2008-01-31

「今日だけでいいから」しておきたい12のこと

最近の十訓の最新版。直球に健全な生き方を書くと急激に宗教くさくなるな。

大切なからだのために

(1) 今日一日だけでいいから、ちょっとだけ自分の姿勢と呼吸に注意してみましょう。鳩尾を伸ばし、肩を落とし、うなじを伸ばしてみましょう。緊張している箇所があったらリラックスさせましょう。そして、自分の呼吸に意識を向けてみるのです。「真人は踵で呼吸する」という言葉をよく吟味してみましょう。

(2) 今日一日だけでいいから、ちょっとだけよく味わって食べてみましょう。食物が至った経緯に思いを馳せながら、ゆっくりと噛む毎に変化する味に注意して食べてみましょう。そのためには、できるだけ素朴な食物を食べてみた方がいいでしょう。

(3) 今日一日だけでいいから、ちょっとだけ運動してみましょう。歩けるときには軽く走り、座れるときには敢えて立ちましょう。散歩やヨガの時間をとるのもいいでしょう。運動は、あなたの健康でいられる時間を増やす大切な投資なのです。

大切なこころのために

(4) 今日一日だけでいいから、ちょっとだけお祈りや瞑想をしてみましょう。あなたに祈る神があるならその栄光を讃えるのが結構でしょうし、神がいないのなら世界の平和、人々の幸せを祈るのがいいでしょう。また、瞑想をして静かに自分を観察してみましょう。祈りや瞑想は、神秘的な面の真偽はさておき、心の疲れを癒し、心を鍛えるのに非常に有効な方法なのです。

(5) 今日一日だけでいいから、ちょっとだけ人類の優れた遺産に触れてみましょう。音楽や美術、文芸などの芸術を鑑賞したり、歴史や地理、哲学や宗教、数学や物理などの書物を紐解くとよいでしょう。偉人を習うべき師と仰ぎ、語るべき友とすれば、自ずとあなたは高いところへ導かれるでしょう。

(6) 今日一日だけでいいから、迷ったらすぐ休むようにしてみましょう。あなたの頭は閃いたり、気づくためにあるのです。悩んだり、探したりするのは苦手なのです。閃かないということは疲れているのです。午前中に悩んだら空いてる内にランチに行けという合図ですし、午後に悩んだらコーヒーブレイクの時間です。夕方に悩んだら仕事から夕食のメニューに頭を切り替える頃合いですし、夜に悩んだらお風呂かベッドに行く時間なのです。

自己実現

(7) 今日一日だけでいいから、自分の信念をしっかりと声に出してみましょう。自分の理念がぐらついていないか確認し、意志と目標を明確にすることです。あなたが、自分のすべきことをして、自分のなるべき人間となることは大切な義務なのです。

(8) 今日一日だけでいいから、ちょっとだけ自分の未来を祝福してみましょう。自分の目標が達成された状況を想像して、その未来を祝福しましょう。祝福された未来へと続く現在も、祝福できるはずです。

(9) 今日一日だけでいいから、朝に予定を立てて、夕に反省してみましょう。一日の始まりに、その日にすべきことを列挙して、優先順位を着け、旅行かばんに荷物を詰め込むようにスケジュールしましょう。そして、一日の終わりに反省しましょう。

人間関係

(10) 今日一日、一回だけでいいから、ちょっとだけ緊急の仕事や人からの依頼に厳しくしてみましょう。飛び込んでくる用事の大部分は重要でも必要でもありません。自分にとって大切なものを明確にして、きちんと優先順位をつけておけば、しっかりと合理的な判断を言えるようになるでしょう。

(11) 今日一日、一回だけでいいから、愛想よく人の話を聞いてみてみましょう。できるだけ議論を避け、人の評価や助言はさらりと聞き流し、逆に自分は言わないようにしましょう。心無い言葉は聴き捨てて、怒ったりしないようにしましょう。だまってニコニコと人の話を聞けばいいのです。

(12) 今日一日、一回だけでいいから、ちょっとだけ人に感謝してみましょう人の長所や魅力、成果を賞賛したり、努力や苦労を認めて同情したり励ましたりしましょう。お礼や労いのためにプレゼントをするのもいいでしょう。

