2008-03-27

パキスタンの思い出(2) シャンパン没収と市内観光

前回に続いてパキスタンの思い出。帰りは手荷物検査で引っ掛かったり、市内観光をしたりした。

***

帰りにはカラチに日中居ることになった。到着は朝の7時40分だった。さすがにパキスタン航空はホテルを準備してくれていた。

僕は自分の二十歳の誕生日のためにフランクフルトでシャンパンを買っていた。それを不用意にバッグに詰めていたので、カラチ空港の手荷物検査の時に引っ掛かった。

けたたましくブザーが鳴り響くと、ライフルを持った兵隊が十人ほど走ってくる。そして、ライフルを構えながら、なんというか遠巻きにじわりじわりと間を詰めてきて、一人が僕の腕を捕まえると、更に二人ぐらいで僕の体を取り押さえる。そして、何か大声で叫んだ。きっと「確保!」とか叫んでいたのだろう。

屈強な兵隊二人が僕の両腕を痛いほどに掴み、ライフルを持った男がそれをサポートしながら、僕は裏に連れてゆかれた。僕ははっきりと「やべえ、これは絶対殺される」と思った。自分が怪しくないことをアピールしたかったが、言葉も通じないのにどうしたらよいのかも分からない。

汚い廊下を歩いて、突き当たりの扉に連れてゆかれた。兵隊は一呼吸してドアをノックする。

扉を開くと、笑っちゃうほど大佐な男が机に座っていた。それは五〇代半ばの男で、その高級な生地の軍服、そのいかめしい帽子、その瞳を隠すグラサン、その整えられたヒゲ、どれをとっても見事な大佐っぷりだった。机の上で手を組んで、部下に顎で指示を出す辺りも見事だった。部屋の左右には若い兵隊が支え筒の姿勢で直立している。

やや遅れて一人の兵隊がやってきて、問題のシャンパンを含む僕の荷物を持ってきた。荷物は大佐の古めかしいがしっかりとした木の机に置かれた。兵隊は敬礼すると部屋を後にした。

大佐は僕のパスポートをひとしきり弄んだ後、話し掛けてきた。
「お前は、日本人か」
「はい」
「日本で何をしている」
「大学生です。この夏はヨーロッパで観光旅行をしてました」
「ふん。楽しかったか」
「はい」

大佐は鼻の下の立派なおヒゲをなでた。そしてパスポートを投げやりに机の上に投げると、今度はシャンパンを手に取る。
「これは何だ?」
「シャンパンです。お酒です」
「お前はこれを飲むのか?」
「はい」
「これは自分のために買ったのか? 自分が飲むために買ったんだな?」
「はい」
「本当に飲むのか? いいか、お前が、だぞ?」
「はい。飲みますよ。何ならいまここで飲みましょうか?」

大佐は何かを疑っていた。爆発物として疑ったのか、密輸を疑ったのかよく分からない。
「この国では酒は禁じられている。知っていたか?」
「はい。知ってましたが。忘れてました」
「お前の国では酒を飲めるのか?」
「はい」
「お前のような若造も? お前のような若造も酒を飲むことを許すのか?」
「はい」
「私は酒を飲まない。自分を惑わすからだ。私は自分たちの子供が酒を飲んでいるのを知ったらとても哀しい。ご両親だって、お前が酒を飲んでいるのを知ったら悲しむだろう。それだというのに、お前は何故酒を飲む?」
「ええと……。楽しいからでしょうか」
「……世も末だな」

