2007-04-29

清沢満之「我信念」を読んで

清沢満之「我信念」を読んでみた。こうした文を現代の人はどう感じるのかに興味もあるが、まあ、とにかく私はいろいろと刺激を受けたので書いてしまった。

ポイント

最初に簡単に概略を理解できるようにポイントになる箇所にコメントを付けつつ引用してみる。

まず、著者は「如来」と「信念」が同じであると述べる。

私の信念とは、申す迄もなく、私が如來を信ずる心の有樣を申すのであるが、其に就いて、信ずると云ふことゝ、如來と云ふことゝ、二つの事柄があります。此の二つの事柄は、丸で、別々のことの樣にもありますが、私にありては、さうではなくして、二つの事柄が全く一つのことであります。私の信念とは、どんなことであるか、如來を信ずることである。私の云ふ所の如來とは、どんなものであるか、私の信ずる所の本體である。

そして、その<信念=如来>が平安を与えると述べ、次に以下のように、理屈をつきつめると結局何も分からないことが分かるのみであり(下手をすると生きてゆけない)、それが故に、つまり、それでもなお生きていること、そのことのために<信念=如来>が生じたと述べる。

研究が遂に人生の意義は不可解であると云ふ所に到達して茲に如來を信ずると云ふことを惹起したのであります。(……)何が善だやら惡だやら、何が眞理だやら非眞理だやら、何が幸福だやら不幸だやら、一つも分るものでない。我には何も分らないとなつた處で、一切の事を擧げて、悉く之を如來に信頼する、と云ふことになつたのが、私の信念の大要點であります。

次に、無能の「私」が私としてあることの、その根拠が<信念=如来>と述べる。無能でも、生きてゆき、死んでゆくということ、そのものの本体が<信念=如来>なのだろう。

私の自力は何等の能力もないもの、自ら獨立する能力のないもの、其無能の私をして私たらしむる能力の根本本體が、即ち如來である。 (……)私をして虚心平氣に此世界に生死することを得しむる能力の根本本體が、即ち私の信ずる如來である。

更に如来の平安が与えられる根拠に、如来の前に、善悪の別はなく、ただただ、全ては救済されると述べる。故に<信念=如来>の前では、ただ気の向くように、心の欲っするように生きてゆけばよいということになり、「私」は救済される。

無限大悲の如來は、如何にして、私に此平安を得しめたまふか。外ではない、一切の責任を引き受けて下さるゝことによりて、私を救濟したまふことである。如何なる罪惡も、如來の前には毫も障りにはならぬことである。私は善惡邪正の何たるを辨ずるの必要はない。何事でも、私は只自分の氣の向ふ所、心の欲する所に順從(したが)うて之を行うて差支はない。其行が過失であらうと、罪惡であらうと、少しも懸念することはいらない。如來は私の一切の行爲に就いて、責任を負うて下さるゝことである。

清沢満之の文書にこんなふざけたコメントまがいをしたら叱られるかとおそれるが、もう少し書くことにする。

雑感

以下は私の雑感。

私も、人は知性を過剰に利用し過ぎると自殺すると思う。思考は、全ては「無意味」で「不条理」ということを教えるのみであり、無意味の中で言葉を語ることは端的に不可能となり、無意味であるが故の死のみを要請することになる。自殺したい人を論理/理性で救えないのはこのためであるし、決定版の哲学や宗教が論理/理性的に生まれないのもこのためであろう。とにかく、どんなに考えようが、本を読もうが、人の話を聞こうが、一切は「無意味」で「不条理」で「不完全」であり、そこに生きる意味など見出せないことが、思考により導かれる。

ここで死にたくなるのであるが、実は、そこで転換があるのだろう。というのは、そこで死ぬ人もいるとは思うが、私はなぜか「死ねなかった」のである。

理性はそれを「恐怖」「腰抜け」となじり「死への勇気」を鼓舞するかもしれない。「無意味な生と不条理な世界に別れを告げよ!」

そうした理性の声に脅されながらも、私は死ねず、いや死なず、現に今も生き続けている。そして、無意味で不条理な私と世界を、ただ、そうしたものとして受け入れているのである。ここで注意して欲しいのは、理性は原則的に無意味と不条理を排除するのであり、にも関わらず私がそうした私と世界を「受け入れている」ということは、理性ではない何かが、現在の私を支えているということである。

事件以降、私は端的に理性に信頼することをやめてしまった。「理性」と「私」は違うことを学んだのかもしれない。現在の感覚から言えば、「私を殺すもの」は「敵」であり、故に「私を殺そうとする理性」も「敵」なのであると言えるかもしれない。私は最大の敵、つまり確実に自分を容易に殺せることができる敵が、自分の内部にいることを発見したのである。

無意味で不条理な私と世界を、それにも関わらず支える何かを私は直感したとも言える。うまく言えないのだが、「無意味で不条理な私と世界」は、そうであるにも関わらず、いや、そうであるからこそ、美しかったし、美しいとしか言えないのである。逆に、ただ美にうたれたのかもしれない。順序はよく分からないが、高校生の私は、絶望し、絶望したからこその美に打たれ、それによって「無意味で不条理な私と世界」を受け入れたのかもしれないし、「無意味で不条理な私と世界」を受け入れた瞬間に美に打たれたのかもしれない。一瞬の直感であった、星空に吸い込まれれるような。

美とは完全性であり、それは不完全性を排除するのではなく、包みこむものであり、端的に言えば、いかなる有限をも包み込む無限であり、その点で、世界そのものである。よく理解できない人は、まず、死にたくなって、その後、死に場所を求めて山に入り、ふと星空を見ると理解できるんじゃないかと思う。ただ無意味な無限が全てを包んでいて、ひたすらに「美しい」と叫ぶのが聞こえると思う。そして、その叫び声の主はいつもの自分ではない何者かなのである。少なくとも理性ではない。おかしな話だが、空が叫んでいるように聞こえるかもしれない。

こうした私にとっての「美」が満之の説く「如来」かと思う。全てを絶望の底に投げ捨てて、それでも尚、どうしても、己の力ではどうしようもない根源から湧いて来てしまう、絶対的な受容の内に感じられる、ただ、ひたすらの無限。こうしたものが、如来であり、私にとっての「美」かと思う。いや、よく分からないが。

高校時代の私も満之と同じように(おこがましい!)、「美」を「信仰」した。今はしていないのだが、当時は自分一人で宗教をやっていたと今では思う。どういう信仰・信念かというと「美がある」ということである。あるいは「美である」かもしれない。とにかく、世界とはすなわち美であり、美があるということである。そういう宗教であった。理性の声は全ては無価値と叫んだが、その無価値な存在(私と世界)「に美がある / が美である」 と直感することに私は救済を感じていた。

これは決して、肯定的だったり、満足に向かう信仰ではなかった。「ああ、美しいね」ではないのである。ただ、絶望があり、その全てが投げ捨てられ、それでも、ただ、ひたすらに私と世界があるということ、ただ、その点の悲愴にのみ、美な訳だからである。絶望しながら、美においてのみ救済される、いや、絶望しているからこその美に救済されると言うべきか。

加えて言うと、この美は私の音楽理解にとって中心的な概念でもある。小学生の時、学校でバッハの管弦のポロネーズを聞いたのだが、その時、私は一般的な意味での「音楽の美しさ」ではなく、そうではない「美」を聞いてしまったように思う。音楽はひたすらに終末へと向かう。ことに、通奏低音は美しく響きながら、近い将来の確実な終焉へと、はっきりと一歩一歩進む。そこに私は「はかなさ」というか「不条理」を聴いてしまうのである。音楽は生であるとして、当然そこに死があるのである。避くべからざる必然性の網の中で、「不条理」に音楽は終末へと向かうのである。そうした避くべからざる必然性の網を感じさせない音楽に興味はないし、その網の中で「不条理」「はかなさ」を聴けない音楽に興味がない。そして、バッハのいくつかの作品は、そうした不条理の中、必然的な「死」へと向かう壁の前で、そこを全く避けずに挑み、そして軽やかな奇蹟を見せてくれ、サン・ハウスはその「必然的かつ不条理な」死へとまっすぐに向かい、そして、そこで、更に彼は「詫び」るのである。この二人の音楽は深過ぎて、はっきり言って意味が分からない。

ところで、その信仰はいつのまにかやめてしまった。エネルギー供給源としての文芸書やCDの供給が減ったことためかもしれないし、歳を取って感性が鈍ったためかもしれない(とは言え、サン・ハウス理解はわりかし最近なのだが)。思えば、最近の不調は、こうした「捨て身の、ただ、ひたすらの美への信仰」のようなものが無いことに起因しているのかもしれない。以前に書いたdigi-log: 気づきを与える根源では「美」という言葉は使わず「愛」を生みだす根源などという言い方になっている。これは最近、音楽や小説から離れ、瞑想やヨーガに傾いているからだと思う。

近い内、禅か真宗のどちらか、あるいは両方を学べると思う。何か、そういうことなのかもしれない。何が「そういうこと」なのかもよく分からないのだが。

2007-04-27

[書評] 3分LifeHacking / 山口真弘 + ITmedia Biz.ID編集部

本書は ウェブサイト ITmedia Biz.ID での人気連載企画「3分LifeHacking」を書籍向けに再編成したものです。200本近い連載の中から66本を厳選して収録したとのことで内容はそれなりにどれも「なるほど!」と思わせるものばかりとなっています。勿論、中には「これは!」と思う記事もありました。

モノクロですが写真が多いのでパラパラ読むのに最適ですし、何より、辞書のようなサイドインデックスも入っているので検索性もバツグンです。やはり書籍は読みやすいなと実感します。ウェブではこうはいきません。


さて、ライフハック(lifehack)という言葉になじみがない方もいらっしゃるかもしれませんね。はてなダイアリーのキーワードには

効率良く仕事をこなし、高い生産性を上げ、人生のクオリティを高めるための工夫
と書いてあります。一言で言えば「生活の知恵」というようなもので、暮らしを快適にするための、ちょっとしたコツやノウハウのことを言います。

考えてみれば、「おばあちゃんの知恵袋」という言葉が示すように、伝統的には長い間の人々の暮らしの中でちょっとしたコツや工夫の知恵が受け継がれて来たのでしょう。しかし、生活が変化してゆく中で、「おばあちゃんの知恵袋」には入ってなさそうな知恵の必要性が高まって来ました。具体的にはデジタル技術の下での知恵です。ライフハックという言葉は、そうしたデジタル世代に求められる知恵を意味していると感じます。実際、本書が教えてくれるようなノウハウやコツを既に実践していらっしゃる方も多いことと思います。ごちゃごちゃと言うよりもBiz.IDのLifehackのページを眺めていただくのがよいかもしれません。また、「超」整理法レポートの書き方ノートの取り方などは十分にライフハックと言えると思う。

また、本書でも最初に取り上げている GTD (Getting Things Done)との関わりでもライフハックという言葉は意味を持ちます。GTD とは仕事をスムーズに進めるための方法論です。「時間と仕事の整理術『GTD』がカルト的人気」というhotwiredの記事もあるくらいに人気のある方法論です。詳しくは本書の第一章がGTDについてなので、それをお読み頂くか、提唱者である David Allenの『仕事を成し遂げる技術—ストレスなく生産性を発揮する方法』(原題は Getting Things Done -- The Art of Stress-Free Productivity)を読んで頂くのがベストでしょうが、ウェブ上でもlifehacking.jp の gtd のページのように丁寧に説明してくれるウェブページもあるのでそちらをご覧頂くのもよいと思います。また Biz.IDの「はじめてのGTD」という記事も参考になるでしょう。


さて、本書はそうしたライフハックを十個のカテゴリーに分けて掲載しています。

  1. GTDと時間管理術
  2. 時間と場所をHackする
  3. メール活用術
  4. デスクトップ快適化
  5. デジタルデータ攻略術
  6. モバイル環境快適化
  7. ビジネスマンの知恵
  8. オフィスワーク2.0
  9. 知性を磨く
  10. ちょっと一息
項目を見ても分かる通りPCと連携しつつの知恵が満載されています。

