2006-10-31

『必読書150』の一覧

柄谷行人らの『必読書150』で取り上げられた本の一覧。

おすすめの本については 年表(1980年代)年表(1990年代) にもリストアップされているので参照下さい。

人文社会科学

  1. プラトン『饗宴』岩波文庫
  2. アリストテレス『詩学』岩波文庫
  3. アウグスティヌス『告白』岩波文庫
  4. レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫
  5. マキァベッリ『君主論』中公文庫BIBLO, 岩波文庫
  6. モア『ユートピア』岩波文庫
  7. デカルト『方法序説』岩波文庫
  8. ホッブズ『リヴァイアサン』岩波文庫
  9. パスカル『パンセ』中公文庫
  10. スピノザ『エチカ』岩波文庫
  11. ルソー『社会契約論』岩波文庫
  12. カント『純粋理性批判』岩波文庫
  13. ヘーゲル『精神現象学』平凡社ライブラリー, 作品社
  14. キルケゴール『死に至る病』岩波文庫
  15. マルクス『資本論』岩波文庫
  16. ニーチェ『道徳の系譜』岩波文庫
  17. ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫
  18. ソシュール『一般言語学講義』岩波書店
  19. ヴァレリー『精神の危機』
  20. フロイト『快感原則の彼岸』ちくま文庫
  21. シュミット『政治神学』未来社
  22. ブルトン『シュルレアリスム宣言』岩波文庫
  23. ハイデッガー『存在と時間』ちくま文庫, 岩波文庫, 中公クラシックス
  24. ガンジー『ガンジー自伝』中公文庫
  25. ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』晶文社クラシックス
  26. ポランニー『大転換 市場社会の形成と崩壊』東洋経済新報社
  27. アドルノ&ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』岩波書店
  28. アレント『全体主義の起源』みすず書房
  29. ウィトゲンシュタイン『哲学探求』大修館書店
  30. レヴィ=ストロース『野生の思考』みすず書房
  31. マクルーハン『グーテンベルグの銀河系』みすず書房
  32. フーコー『言葉と物』新潮社
  33. デリダ『グラマトロジーについて』
  34. ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』河出書房新社
  35. ラカン『精神分析の四つの基本概念』岩波書店
  36. ウォーラーステイン『近代世界システム』岩波書店
  37. ケージ『ジョン・ケージ』青土社
  38. サイード『オリエンタリズム』平凡社
  39. ベイトソン『精神と自然』新思策社
  40. アンダーソン『想像の共同体』NTT出版
  41. 本居宣長『玉勝間』岩波文庫
  42. 上田秋成『胆大小心録』岩波文庫
  43. 内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』岩波文庫
  44. 岡倉天心『東洋の理想』講談社学術文庫
  45. 西田幾多郎『西田幾多郎哲学論集Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』岩波文庫
  46. 九鬼周造『「いき」の構造』岩波文庫
  47. 和辻哲郎『風土』岩波文庫
  48. 柳田國男『木綿以前の事』岩波文庫
  49. 時枝誠記『国語学原論』岩波文庫
  50. 宇野弘蔵『経済学方法論』

