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2008-10-01

[広告]自動掃除機 ルンバ ハローキティモデル

ブログタイムズから記事広告のリリースをいただいたので「自動掃除機 ルンバ ハローキティモデル」を紹介します。

意外に「見えてる」人間の目

部屋がある程度片付いてるのに「なんとなくすっきりとしない」「全体的にべたーとしている」と感じたことありませんか?

人間の目は、意識以上に塵や埃を見てしまうのだそうです。つまり、「あ、埃だ」と明確に認識できなくても無意識に埃や塵を感じて、その結果、なんとなく散らかっているように感じてしまうのです。

部屋は気分のバロメーター

部屋の空気は気分に大きな影響を与えるものです。すっきりとした部屋なら気分も自然にすっきりとしますし、逆に淀んだ空気の部屋ならブルーになりがちです。「環境に影響される」なんて軟弱ですが、人の気分ってのは回りの影響を受けやすいものなので仕方ないです。

気分が落ち込んでいるときには部屋が散らかっている時が多いと思います。逆に「さあ、やるぞ!」という時には、まず部屋を掃除するのが人間です。汚ない部屋ではいい仕事もできないのです。

成功の秘訣は「掃除」?

よく会社が成功した秘訣が「便所掃除」という人もみかけますし、私が知っているほどんど宗教は毎日の日課として掃除をしています。仏教では掃除も大切な修行なんです。禅寺では朝食の後、即座に雑巾掛けをしてお香を焚きます。宗教施設に行くと気分がすっきりするのは、こうした掃除が行き届いているからかもしれません。

そうして身の回りをしっかり整頓できてこそ、仕事にも精神的にも成功できるというものでしょう。小さなことですが、万事、小事から成るものです。是非とも見習いたいものです。

自動掃除機 ルンバでキレイな床を!

とはいいつつ毎朝掃除をするなんて億劫なものです。出したものを仕舞う程度ならまだしも、床を掃除するのはなかなか……。朝の忙しい時、あるいは帰宅しての疲れた時に、禅僧のように床を水拭きするのはおろか、モップや掃除機だって面倒です。

そこで自動掃除機 ルンバ。自動掃除機 ルンバは直径34㎝、高さ約9cmの円盤型ロボットです。ボタンを一つ押すだけで、自動的に床を掃除してくれます。気になる電気代も1時間約1円だそうで経済的です。

どんなに疲れていても自動掃除機ルンバがあれば床をキレイにしてくれます。部屋の空気がよくなれば、気分もよくなるかもしれません。

その自動掃除機 ルンバにハローキティモデルが誕生したようです。是非、http://www.irobot-jp.com/roomba_kitty/ を訪問してみて下さい。

[PR by ブログタイムズ]

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2008-07-08

"科学離れ"な下の世代の考え方

「いっぱい勉強して、どこでもドアを作ってね」 家庭教師先の母親は、子供の意欲を焚きつけようとこう言った。

しかし、子供の答は意外だった。

「いや、あんなものはダメだよ。できたとしたらエネルギーを大量に消費するだろうし、簡単な移動ができてしまうと失われてしまうものも多いでしょ。無人島が無人島でなくなって環境は汚染されるし、犯罪に利用されたら大変だよ」

僕は数年年下なだけの生徒の台詞を聞いて、個人としての知性や鋭さというよりも、世代のギャップを感じたものだった。少なくとも私はそういう視点でどらえもんを見たことはなかったし、同世代でそういう批判をしたものは記憶になかった。割にひねくれた友人だらけだったが「どこでもドア〜? 欲っしぃ〜。作って〜」だったと思う。

だから母親の台詞を子供だましだなと19の私は感じたが別に違和感はなかった。人は常に新しい便利なものを生み出し続けてゆくものだという考えは、染み付いていたのだと思う。

言い換えれば、私はぎりぎり科学信奉の世代であり、彼は科学離れの世代と言えるかもしれない。科学について彼と話したのはとても印象深かった。私の世代にはまだ「原理を探求したい」がごく少数生き残り、一方で「できるなら作りたい」という考えが普及していたように思う。

しかし、彼らの世代には「そんなことをして何の意味があるのか」「すでに技術的・物質的には十分だ」という視点があった。貧困の問題にしても、物質や技術の問題ではなく分配・政治の問題であると言う。そんな彼が理系に進む理由、それは「発明」「進歩」ではなく「保守」「維持」のためなのである。そして、省エネ技術を追求する前に、ライフスタイルを再考しろよ、先進国民、というわけである。

私はにわかに信じられなかった。彼の発想にではない、そんな発想をしている本は山とある。そうではなく、彼の語るテンション、「子供らしくない」そのテンションに驚いたのである。私の世代が「新しい原理を見つける」とか「偉大な発明をする」というテンションでなかった以上に、彼らの世代のテンションは冷えきっているのだろう。

「科学離れ」という言葉がある。この言葉が示すのは、現代の若者が科学に興味がないということであり、かつて科学に熱中した人々がいたということであろう。そんな子供が現代にいたら逆に気持ち悪いのかもしれない。

時代が変われば子供も変わるのだな、と感じた。その時は。いまはやや違う。がそれはまたの機会に。

2008-04-12

4年前のメモ帳より

昨日のエントリで、4年前のメモ帳を開いたら結構おもしろかった。写しておく。たまに手書きのメモやノートをこちらに写すのもいいかもしれないと思った(といって面倒だからしないだろうけど。そもそも人に見せないと思って書くから書けるわけだし)。

***

よくコンピュータは脳に喩えられる。違う。脳はシステムであり、コンピュータはデータの集積。脳はそれ自体が一つであり、個々はその全体に向かい機能している。コンピュータはただの一つ一つのデータの集積であり、一つとしての意味は持たない。

***

個人があって社会が生まれたのではない。情報が並列化される社会という基盤があってこそ個性は生まれる。日本に個性がないとすれば、それは社会がないからだろう。

***

弱肉強食は現実の認識であり、人間が目指すべき理念ではない。人類が人類たりえるのは人類という理念があるからであり、その理念なくしては人類は獣にすぎない。

  • 概念として成立可能か
  • 現実世界での想定が可能か
  • 今の現実から実現可能か
  • 現状認識
これらを分けて考える必要がある。愚かなやつは、それが分からない。
***

全ての必要なことに日付を。また仕舞う時には番号を振れ。時間という場所という、人が最も想起しやすい手掛りを与えてくれる。

***

意識は科学で解明できない。意識は虚構であり物語であり、事実ではないのだから。科学は再現性に支えらえるが、再現性のある意識などは悪い冗談だ。神が妄想であるように、意識も、自己も妄想であり物語に過ぎない。

ただし技術が意識を制御できるようにはなるだろう。そうした時に、私たちはいまの私たちではない。技術万歳! 人類そのものも技術が支配してしまえ! 人類が技術を生むのではない。どうしてそんなことがありえよう? 技術が人類を生むのだ。技術というロジックが我々を未来へと運ぶのだ。産業の技術が、医療の技術が、資本の技術が、金融の技術が、ありとあらゆる技術が、我々を未来へと運んでゆく。我々とは何の関係もなしに。技術に運ばれる我々は、いつかナイーヴな我々を嗤うだろう。今の私達が過去の人々をナイーヴだと嗤うように。

***

ねじまき鳥読了。傑作。カフカ、ドストへの意志を感じる。特有の比喩や登場人物の表現などが無ければ更に良かった。夢と現実、想像、呪い、預言、性などの坩堝。執拗に物語が練り込まれ、重ねられる。春樹が描けなかったところに魅力がある。淡白な主人公=語り手、目をひくが無内容な比喩、無駄な権力や財力というストーリーは無駄なだけ。その向こうにある彼の力、意志を考えざるをえない。恐らく春樹は翻訳されたときに真価を発揮するのだろう。彼の日本語は余計なものだ。翻訳により彼の日本語が脱落して春樹は完成すると思える。彼は確かに何かに近付き、描いた。その道具は誤ったものだったが描けた。仄かにだが彼の居る日本に安堵感のような淡い誇りを感じかけてしまうほどだったが、逆に春樹が日本には物理的にも文化的にも属さぬことに深い絶望も感じる。

