに食ってたんじゃないかな、俺。んで、そういうの改めようって中学の時にも思ったりした。


ふー。なんていうんだろうな。

俺はじいちゃんっこでさ、両親に育てられたって言うよりかは、祖父にそだてられたんだよね。んで、そのじいちゃんってのが、まあ、食い道楽っていうか、まあグルメっぽかったりしたわけ。

俺は蕎麦とか鰻とか寿司とか天麩羅とかカツレツとかステーキとか、小さい頃から食ってた。「じゃあ、今日は浅草の○○で天丼食うか。あそこの天麩羅は大きいよなー」とかね。近所の鰻屋とかじゃ常連で「○○のぼっちゃん」とか呼ばれたりしてた。はは。

んで当然じいちゃんは「おう、うまいか?」とか訊くわけで「うまいよ」って答えるわけ。まあ実際うまいわけだしさ。んで「こことあそこじゃどっちがうまい?」とか訊くわけよ。んで「そうだなー、あっちかな」とか答えてみたりしてたわけ。

まあ、恵まれまくってるわけなのかもしれない。

でも祖父の金はうちの親が出してるわけで、んで、その祖父が無駄遣いするってのは俺の両親は迷惑ってわけで、俺がうまいもん食うのを知るとさ、俺の両親は当然、俺に嫌ーな顔するんだよね。

でも、両親は気が弱いからさ、直接祖父には言えなかったりするわけ。はは。

俺はさ、飯食いながらさ、小さいころからさ「ああ、じいちゃん、もうちょい安いもん食べようよー」とか思ってたわけなんだよね。

実際好きな「食べ物は?」とか訊かれたら「おから」って小さい頃、答えてたと思う。それが安いってのを聞いてた(昔の人は口が悪いから「ありゃ、鳥のエサだ」とか言ってた)のも大きな理由の一つだったと思う。ま、実際、今でも好きだけどね。

ま、そんなこともあんのかもしれない。


俺の祖父は市議会議員とかやってて顔が広かった。だからどこでも先生、先生って呼ばれてエラそうに振る舞っていた。

そんな祖父は近所のヤクザと仲良しで、まあ、悪いもん同士なかよくやっていた。祖父は「先生」でヤクザは「親分」だった。俺もその親分には本当にずいぶんと可愛がられた。

二人はよくうまいもんを食いに出掛けた。二人は浅草の街を肩で風を切って闊歩した。俺は二人が楽しそうに「ワル」をするのを見ていた。

でも、正義感の強い俺は、うまいもんが食えても、おもちゃを貰えても、ワルは嫌いだった。


その親分は刺され、半身不随で歩くことも話すこともできなくなった。そして、ある冬の日の夕方、自宅の風呂場で自殺をした。

祖父は糖尿病が悪化して心臓が壊れてゆき、親戚にも実の息子にも見放され、老人ホームを転々とし、最後は恐ろしく殺風景な病院で死んだ。

俺は祖父も親分も好きだった。尊敬もしている。本当に本当だ。

でも、そういう死に方って、自業自得なんだろうな、と結局は思う。

死ぬ前に、俺は祖父の見舞いに行った。そして、その病院の殺風景さと祖父の惨状に驚いた。祖父は寝返りをうつのも激痛に苦しみ、口をまともに動かせるようになるのに10分はかかった。はは、マジで涙出たよ。

俺は「じいちゃん、何か食いたいか?」と訊いた。

祖父は「スシ」と答えた。

俺は近くの「とんでん」で寿司の折詰を買って来た。じいちゃんはまともに口を動かせないもんだから、俺が寿司を口にもって行ってもうまく食えなかった。結局3つか4つを食べはしたと思う。

食い終わると祖父は、うまいもんの話をした。近所の鰻屋や浅草の天丼の話もしたと思う。

食うことは壮絶だと俺は思った。そして悲劇と喜劇は紙一重だと。

2007-02-03

海原雄山とメガマック

以前、どこかで海原雄山が高級車の後部座席で豪快に笑いながら「メガマック食いたいな」と言っているマンガの一コマを見た気がする。

んで「おいおい、雄山がメガマックかよ」って笑った訳なんだが、なんだか笑うだけじゃなくて、ごちゃごちゃと考えてしまった。

んなわけで、ちと書く。

海原雄山が「メガマック食いたいな」というのは「そんな海原雄山ありえねー」と笑えるが、実はそれほどありえないことではない。

CMを見れば一流シェフが即席麺や冷凍食品、レトルト食品、コンビニに置いてあるようなデザートなどに対して「これ本物」とか「うまい」とか言っている。

そもそも海原雄山は漫画のキャラであり、著作権保持者と広告作成者との交渉次第では、テレビで海原雄山が「メガマック食いたいな。がっはっは」と言うのはありえることである。

