2007-03-31

ロックの歴史(3) 復習

前回と前々回の復習

さて、前回と前々回を軽く復習しよう。つまり20年代のブルーズから60年代後半までのロックの話だ。やや黒人と白人、アメリカとイギリスの話が混乱しやすいから、そこに注意しながら整理してみよう。

簡単に言えば

  1. 黒人のブルーズと白人のヒルビリーとのハイブリッドでロックンロールが誕生し
  2. それがイギリスで白人のバンド音楽としての「ロック」となり
  3. 60年代後半アメリカでの激しいロック文化となったんだったね。

まず前々回の「ブルーズ(ブルース)の歴史」では「デルタ・ブルーズ」と「シカゴ・ブルーズの主に二つの話をした。

  • まず、アメリカ南部、特にミシシッピ・デルタやテキサスの黒人達が「ブルーズ」特に「デルタ・ブルーズ」「カントリー・ブルーズ」と呼ばれる音楽を戦前に確立した話をした。サン・ハウスやロバート・ジョンソンなどがいたね。
  • 次に、戦後にそうした黒人が農村から都市に流入する中で音楽も電気化していった話をした。これが「シカゴ・ブルーズ」と呼ばれるんだったね。ここにはマディー・ウォーターズ、ハウリン・ウルフがいたね。テキサスのハウリン・ウルフも忘れちゃいけないよ。
ここまでは演るのも聞くのも黒人だ。

次に前回の「ロックの歴史(1)」では「ロックの成立までの話」と「60年代後半の高まりと行き詰まり」の二つの話をしたね。

「ロック成立までの話」は全部で四つの話をしたね。

  1. まず、戦前に成立した「ヒルビリー/カントリー&ウェスタン」と「フォーク」という白人音楽を簡単に紹介したね。
  2. 次に50年代の都市では、黒人音楽の中でも、デルタ・ブルースと言うよりニューオリンズ・ジャズなどの軽快で親しみやすい音楽の影響を受けたR&Bが成立していった話をした。これは白人も聴いたんだったね。
  3. 三番目に、その黒人のR&Bと白人のヒルビリーの影響下に「ロックンロール/ロカビリー」が誕生したんだ。「ロック第一世代」の白人の若者達だ。「ロックの神様」エルヴィス・プレスリーの登場だね。ここまではアメリカの話だ。
  4. 最後の四番目に、60年代「ロック第一世代」の影響下にイギリスの若者がバンド音楽としての「ロック」を成立させる。白人音楽としてのロックの誕生だ。ここでビートルズやストーンズが出てくる。彼らはアメリカ音楽に深く学びデルタやシカゴのブルーズも貪欲に取り入れるんだ(クリームなど)。

以上がロック成立までの話だ。後は60年代後半のアメリカでの高まりと行き詰まりの話になったね。

  1. まず、イギリスからの逆輸入としての影響もある中で、アメリカでもロックやブルーズが激しく高まったんだったね。ここで登場するジャニスやジミヘンは私の一番のお気に入りだ。特に反戦・反権力ムードのサン・フランシスコで様々なバンドが活躍をしていったんだ(ドアーズ、グレイトフル・デッドなど)。勿論、フォークのボブ・ディランも忘れられないが、フォークはフォークで難しいのでまたいつか。
  2. 次に、急速に過激化したロックは、商業主義との関わりの問題や、60年代の終わりのジャニス、ジミヘン、ドアーズのジム・モリソンの麻薬過剰摂取によると言われる死などの事件の中、それまでの見直しをしてゆくことになり、質が変わってゆくんだ。ここが「ロックは死んだ」と言われる所以だ。

さあ、ここまでが前回までの話だ。御苦労様。かなりシンプルにいい加減に図式化しているんだけど、それでもなかなか複雑だね。

復習の補足

これだけシンプルにしてるから漏れた話だらけなんだけど、中でも注意が必要なポイントを二つだけ挙げておく。「ソウル」の問題と「ジャズ」の問題だ。勿論、詳しくは別の時に話したい。

まず、R&Bとソウルの話。R&Bがロックンロールとなり白人の「ロック」となる中、60年代の黒人達は自分達の表現を求め、彼らの一部はR&Bをロックとは違う形で変化させてゆく。そして60年代後半に「ソウル」が生まれてゆく(R&Bの意味の範囲は広く定義が難しい。ただロックンロールにならなかったR&Bは明確に存在し、続いていったし、今も続いている。これはブルーズも同じことだが、R&Bの表現は非常に多彩であり言葉にするのが難しい)。差別され続けた都市の黒人がここでようやく「ブラック・イズ・ビューティフル」「兄弟よ語ろう」と叫び、自分達を肯定した音楽を生みだしたんだ(ブルーズは「憂鬱」という意味だからね)。このソウルはやがてファンクやラップ、ヒップホップへと繋がってゆくんだ。ただし、そのベースは常にR&Bと呼べば呼べてしまう。

次に、ジャズの話は簡単に二点だけ触れておく。

  1. まず、ジャズは50年代に最盛期を迎え、60年代にジャズで鍛えたレベルの高いホーンやドラムなどのプレイヤーが、アメリカのロックやソウルに影響を与えたこと(勿論、逆にR&Bのプレイヤーがジャズに行ったのも多い)。
  2. 次に、70年代にロックが行き詰まりを見せる中、ジャズとロックの高次の融合が叫ばれ「フュージョン」と呼ばれる音楽が生まれたこと。
この二つは記憶のどこかに入れておいてもいいかもしれない。

さあ、復習は以上だ。ごくろうさま。次から70年代からのロックを見てゆこう。

2007-03-30

芸術講座(1) 日本美術概観

シンプルに一時代に一人を紹介しておくことにする。そして基本的に東京にある絵を紹介する。あまりゴチャゴチャ紹介すると書くのも読むのもメンドいからね。コメント書いてあるけど、ただのぼやきなので気にしないように。

室町 雪舟(1420-1506)

巨人である。説明不要。日本美術史の最高峰だろう。ただ、上野へ行くべし。

  • 「秋冬山水図」 東京国立博物館 (画像 wikipedia)
  • 「破墨山水図」東京国立博物館

安土桃山 長谷川等伯 (1539-1610)

画風は私の好みにぴったりである。美しく、味わいがある。下のリンクを開いてドキっとしない奴とは私は話が合わないだろうと思う。

  • 「松林図」屏風 東京国立博物館 (画像 wikipedia)
  • 「竹林図」屏風 東京国立博物館

元禄 尾形光琳(1658-1716)

ただ完璧さがある。画が「平面」であることを逆に活かした雅があり、凛とした空間を漂わせる。

化政 丸山応挙(1733-1795)

写実的な完成度と色合いの妙のレベルの高さは、誰にでも明らかな日本絵画の一つの到達点であろう。

明治 狩野芳崖(1828-1888)

絵画を越え、日本の思想・宗教までも感じさせる圧倒的存在感のある作品である。

大正・昭和 速水御舟(1894-1935)

日本独特のすごみと繊細さの同居を感じる。この時期の有名な画家は多いが、私は御舟が好きだ。


詳しくはWikipediaでも図書館にある画集でも読むとよい。また、折角日本に生まれたのだから実物を見ておいて損はないと思う。若いうちに、ぜひ。

[書評] 福翁自伝 / 福沢諭吉 (1899)

あの一万円のおっさんの本である。君が高校生であっても知っていであろうアレである。

きっと金のない君はコンプレックスがあり、「あんな顔見たくもねー」と叫ぶかもしれない。私はそうだった。だから、そんな奴の自伝など読むはずもなく、本書を読んだのは二十をかなり過ぎてからのことである。それも、ブックオフで100円で売っていたもんだから「なんだ、一万円のおっさんの本、100円で売られてるな」と妙な満足感を持って購入した。君達は、そんなコンプレックスは持つべきではないし、そのためにも本書は役に立つだろう。福沢の顔が笑って見えれば、自然に一万円札とも縁ができるかもしれない。

「先生! やっぱり福沢先生は優秀な方であり、僕達も大いに参考にしろということですか?!」と真面目な君は思うかもしれない。違う。全然、違う。私が君達に言いたいのは福沢はアホである。
そのアホさを学んで欲しい
ということである。

福沢がアホというと驚くかもしれない。なにせ一万円札で冷たく無愛想な顔をしているあのおっさんである。俺は「やなやつなんだろーな」と思っていた。本書を読んで認識は180度転回した。そんなことはなかった。アホと言うのが悪ければ、福沢は馬鹿であり、詐欺師であり、手癖の悪いやんちゃ坊主である。そして、だからこそ天才なのだろうということに気がつく筈だ。この本を読んでから一万円札を見ると、その福沢の顔にやんちゃさが見えてくることだろう。

福沢は規格外の男である。武士の時代に生まれながら、西洋の学問に没頭して武士としての常識など簡単に捨ててしまう。偉い人に名誉ある着物を貰っても、即座に売り飛ばし、酒か本にしてしまう。明治になっても変わらない。政府から雇われそうになっても仮病を使う。金持ちに大学で教えて欲しいと言われても断って、自分で大学を始めてしまう。とんでもない男である。父親は早死したらしいが、生きていたら、さぞや息子の人生に驚き、不安になり、やっぱり結局、早死したのではないかと思う。幕府や政府、金持ちなど眼中にないのである。なんとも福沢は凄い男である。

私は福沢の思想に詳しくないので、彼が何を言ったのかは正直知らない。彼も人であるのだから、いくつかの間違いや行きすぎの主張もあったろうし、また、その幾つかは時代状況のため仕方のないことでもあったと予想する。それでも、とにかく福沢を読むのは面白いと思う。福沢といえば「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」が有名であり、理想主義者のように思われているが、事実は逆である。福沢は完全な現実主義者である。この文も、その下に「と言えり」と書いてあって終わる。つまり「世界は平等だとかって言われてるけど、現実は違うよね」というところである。そして平等でないからこそ、学問をしなきゃならんわけで『学問ノススメ』になるのである。君達の苦労の理由もこれを読むと「まあ、現実ってのは仕方ないな」と思ってくれるかもしれない。