***

真実とは現実に対して物語られる一つの解釈であり、現実に対する解釈として語られる物語である。

***

以前にも じじいのぼやき(2)じじいのぼやき としてぼやきをブログに写したことがあった。何事も続かないな、俺。

2007-09-12

観念

観念という言葉がある。少しだけ、この言葉についてメモしておく。どれも雑感や憶測であり、根拠はないので注意して欲しい。

観念とは不思議な言葉である。面倒なので意味を調べもしないが、まず「概念」というような意味を持つ。「考え」や「意味内容」とでも言えばいいだろうか。そういう意味を持つ。

恐らくは、この意味は idea の「翻訳語」なのであろう。予想だが、元々の「観念」は仏教語であり、 idea を意味する言葉ではなかったのではなかろうかと思う。それがどうして、「 観念 = idea」になったのだろう。不思議であり、興味が湧く。

仏教用語の系譜はひとまずさておき、翻訳語としての「観念」は idea を意味する単語なので、観念論や観念的という言葉を生んだのだろうかと思う。

次に「観念」というと「観念しろ」とか「観念しました」という言葉が思い浮かぶ。いわば「あきらめる」という意味である。

この点にも非常な興味が湧く。これは、明らかに仏教を考えないと出てこない。

観念とは「念を観る」と書く。ここで漢字にこだわらず、観念という言葉事態が仏教経典の翻訳語と考えると、 パーリ語で vippasana sati と思える。これは、「気づきを観察する」「洞察を観察する」という意味になろうか。あるいは、ヴィパッサナー瞑想とも言えなくもない。

こう考えると、観念するということは、自分の根源的な洞察なり、感覚なりを、ありのままに見るという意味に取れる。「念」とは気づき続けるという充分な意識状態であり、それを観察するということは、疑いようもない、与えられた今ここの持続を観ることになる。如実智見である。

ここまで考えると、観念が「諦める」という意味とつながる。あきらめるとは「やめる」ことではなく、「明らめる」、明らかにすることである。「諦める」とは「あるものを、ありのままに、あきらかに観る」ということだろう。

観念するとは、己の念(純粋知覚や気づき、洞察)を観るのであるあるから、「明らかにする」という「諦める」と同じになるのである。「諦」という漢字は「真実」という意味である。

ここで、念を観ることや諦(真実)を/として明らめることが、現在の意味になったのにも非常な興味が湧く。たぶん、かなり早い時期に日本人は、真実(諦)を「人間、あきらめのよさが肝心」のような表現に現れるものとして理解していったのかと思う。

そして、再度、興味が湧くのは、そうした「観念」を idea の翻訳語としたことである。恐らくは、仏教用語としての「観念」という言葉にある、「純粋な洞察」という意味を透かしての選択だったのではないかと思う。誰が選んだのかは知らないが、観念という言葉の中に、イデアという言葉の響きを聴いてのことではなかったかと。

完全な妄想だが、仏教のいう観念の世界、つまり如実智見の境地と、イデアの世界の境地に関連を込めたのではなかろうか。

翻訳語の観念が idea を意味するが故に、「観念」は「理想」も意味する。観念的は理想的なのである。ただ、そうした「観念」によって如実智見した世界は、 idea の世界なのではなかろうか。

ここで、idea という語の系譜も知らない私の妄想だが、元々、idea という語も「考え」という意味を持ち、「理想的」という意味を持ったのは、割に最近なのではないだろうか。つまり、idea も、純粋で根源的な内から湧くか、外から与えられる、思考ではない純粋な直感や洞察、気づきのようなものを意味していたのではないだろうか。その純粋な洞察が、本来の世界という響きが、idea から聴こえるように私は思う。この純粋な直感や洞察、知覚が「観念(如実智見)|諦め(真実)」と共通するのである。なんとも興味はつきない。

長々としてまとまりのないメモである。いつか暇をみて調べてみたいテーマである。

[続き]

2007-08-29

私の哲学のきっかけのようなもの

たぶん、哲学を好きになる人というのは切っ掛けがあると思う。ある友人は、芸術というものを現象学で考えたいという切っ掛けがあった。ある友人は、そこに手を入れると三次元の切れ目となる場所を見付けたいという切っ掛けがあった。いや、そもそも、そういう空想に浸る傾向があったといういうべきか。

私の場合の切っ掛けは二つあると思う。一つは音楽の問題。もう一つは今回おはなしする、高校時代からの空想だ。

それは中学校三年生の秋口のことだ。私は連続ものの夢をみた。悪魔から友人とともに逃げ、毎晩毎晩、友人が失われてゆくという夢だった。こういう夢が一カ月続いた。

そして、最後一人になった私は、悪魔から逃れるため、砂漠にポツンと立つビルの屋上から飛び降りるたのだった。飛び降りるシーンだけの夢を三日くらい見た後、ビルから落ちる夢を連続で三週間ほど見続けることになった。

こうした落る夢を見続けることで、私は「砂漠に立つビル」という世界が、実体のように感じられるようになった。いや、無いのは知っているのだが、実感としては行ったことがある空間という感覚になってしまった。どうにも、奇妙な感覚であり、心にいつまでもシコリとなっていた。

高校に入り、雑多に乱読をしているうちに、こうした感覚はいくつかのまとまった思考になった。いくらか矛盾もあり雑駁だがしたためておく。

まず、高校時代の私は、時間と空間を無限と考えていた。それ故、いま起きたことは、いつか必ず、将来にもまた起きるだろうし、いま起きていることは、過去にも何度も起きていたと考える習慣がついていた。勿論、ニーチェの永劫回帰の影響である。

こうした考えを更に敷衍すると、永劫回帰するのは、何も「いまの出来事」に限る必要はなくなる。そんなケチなこと言わないで、ありえるだろう「いかなる事象」も過去にあったし未来にもあるだろうということになる。全く無限の時間と空間の中では、有限な物質が自由に振る舞う中で可能な「いかなる事象」でも起きるのである。

こうした思弁は私をどういう訳か興奮させた。「では、私の夢も過去にあったかもしれないし、これから起きるかもしれない」という訳である。

ここで、問題が当然のように生じる。まず、組み合わせとして起きる可能性は限られているのであり、起こる事象も限りがある。ただ、私は夢での出来事が「可能な事象」に思われた。もちろん根拠はない。

次に、そうした「出来事」が起きたとして、それが私に何の影響があるのか、ということである。つまり、私が夢の中で「経験」した「砂漠に立つのビル」が本当に「あった」なり「あるだろう」として、それが、他ならない私に何の影響があるのか、ということである。実はこれは自分が永劫回帰するとしても、その「あった」なり「あるだろう」全く同じ「私」の出来事が、他ならない今まさにこと時に何の影響があるのか、という問題とも関連する。

ここで空想は更に広がる。将来または過去において、全く私が夢で「経験」し「体感」したような出来事が起きるとして、更に、その「私」が夢の中で感じたり考えたりするのと同じような行為をして、全く同じ記憶なりを持っていたとする。つまり、完全に、夢の中の私が、実際のプロセスとして起きたという場合を考える。それが果たして、他ならぬ今ここで表れている「私」にとって意味があるのか。

こうした疑問がそもそもの前置きとなり、ここから急激に私の思弁は変化する。こうした疑問は「そもそも『ある』とは何だろう? 『ある』と『認識』することとは何だろう? そして、何かが『ある』ということと、今まさにここに『ある』『私』とはどういうことなのだろう?」という具合につながっていったのである。こうした問題が、それほど整理されないで、雑駁に矛盾しながら襲って来たという感覚だった。

