2008-05-21

ジョン・トッド『自分を鍛える』

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1800年生まれの著者が語る『自分を鍛える』は、古めかしい精神が好きな人にはたまらない本だと思う。人格とかいう古くさい言葉にピンとくる人にとってはちょうどよいと思う。私の中学生の頃からの愛読書でもある。

世の中には様々な自己啓発書がある。テンションを上げたいとき、誰かに叱って欲しいとき、人生に迷っている時などに、そうした本が手にとられる。

コンピュータの小技はさておき、根本的には人間の暮らしや営みは変わらないので、人間関係や自己管理の問題に全ては集約してゆく。そして最終的には「優れた人格」を形成するということになってゆき、よい人格とは「よい習慣」を身につけるということになる。

トッドの唱える人物像は、以下のような言葉に端的に表われている。

何事にせよ頭角を表す人物というのは、最初に慎重に検討を重ね、それからしっかりと決意を固めるや、断固たる忍耐心を持っておのれの目標に邁進し、脆弱な精神力の持ち主ならくじけてしまうようなちょっとした難問にも、少しも動揺しない人間だけである。

何よりもまずいのは、優柔不断が習慣になってしまうことである。[……] 自分の進む道は慎重に、しかもきっぱりと選ぶことである。そしていったん選んだら、何が何でもそれに食らいついて離れないことだ。(p.58)

目標の持ちずらい時代にピンと来にくい言葉だが、言わんとしていることはもっともだと思う。人間は努力すれば相当のことができるだろうが、あれこれやっていては何も出来ない。だから、一つのことを決める必要がある。しかし、そんな人生の目標なんてものはそうそうやって来ないから難しい。

原題は『Todd's Student's Manual Self-Improvement』というだけあって、学生用の修養書なのだと思う。だから、特に勉強の面での指導が目立つ。勉強によって優れた頭脳を養うことが大切というわけである。トッドのいう優れた頭脳とは以下のようなものである。

徹底的に鍛え抜かれた頭脳というのは、ふとしたはずみで調子よく働いたり、大きな能力を発揮したりする頭脳ではなく、一定の時間があれ ば必ず一定の成果を引き出す態勢が常に整っている頭脳のことである。……刺激がないと働かないような頭脳の持ち主は、その刺激を待っていなければならず、生涯ほとんど何一つ達成することはできない。(p.33)

こうした粘り強さと徹底とがトッドの説く姿勢である。勉強の意味とは何かという質問に、こうした自己管理能力を向上させることにあると答えることもできるだろう。

何事も入念にやることが大切という姿勢は以下のように語られる。

問題を調べる場合、おおざっぱな概念だけをつかんでおこうという態度で調べてはいけない。急いでいるとしても、徹底的に調べられるまで待つべきだ。

重要性の大小にかかわらず、たとえそれが何であろうと、少なくとも調べる価値があるのなら徹底的に調べるべきである──二度と調べる必要のないくらいに。そうすれば、いつまたその問題が持ち上がっても、考えは決まっているのであわてふためかないですむ。(p.71)

こうした人物観の下、よい習慣をつけることの大切さを説く。中でも時間を守ることに重きが置かれる。

同じこと、同じ仕事を、毎日同じ時間に繰り返すようにするのである。(p.48)

これがよい習慣を身につける近道なのだろう。そして、計画を立てて努力する大切さを説く。

計画は前の晩にじっくり練っておき、朝起きてもう一度確認したら、すぐに実行に移さなければならない。前もって計画を立てておくことで 、そうしない場合よりも、一日に驚くほど多くのことが成し遂げられるのである。(p.49)

久々にこの本を手にとって思うのは、ライフハックだなあ、という感覚である。目標を達成するには入念に、徹底的に、計画的にやっていくべきだというのはあまりにもっとも過ぎる。目標を見つけた人は言われなくとも入念に、徹底的に、計画的にやってゆくことだろう。

問題は「目標」を見つけることである。頑張る方法や成し遂げる方法というのは、このトッドの方法でいいのだろう。しかし、「でも、なんでそんなに頑張るの?」という問いが残ってしまう。

最後の章で、トッドは正直にこの「なぜ?」に答えようとする。目標とは何か? 快楽か? 富? 人からの賞賛か? 結局トッドは、こうしたことはことごとく虚しいと答えてしまう。トッドは正直な男なのだと思う。一般的に目標となるものを掲げ、それを否定した上で更に、彼は目標について語る。

「不滅の魂は何か大きなものを求めてふくらんでいかなければならない。うわべだけ光るものか、あるいは内から本当に光を発するものを──人の世の称賛か、あるいは神の称賛を──求めて。」

われわれが魂を「ふくらませて」目ざさねばならないこの「何か大きなもの」とは、本当に「大きなもの」なのかもしれないし、あるいはわれわれが勝手に「大きなもの」と思い込んでいるだけにすぎないのかもしれない。しかし、いずれにしても、何を本当に人生の目標にすべきであるかは、たいへんむずかしい問題であるということである。そして、キリスト教の精神や教えは、人がその能力を発揮する目標を持たずに生きよ、とはけっして言っていないということである。

彼にとっては、めざすもの、求めるものが無くてはならないのだろう。「不滅の魂は何か大きなものを求めてふくらんでいかなければならない」というのは滑稽でもある。しかし、その求めるものは実に疑わしいことも彼は意識的である。そして、最後に彼はこう語り、この本を終わらせる。

私が願うのは、計画を立て目標をめざして進む間は、常に満ち足りて安らかな気持ちを保ち、自分は無為に生きているのではないのだとはっきり自覚するようであってほしいということだ。そうすれば、魂は崇高で本当に質の高いものへと成長し、あなたが神の清らかな光に照らされた運命をたどっていることがわかるのである。

彼の口からは慈悲や愛、平和という言葉が最後まで出てこない。これが不思議といえば不思議なのだが、もしかしたら、そうしたものは求めてはあらわれないことに彼が気づいているからこそ、語られない言葉であったのかもしれない。

この本の冒頭で、成功や頭脳について、彼はこう語り起こしている。

頭に飾りとしてつけた一本の新しい羽根がうれしくて小躍りしている裸のインディアンと、ニュートンやボイルなどの頭脳では、雲泥の差がある。では、その違いは、いったい何から生じるのか。(p.17)

いくらかのニュートンについてに暗い印象のある人間にとっては、この語り起こしそのものが、答となっているとも思える。