まあ、とにかく、一度、この自伝を読んでみるとよい。福沢の言う「自立」「独立」は大いに参考になると思う。不確実な時代を行き抜いた天才の感覚は君を楽にさせるだろう。

「先生! そんな幕末の人の感覚なんて役に立たないんじゃないですか?今は違う不確実さだと思います」と賢い君は思うかもしれない。

そうかもしれない。ただ、逆に考えて欲しい。一体いつ、確実な時代なんてあったかな? 明治は明治で激動であり、大正・昭和初期は大正・昭和初期で激動であり、戦後は戦後で激動であった。つまり、不確実じゃない時代なんてないんだ。とにかく常に未来は誰にも分からないからね。

だとしたら、本から学べることなんて限られるに決まっていることは分かるね? 例えば「金持ちになる方法」「人生に成功する方法」という本があったとして、それはその人がその時うまくいっただけであって、常にそれがうまくいくとは限らないわけだ。つまり、本とはそうやって付き合うしかない。結局、本なんて、その人の人生のエネルギーの痕跡の一つであり、その意味ではただのカスでしかないんだ。

だからこそ、逆に君は本から学ぶことができるんだ。勿論、これは君の読みの深さにもよるだろう。しかし、常に人間は不確実な未来に立ち向かって来たのであり、君はそうした昔の偉人のその姿勢、その眼差しを学ぶことはできるだろう。君はそこに書かれていることを越えて、福沢の本質的なエネルギーを感じられることだろう。そして、「福沢が何をしたから成功したか」なんてことは問題ではなくなるだろう。そんなことはどうでもいい。問題は「自分はどう生きるか。この不確実な未来を」という問いに変わることだろう。そして、全て不確実であり、何も信じられないのなら、結局、自分を信じるしかないということを実感してくれるのではないかと思う。それだけの力をこの本は持っていると私は感じている。


自伝は誰でも書ける。しかし、そうであるからこそ、いい自伝、読むべき自伝というのはなかなか書けるものじゃない。『福翁自伝』はそうした数少ない自伝の一つである。

[書評]「超」整理法 / 野口悠紀雄 (1993)

なんと言うか、ノリで次々と書いてしまう。別の死ぬほどおすすめというわけじゃないが、梅棹忠夫『知的生産の技術』の書評を書いたら、この本についても書きたくなった。

1993年と今から見れば昔の本であるが既にディジタルにも目が向けられていて、ほとんど現在と何の違いもない。故に『知的生産の技術』よりも理解しやすく、説得力もあるかもしれない。

[書評] 知的生産の技術 / 梅棹忠夫 (1969)

知的生産の技術アドラー『本を読む本』の書評から、爆発的に高校生のための読書法として(1)読むべき本を知る(2) 本の読み方(3) 6つのありがちな間違いと書いていた。「あほか? 俺」というペースであるが、ここで更にペースを早めたい。

今では懐しい響きすらある言葉に「知的生産」がある。IT革命以前の言葉で、パソコンのテクというよりかは、ファイルや書物という紙媒体をいかに使い、効率的に情報を管理し、生産するかという分野である(勿論、後半はパソコンも使ったが)。

そしてこの分野でどうしても知らねばならぬ名が二つある。その片方が、今回紹介する本の著者、梅棹忠夫である。

初版はロック好きにはたまらない、あの1969年である。

余談だが、もし君が若くて「69年がどうしたの?」という不届き者であるなら、即座に村上春樹の『ノルウェーの森』と村上龍の『69(シックスティー・ナイン)』 『限りなく透明に近いブルー』を読めばよい。69年学の入門書としては最適であろう(私は嫌いだが)。少しウォーミングアップしたら、あとは、ロックを聴けばよい。ジミヘンにはまるもよし、ジャニスにはまるもよし、なんならストーンズでもビートルズでもよい。ウッドストックのDVDだって安いもんだ。そして、そのまま「ブルースって何?」と考えながら、戦前ブルースの世界に突入し、チャーリー・パットン、サン・ハウス、スキップ・ジェイムス、ロバート・ジョンソンあたりで唸ればよい(いくらでも巨人がいる)。今あげたCDが君の図書館になければ「人類の遺産なのです!」と訳の分からない奇声を発っして入れてもらえばよい。気分はドストエフスキーの登場人物である。

コンピュータの時代に本書を読む理由

本題に戻ると、まあ梅棹先生のこの本はロックやブルースとは深い関係があり、その情熱はすさまじいものがある。というのは、真っ赤な嘘であるのだが、学術の奥深しさや権威に支えられた秘術的な要素を「技術」という言葉で乗り越え、効率化し、共有できるものにしようとした熱意は、時代に共通のものであると思う。

「先生! そんな昔のモン、今読む必要なんてないんじゃないですか?」 と賢い君は言うかもしれない。「はっはっは。カート・コバーン(コベイン)も知らない君じゃ無理ないね」と私は紳士的に笑いながら、君をブン殴るだろう。

よく考えて欲しい。そもそも私達は情報媒体としての紙から開放はされていない。物理的に紙は身の回りに散らばっているだろう。だから君はB5の26穴のバインダーを使うか、大学ノートを使うか悩んでいるだろう。だから君は、「これからはA4だぜ。B5ってのは国際規格じゃないから廃れるよ」という友人の言葉に動揺しているだろう。プリントを穴開けパンチで穴を空けてファイルに綴じるのが面倒な君は、プレスファイルかクリアファイルにぶち込んで、いざ必要な時に苦労していることだろう。そうした問題に対し、大の大人が自らの受難の経験を綴った本書を、君は読まないわけにはいかない!

「先生! でも、そういうことってこれからパソコンが普及すれば解決するんじゃないですか? ほら、ペーパーレスとかってテレビでも言ってますよ。僕はあれだな。スキャナーで全部PDFにしちゃうな」と、親が小金持ちな君は言うかもしれない。「んな金あるなら、俺によこせ!」と叫びたいところだが、事態はそう簡単ではない。

考えてみて欲しい。パソコンに入れたから問題は解決しているだろうか? 結局パソコンの中でもファイルやフォルダといった紙のメタファー(比喩)を利用している。つまり、パソコンの中で、あたかも紙のように管理している訳で、本質的には紙の管理能力はパソコンの運用能力と同じである。いや、逆にウィンドウを覗き込みながら、マウスでポチポチやるのだから効率が悪いくらいだ。物理的な紙ならガバっと鷲掴みにして机の上にぶちまけたり、気違いのようにページや紙の束を捲ることができる。はっきり言う。気違いのようにマウスを押すよりは、気違いのように紙を捲った方が全然らくである。

それでも君に一つ言うならば、パソコンには強力な全文検索がある。キーワードさえ分かれば強力に必要な文書を発見してくれる。これには物理的な紙の情報管理は絶対に敵わない。しかし、現実的に知的生産の場では、全文検索をしたい場面というのはほとんどない。高校生の君は勿論のこと、大学生のレポート、論文などの執筆にしても全文検索で情報を見つける場面というのはよほどのことである。考えてもみてほしい。それほど情報が整理されてないのに、いいものが書けるわけがないだろう。そもそも、それならばグーグルなりヤフーなりを使った方がいい。

現実的な情報管理では物理的な紙の持つ「一覧性」「身体インターフェイス」に、パソコンは敵わない。全文検索より、印刷した紙を綴じておいてパラパラ捲った方が全然効率がいい。

パソコンが役に立つとしたら大規模な情報を複数人で利用する場面である。それは君が会社に入ってからすればいい。個人でデータベースを作りたいという妙な野望があるなら私は止めはしないが、それは君の欲望を満たしはするだろうが、現実的には何の役にも立たないだろう。

君が通常の脳味噌を持っていて、ただの小金持ちな親の子供であるならば、買った本の管理は本棚でできるし、図書館で借りた本を日記なり書き抜き帳なりに記録しておけば、ほぼ問題はない。そうした本棚を日々眺め「しめしめ、あとちょっとで新潮のドストはコンプリートだな」と暗い微笑みを浮かべ親を不安にさせればいいし(大丈夫。『悪霊』『死の家の記録』などの題名だけでも十分に君の親は不安がっている筈だ! 『カラマーゾフの兄弟』だって兄弟の愛の物語かと思いきや、「父殺し」の文学だと聞けば君の親父は安心して眠れないことだろう!)、寝むれない夜にノートを見返しながら「ああ、この本読んでたとき、○○さんは……」と全然関係のない女のことを思い出して苦しむのもよい。そうした行動で君の知識は十分に有効なものになる。ガキのくせにパソコンに頼るなんてもっての他だ。

ただ「パソコンを窓から捨てろ」と私は言わない。君には是非ともパソコンは使えるようになって欲しいと思う。しかし、下らんウェブサイトを眺めてはならないし(エロサイト見るならエロ本買え! 我々の世代はそうして社会性と自らの暗い欲望のバランスを取ることを学んだのである)(ブログ書くなら大学ノートに書け!)(っていうか、こんあブログ読んでんな! 分厚い本を狂ったように読め!)、チャットやmixi、オンラインゲームにはまるなど論外であるし(まあ、そんあもんに魅力を感じるやつは、こんな文章はハナから読まんだろう)、ワードやエクセル、パワポを使って喜んでいる場合じゃない! あんなもんは猿でも使えるし、そもそも欠陥品である!

君はプログラミングを覚えるべきである! それもJavaとかVisual Basicなんて軟弱なものでは駄目だ! CかC++の古めかしい本を買って来て、ゴツゴツ学ぶべきである。アルゴリズムやデータ構造の書物も必修である。余裕があれば是非ともLispを学べ! そこから数学基礎論や分析哲学の奥深い世界に進むもよいだろう。そこでは、フレーゲやラッセル、ゲーデルにヴィトゲンシュタインなどの大天才が神の如くに笑っているだろう。そして君の論理に対する感性を刺激し、興奮させてくれるだろう。あるいは、情報学を追いかけるのも未来ある君にはふさわしい。そこでもフォン=ノイマンやチューリング、シャノンなどの嫌になるほどの大天才が君を存分に鬱にさせてくれるだろう! 君は自分の親の顔を見て「ああ」と嘆くことうけあいだ!