高校一年の時の日記の記述によれば、私はこの「悪夢」の他に「夜道を歩いている時に電柱が一瞬人に見えてしまうこと」や「どこか遠い宇宙に『ある』もの」を考えていたことが分かる。「他ならぬ私にとって、一瞬電柱が人に見えたとして、人に見えた瞬間に死んでしまったらどうなるのだろう? あるいは人だと思ったまま、道を曲がってしまったら、私にとっては、それは人になっていることになる」「遠い宇宙に、なにかが『ある』としても、私が知る可能性がなかったとしたら、私にとっては『ある』とは言えないのではないか? 私にとっては『あってもなくても同じ』ことだ」

こうして、「世界が過去や将来に回帰したとしても他ならぬ今ここの私にとっては関係がない」ことから、「存在とは認識によって成立する」ことを考えた私は、そのまま「真理」とは「整合性」として考えてゆき、整合性とは制御や予測などによる「有益さ」に基づくという考えに落ち着く。つまらない結論であるが。

ここから、仮に「実体験」のように「あるはずのない経験」をしたとしても、そこに有益性に基づいた整合性がないのだとしたら「それは存在したのではない」と導くことになった。存在は直接に与えられず、現象の認識があるのみからである。まあ、大袈裟な話だったが、当たり前のことを確認しただけである。つまり、夢は夢、現実は現実なのである。「時間や空間の無限/有限」問題や「どこかにいるもう一人の私」問題を考える愚かさを学んだともいえる。

そして「真実の存在」「実在」という問題は消去された。それは端的に知りえない。のみならず、それを知るときには、今まさにここで生きている私には、いかなる意味でも「関係がない」。知りえないのみならず、意味が成立しないのである。

ただ、それでも問題は残り続けた。「夜道の電柱」問題である。あるいは「夜道の幽霊」問題と言ってもよい。私は元来、幻覚を見やすい。UFOだって、軍服を来た幽霊だって、人魂だって一通りは「見て」いる。霊的な場所に行けば当然のように他の人には聴こえない「音」が聴こえるし、体を切られたりもする。

この場合は、実体験のようにないはずの経験をして、実際に切れてしまったという場合である。この場合、夢のように整合性がないのではない。「あった」と言った方がスッキリするのである。

ここで、私は、「それ」は存在はしていないが(いや、実在なんて分からないからか)、私にとっての現象としては「あった」という処理になった。つまり、他の事物の存在を言う時のように存在しているとは決して言わず、ただ「見えた」という「認識」だけがあったと考えることにしたのである。そして、「霊」や「神」、「悪魔」が「存在する」とは決して言わず、そうしたのを「感じてしまう仕組み」が私の認識システムには組込まれていると考えるようになった。

この考えは、「『ある』」は問題ではなく、「認識する」というプロセスが重要なのだという流れになる。万物は存在せず、「存在する」という認識というプロセスが起きているのみなのである。ただ、そうしたプロセスの連関の中で、諸要素そのものは「存在しない」のである。

いや、ここまで書いておいてあれだけど、これは最近の考えに影響されすぎてる。高校の時はもっと、違ったことを考えていた気がする。ただ、最終的にこのプロセスのネットワークという考えは、19の頃のトポス(場)へと繋がってゆくのだろうが。

まあ、いいや。そんなこんなで。

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2007-08-04

教育費について

ぼんやりと、生涯でのカネのかかりそうなイヴェントを想う。

結婚、出産、教育、家、老後……。だいたい、ここらが大きな出費か。

結婚式にカネを使うのは愚かかと感じるので、これは大したカネを使わない。次に出産。これは、まあ、あれだ。安産ならありがたいな。

そして、教育なのだが、これがどうにも苦しい。結論から言うと、金をかけたくないのだ。かけたくない、というよりは、かけるのはよくないと思う。私個人は中学は公立で、三年間、親に塾にやってもらった。そして、○成に入った。そして、まあ、ボンヤリと授業についていったら、東○に入った。

こう書くと、中学の塾が効いたとも思う。ただ、そのせいで、親からはずっと教育費のことで小言を言われ続けた。嫌でたまらなかったので、高校の夏以降は、奨学金とバイトで学費と生活費をまかなうことにした。結構ハードだった。

ふと、スマナサーラじゃないが「怒りでやると、結局だめなんですよ」と言いたくなる。俺は、怒っていた。だから、学業はダメになった。

俺は、塾に行かない方がよかったと思う。別に後悔している訳じゃないが、いま考えると、そちらの方がよかったとしか思えない。金銭的な親との軋轢もなかったろうし、受験という精神的ストレスもかなり低かったはずだ。そして、別に公立高校に入っていても、東大くらいは簡単に入っただろうと思う。

そう思う以上、子供を塾に通わせたくない。カネが惜しいんじゃない。ただ、中学の間、自分の子供には、ああいう世界とは無縁であって欲しいと思う。いや、それも嘘か。

そもそも、塾なんて役に立たない。勉強は自分でするしかない。自分で勉強できない子供なら、塾に入れたって同じことだ。カネで学歴を買っても仕方ない。

自習できればよい。自習して教科書を暗記すればよい。分からないことがあれば、俺に聞けばいい。それで、いいのではないかと思う。どうして、俺が、大学生かせいぜい院生のバイト程度の授業に金を払わにゃならん?

そう。思うのだが、子供には、漢文と古文の素養を持って欲しい。だから、嫌でも論語くらいは暗誦させる。大学中庸、春秋あたりを素読したい。

英語? 漢文をベースにしておけば、英語なんて問題ない。

老後は小さな線香臭い仏間で、儒、道、仏の経典でも繙きつつ、坐禅でもしていたいものだ。そんな人間、現代では存在自体が悪かもしれぬが。

まあ、いつも通り、意味不明。

2007-07-14

脳をきちんと考えると、常識を変えないといけなくなるかも

最近、脳の本を読んでいると実に内容が哲学的なのに驚く。一昔前の脳の実体論的・万能論な常識は完全に通用しなくなっていることが分かる。また、世界の認識についても素朴な実在論は通用しないことも脳の科学が示してくれている。

別に脳の科学で全部を語れるとも、語るべきとも思わないが、脳科学の進歩に注意を払うのは、現代人でちょっと物を考える人には必要不可欠だろう。

今回は、そうした脳の科学が訴える「常識」の変革を少々。

脳と身体は一心同体

従来、脳と体の関係ってのは脳から体への一方通行の指令で、体をスポッと変えても脳の機能は変わらないとか考えられてきた。つまり、例えば脳みそを取り出して違う身体に移植したりできるんじゃないか、と。SFでよくあるパターン。

しかし、最近は、体が脳を決めている部分があることにも注目しなきゃいけないことが分かってきたんだ。つまり身体のあり方が脳のあり方を規定しているということ。だから、身体が変化したら脳の構造も変化しちゃうんだ。例えば指が四本しかない人は、四本に対応するだけしか脳の分化がなく、また、その人の指を手術で五本にしたら、なんと一週間足らずで脳の対応もきちんと五本のために分化するんだ。おそらく、私たちの指が六本になったら、脳も早急にそれに対応するだろうね。脳と身体はまさに一心同体なんだ。

よく私たちは脳の全体の数パーセントしか使ってないっていうよね? それくらいに脳というのは高機能で、どちらかというと私たちの身体の方がそれに追いついていないくらいなんだ。

脳に機能的余裕があるからこそ、私たちは自らの身体を使いこなすことを超え、道具を「手足のように」使いこなしたりできるんだろうと私は考える。事実、サルが道具を使っているときには、道具の先端を操作するときに、素手の時には指先の部分で反応していた神経が活動しているらしい。スポーツや楽器の演奏をする身体は高機能な脳に支えられているんだね。そしてその時、脳も変化しているんだ。

