2008-07-31

技術の発達が価値体系を変革する

発達したテクノロジーがそれ自体を支えていた価値観を破壊する。こうした現象が様々な分野で見られるようになるだろう。

これは全世紀初頭に写真が絵画に与えた影響と基本的に似ている。しかし問題は更にラィカルだ。いまや複製技術ではなく、合成技術の時代なのだから。

マトリックスで終わったアクション映画

以前「マトリックスでアクション映画は終わりを迎えた」と俺は言ったと思うが、それと同じ事が音楽で起こりつつある。

マトリックスの件をもう一度書いておくと、何の違和感もなく人の「アクション」として3Dの駆使を利用する映画の到来によって、通常の意味での「アクション映画」は「無意味」なものとなってしまった。無限大の能力は、能力という概念そのものを破壊してしまう。どんな「アクション」でも可能なとき、人はそれをアクションとは思わない。つまり「面白くない」のだ。

それ故、今後、映画は「回帰」が求められることになるだろう。それは演劇的なものであり、ドキュメンタリー的なものとなると思う。

機械の普及が破壊するもの

同様に音楽・音響テクノロジーの発達とそのポップカルチャー化が「ポピュラー音楽そのもの」を破壊しつつある。

安定した音程・リズムなどが、機械によって何の違和感も無く音楽として普及し、そのテクノロジーは最終的に人の声の合成にまでに及びつつある。ヴォーカロイドの人気と普及が更に進めば、ヴォーカロイドによる無限の自由によって、ポップそのものの価値観そのものが破壊されてしまうだろう。

広い声域、正確なピッチ、安定した音の持続といった”音楽家”の技術は、この技術によって無効になってしまうだろう。「機械のような」技術を求めた人は去ってゆくしかない。機械が登場したときには。

複製技術、つまり録音再生機器は演奏ごとに演奏家の存在を必要としたが、合成技術にとっては原型となる演奏家が一人、それもデータとして保存されればよい。あとは不要なのだ。

人間が勝てないチェスとサッカー

この問題はスポーツの分野にもおよぶ。 ロボットの究極はチェスや将棋の世界チャンピオンにAIが勝ち、 サッカーや野球の世界優勝チームにロボットが勝つという事態を生むだろう。

ロボコンの目標をご存知だろうか?それは、2050年までにサッカーのワールド カップ優勝チームに勝つ完全自律型のロボットを作り出すことだ。完全自律型のロボットが、人間のチームに勝つとき何かが起こるだろう。そこでスポーツに存在する「勝ち負け」という考えそのものが馬鹿らしくなってゆくだろう。

人はここに至って初めて音楽や映画、スポーツなどを反省するかもしれない。そして、それまでに無批判かつ無意識に想定していた、勝敗・正確さ・力量といった価値観そのものを疑うということにまで至るだろう。

音楽や映像が、「電子の戯れ」「デジタルなデータ」であるのだとしたらそこに意味はあるのだろうか?時代は既にこう問うところまで進んで来たのだろう。スピーカーの音、ディスプレイの光だけを私達は「受信」しているのだろうか?「再現」ではなく「合成」であったとしても、同じ電子データが受信されればいいのだろうか?そこに潜む「気味の悪さ」とは、単に「慣れ」の問題に過ぎないのか? それとも……?

残された選択肢

残されるのは3つの選択肢だ。

  1. そのまま機械が「文化」の担い手になるのを傍観する
  2. 「文化」そのものを単に放棄する
  3. 本当に人間の精神的なものに目を向ける

さあ、どうする?

俺はここで技術に対し、何と言うか? それは「がんがん、やれ!」だ。行くところまでテクノロジーが行けばいい。その究極の「完成」が人間に真の「苦境」を厭でも気が付かせられるように。

すぐに技術化された動物になった人間で、街はあふれかえることだろう。不毛なスピーカとディスレイとの戯れで無為に過ごす人も溢れることだろう。ここで浅田を引くのも恥ずかしいが、彼はこう語っている。