話は十分に逸れたが、まあ、そんなわけで、コンピュータはコンピュータで奥深いが、君はまず紙の情報管理、知的生産から学べということであり、その為には、この本は是非とも読んでおいてもらいたい。そして、この本が分かるようになれば、コンピュータの扱いも格段に上達するはずだ。実際にファイルやフォルダ、キャビネットという物を動かして悩むなかで、仮想のファイルやフォルダ、キャビネットの効果的な使い方も覚えられるだろう。君達はまだ現実のそうした物を十分に触っていない筈だから、初めから仮想のものを触るのは効率が悪い!

現在、本書を読む上での注意

コンピューターの問題をクリアしたなら、この本を読む上での注意は少いのだが、一つ二つ忠告はある。

まず、君は本書の影響を受け、文房具屋に行き「京大カード下さい」と言うことになると思うが、本書で著者も言う通り、絶対にカードは分類してはならない! 自然にそれぞれの項目がくっついてゆくという感覚だけが大切であり、始めから分類しようとすると、確実に破綻する。これは著者の言っていることであり、この忠告にだけは耳を傾けて欲しい。客観的な分類は、図書館やデータベースのような大規模な情報を複数人が運用するときにのみ必要なのであり、君には必要ない。存分に主観的にメモをとり、存分に主観的にカードを並べ、あらぬ妄想にふけることをおすすめする。

次に、君は本書の影響を受け、文房具屋に行き「ダーマトグラフ下さい」と言い、文房具屋のオヤジを驚かせるだろう。いや、海千山千のオヤジであれば「はは、こいつ梅棹読んだな。若いと影響されんだよな」と内心で笑うかもしれない。これについてだが、現代ではマーカーやゲルインクペンの品質が十分にあがった。そちらを使った方が効率的であり、効果的に目に入るマークやラインが引けるかもしれない。まあ、そう言いながら私のペン置きにはダーマトグラフが置いてあるが、これはあくまで歴史的な問題であり若い君達には関係はない。

最後に、カードだけが究極と思ったりしないでもらいたい。例えば、君の学校のノートは大学ノートかルーズリーフがやはりよいと私は思う。時系列の情報は大学ノートにまとめるのが、確実であり紛失の恐れがない。もちろん、友人のノートから写したり、あとから書き込んだりする真面目な生徒はルーズリーフの方が取り扱いがよいだろう。ただ、大学ノートでも、微妙にスペースを空けながら書けばよいのであり、そうしたせこい技を覚えることは結構重要である。というか、勉強の内容そのものよりも、そっちの方が重要である。

***

加えて言えば、学校の勉強は学ぶところが少ないように思うだろうし、私もそう思うが、決っしておろそかにしてはならない。高校レベルが確実でないやつなんて、誰も知的には相手にしてくれない。

更に言えば、日々の授業はとても大事であり、ノートは宝である。一年生の時から三年生の時まで、きちんとノートを取っておいて、それを全部きちんと机に並べておけば(三年間のノートくらい並べられる大きさの机がなければ、親に泣きつくこと!)、無理して復習なぞしなくても、無意識に「ああ、このノートにはあんなこと書いてあったな」と脳味噌が勝手に復習してくれるのであり、これはとても重要な勉強法である。そして気になったらたまにパラパラめくればよい。大学ノートは通常30枚の紙切れの集まりであり、パラパラやるのに時間はかからない。何回かやっていれば自然に頭に残っている筈だ。これで学校のテストも大学入試もほとんどいける筈だ。

よく参考書だのサブノートだの買い込む奴がいるが、そんなものは必要ない。ごちゃごちゃやれば、それだけ密度は薄くなり効果は低い。そんな金あるなら、人類の遺産とも言うべきCDや書物を買い、展覧会に行けばよい。ガキとは言え、女と遊ぶのにも金はいるだろう。無駄な参考書など買うことはないし、高校の勉強に無駄な時間を浪費することもない。授業とノート、これだけで結構いける。

「先生! 僕の高校ではそんないい授業やってないんですが!」と言いたい人も居るかもしれない。これは難しい。ただ一つ私の話を聞いて欲しい。私も高校の時、そう思っていた。それでも大学入試の時、残り少ない髪の毛を必死にハゲ頭に寄せたデブな数学教師と痩せきった生物の教師、それに何より何度も目に入れた自分の書いた汚いノートなどが問題の答を教えてくれた。綺麗な参考書など何の役にも立たなかった。記憶とは、情報だけじゃなく、肉感的、情感的なものの方が残りやすいし、思い出しやすいのだと思う。まあ、個人差もあり難しいので、この辺にしておく。

[本文]

2007-03-29

読書法(3) 6つのありがちな間違い

妙なハイペースで読書法を書いてきた。簡単に言えば「高校時代は小細工抜きに、幅広く読め。その時新刊書店で売っているニセモノに気をつけろ」ということだ。

そのため読書法(1) 読むべき本を知るでは「全集や世界の名著と図書館の司書を利用しろ」と書き、読書法(2) 本の読み方では「ただ、ひたすら多読し、気にいったものは何回も読め! 音読しろ! 書き写せ! 著者を友達にしろ!」と説いた。

とにかく「お勉強」で読むことだけはやめてほしい。そんな読書は何の役にも立たない。つまらないと感じながら読書をする義務はない!

こんなことを書いていると、自分のやった失敗も含め、ありがちな間違いについて書いてみたくなった。

1. つまらない本を無理して読むはやめよう

有名な本でもよくある。義務感で読みたくなるものだが、まだ自分には早かったと思うか、「歴史が間違っている!」と叫んで早急に本棚に戻すこと。まあ、それでも読んでしまうこともあり、読んだら読んだでおもしろかったということもないわけじゃないから、強制して「戻せ」という気はもちろんない。ただし、「つまんねーな」と思いながら読んで「ああ、無理してでも最後まで読んでよかったよ。さすが歴史的名作だ」という気分になったことは私は一度もない。「け!有名なくせに最後までつまんねーよ」がオチである。

2. スカスカな本を「スゴそうだ」と勘違いするのはやめよう

これは新書でよくある。なにやらすっげー最新のことが書かれていて、その智恵によって人類の未来が変わっていくようなことが書かれている本がある。まあ、本は売り物だから、ある程度の誇張は仕方ないが、昨今、特に大袈裟で紛らわしい本が多い気がする。でも、残念ながら、大半の本は最後まで読んでも「で、何がそんなにスゴいの?」という気分で終わる。一番すごかったのは「まえがき」と「帯」というパターンである(つまり、作家より編集者に才能があるパターン)。残念ながら、本を発見する技術がないうちは、かなり騙されやすい。純粋に世界の平和を願う高校生ならなおのことである。

新書を読むならば、本当に定評のある新書がよい。詳しくは司書に聞けば答えてくれる。司書と話すのに気後れするナイーブな君は、ひとまず昔の新書を読むとよい。図書館であるならば汚れている新書を読めば間違いない。残念ながら最近は薄い新書も増えたが、そもそも、新書は良書を薄利多売で普及させるために存在しているのであって、分野も充実しているし一定の線を保ったものが多かった。また、有名な学者の本は、やはりそれなりである。

3. 「教科書に載ってる本読むなんてダッセー」という勘違いはやめよう

これは私がそうだった。国語の教科書や歴史の教科書に載っている本はわざと避けた。「有名じゃないけど、俺が自分で見つけたんだよ。やっぱり、よかったよ」とかアイドルオタクじゃあるまいし、メジャーなものを避ける理由なんて全然ない。どうもガキのうちは「俺のもの」「私が見つけたもの」という意識が強いが、そんなことは小さい問題である。そもそも教科書に載るくらい凄い本なんだ、と素直に手に取るべきである。そういう本は、現在の社会が作られる上で(高校レベルの教科書に載るくらい)大きな働きをしたのであり、そうした本を味わうことは、現在の社会を知ることにもつながる。特に、ガキは自由とか愛とかそういうことを考えがちだが、そういうことは西洋の近代からの影響なわけで、そこら辺を読まずにそんなことぼやいても、ただのアホなJ-POPにしかならない。

4. 「岩波って汚なくね?」という偏見はやめよう

君が普通の高校生なら岩波に偏見なんてないだろうが、残念なことに、私は岩波に偏見があった(誤解を避けるため、どういう偏見かはここに書かない。近くのおっさんに聞いてみよう)。現在では「アホか、俺」という偏見である。また、岩波は古いので図書館で見掛ける本が物理的に汚ないだろうが、それも「ああ、偏見、偏見。文字は読めるし」と乗り越えてほしい。岩波は新書も文庫も素晴しい。是非、片っ端から手に取るべきである。

現代の図書館の最大の問題は、価値ある新書や文庫が汚れていることである。これは評価が高く、多くの人に読み継がれたことを示すのだが、現代のガキにとっては手を出しずらいと思う。我々おっさんは「最近のガキは、甘ったれてる!」と普段は発揮してない男らしさを、ここぞとばかりに発揮しないで、たいした値段じゃないんだから、価値ある新書と文庫は美しい新品を図書館に入れるべく努力すべきと思う。ただ、若者も、汚れに負けず、価値ある本を読んで欲しい。慣れれば大した問題じゃない。

5. 「なんか漢字が変な本って、日本がヤバかった時の本でしょ? 読まないでいいよね」という偏見もやめよう

これは「おい!『言ふ』ってなんだよ? 『言ふ』ってさ!」という歴史的仮名遣いにも共通する問題である。ちなみに「ん? いふ? if?」という君はママのおっぱいがお似合いである。

広く読書をすれば、新潮や岩波の文庫の中にはそうした表記になっているものがあるのに気がつくだろう。また、君の学校の図書館にある、漱石や鴎外の全集も旧字旧仮名のものを入れている筈だ(そうであってほしい)。

実はこの問題は高校生の君が感じているよりも深い問題であり難しいのだが、ひとまず、古典の先生あたりに「旧字の漢字の一覧表ってありますか?」と言えば(あるいはネットで探せば)、漢字の問題はクリアするはずだ。君はその表を見て「ああ『舊』は『旧』なんだー。へー」と思ってひたすら覚えればよい。変更があった漢字の数は多くない。また、昔の字形を覚えれば漢字の知識が飛躍的にアップするだろう。

ただし、間違っても「この漢字読めません」と言ってはいけない。「辞書をひけ」と言われる可能性がある。常用漢字の制定の問題を正確に説明できる古典の先生は既にほとんどいない。この点でも国語の問題は難しい。