私たちが見えている世界

今、身体と脳の関係が普通に考えられているのは違うって言ったけど、実は世界と私たちの認識の関係も考え直す必要があるかもしれない。

私たちにとって「世界」とは脳が理解した世界なわけだよね。でも、脳が外部から取り入れている情報というのは実は完全なものじゃない。視神経で考えたって100万本しかないから100万画素しか取り込めないし、その情報すら脳内のほかの情報の影響を強く受けるんだ。

そして考えて欲しいんだけど、100万画素の画像はかなり荒い。でも私たちが見ている世界は「荒く」なんてないよね。つまり、かなり荒い情報しか入力していないのに荒くない映像が「見えている」ということは、脳が補完をして映像を作り出しているということなんだ。

するとどうだろう。自分が見えている世界が、実際にその通りにあることが疑わしく思うんじゃないかな。


こうして考えていると、本ブルグでも触れた『脳と仮想』『進化しすぎた脳』などを読んでみて、科学としての脳の研究の将来を考えたくなるかもしれない。

また一方で、素朴実在論という常識を離れてゆき、哲学や宗教などに興味が湧くかもしれない。宗教なら本ブログでも取り上げた『道元 - 自己・時間・世界はどのように成立するか』で日本最高の知性の一人の道元の思想に触れたり、『インテグラル・ヨーガ - パタンジャリのヨーガ・スートラ』でヨーガ思想を垣間見るのもよいかもしれない。同様に仏教の他の思想、例えば中観や唯識にも興味が湧くかもしれない。

2007-07-09

食事中にいやなこと

ただの愚痴である。

今日は月曜、嵐の月曜日である。

朝食を摂りに居間にゆくと、父がドンパチ系の映画を見ている。私は卵焼きと海苔で朝食を済ますのだが、それは断末魔の叫びや銃弾の音の嵐の中でのことになる。まあ「あはーん」「うふーん」な音でないだけマシか。

母も父がいると不機嫌であり、無言で掃除をしている。ええ、掃除をするんですよ、人の食事中。

セカセカとホウキで床を掃き、モップで掃き、食べてるテーブルをフキンで拭く。また、食べ終わったそばから、ガチャガチャ皿を片付ける。そもそも健康サンダルみたいなスリッパを履いているので、動くだけで足音がうるさい。

食事中にホウキで掃かれるのは嫌である。ホコリが舞うのが嫌なのか、ホウキと床が擦れる音が嫌なのかは分からない。たぶん両方であろう。

いや、まったく。愚痴を書いてすまなかったです。

皆様も人の食事中には人が死ぬような映画の音は小さくして、掃除はやめましょう。

ではまた。

2007-04-11

場の学の簡単なまとめ

私なりに考えている「場」の学ですが、様々な人が考えている問題ですので簡単にリンク集を作っておきます。
* 西田幾多郎
京都学派の創始者。参禅経験とヘーゲル的哲学観を基礎に、東洋思想と西洋思想をより根本的な地点から融合させようとした。『善の研究』が特に有名。詳しくは書籍の他、Wikipediaの西田幾多郎の項目やなどを参照。青空文庫にもテキストあり

* 清水博
東大名誉教授。『生命を捉えなおす—生きている状態とは何か』『生命知としての場の論理—柳生新陰流に見る共創の理』『場と共創』『場の思想』など著書多数。松岡正剛の千夜一冊の『生命を捉えなおす』 も参照。所長を勤める場の研究所も活発に活動している。今度、勉強会に行こうと思っている。

* 野中郁次郎
知識経営論の生みの親。暗黙知や形式知のダイナミックな運動を理論家したSECIモデルで有名。「場」を通じての知識創造についても注目している。KMの分野では場は Ba として英語になっているらしい。『知識創造企業』は日本の経営学者が世界的に評価された数少ない名著とのこと。Wikipediaの野中郁次郎の項目参照。

* 岩井國臣
参議院議員。サイトでは「場」について以下の文章などが読める。
西田哲学「場所の論理」について
清水博が唱える「場の文化」
共生の論理

* Topological Turn und japanische Philosophie
ドイツ語。左肩に漢字の「場」と大きく書いてあり、「Was bedeutet Ba? (場とは何を意味するか?)」と書いてある。幅広く場の情報を提供している。

* ドイツ語 Wikipedia の Spatial turn の解説
私が翻訳した ドイツ語版 Wikipedia の Spatial turn の記事もよろしければご覧下さい。

2007-02-02

奇跡のための祈り

ただのきちがい

***
慈しみは何も生まないかもしれない。
慈しみが何かを生むとすれば、
それは奇跡なのかもしれない。

そうだったら、なおのこと、
慈しまずにはいられない。




言葉は何も生まないかもしれない。
言葉が何かを生むとすれば、
それは奇跡なのかもしれない。

だからこそ、なおさら、
語らずにはいられない。




生きることは何も生まないかもしれない。
生きることが何かを生むとすれば、
それこそ奇跡なのかもしれない。

そうだから、なおのこと、
生きずにはいられない。




道は遠く、日は暮れて、
どこにも辿り着くことはないのかもしれない。
そう。
道が達することは奇跡なのかもしれない。
立ちつくす方が利巧なのかもしれない。

だからこそ、どうしても、
歩かないなんて、考えられないじゃないか




全ては無駄なのかもしれない。
無駄じゃないことなんて無いのかもしれない。

そう。だから、やっていくしかないんじゃないか?




どうだろう?

生きぬくしかないんじゃないか?
言葉をかけるしかないんじゃないか?
哀れみ慈しむしかないんじゃないか?
感謝し喜ぶしかないんじゃないか?

どうだろう?

歩き続けるしかないんじゃないか?
道を往くしかないんじゃないか?
やってゆくしかないんじゃないか?

ただただ、奇跡を求めて
ただただ、なすべきことをなすために




祈りは何も生まないだろう。
何かを生むとしたら奇跡なのだろう。

だから、祈らずにはいられない。




この祈りは何も生まないだろう。
この祈りが何かを生むとしたら、
それは奇跡だろう。

そのために、この祈りを捧げたい。

2007-01-09

21世紀の経済学がなすべきこと
5. 暫定的な最低限の処置

前節で見たように問題は経済学だけではなく現代社会の経済観自体の問題にないります。そのためには根本的な経済観を変えなければならないと書きました。しかし実際に自然・資源やエントロピー論を元に一から学問を起こすのは困難であるでしょう。またその繁雑さから影響力も限定されるとも考えられます。

ひとまず私はこの問題に対し提言があります。すなわち経済は価格では買えないものを消費してはならないというものです。つまり有限で環境破壊をする資源の利用に対価は払えるはずはなく、経済学はその取引をやめるように提言すべきであるということです。経済学はその提言をするに足る十分な情報と手法を持っているからです。

通常、私たちの社会では文化芸術作品や歴史的遺跡には高値がつきます。中には政治機関の認定により取引を禁じられるものさえあります。これは個人や一時代の人々により消費・破壊されてしまうことを防ぐためです。この保護の考えにより作品や遺産は杜撰な取扱いを免れ人類全体の遺産として残るというわけです。

ここで考えて欲しいことがあります。化石資源は地球が長い年月を掛けて生成してきたものであり人間による生産・再生は不可能です。使いきってしまったら後はないのです。有限であり再生できない化石資源は人類文化遺産のように値段が付かないはずのものではないでしょうか。

一方、地球温暖化も値段が付けられないほどの人類に対する被害です。環境エネルギー庁の『総合エネルギー統計(平成三年度版)』[8]によれば、 1990 年には地球上では75 億トンの石油に匹敵する化石燃料が消費されました。この化石燃料の消費から発生する炭酸ガスは年間220 億トンであり地球上の炭酸ガス2 兆トンの1% 以上です。石油が枯渇すると予測されている45 年後には炭酸ガス濃度は現在の50% 近く増加することになるということです。このような被害を金銭的に償うことは明かに不可能です。

