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本節では中村(1995)による経済学が自然を無限と仮定したことへの指摘をうけ、マルクスの『資本論』による労働者の搾取についての問題を振り返ります。マルクスの資本主義の批判を再考することで、現行の社会では労働における搾取以外が想定されていないことを再確認しておきます。
さて、マルクスが経済を考える場合に想定される価値とは交換価値です。交換価値を説明するためには彼の貨幣についての議論を整理する必要があるでしょうが、ここでは簡単に使用価値と交換価値の対比で説明したいと思います。
マルクスは元々は財はその有用性によって評価されていたと考えます。つまりこれは何々のために使えるからとか、これは食べられるからという形で価値を持っていたのです。このような価値を彼は使用価値と呼びます。一方で交換価値とはあるものの有用性による価値ではなく交換する場合の価値に立脚した価値です。これは貨幣経済においては貨幣によって明確に計量化できます。マルクスは交換価値のみが経済の対象であるとし、使用価値は経済学の領域の外にあると考えています。
マルクスは資本家が得る全ての価値は労働によって生まれていると考えます。その労働によって生まれる価値を剰余価値と呼びました。交換価値の視点から利潤を生み出す要素は労働であると考えるのが妥当でしょう。交換価値で考えた場合に搾取されている可能性があるのは労働者のみであるからです。
マルクスは、総資本Cを不変資本(=労働手段)c と可変資本(労働賃金)v に分け、労働の搾取による剰余価値mと利潤pの関係を考えました。賃金との関係で剰余価値と呼ばれたものが、総資本との関係では利潤と呼ばれるのです。
この関係の考察から彼は労働者の搾取と資本主義の限界を示します。
総資本における利潤の割合を利潤率p’と呼ぶとp’ = m/C (1) となります。一方で労働賃金と剰余価値率の比率を剰余価値率m’と呼ぶと m’=m/vと表せます。
これを変形してm = m’vとして(1) に代入するとp’=m’v/Cとなります。
この式は、利潤率を上げるには剰余価値率が高く、総資本における労働賃金の割合が高ければよいということを表しています。総資本における労働賃金の割合は労働の種類によって一定になってしまうでしょう。ですから資本家は剰余価値率を向上させるように努めるのです。てっとり早いのは賃金低下や労働条件の悪化です。
しかし、このことはv/Cを減らします。そしてv/Cの減少は利潤率p’ = m’v/C を減少させます。一方、こうした労働者の搾取と、それに伴なう労働者の倫理低下のため剰余価値率m’ も低減するでしょう。この悪循環により利潤率の低下は止めることはできません。
総資本に対する利潤率の低下は資本主義の死活問題です。利潤は再生産の要なのです。利潤を生まない産業への投資は経済的にはありえません。利潤の低下は再生産の縮小を意味するのです。もしこの条件だけならば利潤の低下と、それに伴う再生産の縮小により、資本主義経済は速やかに終息する筈です。
では、何故、現実の資本主義経済は終息するどころか、更に拡大発展を見せているのでしょう?それは労働者の搾取によらない利潤の確保の手段があるからです。それが技術革新です。技術革新は剰余価値率を飛躍的に高めます。終わることのない技術革新とは、資本主義経済が生存するために無くてはならないものなのです。つまり、一般的に考えられているように、技術革新は未来のために必要なのではありません。現状の維持にとってさえ必要なのです。
こうして、生きるか死ぬかの瀬戸際で次々と生まれる技術は、資源・環境問題に対しては考慮されません。同時にエネルギー的に考えても損失を生むだけです。そもそも資本主義経済は、そういった余裕を持てる仕組みではないのです。「もう、十分だ。進歩はやめよう」と考えた時には、資本主義経済は終わってしまうのです。それ故、国家や市場、経済学者は、技術革新と、それに対する資本の効率的配置に興味があるのです。
しかし、交換価値のみで考えることによる弊害は無視できないものです。なぜなら、交換価値で評価された資源・環境は、無限に交換可能だと見なさざるを得ないのです。そもそも、あるものが交換可能であるということは、無限とも見なせる量の代替品があることによって成り立ちます。この無限と見なせるという思考が、自然を無限と捉える思考へと流れていったのでしょう。
中村(1995)は経済学が無限の自然を仮定した経緯を「リカードからミルへと続く古典経済学において、無限の自然を仮説として経済を論じるスタイルが確立した(p.126)」と指摘しています。この「仮説」は「暗黙の前提」になっていったのだと言います。
現代の経済学では、地球を有限とするのか、あるいは無限として議論するのかも明らかにしていない。……自然を定義せずに……経済活動や成長を論じること自体、無限の自然を暗黙の前提にしていることにほかならないのではないか(pp.125-126)。
交換価値で自然を見ることと自然を無限と見ることは同じコインの裏と表の関係です。つまり交換価値で資源・環境を見ることは自然の無限性を必要とします。この交換価値で物を見るという態度は今までの見方でした。しかし、技術革新は今世紀に入り地球規模の環境破壊を生むに至り、大規模な消費により化石燃料の枯渇が問題になりつつあります。この「暗黙の前提」が環境破壊と資源枯渇問題を生んだのです。ですからこの問題に対処するには別の価値観・枠組が必要なのです。
概要と文献 1. 結論——21世紀に必要な経済観 2. 序論 — 資本主義の問題に対する経済学の沈黙
3. 交換価値と無限の自然に立脚した資本主義批判(現在の記事) 4. 従来の資本主義批判の限界と新しい経済学 5. 暫定的な最低限の処置