仮名遣いは古文の授業を普通にやっていれば、小説や哲学を読む程度なら問題はないだろう。あまり深いことは考えずに読んでいれば、それなりの良さが自然にわかってくることと思う。ただし「戦前の文学は旧字旧仮名で読まないと醍醐味がない」などとは人に言わない方が無難である(たとえ、そう感じたとしても。そういうことは二十になってから)。ましてや、通常の文章を旧字旧仮名で書いてしまうと、先生に怒られるはずだから、やめておこう。

この漢字や仮名遣の表記の問題は、政治的で文化的な、とても難しい問題なのでここで説明はしない。あまりこうした問題に高校生が深入りしてしまうことに、私は責任がとれない。興味があればネットで調べるなり、司書か古典の教師にアドヴァイスを受け、本を読むのもいいかもしれない。ここでは読むべき本も挙げないことにする。

ちなみに、コンピュータの字形と一部の新聞で使われる字形、書籍で使われる字形などは、実は確固とした状態ではなく、それぞれ流動している。目敏い君は読書する中でそれを発見し「あれ、この字、形が違うな。なぜ?」と思うかもしれない。すまないが、大人の世界は大変なのである、とだけ理解しておいて欲しい。あまり、若いうちにそういう問題に深入りするようなことは書きたくない。君が思っていたほどには、世界は確固としたものではないのだということだけを知っておけばいいと思う(もちろん、何事も考えるのはいいことであり「考えるな」と言いたいわけじゃない。ただ「これを考えろ」とは言いたくないだけである。字形や表記の問題は泥沼だと私は感じている)。

話が逸れたが、私が言いたいのは仮名遣や字体の問題はあるが、君たちはそれを学び(大した勉強じゃない)、乗り越えて欲しい。旧字旧仮名の文章は読めるようになっておいて損はない。是非、臆せず、トライして欲しい。

明治は日本文学の高みである。まだ、たかだか百年前後しか経っていない。是非とも君達はその本質を受け継いで欲しい。

6. 「あの人(思想)ってヤバいんでしょ? 読まない方がいいよね」という偏見を捨てよう

固有名を出しても大丈夫か不安だが、マルクス、共産主義、また、そうした影響下の文学(プロレタリア文学)は「ヤバっ!」という感じだと思う。あとヒトラーや戦前の日本の人達などのファシスト、戦後の「右翼」と呼ばれる人達なども同様だろう。

そうしたものを積極的に読めという気ももちろん毛頭ないのだが、そういう本も別に避ける必要はない。幸い日本は思想の自由は保証されているのでどんな本を読んでも罰っせられることはない。「どんなことを書いているんだろう?」という好奇心は十分に発揮できる。自分の考えをまとめる上で、ある程度主流じゃない考え方も見ておくと、奥行きがますことと思う。ちなみに私はそうした本のいくつかは、とても面白く読んだ。

***

なんだか、最後の方はちとやばそうな話になりましたが、別に気にせず読みたくなければ読まないでも大丈夫です。とにかく、自由に情熱的に読書をして欲しいものだと思います。

関連エントリ

読書法(4) 読む速度を上げる6つの方法に続く。

[本文]

読書法(2) 本の読み方

前回の読書法(1) 読むべき本を知るでは、高校のときの思い出を語った。まあ、だいたい以下のようなポイントを書いた。

  • 文学全集や世界の名著シリーズを、飽きたらポイしながら、何回か繰り返す。そうすると全体の流れが分かり、理解が深まる。
  • 図書館の司書に読むべき本を教えてもらう。
  • 新刊書店はあてにしてはならない。店員もあてにしない。
  • 本は買えれば買うに越したことはないが、無理する必要はない
  • 思い入れのある作家は揃えると嬉しい(文庫で出てる作家なら結構可能)

今回はその続き。基本的な本の読み方については 本全体を把握する本の読み方『本を読む本』で基本的な本の読み方を学ぶ などを参照ください。

図書館の司書と仲良くなる

まあ最初に前回のを補足すると、新刊書店でおもしろそうな本を探すというのは、中学の時から本を読んでいて本を選ぶ勘が鋭い人ならばともかく、普通の高校生では、面白そうで全然つまらないニセモノを掴む可能性が高い。まあ、途中で「あれ? これ全然つまんねーや」と思ったら捨てればいいのだが、結構、高校時代というのは真面目なもので、「いや、きっと、分からない俺が悪いんだ」とか「せっかく買ったんだ、勿体ないから読もう」とか無駄な資金に続いて、無駄な時間まで浪費してしまうものである。くれぐれも「ホントは面白くないんだけど、無理して読みおえて、友達に『面白いぜ』とか言ってしまうニセモノ」だけは読まないように。

だから、はっきり言って、新刊書店なんて相手にしない方がいいと思う。それならば、司書さんに、人類が長い間「うん、これは面白い」と言い続けてきた本を教えてもらうのがよっぽど効率がいい。勿論、時代が変われば感性が変わる部分がないわけじゃない。が、予想以上に人間の基本的な性質は変わることはないらしい。人の欲望なんて結局同じであり、愚かさも異なることはなく、また、高貴さも変わることはない。結果として、ギリシア時代のものが、現代の日本の若者が面白く読めるということが起きるのである。まあ、いくらかは言葉や表現の翻訳に加えて、時代設定の翻訳は必要だが、それほど難しくはないだろう。その程度で読めなくなるようなものであれば、それが本質的な何かを描いた本でないからであり、そうであるならば歴史に名を残すはずはないだろう。

繰り返し読む本しか買わない

上と矛盾するが、私は生意気だったので、司書さんと仲良くしながらも、新刊書店で本を買った。これは失敗談である。私はなけなしのバイト代をはたいで、無駄な本を買い「あー、全然、おもしろくねー」「うすっぺらい!」「おい! 結論がねーぞ! 結論が!」「あおりだけじゃーん」と嘆いていた。いくつかの新書は確かに知識を与えてくれたが、そんな本なら買う必要はなく図書館で借りて一度読めば十分であると断言できる。

金のない高校生にとって、買う本は繰り返し読むのは鉄則である。つまり「一生読む!」と確信する本でない限り、買う必要はないだろう。

「ちょっと待て、俺は書き込みをしたいんだ」という人もいるかもしれない。一度しか読まない本をマーキングして読みたいツワモノな高校生なんて嫌いだが、アドヴァイスをしよう。

まず、ポストイットでかなりの部分代用できる。次に、時間があるんだから、メモは十分にとればいい。これで高校生レベルの読書は対応できる筈である。研究とか仕事で本を読む歳になったら、そういう心配は別にすればいい。今は、ただ、読めばいい。小細工はいらない。そういう読書が知性として二十を過ぎたあたりから溢れてくるだろう。そうなりゃ、いい女がほいほいよってくるぞ。本当だ。そして痛い目を見て更に芸術にはまり込むことだろう。これは完全な法則である。

本を書き写す

そうだ。なんなら一度、本を一冊、全文書き写してみたらいい(俺は何度かやったことがある)。本に書き込みをすると記憶に残るとか中途半端なことを言うのなら(いや、そんなこと大人になってからでいい)、高校生なら、ばりばり、メモをとって、感想文を書いて、気にいった本は一冊まるごとノートに写せ。そして、それを音読しまくれ。惚れこんだフレーズは暗記しろ! 窓から空に向かって叫べ!

そうそう。おれはやらなかったが、書き抜きノートを作るのもいいかもしれない。「書き抜き」なんて俺には小細工に感じるが、まあ、妥当な作業かもしれない。これは、本を読んでいて気にいった文に印をつけておいて、後でそれをノートに写すのである。俺は一冊写すことをかなり勧めるが、まあ、普通の高校生はそんなヒマないと言うだろう。まあ、仕方ない。でも、それならば書き抜きノートくらいは作るべきだ。書き抜きながら読書をしたら、そのノートが宝であり、本は図書館に返してもいいだろう(ちなみに、俺が筆写したのは購入した本だけだったが)。金と時間を有益に利用する権利は君にある。

そういう若者なら既に溢れんばかりのエネルギーを安い大学ノートに書きつけていることと思う。そういう、ゴチャゴチャした、多くは恋愛や友情、正義や芸術、進路や人類の将来を意味不明に書きつけたノートは宝である。決っして捨ててはならない。

小細工を教えるのは嫌だが、一つだけ教えたいことがある。それは三冊を一冊にまとめた方がよいということだ。大学ノートが三冊くらいになったら表紙を破り捨て(いや、綺麗に取ってもいい)、ノリで三冊をくっつけて、ホームセンターで買って来た製本テープを背表紙に貼るとよい。大学ノート一冊では薄過ぎるので紛失の可能性があるからだ。是非、やっておいた方がよい。俺は何冊ものアホなノートがどっかに行ってしまい、いつか家族に発見されるのではないかとヒヤヒヤしている。そんな不安は君たちにさせたくない。

せせこましいことを考えず何度も読む

読書が役に立つとか、そういう、せせこましいことは考えんでよろしい。まあ俺は、マーキングのための記号やら線やらをシステマチックに案出したが(これはいつか書くかもしれない)、そんなことは必要になったらやればよく、「あー、こういうことやると後で有益そうだな、ふむふむ」なんて小細工はしないでよろしい。

とにかく何度も読むことである。私は最初の通読の後には、ランダムにページを開いて、そこから前後に読み、イメージをふくらませていった。ランダムアクセスの他、最後の章から読んでいった本もある。高校生にとって小説も哲学も同じである。ただ、せせこましいことを考えずに、ひたすらおもしろがって読めばいい。お勉強する必要はない。

黙読だけではない。音読するべき文章もあるだろうし、筆写すべき文章もあるだろう。暗記するべき文章もあるだろう。それに対して感想文を書くのもいいし、フレーズをつけて唄うのもよいし、ヘンテコな絵を描くのもよい。とにかく、エネルギーだ! 気合だ! (俺はそんな高校生嫌いだが)

一人の作家にはまる

その上で、一人くらいのお気にいりが出てきたら、そいつをおっかろ。まあ、伝記くらい読むのもいいかもしれない(俺は小学生の時を除いて人の伝記を読んだことがないが)。そいつが、どういう思考経路をしているのか作品から読み取り、そいつを架空の友達にすればいい。そういう尊敬すべき友達を何人か持つと楽しくなる。ネットでアホな友達を作っている場合じゃない! ガキの「趣味が似てる」「感性が好き」なんてどうでもいい! 若いんだったら、巨大な思想家や骨太な文豪、天才的な科学者を友達にしろ!そして叫べ!