消費して消滅してしまう化石燃料は以上のことから本来は価格には表せないものです。つまり経済的に取引されるべきものではないのです。

では私たちは自らの労働の他にはエネルギーを持たないのでしょうか。いえ、エネルギーを持たないというわけではありません。我々には太陽が与えられています。私たちは太陽のエネルギーのみを使用しなければいけません。日光・風力・地熱などの発電手段は太陽を利用したエネルギー取得手段です。また水力発電も太陽が運んだ水の位置エネルギーを利用した発電手段です。

ところで薪やそれを加工した炭もたしかに太陽から与えられた資源です。太陽の力によって成長する木々から生産されるからです。しかし、それらの燃料の使用も地球温暖化を促進する要素になります。地球の自浄作用を越えない範囲での使用なら問題ないということになります。

さて、以上に述べたように私たちは枯渇や環境破壊する資源を利用すべきではありません。実際、昔の世界のほか今でも多くの社会ではそれらの資源を利用していません。これは古からの知恵であるとして尊重すべきものです。

しかし、急激にそれらの資源利用を停止するのは理想論です。現実には不可能ですし、やるべきでもありません。ひとまずは枯渇と環境破壊の危険性を視野に入れた価格設定が必要で、段階的に価格を上げてゆくべきでしょう。最終的には太陽からのエネルギーを利用した方が効率的であるようにします。

この議論を成立させるために経済学は以下のことをしなければなりません。

* 現行の仮定による経済が与える打撃の計算

* 妥当な化石エネルギー価格の計算

* 妥当価格による社会打撃

* 太陽源泉のエネルギーの開発支援

* 太陽源泉のエネルギー利用支援

それらを調査した上で政治・行政の場に資料を提出します。

現行の社会が与える未来への打撃と、枯渇や環境破壊から自由なエネルギーの使用による現在の社会に対する打撃を計量化し、そのトレードオフにより価格を設定しなければなりません。

これらの問題を取り入れた上で一般に人口問題と呼ばれる問題に対処しなければなりません。食料や水という生存に最低限必要な物資の経済も考えねばなりません。これは上記のようなその場しのぎの経済学では間にあわないでしょう。本格的にエネルギーやエントロピー論と資源の有限性に基づいた経済学が必要になります。


概要と文献 1. 結論——21世紀に必要な経済観 2. 序論 — 資本主義の問題に対する経済学の沈黙 3. 交換価値と無限の自然に立脚した資本主義批判 4. 従来の資本主義批判の限界と新しい経済学

5. 暫定的な最低限の処置(現在の記事)

21世紀の経済学がなすべきこと
4. 従来の資本主義批判の限界と新しい経済学

前節ではマルクスによる資本主義批判を振り返り、技術革新が資本主義減速の退避策の要になることが考えられました。その上で自然を無限と見ることと交換価値で自然を見ることの関連を見てとりました。

資源枯渇・環境破壊という問題に対して経済学は有効な提言はできません。これは経済学が交換価値のみに立脚したことによる限界です。

経済学的思考はこの限界を打ち破らねばなりません。資源の有限性や環境破壊の危険性やエネルギーの経済は現在の死活問題になりえるからです。

ここで注意が必要なのは資源の有限性を考慮していないのは経済学だけの責任であるとも言えないのです。なぜなら現実の社会が資源の有限性を考慮していないからです。つまり、現実の社会が交換価値のみを考えて資源を無限であるかのように考えているからです。

もし有限性を認識しているのなら価格調整が図られるというのが経済学の発想です。もし有限であるということを現実の社会が認めているのなら現実に価格調整は実現するでしょう。あるいは地球温暖化現象に見合った額になるために環境税などが付加されるべきです。しかし現実社会は資源の有限性や環境破壊には留意していないのです。

もし環境破壊も枯渇もしない資源があった場合を考えてみて下さい。有効に利用することに問題はないはずですね。問題は事実は異なるのに今の社会が枯渇も環境破壊もしない資源かのように消費していることなのです。

現実社会が考慮していない変数を学問が取り入れることは不可能ですが、しかしながら、このことは資源枯渇・環境破壊問題を経済学が考えなくてもよいということではありません。経済学はこの問題を有効に提起できる限られた学問なのです。経済学は被害を最小限にすべくこの問題に対処すべきです。現実から作られた経済学が現実に影響を与えなければいけない時なのです。経済学は統計データ・理論や計算道具を十分に持っているはずです。

経済学は交換価値のみによる経済学からの脱却しなければなりません。そのために自然破壊や資源の問題かエントロピーの問題を根底にすえるべきでしょう。その上で政治・行政の場にアプローチをしていかなければなりません。以下の本では資源の有限性に立脚した新しい経済学が構想されているようです。K. William Kapp, The SocialCostsof Private Enterprise[4]、宮本憲一『環境経済学』[9]、NicholasGeorgescu-Roegen のエントロピー論[1,2]、玉野井芳郎の「広義の経済学」[10-12]などがあります。


概要と文献 1. 結論——21世紀に必要な経済観 2. 序論 — 資本主義の問題に対する経済学の沈黙 3. 交換価値と無限の自然に立脚した資本主義批判

4. 従来の資本主義批判の限界と新しい経済学(現在の記事) 5. 暫定的な最低限の処置

21世紀の経済学がなすべきこと
2. 序論 — 資本主義の問題に対する経済学の沈黙

現行の資本の活動は労働者を疎外し天然資源や自然環境を破壊・枯渇させています。

世界的に労働者は“race to the bottom” と呼ばれるまでの労働条件の悪化を経験しています。しかし先進国では労働者はそのような苦境にありません。これは先進国では資源浪費による技術により労働者搾取の率は低いからです。そうして世界的な貧困化は先進国の目には入りません。しかしほとんどの国では労働条件の悪化は進んでいるのは事実ですし、先進国でも不況や産業空洞化という形で隠蔽された労働条件悪化は進んでいると言えます。

一方で天然資源消費の歯止めは一向に掛かる気配すらありません。二酸化炭素の発生を規制しようとした京都議定書も有名無実化しているのが現状ですし、石油資源も先進国の思惑のみが先行し有限資源の保護の発想は微塵もありません。それどころか利権を巡り戦争を起こしているありさまです。そのような剥き出しの利権主義が横行する中で一時期発言権を持った環境保護団体は黙殺されがちになりました。

以上のように富の源泉である労働力と資源・環境は徹底的に搾取されるているのです。このような事態はは今世紀の死活問題のはずです。しかしこのような状況に対し学問・政治議論・ジャーナリズムはほとんどの有効な対応をとれていません。

とりわけ経済学は労働条件や資源・環境を計量的に扱えるはずであり、本来はこの状況を政治的に解決すべき知恵を提供できる学問のはずです。ところが現状の経済学はGDP・失業率・インフレ率などのマクロ経済的な考察には熱心ですが、資源や環境の問題に対して政治的にはほとんど沈黙を守っています。いわんやエネルギーや食料・水を巡る人口問題に対しては解決を諦めているかのようです。

本試論では以上の問題意識をもとに従来の経済学による労働者搾取問題と資源・環境問題を洗い出し、その上で経済学は何をすべきなのかを考えてみました。


概要と文献 1. 結論——21世紀に必要な経済観

2. 序論 — 資本主義の問題に対する経済学の沈黙(現在の記事) 3. 交換価値と無限の自然に立脚した資本主義批判 4. 従来の資本主義批判の限界と新しい経済学 5. 暫定的な最低限の処置

21世紀の経済学がなすべきこと
3. 交換価値と無限の自然に立脚した資本主義批判

本節では中村(1995)による経済学が自然を無限と仮定したことへの指摘をうけ、マルクスの『資本論』による労働者の搾取についての問題を振り返ります。マルクスの資本主義の批判を再考することで、現行の社会では労働における搾取以外が想定されていないことを再確認しておきます。