いつどこにでも待機していて、どんな問いにも打てば響くようにこたえてくれるメディアは、あの喪われた半身たる母の理想的な代補であり、それと対をなした子どもたちは、電子の子宮とも言うべき閉域の中にとじこもることができるのだ。言いかえれば、メディアは意地悪く身をかわし続けたりはしない親切な鏡であって、テクノ・ナルシシズム・エージのひよわなナルシスたちは、それを相手に幸福な鏡像段階を生き続けるのである。幸福な、つまりは、外へ出るための葛藤の契機を奪われた、ということだ。こうしたエレクトロニック・マザー・シンドロームこそ、ソフトな管理社会をめざす権力にとって絶好の手がかりであり、ひるがえってみれば、スキゾ・カルチャーへ向かう道に仕掛けられた最大の罠であると言えるだろう。(浅田彰『逃走論 スキゾキッズの冒険』)

最大の罠は成功することだろう。それもまた仕方のないことだ。人類が「機械のように」正確で力強い技術を求めたのだから。まあ、そうした地球を覆う歴史の流れには「馬鹿らしい」とは俺は言うが。

thanks

この記事は2008年6月24日の友人 I へのメールがもとになっています。そのメールを受信してくれた彼に感謝します。

notes

Lifelike animation heralds new era for computer gamesでは見た限りほとんど人間なCGアニメーションの映像がみられる。

啄木: テロリストの歌と詩、そして「時代閉塞の現状」

啄木の歌はひやりとさせるものがある。

以下「哀しき玩具」:
どんよりと
くもれる空を見てゐしに
人を殺したくなりにけるかな

やや遠き ものに思ひしテロリストの
悲しき心も
近づく日のあり

誰そ我に
ピストルにても撃てよかし
伊藤のごとく死にて見せなむ

更に「ココアのひと匙」という詩は:

われは知る、テロリストの
かなしき心を――
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らんとする心を、
われとわがからだを敵に擲げつくる心を――
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。

はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜りて、
そのうすにがき舌触りに
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。

「時代閉塞の現状」

時代閉塞の現状はなんといっても4節が面白い。啄木は時代閉塞の現状を描写し全精神を明日の考察へと向けねばならないと説いている。抜粋してみると:
  • 若者の内向的、自滅的傾向は「時代閉塞」の結果: 「今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。[...]今なお理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、長い間鬱積してきたその自身の力を独りで持余しているのである。[...]今日の我々青年がもっている内訌的、自滅的傾向は、この理想喪失の悲しむべき状態をきわめて明瞭に語っている。——そうしてこれはじつに「時代閉塞」の結果なのである。」
  • 「今日」に役立つ人間のみを養成する教育: 「ここに一人の青年があって教育家たらむとしているとする。彼は教育とは、時代がそのいっさいの所有を提供して次の時代のためにする犠牲だということを知っている。しかも今日においては教育はただその「今日」に必要なる人物を養成するゆえんにすぎない。そうして彼が教育家としてなしうる仕事は、リーダーの一から五までを一生繰返すか、あるいはその他の学科のどれもごく初歩のところを毎日毎日死ぬまで講義するだけの事である。もしそれ以外の事をなさむとすれば、彼はもう教育界にいることができないのである。」
  • 資本のない発明は無価値: また一人の青年があって何らか重要なる発明をなさむとしているとする。しかも今日においては、いっさいの発明はじつにいっさいの労力とともにまったく無価値である——資本という不思議な勢力の援助を得ないかぎりは。
  • 学生の就職口の心配: 今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいる。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から奉職口の心配をしなければならなくなったということではないか。
  • 「遊民」の増加: 日本には今「遊民」という不思議な階級が漸次その数を増しつつある。今やどんな僻村へ行っても三人か五人の中学卒業者がいる。そうして彼らの事業は、じつに、父兄の財産を食い減すこととむだ話をすることだけである。
  • 全精神を明日の考察に傾注しなければならない:「今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、ついにその「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。それは我々の希望やないしその他の理由によるのではない、じつに必至である。我々はいっせいに起ってまずこの時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧とを罷めて全精神を明日の考察——我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならぬのである。」

そして5節では、その戦略が考察される。彼はまず以下の三つの失敗を検討する:

  1. 高山樗牛の個人主義: 「人間の偉大に関する伝習的迷信がきわめて多量に含まれていたたとともに、いっさいの「既成」と青年との間の関係に対する理解がはるかに局限的であった。[...]彼が未来の一設計者たるニイチェから分れて、その迷信の偶像を日蓮という過去の人間に発見した時、「未来の権利」たる青年の心は、彼の永眠を待つまでもなく、早くすでに彼を離れ初めたのである」
  2. 宗教: 「我々の心にまぎれこんでいた「科学」の石の重みは、ついに我々をして九皐の天に飛翔することを許さなかったのである。
  3. 純粋自然主義との結合

以上の失敗の上から、啄木はこう言う:

我々の理想はもはや「善」や「美」に対する空想であるわけはない。いっさいの空想を峻拒して、そこに残るただ一つの真実——「必要」! これじつに我々が未来に向って求むべきいっさいである。我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。

そして、その運動の中で、文学の精神が復活するのではないかと結ぶ。

文学——かの自然主義運動の前半、彼らの「真実」の発見と承認とが、「批評」として刺戟をもっていた時代が過ぎて以来、ようやくただの記述、ただの説話に傾いてきている文学も、かくてまたその眠れる精神が目を覚してくるのではあるまいか。なぜなれば、我々全青年の心が「明日」を占領した時、その時「今日」のいっさいが初めて最も適切なる批評を享くるからである。時代に没頭していては時代を批評することができない。私の文学に求むるところは批評である。

2008-07-29

情報管理に関してウェブで目にしたことをまとめてみた

情報管理に関して最近 diigo でマークした考えを4つのポイントに整理してみました。

1. 情報を得る目的を決める

まず時間の管理が大切。何に時間を使うのか? 情報を収集するのか、情報を摂取するのか? という問いが必要。

「収集する時間」と「閲覧する時間」を分けます。これが一緒になっていると、相乗効果が悪循環を生み、きりがなくなるからです。

フォーカスすべきは「差別化」と「時間の使い方への徹底的なこだわり」の2点

無限の情報に対して、誰に対しても24時間と等しく有限な時間をどのように配分するか、この能力が情報大洪水時代における差別化の源泉になる

2. コアとなる情報のみを管理・記録する

単純な整理はグーグル先生がやってくれます。精選されたコアとなる情報や「インデックス情報」だけを管理・記憶するのがよいでしょう。

カギを握る考え方は、グーグルが扱う情報の単位、つまり記事、ウェブサイト、論文といった単位よりも、粒度の高いレベルでの情報整理を、情報処理の時点で行っておくことです。

「インデックス情報」とは外岡秀俊『情報のさばき方』という本に出てくる言葉です。彼は本書で5つの「基本原則」を掲げ、「インデックス情報」に着目した情報管理手法を披瀝しています。

  1. 情報力の基本はインデックス情報である。
  2. 次に重要な情報力の基本は自分の位置情報である。
  3. 膨大な情報を管理するコツは、情報管理の方法をできるだけ簡単にすることである。
  4. 情報は現場や現物にあたり、判断にあたっては常に現場におろして考える。
  5. 情報発信者の意図やメディアのからくりを知り、偏り(バイアス)を取り除く。
「インデックス情報」という手法は、不要な情報は捨て去り、自分にとって必要な情報がどこにあり、誰に聞けばいいのかという情報だけを管理し、記憶する方法です。」

3. 情報管理の方法はシンプルに

全てを記録して管理しても仕方がありません。記憶に残ったもので勝負してゆきましょう。

佐藤優はあまりメモはとらず、ただ一冊のB5ノートと段ボール箱だけで情報管理しているらしいです。

  • 時系列による資料整理法——ゆうパックの梱包箱(大)を使った整理法
  • キャンパスノート(普通横罫) 6号 ノ-10A(B5版100枚の大学ノート)に記録する

茂木健一郎は「情報の真水」にふれることを重視しているようです。

  • 「知りたいと思うものに、ダイレクトにアクセスする」
  • 「情報とのプロセスをなるべく減らす。メモも一切取らない。すべて自分の脳の中で整理する。」

「タグ」の利用もシンプルに。過度に期待しない方がよさそうです。

タグを2種類しか用意しないと言うことです。メールでは、2種類のタグを用意するとうまくいきます。
  • 名前
  • ごく少数の属性

4. 集中するための仕組みをもつ

シンプルな整理は何もしないことではありません。それなりに必要な情報が出てくる必要があります。ストレスフリーのためのGTDの教えからいくつかの言葉をひいてみます。

君の脳が気になって仕方がないものというのは,君の周囲にあるものが念を押してくれないもの

集中しようと思っていたのに,横からやってきて僕の集中を奪ってしまうもの。これがオープン・ループというもので,こうした考えがゼロになるまで,すべてをキャプチャーすることができればそれで十分なんだ