私が個人的に「これは!」と思ったのは

  • A4用紙を手軽に三つ折りする
  • 書類の束に「背ラベル」をつける
  • 「類語事典」で表現力アップのススメ
でした。封筒に入れる時など、A4を三つ折りにする機会は多いので知っておいた方がいいでしょうし、書類の束に「背ラベル」をつけるクリップは凄いです。「おお、絶対このクリップ書うぞ」と思いました。

本書はWindows環境に向けて書かれているので、私はGentoo Linuxを利用している関係上、そうしたハックのほとんどは無視してしまいました。Windowsを利用している方ならば、もっと多くの「これは!」というハックを見つけることができると思います。

本書の中に、あなたの仕事の質を向上させるアイデアが必ずあると思います。是非、書店で手にとってみて下さい。


3分LifeHacking

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書評/IT・Web

2007-04-25

[書評] 基礎からわかるナノテクノロジー / 西山喜代司

ソフトバンク サイエンス・アイ新書 2冊目。

はじめに、このシリーズ自体について一言。

前回のはとても辛口だったが[1]、こうした科学に特化した新書の創刊自体はとても評価している。特に本シリーズ以前の科学系の手に取りやすいシリーズといえば、講談社のブルーバックスがメインで、ナツメ社の図解雑学が更に簡単な入門を果たしているという印象だった。そしてブルーバックスは点数が多く、また出来不出来、難易のバラつきがあるという選びにくさがあり、図解雑学も一見するよりは内容は深いものの、どうしても簡単な紹介しかできていないという印象だった。

こうした状況に、このサイエンス・アイ シリーズは全部横書き、二色刷り、200頁前後、参考文献に索引も備え、900円で登場した。まず、シリーズの形式を、先行シリーズをよく調査し研究した上で決めていると思う。図と文のバランスがとれている。また、ゆっくりとした発行からも、ていねいに内容レベルの統一を図っているのがうかがえる。こうしたシリーズが出てくることで、一般的な科学知識も向上していくのではないかと思われる。


さて、本書はナノテクが幅広い分野で力を発揮する将来になくてはならない技術であることを教えてくれる。

順番に見ていくことにする。

まず、第一章でチョコレートや化粧品など身近な例に目を向けつつナノテクを簡単に紹介し、第二章ではナノテクを「見る」技術としての顕微鏡技術の発展を紹介する。できるだけナノテクを目で見ることで親しみやすくしようとの配慮だろう。写真やイラストも豊富であり、この試みは成功と言える。

以降は個別の技術の紹介となる。素材、情報技術、バイオ、環境の各点に焦点をあてて紹介している。難しい話(といっても高校化学程度で、数式も出てこないのだが)はコラムになり別扱いになっていて簡単に読み進められるよう配慮されている。

第三章では「炭素は結晶構造で姿を変える」と題し、フラーレンやカーボンナノチューブ、カーボンナノホーンなど、ナノテクを利用した軽量にして強靭な素材を紹介する。そして軌道エレベータや大型ディスプレイ、燃料電池への応用の話も、それぞれ2頁ずつ紹介している。

第四章では情報技術、半導体技術などへの応用を紹介し、ナノデバイス、DNAコンピュータ、量子コンピュータ、電子ペーパ、ナノガラスなどを紹介する。どれも現状から言えば夢のような小型、大容量、高速なコンピュータを提供する技術である。DNAコンピュータは2002年に開発が成功したらしく、従来3日間かかった遺伝子解析を約5時間で処理できるようになったとのこ。また、量子コンピュータは実験には成功しているものの実用レヴェルになるには20年から30年を要すと言われているらしい。

第五章ではナノテクとバイオテクノロジーを利用したオーダーメイド医療やドラッグデリバリー、ナノマシンなどを紹介する。オーダーメイド医療とはDNA解析を利用し個人の体質にあった医薬品をうみだす技術のことで、ドラッグデリバリーとは副作用の高い薬品などをカプセルに入れ患部にのみ送り届ける方法。この分野も急速に発展しているらしく、ドラッグデリバリーシステムの実用化は一部で始まっており、オーダーメイド医療のためのDNA解析チップの実用化は2010年ごろの予定とのこと。ナノマシンと聞いて攻殻機動隊の「マイクロマシン療法」を思い出したが、実現はナノマシン療法になるのだろう。

第六章では環境問題へのナノテク応用を紹介する。酸素と水素を使用したクリーンな燃料電池、人工光合成、ナノフィルター、光触媒などを紹介している。

最終章ではナノテクノロジーに関連した世界情勢や政治の話を説明する。日本はナノ分野、特に部品技術や家電、原材料技術でアメリカと比べ優位に立っているが、システムとしてまとめあげる力がアメリカには及んでいないとの認識を示す。その上で、医療、環境、IT、材料各技術に大きな影響を与えるナノテクの発展の必要性を説いている。死因のトップであるガン、将来の人口爆発に伴う食糧難、宇宙産業の発展、エネルギー問題……これらの問題に対しナノテクは大きな力を発揮すると著者は訴える。

私たちはこれまで、科学技術の進歩によって、利便性や快適性などの恩恵を受けてきました。しかしこれと引き換えに、地球の資源やエネルギーを消費した結果、オゾンや炭酸ガスの放出といった環境問題に直面しています。もちろん、いまから自動車やテレビ、携帯電話を捨てて原始時代の生活に戻ることなどできません。このため私たちが取り組まなければならないのは、この恩恵を損なうことなく、エネルギーの消費を最大限に抑制した技術・産業を作り出すことです。このときこそ、ナノテクノロジーが大きな力を発揮するでしょう。

個人的には免許もなくテレビもケータイもない男であるが、著者の訴えは妥当なものとも思える。現行の高エネルギー消費の生活を持続させるためには、今後、一般の人もナノテクに高い関心を持ち、資金面、人材面での充実が図られてゆかねばならぬことは確実に思える。是非とも幅広く読まれて欲しい本である。


本書の内容面での出来不出来を論じるほどに知識がないのであるが、全体の印象として幅広い見識を持った方が丁寧に書いてという印象を受ける。

また、文や主張にクセもなく、かなり過敏な私がすんなり読めたので、恐らく誰でもすんなりと違和感なく読み進められると思う。本書の読後に安いハリウッド映画のように「科学技術発展に対する警鐘」を鳴らそうという気にはならなかった。本書を読んで科学アレルギーの反応が見られる人は日本社会での日常生活は不可能と思う。最後に引用したような主張も極めて説得力があると思う。

上記より本書は万人におすすめできる。本書を読んで、若い人ならば人類の将来に思いを馳せて、勉学にいそしんで欲しいものだし、若くはない人も思いを馳せて、イベントに行くなり、寄付をするなりして欲しい。

細かい点だが誤植に気がついた。こういうのは出版社にメールでも打つべきかとも思うが、ひとまず気がついた所だけを以下に書いておく。

  • p.77:ファンデルワールス力が「ファンデルワース力」になったり「ファンデルクールス力」になったりしている
  • p.166: 「がん細胞の幹部」とあるが患部の間違いでは?

また、本当の本当に細かい点だが紙質が私の好みではない。なんというか指にまとわりつくし、全体の厚さも200頁程度なのに250-300頁以上はある厚さになっている。カラー刷りのため仕方ないのだろうか。

また、本当に細かいというか、ある意味どうでもいいのだが、「章」の中に「Part」があるのも違和感がある。章の下の単位は節であって欲しいし、英語なら「Section」の方が違和感がない。Partだと「部」という感覚が私個人にはり、章よりも大きな単位という気がしてしまう。

繰りかえすがこれは細かい点で、イラストや図表など充実していて編集の方はいい仕事をしていると評価したい。こんな偏屈な男の難癖を気にせず、これからも頑張って欲しいと思う。


[1] digi-log: [書評] やさしいバイオテクノロジー / 芦田嘉之を参照。ただ本そのものの評価は高く、バイオテクロノジーを総括したい人にはいい。「辛口」なのは、あくまでも著者の考え方そのものに、私個人が否定的だったため。


基礎からわかるナノテクノロジー

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書評/サイエンス

2007-04-21

ノートの取り方(1)

ノートの取り方については ノートの取り方(2) 8つのルール にて、もっとコンパクトに書いたのでよろしければご参照下さい。

***

冒頭から他サイトからの孫引きで恐縮だが、アランは『教育論』において

何度も読むこと、暗誦すること、さらにいいのは、ゆっくりと、版画家の慎重さで書くこと、立派なノートに、美しい余白をとって文字を書くこと、充実した、均衡のとれた美しい文例を筆写すること、これこそ、思想のための巣をつくる優れた、柔軟体操である。
と語ったらしい(林明夫, 「ノート」の作り方を考える──役に立つノート作りの基礎知識. 開倫塾)。現代の若者の一番の贅沢は、こうしたノート作りと言えると思う。紙もインクも安いものであり、若者が本当に充実した一生保存するに値する美しいノートを作成するのを妨げるものは何もないだろう。

ノートは実用的

そして、そうしたノートは贅沢なだけでなく、有益であり、受験などというセセコマシイ目的に対しても効率的だと私は思う。

もちろん受験に学校の授業ノートを使うという発想は、私の学生時代にはあまり一般的ではなかった。せいぜい中間や期末テストの時に利用する程度で、受験にそうしたノートを利用するなどという発想は誰も持っていなかったように思う。現在も同じだろう。

しかし、以前にも以下のように述べたように、日々の授業のノートを利用するのは、とても有益だと私は考えている。

日々の授業はとても大事であり、ノートは宝である。

一年生の時から三年生の時まで、きちんとノートを取っておいて、それを全部きちんと机に並べておけば(三年間のノートくらい並べられる大きさの机がなければ、親に泣きつくこと!)、無理して復習なぞしなくても、無意識に「ああ、このノートにはあんなこと書いてあったな」と脳味噌が勝手に復習してくれるのであり、これはとても重要な勉強法である。

そして気になったらたまにパラパラめくればよい。大学ノートは通常30枚の紙切れの集まりであり、パラパラやるのに時間はかからない。何回かやっていれば自然に頭に残っている筈だ。これで学校のテストも大学入試もほとんどいける筈だ。(digi-log: 知的生産の技術 / 梅棹忠夫 (1969))

一度コストを掛けて入力した情報を使い回すメリットを列挙してみると
  • 知識を生活の思い出が強力にサポート:くだらん記憶ほど想起を補助する。「確かあの時……」という人間の優れた時間的把握能力を利用
  • ノートに日々接することで身体化:「確かあそこの……」という人間の優れた空間的把握能力を利用
  • 教育費節約:塾も参考書もいらない
  • 繰り返し読むことで、一回の読み速度はどんどん向上する:自然速読。パラパラで十分
などが思い浮かぶ。

こうした効率を一度でも意識したら、ノートを書き捨てているのは勿体ないと思う。

いかに書くか - コーネル大学式ノート作成法を参考に

こうした勉強法には、それなりのノート作りの姿勢が必要になる。真に長い付き合いができるノートとは絶対に追記可能でなければならない。

ここでアメリカで最も広く使用されているらしい「コーネル式ノート・システム (The Cornell Note-Taking Sytem)」(あるいは、コーネル大学式ノート作成法)を参照しておこう(Brigham Young University, Learning Strategies - The Cornell Note-Taking System)。この方法はコーネル大学の Walter Pauk に開発されたもので、紙面を三分割して、授業後の追記に対し十分に備えた方法である。詳しくはリンク先を参照してもらうとして、その手順は以下の6段階からなる。

  1. Record 授業を記録
  2. Reduce(Question) 知識をキーワードや質問の形式に絞り込む
  3. Recite 質問や答だけを見て答を暗唱
  4. Reflect 内容を熟考
  5. Review 復習
  6. Recapitulate 要約
そして、それを以下のように分割したノートに書いてゆく。