大佐は消費文明に対して、ひとしきり悪口を言うと、自分も酒を飲んだことがあると告白した。そしてこう忠告してくらた。
「ありゃ悪魔の水だ。お前もやめたほうがいい」

その後、十分ほど世間話をして僕は解放された。大佐にしたら暇つぶしだったろうが、僕はすっかり寿命が縮まった。

***

解放された僕を40くらいのおっさんが案内してくれた。ただの空港の職員だろうと思う。話し好きなおっさんだった。ホテルのバスは爆弾テロ犯として疑われた(?)僕を乗せずに行ってしまっていたので、別の乗り物が迎えに来てくれる手筈になっていた。おっさんと僕は強烈な日差しの下、ホテルの迎えを待った。
「最近、家、買ったんだよ」
「へえ。すごいっすねえ」
「いや、別にすごくはないんだけどな。で、ローンとかあるんだけど、かーちゃんは家買う前と同じように指輪買えの何のってうるさいんだわ。家買う前は買ったら節約するとか言ってたくせにな。お前の国でも女は同じか」
「はあ。似たようなもんだと思いますよ」
「でもなあ、うちはかあちゃんが二人もいるんだぜ。子供も生まれるし。この国の男は大変だよ」

おっさんはひとしきり物価の話とかをした。年収は百万円くらいだった。話を聞けば結構広い家で奥さん二人の子沢山で楽しく暮らしているように聞こえた。

迎えはしばらく来そうに無い。「竹林土建」と書いてあるトラックが目の前を通過する。
「お前、若いな」
「ええ。19です」
「女。いるのか」
「ええ。います」
「結婚するのか?」
「わかりません」
「……で、するのか?」

おっさんの目が光る。まいったなあ、と思いながら僕は答える。
「……はあ……まあ」
「まったくよお。羨ましいなあ、おい! いや! いやいや! だからお前らはダメなんだよ。いいか、俺たちの国はな、そんな「恋愛」なんて認めないんだよ。結婚もしないのにそんなことしたらな、俺の国だったら親戚中の男がリンチするんだよ」
「はあ。厳しいっすね。でも、おっさんだって若い頃、お! かわいいな、あの子 ってのいたでしょ?」
「まあなあ、でも俺らは学生の頃も男女は近づかないようになってるんだよ。近づいて話しただけで大騒ぎだからな。顔も見ないから知り合いようもないわけだよ。でもな、実際ここだけの話、中学生の頃○○っていう、かわいい子がいてな。幼馴染でな。一度だけ、一度だけな、話し掛けたことあるんだよ。絶対秘密だぞ? あの子どうしたかな。まあ、こんな歳になっちまったけどな」
「……キスしちゃいたいとか思っちゃいました?」
「おい、おい! やめてくれよお」と言っておっさんは笑う。そして十秒間ほど沈黙して再び「おい、おい! やめてくれよお」と言って、豪快に笑った。ベルトで締め付けられた腹も豪快に揺れていた。
「お前、酒も飲むんだろ?」
「ええ」
「お前のお母さんも知ってるのか」
「ええ」
「まったくよお! どうなっちまってんだよ、お前の国は。そりゃあ俺だって一度、海外に居たときに飲んだことはあるけどよ。そりゃあ、おかあちゃんには絶対言えねえよ。おかあちゃんが知ったら気絶しちまうよ」
「まあ、文化が違うんでしょうねえ。日本人はそういうのにうるさくないんですよ」
「わからねえ。婚前交渉するは、酒は飲むは。お前の国の繁栄ってのは嘘だな。いや、嘘じゃなけりゃ、悪魔の繁栄だ。きっとすぐに滅ぶぞ。きっとだ」
「まあ、そうかも知れませんね」

おっさんは両手で僕の両肩を掴んだ。
「お前。怖くねえのか」
「はあ?」
「お前、そんなんじゃ救われねえぞ。怖くないのか?」肩を掴む手に力が入り、おっさんの目は真っ直ぐに僕を見た。
「別に怖くないですよ」はっきり言えば、おっさん、あんたが怖い。
「ああ、偉大なるアッラー。いいか、お前は堕落しちまってるが、まだ若い。国に帰ったらコーラン読めよ。いいな?」
「はあ」

迎えがやってきた。扉が取れたマイクロバスで日本だったら走行できない代物だった。僕はそのバスに乗り込み、おっさんに礼を言った。おっさんは最後に何度も言った。
「いいか! コーラン読めよ! コーラン読めよー! コーラン読むんだぞー!」