グルメ、美食の気違いである海原雄山と、食い物の名称という枠組みを越えてしまったメガマックの結婚はありえるのである(それにしても、なぜメガマックという名称はこんなに食べ物から離れているのだろう)。


ところで考えるのだが、「グルメ」という現象と「ファストフード」「コンビニ」「ファミレス」という現象は同時期に進行したように思う。

というか、この現象は同時期に進行しただけじゃなくて、本質的に同じ現象の表と裏だったという気もする。

別に説明しようって気はしないんだが、地方ごとの味覚、家庭ごと味覚というものが滅んでいった現象なんだと思う。統一した味覚が普及し、それ以外を排除していった現象なんだろう。

なんていうかな。俺は本質的に「ファミレス/ファストフード/コンビニ」と「グルメ」というのは同じ食文化の方向性だと感じている。素材や手間が異なるだけで、方向性としては同じだろう。

伝統的な家の料理、伝統的な郷土料理というのは、そうした方向性と完全に異なっている。

「ファミレス/ファストフード/コンビニ」と「グルメ」にある原理は、「値段」と「味」の配分の問題でしかない。費用(値段)と効果(味)の問題だ。この二極の原理に基いている。そしてその軸において消費者とのコミュニケーションがはかられる。

そしてその「味覚」も統一的に普及することに成功したため、どこに言っても「うまい」ものが食べられる時代となった。金があれば高そうなレストランに入れば、日本全国だいたい同じような味のものが食べられるし、金がなくてもファミレス/ファストフード/コンビニは同じ味を提供している。

家庭料理や郷土料理はその原理だけに立脚していない。それらにおいては、伝統や慣習、ならわし、それに健康などが「味」や「値段」よりも優先されることがある。

なんでも好きなものを食っていても病気になるから、薬としての食事も考案されるだろうし、その季節に何を食べるとよいか、どう調理するとよいかという伝統も生まれる。また地方ごとに多く収穫される食材があるわけで、これを飽きずに食べる方法や貯蔵する方法も生まれるだろう。

こうした「生活の必要」が生んだものが、本来の食文化だったと私は感じている。

流通はそうした文化を破壊する。

あらゆる食材が入手できる流通に支えられた上でのグルメなど、文化ではないと感じる。「うまいものを食いたい」というのは、ただの「わがまま」だ。

だから、俺にしてみたら海原雄山もメガマックも趣味の悪さという点では同じになる。「何が至高の味だよ、ばーか。その前に女房子供と幸せに暮らせよ」と。


ところで、逆に俺は「メガマック食いたいな。がっはっは」という人になりたいな、という憧れもあったりする。それくらい現代という時代が提供しているものに、ストレスなく喜べる人間だったらな、と。

ま、本気でなる? とか訊かれたら、いや、絶対やだ、と答えるだろうけど。

2007-02-02

[書評] 若さを保つ〈からだ〉のバイブル / マイケル・F・ロイゼン, メフメト・C・オズ

なんだか褒める書評ばかりってのも気がひけるが、残念ながらこの本もオススメの本である。なぜか? それはこの本が包括的かつ体系的に豊富な情報を実践的に提供しつつ、読み物としての面白さも備えているからである。

本書は、健康に関する「神話」「迷信」「誤解」を解きほぐし、整理された知識をつけたい人には最適の読み物といえる。451ページあるが、たらたらテレビの健康番組を眺めてるよりは効率的とも言えるだろう。

さて、題名に「バイブル」とあるが、実は原著では「取扱説明書」とある。そして、まさに取扱説明書と銘打つのにふさわしく、目次を見れば順番に身体についての項目が包括的かつ大系的に並んでいる(見易い目次には「心臓と動脈」「脳と神経システム」「骨、関節、筋肉」「肺」「消化器系」「生殖器」「感覚器官」「免疫系」「ホルモン」「ガン」と並んでいる)。索引も8ページあり簡単な医学用語に辞書代わりにも使えるだろう。

