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私は所謂ジャンル物をあまり読まない。だから恥ずかしいことにラヴクラフトという名前すらしらなかった。クトゥルー神話という言葉を聞いたことすらなかった。
こんな人間が本書についてコメントをするのは間違っていると思う。しかし、読んだ以上、思うことがあり書きたくなることがあるものだ。一つの怪奇幻想短編集を読んだものとして、思ったことを少々。
まず、重要なことは、本書がラヴクラフトの作品を収めたものではないということ。彼の添削や共作よりなる短編が収められている。
怪奇幻想というものはあまり読まないが、それでも面白く読ませてもらった。特に面白いと感じたのはC・M・エディ・ジュニアの「幽霊を喰らうもの」と「最愛の死者」、それにZ・ビショップの「メデュサの髪」だった。怪奇幻想を可能にする逸話や因縁、あるいはその土地に住む人の思いや歴史が効果的に語られ、怪奇幻想の世界に迷い込む主人公の恐怖が描写されている。
こうしたものを読んで、そもそもホラーとか怪談とか謂われるジャンルについても思うところがあった。
ホラーを支えるものはリアリティである。ありそうも無いことをいかにもありそうに語ることが勝負である。そのリアリティーを支える重要な要素は、場の空気だと感じた。どの短編も「場所」に敏感であり、場に無頓着な描写は面白くない。
ホラーは常にありえるものではない。だからこそ、「その場だからこそ」が求められる。その土地だったからこそ、その歴史があったからこそ、その人々の思いがあったからこそ、その因縁があったからこそ、その場所で「ありえないもの」がさもありなんと感じさせる。
なぜ、人は怖いものを見たいのだろうか。ありえないものに出会いたいのだろうか。
ストレスがないはずのものを要請するという考えがある。ジレンマに陥ったとき、絶望の淵に沈んだとき、聞こえないはずの声が聞こえる経験をする人がいる。ストレスがある一定の閾値を越えると、それでも生きねばならないことが、幻聴を要請するということもあるのかもしれない。ある人は神に触れ、ある人は悪魔と戦う。
そうした幻聴や幻視はある種の防衛だとも言われる。人は選びたくない状況でも生きるためには選ばねばならないときがある。そうしたとき、神の声や悪魔の囁きは必要なのだろう。現実そのものが受け入れがたいとき、ある種のファンタジーに生きることが、生を救うということもあるのかもしれない。
「ありえないもの」を現出することによって守るという防衛機能を備えた人間として、怖いもの見たさは本質的なのかもしれない。「飲む打つ買う」などの陶酔に身を任せたり、芸術や学術の高揚に酔いしれたり、異国を旅をしたりする欲求が人にはある。これは「ありえないもの」を生み出す能力が使われないままになっている不満を解消しているのかもしれない。持っている機能を使わないと欲求不満に陥る。
想像力はある種の怪奇に到達するのかもしれない。霊が登場する文学は多い。そうした物の怪に出会うことが何かしらの意味を持っている。また信仰の人もそうした何かしらのものに出会っているのだと思う。
ただ、今回の本では、そうした物の怪に出会った主人公が、そうした経験によってどうなったのかが分からない。これは短編だから仕方ないのかもしれないが、残念である。物の怪というある意味での人間の究極にぶつかった人間は、そういうものにぶつかるだけの因縁があるような気がする。だから、そうした因縁までも含めて描いてある作品を読みたいと思う。
ラヴクラフト全集
- H.P.ラヴクラフト、大瀧 啓裕
- 東京創元社
- 777円
書評/ミステリ・サスペンス