『いま』『ここで』『この状況で』やりたい・やるべきと考えていることだけに集中できる仕組みをつくろう
最初の一つは,さっき言った『頭が空』という状態を維持するということ,2番目が『物事が頭に入ってくると同時にそれが自分にとってどんな意味をもっている かを考える習慣』,3番目が『レビューを定期的にやって,頭脳がシステムを信頼してリラックスできるようにする習慣』。

diigo のおかげで、こうしたウェブ上での言葉の収集と再利用が簡単になりました。 "脳に効く"音源のリスト の時も簡単にポストできましたし。

Unicodeでの幅がはっきりしてない文字の問題

Linux 話なんだけど、UTF-8 な mlterm 上の GNU Screen の上で、mutt や w3m を使うとたまに表示が乱れるという問題があった。具体的には―や■などがあるとおかしくなる。

調べてみると Unicode での東アジアの曖昧な文字幅の文字 (CJK / East Asian ambiguous width character) という割に有名な問題だったらしい。よく調べてないけど、Unicodeのいくつかの文字について、文字幅を半角か全角とするかでソフト間で齟齬が生じたために表示が乱れていたらしい。ちゃんとUnicodeの仕様が統一されてないのかな?

ひとまず mlterm の .mlterm/main で col_size_of_width_a = 1 としとくと、mlterm と GNU Screen との齟齬が生じないので一応問題を回避できるが、それだとそうした文字列を半角としてしまうことになる。しばらくそれで放っておいたが、それじゃあんまりなので、ついカっとなって解決することにした。なんかコンパイルするの久しぶりかも。

具体的には以下の手順で解決できる。mutt は何もしなくても上手く動いたっぽい(パッチがあったっぽいけど)。

  1. GNU Screen と w3m にパッチあててビルド
  2. mlterm, screen, vim, w3m は設定変更

まず GNU Screen には ftp://www.dekaino.net/pub/screen/ にある以下のパッチをあて、あとは普通に ./configure && make && sudo make install.

  • screen-4.0.2-deadlock-patch
  • screen-4.0.2-hankanacopy-patch
  • screen-4.0.2-patch-cjkwidth-cvs-2006052001

次に w3m に以下のパッチをあて ./configure --with-termcap=ncurses && make && sudo make install.

最後に設定を変更する。

  1. .mlterm/main にて col_size_of_width_a = 2
  2. .screenrc にて cjkwidth on
  3. .vimrc にて set ambiwidth=double
  4. w3m はオプション画面にて ”Use double width for some Unicode characters" を有効にする。

これですっきり。それにしても未だにUnicodeでの問題があるってのは冴えないなあ。

参照サイト

2008-07-26

音声認識ソフト DragonSpeech の認識力の高さに驚く

音声入力ソフトウェア Dragon Speech を購入しました。

私はもともとこの手の製品に弱く、大学生だった。10年ほど前にもIBMのViaVoiceという製品を買いました。しかしながら、その当時のViaVoiceは十分な機能を提供しておらず、それ以後。私は、音声入力ソフトを試すことをしませんでした。

しかし、アイディアマラソンの樋口さんの記事を読んで、現在のDragonSpeechは十分実用的だということを知りました。早速、ソースネクストのサイトから、アップデート版を購入して、実際に使ってみたところ、これが、十分に実用的であることに驚くぐらいです。現在に至るまで私は一介の修正もなしに文章入力できています。昔の音声認識に失望した下には驚きの結果だと思います。

声で書くのが、最初は慣れないかもしれません。しかしながら、キーボードで書くことが最初慣れなかったように、口述筆記も、慣れることができると思います。

今回のエントリーは句読点に至るまで、口述筆記でなされましたので、句読点の位置や漢字の変換にミスがあるかもしれません。しかし、実際の音声認識ソフトウェアの能力を示すためにもこのままポストしようと思います。