2. 知識をキーワードや質問の形式に絞り込む
3.質問や答だけを見て答を暗唱
1.記録
4. 内容を熟考
5. 復習
6. 要約

これはノート法というより勉強の流れそのものと言えるかもしれない。

まず授業を記録してゆき、次に横の空間に、ノートの内容が答となるような見出しや質問を作成する。ノートに「ヨガとは心の作用の止滅である」と書いてあったら、例えば「ヨガとは?」って書いておく。

そして、本文のスペースを隠しておいて、見出しや質問だけを見て、そのノートの本文を唱える。つまり「ヨガとは?」という質問だけを見て、「あー、心の作用の止滅……だったよね」みたいに。こうして記憶を定着させる。

後は、本文を見て復習したり、その内容が何を意味するか、他の知識との関係はどうかを考え、調べた情報などを書き加えてゆく。そして知識が総合的に定着したら、要約を下のスペースに書いておく。

見て分かる通りに、1のrecord以外は授業の後の作業である。ノートは記録した後からが勝負なのである。以上の作業を続けてゆき、ノートとつきあう中で学習はおのずと定着してゆくのである。こうしたノート作りは、それ自体が完結した優れた学習システムであると言えよう。

ノートと長く付き合う

そして長年付き合ったノートは捨ててしまうのではなく一生取っておけたらよいと思う(私は捨てたが)。高校程度の知識は常識なので、案外思い出したい時がくるものである。ネットがあればいいという説もあるが、馴染んだノートを利用するというものいいと思う。また大学の授業も当然、キチンとノート作りしておいて一生使えるようにすると有益だと思う。

話はこうした「公式」なお勉強だけではない。

広く自分の日記や雑記、備忘録、読書録、アイディア帳なども管理できているとよいと思う。ただ一度書いて、あとは捨てるというのはもったいない。資源や時間は有効に利用していものだ。それに人間同じような問題を周期的に悩む傾向があるので、記録があると結構簡単に問題は解決に向かい、過去の経験をいかした進歩ができるものだ。

また、こうしたノート法は書物やテキストを利用した勉強にもそのまま応用できる。今度は書物を自分のノートと思い、変更を加えて付き合ってゆくのだ。サブノートを作るのなら、元の本を「ノート」にしてしまった方がよいと思う。書物への書き込みも、「いや、これはノートなんだ」と思って書くと身に付くものである。

ただし、そうした勉強のためにも、自分でノートを取るという基本のテクニックを身につけている必要があると思う。授業ノート作りやサブノート作りがしっかりできる能力がある上でないと、問い掛けや要約を作ることはできないだろう。そのためにも、早いうちにメモ程度のノート作りの段階は脱却して欲しい。

大学ノートに一つの主題を語ること

最後に、もし君が高校生なら、長い長い文を一冊の大学ノートに書くことをお勧めしておきたい。日記のような雑多な文の集合ではなく、ある一つのテーマについて思ったことを、一冊の大学ノートに綿々と書き連ねてゆくのだ。若い内なら書けば書くほど書くことが湧いてくると思う。誰に読ませるものじゃない。恐れ知らずに、論理も説得力もなく、ただただノートに書いてみるといいと思う。この時、ルーズリーフとか原稿用紙では駄目だ。勿論、鉛筆じゃ駄目だ。ボールペンか万年筆で、いかなる「編集」も許さない状態で、綴じた大学ノートにびっしりと書くことである。

私は高校時代から大学の夏休み前にかけて(夏休みにPCを購入しそういう営みは絶えた)こうしたことをよくしていた。B5のノートの表紙に例えば「美について」と書き、アウトラインも構成も何もなく、ただただ書いていった。前日に書いた所を次の日に目を通し、再び書き継いでいった。ただ連想というか内部の思索的な声にのみ従うのである。

何日かするとノートは書物のような雰囲気を出してくる。というのは、ある分量を過ぎるとパっと眺めて全体が把握できなくなるのだ。自分の書いている、自分の思索であるのに、自分で把握できなくなった瞬間に、ノートが書物に化けるのである。構成も何もないから論旨は滅茶苦茶で入り組んでいるから「把握」ができないのは仕方ないにしても、たかだか自分で考えていることの全体が把握できなくなるのは何とも不思議な体験であった。

こうした営みは無駄に思えるかもしれない。事実、PCを購入した18の私は、PCの編集能力の高さにひきつけられ、大学ノートを捨てた。大学ノートに書きつけられた無数の言葉はあまりに再利用しずらかったからだ。端的に「非効率」と当時の私は感じた。次第に大学ノートは私の視界に入らぬようになり、最低限の日記くらいは保存しておいたが、高校時代からの「音楽」「文学」「哲学」などに関する大学ノートのほとんどは紛失してしまった(日記的文書も3、4割は紛失したと思う。授業のノートも捨てた。また、高校時代に原稿用紙やルーズリーフ、破ったノートなど「紙片」に書いた文書は例外なく紛失した。綴じないと紛失するものである)。

しかしながら、いま思えば、ああした編集性のない、ただただ、ひたすら言葉を紡いでゆく作業というのは、なんと言うか、美しかったような気がしている。変な文だがそう感じる。大学ノート一冊に、十代の熱意のままに美や善を語り抜いた大学ノートは、今となればどんな書物よりも手にとりたい書物である。

もし、君が高校生ならPCなんてスケベな道具は使わずに、良質なボールペンあるいは万年筆と、良質なノートを買って来て、編集性のない環境でひたすら目的もなく、ただ一つのテーマについて語り抜いてみるとよいと思う。そしてそうしたノートを大切に保存し、たまにパラパラとめくり、書き込みをしてゆくとよいと思う。そういう能力や感性が、とても大切だと思うし、そうした行為は若い内しかできないものだ。

保存について

高校生のための読書法(2) 本の読み方と題する文書で以下のように書いたので参考にされたい。

書式とか、そういう小細工を教えるのは嫌だが、一つだけ教えたいことがある。それは三冊を一冊にまとめた方がよいということだ。大学ノートが三冊くらいになったら表紙を破り捨て(いや、綺麗に取ってもいい)、ノリで三冊をくっつけて、ホームセンターで買って来た製本テープを背表紙に貼るとよい。大学ノート一冊では薄過ぎるので紛失の可能性があるからだ。是非、やっておいた方がよい。俺は何冊ものアホなノートがどっかに行ってしまい、いつか家族に発見されるのではないかとヒヤヒヤしている。そんな不安は君たちにさせたくない。
事実、30枚の紙の束でしかない大学ノートは薄すぎて背表紙を作れないので、三冊程度をまとめて製本テープを貼って背表紙を作り、タイトルを書いておいた方が見栄えもするし、管理も楽である。ノートのくせに書籍のような雰囲気を出すので気分もよいはずだ。

2007-04-19

[書評] タオの気功 - 健康法から仙人への修練まで / 孫俊清(1995)

気功の本を読むのは初めてである。どれを読もうか迷っていたが、何と言っても仙人の修練と書いてあるのにひかれた。

著者は道家気功の主流をなす武当龍門派の第19代伝人とのこと。やはり著者は仙人なのだろうか?武保門氣功のサイトには師の顔写真の他、師の揮毫した所の書や絵画も掲載している。

類書を読んでいないので比較もできないが、イラストも多いし、説明も丁寧。動作の数も多い。一つの動作を学ぶのに2-3週間必要だろうから、この本一冊で何年間もかかるものかもしれない。本書は仙人の道への基礎となる養生気功が中心に扱われており、目の回復につながる気功も載っているのも特筆する点だろう。本書だけでは仙人にはなれないが普通の人には問題はない満足のいく内容となっている。

さて、そうとは言え目標は大きくしたいである。本書は仙人の道程についても記述がある。それによれば仙人への階梯は以下の7段階である。

段階修練内容気の移り変わり肉体・精神での変化
1後天の精、気、神をコントロールする。気功の体操を通して、調息、調心、調身を図る。後天の精、後天の気、後天の神体調がよくなる。丹田を中心としてからだが内部から暖かくなる。
2後天の精、気、神をある程度治められるようになったら、先天の精に移る。動功と平行して静功を始める。先天の精健康になり病気をしなくなる。
3いわゆる動功の修練に習熟した、一般的な気功師の段階。気の流れを強く感じながら、動功と静功を行う。先天の気治療が可能になる。丹田のエネルギーを識別する。
4動功から次第に静功の修練が重要になる。胸を空にする静功を行う。先天の神胸の叡智が目覚め、様々なことがわかるようになる。いわゆる神通力がつく。
5動功はしなくてもよい。修練は静功のみ。心身共に空気と一つとなる静功を行う。虚空第三の目が開き、神の世界や霊の世界が見え、そこに入ることもできるようになる。
6静功と精神修行のみ。先天真一の気金丹の根を得る。
7俗世界を離れた修行を行い、悟りを開く。仙人・神様金丹を創って、仙人になる。
尚、1-2段階は健康のため、3段階は気を自由に操るとあり「この段階までは人によってスピードの差はあれ、基本的には、養生気功などの動功を中心とした修練を続けていれば、誰でも比較的簡単に到達でき」るとのこと。

次に4段階は潜在能力開発であり、5-7段階は本格的に悟りを開くためとある。虚空の世界とは「物質や肉体以前の根源的なエネルギーの世界」とのこと。そして、先天真一の気とは万物の主で、天地の元たる本源的な生命エネルギーのこと。すべてのものの「祖気」ともいうらしい。

これらの段階は1段階から順に始めなければならないとのことなので注意は必要である。つまり、仙人を目指していても、まず養生気功からというわけである。当然のことだろう。

私は早速、本書の腰掛けの気功法にとりくんでいる。一カ月ほど続けると「丹田」に温かい感じが出てくるとのことなので、楽しみである。

2007-04-17

[書評] ロジカル・コミュニケーション / 安井正(2007)

本が好き!からの献本書評。これまたとても良書。別にただで貰ったら褒める訳じゃない(けなした本もあるよ。コレとか、コレとか、あとコレとかコレとか)。なんと11本中7本も「当たり」なのである。これは凄いことである!

ただ、これは考えてみれば当然かもしれない。どの本も、出版社がブロガーに本を配ってまで、流行させようとしている本なのだ。それだから、どれも良くできているのは当然と言えるだろう。こうしたシステムを考えた本が好き!には本当に感謝である。

日頃の感謝を表してバナーをはっておく
かけてもいいが、このサイズのバナーを使用したのは私が初めてだろうと思う。


さて、与太話はこの変にして書評をすることにします。

本書は「明快で、論理的で、説得力のある伝え方」を習得させてくれる本です。本書ではそうした伝え方を「ロジカル・コミュニケーション」と呼びます。著者は二十年以上に渡り、企業を対象にした研修で「ロジック」を教えてきたとのことで、事実、有益な実例や経験談を豊富に与えてくれます。

本書評では、まず本書のシンプルで親しみやすい特徴を説明し、次に、その特徴を保ちながらも有益な能力開発の書物となっていることを述べました。

1. 本書の特徴とは?

本書の特徴を簡単に言うと、典型的な日本人のコミュニケーション上の問題を解決すべく、シンプルな方法を実例を通じて、親しみやすく学べるように配慮した本と言えるでしょう。

この点を内容面と外見面のそれぞれについて考えてみましょう。

まず、内容面では3点あります。

  1. 日本と欧米の土壌の違いを意識。「日本人のための」ロジカル・コミュニケーションを提唱。
  2. 方法を「情報のアウトライン化」一本に。理解・習得を容易に。
  3. 豊富な具体例を掲載(良い例、悪い例)。実例を通して学習できる。
以上より、内容面については、豊富な具体例の「演習」を通じ、日本人の典型的問題点に対処すべく、シンプルな「ロジカル・コミュニケーション」の能力を開発させてくれると言えるでしょう。

次に外見面の特徴も考えてみます。同様に3点あります。

  1. 豊富な図表と親しみやすいイラスト、キャラクター(蛙)
  2. コンパクト(19cm x 126p)
  3. 全ページカラー
総じて言えば、類書と比べても、特に親しみやすく、読みやすい本作りが徹底されていると言えるでしょう。

2. シンプルなのに有益なのは何故か?