海外文学

  1. ホメロス『オデュッセイア』岩波文庫
  2. 旧約聖書『創世記』岩波文庫
  3. ソポクレス『オイディプス王』新潮文庫岩波文庫
  4. 『唐詩選』岩波文庫
  5. ハイヤーム『ルバイヤート』岩波文庫
  6. ダンテ『神曲』集英社文庫, 岩波文庫
  7. ラブレー『ガルガンテュアとパンタグリュエルの物語』ちくま文庫
  8. シェイクスピア『ハムレット』角川文庫新潮文庫岩波文庫ちくま文庫
  9. セルバンテス『ドン・キホーテ』岩波文庫
  10. スウィフト『ガリヴァー旅行記』岩波文庫
  11. スターン『トリストラム・シャンディ』岩波文庫
  12. サド『悪徳の栄え』河出文庫
  13. ゲーテ『ファウスト』新潮文庫岩波文庫
  14. スタンダール『パルムの僧院』
  15. ゴーゴリ『外套』光文社文庫岩波文庫
  16. ポー『盗まれた手紙』中公文庫
  17. エミリー・ブロンテ『嵐が丘』新潮文庫岩波文庫角川文庫
  18. メルヴィル『白鯨』岩波文庫新潮文庫講談社文芸文庫
  19. フローベール『ボヴァリー夫人』新潮文庫岩波文庫
  20. キャロル『不思議の国のアリス』新潮文庫偕成社文庫岩波書店ちくま文庫
  21. ドストエフスキー『悪霊』新潮文庫岩波文庫
  22. チェーホフ『桜の園』岩波文庫新潮文庫
  23. チェスタトン『ブラウン神父の童心』創元推理文庫
  24. プルースト『失われた時を求めて』集英社文庫
  25. カフカ『審判』白水uブックス岩波文庫角川文庫
  26. 魯迅『阿Q正伝』岩波文庫講談社文芸文庫
  27. ジョイス『ユリシーズ』集英社文庫
  28. トーマス・マン『魔の山』岩波文庫新潮文庫
  29. ザミャーミン『われら』岩波文庫
  30. ムージル『特性のない男』松籟社
  31. セリーヌ『夜の果ての旅』中公文庫
  32. フォークナー『アブサロム、アブサロム!』講談社文芸文庫
  33. ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』平凡社ライブラリー
  34. サルトル『嘔吐』人文書院
  35. ジュネ『泥棒日記』新潮文庫
  36. ベケット『ゴドーを待ちながら』白水社
  37. ロブ=グリエ『嫉妬』新潮社
  38. デュラス『モデラート・カンタービレ』河出文庫
  39. レム『ソラリスの陽のもとに』ハヤカワ文庫
  40. ガルシア=マルケス『百年の孤独』新潮社
  41. ラシュディ『真夜中の子どもたち』早川書房
  42. ブレイク『ブレイク詩集』岩波文庫
  43. ベルダーリン『ヘルダーリン詩集』岩波文庫
  44. ボードレール『悪の華』新潮文庫
  45. ランボー『ランボー詩集』新潮文庫
  46. エリオット『荒地』大修館書店
  47. マヤコフスキー『マヤコフスキー詩集』彰考書院
  48. ツェラン『ツェラン詩集』青土社
  49. バフチン『ドストエフスキーの詩学』ちくま学芸文庫
  50. ブランショ『文学空間』現代思潮社(1962)現代思潮社(1996)

日本文学

  1. 二葉亭四迷『浮雲』岩波文庫新潮文庫
  2. 森鴎外『舞姫』岩波文庫新潮文庫ちくま文庫(現代語訳)集英社文庫
  3. 樋口一葉『にごりえ』新潮文庫岩波文庫河出文庫(現代語訳)
  4. 泉鏡花『高野聖』岩波文庫新潮文庫集英社文庫角川文庫
  5. 国木田独歩『武蔵野』岩波文庫新潮文庫
  6. 夏目漱石『我輩は猫である』岩波文庫新潮文庫角川文庫ザ・漱石 全小説全一冊
  7. 島崎藤村『破戒』岩波文庫新潮文庫
  8. 田山花袋『蒲団』岩波文庫新潮文庫
  9. 徳田秋声『あらくれ』岩波文庫新潮文庫講談社文芸文庫
  10. 有島武郎『或る女』岩波文庫新潮文庫角川文庫
  11. 志賀直哉『小僧の神様』岩波文庫新潮文庫集英社文庫金の星社
  12. 内田百閒『冥途・旅順入城式』岩波文庫
  13. 宮澤賢治『銀河鉄道の夜』岩波文庫 新潮文庫
  14. 江戸川乱歩『押絵と旅する男』光文社文庫
  15. 横光利一『機械』新潮文庫
  16. 谷崎潤一郎『春琴抄』岩波文庫 新潮文庫
  17. 夢野久作『ドグラ・マグラ』角川文庫社会思想社 現代教養文庫
  18. 中野重治『村の家』講談社文芸文庫
  19. 川端康成『雪国』岩波文庫 新潮文庫
  20. 折口信夫『死者の書』中公文庫
  21. 太宰治『斜陽』岩波文庫新潮文庫集英社文庫ちくま文庫角川文庫文春文庫ザ・太宰治 全小説全一冊
  22. 大岡昇平『俘虜記』新潮文庫
  23. 埴谷雄高『死霊』講談社文芸文庫
  24. 三島由紀夫『仮面の告白』新潮文庫
  25. 武田泰淳『ひかりごけ』新潮文庫
  26. 深沢七郎『楢山節考』新潮文庫
  27. 安部公房『砂の女』新潮文庫
  28. 野坂昭如『エロ事師たち』新潮文庫
  29. 島尾敏雄『死の棘』新潮文庫
  30. 大西巨人『神聖喜劇』光文社文庫
  31. 大江健三郎『万延元年のフットボール』講談社文芸文庫
  32. 古井由吉『円陣を組む女たち』中公文庫中央公論社
  33. 後藤明生『挟み撃ち』岩波文庫
  34. 円地文子『食卓のない家』新潮文庫新潮社
  35. 中上健次『枯木灘』河出文庫小学館文庫
  36. 斎藤茂吉『赤光』岩波文庫新潮文庫
  37. 萩原朔太郎『月に吠える』角川文庫
  38. 田村隆一『田村隆一詩集』岩波文庫
  39. 吉岡実『吉岡実詩集』現代詩文庫
  40. 坪内逍遥『小説神髄』国文学研究資料館
  41. 北村透谷『人生に相渉るとは何の謂ぞ』旺文社文庫
  42. 福沢諭吉『福翁自伝』岩波文庫
  43. 正岡子規『歌よみに与ふる書』岩波文庫
  44. 石川啄木『時代閉塞の現状』岩波文庫筑摩書房
  45. 小林秀雄『様々なる意匠』
  46. 保田與重郎『日本の橋』
  47. 坂口安吾『堕落論』新潮文庫集英社文庫角川文庫
  48. 花田清輝『復興期の精神』講談社文芸文庫
  49. 吉本隆明『転向論』講談社文芸文庫
  50. 江藤淳『成熟と喪失』講談社文芸文庫