関連

2008-01-22

雪舟「秋冬山水図」

東博にて「秋冬山水図」を見る。当初予想していた印象とは、全く異なる印象を与えてくれた。それは荒々しく、凄まじい ―― 更に言えば怒りに満ちたと言ってもいい――山水の景色であった。こうした印象について、いつものように妄想を書くことにする。

最初は静かな印象だった。

国宝室には静かに二つの掛け軸が掛かっているだけだった。その掛け軸に小さく張り付いている小さな山水画。これが本日のお目当ての雪舟「秋冬山水図」である。先日の等伯や応挙の屏風のような物理的大きさによる迫力はなかった。

私は即座に近くに寄った。いや、近寄りすぎた。そして、大胆な構図、力強さと繊細さを兼ね備えた線を私は確認し、なにかそこで「なるほど」と納得をしてしまった。「確かにすばらしい。が、ちょっと過大な期待をしていたかもしれないな」と。

だが違和感は残った。私は少し距離をとる。すると冬景図の方が一瞬にして完全に三次元的奥行きを持った景色として目に飛び込む。いや、もちろん三次元的に見えるなどというのは、ある程度の絵であれば当然も当然のことである。しかし、その三次元に感じる感覚や印象が通常とは異なるのである。通常の三次元に見えるのはあくまで遠近法的な処理に基づき、絵のレヴェルで奥行きを感じる。しかし、「秋冬山水図」では、絵のレヴェルではなく、その紙のレヴェルで完全に浮き上がって見えるのである。奥行きを「描く」のではなく、奥行きを「錯覚させる」絵なのである。


極度に強調された断崖の輪郭線が印象深い
雪舟「秋冬山水図」(冬景図)
(東京国立博物館 蔵)

再度近寄り、奥行きを見せてしまうその訳を考える。一つには強調された輪郭線。その過剰とも言えるほどに力強い筆線。そしてもう一つは視線誘導する確固とした構図である。その構図に基づいて、ぼやかすところ、強調するところがはっきりと分けられている。

しかし、強い奥行きに気がついてから、私はこの絵の孕むなにかに気をとられる。もう一度はなれ、雪舟の見せる景色を想う。見方としては、当然に若干の距離を取り、冬景はやや左から見て、秋景は右側からやや屈んで少し見上げるようにしてみると良かった。

何が私をひきつけたのか。それは、この景色、恐ろしいのである。凄い、凄まじいのである。冬の景色は、生命を奪いつくすかのように雪が大地を貪り、吹雪が生ける者を追いかけている。また、秋は秋で死体がごろりごろりと転がっているような景色である。その岩の表情、その山の表情――全ては生きている、それも肉食獣の如き猛々しさで息づいている。暮らしの中で、自然はこうも容赦なく襲い掛かってくるものか。

この絵は若いときのものか。私はそう感じた。この気迫、勢いと厳しさは尋常ではない。しかし、この細部を捨て、自らのできることにのみ力を注ぐことは、逆に円熟を経てからでなければできるはずがないことにも気づく。なにせその筆線のみにより獣のような岩を描くのである。しかし、この怒りともとれる凄さは、どう湧いてくるものか。


雪舟「秋冬山水図」(秋景図)
(東京国立博物館 蔵)

そこでふと思いついた。応仁の乱と関係があるのではなかろうかと。雪舟は五十目前の頃、明に渡る。それは十年に渡る応仁の乱が勃発した直後であり、明で名声を博した雪舟が二年後に戻るも戦乱の都には上れなかった。時代はそのまま戦国の世へと向かった。雪舟が戦火をどう感じたかは分からない。ただ放浪の画家である雪舟の描く景色が凄まじいのは、応仁の乱から戦国時代へと向かう時代背景があってのことのような気がした。雪舟が秋冬山水図を描いたのは、こうした明から帰国し、己の技術にも十分に自信を持ち、かつ、怒りのようなものを持てた時代ではないかと思った。まあ、安易もいいとこだが。

また、彼の絵は禅とは何かを考えさせる。そもそも禅画とは何なのだろうか。宗教画とは何か。そういったことを考えてみたくなった。

2008-01-15

[CD] Karl Richter - Bach Sacred Masterpieces (10 CD)

Bach: Sacred Masterpieces

いい物を買った。カール・リヒターによるマタイ受難曲、ヨハネ受難曲、クリスマス・オラトリオ、マフィニカト、ロ短調ミサがセットになったCD10枚組みのボックス・セットである。

