2008-05-19

生産と創造 技術と芸術

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別に技術や生産を憎んでいるわけではない。便利なことも、効率合理性もべつによいと考えている。ただ、そうしたものを制限するような思考をただぼやいてみた。

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こういう二分法自体に問題があるのだろうが、生産と創造は違う。

生産とは複製である。オリジナルなくコピーが製作されることである。それはある目的に向かう組み立てであり、仕立てである。それ自体の意味は他の何かへの意味へと転送され続ける。それは蓄積であり所有である。

創造とは生産ではない。それはオリジナルの誕生であり、根源的なものへの模倣・回帰である。それ自体の戯れに蕩尽的な満足がある、手探りの生み出しであり、拵えである。それは所有の挫折である。

ここで、世界とは労働において立ち現れるとか、そうした世界における痛みとか癒しとか、その避けられなさがとか、そういうこともグダグダ書きたいが、まあ、ひとまずそれは置いておく。

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生産では、全てのものが生産の合理性のなかに吸収されてゆく。自然も他人も自分の身体も全てが生産の効率合理性のための手段になる。純粋な手段としての技術が誕生する。仕立て上げる技術に私たちはうかされ、誰でもない誰かとしてその技術にうかれる。

生産の合理性はそもそもは自己保存のための手段であったのが、次第にそれ自体が目的となり、世界の自然を、社会の自然を、人間の自然を支配してゆく。うかれた者には大地は遠い。

技術の前に次第に手応えのあった道具すら損われてゆき、やがて身体すらも手応えを失ってゆくだろう。運動や健康、更には生命すら、手応えのないヨソヨソしい技術に支配されてゆく。

美はもはや存在しない。人は誰でもない誰かとして、技術にうかれるだけなのだから。手ごたえや手ざわり、響きや味わいなどはかき消されてしまうだろう。全ては仕立てへと集約されていくのだから。

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人はかつて生産をしていたのだろうか。人は農耕と工芸、芸能とに代表される労働は生産であったのだろうか。

それはむしろ創造ではなかっただろうか。創造という言葉ですらおこがましければ、創造に立ち会うことではなかっただろうか。一つの根源をまねぶことを通じて行われる営みではなかったろうか。進歩ではない、誕生と創造の瞬間への回帰と模倣、そうした奇跡の今ここへの「引用」あるいは召喚ではなかったろうか。そうしたものとして労働がありえたのではなかろうか。

創造の問題を考えるとき、こうした疑問が頭をよぎった。まあ、分かる人には、ただのあれなんだけど。