さて、マルクスが経済を考える場合に想定される価値とは交換価値です。交換価値を説明するためには彼の貨幣についての議論を整理する必要があるでしょうが、ここでは簡単に使用価値と交換価値の対比で説明したいと思います。

マルクスは元々は財はその有用性によって評価されていたと考えます。つまりこれは何々のために使えるからとか、これは食べられるからという形で価値を持っていたのです。このような価値を彼は使用価値と呼びます。一方で交換価値とはあるものの有用性による価値ではなく交換する場合の価値に立脚した価値です。これは貨幣経済においては貨幣によって明確に計量化できます。マルクスは交換価値のみが経済の対象であるとし、使用価値は経済学の領域の外にあると考えています。

マルクスは資本家が得る全ての価値は労働によって生まれていると考えます。その労働によって生まれる価値を剰余価値と呼びました。交換価値の視点から利潤を生み出す要素は労働であると考えるのが妥当でしょう。交換価値で考えた場合に搾取されている可能性があるのは労働者のみであるからです。

マルクスは、総資本Cを不変資本(=労働手段)c と可変資本(労働賃金)v に分け、労働の搾取による剰余価値mと利潤pの関係を考えました。賃金との関係で剰余価値と呼ばれたものが、総資本との関係では利潤と呼ばれるのです。

この関係の考察から彼は労働者の搾取と資本主義の限界を示します。

総資本における利潤の割合を利潤率p’と呼ぶとp’ = m/C (1) となります。一方で労働賃金と剰余価値率の比率を剰余価値率m’と呼ぶと m’=m/vと表せます。

これを変形してm = m’vとして(1) に代入するとp’=m’v/Cとなります。

この式は、利潤率を上げるには剰余価値率が高く、総資本における労働賃金の割合が高ければよいということを表しています。総資本における労働賃金の割合は労働の種類によって一定になってしまうでしょう。ですから資本家は剰余価値率を向上させるように努めるのです。てっとり早いのは賃金低下や労働条件の悪化です。

しかし、このことはv/Cを減らします。そしてv/Cの減少は利潤率p’ = m’v/C を減少させます。一方、こうした労働者の搾取と、それに伴なう労働者の倫理低下のため剰余価値率m’ も低減するでしょう。この悪循環により利潤率の低下は止めることはできません。

総資本に対する利潤率の低下は資本主義の死活問題です。利潤は再生産の要なのです。利潤を生まない産業への投資は経済的にはありえません。利潤の低下は再生産の縮小を意味するのです。もしこの条件だけならば利潤の低下と、それに伴う再生産の縮小により、資本主義経済は速やかに終息する筈です。

では、何故、現実の資本主義経済は終息するどころか、更に拡大発展を見せているのでしょう?それは労働者の搾取によらない利潤の確保の手段があるからです。それが技術革新です。技術革新は剰余価値率を飛躍的に高めます。終わることのない技術革新とは、資本主義経済が生存するために無くてはならないものなのです。つまり、一般的に考えられているように、技術革新は未来のために必要なのではありません。現状の維持にとってさえ必要なのです。

こうして、生きるか死ぬかの瀬戸際で次々と生まれる技術は、資源・環境問題に対しては考慮されません。同時にエネルギー的に考えても損失を生むだけです。そもそも資本主義経済は、そういった余裕を持てる仕組みではないのです。「もう、十分だ。進歩はやめよう」と考えた時には、資本主義経済は終わってしまうのです。それ故、国家や市場、経済学者は、技術革新と、それに対する資本の効率的配置に興味があるのです。

しかし、交換価値のみで考えることによる弊害は無視できないものです。なぜなら、交換価値で評価された資源・環境は、無限に交換可能だと見なさざるを得ないのです。そもそも、あるものが交換可能であるということは、無限とも見なせる量の代替品があることによって成り立ちます。この無限と見なせるという思考が、自然を無限と捉える思考へと流れていったのでしょう。

中村(1995)は経済学が無限の自然を仮定した経緯を「リカードからミルへと続く古典経済学において、無限の自然を仮説として経済を論じるスタイルが確立した(p.126)」と指摘しています。この「仮説」は「暗黙の前提」になっていったのだと言います。

現代の経済学では、地球を有限とするのか、あるいは無限として議論するのかも明らかにしていない。……自然を定義せずに……経済活動や成長を論じること自体、無限の自然を暗黙の前提にしていることにほかならないのではないか(pp.125-126)。

交換価値で自然を見ることと自然を無限と見ることは同じコインの裏と表の関係です。つまり交換価値で資源・環境を見ることは自然の無限性を必要とします。この交換価値で物を見るという態度は今までの見方でした。しかし、技術革新は今世紀に入り地球規模の環境破壊を生むに至り、大規模な消費により化石燃料の枯渇が問題になりつつあります。この「暗黙の前提」が環境破壊と資源枯渇問題を生んだのです。ですからこの問題に対処するには別の価値観・枠組が必要なのです。


概要と文献 1. 結論——21世紀に必要な経済観 2. 序論 — 資本主義の問題に対する経済学の沈黙

3. 交換価値と無限の自然に立脚した資本主義批判(現在の記事) 4. 従来の資本主義批判の限界と新しい経済学 5. 暫定的な最低限の処置

21世紀の経済学がなすべきこと
1. 結論——21世紀に必要な経済観

始めに本試論の議論を整理します。

本文は第2節で述べられる以下のような問題意識に基づき本試論は作成されました。すなわち、現行の資本の活動は労働者を疎外し天然資源や自然環境を破壊・枯渇させているにも関わらず、経済学に代表される知がなんら有効な対応を取っているようには見えないことです。

経済思想を整理する意味も含め第3 節では資本主義批判の大御所とも言えるマルクスの議論を紐解いてみました。これは彼の使用価値と交換価値の議論と、利潤と剰余価値の関係による労働者疎外の議論の確認という作業になりました。一方で中村の言う現代経済学による「無限の自然」という暗黙の前提も確認しました。この二人の議論から次の結論が導かれました。

  1. 交換価値により財を見ることと無限の自然の仮定は表裏一体であること
  2. 経済学が〈交換価値=無限の自然の仮定〉に立脚していること
  3. 〈交換価値=無限の自然の仮定〉に基づく資本主義批判では労働者疎外の問題を捉えるのが限界であり、現状の経済学では資源枯渇・環境破壊問題は捉えられないこと

確かに労働者疎外に基づいた資本主義批判は当を得たものでした。しかし、現実社会では資源・環境問題が発生した現代では〈交換価値=無限の自然の仮定〉という枠組自体の問題が検討されなればなりません。これは第4 節において論じられ以下のような結論に至りました。

  1. 〈交換価値=無限の自然の仮定〉という発想は経済学だけではなく現実社会そのものの発想であること
  2. 資源の有限性とエントロピー論に基づいた発想を導入すべきであること
  3. そうした新しい発想を経済学が政治や社会に提言すべきであること

長い目で見た場合に上記のような新しい経済学は確かに必要不可欠です。しかし、石油や二酸化炭素の問題は差し迫っており新しい経済学の普及を待つ猶予はないように思えます。そこで第5 節では現状でもできる経済学の暫定的な仕事を以下のように掲げました。

  1. 石油使用の継続による資源枯渇と環境破壊の被害の計算
  2. 太陽由来のエネルギーの導入による経済失速のマクロ経済的損失の計算
  3. 段階的な石油価格の上昇と太陽由来のエネルギーの導入支援金のモデル作成

つまり本試論の議論をまとめると以下のようになります。

  1. 〈交換価値=無限の自然の仮定〉という経済観の打破
  2. 有限かつ環境を破壊する資源を太陽由来のものに切り替えるべく計算すること
  3. エントロピー論と資源の有限性に立脚した新しい経済思想を確立すること