更に、この本は「読める」取説である。クイズもあればコラムもありイラストや表もバランスよく組み込んである。こうして健康に対する誤解を解いてくれる。じっくり読みたいタイプの人には話題がコロコロ変わるのは煩わしいと感じそうなものだが、やはり綺麗に話題やテーマを整理してあるというのは読み易いだろうし、内容を探しやすい。そして何より、飽きずに読める。

知識を与えてくれるだけではない。この本は「じゃあ、どうしたら?」という問いにちゃんと答えてくれる。これも本文に埋もれることなく項目が整理されている。


この本の長所を言うためには「健康本」の失敗例を挙げてみるのもいいもしれない。

まずよくあるネタが一発の本。「牛乳飲め」とか「肉ひかえろ」とか「ビタミンうんちゃらがイイ」とか、それ一つを書いている本。そういう本は、そうして健康が改善した人の体験談や、その効能がある理屈などを並べることが本の内容のほとんどであり、「じゃあ、どうすればいい」ということについては、ほんのわずかしか書かれない。ひどい場合、実践が書かれないものもある。そういう本は立ち読みでやるべきことだけを読んでおけばいい。

またネタが雑多につまっている本もある。一発ネタがごたっと並んでいて、まあやればいいのは分かるが、かといって片っぱしからやるわけにもいかない。知識も載っているが、結局、断片的なので記憶にのこらない。故にあまり役に立たない。

あるいは病気対策の本もある。これは、その病気の人には役に立つことがのっている。だから、その人には役立つかもしれない。しかし、こうしたタイプの本も結局は一発ネタになってるものも多いし、知識が雑多になってしまっている本も多い。それに、その病気じゃない人は手にも取らないだろう。

最後により専門的な本があるだろう。これも事典のようなものもあり、本気で調べる時にはとても役立つが、読み物として読むわけにはいかない。また、本当の専門書や論文は読むにも専門知識が必要だし、結局「じゃあ、どうしたら?」という問いには答えてはくれないだろう。幅広い知識がなければ、専門知識もいかせない。

この本は上のどれとも違う。私は、本書のような、きちんと包括的に身体や健康のことを説明してくれる入門書が欲しかった。今は、この本の知識をベースに更に自分の興味のある知識を補強するとよいと考えている。


若さを保つ〈からだ〉のバイブル

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奇跡のための祈り

ただのきちがい

***
慈しみは何も生まないかもしれない。
慈しみが何かを生むとすれば、
それは奇跡なのかもしれない。

そうだったら、なおのこと、
慈しまずにはいられない。




言葉は何も生まないかもしれない。
言葉が何かを生むとすれば、
それは奇跡なのかもしれない。

だからこそ、なおさら、
語らずにはいられない。




生きることは何も生まないかもしれない。
生きることが何かを生むとすれば、
それこそ奇跡なのかもしれない。

そうだから、なおのこと、
生きずにはいられない。




道は遠く、日は暮れて、
どこにも辿り着くことはないのかもしれない。
そう。
道が達することは奇跡なのかもしれない。
立ちつくす方が利巧なのかもしれない。

だからこそ、どうしても、
歩かないなんて、考えられないじゃないか




全ては無駄なのかもしれない。
無駄じゃないことなんて無いのかもしれない。

そう。だから、やっていくしかないんじゃないか?




どうだろう?

生きぬくしかないんじゃないか?
言葉をかけるしかないんじゃないか?
哀れみ慈しむしかないんじゃないか?
感謝し喜ぶしかないんじゃないか?

どうだろう?

歩き続けるしかないんじゃないか?
道を往くしかないんじゃないか?
やってゆくしかないんじゃないか?

ただただ、奇跡を求めて
ただただ、なすべきことをなすために




祈りは何も生まないだろう。
何かを生むとしたら奇跡なのだろう。

だから、祈らずにはいられない。




この祈りは何も生まないだろう。
この祈りが何かを生むとしたら、
それは奇跡だろう。

そのために、この祈りを捧げたい。

2007-02-01

[書評] クロワッサン特別編集 最新版・からだのツボの大地図帖

驚くほど出来がよかった。これ一冊で全身のツボの場所、名称、効果が分かる。サイズも値段もよい。

肩凝りや冷えなど症状別のツボのレシピも充実しているし、もちろん女性紙の特別号だけあって美容のレシピも充実している。また、手や足(リフレクソロジー)、頭などツボの多い場所は別に詳しく説明されている。

