2008-04-08

生きる意味について - 人は充実感で生きる

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昨晩、生きる意味について理屈では説得できないと書いた。この点についてもう少しだけ。生きる意味について、私にとっての現在の大枠の見取り図を、積極的に書いてみた。

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「生きる意味」とは「意味の根源」であり理屈では伝達可能である。「神」や「生命の神秘」「人生の使命」のようなものである。それは確かにある人にはあるが、無い人には伝達不可能である。それを外部化して、あたかも言語伝達可能かのようにしてしまうところに宗教の凄さと怖さがあると思う。これはdigi-log: 自殺について言っておきたい6つのことに書いた。

言葉とは意味のネットワークであり、生きることがその意味を究極的に担保している(神様信じる人はそちらも可)。そうした意味の根源を失った人にはいかなる説得も通用しない。実は生命を実感したり人生の使命を感じるとは、神や自然、藝術を実感するのと同じく神秘的であり理屈を越える。恋に落ちるのと同じように、突然に、裏切られるように、人生の意味や、生命を実感するときがある。そんなもの。理屈では無理。それを強要しようとすると、ただのカルト。追いつめられた人間が更にコミュニケーション・チャンネルを失います。

しかし、生きる意味はあると私は言いたい。というのは、そういうものを感知する機能が人間には備わっているからだと考えるからである。神や愛、使命、あるいは生命や自然の神秘なるものが実在するかは知らない。しかし、そうしたものを「感じ取る」機能が人間に備わっているのは疑いようもないように私には思える。

人が生きていると、人生に巻き込まれる。人との関わりの中で情が生まれ、頼られ、死なせてもらえなくなる。殊に大切な人ができた場合、その人は死ねない。人との情に理由はなく、その理屈の外の直観が人を生かす。

生きる意味はこのように「出会われる」。主観的な視点ではなく、人からの視点の中で、人は死ねなくなる。死なせてもらえなくなる。自分が生きる理由が人のためというのはおかしいのだが、人のためというのは十分な生きる目的となる。これはdigi-log: 仏陀の教える生きる目的、生き甲斐 - スマナサーラ本より でも書き抜いたことと同じである。

あなたが生きることが、他の人々の生きる支えになるように、助けになるように生きなさい。そのときはじめてあなたの生きていることがたいへん重要な意味を持つことになるのです。人の役に立つ人生を送ることができるとき、はじめて自分に、生きるという目的が生まれるのです。

そうして生きることは、快楽であるとは限らない。いやむしろ苦痛すらありえる。しかし、それでもそれは生きる目的になりえる。なぜか? それは、そこには充実感があるからである。「死ねない」「やることがある」という情熱が人間を生かす。この充実感こそが人の生きる意味と言えるものだろう。

人間とは快楽ではなく充実感で生きる動物である。自らの価値観や意味付けに基づき主体性を発揮し、外へと向かう活動をすることによって、人は充実し、生きる意味を掴む。これは奉仕の精神とも言える。逆説的だが、無私においてこそ、人は自らの生きる意味を最も強く感じるのである。

逆にいえば、苦痛を最小にし、快楽を最大にする行動をするとき、人間は生きる意味を消失する。独り善がりでは意味や価値は発生しえない。充実感は生じ得ない。それどころか欲望は膨張し続け、虚しさだけが支配する。大げさだが、これが現代人の病理かと思う。

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充実感拡大と価値観・主体性確立の好循環を起動させるにはどうしたらよいか。「そういう機能があると思う」では説明になっていない。快楽最大化・苦労最小化は悪なのか。充実感と出会い、自らの価値観に目覚め、それを「使命」と感じるとはどうしたことか。神秘と出会うとは何か。快楽最大化・苦労最小化は悪なのか。そもそも価値観やら主体性とは何か。と、いろいろといい加減だが、こんなとこで。