本書はシンプルで親しみやすいですが、とても有益です。その理由は2つあります。

  1. アウトライン化の習熟に特化している点
  2. 豊富な実例を通じて学べる点
それではこの2点について順番に説明していきます。

2.1 アウトライン化の特化は有益

まず、アウトライン化の習熟に特化することが有効である理由は3つあります。

  1. アウトライン化は必要不可欠のテクニックであり、全てのコミュニケーション技術の土台となる
  2. 順番付けて話すことについて、特に日本人は無頓着
  3. 事前にアウトラインにして整理することで、その他の日本人の典型的なコミュニケーション上の欠陥も抑制できる。

一つ一つ確認をしましょう。まず、アウトライン化が土台になることは当然と思います。他の技法では使える場面、使えない場面がありますが、全体を見通してから話すこと、その枠組みを組み立ててから話すことは、習熟すれば、いかなる場面でも使える技術です。

次の点も自明でしょう。この文書のように、順番に話す人間は日本人の中ではごく少数です。多くの日本人は思い付いたり、感じた順番で話すために、そのうち何を話してるのか自分でも分からなくなってしまうのです。そして、そうした話し方を許容する文化があり、どこかで自分で努力しないとなおりません。

最後に、情報をアウトラインにすることで日本人の典型的な問題が防げることについてです。これについては本書で「日本人に共通する話し方の問題点」を11個の問題点を列挙しています。

  1. 結論がはっきりしない
  2. 曖昧な表現を好む
  3. 話の主体性が見えない
  4. 論理的飛躍が許される
  5. 話の内容が連鎖的に変わる
  6. 質疑応答の直接性を重要視しない
  7. 言葉数が少なく、コミュニケーションに対する意欲が低い
  8. 重要な内容と瑣末な内容が混在する
  9. 短かい単語、句、センテンスを用いる
  10. 話の展開が予測できない
  11. たとえ話や事例を積上げて話を構成する
その中でアウトライン化で改善できる点を挙げてみます。1、4、5、6、8、10、11の7個です。つまり、2、3、7、9以外はアウトライン化に習熟すれば改善するのです。つまり、初歩段階では、アウトライン化の習得に特化することが何よりの改善につながるというわけです。

2.2 実例の理解も有益

次に、本書がこのアウトライン化の能力を高めるのに、豊富な実例を与えてくれることの有益さを考えますと3点あります。

  1. 話し方は知識ではなく能力。使えて初めて役に立つ。
  2. 「悪い例」を読むことで気がつかなかった問題点が明らかになる。
  3. 「良い例」を読めば改善の度合いが納得できる

こうして実感を伴なった理解で、実際の能力向上へとつながる訳です。こう考えると、演習問題のない論理の本は本当に役に立つのか疑問です。

3. まとめ

以上、長々と本書のシンプルで親しみやすい特徴と、特徴を保ちながらも有益な能力開発の書物となっていることを述べました。しかし肝心の方法についてはわざとふせました。結論は一つです。哀れな「アウトライン化ってなんだよー」「おーい、グーグルさーん」という皆さん、本書を書いましょう。(ちなみにフォントの問題じゃありませんよ、念のため。)

本当に有益なコト書いてありますし、実例も良いものです。更に巻末には25の整理パターンも載っていてこれまた非常に有益です。

ちなみに本書の能力と関係なく書いているので、本書評を基にして、本書を評価するのはいけません。ちなみに、私は「3点あります」と書くたびに、クスクスと内心で笑ってしまいましたよ。ホントに3つになるか分かりもしないのに適当に数を合わせて書きました。まったく困った男です。


ロジカル・コミュニケーション

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書評/教育・学習

2007-04-16

最近の十訓

1. 誠実たれ

誠実とは、自分の原則に忠実に従うことに他ならない。

誠の真心を持ち、素直に自他に向かい、筋を通して生き抜くことこそ、己にとっても、また他人にとっても真の誠実とよべるものである。

他の何者にも惑わされてはならない。人の言う言葉に迷い、悩み、従うのは不実である。軟弱である。

八方美人にしても何の役にも立ちはしない。ただ己の筋を通せ。

2. 己の心身と志をまもれ

身体を健やかに保つこと、心を豊かにすること、志を打ち立て、日々努めること。この三つこそは、最も重い掟であり、生き抜く中において、これより重い掟はありえない。

この原則を蔑ろにして人は何事も為すことはできぬ。一時の無理が、身を滅ぼし、ひいては友を失うだろう。己も守れぬ者に何ができようか。この問、よくよく心に刻むべし。

3. 鍛錬が己をつくる

「人柄」「人格」は一日でできるものじゃない。ただ常日頃の鍛錬が作るものである。鍛錬とは数年単位、数十年単位の稽古のことである。

そうした鍛錬が習慣となり人柄となり人格となるのである。

「やるべきことは何か、それに取り組んでいるか、なぜ取り組んでいないのか」と日々問い、日々、積み重ねよ。よい習慣を身に付けること以外に成長はできぬ。裸になった時、身についている習慣以外に頼れるものはない。

また悪癖は身に付きやすいものである。よくよく気をつけねばならない。

4. 姿勢をただせ

姿勢は全ての礎と心得よ。身構えだけではない。気構え、心構え、全てを正せ。

万物は天地より始まる。天地を感じることが全ての基本となる。天地の間の己の小ささを感じつつ、ひたすら前へ進むべし。

何なら一度、苦手な人と話す時に胸を張って、顎を引いてみろ。自然に声も肚から響くだろう。そうすりゃ、相手の反応が変わるものである。人間とは所詮この程度のことで損したり得したりする程度の動物である。よくよく吟味あるべし。

5. 食事に気をつかえ

食に感謝して食え。「俺の金で買ったんだ」などと奢るなかれ。あとでキツいシッペ返しが待っている。

粗食と節食に努めよ。むやみに煙草や酒はのむな。

美食、大食、麻痺物の快楽は身体を犠牲にするほどのものではない。食に汚ない人間は大成できぬと心得よ。

また箸の上げ下げは育ちを見る格好の機会である。食事の作法が出来ぬ人には時間や約束を守らない人が多い。

6. 精神を豊かにしろ

瞑想、禅をしろ。神仏を信じないでもいいが、敬え。文芸、芸術に時間をさけ。偉大な人物に学べ。

ただそういう事は人に押し付けるな。キモいぞ(私)。

いざという時に、精神の豊かさが己を助けるものである。本業以外に一つか二つはプロレベルの芸事をやれば相乗効果が生まれる。

7. 時間の主たれ

志を立て、予定を決め、日々を記録せよ。そして定期的に反省せよ。

特に物の貸し借り、金銭の出納、日々の行動の記録は大切である。これができないと遅かれ早かれ混乱が訪ずれるものである。

まとまった反省の時間をしっかり取れば、後の時間は目の前のことに専念できる。記録と反省は時間の節約になると思い、日々励むべし。

言うまでもないが、人を待たす人間は論外である。余裕を持って行動し、待ち合わせ場所で本でも読めばよい。目上の人を待たせたら、まず話にならないと心得よ(また、そういう「目上の人」(=成功している人)は驚くほど時間より早めに来るものであり、万が一にも、絶対、遅れない行動をする。私の経験上、ギリギリに来るような「目上の人」は存在しない)。

8. 迷うな、迷ったら休め

人の頭は気づいたり、閃いたりするためにある。迷ったり、悩んだり、探したり、思い出すことは、大の苦手と諦めよ。強制した頭脳の使い方の中で、やる気は失われるものである。この悪循環は誠に愚かである。

馬鹿の考え休むに似たり。調子が悪ければ、いくら悩んだって答は出ないし、探したって出てはこない。迷うってのは疲れてるんだからおとなしく休め。

答はひょんな時に出てくるものである。これは真理である。

9. 言葉は言葉、人は人

「正しい」「常識」「普通」などはただの言葉である。従う必要はない。ただ己の本心に誠実であればよい。必ず報われる。

「正しく生きよう」と苦しむのは本末転倒である。大切なのは己であり、言葉は言葉、他人は他人に過ぎぬ。心ない人の言葉は耳に入れない、頭に入れないこと。本当に自分のことを思ってくれている人は変なことなんて言わないものである。行動で示すのみ。

また、人の話に変な評価・質問・助言・解釈などするな。ただ聞き捨てて行動で示せ。

10. 返事と挨拶は大切にしろ

出会いと別れ、出入り、感謝と謝罪、謙遜と祝福、食事の挨拶、返事はしっかりやれ。若いと恥ずかしいかもしれないが、少々演技臭くても構わない。やればコツが分かる。とにかく誰にでもきちんと挨拶しろ。そして、それだけやって黙ってろ。絶対に無駄口は叩くな。

顔は晴れ晴れとしていろ。たとえ詫びる時でも真剣に詫びながら、晴れ晴れとした表情でいるべきである。誰も人の「深刻」な曇った顔なんて見たくない。「深刻」と「真剣」は似ているようで結構違うものである。また、変な顔をしてたら更に怒りたくもなるものである。人は往々にして「悲しみや反省の表情」と「嫌悪やふてくされの表情」を間違えるものである(これは対人心理学の実験による統計的な事実である)。

そもそも「お詫び」が出来る場面なんてのは、自分のとっては深刻かもしれないが、相手にしたら深刻な場面でも何でもない。「困った顔」をしている暇があれば、詫びる中で、相手を気持ち良くさせることが大切と心得よ。相手は困らせたいのではなく、自分を気持ち良くしたいだけなのである。

お詫びの言葉もできないで、言い訳をする奴は最低である。小さなことでも、まず詫びろ。言い訳なんて絶対に吐くな。相手が言い訳を尋ねてくれた時にのみ、感謝して言い訳をしろ。誰も言い訳なんて聞きたくもない。迷惑掛けられた上「そりゃ大変だったね」「それじゃ仕方ないね」なんて言いたい人はいない。

周りに「不思議と怒られにくい人」「かわいがられる人」がいたらよく見てみろ。きちんと挨拶が身についている。

余裕があれば御辞儀、頭の下げ方も吟味すると良い。対人関係ではあれこれ悩むより、挨拶と返事、姿勢と声や表情、人を待たせないなどの基礎を徹底させる方が費用対効果が大きい。

2007-04-14

[書評] ワインの個性 / 堀賢一

ワインを楽しむあなた、いや、酒を楽しむあなた、いや、食を楽しむそこのあなた! 是非とも本書を読んで欲しい! そして考えてほしい。ワインの個性について。

***

私はワインを好む。

こう言うと反応は決まっている。「えー。あのボルドーとか、ブルゴーニュとかって?」「アー、アレ。ボジョレーでしょ、ボジョレー。あんな、浮かれた日本人の象徴みたいの好きなの? あれって原価200-300円なのをさ、1200円もかけて飛行機で運んでんだよ?」「あー『あの腐葉土の匂が……』とか、ごちゃごちゃ言うの? うまけりゃいいじゃん、うまけりゃ。だいたいさ、ウンチクこねるってのはさ、本来の自然な味覚ってのをさ……」

私は言いたい。いや叫びたい!違う! 全然違う!それには理由があるんだ!そして、この本をそうした人に渡したい。いや「講義」をしたい。頼む。お願いです。ワインを楽しむあなた、いや、酒を楽しむあなた、いや、食を楽しむそこのあなた! 是非とも本書を読んで欲しい! そして考えてほしい。ワインの個性について。

そうすれば、きっとあなたもワインを好む人間が理解できると思う。勿論、結局ワインを飲まないし、そうした人々の営みは嫌いかもしれない。ただ、そうしたワインを愛する人々の営みの大切さ、重さも分かってくれるんじゃないかと思う。

ワインを愛する人々が、他の人から奇異に映るのは、ワインには強い「個性」があり、そして、それを認められているからである。いや認めるどころじゃない。個性を愛しているからである。つまり「うまい」「まずい」という二元論的、数値的な枠組みから、ワインは個性を主張する事で自由なのである。「うまくて安いな。がっはっはー」ではないのである。ワインを愛する人は、その自由と個性を愛し、それが故に語り合うのである。普通の人は飲み物の個性など愛しはしない。だからワイン好きは変人に見えるのである。

ワインの個性、ワインの自由が理解できない人は、ちょっと考えて欲しい。「ワインの旨さとは何か?」と。

カシスの香りが気分を爽快にしたかと思うと、腐葉土の匂いが胸の奥深い所をくすぐる。タンニンが強く舌を痺らせ、一方で酸味が強く唾液を刺激する。それだけじゃない。新鮮な果実を啜るように新鮮に弾けた後には、太陽に照らされた土を頬張るように、乾き、喉をつかむ。こうしたことが一度に起こるのである。それは一度限りの素晴しい体験なのである。

ワインはただおいしさを越えた、その「個性」で私達を掴むのである。ワインの旨さとは定義不能であり、そもそも定義することが無粋である。そんなことは、ワインを育む土壌や気候、技術や文化への冒涜でしかない。個性の文化の産物、人の営みなのである。どうして比べられよう?