マタイ受難曲は定番とも言われる58年録音。「CDジャーナル」データベースによれば

リヒター31歳の,極限までぜい肉をそぎ落とした迫真の名演。
まさしくそのとおりと思う。厳しい緊張感から湧き上がる、張りと深みのある音の圧力があなたを圧倒するだろう。

まずマタイを聞くなら、このリヒター58年録音のマタイを聞いてほしいと思う。それも聞き流すようなのではなく、対訳を見ながら歌詞も読み取ってほしい。更に新約聖書を紐解いてみよう。

マタイ受難は、新約聖書「マタイによる福音書」の26、27章のイエスの受難を扱っている。構成としては2部からなり、第一部はイエスの捕縛まで、第二部はイエスの捕縛、裁判、十字架への磔、墓の封印までを扱う。

その中でも中心は「ペテロの否認」である。かいつまんでおくと、イエスが最後の晩餐の席で、弟子たちに自分の「十字架に磔にされる」という運命を語る。そして弟子はみながイエスを知らないといって逃げることも予言する。中でもペテロは強く自分はイエスを助けると主張するのだが、イエスは「鶏が鳴く前に三回、私を知らないという」と予言する。実際にイエスがユダの裏切りにより捕縛されると、弟子たちは逃げるのに精一杯になる。ペテロもその一人であり、人々が「お前はイエスと一緒にいた」と言われると、「そんなことはない。私はあんな男は知らない」と言ってしまう。そして、ペテロが三度目の否認をしたとき、鶏が鳴き、ペテロはイエスの言葉を思い出し、外に出て泣くという話である。こういう「裏切り」についておもうのにもマタイは有益な題材となる。まあ、こういう話題は別の機会に。

ちなみに、リヒターの58年録音のマタイは日本版で普通に買うと五千円以上する(もちろん、ヨハネクリスマス・オラトリオも、それぞれ五千円くらいする)。もちろん翻訳の歌詞などがついてくるので価値はあるのだが、このボックスがいかに「安い」かが分かることと思う。

バッハ: マタイ受難曲
日本盤のマタイ受難。五千円以上する。

次のヨハネ受難曲は64年録音である。amazonにあるレビューによれば、リヒターによるヨハネ受難曲はこの録音しかないらしい。マタイよりも「個人的には」ヨハネを好むという人も多い。

クリスマスオラトリオは65年録音。これは普通に売っているの同じで、高校の図書館にもこの録音のLPが入っていた。聴いたことないが55年録音もあるらしい。それとマニフィカトは61年録音。

最後にミサ曲ロ短調は69年5月9日東京でのライヴ録音(日本の盤)。うちには61年録音のものがあった。それと比べると、ライブのためか勢いと迫力のある演奏。ただ、私の好みから言えば61年録音の方が静かで厳しい演奏なので好み。

以上、だらだらと書いたが、こうした演奏がとても安く聴ける。今なら中古で4500円でも手に入る。すごいことだと思う。本当に勝手なことを言うが、折角これだけ便利な環境に生まれたのだから、バッハのマタイやドストのカラマーゾフくらいは絶対に押さえておいたほうが良いと思う。その深さはハンパじゃない。本気で、一生楽しめるはずだ。

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2008-01-12

相手を立て、自分は下手に出て、議論を避ける

なんとなく、以前に対人系処世術の本を読んだ。結論から言えば、相手を立て、自分は下手に出て、議論を避けるということになる。当たり前のことだが、考えみると案外できてない訳で、しっかりと熟考&実践したいところ。

相手を立てる。褒める。認める。同情する。相手の立場に立つ。美徳に訴える。期待する。重要感を与える。

相手の話を引き出す。相手の興味のある話題を振る。個人情報を記憶する。

下手に出る。 穏やかに話す。断定的に話さない。

自分の過ちを話す。誤りを認める。

議論を避ける。反論しない。「しかし」と言わない。「イエス」を連鎖させて結論に誘導する。気づかせる。


関連するエントリ

朝起きるコツ

以前、私は寝つきも悪く目覚めも悪かった。それが最近、両方よくなった。

寝つきがよくなった一つとしてヨーガや坐禅のようなことをしているからだと思う。頭に上っていた意識を腹に落とすことで緊張が解けたのだと思う。宗教的なのが嫌いな人は(私がそうなのだが)別にただ十分ほど、呼吸によって下っ腹が動いているのを意識し続けるだけで十分だと思う。