***

数時間後、僕はプールに浮いていた。痛いほどに強い日差しの下、プールの水は生暖かく肌を潤した。

ホテルは古ぼけてはいたが豪華だった。部屋は広くベッドはキングサイズ。バスルームには大きな浴槽もあった。僕はゆっくりと湯船に浸かって、体を洗い、大きなベッドで少しだけ眠った。しかし、結局は飛行機で寝ていたのであまり眠れない。テレビをつけても言葉がわからない。僕はバスタオル一枚を持って、ホテルのプールに行った。

プールには先客がいた。ノルウェー人で作家らしい。世界を旅しながら小説を書いているという。彼はどことなく胡散臭く、その胡散臭さに僕は一発で好きになった。

僕は彼に誘われて市内観光に繰り出すことにした。ホテルの入り口には、観光案内をしたがるタクシーの運ちゃんが30人は詰め掛けていた。「$50」「1 day, only $30」「Me, $25」とか叫んでいる。

ノルウェー人はその前に立ち、人差し指を一本立てた。
「$10」

五人しか残らなかった。それでも、口々にガソリン代がどうしただの、うちには子供とかあちゃんが、だのと言っていた。
「二人なんだから$20だね?」と、一番前にいたおっさんが言った。
「いや、二人で$10だ」とノルウェー人は冷たく言う。ビジネスライクな西洋人はやはりかっこいい。
「そんなあ。せめて二人で$18では?」
「いや。二人で$10だ。15でも12でもない。10だ」

こう言ってノルウェー人は財布から紙幣を取り出して、無理やり運ちゃんの手に握らせた。
「どうだ?」とノルウェー人は言った。「別に君じゃなくてもいいんだが……」

握ったカネは離せないものらしい。「分かったよ」と運ちゃんは引き受け、すばやく紙幣を財布に入れた。こうやって西洋人は東洋人を騙しつづけているのだろうと僕は思った。

***

運ちゃんは絶好調に話しまくった。僕らは街一番の大通りを疾走した。
「見てくれよ! これが産業化だぜ。文明だぜ。民主化だぜ」

街一番の大通りは、時代遅れの寂れた商店街をなぜか間違って道幅を広げてしまったという程度のものだった。
「見てくれよ! これが未来だぜ! 強さだぜ! 民主化だぜ!」

指差す先には戦車やら戦闘機やらが展示してある。どれも古めかしい。なんで街の真中にこんなものが置いてあるのかが意味が分からない。

更に運ちゃんは激走した。そして、古ぼけた鉄の塊の前で絶叫した。
「見てくれよ! これが正義だぜ! 平和だぜ! 民主化だぜ!」

なんだか分からなかったので僕は質問した。
「ええと、何これ?」
「ははー! 聞いて驚くなよ。原爆だぜ! 原爆!」
「はあ? 原爆?」
「おうよ! 原爆だぜ! 科学だぜ! 技術だぜ! 民主化だぜ! パキスタンはすげえ国なんだよ!」

絶好調のタクシーは海に向かった。車窓から町の風景を眺める。中心部から外れると、街には瓦礫の山が目立つ。その瓦礫の山で中学生くらいの子供が角材だか鉄パイプだかでチャンバラをしている。遊びだと思う、たぶん。Tシャツは意外とまともで僕が着ているものの方がよっぽどボロボロだった。その脇を上半身裸でライフルを肩に担いだ若者が何気なく歩いていた。

砂浜にはラクダがいた。ラクダはでかかった。
「乗るかい?」とアラビア人は聞いてきた。
「いや、いいです」と僕は断る。どうせ、乗ったら料金をせがまれ、ぼられてしまうのだろうから。僕はぼんやりと海を見たり、街を眺めたり、ラクダを眺めた。アラビア海はきれいじゃなかった。

次にジンナー廟に行った。パキスタンの創立者、ムハンマド・アリー・ジンナーの霊廟らしい。僕は靴を脱ぎ、イスラム教徒の格好をして中に入った。手を叩くとエコーが掛かった。最後にアクセサリー屋に連れて行かれたが、そこでは何も買わなかった。