「分かる! 分かるぞ、お前の気持!
お前のことは俺が世界で一番良く分かる!
お前のここの部分をこれだけ深く理解できるのは、世界で俺だけだ!」

(まあ、そういうガキのときのイメージはただの勘違いではあるのだが、それはそれ、これはこれである。若いのだから勘違いを恐れるなんて小さいことをする必要はない。私は責任はとらないが)

おもしろくない本は読まない

ただ、とにかく、面白くない本は無理して読まないことである。これだけは、くれぐれも注意して欲しい。だから、とにかく一流と呼ばれる本は、片っ端から開いてみるといい。んで、つまらなれば棚に戻せばいい。文学や哲学だけじゃない。画集や写真集だってあるだろう。数学や物理の本だって開いてみるといい。コンピュータ・サイエンスの本や工学の本、政治や経済の本、様々な分野の書物が存在する。そのうちのどれかが、君の心を鷲掴みにするかもしれない!

しかし一度読んでつまらなかったからと言って、二度と見ないというのはやめた方がいい。歴史に残った本であれば、何度かチャンスをあげた方がよい。そういう意味でも全集のようなものは何度かトライするよよいと思う。ふとした拍子に、その本の面白さに気が付くことがあるものだから。とくに、文学や哲学は、何度かチャンスをあげた方がよいと思う(ただ、結局、どの分野でも一流の本であれば、文系も理系も遥かにこえて、分野はジャンルも越えてしまい、ただただ人類の優れたものがあるだけである場合が多いとは思う)。「人間であること」つまりヒューマニティーの奥深さは、若いうちが一番理解しやすいと思う。

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自らが望むものに殺される

クッツェー『夷狄を待ちながら』の民政官の心情は、ボルヘス「ドイツ鎮魂曲」にあらわれる、死刑に際した元ナチスの男の心情に通じるものがある。それは、自らを滅ぼすものを切望するという点だ。

まずクッツェーの方を簡単にメモしておく。

侵略と拡大を続ける「帝国」、その辺境に数十年間滞在している初老の民政官。来ることのない夷狄の襲撃に対抗すべく「帝国」は、首都から大佐を民政官のもとに派遣する。大佐は非人間的な拷問と処刑を行う。民政官はその「帝国」に疑問を感じながらもその権力と暴力に従わざるを得ない。そうした中での彼の抵抗は単純なものにはならない。

そうした状況を想定した上で、解説にあたられた「暴力と告白——貫入《ペネトレート》する文学」という題の小論において、福島富士男はこう解説する。

物語の終わり近く、夷狄の襲来が間近に迫っていた。民政官は何がしかの真実の記録を後世に残したいと思う。だが、帝国の管理である自分が書きつけるものは虚位にしかならない。そこで、民政官はポプラの木片に保存油を塗り、発見したものの場所に戻しておこうと考える。そして、夷狄の娘が馬に跨って仲間たちとともにやってくるときこそ、この地から自分たちが消え去るときだと考える。[1, pp.350-351]

一方、ボルヘスの元ナチスは以下の通り。

世界はユダヤ主義のために、そして、イエス信仰というユダヤ教の病気のために、死に瀕していた。われわれはそれに暴力と剣の信仰とを教えた。その剣がいまわれわれを殺そうとしている。われわれは、ちょうとあの迷宮を造っておきながら、最後の日までその中をさまよい歩くよう運命づけられた妖術師に、あるいは、見知らぬ人を裁き、その人に死刑を宣言し、そののち《汝がその者なり》という刑事を聞くダビデに、比べられる。新しい秩序を樹立するためには多くのものが破壊されなければならないであろう。[2, ドイツ鎮魂曲, p128]

問題なのは、世界に君臨するのが暴力であって、奴隷的な小心翼翼たるキリスト教ではないということである。勝利と不正と幸福がドイツには無縁のものであるならば、それらを他の国民に与えよ。たとえいまわれわれのいるところが地獄であろうとも、天国は存在せしめよ。[2, ドイツ鎮魂曲, p.129]

[書評] 夷狄を待ちながら / J.M.クッツェー

簡単に言えることだが、彼の小説のおいては、暴力、意志、権力、自由、性が激しく戦いながら、しかしその言葉と描写は冷静になされている。これは簡単に言えることだし、これを目指していない文学というのもまたありえないのではないかと思えるほどなのだが、クッツェーは彼の並々ならぬ表現力と構成力によって、成功を収めている。

如何にして彼は成功しているのか? 如何にして彼の小説は、読む者に暴力と権力に怯えさせ、そして同時にそれを憎悪させ(あるいはそれに憎悪する自由への意志を恐れるのかもしれないが)、また、敗れつつも意志と自由を賛美し、性の謎を語りかけてくるのだろうか?

簡単な答はすぐに出せるだろう。それは徹底した描写だ。自由を奪い、辱め、肉を切り、骨を折り、目を火にあぶり、飢えさせ、人間の最後の尊厳すら奪う、権力と暴力の描写が、読者を怯えさせ、憎ませているのだ。

私は何度も何度も、とめどなく悲鳴を上げつづける。それは私が上げるのではなく肉体が自ら発っする音であり、おそらく修復のしようもなく損傷されたことを知った体が、その恐怖を絶叫しているのだ。

しかし、彼の文学は権力と暴力への憎悪を伝えるだけものではない。より深い絶望を描いている。主人公は決っして暴力に打ち勝つこともできなければ、その記録を自ら語ることすらできない。しかし、そういうものとして世界を了解してゆく。

その答えは歴史にあるのだろう。

2007-03-28

匿名で書くこと

どういう訳か今日、無駄にほのぼのとした気分で自分の中学校名をググってしまい、とある掲示板にぶちあたり、そこに自分のことが書かれていた。それは、私を知る人はほぼ100%私と分かるだけの「過去の情報」が載せてあり、かつ、そこに載っていた「私の現状」はほぼ100%嘘であった。

***

なんというか、匿名について考えてしまった。

こんなこと書くのもアホだが、なんというか、最近、このブログをついつい書いてしまっているので、ついつい書いてしまうことにする。ということで、書くのもアホなんで、読むのはもっとアホです。アホどうし、仲良くやりましょう。

昨日は匿名泡沫ブログを書くことを仮装パーティーと呼んだ。知ってる人が見れば誰か分かる筈なのに、一応、ばれてないことにしておいて、日常とは違う自分を楽しむというアレである。匿名であることによって、匿名でなければ恥ずかしくて書けないような稚拙なことが書けてしまう。そして、それを人様の見える場所に置いておくのである。とても不思議な行動であるが、そこに面白さがあるし、また、そうした表じゃなかなか書けないようなことが書かれるのであるから、匿名泡沫ブログを読むことにも面白さはあると思う。

しかし、こうした匿名泡沫ブログという遊戯は、暗黙のルールに支えられているのであって、誰かがルールを破れば簡単に破綻する。例えば、もし、このブログに対して私の実名なりを載せ、それを利用してグーグルなどから簡単にアクセスできるようになったら、私は即座にこのブログを消去するだろう。まあ、もちろん、archive.orgという手はあるが、まあ、それは見て見ぬふりをするのは簡単な筈だ。

ところで、匿名泡沫と書いたが、有名人でない場合、名前が書いてあっても事態は変わらないとも思った。実名を載せていても、その実名に対して「ワルサ」をする人がいなければ問題はない。そして普通は実名をさらしても誹謗中傷を受ける人は少ないのではないかと思う。普通は人の悪口を書いても得をすることなんてないからだ。

残念なことに、私はある程度有名(?)であって、そうした掲示板で実名がギリギリ載らないにしても「ああ、あいつね」と簡単にポインタを書かれてしまう。実名ほど強力なポインタでないにしても、そのコンテクストを理解する者全員にとって参照先がはっきりとしてしまうのだから、ある意味、実名のようなものである。

そして、そのポインタによって参照される人物としての私について、人様にそう思われたら私にとって残念な嘘が書かれてしまったのだから、とても残念である(アホみたいな文章である)。そして、私がその虚偽の情報を否定しないのであるから、そこを見た多くの人は、それが真実と思うことだろう。事実、もしそこに書かれていたのが私のことではなかったら、私だって「へー、あいつってそうなったんだー」とか思ってしまうかもしれない。

そして、その投稿者は大学名も明らかにし、その大学のサーバで私がサイトを開いていることも明らかにしていた。何人かは私のサイトにやって来たのかもしれない。もう、数年前の投稿なので、現在はその大学のサーバのサイトも消去されているのだが、なんだか、とても気持ちが悪い。

***

そう考えると、はっきり言うと、こんなブログ、書かない方がいいな、と思う。やっぱり、そんな結論になる。

無駄な文章を、しかも恥ずかしいような文章を何故、人様に見せているのか? この問いはどうしても残る。昨日の「おもしろいから」という答えは、何人かの「仮装パーティールール」を守らない知人によって脆くも崩れさる。なぜ、そうした危険を抱えながら、つまり、どっかの掲示板でさんざ虚偽に基づいた誹謗中傷を受け、現実にここに書かれた文章などをさらされて馬鹿にされる可能性をもちながら、私はアホな文章を書くのだろうか?(現実に今も書いて、そして、それを公開しようとしている)

誰か分かってくれるはずだ、という答をするには、私は歳を取りすぎている。そんな台詞は吐けない。

そんな馬鹿は無視すればいい、という答もあるにはあるが、掲示板の影響力を私はまだ計り切れていないのかもしれない。そこにあった誹謗中傷で、どこかで致命的な打撃をくらう可能性は十分にあるし、こうしたブログも参照され、アホな文章を引用でもされたら、結構やってられない気分になる筈だ。事実、このブログを消去したところで、 archive.org には記事は保存されているかもしれない(今見たら保存されてない)。まあ、そんな低いレベルの人間と関わりたくないが、関わらないという保証はない。

それでも、私はこのアホなブログを書く。なぜだろう?