参考テクスト70


人文社会科学


ルイ・アルチュセール『マルクスのために』平凡社ライブラリー
レイモンド・ウィリアムズ『キイワード辞典』晶文社
ロジェ・カイヨワ『聖なるものの社会学』ちくま学芸文庫
アントニオ・グラムシ『新編−現代の君主』青木書店
スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』河出書房新社
ディドロ&ダランベール編『百科全書』岩波文庫
フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』みすず書房
ヤーコブ・ブルクハルト『ブルクハルト文化史講演集』筑摩書房
フェルナン・ブローデル『歴史入門』太田出版
ダニエル・ベル『資本主義の文化的矛盾』講談社学術文庫
ダグラス・R・ホフスタッター『ゲーデル、エッシャー、バッハ−あるいは不思議の環』白揚社
メルロ=ポンティ『メルロ=ポンティ・コレクション』ちくま学芸文庫
ユング『変容の象徴−精神分裂病の前駆症状』ちくま学芸文庫
ジャン=フランソワ・リオタール『ポスト・モダンの条件−知・社会・言語ゲーム』白馬書房
G・ルカーチ『歴史と階級意識』未来社
浅田彰『構造と力−記号論を超えて』勁草書房
網野善彦『日本社会の歴史』岩波新書
岩田弘『現代社会主義と世界資本主義』批評社
上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』青土社
大塚久雄『欧州経済史』岩波現代文庫
木村敏『時間と自己』中公新書
遠山啓『無限と連続−現代数学の展望』岩波新書
中井久夫『分裂病と人間』東京大学出版
林達夫『林達夫セレクション2−文芸復興』平凡社ライブラリー
廣松渉『マルクス主義の地平』講談社学術文庫
丸山真男『日本の思想』岩波新書
山口昌男『道化の民俗学』ちくま学芸文庫
湯川秀樹『物理講義』講談社学術文庫

文学


エーリッヒ・アウエルバッハ『ミメーシス−ヨーロッパ文学における現実描写』ちくま学芸文庫
フレデリック・ジェイムソン『言語の牢獄』法政大学出版局
ヴィクトル・シクロフスキー他『ロシア・フォルマリズム論集』現代思潮新社
スーザン・ソンタグ『反解釈』ちくま学芸文庫
ブルーノ・タウト『日本文化私観』講談社学術文庫
ウラジーミル・ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』TBSブリタニカ
ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』二見書房、ちくま学芸文庫
ノースロップ・フライ『批評の解剖』法政大学出版局
リイス・フロイス「日欧文化比較」『大航海時代叢書<第1期11巻>』岩波書店
稲垣足穂『少年愛の美学−稲垣足穂コレクション』河出文庫
加藤周一『日本文学史序説』ちくま学芸文庫
柄谷行人『日本近代文学の起源』講談社文芸文庫
寺山修司『戦後詩−ユリシーズの不在』ちくま文庫
中村光夫『明治文学史』筑摩叢書
橋川文三『日本浪漫派批判序説』講談社文芸文庫
蓮實重彦『反=日本語論』ちくま文庫
平野謙『昭和文学史』筑摩書房
前田愛『近代読者の成立』岩波現代文庫