再び中心街をタクシーは走り抜けホテルに戻った。ノルウェー人には気付かれないように、僕は財布から$10取り出して運ちゃんにあげた。
「サンキュー、ミスター。これでかーちゃんもよろこぶよ」
「そう。それはよかった。ところで、全然、客が居ないよね」ホテルの駐車場では、運転手がタクシーで寝ていた。「お客はあまり来ないの?」
「治安が悪くてさっぱりだよ。ミスター。だから、パキスタンはもっともっと強くならなくちゃならないんだ。俺たちは負けてられないんだよ。俺の親父はインドのやつらに殺されたんだ。インドだけじゃない。色んな奴等がこの国をめちゃくちゃにしてるんだ。だから商売あがったりだよ。それもこれも、パキスタンが弱いからだよ。だからパキスタンは強くならなきゃいけないんだ」
「だから原爆?」
「そうだよ。ミスター。強ければオーケーなんだ。パキスタンが強ければハッピーになれるんだよ。原爆実験が成功したとき、どんなに俺たちが嬉しかったか分かるかい?」
「わかるよ」
「日本には原爆はないのかい?」
「ないね」
「そりゃあ、ダメだ。お前たちは幸せになれないよ」
「かもね。そう言われたのは今日で二度目だよ」

***

空港では無事に酒とパスポートを返してもらえた。飛行機はカラチから途中でマニラを経由して成田に到着した。三ヶ月近くに及んだ僕の初めての海外旅行はこうして終わった。

パキスタンの思い出(1) 夜のカラチ空港

19の夏、パキスタンに行った。

別に行こうと思って行ったのではなく、サンチャゴ・デ・コンポステラの巡礼をしようと思って安い航空券を探したら、パキスタン航空が安かったという話なだけだ。だから居たのは行きと帰りの二日間だけ。このエントリでは行きの話を書いてみる。

***

初めての海外旅行だった。成田で友人と別れ、飛行機に乗り込んだが、飛行機はいくら待っても出発しない。機内アナウンスでイスラマバードで爆弾テロがあったのでカラチ経由に変更すると言う。初めての海外旅行で爆弾テロという言葉を聞くなんて俺らしいなと思った。

隣の席の人はオランダで働く南アフリカ人だった。彼は
「PIAって何の略だか分かる?」
と冗談を言う。
「パキスタン・インターナショナル・エアラインズでしょ?」
「ノー、ノー、パーハップス・アイ・アライヴ(もしかすると、着くかもしれない)さ」

機内は既に外国だった。機内に日本人の姿はなく中東系や黒人が多い。アナウンスは英語とアラビア語で、離陸前には機長がコーランの冒頭を朗誦する。「アッラーフ・アクバル、アッラーフ・アクバル(アッラーは偉大なり)」

アッラーに守られながらカラチに着いたが、度重なる機体調整もあり予定よりも六時間は遅かった。空港ではライフルを剥き身でぶら下げた兵隊がわんさかいた。私は坊主&ヒゲにしていたのでよかったが、茶パツでロンゲな日本人がゲートで数人の武装した兵隊に囲まれ「ヘーイ、お前は女かー?」とかからかわれていた。男の子は真っ青になっていた。まあ、兵隊も暇なのだろう。

空は暗くなり始めていたころで、次の出発は夜明けの5時ということだった。カラチで夜を明かすことになった。

空港の前のバス乗り場のベンチに僕は座った。モスクが夕日に照らされ、その下を頭から真っ黒な布を被った女性が数人の子供を連れて歩いている。あっちゃー、来ちゃったよ、イスラム世界、と僕は思った。腹が減っていたが、街に繰り出す勇気はなく、両替も面倒だったので、空港でパンみたいなのを買った。

空港のベンチには人がどんどんと集まってきた。子連れの女性も多かった。彼女たちはそこで夜を明かした。

好奇心の強い子供たちがこちらに歩いてくることもあった。そのうちの何人かは空港のお土産売り場の玩具やお菓子を僕にねだった。僕は何も買ってはあげなかった。僕はギターを持っていたので、歌ったり踊ったりすると子供たちは喜んだ。仲良くなったので写真を撮ろうとカメラを向けたら、母親が必死な顔で止めに入った。何かを強く訴えていたが、全然分からなかった。