関連記事

2008-07-18

電子書籍端末普及の日米の差について

気になる分野なので一応、今の感想をメモしておく。

*

ソニーと松下が電子書籍端末事業から撤退するらしい。日本では専用端末による電子書籍は流行らず、その間に携帯電話向けの電子書籍市場が成長したということらしい。

一方で、米国ではアマゾンの端末 Kindle が爆発的な人気とも聞く。3月には 供給が追いつかないことについて謝罪文を掲載していた。高価で重い 大学の講義用のテキストがオープンソース化されているという動向もあるらしい。こうしたオープンソースのテキストを読むための端末としても、電子書籍リーダーの需要は今後ますます高まることと思う。

この日米の差はなんだろうか。

ソニーや松下の端末とアマゾンのそれとにそれほどに大きな差があったのだろうか。私はそうは思わない。実物をきちんと見たわけでもないのだが、写真やブログの記事を眺めた限りでは、ものとしてはソニーの製品の方が優れていたように感じる(ちなみに私は大のソニー嫌いである)。少なくとも Sony Reader と Amazon Kindle とを比べた際、全体の機能やデザイン、そして価格の点で Kindle が目立って優れているようには見えない。

コンテンツ事情

まず、コンテンツの準備を、Amazonは成功したと言えるのだと思う。少くとも、松下やソニーの準備できたものとは桁違いである。よく分からないが、日本の出版業界は旧態依然ということだろうか。

また、日本の電子ブックリーダはTXTファイルやPDFを読めなかったことにも問題があったと思う。有料の電子ブックによらず、既に豊富に存在するネット上のコンテンツを読めるとしたら、それだけでも価値があったとは思う。上述の通り、大学で使用されるぶ厚く高価な教科書を、無料でダウンロードして表示できるとしたら、それを表示する機器の価値も向上することだろう。

使用する文字と表示解像度の問題

次に、文字表示の問題もあるのだろう。線画が細かい日本語の方が、紙とディスプレイとの差に敏感になる。これもディスプレイでの読書を妨げる大きな原因となったと思う。

また、細かい話だが、印刷の字体とコンピュータで利用される字体の差も気になる人には気になるものである。現に紙をなくして情報として活用するというラディカルなライフスタイルをとることを決意し、『記憶する住宅』を実践している美崎薫も述べている。

デジタル書籍も出ていますが,ちゃんと読むには,表示やフォントのクオリティが足りないと思っているのです。たとえば「逢う」という漢字を点がふたつついたしんにょうで読みたいとか,「躯」という文字を「身+區」で読みたいとか,「掴む」という文字をてへんに旧字の國で読みたいとか,そういうこだわりです。(Lifelog~毎日保存したログから見えてくる個性 第3回 紙をデジタル化する

この点では、アルファベットを利用する欧米では問題がなかったことと思う。印刷物と何ら変わりのない表示が可能だったのではなかろうか。電子書籍端末でなくとも、欧米やラテンアメリカの人には長文を読むのも平気と答える人が多くみられる。彼らが PDF とかも平気で読み出すのでビビった。通常のディスプレイでもきちんと表示されているのだから、これが専用の端末で表示に気を使っているのならば、本当に書籍を読むのと変わらない表示になっていたのではないだろうか。

*

個人的には目の負担を軽減する技術は大歓迎である。ある程度の大きさの端末を机に置いて読書なり勉強なりに利用できたら素晴しいと思う。特にネット上のコンテンツを印刷せずに、負担なく読めるようになるのはありがたい。今後も電子ペーパーや電子書籍・電子新聞・電子辞書の類には注目してゆきたい。というか、Kindle 買いたい。