芸術


アントナン・アルト『演劇とその分身』白水社
グラウト&パリスカ『新西洋音楽史』音楽之友社
ケネス・クラーク『芸術と文明』法政大学出版局
レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』ちくま学芸文庫
E・H・ゴンブリッチ『芸術と幻影』岩崎美術社
ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』平凡社
ジョン・バージャー『イメージ−視覚とメディア』パルコ出版局
ベーラ・バラージュ『視覚的人間−映画のドラマツルギー』岩波文庫
ロラン・バルト『明るい部屋−写真についての覚書』みすず書房
バンハム『第一機械時代の理論とデザイン』鹿島出版会
アンリ・フォション『形の生命』岩波書店
フラー『宇宙船地球号−操縦マニュアル』ちくま学芸文庫
ケネス・フランプトン『モダン・アーキテクチュア』ADA
ニコラス・ヘヴスナー『モダン・デザインの展開』みすず書房
ウィリアム・モリス『ユートピアだより』岩波文庫
阿部良雄『群集の中の芸術家』ちくま学芸文庫
磯崎新『建築の解体−1968年の建築状況』鹿島出版会
井上充夫『日本建築の空間』鹿島出版会
岡崎乾二郎『ルネサンス−経験の条件』筑摩書房
岡本太郎『日本の伝統』講談社現代新書
小泉文夫『日本の音−世界のなかの日本音楽』平凡社ライブラリー
高階秀爾『日本近代美術史論』講談社学術文庫
柳宗悦『南無阿弥陀仏−付心偈』岩波文庫
小川環樹・木田章義注解『千字文』岩波文庫

2006-10-30

体の中の心 - 感情は実在するか

最近、野口晴哉 [1]の「体癖」、増田明 [2] の「ボディートーク」などに興味がある。「心の問題が体の症状に現れる」「体の使い方が心に影響を与える」とあり、また自分や周囲の人たちの観察を通じ、本当に心身は一如であると教えられた。

日本語の表現でも考えてみたい。「腹が立つ」という表現は、怒るときには本当に人間の腹が立つと観察できたから生まれたのだろう。「胸さわぎがする」のも同様に本当に胸のあたりがグラグラするから生まれたのだろう。「肩の荷が重い」「首が周らない」も同様だ。本当に肩がパンパンになるし、首がこっている。怒り、哀しみ、恨み、不安……どれも体に出るようだ。

身体に出ない感情など無いのかもしれない、と思った。

ところで、こうして体を触り、人の状況を認識すると「占いみたい」と言われる。背骨を触り「肉親を恨んでいるね」と言うと確かに占いでもされた気分になるのだろう。

占いの定義にもよるが、身体の症状から精神状態を観察するのは一般的な意味での占いではないと思う。霊などの超越的な原理によらず、心に直接に連結している体によって観察しているのは、ある意味で経験科学的と言える。(もっとも、占いも経験的知識の積み重ねがあったという気もするが、説得の原理が超越的なものによっている点が、私に飛躍を感じさせてしまう)

科学は一定の手法による対象の観察とその分析に基く。「一定のエネルギーを与えてボールを投げると、数秒後にはどの位置にいるか」「ネコは一日にどれくらい寝るか」などの問題と同じように、体と心の連携も、世界に対しての観察を続け、それを記録・分析し、未来に対する予測として役立てようというものだと思う。

「体のある部分が痛い人のほとんどが、ある精神的な状況にいる」という事実があれば、その体の痛みと精神状況には相関関係があると見做せる。そして、そうした観察と分析に基いて、「体のある部位の痛みを取り除けば、ある精神的な状況も改善できる」と予測することもできる。また逆に「ある精神的状況を改善すれば、体の痛みも取れる」という予測もできるだろう。

もちろん、完璧な予想は人間には絶対にできないので、こうした予測は裏切られるかもしれない。しかし、人間は、確実ではないながらも観察と予測から行動し、更に観察と予測の能力を高めてきたことから考えても、予測が完璧でないからと言って、しりぞけることはない。