勿論、作り手は究極のワインを作るだろう。しかし、それはただある「個性」を生むのでしかないのであり、そこにこそ、 ── つまり、自然な・あるべき何者かが創造されることにこそ ── ワインの究極があるのだと感じている。

いや、私の説明は誤解と嫌悪を与えるだけだ。本書はそのことをとても分かりやすく、時に高度に教えてくれる。私のように宗教ぽかったり、イヤミっぽかったり、ぶっとんだりなんてしない。科学的に、知的に誠実に深みと豊かさのある説明をしてくれる。まさにワインへの慈しみを感じさせてくれる。人柄が滲み出ているとも言える。

いや、それだけじゃない。本書はそうした「個性」が現在崩壊に向かっていることも教えてくれる。詳しくは本書を読んで欲しいが、一つの例を出せば、大規模な流通の中で、その土地の風土とそこに暮らす人々の営みの産物としてのワインの個性は次第に絶滅に向かっている。何度も飲んで初めておいしさが分かるようなワインは、その文化を知らない人々には売れない。そして、すぐにおいしさが分かるワインばかりが流通するようになる。そして古いタイプの頑固なワインは姿を消してゆく。

「それでいいじゃん」とあなたは言うかもしれない。「酒なんて酔えればいい」「うまけりゃ、それでいい」と言うかもしれない。

なるほど。確かに。うん。ばいばい。

そうじゃないあなた! 共にワインを語りましょう! もちろん費用はあなた持ちで!

最後に、これくらいの知識と愛情を持った批評家が他のジャンルにもいて欲しいと思う。ワインは、その営みの層の厚さが、やはり凄いと感じる。




ワインの個性
  • 著:堀賢一
  • 出版社:ソフトバンククリエイティブ
  • 定価:1890円
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書誌データ / 書評を書く

[書評] 集中講義! 日本の現代思想 / 仲正昌樹(2006)

一言で言うと、この本、高校の時に読みたかった。

私のアンテナが低いだけと言われれば、それまでだが、戦後の日本の思想史の本はあまり無かった気がする。こうした流れとして同時代を意識する視点がもう少し早くに欲しかった。

現代の若い人はどうか知らないが、私の高校時代には「教養」はすっかり滅んでいた。今も「思想」「文芸」を語る友を持つ高校生は少ないだろう。だからこそ、こうしたよくまとまった良書があれば便利だと思う。過去を知っておくことは現状を理解するのにとても役に立つ。語り会う友がいなくても、状況を教えてくれる先輩や先生がいなくても、この本を読むことで日本の学者・批評家が何をしてきたのかが大概はつかめると思う。そうすれば、どこをつつけばいいかも読めてくると思う。

他にこの手の本を読んだわけじゃないが、この本、詳細で幅広く、かつよくまとまっていると思う。著者の高い力量を感じる。それに索引どころか年表まで付いている。これは本当にお薦めである。著者の他の書籍も読みたくなった。

内容の詳細は本書で……と言いたいところだが、それじゃあ、あんまりなので話を流しておく。まず、マルクス主義の話から始まり、それが日本の現状とズレてるのに、ゴリゴリやって空回りという前提話をやって、そこに消費文化の成熟で「なんとなくクリスタル」な時代となると、理性批判なフランス現代思想がやって来て、ジャーナリズムや広告などの影響下に「日本版現代思想」となりニューアカになると。んで、それが90年代には終焉に向かい、思想の「スター化」ガ「カンタン系デフレ・スパイラル」し「水戸黄門化」したとのこと。

と、上の説明で分かる人には分かるだろうし、分からない人は本書を読めばよい。著者はニューアカに拾うべきものがあると考え、拾っていてそれは「大きな物語を無くしたポストモダン」「今は大きな物語生成過程」という話になるだろうか。ついでに君が高校生ならば丸山真男『日本の思想』でも押さえておくとよいと思う。これは戦前の思想家への批判であり、日本の「知識人」の悪いクセを批判している。これは今でも当然ながらほとんど変わらない。きっと、日本の思想の伝統にうんざりし、「哲学書」など読む気力が失せること請け合いだ。いや、また、そこに怒りを感じて一念発起する諸君もいるだろうが……

90年代の私の思い出

私は1980年生まれなので、思想闘争の後の時代しか生きていない。しかも中学の時にオウムのサリン事件があり、「イデオロギー」や「宗教」 = ヤバいというのが、同時代の共通認識だった。追い討ちをかけるように中学校の最後の時期から高校は「エヴァ・ブーム」となり、「自我」とか「アイデンティティー」の問題とかは、すっかりオタクな響きを持った。まあ、青少年の自然な自我への問題意識の欲求が、オウムの後の時代にあって正面からぶつかることができぬままくすぶり、それが倒錯した形で、つまり、その響きがある種のファッションとして現出したのだろう。

周りはオタクだらけだった(マンガ、アニメ、アイドル、アダルト)。オタクじゃなけりゃ、スポーツ・バカ(サッカー)であり、ギャンブル・ジャンキー(競馬、パチンコ、麻雀)だった。

私は哲学・文学オタクだったので、図書館で世界の名著や文学全集の全体にかみついていたが、それは「現代」まではカヴァーしていなかった。そして、本書のような適当な戦後日本思想史の本にも出会えなかった。だから、自分の同時代にどういう思想があるかなんて知りもしなかった。当然、そういう話をする友人もいなかった。

日本の戦後の思想に興味がなかったわけじゃない。気にはなっていた。しかし「スキゾ・キッズ」とか「ポストモダン」とか、そういう言葉を聞いただけで「うへっ! 80年代クセエ」という気分になってしまった(今の人には私は「90年代クセエ!」と言われるんだろうな)。まあ、読まないわけじゃないんだが、ほとんど食わず嫌いで、私はニュー・アカを避けてしまった。

そして現代の日本人が大体どういう枠組みでものを考えているか知らないままに、様々な活動を通じて意見を発信してしまった。私にとって予期せぬ誤解が生じたのは当然であった。特に自分より少し上の世代の高校の時にニューアカに触れた人は、私にとって意味不明だったし(フランス現代思想にのめり込み、意味不明な日本語を駆使する)、それより上の世代の多くのマルクスへの深い哀愁(?)がある人も意味不明だった。この本を読んでいれば、多くの誤解は防げたものと思う。

そもそも、今の若い皆さん、80年代に現代思想ブームがあったってこと自体、知ってました? っていうか、意味分かります?

[書評] ビルとアンの愛の法則 / ウィリアム・ナーグラー、アン・アンドロフ

マヌケなタイトルである。が、内容はよかった。

タイトルはマヌケだが、ビルは

対人関係法および効果的対人関係論コミュニケーションの専門家。この分野では合衆国を代表する精神医学の権威。ミシガン大学、カリフォルニア大学を卒業、現在はハーヴァード大学のフェロー(特別研究員)
らしく、アンは
幸福かつ永続的対人関係に関する医療アドミニストレーターで、カウンセラー
とのことで、肩書で判断するのもアレだけど、全然マヌケでもなんでもない。

更にタイトルにこだわってみると、原書のタイトルは"Dirty Half Dozen"とある。finalventさん曰く

原書の標題が"Dirty Half Dozen"とあるように、ラッパーならすぐピンとくるだろうが、"dirty dosens"(参照)の洒落だ。といっても、会話のノリの良さというより、この本では、悪口の言い合い状況への対処という含みがある。
とのこと。wikipediaによると
ダズンズ(The dozens)とはアフリカン・アメリカン(黒人)の伝統、習慣のひとつ。観客がいるところで、1対1で互いに相手の母親に関する罵りの言葉を言いあって、先に怒ったり言い返せなくなったほうが負け、というゲーム。うまい人は尊敬される。目的は罵倒や喧嘩をすることではなく、馬鹿にされても怒らない精神力の強さや言葉の表現力を競うこと。フリースタイルのラップの源流といわれ、ラップの発展の一要素といわれている。(ダズンズ - Wikipedia)

この本は「そのダズンズを半分にしましょ」ということかな。んで、6コの法則を教えてくれるというわけ。本当は結構シャレた題名だったのである。が、まあ、日本文化で悪口を言うような芸能はないわけで、いい題名が付けられないのは仕方ないかな。

この6コの法則を導くため、ビルとアンは

長年、幸福に暮らしている夫婦を観察した。歳月とともに深まる幸福な仕事上の対人関係を維持している人々を観察した。長い間、幸福な友人関係を維持している人々を観察した。何がどのように行われるかを観察し、どんな行動様式が対人関係を支え、繁栄させるかを観察した。私たちは、永続する幸福な対人関係に共通して見られる要素や特徴を搜し求めた。そして、発見したのである。
とのこと。決して、ただのボヤキではないのである。

薄い本なので一時間もかからず読了できると思うが、その6コの法則とは

  1. ロマンスを殺せ
  2. フェアプレーは禁物
  3. しゃべるな、待て
  4. ウソも方便
  5. カネを支配せよ
  6. 些事こそ全て
である。ただ、くれぐれも法則の文字面じゃなくて、内容までしっかりと理解して欲しい。

書いてあることは、結構当たり前だったり、アメリカ人より日本人がフツーにしてそうに見える。しかし、どれも極めて「オトナだな」と感じさせてくれる。ちょっと常識とズレているが、「ああ、確かにな」と思わせる。それに文書にまとめてあるので、とても説得力がある気がして「やってみよう」という気にさせてくれる。案外「オトナだな」と感じさせる考えは、あまり文字にはなっていないものだ。

本はとても薄い。私はぶ厚いのがお好きなのだが、逆にこういう「実践的」な本は薄いのに限ると思う。厚い本だと、頭がゴチャゴチャしてしまうからだ。薄い本の、それも一部を一つずつ実践していくのが一番だと思う。この本でも、月曜日から土曜日まで一日一つの法則を実践し、日曜日はやすんで、また次の週に実践することを薦めている。いい方法だと思う。

そして目のつく所に置いておき、たまにパラパラとやって頭と体に滲みこませることだろう。

最後になるが、皮肉を一つ。

本書が提案している生き方は、そもそも日本人が特に好きなライフスタイルだったと思う。「ロマンス」と関係なく暮らし、対人関係上の摩擦を極度に嫌い、そもそも話すことそのものを嫌い、嘘も方便で、些事にうるさいと言えば、少し昔の日本人の典型である。

それをアメリカ発の文化(特に音楽や映画など)の影響で、日本人が次第に捨てていったものだと思う。恋もするし、自己主張もするようになった。つまり、日本人はアメリカの影響で意識して "dirty dozen" するようになったのだ言えないかと思う。いや、勿論「消費社会」「男女均等」とか色んな理屈もあるだろーけどね。