一睡もできないまま長い夜が明け、母親は子供を連れて街へ帰った。僕は飛行機に乗り込んだ。

この時は、僕が二ヵ月半後に再びこの街を訪れて観光することになるとは思いもよらなかった。 続く

2008-03-25

人の顔の憶え方

私は人の顔と名前を覚えるのが苦手だった。異常なほどと言ってよいと思う。会ったことすら忘れてしまい「あ、はじめまして」とか言ってしまうのだから。

まあ、人に興味がないのだろう。最低だ。私の友人の天使のような女の子は、バイトしているときに客で来た人の顔だって分かるらしい。それだけ人を大切にして生きているのだろう。素晴らしいことだ。

だから、本当に人の顔を憶えるには、以下のような小細工を弄さず、出会う人一人一人に真剣に向き合い、その人のことをしっかりと思うことである。つまり「俺は人を憶えるのが苦手で」などとぼやかず、性根を叩き直すことである。具体的には度々「あの人はどうしているだろう」「私に出来ることは無いだろうか」と思うことである。自分勝手に自分のことしか考えていないから、人様の名前も顔も忘れるというフザケタことができるのである。因果応報。自業自得。そういう人間には、そういう人間なりの未来が訪れると思う。

しかし、性根の方もそう簡単に叩き直されるものでもない。性根をコツコツと叩きつつ、私は未だに小細工を弄している。

私が習慣としている小細工がある。人と会ったときには席順と名前を描いておくのである。そこに、その人のエピソードや特徴などを書き込んでおく。できれば顔の絵も。それと余裕があれば自分の席から見た「景色」(人の顔を含む)をイラストにしておくのもよい。こうしたものをチラチラと眺めれば忘れることは無い。人間の空間に対する記憶力を利用するのである。最近では持ち歩いているメモ帳にこうした席順を書くようにしたので(少なくともミーティングのときには必ず書いている)人を忘れるということも無くなった。逆に最近では自信があるほどだ。ただ、その下手糞な似顔絵は誰にも見せられないのでメモ帳の扱いにはヒヤヒヤする。

実は以前にもそれなりに効果のある対策を練っていた。それは人をパターンに分類してしまい、そのパターンの内部での差異を利用して人を識別するというやり方である。人間の認識とはつまところパターン分類と差異の識別なのでそれを利用するというわけである。

最初に言っておくとこれは失敗だった。というのは原理自体は悪いものではなかったと思う。ただ、具体的な「パターン」の選定に問題があった。

まず、方法を説明しよう。始めに一定の分量の「モデル」を準備する。まず、その顔が憶えやすい必要がある。また、その人たち同士が何かしらの関係性を持っていたほうが記憶には残りやすい。そして、新しく出会った人を、その「モデル」に紐付けるのである。同一のモデルに紐付けられた人はその人同士の違いに注目してゆく。例えばAさんとBさんがモデルIに紐付けられていたとする。そしてAさんが野球が大好きだとしたら、Bさんにも「ところで野球は好きですか?」などと訊いておく。もしBさんが好きではないと答えたら「ふむふむ、こっちのBさんはAさんと違って野球は嫌いか……」などと考えてゆく。そしてモデルIの名前とAさんとBさんの名前の響きを関連させる。

この方法は効果があった。大学生の頃、様々なサークルに参加していて誰が誰だか分からなくなっていた。バンドくらいならメンバーと密接だからいいのだが、合奏をしたり、歌や踊りの伴奏をしたりすると、誰が何を踊る人で、自分はその人に何をすべきなのなのだかさっぱり分からなくなってしまう。私はこの方法でどうにか何をしている誰誰さんかを記憶していた。

この方法は悪くなかったと思う。ただ、そのパターンのモデルが悪かった。私は記憶のモデルに相撲取りを使っていたのである。そう、私は若い女の子を武蔵丸やら若乃花などに関連させて記憶していたのである。名前も「武蔵丸 鈴木」などと言って憶えていた。記憶というものは予想外かつ残酷なほどに滑稽なものを映像化すると憶えるものだ。二十歳そこそこの女の子を相撲取りと関連付ければ忘れるはずも無かった。そして「曙がブレリアの右側の女の子」「おお、三日の夜は三役揃い踏みだ!」などと紐付けて映像化すれば、相撲取りと音楽という予想外に滑稽な映像に忘れるはずも無かった。まあ、結果としてはオーライだった。