以上を政治や社会に提案し浸透させることが経済学の最優先の仕事になります。これが本試論の結論となりました。


概要と文献

1. 結論——21世紀に必要な経済観 (現在の記事) 2. 序論 — 資本主義の問題に対する経済学の沈黙 3. 交換価値と無限の自然に立脚した資本主義批判 4. 従来の資本主義批判の限界と新しい経済学 5. 暫定的な最低限の処置

21世紀の経済学がなすべきこと

大学生の頃に書いたメモです。勢い一発の間違いと勘違いと思い込みの産物ですので、まったくアテにしないで下さい。

概要: この試論では労働者搾取問題や資源環境問題に対し経済学がなすべきことを模索しました。

まず、マルクスの労働者疎外の理論と、中村の経済学による「無限の自然」の仮定をそれぞれ検討し、〈交換価値=無限の自然の仮定〉に立脚した経済思想の限界を指摘しています。

その上で経済学がなすべき二つのことを提案しました。一つは有限かつ環境を破壊する資源を太陽由来のものに切り替えるべく計算すること。もう一つはエントロピー論と資源の有限性に立脚した新しい経済学を確立することです。


概要と文献 1. 結論——21世紀に必要な経済観 2. 序論 — 資本主義の問題に対する経済学の沈黙 3. 交換価値と無限の自然に立脚した資本主義批判 4. 従来の資本主義批判の限界と新しい経済学 5. 暫定的な最低限の処置


文献

  1. Georgescu-Roegen, Nicholas, 高橋正立訳. エントロピー法則と経済過程. みすず書房, 1993.
  2. Georgescu-Roegen, Nicholas, 小出訳. 経済学の神話. 東洋経済新報社, 1981.
  3. Imler, Hans, 粟山純訳. 経済学は自然をどうとらえてきたか. 農文協, 1993.
  4. Kapp, K. William , 篠原泰三訳. 私的企業と社会的費用. 岩波書店, 1959.
  5. Marx, Karl H.. 資本論, 一. 岩波書店, 1969. 向坂逸郎訳. 向坂逸郎訳.
  6. 石川, 英輔. 大江戸リサイクル事情. 講談社, 1994.
  7. 中村, 修. 1995. なぜ経済学は自然を無限ととらえたか.日本経済評論会.
  8. 環境エネルギー庁. 総合エネルギー統計(平成三年度版). 環境エネルギー庁, 1992.
  9. 宮本, 憲一. 環境経済学. 岩波書店, 1989.
  10. 玉野, 井芳郎. エコノミーとエコロジー. みすず書房, 1978.
  11. 玉野, 井芳郎. 生命系のエコノミー. 新評論, 1982.
  12. 玉野, 井芳郎. 科学文明の付加. 論創社, 1985.

2006-12-20

場について

いつも通りの気違いぶりですな。スルーして下さい。




身体とは一つの場である。

身体という場の中で、自意識としての「私」と、様々な器官、更には細胞や最近の一つ一つとがコミュニケートしている。

細胞も一つの場である。細胞という場の中で、細胞膜や細胞質、リボソームやミトコンドリアなどがコミュニケートしている。同様に、分子という場には、原子が相互作用していて、また、原子という場では、原子核や電子が互いに間をとりあっている。

この循環に終わりはあるだろうか?




逆の循環もある。

私の身体は、この部屋という場にあり、部屋という場の中で、パソコンや床、照明器具などとコミュニケートしている。

そうして、私のいる部屋も、他の部屋と相互作用を持ちつつ家という場をなし、この家も他の……と循環してゆく。

あるいは、私は他の人とコミュニケーションをとりつつ場をつくり出しているとも考えられる。私は両親などと家族という場を構成しているし、この家族も他の家族との関係の中でより多きな集団をなしているだろう。会社も、国家も、それを構成する人々が創発した場である。

また、こうしたメッセージが読まれる中で、もしかしたら私と読んでいるあなたとで相互作用がうまれ、場が生まれるかもしれない。そして、そうした場も、より多きな場へとつながってゆくだろう。

この循環も「世界」という究極の概念へとつながってゆくだろう。




場の中には、構成要素がいて、互いに特定の間をとりつつ相互作用をしている。逆に言えば、構成要素が特定の間を取るからこそ、場が創発しているとも言えるだろう。

全てのものごとは場の中にある。また、全てのものごとは、それ自体が場であり、構成要素を持つ。

場の中で構成要素が特定の相互作用をする。この形式を私は間と呼ぶ。これは構成要素間のコミュニケーションの「型」のことであり、コミュニケーションで交換されるメッセージや情報に対する「メタ情報」「プロトコル」などと言えるものだろう。

万物は場の中にあるのだから、それが属する場における間に支配されている。一方で、場とは構成要素が間をとることによって成り立つのだから、間とは常に変更され続けるものでもある。




自由の本質は、間を変えることにあると私は考えている。私達は常々、どこかの場に属し、その中で、他者と間をとりあっているのだから、場における自由こそが自由の一番の問題であり、その場における自由とは、間に対する自由に他ならない。

私達は常にその場、その場で生きている。その場、その場は常に変化し、その間も変化する。ところが、人は「間」を固定したものと捉えがちであり、場への認識は閉塞する。これは思考がおかす間違いである。

閉塞した認識の場から自由になるためには、過去の記憶から開放し、その場その場に新鮮な眼を向けねばならない。その眼差しの中で、新たな場の可能性が無意識に与えられるのかもしれない。気付き、閃き、さとり等は「与えられる」。思考の帰結ではない。




間というメタ情報自体を改変するコミュニケーションはいかにして行われているのだろうか。

場の中の対話は、時に対話における間を変革する対話すらなしえる。コミュニケーションにおいて、そのコミュニケーションの基本となるプロトコルを改変するコミュニケーションのありかたがある。

それは水が沸騰するときのように、始めは疑い深く試すように、そしてある時を過ぎると激しく、激烈に。もしくは、情の芽生えのように。

それは「与えられる」。

ある瞬間において、新たな場、新たな間の中に「投げ込まれ」た自分に気が付く。自分で意図的に新たな場、新たな間となったのではない。気が付いたら、新たしい場に「投げ込まれ」ていた。




より広く大きな場を感じること。
より小さく些細な場も感じること。

場は常に流動し続けている。
過去にとらわれるのは「私」の意識だけだ。

目の前の場の中に、本当に必要なものを注ぎ込むのだ。

2006-12-15

ビックリマン・チョコ

身内と駄菓子とかについて話す。小学生の頃のビックリマンチョコ・ブームを思い出した。


いつだったかあいまいだが、ビックリマンのシールがはやってた。ガキはあほみたいにビックリマンチョコを買った。

駄菓子屋の脇のゴミ箱はビックリマンの包装であふれた。中にはお菓子も捨てられていた。おまけのシールが目当てだから、チョコ自体はどうでもよかった。それはある種の社会問題になって学校でも「食べ物を粗末にしないように!」と何度も指導があったのを覚えている。

俺はシールとか集めなかった。んで、さめた眼で眺めてた。ビックリマンはまってた友人とは、絶交というか、まあ、つきあいやめたやつもいた。はまってるやつには、シール持ってるやつとしか遊べないのだから。

そんときから「おいおい、どーしてそんなの集めんの?」と思っていた。んで、今日かんがえてたら「こりゃ、ラカン先生、出番じゃね?」という気分になった。



ガキはなぜシールを集めたのか?