また、ヨーガをすることで背中が意外にガチガチになっていることも知った。こうした背中や腰、首や肩のコリをとることで睡眠の質も向上したのだと思う。忙しくても、前屈系を一つか二つ、ひねりを一つはやるようにしている。

目覚めが強くなったのは、大学時代に朝の駅のバイトをして毎朝六時前には必ず起きねばならないという状況を作ったのがよかったのかもしれない。「自分は朝に強い」という自己暗示ができている気がする。以後、朝に強いと人にも言うし、自分でもそう思っている。

そう言えば、暗示というのは不思議なもので、実際に効果がある。「明日は絶対に○○時に起きる」と念じながら寝れば、大概、その数分前には目が覚める。大切な日の朝、こういう経験をされた方も多いのではなかろうか。これにもコツがあって、時計のイメージを頭に浮かべるのがいいという人もいるし、枕を叩くのがいいという人もいる(起きる時間の数を叩く人と、眠る時間数を叩く人がいる)。

他には、目覚まし時計に「スヌーズ機能」とやらがついているおかげもある。耳慣れない言葉だが、目覚ましを一度止めても、もう一度アラームが鳴るような機能である。「あと五分」派の強い味方である。

あまりやっていないが、枕元に濡れタオルを置いておき、目覚めたら即座に顔をゴシゴシやるという手もある。顔を洗う手間も省け一石二鳥である。また、古典的だが、梅干や水差しを置いておくという手もある。

最近は短眠を習得したいと思っている。昔は寝られなくて、数時間で起きてしまい、憂鬱な朝に呆然とすることになるのが困りものだったが、最近はただのよく寝る人になってしまった。それはそれで有難いことで体調が良くなっているのだが、やはりベストは短眠ですっきりと充実して仕事をすることかと思う。

私は大食漢であるので、最近は、小食・節食を心がけて内臓を疲れさせないようにしようと考えている。これが効果があり朝に内臓が重い感じがなくなる。やはり食べ過ぎていたのだな、と感じるし、「気分」や「目覚め」などの大部分は、内臓の不快感に寄るものだったかと感じる。

ちなみに昨晩は食べ過ぎた。結果、内蔵が重くてなかなか起きられなかった。情けない。

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2008-01-10

長谷川等伯「松林図」屏風はなぜ光を放っているのか

早寝早起きをしようと思い夕方六時に寝たら、零時に目が覚めてしまった。仕事を開始したら、午前十時にはすることがなくなってしまった。さて、どうするか。

なんとなしにネットを開きスケジュール帳を開く。そういえば、等伯と応挙を見られるのではないかと思った ―― 調べてみれば思ったとおり、等伯の松林図屏風も応挙の松雪図屏風も、まだ見られる。早速、出かけることにした。

そういうわけで等伯の松林図屏風について、妄言を少々。


長谷川等伯「松林図」屏風(東京国立美術館蔵)

昼頃、上野に着き、国立博物館へ向かう。縄文の土器と遮光器土偶に足を止め、飛鳥の仏像を抜けていると、奥に光るものがある。等伯である。

松林が光っている。確かに光っているのである。私は最初、あちらから光で透かしているのかと思った。もちろん、通常の明かりの元に置かれているだけである。

なぜか? 分からない。分からないが、ゆっくりと屏風に近づく。光の中に、明らかに三次元的な奥行きの中に、私は松林を知覚している。

私は更に屏風に近づかざるを得ない。

静謐 ―― と最初は感じる。緻密に描かれた松林は、明らかな生命力を感じさせつつも、あくまで静かに、幽玄な趣で風に揺れている。風? そう、風に ―― と感じたところで、松は風の中で揺れている。既に私は屏風から5メートル程のところにいる。近づけば、静謐に思われた松林は、どうしたことだろう、明らかに揺れ動いているではないか。そして、更に近づけば、緻密に描かれたと思われた松林は、激しい筆遣いで屏風に擦り付けられている一色の墨に過ぎぬではないか。

かくも荒々しい筆遣いの水墨画が、あれほどまでに静謐で幽玄な印象を与えるとはどうしたことか ―― 思うのは、全ては計算されているということ。緻密に描いたのでは、幽玄は描き得ないのかと思う。つまり、あらあらしいかすれの中にこそ、いや、そうした筆遣いを通じてこそ、静けさが訪れるのかと。


「松林図」屏風の一部(文化遺産オンラインより)