ところで、この心と体の関係だが、本当によく当たる。こじつけでも何でもなく、本当に人間の心身は関係して出来ているんじゃないかと思う。

そして、更に考えると、体の反応が全てで、その特定の反応に対し感情と言われるものをあてはめたんじゃないかと思う。

つまり、最初は身体反応しかなくて、「感情」なんて呼ばれるものは無かった、そして、次第に特定の身体反応が多くなり、また会話も増えたので「感情」という観念を生んだんじゃないかと考えた。

よく「悲しいから泣くんじゃない、泣くから悲しくなる」と言われる。確か心理学的にも立証されていたように思う。

この場合、まず「泣く」という身体反応があり、その身体動作に対して「悲しみ」という「感情」の名前を与えることで、人と会話できるようになり、また、他の「悲しみ」のイメージとリンクさせることで更に「泣く」という動作が増幅される、と考えられないかな?

あるいは「怒る」というのは、単純に人類が猿の時代の名残じゃないかと思う。つまり、頭部の衝撃への対応の為に「頑を張り」、腹部への衝撃の対応の為に「腹を立て」、急激な動作のために「腰を入れる」。あるいは「肩をいからせる」。目を開きガンをつけ、鼻息が荒くなる。

これらは、どう考えても野生の動物の仕草である。そして、現代人はこうした野生の仕草は不必要であり、これが問題を生じることになる。というのは、野生のときには、体を動かして発散できたであろうが、現代人は体を動かすことはおろか、声さえあげられずにじっと我慢することになる。すると、野生の仕草は発散されないまま体に残り、シコリになる。

シコリは怒りを増幅し、怒りはシコリを増幅する。まさに悪循環。最終的には脊椎動物の中心である脊椎にまで被害は及ぶことになるだろう。

怒りという感情がこうさせるというより、こうした一連の身体の反応を怒りと呼んだのでは?とここのところ考えている。

まあ、よくわからない。

とにかく、心身の相互作用を理解し、体の無駄な緊張と心のとらわれを取ることが大切だと思う。


notes

[1] digi-log 2006/11/12 「野口晴哉『偶感集』より」

[2] 増田明 ボディートーク入門—体が弾めば心も弾む (amazon.co.jp)

気づきを与える根源

あくまで雑感として

ここんとこ、ロゴス(翻訳語としては理性)とか、精神とか、ブラフマン(梵我、真我)とか、考えてた。

まあ有名な話として、アートマン(自我)とブラフマン(梵我)の合一とか言うわけだ。あるいは、自己の精神のうんちゃら的どうしたによって、絶対精神、あるいは絶対理性として神になる、とかね、まあ、こんな話がある。

んで、最近の瞑想の結果、自己の感情や思考の流れを観察できる自分がいるな、と気が付いた。んで、この「自己の感情や思考を観察できる自分」ってのが、理性や精神であり、ブラフマンなんじゃないかなーとか感じた。
「瞑想だー」とか言ってただ座る。座るとヒマだから、いろいろ心に湧いてくる。

しかし、どんな感覚や知覚、感情や思考が湧いてこようが、それを客観的に観察できる、気付ける自分がいる。

座っていて「あー足が痛くなってきた」とか「あー呼吸してるなー」とか「あーカントが言うアレソレは……」とか色々な感覚、知覚、感情、思考が湧いてくる。

「うーん、この座ってんのって時間のムダじゃね?」みたいなのとか「あー、そーだ、あれやんなきゃ」みたいなのとか「あれは問題だよなー」みたいなのとか「お、車が通ったぞ」みたいなのとかが一瞬一瞬、次から次へと湧いてくる。

からだは常に痛みや快楽を基本に様々な情報を与え続けている。床に面している臀部や足は一瞬一瞬ごとに重さを感じ、時には痛みを感じるし、背骨、首、腕もそれぞれ、休むことなく知覚を続けている。

こころも同じだ。様々なことを思い出すし、外で音がすれば、「あれは何だろ?」と思い「ああ、車だ」と思う。いやな事を思い出しもするし、いいことを思い出したりもする。常にうつろい、とどまることがない。

こころは判断するだけじゃなくて、全然関係ないことを思い出す。そして、思考を始めたりもする。そして思考は感情に影響を与えたりもする。

しかし、それらを観察できる自分がいる。一瞬一瞬うつりかわる心身を観察できる自分がいる。「あ、今考えてるな」とか「あ、今むかついてきてるな」とか観察して気付ける。そして、観察して気付くと痛みや雑念は姿を消す。きちんと気付けると、とらわれなくなる。