そう考えると、アメリカの学者さんに治す方法教えてもらうというのも……ねえ。

いや、いいものは、いいんだけど

[図書リスト] ヴィパッサナー(vipassana)瞑想 / テーラワーダ / スマナサーラ

異論あると思うが、個人的には、精神のための瞑想はヴィパッサナーがベストと思う。ヴィパッサナー (vipassana) は洞察という意味。宗教的・神秘的な信仰はほぼ完全に必要ではない。スマナサーラは心にとっての筋トレのようなものと言っていたと思う。

『自分を変える気づきの瞑想法—やさしい!楽しい!今すぐできる!図解実践ヴィパッサナー瞑想法』

まずはこれ。シンプルで分かりやすい。簡単にできる。私の場合2、3日で効果が出た。

うすそうに見えるが、ツボをがっちり押さえてあるので、以外に深い。知識を得てゴチャゴチャしてきたら、この本に戻るとよいと思う。あるいは、この本一発をしばらくやってるのも良いと思う。

ブッダの瞑想法—ヴィパッサナー瞑想の理論と実践

丁寧に作られた本という印象。豊富な情報を提供してくれる。

ただ厚みがある訳で、頭がゴチャゴチャしてしまう危険性はあるので注意。

呼吸による癒し—実践ヴィパッサナー瞑想
未読
ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門—豊かな人生の技法
未読
ミャンマーの瞑想—ウィパッサナー観法
未読
ついに悟りをひらく—七覚支瞑想法

ヴィパッサナー瞑想がより深く理解できる。

ブッダの実践心理学シリーズ

ブッダの実践心理学1 物質の分析
悟るための物理学。非常におもしろい。常識と違うのだが、妙な説得力がある。
ブッダの実践心理学 2. 心の分析

心が細かく分類されている。瞑想状態の分類とも。

ブッダの実践心理学3 心所(心の中身)の分析

心の中身の分類。よくまあこれだけしっかりと分類したものだと驚く。2巻で分類した心と心の中身との対応表があるが、なんとも、凄い体系を作ったものだと関心する。

2007-04-11

場の学の簡単なまとめ

私なりに考えている「場」の学ですが、様々な人が考えている問題ですので簡単にリンク集を作っておきます。
* 西田幾多郎
京都学派の創始者。参禅経験とヘーゲル的哲学観を基礎に、東洋思想と西洋思想をより根本的な地点から融合させようとした。『善の研究』が特に有名。詳しくは書籍の他、Wikipediaの西田幾多郎の項目やなどを参照。青空文庫にもテキストあり

* 清水博
東大名誉教授。『生命を捉えなおす—生きている状態とは何か』『生命知としての場の論理—柳生新陰流に見る共創の理』『場と共創』『場の思想』など著書多数。松岡正剛の千夜一冊の『生命を捉えなおす』 も参照。所長を勤める場の研究所も活発に活動している。今度、勉強会に行こうと思っている。

* 野中郁次郎
知識経営論の生みの親。暗黙知や形式知のダイナミックな運動を理論家したSECIモデルで有名。「場」を通じての知識創造についても注目している。KMの分野では場は Ba として英語になっているらしい。『知識創造企業』は日本の経営学者が世界的に評価された数少ない名著とのこと。Wikipediaの野中郁次郎の項目参照。

* 岩井國臣
参議院議員。サイトでは「場」について以下の文章などが読める。
西田哲学「場所の論理」について
清水博が唱える「場の文化」
共生の論理

* Topological Turn und japanische Philosophie
ドイツ語。左肩に漢字の「場」と大きく書いてあり、「Was bedeutet Ba? (場とは何を意味するか?)」と書いてある。幅広く場の情報を提供している。

* ドイツ語 Wikipedia の Spatial turn の解説
私が翻訳した ドイツ語版 Wikipedia の Spatial turn の記事もよろしければご覧下さい。

3時間でレポートを作成する方法

大学時代に編み出したレポート作成です。これで優がちゃんと来ました。困ったものです。

何事も時間よりも要領です。

参考文献も調べていない場合にはもう一時間くらいは必要です。

1) 参考文献を読み漁り、ネタをカード化 (一時間以上) その際、必ず使えそうなネタをカードに書きこむ。意味はよく分からなくてもよい。作者・タイトル・ページ数・感想なども忘れずにメモする。

2) カードを机の上に並べ、アウトライン作成 (三十分前後) 意味内容でグループ化してゆく。自分のアイディアがあれば新しいカードに記入する。カードの集まりからストーリーを作り出してアウトラインを作成する。必要なら序論を作成する (これは最後に書いてもいい) 。

3) カードをもとにして本論を書く (一時間前後) アウトラインを肉付けするようにして文章を書く。書くとアイディアが出ることもあるので、新しい発想があればその都度カード化し、カードの並びやアウトラインも変更してゆく。

補足説明

a) 書きながら悩まない 「読み込み」「カード化」「カードの並び替え」「アウトライン作成」という手順を重視すると短時間で書けます。書きながら悩むのは一番時間をロスします。

b) 自宅のネットでもレポートは書ける 分野にもよりますが自宅のネットだけでレポートを書くことも十分できます。大学を経由することでネット経由で論文を取得できるからです(ポートフォワードの設定とか必要かもしれませんが)。ただし柱になる本は最低でも一冊は必要でしょう。

c) カードを並べるのはPCでやらない カード化して並べる・グループ化するということはコンピュータ上では無理だと思います。ディスプレーでは一覧表示や並び換えが机の上のカードほど気軽にできないからです。沢山の思考支援ツールがありますが、私は紙のカードを利用することを強くお薦めします。私は色付きのポストカードを愛用しています。ポストカードではジャンジャン使うのに気後れするという人は、いらない紙を適当なサイズに切ったものを使えばよいでしょう。

d) アウトライナーを使う 執筆に際しては構造を意識して書くためにもアウトラインプロセッサを利用するとよいでしょう。それをテキストで出力し、最終的にワードで体裁を整えるという手法を取るのが一番効率的と思います。

[書評] 出現する未来 / ピーター・センゲ等

「学習する組織 (Learning Organization)」のセンゲが、軽薄なハウツーではない、人格そのものの成長を促す企業や個人のあり方を説いています。局所の幸福が最大で全体が不幸になるという現在のシナリオは破滅に陥ると考え、より皆が豊かになれる方法を模索し、その人格成長を前提とした問題解決の方法を「U理論」として本書で紹介しています。

本書は、仏教や道教などスピリチュアルなものから多くを学んでおり、その点で嫌悪を感じる人もいるかと思います。ビジネス書の分野で、これほどスピリチュアルなものが出てきたことにも注意が必要でしょう。個人的には、「場」に特に大きな注意が払われていることにも注目したいものです。

さて、その「U理論」とは、ごく簡単に言えば、一度、二元論的な判断を中止し、静かに全体を内省することで、より正しい行動が直感的に生まれ、結果として自然に、素早くできるようになるというアイデアです。ビジネス書が提案する内容というよりは、瞑想の方法のようです。

このU理論を細かく見ていきましょう。

この理論は、大きく分けると以下の三段階から成ります。

  1. sensing 「感じる」こと - 世界と一体化すること
  2. presincing 「ある」こと - 後に下がって内省すること
  3. realizing 「実現する」こと - 自然に素早く動くこと

U 理論の名称の由来は、この三段階のsensing が世界へと下へ下りてゆく感じであり、presencingはその深い世界を感じ、最後に realizing で上へ上へと上るという全体のイメージが、「U」という字を連想させるからということです。「U」という字も、一度、下へ下り、また、上る形だからです。

そして、各 sensing, presencing, realizing は三つの状態に分けられます。

また、sensing には以下の三段階があります。

  1. 保留 - 状況に埋没している二元論的な判断を保留
  2. 転換 - 世界全体への視点・態度の転換
  3. 手放す - 我執などを捨てること。これは presensing にもかかわる

また、presencingも同じく三段階があります。

  1. 手放す - sensingにもかかる。
  2. 受容
  3. 結晶化 - 気づき(Mindfullness)が明確に現れること。これはrealizingにも関わる

そして、最後の realizing も同様に以下の三段階があります。

  1. 結晶化
  2. プロトタイピング - 原型作り
  3. システム化

sensing と presencing の中間の「手放すこと」と、presencing と realizing の中間の「結晶化」は、両方に含まれますので、全体としては 3 * 3 - 2 = 7 つのプロセスになります。このプロセスの中で、個人や組織の学習や成長がはかられ、複雑な問題にも有効に対処できるということです。

他の瞑想などとの比較

一瞥して明らかなように、極めて瞑想や禅の世界と似ていると感じられることでしょう。著者もそれを認めており、特に南懐瑾(ナン・カイキン、香港の中国語圏で非常に有名な学者。四書五経、仏教、道教などの東洋の学問の他、武術、医術も達人らしい)の瞑想の7段階との類似を指摘しています。それは以下のものです。

  1. 意識
  2. 停止
  3. 平静
  4. 静寂
  5. 安穏
  6. 熟考
  7. 到達

これは「U理論」と比べると「実現 realizing」の家庭が少なく、より世界の静けさを直視するところに重点が置かれていると言えるでしょう。

恐らく直感を有効に利用する、瞑想のパターンはどれも同じようなものになるのだと思います。参考のため、ヨーガと仏教の方法論を見ておきましょう。

ヨーガは以下の8段階です。

  1. ヤマ - 戒め
  2. ニヤマ - 心掛け
  3. アサナ - 姿勢・ポーズ
  4. プラナヤマ - 呼吸の制御
  5. プラティヤハラ - 意識の制御
  6. ダラナ - 集中
  7. ディヤナ - 熟考
  8. サマディ - 一体化
これは「U理論」や南懐瑾の瞑想と比べても、その以前の段階(戒めや姿勢、呼吸の制御など)が多いと言えるでしょう。

また、仏教の八正道は以下の通りです(これは、私個人の解釈なので、あてにしないで下さい。普通は逆に書きます)。

  1. 正定 - 禅定の「定」。坐禅。正しい心身の定まり
  2. 正念 - 正しい気づき
  3. 正精進 - 正しい努力
  4. 正命 - 正しい生活
  5. 正業 - 正しい行い
  6. 正語 - 正しい言葉遣い
  7. 正思惟 - 正しい思考
  8. 正見 - 正しい見識
これは、ヨーガと逆に、「実現 realizing」 の部分に重点が置かれています。そこで得た知見を元に努力して、生活を変え、行いを正し、最終的に思考もただして、正しい見識に到達しようというものです。

一方仏教では「三学」と呼ばれる修行方法も提唱されています。

  1. 戒 - 戒め
  2. 定 - 禅定。坐禅
  3. 慧 - 智慧
これを含めるとヨーガと同様に戒めも大きなウェイトを占めます。三学は全体の道筋であり、「八正道」はその一部であり、戒めは当然守っているという前提の上なのでしょう。

また、参考のため七覚支(bodhi-anga / bojjhanga)も書いておきます。これは私はよく分かっていません。

  1. sati-sambojjhanga 念覚支 - 気づき。
  2. dhamma-vicaya-sambojjhanga 択法 - 法 Dharma として現象が分析される
  3. viriya-sambojjhanga 精進覚支 - 努力(ただし、自然に湧いてくるようなやつ)
  4. píti-sambojjhanga 喜覚支 - 喜び
  5. passaddhi-sambojjhanga 軽安覚支 - 心の静まり
  6. samādhi-sambojjhanga 定覚支 - 一般に禅定と呼ばれる状態。統一。
  7. upekkhā-sambojjhanga 捨覚支 - 落ち着く。

「U理論」「南懐瑾の瞑想」ヨーガ、仏教などで、直感知を利用しようという姿勢は同じながらも、視点や目標の差による微妙に違いが興味深いと思います。

一方有名な『7つの習慣—成功には原則があった!』では以下のようになり、ほとんど関連がありませんが、そこもまた興味深いです。

  1. 主体性を発揮する
  2. 目的を持つ
  3. 優先順位を明確に
  4. 共益(WinWin)
  5. 理解してから、理解される
  6. 相乗効果(シナジー)
  7. 刃を研ぐ