更に思う、やはり、現象とは形式であるのかと。すなわち、等伯が描いたのは筆遣いの痕跡に過ぎぬが、そこに形式が存在し、それが松林という現象をあらしめたのかと。つまり、もし、等伯が緻密に松林を描いていたならば、逆に「絵」であることが表に立ち、「巧みに描写された絵」にはなろうが、決して、松林という現象は立ち現れなかったのではなかろうかと。

巧みに描かれた絵は、絵であることを主張してしまう。等伯の絵に絵は存在しない。ただ、松林を立ち現せる、筆の痕跡、その何がしかの痕跡しか存在しないのである。それが離れてみたときに、現象を生じさせているのである。

なるほど、だから、光っていたのか ―― と、一人で合点がゆく。思うに、等伯は絵を書いてはいない、絵を見せてはいない。ただ、その痕跡の形式を受けた光が、人の目に届くところにおいての現象を求め、筆を揮ったのではなかろうか。

それをただの錯覚と言うかもしれない。そう、錯覚である。しかし、ここで重要なことは、錯覚をもって知覚せしむることと、緻密に描かれた絵をもって(結局は錯覚なのだが)知覚せしむることでは、どちらが、存在を立ち現せしめるかということである。いかなる写実的描写(つまるところは写真になろうか)よりも更に、等伯の絵が、我々の知覚において、現実の存在を立ち現させるのではなかろうか。実に等伯の松林の存在感は気味の悪いほどであった。

光の魔術師 ―― 等伯は、いや水墨画の傑出した作家は、「画家」と呼ぶより、「魔術師」と呼ぶが相応しいように思う。彼らの絵は、紙には描かれない。光の舞う空間に、あるいは光を知覚する人の心の内に、ある現象を描くのである。

いや、理屈は分かる。分かるが、果たしてこれは人の業だろうか。近くに来れば痕跡が見えてしまう奇蹟など、ナンセンスもいいところだ。あくまで、様々な地点からの幻視を狙い澄ました人の奇術と思う。むしろ、あくまでも天衣無縫たるダ・ヴィンチやフェルメールのごとき業が、神の業かと疑うべきものであろう。

ここで、くどくどとダ・ヴィンチやフェルメールについて語る余裕はないが、少し比較するとこれが面白い。彼らの絵は、一瞬の沈黙を描いている。まさに、絵なのである。特にフェルメールに甚だしいが、針を床に落とし、その小さいが鋭い響きが鳴り渡る瞬間の部屋の中の光を全て捉えてしまったかのような絵を描く。一瞬は静止し、永遠に世界は沈黙を鳴り響かせ続けている。


ヨハネス・フェルメール「真珠の耳飾の少女」(デン・ハーグ、マウリッツハイス美術館蔵)

等伯はどうか? 逆である。まったく逆である。絵は止まらない。動くのである。風は見えるし、聞こえるのである。気がつくと、屏風はない。描かれたものは無い。そう、絵ではないのだ。私は何を見ているのか? こう問えば、私は私の幻想を見ていることに気づかざるを得ない。そして、思う。しかし、それならば、世界もまた、実は、等伯のごとき、魂の宿った墨の痕跡で、できているのではないかと。

夢 ―― そう、夢かもしれない。それもいい夢ではない。悪夢とはいわぬが、なにか物の怪の支配する、そうした夢である。そうか、これは能の世界ではないか ―― 気がつけば当たり前のことである。その世界の質感は能のそれである。

能の時空の感覚とは、なにか「ありえないもの」がそのその場限りで一回的に立ち現れ、舞い、謡う。演技ではなく、神が、武人が、狂人が、鬼が、実際に現前し、明らかに行為をし、因縁を結ぶ、そうした時間・空間の世界である ―― 見られるもの、見るものは切り離されない。あらわれた因縁は、その場の共有において、結ばれてゆく。

この屏風もまた、見られるものではなく、ただ置かれてあるものとして、空間にあらぬものを現前させる。それが現象としての世界の安心を突き崩す。極めて醒めた思考で、あちらが本物ではないかと思わせてしまう。あるいは、私が生きる世界もまた、あの荒々しい墨の痕跡ではないのかと。