外国語の学習方法

言葉の学習方法についてのメモ。まあ、本当はネイティヴと必死にコミュニケーションしまくったり、ドラマを一日の大半の時間見続けるとかがいいんでしょうけど。

  1. 基本語彙(2000程度)と文法を暗記する: たぶん、これは仕方ない気がする。まあ、基礎の文法も語彙もなしにぶつかってゆく姿勢自体はステキだとは思うが。
  2. 音読とリスニングを行う: とにかく繰り返し、読み、聞く。単語の意味は全体の意味から「なんとなく」理解したような気分にする。注意点は、翻訳しない、つまり、母国語を排除すること。
  3. 雑記を行う: とにかく思いついたことを書いてゆく。母国語を使わずに考える訓練なので、母国語で意味を考えてから書くのではなく、その言葉で書く。最初は、ただの単語の羅列だったり、めちゃくちゃな文であったとしてもいい。続けているとそれらしくなる。本当はネイティヴに見せて「お前、バカじゃね?」とか言われるのがいいが、案外、書き散らかすだけでも、次第にそれっぽくはなってゆく。
  4. 学習者向けの原語で引く辞典を利用する: 基本的に母国語いれるとスピードが実用的でなくなるので常に母国語は意識に入れないように気をつける。

提唱したいことは単語の意味は曖昧な記憶でいいということ。

アメリカ人とかに「おい、この単語どんな意味だ?」って訊いても、「ん? どういう時に使ってんの? 文見せて」とか言われる。んで辞書ひいて「お前、コトバ、知らんな。俺は日本語でなら、この単語は知ってるぞ」とか言うと「いや、知ってたよ。聞いたことあったもん。でも、単発でどういう意味とか訊かれるとキツい」とか、のたまう。

俺達だって日本語の単語の意味は曖昧に憶えてて、何となく使えてしまう。この「なんとなく使える」ことを大切にするのがいいんだと思う。

2008-07-17

所有欲と創造欲

欲望について度々考える。欲望に踊らされるでもなく、欲望を抑圧するでもなく、生きるということはどういうことか。すると欲望には二つあるようにも思えてきたのでメモしておく。

ここでは欲望を二つに分けてみたい。すなわち所有と創造とにである。所有への欲望は既存価値の賛美であり、それは端的に「くいたい」と叫ぶだろう。一方で創造への欲望は既存価値の破壊で、それは「うみたい」と叫ぶだろう。

欲望である以上、そこには力の問題がつきまとう。しかし所有欲と創造欲ではその働き方が違う。

所有欲は既存の何かを我が物にしたいという欲望である。その欲望の充足にあたっては、その対象を排他的に取得し、その所有を他者から承認されることが必要になる。ここで暴力が向けられるのは押しのけられる他者である。

創造欲では未だ存在しない何かを拵えたい、あるいはそうした誕生の場に立ち会いたいという欲望である。この欲望の充足には既存の存在物の破壊が伴うだろう。つまり世界全体に対して暴力が向けられる。

例えば、人は子を欲しがる。これは所有欲か、それとも創造欲か。あるいは、農耕で暮らす人々にとって、日々の労働とは所有欲か、それとも創造欲か。

この問いが既に答になっているのだが、人は創造と誕生に立ち会うことを欲望する動物である。人はより良いものを求め、現状を破壊してゆく。創造は常に危機を要請する。だからこそ、創造においては常に過去が参照され、模倣される。誕生においては、過去の起源が ―― あるいは歴史が ―― その場で回帰する。

2008-07-14

脳に効く音源のリスト

雑音は集中力を切らす。そこで、音楽やら環境音が効果的。よさげなのをリストアップ。

音楽

基本は自分の好きな音楽でいいんじゃないかとも思うが、変わり種を紹介。

環境音

水の流れる音とかがよさげ。

ノイズ系

情報と向きあうときに気をつけること

情報と付き合うときに、私は二つのことに気をつけている。一つは断片的な情報を避け、体系的な情報に取り組むということ。もう片方は、客観的にではなく、自分の問題意識に従って情報と向きあうということだ。

情報は麻薬になりえる

なぜ、こうしたことを習慣にしているのか。その答のうちの一つは、情報とは麻薬にもなりうるということだ。情報とは無限にあり、そうした無限としての情報は常に不毛をもたらす。あたかも不死がまさしく生の意味の否定につながっているように。

古人はこのことを明晰に語った。いわく、一粒の麦、もし落ちて死なずんば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし。 もしくはより簡潔に、有終の美、と。この言葉の意味するところ、それは美や意味 ―― つまり ”実り” ―― とは有限においてはじめてありえるということ。すなわち無限には美も意味もなく、ただひたすらに不毛が広がるということだ。無限のイメージを映し続けるであろうディスプレイは、まさに無限という名の不毛の大地へとつながっているのである。

と、こうした与太話はこの辺にしておこう。つまり、情報摂取は中毒になるということだ。何も生み出さぬ不毛なインプットは簡単に日常化し、常態化し、習慣化し、貴重な時間を奪い続けることだろう。無限への欲望は ―― いや、そもそも欲望とは無限だが ――人を蝕み続ける。己の不毛さを隠蔽したまま。

「いつか役に立つ」? 本当に?

