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なんだか書くこともないので、いつものようなことを書いてみる。
結論を先渡しすると「自分を常に観察できるようになれば、振舞が意識的になり、自然に行動が完璧に近づく。行動が完璧になれば人間関係の問題と自己認識の問題は解決するはず。特に、人と会話している時に無意識的になりやすいので注意が必要」といういつもの話。それで「その観察の基礎力を付けるために観察瞑想で洞察力を磨け」ということ。
常に自分に常に気づきながら、完璧に動作する。全てを洞察する。これにつきるのだろうと思う。
一番の苦しみは、苦しまずに済ませられる
人の悩んでいるのを見ていると、だいたい人間関係か自意識の問題である。つまり、人間関係や自意識をどう認識して処理するかで苦悩するのである。
大まかな感覚で言うと、女性は「誰誰さんがどう思ってる」「どうして、こんなに頑張ったのに報われないの?」「誰誰さんが羨ましい」という人間関係に苦悩しているように見え、男性は「自分が仕事を続けることに意味はあるか?」「そもそも生きるとは何か?」「自分とは何か?」などの、自己認識についての苦しみをしているように見える。勿論、安易な性別論はよろしくないが。
こう書いて気づくが、本質においては、両者の問題は一致しているのだろう。自意識があるからこそ、その自意識が人間関係上で達成されないと苦しいのだろう。そうした人間関係と自意識のズレの問題を、人の方に問題があると考えれば人間関係の惱みになるし、自分に問題があると考えれば自意識の問題になるのかもしれない。
悩んでいる本人にはかわいそうなことに、こうした苦悩は無駄な悩みに見えることが多い。本人が勝手に悩み苦しんでいるように傍からは見えるのである。
この苦しみは不必要であると他人に見えるからこそ、泥沼にはまり、苦しみとなるのかもしれない。
この問題はとても苦しい。答もないので、いつ終わるかも分からない。どちらが、より苦しいかは分からない。
人間関係と自意識を捨てればよい?
では、人間関係を捨て、自己認識をしないようにすれば苦しみは無くなるのか?
そうではないだろう。まず、この解決法は現実的ではない。人との交流を断った上、更に思考を放棄するための特別の努力が必要である。始めからそれほどの計画を着実に実行できる人ならば、人間関係で苦しむことはようにも思う。また、単に人間関係を捨てただけでは、逆により強固に、「人の声」や自己認識の苦しみに襲われるものである。
結論的に言うと、私たちは人間関係と自意識を捨てられないのだから、その問題を制御する能力を高めねばならないだろう。
その修行方法はというと、やはり徹底的に人間関係と自己認識に苦しむより他はなかろう。しかし、ただ、漫然と苦しむのではない。意識的に観察し続けるのである。己の苦しみを冷徹に観察し、苦しみの原因を分析するのである。
完璧な人間になればよい?
人間関係や自己認識に苦しむのは何故だろう?
一つには自分が自分の思うような状況で暮らせられないということとがあると思う。
ならば、完璧を目指すのが一番簡単なのではないか、と思う。つまり、人の目を気にしないように努力するよりも、どう見ても完璧に生きるように努力してみるのはどうだろうかと思う。
「それができないから苦しい」と思うかもしれない。確かに、その通りである。
ただし、その見方は自分の目であるとしたらどうだろう。
それでも大変だと思うかもしれない。しかし、ここで考えて欲しいのは、何故、自分の目から見ても不満な生き方を人はしてしまうのかということである。
人は無意識の内に行動をしていて、後から「良くなかった」と考えるのではないかと思う。つまり、行動しているまさにその時には無意識なのではなかろうか。そうでなければ、自分にとって不満な行動をし続けているというのは説明しにくい。
自分を観察し続けられれば、自然に完璧に近づく
つまり、自分の目で見て完璧に暮らせるためには、まず、常に自分で自分を監視できる必要があるのである。そして、常に監視が十分にできているのなら、自然と完璧に行動に近づくのではないかと思う。人が間違うのは無意識に惰性の行動をすることによってであると私は思う。
もし、常に自分で自分を監視できるのならば、自分で自分を完璧にしようと思うだろう。何故ならば監視しているのが自分なのだから。通常は自分が「監視されている」と思ってしまうので、監視される、完璧に暮らすというと窮屈な気分になるのだろう。
自分が監視されるのではなく、監視する
監視されて暮らせということではない。自分で積極的に監視しろということである。そして、自分で自分を監視し続けられるのなら、自分のことを完璧にするだろう。そういうことである。
だから、まず完璧にすることを努力するのではない。自分を24時間監視できるように努力するのである。その監視ができるようになれば、行動は自然に改まるだろう。
人の中にいる時にこそ、自分を監察する
そして、その自分で自分を監視するために、人を「利用」するのである。人と話している時というのは最も意識が「お留守」になりやすいと思う。話題に没入してしまうのだ。そうした人と話している時にこそ、自分を監視する練習をすればよいと思う。
いや会話の時だけではないかもしれない。食事もそうだろう。食事の時に「味わっている自分」を観察するというのは難しい。だから、何か自分が没入しやすい行動をしているときにこそ監視ができるように練習するとよいと思う。
ただ、そのためにも監視しやすい状況での練習が大切とは思う。具体的には座って瞑想することである。座って静かにしていても観察できないのでは、他の行動をしているときに観察するのは不可能である。まず、しっかりと時間を取って坐り、自分を観察するとはどういうことかを学ぶ必要があるだろう。
観察して気づく
そして、常に監視できるようになれば、自分の行動が人にどう見えるのかも分かるのだから、人から見ても完璧になる日は近い。そうすれば、様々なことに気がつく。「ああ、こういう仕草をしたら、この人はこう思うのだな」「こういう動作が影響がありそうだ」こうした些細なことを観察できるようになる。分析というよりかは直感的な理解である。
そして、人に会っている時にも、常に自分の観察の下に行動できるようになる。
自分に常に気づきながら、完璧に動作する。全てを洞察する。これにつきるのだろう。