この方法に色々と問題があるのは明らかなので詳細は省こう。私はこの方法をもう使っていない。ただ、もしもこのパターン分類を使うのならば芸能人を使うことをお勧めする。芸能人の顔に紐付けておけば、いざ酔っ払って「AはIに似ている」などと言っても問題には成りえないからだ。というか、普通に人は若い時期に芸能人の顔を覚え、自然に出会う人を芸能人に紐付けている。私が芸能人に疎いから相撲取りに紐付けるというアホな行動をしたのだろう。普通に「AさんってIに似てるよね」なんて話してれば記憶に定着する。

ただ、それでも相撲取りの顔のヴァリエーションと想起時の滑稽さは惜しい。芸能人では「三役揃い踏む」ようなインパクトのある映像を与えてはくれないだろうから。と、こんな失礼なことを考えるのだから、俺は本当に性根が腐っている。

2008-03-11

4つのすると弱くなること

12の「今日だけでいいから」しておきたいこと に加えて。ただの個人的な Not to do リスト。

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弱くなることをしないこと。具体的には:

  1. 夜更かし: 夜は昼なら出てこないような悪い発想が出て来やすい。また、一度ネガティヴになると悪循環してしまう。健全な精神状態で早めに蒲団にもぐりこむのがいい。digi-log: 寝付きをよくするためにに書いた内容を守る。
  2. 長電話: 電話は口だけなので変なテンションになりやすい。夜更かしとあわせ技になると泥沼。また、携帯は音質が悪いのでそれだけでイライラする(家電は我慢できるけど、それでもCD音質の電話が欲しい)。対策としては、用件済んだら叩き切る、不用意に携帯の電源を入れておかないなど。
  3. 春樹を読むこと: 別に春樹を目の敵にしたいわけじゃないが、たぶん分かる人は分かると思う。なんだか読むと弱くなる。特に『ノルウェイの森』。
  4. 悪い姿勢: 胃が縮まれば内臓の働きは悪くなるし、顎が出れば肩こり頭痛になる。胃の辺りにスペースを空けるため胸を上げる。ウナジの辺りを伸ばし顎を引く。

以上の行動は確実に自分を弱くする。確実に。

ノートの取り方(6) 問題集にして「暗記」よりも「想起」に着眼

今回は「学習」が話の中心。「暗記」ではなく、「予測」「想起」をしながら読むノートにしようという話。簡単な小技でノートは問題集になる。

***

テストを受けることが一番効率的な学び方だという記事を見つけた(The Swingy Brain: 効率的な学び方)。「最近サイエンスに掲載された論文によると、同じことを反復して学ぶより、思い出す方を重視した方が良いらしい」とのことである。

「暗記」の努力をするよりも「想起」の努力をすべきと私も考えている。一般に「習得」するべく努力することを「暗記する」とか「憶える」という。こうした言葉が与える印象は、何かをそのまま頭の中に「書き込む」という印象である。これは誤りだと私は思う。人は頭に書き込むことはできない。だから「憶えよう」としたところで記憶されない。「思い出そう」とする努力が「記憶」を成立させる。脳内に想起の回路を作ることが記憶のための努力であり、それは「暗記」の訓練ではなく「想起」の訓練である。

暗記ではなく想起して効率的に学習するために、ノートは問題集に進化する。想起のためには最初に答が見えては行けない。答を想起するために間が必要である。

「答」が書いてあるノートを問題集にするためには、digi-log: ノートの取り方(1)にも書いたコーネル大学式のように余白にその答を想起する「質問」を書けばいい。これが簡単でよいと思う。「質問」じゃなくてもキーワードや見出しから内容を想起する訓練ができればいいと思う(あるいは、私流ノートの取り方 - finalventの日記のように穴埋問題集を作るのもいいと思う)。

