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数字や論理は強力だ。それは会話を支配する。だからこそ、新しい価値を考えたり、未だに存在しない未来を語るにはふさわしくないことがある。人を惹きつける言葉は何か。もっと本能的で情熱的な思考が必要なのではなかろうか。鬱々しい気分を晴らすべく思い付いたことを熱く書いてみた。
- 計量的思考を批判し、アナロジーで思考する。ヴィジョン創造や共有においてメタファーは有力な道具となる。というか計量的思考も本質的に言えば一つのアナロジーに過ぎないわけで、一つのものに偏るのは危険である。数字は確かに説得する。しかし情熱を抱かせることはない。情熱を抱かせるのは人間の言葉、物語だけである。そして熱意を立ち上がらせる物語に類推思考は欠かせない。
- 常識や論理を懐疑し「正しさ」を再構築する。論理を外面化してもトートロジーを話すだけか、従来の常識を無反省に話すだけになる。常識とは集団が共有した知恵であり、生産的である反面、検証が必要なものである。常識が正しいなどという根拠はない。何故か人間にとって、それが正しいと思わされるということが起こるということだけであり、それは状況の変化にさらされれば、ただの屁理屈になる性格のものである。一方で、常に正しい論理は、たんにトートロジーであるだけであり、それは何も生みださない。「正しさ」の崇拝は危険であるか、不毛である。
- 自分を引き付けた言葉そのものを学び、説得力そのものを内面化する。誰しも人の言葉を聞いたり、読んだりして説得されたことがあると思う。その時に、説得された内容を検証することは勿論だが、その説得がなぜ起きたのか、その論理は何か、と問うことも有益である。こうした問いを通じて、論理を自分の内面にしてゆく。そうして生まれた自分だけの語り口が、結局は何かの価値を生み出し、人を説得するのだと思う。常套句とトートロジーによる外面化した論理では新しいものは生まれないし、結局は人を説得はしない。人は人にしか説得されないのだから。
結局は、互いのメタファーに共感できるような人間関係、アナロジー的思考を共有できる対話の場がないから、数字や論理、場の論理による思考が横行してしまうのだろう。意識的に「正しさ」を懐疑したり、アナロジーや物語を紡ぐような場を設けることが大切だ。
更にいえば、新しいものがうまれたり、信頼がうまれるのは、その人の言葉とその人自身が結びついた時だ。その人の経験、それを通じたその人の語り口、仄めかす比喩、それに基づく物語、こうしたものが総合されたものを、私は人の人格と呼びたい。つまるところ、人格とはその人が語る物語であり、その物語を可能にするその人自身である。と、ただのぼやきだが。
正直、気分が滅入った時には、なんというか、徒にこういう文書を書いていると気分が休まる。