情報はいかにして人を魅了するのか。それは不安を煽ることに始まる。全ての詐術と同じように。健康、富、仕事、人間関係、学習……こうした事柄に完璧な自信のある人は多くはない。こうした問題を少しでもうまくこなしてゆきたい。それも、ごく簡単な労力で。こう考えるのも当然のことである。しかし、まさにそこから詐術は始まる。

「待ってくれ」 ここでこう主張する声もあるかもしれない。「情報は役に立つはずだ。もちろん、いくつは実際の役に立つ状況が訪れないかもしれない。それでも、いくつかは知っておいてよかったと思うことがあるかもしれないじゃないか?」

「いつか役に立つかもしれない」。この言葉ほど成功した欺瞞も少ない。なにしろ、この欺瞞なしには、これほどの高度な消費社会は訪れなかったのだから。

しかし、このトリックを打ち破ることはたやすい。ある目的を達成するのに、いまこの場で何をすることが本当に投資になるのか? この問いを考えてみれば、情報を得ることが有益であるという欺瞞ははっきりとする。確かに情報が役に立つときもある。しかし、本当に大切なのは、成果を出すことなり、よい習慣を身に付けるということであるはずだ。それは「みせかけの投資」、投資に偽装した時間の浪費に他ならない。

いつか役に立つかもしれないという詐術は、人生を非個性的かつ時間的に無限するような誤謬に基づく。交換不可能で、ただ一回限りの、それも有限な時間しか持たぬ人間が、いつか役に立つかもしれないことために無限の情報を前にして時間を浪費することほど愚かなことはない。

更に言えば、情報を受け取ることが習慣化したときに、「いつか」は絶対にやってこない。なぜならば次々と魅力的な情報はやって来て、成果やよい習慣を生み出すだけの時間を与えてはくれないのだから。本当の投資は、例えば健康への投資が人生での活発な時間を増やしてくれたり、勉強が知力を高めるというように、必ず確固としたリターンがあるものである。

主体的・戦略的に情報を摂取する

発想を逆にすることだ。不安を煽られる前に、自分で主体的に率先して問題解決の努力をすることである。まず健康なら健康という目標を明確に立てて、 そのために一定のコスト(時間と費用)を充て、情報を選別し、吸収することである。そして、一度、情報を得た後には、そこから導かれた「仮説」に従って実際の努力を一定期間する他はない。その間には他の情報は「ノイズ」となるだけなので遮断してしまった方がよいくらいだ。そして 成果をみて、その努力や習慣を継続するか、立脚した仮説が誤っていたかどうかを再考することになる。

情報とはつねに過去の事実であるか仮説に過ぎない。それが有益であるのは、実際にそれを実行に移したときだけだ。効率を、生産性を高めることを謳う情報は次々とやって来る。大切なのは、どれか一つを自分のために実行することだ。

僕が最も尊敬する友人の一人に「どうやれば陸上競技で強くなれるか」と訊くいたことがある。彼はこう答えた。「どれが一番優れた練習法かは分からない。たぶん、答はない。ただ、一つを決めて、それにのめり込み、長い時間続けられた人は必ず強くなる。……普通は故障とかしちゃうんだけどね」

問題は目的もなく情報を摂取・蓄積することにある。情報を必要とするときは、自分の問題意識にそって主体的に摂取した方がよい。受動的に情報を受け取る習慣の中で曖昧に決断をしてゆくよりは、先手を打って自分に必要な情報を見定め、主体的に情報と付き合う方がよい。通常は「遮断」の方がよい。

「いま」を生きられない"情報中毒者"

「それでも、私には情報が必要なんだ」ニコチン中毒患者がその人にとっての煙草の必要性を語るように、 "情報中毒者" もまたその必要性を語ることだろう。「少しでも効率を上げようと努力しているんだ。そして、これが一番手軽な息抜きなんだ」