確かに、個人の名を明かして、責任を持った文章を書けばいいのかもしれない。確かに、そこそこアホじゃない文書を書く能力が私にもあるかもしれない。そうして論戦じみたものがあれば、無視したり消したりするのではなく、ちゃんと対応するという線もあるかもしれない。なんだかいかにも、好青年な線であるし、立派なブロガーの姿である。

しかし、そんな文章を私は書きたくはない。そんな文章は書いていてちっとも面白くないし、読んだってちっとも面白くない。

私はある種の匿名性を持つ泡沫ブログが大好きだ。ちょっとでも火がつけば、処理のしようもなく、ただ、サイトそのものを消すしかないような泡沫ブログが大好きだ。そういうレベルの、本当に気楽に書かれた、読まれることが確実であるにもかかわらず、あたかも誰にも読まれていないかのようなブログが大好きだ。そうした無責任で、でも時には、普通のメディアには絶対載ることがないような閃きを見せてくれる泡沫ブログが大好きだ。

なんか、あついな、俺。馬鹿みたいだ。はあ……。というか、結局「このブログを書いてるの○○だぜ。ばっかでー」と言われても、あまり傷つかない自分がいるから書いているのかもしれない。

***

ところで、卒業アルバムというものがある。最近読んでいるのだが、これは不思議なものだ。卒業アルバムの文章は、読まれる可能性があるにもかかわらず、何人かの人は、普段では人には見せられない内面を吐露している。もちろん、ほとんどの人は無難な線の文章のみである。しかし、何人かは、確実に自分の内面を、人からごちゃごちゃ言われたら傷つくしかないような内面を描いている。

これは勿論、それぞれが友人関係であるし、卒業アルバムが配布されるのが、卒業の後であり、それをネタにからかわれる可能性が低いこともあると思う。また、お互いに文章を載せているので、お互いにひけめがあり、ネタにしにくいというせいもあると思う。

しかし、そうした「仮装パーティー」な空間で書かれて内面は、すこぶる面白い。予想もできない感性が描かれているときがある。

はっきり言うが、恥ずかしいような表現じゃないと、面白くないんじゃないだろうか? 分かる人には分かるが、分からない人には「あいつ、あんなの書いててアホじゃねーの?」みたいな文章が、面白い人には一番面白いのではないだろうか? ブログとは、そうした楽しみがあるのではないだろうか?

それはただのオナニーか?

そうかもしれない。

しかし、更にアホなことを書くが、私のように「中立的」で「恥ずかしくない」文章がつまらない人間は、しっかりと存在するのではないだろうか? アホな文書の中にのみ、面白さを見出す人間がいるのではないだろうか? そうした人間が存在するのであれば、それはただの自慰ではないのではないだろうか?

まあ、我ながら、アホな文だな。

行住坐臥(5) 理想の臥

いい加減な性分と自他共に認識しているが、行住坐臥という一連のシリーズ(?)はなんとなく書けてしまった。今回の五回目で終了である。

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行住坐臥の最後の臥とは寝ることである。その寝た姿勢が死人のように、完全に脱力することが、理想となる。

ただ、これができない。足は開くし、倒れるし、腰や肩はうくのである。冷静に硬い床の上に寝てみて欲しい。きっとどこかが浮き、バランスが悪くなっているだろう。

ただ、それでも緊張が残る。背中の湾曲が残るためだ。人は寝ていても重力に対抗するのである。

人は体軸と重力線が一致して普段生きている。寝ているときは直行するというあまりない姿勢だ。その上、普段直行するのが普通の動物では心臓は背骨の下にあるが、仰向けの姿勢では心臓や臓器が骨の上にくる。

だから、俯せもたまにやるとよいと思う。マッサージとか浮けて気持ちいいのは、案外、普段はしない俯せをしているからかもしれないとタマに思う。俯せして、足をクッションに載せてあげてしばらく寝ていると、結構気持ちいいものだ。

一方で仰向けになる時というのは死人のように放心することだろう。全てを受け入れるように。犬が腹を見せる時のように。そういう感じで寝ると、ぼーっとなっていい感じに背中が床に押されて気持ちいいと思う。

この臥という姿勢がきれいにとれるっていのは、行住坐臥の成長の現れ、メルクマールなのかなとか思う。なかなか、この不自然に無防備な姿勢で安心できないかもしれない。でも、まあ、それが普通っちゃ普通だろう。なにしろ、俺たちはまだ死んでないんだから。

2007-03-26

行住坐臥(4) 理想の坐り

行住坐臥の肝はなにかと問われれば、私は迷うことなく「坐」と答えるだろう。坐こそは生活の本質である。日常の全てが「すわっている」こと。これが、坐の文化の国の本質であると信じている。

なぜ足を組み「坐る」のか?

問題はなぜ座ったのかである。椅子がなかったからではない。歴史上、日本に椅子が入ったことは何度もある。しかし、その都度、日本の家屋からは自然に椅子は排除されたのである。腰掛けることと坐ることは本質的には別のことであると思う。

勿論、人類に当初、椅子はなく、地面に腰を下ろしたことだろう。このことから「日本人は地面に腰を下ろしたことに満足して、椅子という智恵を生みださなかった」と考える人もいるかもしれない。

私はそうは思わない。

坐は人類の智恵である。椅子よりもはるかに高度な智恵である。そう私は訴えたい。

なぜか? その問いに答えるためにも、坐ることを確認しよう。

坐ることは腰を掛けたり、下ろしたりすることではない。もし、日本の坐が、現代人のそれのように、ただ地べたに腰を下ろした状態であったとしたら、確かに坐ることは智恵ではない。私が言いたい坐とはそのようなものではない。

坐とは足を組み、姿勢を正すことである。この方法、この智恵の全体のことを、坐と呼ぶのである。坐とは足を組むなかで、自然に人間の姿勢が正されるような、そうした坐り方なのである。つまり、足を組んで、姿勢を正そうとするのでは、坐の意味はない。その坐法をとれば、自然に姿勢が正されてゆくような、そうした坐り方なのである。少々大袈裟だが、こう言えば、坐が椅子以上の智恵だということは理解して頂けるだろうか。

強いて言えば、こうも言えるかもしれない。自然に姿勢が正されぬ坐り方など、坐ることではない、と。意識しないと姿勢が整わないというのは、座れていないからである。整った姿勢が楽になるような坐り方なのである。脱力しても、たとえ気を失ったとしても、いや、たとえ死んだとしても、会陰から百会がまっすぐに保たれる坐り方なのである。それが、理想の坐である。他に坐はない。

坐ることで、姿勢が整い、そして姿勢が整うことで、精神が安定してゆくことを、坐の文化を持つ国の人間は発見したのである。以下、「坐ること」や「坐」とはこの意味でのみ使う。

坐るのは安定する

ここで賢いあなたは、疑問が湧くかもしれない。「楽で、まっすぐがいいなら、寝ればいいじゃん? 楽だよー」と。

難問である。

当初、私は「そうしたら寝てしまうからではないか」と思った。これは間違いである。座っていても寝るときは寝るのである。そして気合しだいで臥せながらも、瞑想状態には簡単に入れるものである(というか、坐るよりも寝た方が初心者にはやりやすいと思う。別にそんな状態に入ったからエラいわけでも何でもないが……)。

私は大いに悩み苦しみながら、寝ることと坐ることを繰り返した。そして、数々の失敗と挫折の中から様々なことに気がついた(いつか書くかもしれない)。そして、実は寝る方が、脱力しにくいのではないかということに気がついたのである。つまり、完全に脱力した時にどうしても違和感が残るのである。

これは私が寝る脱力が下手なせいもある。特に腰のあたりの脱力が苦手である。しかし、私が個人的に考えるには、ヒトの腰はそもそも湾曲を描くものであり、寝て脱力すれば、この湾曲は失われる。そして、その湾曲が失われた状態というのは、ヒトにとって、理想的な状態ではないのではないだろうか? こう考えたのである(ただし、臥は、やはり行住坐臥の究極だろうから、次回にこうした問題も詳説する)。

そもそも、仰向けで一時間も二時間も集中(?)するのは難しい。そもそも、そんな長時間眠ってもいないのに寝ているというのは、精神的なかなかできるものではない。15分か30分もすれば確実に馬鹿らしさが襲ってくる。勿論、私が未熟だからかもしれないが(まあ、一体何に未熟なのかすら分からないが)。

また、私は床擦れなどの医学的な問題に無知だが、やはり、臥せてみじろぎしないでいると、むずむずしてくるものである。一度、本気で究極の臥に挑戦しようと努力して頂ければ理解頂けるものと思うが、どこか、違和感があるし、なんというか難しいが、頭と胸と腹の流れを感じるわけだが、その流れの線がよじまがっているように感じるのである。

***

それに比べると、坐のなんと安定することか。結跏趺坐などでは当然のように長時間静止できる。そもそも、座れば坐るほどに、姿勢が安定してくるのである。自己の内にある軸に(それは時計回りに回転しているように個人的には感じている)意識を合わせながら、沈みこむように下へ下へ脱力すれば、自然に、おのずから、すうーっと上に上にと伸びてゆくのである。何度やっても不思議である。個人的は、特に鳩尾の辺りと、首の辺りの脱力の感じがとても不思議である。両手は印を組むなり合掌するなり、ただ重ねて置くなりすればいい(用途による)。

そして坐禅や瞑想の真似事やら、読書やら思考やら勉強やらをするわけであるが、まあ、こんな胡散臭い話、誰も信じてはいけません、と一応書くが、それでも、当然のように読書のスピードも早いし(まあ、ちょっとね)、考えても鋭いし(これは、まあ、気のせいかもしれないけど……だって計りようないしね)、なにより確実に言えるのは記憶力がよくなるのである(これは本当です、はい。おすすめです。記憶力には持論があるので暇があれば、また書きます)(ちなみに、残念ながらパソコンは「坐」してはやってません。本は書見台があれば、ひょいっと手を動かすだけで済むけど、パソコンとか執筆は両手が動いてしまって軸がとれないから)。

科学的には分からないが、人間は脱力してても背骨のS字湾曲は保たれた方が違和感がないのだろう。実際、ちょっと仰向けに寝てみても腰のあたりは浮いてしまうのではないだろうか? 力を抜こうとすればべったりと背骨が地面に着くだろうが、案外、そうした状態は気持悪く感じはしないだろうか?

