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私は《ふれあう》という言葉が嫌いである。なぜなら、それは端的に人間としての関係を損ねるということだからである。更に言えばコミュニケーションの否定である。
《ふれあい》では相互理解が起こらない
《ふれあい》状態では意見交換は起こらない。馴れ合いが起こるだけである。そして馴れ合いは相互理解を生み出さない。
こうした状態は、両者が均質であることが前提となる。
もしも意見が異なった場合、もっと言えば互いの意見の土台が異なった場合、こうした《ふれあい》ではどうなるか。
決まっている。それまでの力関係がそのまま反映されるだけだ。どちらかが(あるいは場合によっては双方が)無理に合わせるように振る舞っているということになる。
《ふれあい》の場では、「意見」の点においても「思考の土台」の点においても、《強者》は《弱者》を抑圧する。強者は弱者を簡単に黙殺できるのである。
ふれあいを求める心
私達は馴れ合いを好む。だから《ふれあい》を好む。端的に言えば、それは楽だからである。
また、効率的と言ってもいいだろう。少い言葉で意志が伝わる。コミュニケーションのコストが低い。これは素晴しいことだ。
しかし、それでも私は《ふれあい》を推奨はしない。そうした馴れ合い状況とは、相互の意見交換と異なる土台の確認という作業を通じてのみ生じるものであるからだ。そうした状況は結果として生じるに過ぎないものであり、ふれあおうとする姿勢とは欺瞞である。
帰属意識からの脱却
こうした馴れ合いの大きな特徴は、集団や共同体への帰属意識として捉えられるだろう。共同体の論理が則ち、馴れ合うための共通の土台なのである。
こうした共同体の論理が構成員を縛り、外部を排除することは、従来では有利かつ有効に機能したと思える。しかし、状況は変化し、このような共同体への固執は有効に機能しないばかりか、ほとんどの場合には有害である。
現在、私たちが構成するであろう組織や集団は、構成員を拘束するような性格の《論理=制度》を保有することは現実的ではないし、そうした《論理=制度》が外部を排除する性質であることは有害でしかない。
では、どうするか。
まず、私達は率先して自分や相手の思考の土台となるものを疑うということだろう。少なくとも帰属など鼻に掛けないことである。現在は、帰属により信頼の基準を置くような状況ではない。暴力に訴えないということは言うまでもない。
そして、私達は、相互が異なっているということを承認していつつも、人と人が、ある程度の距離の中で共に居られるということを学ぶべきだと思う。そして、常に互いの意見を参考にしつつも、批判を加えたり、拒否できるという安心感が信頼に繋がるのではないかと思える。つまり、こうした相手のコミュニケーション的な理性への信頼が、これまでの共同体の帰属意識を乗り越えるものなのだろう。
そうした懐疑と公共性の確立の結果として、安心し信頼したコミュニケーションがありえるのかもしれない。その結果として「ふれあい」と形容するような状況もあるのかもしれない。ただ何度も繰り返すが、これは結果としてであり、ストレートに「ふれあい」を賛美するような姿勢は欺瞞でしかないだろう。