女性向けのデザインであり、シンプルで見やすい。とは言え、男の私でも部屋に置いておいて気にならないので、特に女性向けというわけではないとも言える。「ツボ」とか「漢方」などから連想されるものものしさは皆無である。写真とイラスト、文章の割合もとてもよい。

なんだか褒めすぎてるが、ツボに詳しくない私としては内容としては分からないので見た目しか話せない。

一つだけ、女性誌を読まない私が「あれ?」というか笑ってしまったことを書いておく。

加賀まりこのインタビューが載っているのだが、彼女の写真のキャプションに、彼女の一言が載っている。写すと

私は何も不具合がなくても、鍼灸のほかに、歯科、眼科、耳鼻咽喉科にも通っています。私は理屈で生きるのが嫌い。だから、自分が、この先生イイ! と感じたところに通います
とある。んで、この下に
ジャケット4万5150円……スカート……
とか書いてあった。女性誌に不慣れな私は一瞬「ん? ジャケット? ツボにどんな関係が?」とか考えてしまった。「はあ。ここですかさず広告か。たいしたもんだ。スカートとか全然映ってないじゃん」

まあ、さすがだな、と感じました。


クロワッサン特別編集 最新版・からだのツボの大地図帖

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[書評] 恋愛論 / 橋本治

実はこの本、最後まで読まなかった。それなのにグダグダ書くのもおこがましいが、コメントを少々。

まずこの本の想定されている読者というのが分からなかった。少なくとも私には関係のない話と感じた。それも当然かもしれない。この本は1985年の西武百貨店コミュニティ・カレッジで行われた講演を文字にしたものであり、きっと、その時代にそういう所に行くOLや主婦をターゲットにしたものであろうから。

全ての人間関係の概念が社会や時代の影響を受ける以上、恋愛という概念も時代の影響を受ける。もちろん普遍的な人間感情というのにそれほどブレはないんだろうが、「常識」「普通」「あるべき姿」としての「恋愛という概念」は社会と時代の影響を受けざるをえない。

それ故、20年以上も前に、その時の主に女性への「恋愛という概念」に対して挑まれた語りというものは、私にとっては無関係であった。いくつかの「恋愛という概念」への妄想は、講演当時まだ小学校も行っていなかった私が恋愛について考えるころには存在しておらず、それが時代の変化を物語っていると思う。ただ一方で当時よりも一般化してしまった「恋愛」の妄想があることも気になった。

一つは恋愛とファッションの過剰な普及という視点。現代は「猫でも杓子でも」恋愛とファッションをしたがる。また、出来ると考えている。そして、身の丈に合わせることを忘れ、過激なものを追い求める。この点は少女漫画、ドラマ、恋愛を唄う歌謡曲が完全に低年齢で固定した現代の方がひどいと思う。小学生が「身を破滅させるほどの」恋について歌っているのは私には病気にしか思えないのだが……。

当然のことながら、ファッションも恋愛も全ての人間にとって必要なものではなく、必要のない人にその能力が備わっていないのも仕方がないだろう。自分の身の丈に合わせた結果、お見合いで結婚するというは、それはそれで何も恥ずべき行動ではない。というか、それを「恥ずかしい」と思うほどに恋愛が普及した事実に驚く。あと「私って恋愛できないのかしら?」とか悩んだりする無駄とかも。

あと、恋愛には「成熟」が必要であるという視点もよかった。成長によって自分の枠組みが拡大し、大きくなった自分の内面を共に引き受けてくれる人が欲しいというのが恋愛だという考えは、まあ、うなづけないこともない。自分の枠組みが破滅するほどに自分の内面が大きくならない限り恋愛は必要ないのだから、普通に暮らしてるオバサンとかが急に恋愛してしまうのは、その歳になってやっと、その枠組みに収まらない自分の成熟があったからなのかもしれないとのこと。

最後に、どうして読みやめたかというと「ホモ」の話が出てきたから。初恋の相手が男だと、男でホモの気がない俺は読むのが苦痛になってしまった。いや、偏見なんだけど、ホント苦痛だからやめました。すみません。

この本は「恋愛って何かしら」と悩める全世代の女性向けと言えるかな? あと「ホモ」な人にもいいかも。まあ、その答えは「いや、悩む必要ないから」ということにつきるのだけどね。


恋愛論

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