なぜ、すわることで気持ちよく脱力できるのかは不明だし、そもそも力を抜いてまっすぐなど合理的じゃない。しかし、恐らく、人間は直立するように進化したのであって、その直立した状態での頭の働きがよくなるように作られているのではないかと思う(根拠なし)。湾曲が保たれた状態が自然であり、その状態で脱力することが神経や内蔵にもいいのだろうと勝手に考えている。

そして、重心の軸と体軸とが重なる状態というが理想なのではないかと思う。こうした重心と体の軸の知覚の問題は重要なので、この話は別の機会にまた詳しく書きたい。たぶん、重力の問題が坐における安定と関係が深いのだと思う。

実際に坐る

さて、こうして書いてきて、「じゃあ、どう坐るんだ?」と興味を持つ方もいるかもしれない。まあ「基本は結跏趺坐である」とか「呼吸が身体の動きとして感じられるようになれ」とか「鳩尾と首の脱力はバランスの……」とか、ごちゃごちゃ教えたいが、これは、どうも書くのは難しい。というかメンドイ(だからいつか書くかもしれない。私は普段は書くのが嫌いであるが、たまに発作のようにどうしても何でもいいから書きたくなる。こういう病気なのだろう)。

それに書いたとしても間違いが多いだろうし、お近くの禅寺かヨガスタジオに行くのが、確実であると思う。坐とは技であり、習得のために練習の必要があり(股関節や膝関節の柔軟性も必要である)、口で言うよりも実際にやってみて、できてる人に直してもらうのが早道である。そうすれば、ほとんど全員がこの技を習得できるものと私は考えている。

自分で理解できてない「歩き」や「立ち」はごちゃごちゃ書いておいて、理解できてるつもりになってる「坐り」は「じゃ、寺やスタジオへ行って下さい」と投げてしまって書かないというのは、本当に私の性格の悪さを示す好例だと、我ながら関心する。あくまで書く中で、自分のために整理したいのであり、ハナから人様に何か有益なことを教えようというつもりがないのであろう。まったく、困った男である。


ところで、ここまで書いておいてなんだが、私は禅寺やヨーガスタジオに行ったことはない。人など信用していないからである。また、ヨーガの本も坐禅の本も読むには読んだが、やっぱり、本など全然あてにしていない。完全に我流である。「おいおい」と思う人もいるだろうし「はは、そうだろお前みたいなタイプ」と察っしている方もいるだろう。だから、私の書いたことも信用しないで欲しい(ただ、最近は立つことや歩くこと、お辞儀などを人に習いたいな、とも思う)。

ただ、現在の私の感覚から言えば、実は坐とは結構、基本的な技術だから、これなら人に習った方が早かったな、という感じである。それほど間違いを教える人はいなさそうだな、というのが実感である。そして、本を見てもほとんどの人が同じようなことを書いてあるのであり、そうしたことからも、間違いをしている人が少ないのが分かる。

ただ、たまに変なことを書いている人は居るにはいる。いや、結構いるな……。うーん、書こうかな……。うーん……。あー……

うーん。

あー……。やめた。この人、有名すぎるし、「信者」多そうだもんなぁ……。うーん、ヒント出したら一発でばれちゃうし……

あー……

まあ、いいや、とにかく「自然に楽になる」「沈みこむと、不思議と浮いてきて、まっすぐ」「軸の意識(ただし無理してじゃなく、自然に。バランスの結果としての軸)」ということは一般に言えると思うし、これに反してるような教えは、ちょっとおかしいんじゃないかと思う。

坐というのは行住坐臥の肝であると始まって、なんだか、こう書いていると「簡単」みたいだが、なんというか「簡単」なものなのかもしれない。これは、足を畳み、手も組むなり置くなりするので、体幹だけに意識を向けられるからかもしれない。つまり、小手先になりようがない。だから、本来の意識になりやすいのだと思う。

こうした坐の感覚を十分に身体化させ、それを行住坐臥にいかしてゆくことが大切だろう。もちろん、坐禅や瞑想などもお好みでやるとよいかもしれない(胡散臭いと思う人はやらんでよいが、残念なことにこんな文章を読む哀れなあなたは、きっとほっといても瞑想とかしてしまうことだろう)。


ところで、「すわりがいい」とか「すわってる」とか言うように、昔の日本人にとってすわってることは大切であり、そして、その感覚はほとんどの人が持っていたんだと思う。「ハラがすわっている」という言葉の質感を日常で持っていた日本の昔の人に対し、「ふーん、なるほどねー」と思うし、まあ、結構、今からでも習得しようと思えば、できないことはねーな、とか思ってみたりしている。うむ、「ハラのすわった人」ってのに、ちゃんとなりたいもんだ。

読書法(1) 読むべき本を知る

アドラー『本を読む本』の書評を書いたら、読書について少々書きたくなった。私なりの読書法を書いてみる。一般的に読むべき本については必読書150を参照。

全集を片っ端から読む

私は高校時代、図書館にあった全集を端から順番に借りていった。面白かったら読み、かったるくなったら読むのをやめ、すぐに次の本に進んだ。性格上、中途半端なことは苦にならなかった。そうして日本や世界の文学全集と世界の名著シリーズを撫でていった。こうしたプログラムを周期的に繰り返していた。そうして、ほとんどの本は途中で投げたが、何冊かは読了した。

今思うと、これはよい読書だったと思う。私は読書の友もいなかったし、読書法の本を読むこともしなかった(その時間あれば、一冊読むよ、という気分だった。故に『本の読み方』を読んだのは二十を越えていた)。しかし、歴史に残っている本を義務感ではなしにパラパラと眺めることで、自分の趣味が形成されていくのがよくわかった。

何度か全集を順番に借りてゆくと、以前は興味がわかなかったものが面白かったり、全然理解できなかった哲学書が急にすんなりと理解できたりした。そういう面白さもあった。そして、文学や哲学というものが、歴史として流れているのであり、一冊の書物すらも、その歴史として理解しなければ全然理解できないのだということを感覚的に理解した。

今はどうか知らないが、私の時代は全集が不毛の時代だった。「なんで、そんな昔のカスみたいの読んでんの?」という時代であったし、「そういう西洋的な『普遍』とかの時代は終わったんだよ。『全集』という響きに西洋的な理性主義を感じる」という時代だった。別に私はそうした意見と議論する気はない。「うん、そうだね、そうだと思うよ」と言う。

だから、全集を読めというつもりはない。別に文学や哲学を読めというつもりもない(本当だ!)。ただ、読書で何かを得たいのなら、ある程度の分量の本を、ある程度の時代に渡って、ある程度の回数読みこまねばならないし、そうやって下地を作れる時間を得られるというのは高校がせいぜいだろいうということだ。そうした力をこの時期につけておかなければ、必要になったときに苦労するのではないだろうか? 私は瞑想などを別にすれば、読書の技術がなければ思考などできないと思うし、言っちゃ悪いが、読書してる人としてない人はすぐに分かるし、その思考も(私の個人的な視点から言えば)明瞭に区別できるものだ。

図書館の司書と仲良くなる

そして若い人には図書館の利用方法を是非とも覚えてもらいたい。私は高校時代に図書委員長であり司書の人と仲良しで、様々な便宜を得た。司書は、図書館情報学のプロであり、検索能力は素人の比ではない。公共の図書館でもリファレンスサービスを利用しない手はない。相談さえすれば、どの分野であれ、有益な書物を必ず教えてくれるはずだ。

そう、少なくとも、新刊書店には絶対に期待しない方がいい。店員は完全に素人だし、おもしろいように見える本が並んでいるだろうが、断言してもいいが、そのうちのほとんどは何の役にも立たない。そうした「おもしろそうに見える、でもホントは全然つまらん本」しか読んだことがなければ、読書なんてどうでもいいただの趣味になってまうだろう。

買うか買わないかは本質的な問題ではない

よくある論争で本は買うべきか否かというのがあるが、以前は完全に「買う派」だったが、最近は、どちらでもいいと思うようになった。

理由の一つに、読んでる本を全部買っていたら財布が追いつかない上、部屋の床も抜けるからである。最近、床を心配して、本の六割を処分して、それでも本棚四つにばっちり詰まっている本を見た時、このままいくと、俺は図書室が必要になって、そのうち図書館が必要になるんじゃないだろうか、と感じた。

もう一つの理由として、図書館が便利だからである。インターネットで予約ができて、必要な本を揃えておいてくれるし、電話一本で延長もできる(そうすれば一カ月)。だいたいネットとにらめっこしながら良さそうな本をリストアップできる利点は大きい。本屋ではできないことだ。それに、つまらない本を拾っても頭に来ないし、軽い気持で借りた本が大当たりということもある。やや専門的に理解を得ようとしたら最低十冊程度は目を通したいが、そういう時にも適当に検索であたりをつけて、ゴソっと借りてガバーと読める。

と、書きながら、本棚を眺めると金の無い高校時代に買ったヘッセやドストエフスキー、カミュ、ニーチェの文庫本がいやでも目に入る。手にとると、紙はすっかり茶けているし、表紙はボロボロだ。金がないのに、本当に苦しい思いをしながら、岩波や新潮などの文庫本を買った日々を思い出すし、そうした文庫本を学ランにつっこんで、満員電車の中で必死に読んでいた日々を思い出す。だから、つまらなかったら本気で頭にきた。そして、そうした本は何度も何度も読んだ。十回以上は読んでるのもある。

当時、「これくらい知ってなきゃ」という本は全集に頼っていたが(そして、それらは飽きたらすぐにポイしたが)、本気で読みたい本には身銭を切った。明確に「図書館で借りて読む本」と「本気で読みたい本」というのがあった気がする。というか新潮に入っていたからだけかもしれない。今となってはよくわからない。ただ「これは一生読むな」という感覚であり、最後は「よっしゃ、新潮で出てるのは全部揃えちゃおー」というコレクターな気分だったのかもしれない。

やっぱり、買うのも悪くはないな、とも思う。というか、欲しくなったら買えばいいし、欲しくもないのに義務として買うってことはないってことかな。ま、つまらんが。

なんというか、本当に歳とったな、とドストエフスキーの文庫本見てたら、ね。はは。

関連エントリ

アドラー『本を読む本』で基本的な本の読み方を学ぶ

読書術についての古典的な名著であり、一度は目を通しておくべき本かと思う。本を読むことに新しいも古いもないので、内容的にはいま読んでも古い所は全くないし、逆に古くなっているところに、私たちが失いかけている大切なものを読み取ることができるかもしれない。