まあ、これは大げさであり、目は逆に緻密に描かれていないものを遠くから見たときに、逆に補完機能が自由になり、三次元の知覚を始めてしまうということなのだろう。見えないからこそ、逆に実在感というか世界感が増し、逆に「見えている」と感じさせる手法は西洋でもある。セザンヌや、あるいはキュービズムなどを考えれば、原理は水墨画と同じかと思う(いや、これは語弊があるな)。

とにかく、正月からいいものを見せてもらえた。これでしばらく絵画、あるいは現象について考えさせてもらえそうである。そうそう、来週は雪舟の秋冬山水図を見に行くことにしよう。

では、そんなこんなで。ちなみに、応挙の松林図も見たが、こっちはまた後日。

2008-01-09

予定を立てること

正月に痛く痛感したことがあるので、愚痴だが書く。

世の中には二種類の人間がある。予定が立てられる人間と、立てられない人間だ。実は私は「立てられない」方の人間であった。しかし、最近は「立てる」人間になり、立てられない人間と一緒に行動するのが苦痛でたまらない。言葉の壁より、予定を立てられるか立てられないかの違いの壁のほうが、重要な壁に感じる。

予定が立てられるというのは、自分の行動の見積もりができるということである。例えば、人と夕食をとることにしよう。そのとき突然に、その夕食の後に会いたいという連絡が入ったら、予定が立てられる人なら、夕食の時間を見積もり、移動時間も含めて十分余裕のある予定を組み、夕食を共にする人にも一緒にすごせる時間をことわるだろう。

予定が立てられない人というは、行動の見積もりができない。先の例であれば、夕食の時間がどれくらい掛かるか分からず、連絡をくれた人にはいい加減な返事をし、夕食を共にする人の前で、その後に会いたがる人からの急かす電話を受けることになる。

予定が立てられず、常に次の予定に急かされている人を見て、私は自分が予定を立てられる人間でよかったと思う。

とはいえ、予定を立てるのは難しいことではない。行動にかかる時間を見積もる習慣の有無の差であると思う。例えば、食事にどれくらいの時間がかかるかを把握したり、それがどのような形態(例えばコース料理を食べるか、牛丼を食べるか)だとどれくらいかを日ごろから把握しているというようなことだけである。また、特に酒を飲んだ場合には、話す内容がある場合などで、見積もりをすることになる。

特に話にどれくらいの時間を掛けるのかは、話す内容も規定する。同じ内容であっても、三十秒、三分、三十分、二時間では、同じ内容ではないほどに伝達される内容の意味が変わってしまう。変なタイミングで長い時間を掛けるべき話題を選んでもだめだし、逆に長く話せるときに短い時間で十分な話題で引っ張ってしまうと無駄な気分になる(酒をのむとやりがちな失敗である)。

私は人と話す前には、話題と時間の目安を予めメモ帳に準備しておくことにしている。もちろん、メモ帳とにらめっこしながら話すのではなく、漠然と頭に入れておいてその場の流れで話題は変わるのであるが、ちょっとした間にメモ帳を見て、話し忘れた話題がないかを確認するのに使っている。これで、人と話して変な間ができたり、逆に無為な空談に時間を使い、話すべき話をするのを忘れてしまうことがなくなった。さらに、予め時間を見積もってあるので、切り上げるタイミングも明確であり(最初に「じゃあ、今日は何時まで」言ってある)、だらだらとすることもなくなった。

ほかに、見積もりというのは大げさだが、トイレに掛かる時間を見積もっておくのも重要だと思う。あと数分で電車が来るときに、トイレに行けるかいけないかという場面は多いと思うのだが、たまにそうした判断ができない人がいる。これはトイレが実はそれほどに時間をとらないことを知っていれば解決する問題だと思う。

ところで、予定を立てるようになると、予定を立てられない人間と一緒にいるのがつらくてたまらなくなる。事前に何時に終わるのか分からない飲み会がつらくてたまらない。

このところ二連続で昔の友人と部屋呑みをしたのだが、いつ寝られるのかが気になるし、まあ、それはそれとしてせっかくの機会だからとその場に集中しているのだが、なんとなくだらだらとメールをしたり、ほかの作業をされたりすると、「俺が折角時間を割いているんだから、そんなことは別れた後でしてくれ」と殴りたくなる。というか、殴ってしまった。うーん。

やはり、集合時間を守らないやつは付き合えないし、集合したらその場に没頭して、解散時間にはさくっと別れる、こういう関係でいたい。だんだん、年をとると若いころのように体力勝負でだらだらとしてるのはつらい。