実はシールそのものがかっこよかったなんて感じていた奴は少数もいいとこだった。シールそのものの使用による価値は無かったと言っていいだろう。シール貼ってた奴なんて、見たこともない。シールそのものが提供する機能が欲しかったのではないと言えるだろう。

ガキは、さしてカッコよくもなく、貼られることもないシールを何故集めたのか? その答えとして、「集めることそのものに意味があった」と答えることもできるだろう。シールが購入され、交換され続けたのは、シールそのものではなく購入や交換という行為そのものに快楽があったからである。

シールは欲望された。しかし、ガキがそのシールを求めたのは、他の誰かがそのシールを求めると信じているからである。「誰かが欲しがる」からこそ、それは求められたのである。ガキたちは、他人の欲望を欲望したと言える。繰り返すがシールそのものは魅力ではなかった。

シールを効率よく入手するための交換こそが、シールに魔力を持たせたのである。特定のシールを手に入れるためには、相手が欲しがるシールを持っていなればならない。そして、そのシールを持っているためには……とシール交換は無限の循環を生んでいった。

ガキは「誰からも欲しがられるシールを持っていること」を望んだのである。その理由は「そうすることで、どんなシールも手に入れられる」からである。

この論理の破綻をほぐすことはガキにはできない。ガキは「すげー」と言われたいのである。自分が「すげー」と思う必要はない。

自分の欲望は関係ない。だからこそ、欲望は無限のものとなったのである。ガキは無限の交換の中で、他者の欲望と戯れることに快楽を見出したのである。

これがビックリマン・ブームの鍵である。

ビックリマン・ブームとは欲望の拡大再生産の状況においてのみ成立した。ガキたちは、常に未来により多くの欲望が存在すると信じているからこそ、現在のシールを欲望しているのである。

故にビックリマン・ブームの衰退は、まさにビックリマン・シールが完全に覇権を握った時に訪れた。つまり、学校で誰もがシールを集め始め、シールが権力装置として機能し始め、シールの価値が驚異的に高騰したその時に、ビックリマン・ブームは死へと向かったのである [1]

人気の低下の速度は恐るべきものであった。一瞬にして、高嶺の花であったシールも簡単に入手できるようになり、程なくして、ガキたちはシール自体を恥ずかしいものかのように扱うようになった。

ビックリマンは、ガキにとってのバブル体験であったとも言えるかもしれない。


もう少し具体的なガキの行動を書き留めておく。

シールを入手するためにガキは様々な市場を編み出した。まず友人、次に親戚、更に友人の友人という形の人脈が急速に形成され、交換の場を生み出した。また、駄菓子屋の脇、校門や公園など人の集まりやすい場所は、人脈によらない交換の場として機能した。中にはチャリンコをこいで別の小学校に行く猛者も現れた。こうした出会いもビックリマンから派生した楽しみであったであろう。

他方、消費の快楽も明かだが、ガキはその快楽を更に高める方法を編み出していた。それは、質の高いシールを入手するための独特の方法でもあった。



当時の一部のガキには信仰があった。それは「駄菓子屋への一箱あたりの人気シールの割合は一定である。しかし、我々が手前から細々と購入すると、駄菓子屋は補充を不人気シールで行う。つまり人気シールは棚の奥で眠ることになるのである。それ故、我々はできるかぎり多くのチョコを一括購入しなればならない」というものである。

どう考えても筋は通らないが、これは信じられていた。

この信仰を信じるガキは、徒党を組み、金銭を募り、駄菓子屋でビックリマンチョコを一括大量購入したのである。交換の結合は、しばしば金銭的な結合ともなった。

一人のガキがチョコを買っても数枚買うのがいいとこである。しかし、ガキが数人、多い時で10人以上が、溜めた小遣いを出し合うことで「箱単位」での購入が可能になった。

そしてその金銭結合は「一括購入」のためにきわめて「禁欲的」であった。彼らの信仰によれば小出しの購入は質の低いシールを得ることにしかならず、一括大量購入こそが効率よく質の高いシールを獲得する道であった。集団の長はこの信仰を説き、構成員に対し、日々の小遣いの無駄遣いをきつく戒めたのである。

禁欲の日々の後の大量消費 ……「Xデー」はほぼ一カ月おきであった。唯でさえ無駄遣いが好きな方のガキが一カ月間、無駄遣いを我慢し、来たるべきビックリマン大量購入の日と待つのである。

目の前に広がるビックリマン・チョコの山にガキ達は歓喜した。即座にパッケージは破られ、チョコは捨てられ、シールは並べられる。これはまさに宴である。「食物を捨てること」を宴の要素とする文化も多いことも指摘しておきたい。

そして、出資額とシールの価値に基いて、シールは分配されたのである。このシステムはガキにしては極めて精巧にできていた。


notes


[1] まあ実際には公正取引委員会の注意で規格が変わったのが大きいんだろうけど。詳しいこと知らん。

2006-11-22

学ぶのって嫌?

最近やっと気がついた。人間ってのは学ぶのが嫌だってことに。

俺は完全に学ぶのが苦にならない。いうか好き。マニュアルとか取説とか読むの苦にならない。

でも、これは標準じゃないというのに実感としてやっと気がついた。というのは、俺もだんだん学ぶのが苦になってきたからだ。「ああ、面倒なんだろうなー」というのが分かってきた。今はまだマニュアルとかヘルプとか読むの苦じゃないけど、おそらく近い将来、読むのが苦になる時期がやって来ると思う。

苦になる人にとって、本当に嫌なんだなというのも分かった。だから、可哀想なことしたな、とか思う。普通の人にとってRTFM (Read The Fucking Manual: マニュアル読め!)というのは、あまりに過酷で非現実的なんだろう。

業務用シュレッダーとか問題になったじゃん? あれとかさ、業務用なんだから子供が触ることなんて想定外だし、そんなこと取説はおろか、機器の目につくとこにも「子供が触らないように」とか書いてあるんだよね。でも、現実には子供がばっちり居るとこで、オートモードで作動させとくのが普通の人なんだろうな、というのが実感として分かるようになってきた。「普通、そんなの読まねーよ」ってヤツ?

もひとつオマケに言えば偽装マンションの瑕疵担保責任とか。あれだって俺なら責任能力が無いの相手に一生分の金をつかうのって意味不明だった。けど今ならなんとなく「ま、そんなもんで深く考えないよな」とか思う。人間ってのは大切なことだって調べようとしないんだよね。

今まで人が読まないのとか学ばないのとか意味が分かんなかったんだ。だから平気で「マニュアル読めよ」とか「仕様書くらい読め」とか言ってた。ネット使って何かやろうとしてる奴がプロトコルやらHTMLや動画のエンコーディングやら基本的なプログラミングとか学ぶのは当然という気分だった。というか、俺は学び、色々なことが一人でできるようになるのが楽しいくらいだった。でも、普通の人は違うんだよね。やれやれ

だから、人に哲学やら社会学やらの会話するのとか、面倒だからもう一生しないんじゃないかな。基本文献すら読んでないんだもの。学部生はもちろん、院生だってアブナイ。授業で教授から聴いたゲロみたいな解説で済ませて、なんだか偉そうなこと言うだけ。ま、それが日本の文化なんだろうな、とか思う。悪いワケじゃない、それが日本の大学で生きてゆくということなんだから。

あと、コンピュータもね。基本からやってるヤツなんてほとんどいない。仕事見てりゃわかる。論理や数学とかの素養がないんだろうな。データベースとコンポーネントをゴチャゴチャつなげて、ゲロみたいなの作ってるのがほとんど。いや、それで悪いとかってワケじゃないよ、仕事なんだから。

学べないのに偉そうなこと言う人間とは、もう話さないんだろうな、俺は。昔は熱意があったからできるだけ話してたけど、もうこりた。

「いやー、私もよく知らないんです」みたいな人間になっちゃうかな。「いやーパソコン詳しくないんで」「音楽あまり聴きませんから」とか。

まあ、そんなわけだけど、俺は俺だからやっぱり学び読むしかないな。俺は読むし学ぶ。人は気にしない。人がどう言おうが俺は学ぶ。まあ、実際に少しばかりは苦になりはじめているんだけど。

ひとまず、人に学ばせたり読ませたりするのはやめよう。これは本当に悪い癖で俺の時間を無駄にした。