2008-05-01

《場の論理》への抵抗

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往々にして《場の論理》は《個人の論理》を抑圧する。それは個人を平均化し続け、やがて自らもゆるやかな熱死を迎えてしまうだろう。いかに弱い個人が場の論理に対抗するのか。なんだかアブないような話だが、数点メモしておく。

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よく成功本には「主体性を発揮する」だとか「自由を尊重する」とか書いてある。正論だ。しかし、それは役に立たないことも多い。なぜなら、それは場を支配する者が取れる戦略だからだ。それは子に対しての親であり、部下に対しての上司だ。優れた親や上司が部下の主体性や自由を大切にすることは素晴しい。しかし、間違った親や上司に遭遇したときにはどうしたらいいのだろうか。そのような状況でどう「主体性」を発揮すればよいのだろうか。弱者に主体性を発揮する自由は与えられていないのだから。そもそも「強者」すら主体性を発揮できない空間で、どんな自由や主体性があろう?

問題は弱者がいかに場を改善するかである。別に大袈裟な問題ではない。例えば、誰も本音では行きたくないが、その場の空気で何故か行ってしまう二次会を、いかに弱者が回避するのかという問題でもある。高田明典『現代思想の使い方』 のゴフマンの解説をヒントに、何点かメモしておく。

  1. 直球勝負 「空気が読めない」という非難を受け入れ、正論を述べる。そして行動上も抵抗する。大抵は成功せず、マジョリティーには結束を、マイノリティーには自己満足のみを与えて終わる。ただし、一度も「正論」を青臭く叫ばない人間というものは個人的には信用できない。三十過ぎてまでそれでは病気だと思うが。
  2. 欺瞞的服従 口でも文句を言わず行動も従う。あるいはたまに「間違っている」と言ったとしても行動は従う。そして場の論理に従っているフリをして、集団そのものの敗北を待ち、土壇場ではしっかりと裏切る。そして最後に「ね。だから言ったでしょ」というヤツ。
  3. 不服従 勝目がないために言論上では場の論理に従うフリをして、いざとなると実際には従わずに制裁を受ける。所謂「決められたことを守らない人」。いい加減とか無責任とか思われる。しかし、制裁を実行するところで集団にもコストが掛かるので場の論理を再考する契機が与えられる。
  4. 客観的に破綻を暗示 場の論理に従っているフリをして、その論理を大袈裟に話すことで場の論理の破綻した帰結を仄めかし、「それヤバいね」という空気を醸成し、その場を逃れる。言動上では何らの抵抗も抗議もせず、場の論理の破綻した帰結を「いかにも無意識を装いながら」集団に示し状況をすり抜ける。成功したとしても、その集団の土壌自体が変わることはない。

2 と 4 の方法では集団は実際に変化を起こさない。4 の方法は一回限りの現象であれば有効だが、何度も同じことが起こる場合には効力を発揮できない。つまり、真剣に集団が場の論理を再考するのは 1 と 3 だけである。しかし、そのどちらの場合にも、問題を提起した本人である個人は集団からの相当の攻撃を受けることになる。

戦略としては 2 (欺瞞的服従)を中心に、どうしてもというときに 4 (客観的に破綻を暗示)を行うという形になるのだろう。そして、次第に 3 (不服従)で打撃を与えつつ根回しをしてゆき、ここぞというところで 1 (直球勝負)をする。

親子の関係であれば、基本は親に服従しつつ、どうしてもという時には相手の論理を大袈裟に拡張してその場をやり過ごす。つまり日常では自分の言葉は語らない。そして、次第に不服従を取ってゆき、逆に、そうした服従の論理の上に家族という制度が辛うじて成立していたことを想起させてゆき、ある日、正論で直球勝負をかけてゆく、ということになるだろう。

労使の関係であっても変わらない。基本は服従し、どうしても逃れたい要求に対しても、自分の言葉で反対するのではなく、相手の論理の転倒によって逃れる以上のことはしない。そして、根回しをしつつ不服従してゆき、最後に直球勝負をするということになるだろう。

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個人が無責任であり、無能であることを集団は何よりも恐れる。反抗する個人は御しやすい。彼らには《意見》や《要求》があるから、既にマジョリティーが成立させた論理や倫理観、あるいは実際的な暴力やカネの力で戦えば勝敗は見えている上、そうした個人の声を押し潰してゆくことで、集団の論理はカイゼンされ、更にしたたかなものになってゆく。

答はシンプルだ。無能になればよい。抵抗することはない。ただある日、自分には出来ない、と言えばよい。巨大に思えた構造も、実は個人の服従に支えられていたことが、不服従によって曝け出される。

集団は個人のコミットに支えられる。コミットとはその集団の価値観において優秀でありたいということだ。優秀であることを捨ててしまうとき、その場の論理は拘束力を失なってゆく。優秀への欲望を捨てたときに彼はその集団から自由になる。そうして自由になった個人が、再び自らで《価値》と《優秀さ》を定義しなおし、再びコミットを誘うに足る集団を作りあげられるのか、そのまま滅んでしまうのかは分からないが。

なんだかアブない文章になってしまった。こんなところにしておく。