まとめ

私としては、二元論を離れた思考が広まること、特に、「対象」ではなく「場」という視点による思考が広まることは大いに喜ばしいことで、こうした書物が、幅広く読まれ、実際にグローバル企業の思考が変化していってくれると嬉しく思います。西洋が貪欲に東洋の智慧を学んでいることをつくづくと感じます。これはインターネットを通じて海外のリーダー育成の状況を眺めていても感じていたことです。

ただし、スピリチュアルなものはどうしても胡散臭いので、著者らの実力ならが、どうにかもう少し実証的な方向で話をもっていけはしないのかと、少しばかりは残念に思います。

2007-04-02

音と色の瞑想法で7つのポイントを身に付けよう

世の中には瞑想法と呼吸法が腐るほどある。TM瞑想やらヴィパッサナー瞑想、数息観などなど。その文脈は様々だが、普通に考えて心や体を高める方法である。よく「脳のトレーニング」などと言われる。ここではチャクラの色と音に着眼した瞑想を紹介する。

その一方で「チャクラ」と言われる身体意識がある。まあ胡散臭いが、身体の重心バランス、神経、重要器官などの意識の総称と考えればどうだろう? 「チャクラ」じゃ胡散臭いし、本当の「チャクラ」を知っている人からクレーム来たら嫌なので、本文では「7つのポイント」と呼ぶ。「ポイント」という英語に逃げるあたりが、いかにもである。

この7つのポイントは以下である
1. 頭頂 (頭の一番高い所)
2. 眉間の奥 (頭部の中心)
3. 喉 (首の中心)
4. 胸の中心
5. みぞおち
6. 丹田(おヘソのちょっと下)
7. 会陰(肛門と性器の間)

さて、この7つのポイントだが、解剖学や物理の話をすれば、科学が好きな人も納得するんじゃないかな? 説明を読んでちと考えてもらえば「そりゃ、当然か」という気分になってくれると思う。

まず、物理的に考えてみる。まず、体幹の重そう各パーツを考えてみると「頭部」「胸部(肋骨と肩)」「臀部(骨盤)」となる。物体を運動させることは、その重心に力を与えることなわけで(そうしないとブレて回転してしまい、運動は極めて効率悪くなる)、当然、私達は体幹を動かす時に無意識に上の三つの重心を計算している筈である。そして、この三つを繋ぐ「首」「背骨(腰上部)」があり、これも考える必要があるだろうし、体幹の上端と下端を「頭頂」と「会陰」と考えればよい(頭頂は天を向き、会陰は地をさす)。どう考えても、身体は頭・胸・尻を動かすために、この七つの場所を割り出している筈だし、逆に、この重心を利用していない運動は極めて効率が悪くなるだろう。これは「運動」の他「静止」の時もそうであり、この七つのポイントを重力線に対して、直線上に並べることで力の効率は良くなる。

実感的に知りたい人は、お手元のハンマーを手に取っていただきたい。ハンマーというのはヤミクモに叩いてもエネルギー効率が悪いことはご存知だろう。きちんとハンマーの重心を感じながらエネルギーを送ることで、少ない力で効果的に釘を打てるのである。体幹を使う運動もハンマーを使うのと同様の原理になる筈である。

一方、解剖学的に考えても、七つのポイントは意識される筈であろう。神経で考えても、各チャクラは神経叢の場所と考えられる。私は医学に無知であるので、神経叢を「神経の配電盤」と説明しているページWikipediaの自律神経系の記事などを読んで欲しい。また、そうした神経の場所に意識を向けたり、さすったり揉むことで、なんとなく体にも良さそうである。

体幹各パーツ重心と神経の要所が重なるのは、人間の進化とか普通に考えても当然じゃないかと思うが、ここら辺は本当に無知なので省略。とにかく7つのポイントとは、体幹の重要な重心であり、
神経の集合場所であり、意識しとくとお得なポイント
とでも理解しておいて欲しい。

「え? でも、そういうのって脳とかが自然に計算してるでしょ?」と賢いあなたは思うかもしれない。そう、そういうポイントを本来、私達の体は無意識に割り出して運動に役立てている筈である。しかし、人間、歳を取るにつて頑固になるものである。変な姿勢や変な歩き方を覚えてゆき、そんなポイントなんて、おかまいなしな人間になってしまうのである。首は曲がり、背骨は曲がり、腰痛と肩凝りに苦しんでも尚「ああ、仕事が忙しくて」とか言って、全然、アホウな体の使い方を直そうなんて思わないのである。

実際、大人になると素直な感性というのは失われるらしい。銭湯にでも行って、椅子に坐る人々の姿勢を見てみるとよい。大人は皆、体幹の重心なんて全く意識していない。筋肉があるから、曲がった姿勢を支えていられるのだろう。そして、そのツケはしっかり払っている。

一方、子供は皆、まっすぐ座っている。小学生の高学年になるとダメである。もう「カッコ」をつけている。もっと小さな子供である。本当に自然にまっすぐ座っている。「素直」というのは、こういう事を言うのかと感心する。頭が思いからこそ、頭の重心の位置に極めて敏感に反応している。かくして頭痛、肩凝りには無縁なのである。我々は下手に首や肩の筋肉があり、頭部を変な場所に置けるからこそ、肩やら頭やらを痛めてしまうのである(勿論、その他の理由だってあるが、結構、顎をひくだけで肩凝りが無くなる人も多いと思う)。

***

さて、そんな7つの重心・神経ポイントだが、「さあ、これから意識して暮らしましょう」と口で言われてもなかなかできるもんじゃない。

そこで私は考えた、題して「音と色の瞑想法」である。楽しく7つのポイントを習得し、かつ、絶対音感や色彩の訓練にもなるかもしれない練習法である。ただし、私が本日、本を読みながら突発的に思い付いただけの瞑想法なので、効果が出るかは実証されていない!

方法は簡単である。坐るでも立つでも歩くでもよい。体幹が直立した姿勢で、7つのポイントを意識するのである。ただし! その時に7つのポイントの色と音を意識するのである。チャクラと音と色で書いた通りである。

赤、ド、会陰(肛門と性器の間)
橙、レ、丹田(ヘソ下三寸)
黄、ミ、鳩尾
緑、ファ、胸の中心
水色、ソ、喉(首の中心)
藍(紫?)、ラ、眉間の奥(頭部の中心)
シルバー、シ、百会(頭頂)

最初は音階練習をしてみて、聴覚意識には音、視覚意識に色、身体意識はポイントの場所に向けるのである。

慣れれば、知っているメロディーでも口ずさみならが、楽しく7つのポイントを楽しんでみるとよいと思う。これは「移動ド」で考えても「固定ド」でもよいと思う。

メロディーをやるには色と場所が足らない! という人は、場所と色を追加してみる。ちなみに、とてもいい加減であるので、注意。

ワインレッド、ドのシャープ、会陰と丹田の間
淡い緑、ミのフラット、丹田と鳩尾の間(おヘソ?)
深いブルー、ファのシャープ、胸の上部
赤紫、ラのフラット、口の奥
クリーム、シのフラット、おデコの奥

また、和音をやると更にいいと思う。同時に二箇所以上のポイントを意識し、色を思い浮かべ、音を出す。それらが、個性を守りながらも、ふわっと溶けてゆくのを感じる。なかなか、味わい深い世界である。

逆に色を見て、ポイントと音を意識することもできるかもしれないが、そういうアイディアは浮かばない。ひとまず、音先行で十分である、もしかしたら対位法も可能かもしれないし、そうしたらバッハとかやれたらとても気持ち良さそうでわくわくする。

こんなこと興味を持つ人も限られるだろうし、興味を持っても出来る人も更に限られるだろうが、そういう人は、是非。

チャクラと音の色

またアヤしい世界の話。今日ヨーガの本を読んでると、チャクラに色があるとある。「ふむ」と読むと、これは「なんだ、音の色と同じじゃないか」と。

ちなみに、俺はチャクラなんて感じてない。ただ手から気は出せるみたいで、彼女や親、友達などの肩凝りや頭痛を治したり、悪化させてみたりしている。んで、暗い部屋で白い壁に手をかざしてしばらく見てると、指先から白いモヤのようなのがうっすらと見える気がしないでもない。まあ、幻覚だろう。

ただヨーガをやってるとチャクラを重心のバランスと感じたり、「ツボ」と感じないと、あまり意味がない。だから、チャクラというのも「あっやしーな」と思いながらも意識はしている。ちょっと、7つのチャクラを意識して立つだけで、姿勢は格段とよくなるし、第一、人に与える印象がまるで違うのである。ま、どうでもいいけど。

んで、本題。俺は特別な訓練も幼児期の音楽環境もなかったので完璧な絶対音感はないのだが、うっすらと音に色は感じる。いつから感じたのか定かではないが、ギターで耳コピをしたり、相対音感の練習をした時には、その前に既にあったという気がする。んで、これが絶対音感バッチリな人の色ともたいがい重なるのであり「そんなもんか」と感じている。音に感じる色は個人差はあれ方向は同じなのである。

だいたい「ド」は赤、「ファ」は緑、「ソ」は青(水色)である。こんなこと書くと音に色を感じない人でも、音楽カジった人は「はっはーん、そりゃハ長調の三和音で……」とか言いたいだろうが、まあまて。だからと言って、その「三和音の機能」に色を連想させるってトコも不思議じゃないかい?

んで、「ラ」は紫か藍色ってのも固い。音色ではヴァイオリンを感じる人がほとんど。そして「シ」は銀色というかシルバーである。まあ、紫もちと入るかな。

んで、「レ」がオレンジってことになって、「ミ」が黄色ってことになる。ここは、俺は若干違和感がある(まあミの黄色はいいんだけどね)。レってのは思い入れが強過ぎる音なので、一言で色を言うのが難しいのかもしれない。レのストレートさってのはギター弾きにとって難しくないかい? Dmのストレートな哀愁とDのストレートな開放感。うーん、オレンジより、緑よりも緑な緑を感じてしまう。

それにミのフラットなんかをどうしても緑を淡く幻想的にした色に感じたりする。うーん、難しい。いや、まてよ、オレンジって書くからあれだけど、茶色系って考えると「土」なわけで、レは土色ってのは個人的にしっくりくるかな……。

ちなみに、ミのフラットのクリーミーな緑は一番、誰でも感じやすいんじゃないかな。ま、どうでもいいんだが。

んで、今あげた音の色はチャクラの色である。チャクラってインド系の知識は弱いので、普通の呼称を使うと、

会陰(肛門と性器の間)は赤でド、

丹田(ヘソ下三寸)はオレンジでレ、

鳩尾は黄色でミ、

胸は緑でファ、

首は水色でソ、

眉間は藍色でラ、

百会(頭頂)はシルバー

である。

個人的には「なるほど!」である。こう考えるとインド音楽のラーガとかそういうのも調べたくなるが、そんなこと調べてると何してる人なのか自分でも分からなくなるので却下。ただ、ちとそういう音と色への意識を持った瞑想とかもしてみると、暇人の極みになれていいかもしれない。案外、同時にチャクラと絶対音感が発達して、ますますアヤしい人になれて幸せかもしれない。

音と色の瞑想法で7つのポイントを身に付けようという記事も書いてみた。参考にどうぞ。

ロックの歴史(2) ロック誕生〜60年代後半

前回の記事である「高校生のための芸術講座(2) ブルーズ(ブルース)の歴史」まででコアなデルタとテキサスのブルーズの概観はできた。そして、それがアメリカ社会の都市化に合わせてシカゴ・ブルーズやモダン・ブルーズになることを簡単に述べた。