四段階の読書

本書においてアドラーは四段階の読書を提唱している。

一つ目は「基本読書」。すなわち、本当の基礎となる単語や文法に基づいて読むということ。これは基本中の基本。

二つ目は「点検読書」。書名、目次、序文、後書き、後付けなどから、本の内容、対象、程度などを点検するというもの。この段階を確実にすることで無駄な本を読む時間を減らせる。

三つめは「分析読書」。いわゆる精読であり、二つの方向から書物の内容を自分で再構築するというものだ。

片方はトップダウンな理解だ。つまり、著者の主張から、その本のアウトライン、著者の問題などを理解してゆくというもの。もう一方は、ボトムアップな理解であり、キーワードを探し、著者の用語と和解し論証をチェックしてゆき、大きな著者の主張を確認してゆくというものだ。

このトップダウンの理解とボトムアップの理解はある程度の次元で出逢うわけで、そこまで読み込むのが精読ということである。そして、こうして読めたら批評をするというのが読者の義務になるということだ。

四つ目は「シントピカル読書」と呼ばれるもので、この本の目玉といえるだろう。この読書法は、ある一つのトピックに対して、複数の本がどういう返答をするかを読み取って、その答を統合してゆくというものだ。手順としては、ある質問を設定し、その質問への回答を提供する本を探す。そして、必要な部分を読み込んで、複数の書物の間で概念を整理する。最後に、その書物から読み取れた答を組み合わせてゆくという流れになる。書物の側の論理の流れではなく、自分が設定した問題意識に対して本を従わせる主観的な読書ということができると思う。

客観的読書から主観的読書へ

さて、こうしたアドラーの読書法を振り返ると、清水幾太郎『本の読み方』と大枠が同じ事に気付く。

清水は客観的読書法から主観的読書法へと変化したと述べていた。つまり、丹念に客観的にノートをとっていたのが、テーマや問題意識にそって、あくまで自分を主体に本を読むようになったということだ。これはアドラーの「分析読書」から「シントピカル読書」への移行と同じことだろう。

本を読むのが時間つぶしでなく、問題を解決のためであるならば、その問題意識を明確に読書するのが有益なのは明かだ。

ただし、この本で清水はそれでもやはり客観的に著者の主張を拾う読書の時期がなければならないと述べていた。つまり、精読ができなければ複数の著者の意見を組み合わせることなどできないわけで、最初から主観的読書やシントピカル読書をするというのは現実的ではない。

私は、アドラーの順番で必要にせまられながら、自然にステップアップしてゆくのがいいのだと思う。無理に読書の能力を高めようとしても得る所は少いように思われる。

シントピカル読書を可能にする「シントピコン」

アドラーはシントピカル読書のためには、まずそのトピックを扱った本のリストを探すのが困難であると指摘する。ある程度の良書を読まなければ良書かどうかを理解する点検読書の能力はつかないものであるが、最初は点検読書の能力がないからどれが良書が分からない。

アドラーはこの問題に対し、名著の主題項目索引を作ることで少しは解決するだろうと述べている。これを彼は「シントピコン」と呼ぶ。この索引では世界の名著について、例えば「愛」が論じられているのはどの本の何ページかが記されているのだ。読者は、この索引から主題を選び、その主題に対する、天才の議論を効率よく読むことができるのだ。

この「シントピコン」は夢物語ではなく、実在する。『Great Books of Western World』の索引がそれである。アドラーはGreat Books of Western Worldたるべきテキストを選定し、トピックについての索引を作成したのである。

私は購入していないので詳細は分からないが、ブリタニカ・ジャパンには以下のように書いてありとても有益そうだ。

グレートブックス・オブ・ザ・ウェスタン・ワールドは過去の歴史的作品から20世紀の傑作まで、それぞれの作品・作家を紹介した西洋史コレクションとも言えるものです。西欧世界の1.文学 2.数学 3.歴史・社会学 4.哲学・神学などの諸分野の著名な作品517編・作家130人を収めた大全集です。また、グレートブックスならではのシントピコン索引は、知識のデータベースとして活用できます。

こうやって方法論を吟味し、かつ、実際にシステマチックな教材も作りあげてしまうところに、いかにも古きよきアメリカを見る気がするし、そうしたアメリカの底力を感じる。

notes

精読については 本全体を把握する本の読み方 という記事があります。

シントピカル読書については 一つの問題についての並列読書 という記事を参照ください。


本を読む本

  • モーティマー・J. アドラー、 C.V. ドーレン
  • 講談社
  • 861円
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livedoor BOOKS
書評/サイエンス

2007-03-16

[書評] 農! 黄金のスモールビジネス / 杉山経昌

本書は、著者の実体験による農業経営の助言がつまった本です。著者は、、バブル最盛期に脱サラした元外資系サラリーマンです。そのため、経営の合理化、データによる分析がつまっています。その中から、新しい農業、ひいては生き方の考え方を語り出しています。

ただし、この本では「起業」の側面よりも、起業した後にどう働いてゆくのかが中心に述べられています。前作である『農で起業する』の方に、立ち上げ時期の話があるのかもしれません(未調査)。立ち上げのプロセスに興味がある方はそちらを読む方がよいかもしれません。

著者は、農業を次世代の黄金のビジネスモデルであり、これからのビジネストレンドであると述べています。そのためには、これから農業とは「スモールビジネス」であるべきであり、小規模ながらも高い効率の経営によって、短時間で充実した生活ができるとのことです。著者は「週休四日」と述べています。

効率を高めるためには、著者は計量的な分析と営業などを重視します。そして農業ではあまり従来あまり重視されなかった点かもしれません。パソコンを用いて、作物や顧客などの情報管理をして無駄を省き、労働の質を高めているそうです。また、そうしたデータに基きつつも心のある営業をすることで、付加価値の高い高品質な商品を生みだし、また、高いロイヤリティーの顧客を獲得できるとのことです。


こうした本書に対する私の読後感は、残念ながら、あまりよいのではありませんでした。ただの個人的な感傷のようなものですので、ここでは書きません。

「ばりばり幸せゲットしてやるぜ!」という人で農業やりたい人にはかなりオススメです。


農!黄金のスモールビジネス

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書評/ライフスタイル

2007-03-06

分かる人には分かって書く意味がないし、分からん人には分からんことを、また少々。

俺らは地球に立っている。いや、球なのかどうか知らないが、とにかく地面に立っているよね?

これ、行住坐臥の時に感じる? つまり「地面があるな」って感じを。

まあ、この意識レベルでバイバイの人だらけだろうけど、もし「うん、地面がある」という意識を持って行住坐臥できる人は更に考えないかな? つまり「んじゃ、地面って何だ?」とか。

まあ、考えんわな、おーけ。バイバイ。


まあいいや。

球だか面だか知らんが、まあ「地」と呼ぼう。

姿勢と呼吸を極めようと思えば、必ず「地」と、それに不随して「天」の問題は外せないよね? 俺たちは地の上、天の下で、構え、呼吸をしているわけ、というか、構えと息は一致してたりするんだけど、まあ、これはまた別の機会でも。

今回考えたいのは、この「地」とは何か? と。

これは重力の問題だ。あんま引力とかって知らんけど、確か引力ってのがあって質量が大きいと物質を引付けるらしい。んで、地球は十分にでかいので、俺ら人とかが引かれてるらしい。個人的には今でも「まじかよ?」って感じだけど、まあ、そういうことらしい。

んで、この地球の引力が重力なわけで、地球が俺らをひっぱるわけだ。んで、そのひっぱってるのが「地」なわけ。

だから土じゃなくても地球の引っぱる力を感じさせるものであれば、それは「地」になる。

つまり、「地」とは重力の主体、というか重力という力の存在そのものなわけだ。「力」とか「存在」「主体」「行為」とかの話もメンドイから別の機会に。


んで、「地」は重力として俺らに働きかける。それだけじゃない、空気やらも重力によって俺らにのしかかっている。

だから、俺らはそれらに姿勢をとる。それは、重力との関係だ。

人類よりも先に重力があり、人類は重力への関係を「這う」より「立つ」ことに求めた。

上へ上へと伸びることで、一見逆説的に、重力と和解したのである。そして、自らの体軸と重力の線を重ねることで、強い中心と軸を持って生きてゆくことになった。


歩くとき、軸を感じられるかどうか。この問いは、歩く時に「地」を感じられるかという問いにつながる。

地が自らの下で動いていること。自らが中心として静止しつつ、重力線と体軸を一致させつつ、足の下の地が動きさってゆくことを感じること。

地の上を歩くのではない。また、地が自分を引くのですらない。

自分が地を引きつけているのであり、地が足の下で動いているのである。

自らの中心と軸の変化の結果として、地が動くのである。これは重力とのたわむれであり、自らが重力を扱うことである。

ここにおいてはじめて、私達は「重さ」を理解し、「力」を理解するだろう。

あくまで、力は己の内部のものである。己の中心を外部に求めてはならない。

重さの力を扱うなかではじめて、私達は動くことを学ぶ。いや、逆か。動く中で、私達は重さを学び、力を学ぶ。

重さと関係しない力はなく、重さと関係しない動きもない。

動きの中に「重」と「力」があることは偶然ではないのだろう。

そして、そのためには、強い軸と中心の意識が必要である。


意味不明。

2007-03-03

人間関係は私達のためにあるのではない

人間関係は私達を幸福にしたり、満足させたりするためにあるのではない。
私達を目覚めさせ、気付かせるためにある。
無意識を排し、気付きの中で生きてゆきたい。

世界は私達を幸福にしたり、満足させたりするためにあるのではない。
私達を目覚めさせ、気付かせるためにある。
無意識を排し、気付きの中で生きてゆきたい。

全てのものは、私達を幸福にしたり満足させたりするためにあるのではない。どうして、そんなことを期待できよう?
また、全てのものは目覚めさせ、気付かせてくれるだろう。どうして、そこから学ばないのだろう?
ただ、無意識を排し、気付きの中で生きてゆきたい。