こうした "情報中毒" の語り口は、ニコチン中毒者のそれと相似をなす。「私にはニコチンが必要だ。少しでも仕事に集中するための努力の一つなんだ。そして、これが一番手軽な息抜きなんだ」

そう、彼にとって情報は「必要」だ。あたかも、ニコチン中毒者の煙草のように。それが不必要でもあり、時に害ですらありえることは隠蔽されることだろう。

それでも私たちはこう問わずにはいられない。「なぜ、"それ" が必要なの? 本当に今 "それ"が必要なの?」こう問い続けることが、不必要なアディクションを終息させ "健全" が取り戻されるだろう。 そう、なぜ "それ" が、まさにいま必要なのか? ストレス? まさか。本当に "それ"がストレスを解決する? そもそも解決したことがあった? つまり、"それ" によって気分が晴れたなどということが? それが役に立つ? いつ? どうして、それが役に立つと思う? なぜ、そんなに追い込まれているの? そうした状況に追い込むようなストレスとは一体なんだ? そもそも、それは一体 "生活" なのか?

こう問う中で更に問題が見えてくるかもしれない、つまり、問題を解決する努力を放棄しているということ、受け身に生きているということ等々が。大切なのは、しかしながら、答を出すことではなく ―― 結論なんてものはいつも陳腐なものだ ――、むしろ、こうした問題を問い続け、今という時間を自分の力で生きてゆくということである。

*

大切なことは、主体的に生きるということ、選ばされているのではなく選ぶこと。それが私にとって ―― 他の誰でもなく、ただ今ここにいる私にとって ―― 何の役に立つのか? と問うこと。受動的に情報を受け取っている時間があるのなら、自分の問題意識や強みを掘り下げたり、反省を行った方がいい。

2008-07-08

"科学離れ"な下の世代の考え方

「いっぱい勉強して、どこでもドアを作ってね」 家庭教師先の母親は、子供の意欲を焚きつけようとこう言った。

しかし、子供の答は意外だった。

「いや、あんなものはダメだよ。できたとしたらエネルギーを大量に消費するだろうし、簡単な移動ができてしまうと失われてしまうものも多いでしょ。無人島が無人島でなくなって環境は汚染されるし、犯罪に利用されたら大変だよ」

僕は数年年下なだけの生徒の台詞を聞いて、個人としての知性や鋭さというよりも、世代のギャップを感じたものだった。少なくとも私はそういう視点でどらえもんを見たことはなかったし、同世代でそういう批判をしたものは記憶になかった。割にひねくれた友人だらけだったが「どこでもドア〜? 欲っしぃ〜。作って〜」だったと思う。

だから母親の台詞を子供だましだなと19の私は感じたが別に違和感はなかった。人は常に新しい便利なものを生み出し続けてゆくものだという考えは、染み付いていたのだと思う。

言い換えれば、私はぎりぎり科学信奉の世代であり、彼は科学離れの世代と言えるかもしれない。科学について彼と話したのはとても印象深かった。私の世代にはまだ「原理を探求したい」がごく少数生き残り、一方で「できるなら作りたい」という考えが普及していたように思う。

しかし、彼らの世代には「そんなことをして何の意味があるのか」「すでに技術的・物質的には十分だ」という視点があった。貧困の問題にしても、物質や技術の問題ではなく分配・政治の問題であると言う。そんな彼が理系に進む理由、それは「発明」「進歩」ではなく「保守」「維持」のためなのである。そして、省エネ技術を追求する前に、ライフスタイルを再考しろよ、先進国民、というわけである。

私はにわかに信じられなかった。彼の発想にではない、そんな発想をしている本は山とある。そうではなく、彼の語るテンション、「子供らしくない」そのテンションに驚いたのである。私の世代が「新しい原理を見つける」とか「偉大な発明をする」というテンションでなかった以上に、彼らの世代のテンションは冷えきっているのだろう。

「科学離れ」という言葉がある。この言葉が示すのは、現代の若者が科学に興味がないということであり、かつて科学に熱中した人々がいたということであろう。そんな子供が現代にいたら逆に気持ち悪いのかもしれない。

時代が変われば子供も変わるのだな、と感じた。その時は。いまはやや違う。がそれはまたの機会に。