今だけに集中できる自分がいる。これは本当に純粋な意識だ。過去や未来に惑わされずに、今だけを観察し、状況に気付ける意識がある。そして「ああ、そうだな」と気づいて、状況を受け入れ、なんだか満足できる。

その意識は感情に対しては理性的だし、思考に対しては慈愛に満ちている。「あ、むかつき始めた」と気付けば「まあ、仕方ないか、ああいうもんだ」と落ち着ける。あわれみ、いつくしみ、しずけさ……こうした目を持ってその場その場に向かえる純粋な意識が自分にあると感じる。

この純粋な意識、観察し気付ける意識は感情でもないし、思考でもない。「気付き」は自分の予想できないところからやってくる。どこからやって来るのだろう?まあ、もちろん分からない。

実を言うと私たちには分からないことだらけだ。私たちは次の瞬間に体がどんな知覚をし、心がどんな感情に支配され、頭がどんな思考に支配されるか、それすら全く予想もできない。常に身体感覚や感情、思考に「襲われ」続けていて、自分で制御なんて全くできないと言ってもいい。

そして同様にいつくしんだり、あわれんだり、気づいたりして、現実を受け入れる力がどこからやって来るのか、想像すらつかない。

しかし、分からないながらも、その気づきは必ずやって来て、自分と状況を和解させてくれる。あわれませ、しずかな気持にさせてくれる。そうして明晰に思考もできるようにさせてくれる(感情がたかぶっている時に思考はできない)。

この気づきの力を与える根源を神と呼ぶならば、これは私にとって受け入れやすい、神の定義となる。純粋に「いま、ここ」に向かい静かに観察し、受け入れ、いつくしめる力の根源。

人間はどうしてだか知らないけど、しずかにいつくしむことができる。この「どうしてだか知らないけど、できてしまう」こと、その経験的な事実に、不便だから名前を与えると神となったんじゃないか、と思う。

もちろん、私は宗教家ではなく、よくわからない。ただ、素朴に、そう思う。そして、素朴に祈りたくなる。キリスト教とか仏教とか神道とか、特定の宗教に関係ない。

ただ、素朴に、全ての人が、その場その場を静かに観察し、気づき、ほのかに仕合わせを感じるようになって欲しいと願う。その力がどこからやって来るのかは分からないけど、確実にやって来る。その力を与えるなにか(まあ、「神」と呼ぶとイメージ的にぴったりなんだけどね)、その何かに対して祈りたくなる。その何かの力が満ちれば本当にありがたい。

人は「愛そう!」と思っても愛せない。「慈しもう」と思っても慈しめない。その「何か」が力をふっと与えてくれるから、自然に愛し、慈しめる。それは運命なんだろうと思う。もちろん、その何かの声を受け入れる姿勢がないと駄目なんだから、努力がいらない、というわけじゃないんだけど、気づけるための偶然がとても大切なんだと思う。理詰めじゃ「愛」は出てこない。

だから、祈る。そしながら、現実の「いま、ここ」、その場その場に向かう。

2006-10-26

音楽はない。あるのは音だけである。

戯言。
***
音楽はない。あるのは音だけである。

ひとは音楽を感じる。故に、音楽をつくろうとする。そうして、人は誤る。

はじめは音だけであった。音が音楽を感じさせるのであった。音から音楽が生まれるのは、ひとつの奇跡であった。

音楽をつくろうと目指したとき、人はその奇跡を忘れる。奇跡を忘れた音楽は、音楽の真似にすぎず、音楽ではない。

音しかない。音楽をつくろうとしてはならない。

2006-10-25

筆舌に尽くせぬことは書かぬがよい

ドスト『死の家の記録』より。筆舌に尽くせぬことは書かぬがよいと、あらためて感じる。

もとは裕福なシベリアの百姓だったある囚人が、日暮近く門際へ呼びだされた日のことを、わたしは覚えている。

その半年まえに彼は妻が再婚したという知らせを受けて、ひどく嘆き悲しんだものだった。いま、その妻が監獄へ尋ねてきて、彼を呼び出し、差し入れをしたのである。

二人は二分ほど話しあって、泣きながら、永遠の別れをした。わたしは監房へ戻って来たときの彼の顔を見た。……たしかに、ここには忍耐というものを学びとることのできる場所である。