質問を作るのに身構える必要はない。ある用語の説明があった場合「○○とは?」とでも書いておけばよい。そして、その質問を見たら説明文を頭に思い浮かべるということになる。

ノートを開くときには読むのではなく答を予想してゆく。これは次回の話とかぶるので詳細はそちらにまわすが、読むという行為は漫然と文字を追ってはいけない。常に自分の主体的な「ヨミ」(予測)があり、ページを繰る中で、そのヨミが当たったり、裏切られてゆくような行為でなければならないと思う。受身では得られるところは少ない。

ノートは問題集となり、予測や想起をしながら読むことになる。ノートでは一定の流れがあるので、その流れ自体を憶えることに挑んでもよいと思う。そして何が書いてあったかを思い出せる限り白い紙に書き出してみて、どこが想起できなかったのかを点検するのである。

一方で問題は固定されるので、多角的な視点を追加することも努力したほうがよい。ただし、それは難しいので、他の問題集を利用する必要もあると思う。ある知識は多角的に問うことが可能であり、そのこと自体が記憶を定着させると思う。

2008-03-10

頭蓋骨から復元したバッハの顔

バッハの顔を頭蓋骨から復元したらしい。

以前から伝わる肖像画はこちら。

若き日の肖像画(信憑性は低い)

こちらはバッハのお父様。

ちなみにバッハ一族の起源はハンガリーにある。一族的にはハンガリーに戻りたかったらしい。

そういえば、バッハの解釈・受容の歴史と近代の「作曲家」の成立、それとドイツ・ナショナリズムの形成あたりを絡めためちゃくちゃなレポートを若気の至りで書いたんだけど、どっかいってしまった。

参照

2008-03-02

ノートの取り方(5) 常に追記する

痕跡を残す習慣の利点はすぐには気がつかない。しかし、数年たってから、読んだはずだがまったく記憶にない本を開く時に、あるいは、自分が書いたのに何の記憶もない文書やコードを読むときに、はじめてその利点を知ることができる。その小さな痕跡が、自分の記憶を呼びさましてくれる。

一言のメモでも一本の線ですら有益だ。それを手掛かりにしてその時の記憶を手繰ることができることがある。

一番有益なのは、感情の記録だ。どんな要約よりも、その時に自分が何を感じたかが重要だ。その時の気分を手掛りにして、様々なことを思い出せる。同じくらい重要なのは日付だ。その日付をたよりにして、日記などを開いて、当時の状況を思い出せる。そうすれば、その情報のリアルな記憶を呼び覚ましやすい。自分の人生というインデックスほど有効なアイコンはない。

痕跡を残すのは習慣にしたほうがいい。人間は何でも忘れてしまう。本当に大切なことをいとも簡単に忘れてしまう。ふと気が付くと、自分が何をするつもりでそこにいるのか、その何年という時間を注ぎこんでいたのかすら、あっさりと忘れてしまう。何かの痕跡なしには、何も保つことが出来ない。だから、私たちは痕跡を残し続ける。

辞書を開いたら探した単語に線を引く、本を開けば自分に意味のあった文に線を引く。思いついたらコメントを残す。ノートを開いたら、読んだところにコメントしたり、線を引く。そして、そうした全ての重要なことに日付を残す。

関連した情報があるのなら、他の情報源からの情報も加える。勉強が進んだら、内容の要約やまとめ、他の事項との関連なども書く。チャートなどを作成するのもよいだろう。紙が足らなければテープで貼ればいい。本から切り取って貼るのもよい。できる限り、情報は一箇所にまとめるのが鉄則だ。

重要なことは、自分が「情報」という抽象的なことを「処理」しているのだとは思わないこと。そんな「処理」できる情報なんて大切じゃない。それと戯れるなかで、自分の人生が変わってしまうようなものが本物の情報だ。だから 現実の「物」に自分の「痕跡」を残しているというリアルな実感を大切にすること。それが現実の空間の中で、自分の人生の中で行われているという実感を大切にすることだ。そうして作った情報はきっと自分を支える力になる。

関連エントリ

ノートの取り方(2) 8つのルール