また、彼の人間の定義も壮絶。たくましい。

それにしても、人間は生きられるものだ! 人間はどんなことにでも慣れられる存在だ。わたしはこれが人間のもっとも適切な定義だと思う。

西行にサビのはじまりを感じる

西行の歌を引用したメールを友人よりもらう。気が向いたので、文芸について書いてみた。

人麻呂、憶良、道真。この奇跡の人々の後、西行こそ、西行こそ、新境地を進んだんだと思う。と、デタラメを言う俺。って、あんま本当は良く知らんのだけどね。

更にデタラメを加えると、西行の境地は鴨長明、慈円と共有されている。また、親鸞、一遍などの鎌倉新仏教は、日本の西行みたいな世界観の影響があると思う。オリジナルの仏教や、中国仏教だけじゃ説明がつかないと思う。そうそう、もちろん兼好さんも忘れられないね。

ここにあるのは厭世、ペシミズム。そして、美へのあこがれ。それは浄土や阿弥陀仏など、超越した存在者や場所への憧れになりやすい。

西行が彼らに影響を与えたのかは知らないけど、彼らが共有している感覚ってのを西行が鋭く表象しているんじゃないかな、とね、俺は感じる。

んで、この西行から、室町の観阿弥、世阿弥は更に新境地に行ったと思う。

そこには基本的な美意識は共有したまま、厭世思想やそれに伴う超越した存在者や場所への憧れは影をひそめる。不安定な世界、不完全な世界、それをそのまま肯定し、そこにこそ、自然の美を見出そうとしている。

この感覚は一休さんもうむだろうし、池坊の華道、珠光や紹鴎、そして利休の茶道を生み、江戸になれば芭蕉、良寛とつながってゆく。

生きてゆくしたたかさ、旺盛な生命力。しかし、円満かと言うと、何かが足りず、欠けていて、侘しく、錆びている。健康かと言うと、狂気であり数寄であり孤独である。しかし、それを厭うのではない。積極的に肯定する姿勢が強い。

いや、勿論、これは西行にもあった感覚だ。また道元にも確実にある。

西行が月を詠むとき、彼が花を詠むとき、厭うでも願うでもなく、ただ「ある」ことへの純粋な「いくづかい」は聴こえてくる。

どうだろう? 彼の不完全で不安定で無常で一切は苦の世界を肯定するでも否定するでもなく、美しいでもなく(!)醜いでもない、「ただ…ただ……ただ……ただ」というあることの「息遣い」がことのはを透かして現れてくるんじゃないかな?

道元でいえば有名な只管打坐ってやつだろうと俺は妄想する。

いや、今まで名前あげた人だって単純に厭世だけってわけじゃなくて、そこの現世との斬り結びに色気ってのかなぁ、シブさがあるわけなんだけどねー。特に兼好さんとかわかりやすいけど……でも兼好さんはクソジジイすぎってのかな、いや、いいんだけどさ……それは、それで。

と、まあ、ただ教科書に載ってそうな名前を羅列してみたりして……。わけわからんこと書いてな。えらそうに。

自己紹介

2006年10月に何気なく始めたブログです。情報技術関係や学習と健康などについて、思索的かつ説教臭い文章をつづっております。

カテゴリとしては ノート術読書術知的生産 などがよく読まれているようです。

私と感性の合う人に向けて、思うがままに書いてゆきたいと考えています。楽しんで読んでくれたら嬉しいです。

著者

1980年に生まれ。男。長らくギリシアやドイツを中心とした西洋の哲学や文学に興味がありましたが、年のせいか、昨今はインドを中心とした東洋の文化に興味があります。影響を受けた文豪、思想家、芸術家などおすすめ音楽CDトップ10 あたりを参照下されば、どんな趣味の男かは分かるかと思います。

ギターを弾きます。ギターでシャコンヌとかにコメントくれると嬉しいです。

内輪コミュニケーションなしの泡沫ブログとして楽しみたいので、個人的に私を知ってる人はスルーの方向でよろしく。人にも教えないように。

規模

2011年10月23日現在で記事の数は397件になっています。せいぜい500件までは、このまま細々と自分の書きたいことをボチボチと書いてゆけたらな、と思っています。

また、RSSリーダでの購読者数は です。というわけで、この機会に、よろしければ RSSリーダの片隅にでも突っこんでおいて下さると嬉しいです。