さて、それでは予告通り、今回はロックの歴史である。既にロックなんて君達ガキの音楽というよりはオヤジのものという感覚があるかもしれない。現にアメリカではロックの人気をヒップホップが越えたと聞いている。しかし、それでも尚、未だにブルーズフィーリングを受け継いだロックが若者を魅了し続けているのは事実だろうと信じている(君達が知っているか知らないが、最近でもThe White Stripesなどは結構、昔の曲をやっている)。簡単な概説に過ぎないが、君達が少しでもアメリカの歌心の深い伝統のようなものを感じてくれれば幸いである。

ヒルビリー(カントリー&ウェスタン)とフォーク

まず前回がブルーズのみであり白人が完全無視されていた。しかし、ロックを語るためには当然、白人の影響を抜きには考えられない。簡単な説明をしたい。色々あるが、ここではそれは「ヒルビリー」と「フォーク」の二つをひとまず簡単に眺めておくことにしよう。

まず「ヒルビリー(Hillbilly)」とは簡単に言えば、アパラチア山脈周辺に昔ながらの生活を続けるアイルランド移民の民族音楽であると言える。アイルランドと言えば「酒と女と唄」なわけであり、彼らも本国を離れ、山で暮らすうちに音楽も変化したのである。特徴として軽快なリズムでフィドル(速弾きなヴァイオリン)やバンジョー、あるいはマンドリンなどの音が彩りを加えている。このヒルビリーが元になり「カントリー&ウェスタン」となったと単純には言えると思う(現実にはこういう話は単純ではないので難しい。アメリカには様々な移民がいて、それらが複雑に影響し会ったのだろうから)。アメリカの田舎の白人が集まって陽気に踊ったり、あるいはタフなカウボーイが酒場で惚れた女を思い出している場面の音楽を思い浮かべてくれればよい。まず、こうした音楽伝統があったのだと理解して欲しい。

次に「フォーク(Folk)」というジャンルがある。今話しているのは70年前後の「反戦フォーク」ではなく(勿論、それにも繋がるが……)、「アメリカの伝統フォーク (American Traditional Folk)」 である。勿論、ラテン・アメリカのフォルクローレでもない。フォークという語は元々「民族」という意味であり、その意味から言えば民族の唄、民謡というのが原義であろう。このジャンルはそれこを奥深く、私も何が何だか分からないのだが、ひとまずジャズやブルーズなどの黒人ジャンルではなく、1910年前後以前にアメリカで自然発生したり、クラシックとは異なるコンセプトのもとに作曲された音楽と言えるかもしれない。よく分からない。ひとまず、学校でも習うフォスターの音楽のようなものを思い浮かべてもらうといいかもしれない。かと思うと全然曲調の違う曲も沢山あるのだが……。

何も知らない高校生の君を混乱させても仕方ないから、ひとまず図式的にこう理解してもらいたい。まず、ヒルビリーというアイルランド系のノリと哀愁ある音楽があり、フォスターの曲のような叙情の曲があった、と。まあ、こんあ話は与太話だから真面目な君はジャンル分けを自分で調べてみるとよい。そこには泥沼が広がっている。ジャンルなどというのは、後世の人間が勝手に付けたただの言葉なので、自然発生の音楽の場合、そんなもんである。ひとまず、君の理解を促進するため、私の話はかなり正確じゃない。こんな与太話、絶対に信じちゃ駄目だし
絶対に人に話してはならない。

こんな言葉より、実際に「アメリカ伝統音楽の父」のレッド・ベリー (Lead Belly, 1888-1949)(黒人)(Internet Archiveに音源あり)や、ウッディ・ガスリー(Woody Guthrie, 1912-1967)(白人)などを聴いてもらうしかないかな。まあ、それは入口なんだろうね。ボブ・ディランは「現行の音楽をすべて忘れて、ジョン・キーツやメルヴィルを読んだり、ウッディ・ガスリー、ロバート・ジョンソンを聴くべき」と言っているらしい。

R&B (リズム・アンド・ブルーズ)から白人ロックン・ロールの成立 (1950年代)

さて、こうして白人の状況も分かったら次に、知って欲しいのは戦後の黒人音楽のもう一つの流れである。というのは、都市の黒人が皆マディーやハウリンだった訳じゃない。都市で、ある程度白人を視野に入れて音楽的に成功してゆく黒人がいたのである(本当は戦前も沢山いるのだが、省略)。そうしたデルタ・ブルーズと比べたら洗練されて甘くノリがよく、親しみやすい音楽を広く「リズム&ブルーズ」と呼ぶ(また、既にそうした音楽を「ロックンロール」と呼ぶことも可能であるし、R&Bの意味が変化した現代では、そちらの方がよく聞かれる)(ここにはニューオリンズ・ジャズの影響も忘れられないが、ジャズはまたいつか)(そういやゴスペルの話はどこでする?)。

ロックンロールの系譜をたどるとすれば、有名なのは、ファッツ・ドミノ (Fats Domino, 1928-)、「ロックの生みの親」リトル・リチャード (Little Richard, 1932-)、「Johnny Be Good」のチャック・ベリー(Chuck Berry, 1926-)などである。

さて、そうした黒人の音楽のR&Bをラジオなどで聴いた白人の若者は魅了される。これが「ロック第一世代」とも言うべき面々であり、ここにロックンロールが始まった(あるいはロックンロールではなく、ロカビリーとも言う。これは Rock と Hillbilly による造語である)。

ここでかのエルヴィス・プレスリー(Elvis Presley, 1935-1977)が登場する。君達は知らないかもしれないが、エルヴィスとは、一定以上の年齢層にとっては神であるので注意が必要である。抜群の歌唱力でリトル・リチャードやアーサー・クラダップ(黒人ブルーズ歌手)などのR&Bを歌うほか、ビル・モンロー(白人カントリー・ブルーグラスの巨人)などを歌うのも、ロックンロールの成立を考える上で興味深いと思う。

残念なことに、君達はエルヴィスと言えば「ラブミーテンダー」であったり(いや、あれはあれでスゴいけどね……)、復活後のラスヴェガスでの中年の脂ぎった映像かもしれない。それは違う。勿論主観の問題もあるだろうが、彼の初期の若々しい映像を見れば、現代まで続くロックのヒーローの原型は間違いなく彼であることに気付くだろう。エルヴィスはロックを語る時に避けては通れない。是非、黒人色の強かった初期のものから聴いて欲しい。

白人の音楽としての「ロック」と黒人の「ソウル」の成立 (1960年代)

ここからが、本題である。エルヴィスら「ロック第一世代」の影響を受けた次の世代の白人が、ロックをより自分達のものにしてゆく。そしてバンドを組み、自らの思いを曲にするという現在にも繋がるスタイルが成立する。かくして白人の音楽としてのロックは本格的に産声を挙げ、60年代後半の高みへと向かうのである。

その一方で、黒人達の間では「ロックンロール」ではない「R&B」も引き続き続いてゆき、その一部は「ソウル」へと向った。アメリカの黒人達は、「白人のもの」のロックとは異なる表現を求めたのである。また、ジャニスやジミヘンを考える場合、ブリティッシュ・ロックの影響などというより、そうした黒人のR&Bシーンを考えるべきだろうし、何より、ブルーズの伝統の文脈で理解した方が理解しやすい。ジミヘンもジャニスも強くデルタやクラシック・ブルーズからの影響を認めている。

The Beatles (UK)
ポールとジョン。基本その一。
The Rolling Stones (UK)
キースとミック。基本その二。いかにも。
Jimi Hendrix (1942-1970) (US)
孤高の天才ギタリスト。彼を越えるギタリストは現在出ていない。イギリスで売り出さないといけなかったのは、ロックの世界では珍しい黒人だからかもしれない。私は中学生の頃から必死に真似している。
Janis Joplin (1943-70) (US)
ロック史上最大の女性歌手。私は小学生の時に惚れた。「Summer Time」が死ぬほど好きである。
Led Zeppelin (UK)
キンクス、フーなどを原型とした「ハードロック」の様式をディープ・パープルらと共に確立してゆく。私はこういうのに、あまり興味はないが、たまに何気なく「天国の階段」を弾いている自分に気付き驚くこともある。
Grateful Dead (US)(Internet Archiveに音源あり)
「ラブ&ピース」で有名なフランシスコの反戦ムードの中で熱烈な支持を集める。「ヒッピー」って言葉を君達は知っているだろうか? 彼らは「ヒッピー」文化の音楽的中心である。未だにアメリカのロック・シーンで熱狂的な独自の地位を保ち活躍している。

ライブ音源の配布をフリー(パブリック・ドメイン)としており、録音機材を持ち込む客のために録音用のブースを作っているほどである。こうした録音し音源を配布する者は「デッドヘッズ」と呼ばれる。インターネットでの楽曲の配信が普及した昨今、音楽と著作権の問題を考える上でも存在感を示している。

簡単に見れば、ビートルズ、ストーンズというイギリス初のロックがアメリカのロック市場に殴り込むという形が前半に起き(もちろん、ビーチボーイズも忘れてはならないのだろうが、私はあまり好きではない)、一方、後半は、アメリカの反戦、反権力の空気がフォークやロックと手を結んでゆき、「自由」や「愛」「平和」を歌うロックは激しい高まりを見せたと言えるだろう。

その一方でその激しさゆえの行き詰まりも早くも見え(青少年の非行や麻薬常習、ライブでの死者などの問題)、一方で商業主義との勢力との戦いも熾烈となる(ロック・テイストなポップスが次々と作られていった)。そんな中で70年からジミヘン、ジャニスとドアーズのジム・モリソンが次々と死んでしまう(死因はドラッグの過剰摂取とされる)。かくしてロックは方向の見直しが行われ、既に確立した演奏のスタイルや技術を元にし、より多彩な表現へと70年代のロックは向かってゆくだろう。


ここまで読んでくれて御苦労様。どうもありがとう。

ロックの歴史を一から書き起こすなんて無茶もいいとこで、前回では一回で現代まで書くようなことを書いたが、無理な話だった。ここで一度切ることにする。

実はここはいい切れ目なのである。それと言うのも、60年代でロックは死んだという意見が根強いからである。一方、60年代のロックを「60年代ロック」と呼ぶことで相対化する意見もある。

ロックの本質に思いを馳せ、それが終わったとか変わったとか考えるのは君の自由である。そうしたことを考えるのも時には役に立つ。しかし、時代は常に変化し続け、変わらないものなどあるはずがない。もし、君達が昔のことばかりを気にしているのを見たら、私は悲しい。「ロック」が何であれ、つまり、それが終わったにしても、続いているにしても、君達は自分の音楽を見つけ、それを歌って欲しい。もし無ければ自分で生み出して欲しい。

「ロック」なんて、ただの言葉に過ぎない。君達は自分の人生を生きているのであり、音楽とはその君達の人生の中で、君達が育ててゆくものなのである。君の人生に関係のない音楽なんて、君には関係がないじゃないか。君が本当に満足する音があるかもしれない。君が本当に満足する歌があるかもしれない。そして、それは君達の世代が皆求めている音かもしれない。「ロック」だとか「パンク」だとかのコトバなんて関係ない。ただ、君の人生が、君の心が、音楽を感じれば、それでいいんだ(だから、こんな奴の書いた文章を信頼してはいけない)。

ただし、こうした考えは伝統をないがしろにすることではない。伝統と言っても上から押しつけられたものの話ではない。そんなものは捨てていい。私が言いたいのは、人々があることを長く営んでいった中で、自然に残って来た伝統だ。人類は長い歴史の間、歌を歌い続けてきた。様々な地域の様々な時代で、君が想像もできないほどの幅広い音楽があるだろう。様々な表現や情感、技法や作法がある。そうした伝統を知ることはとても力になる。だからこそ、もし君にロックが必要ならば、ロックの伝統を感じることで、より表現が本質的になると思う。

しかし、それもあくまで君の音楽に役に立つかどうかの問題であって、無理して学ぶ必要はない。ただ面白ければ聴けばいいんだ。つまらなければ、聴かなくていい。単純なことだ。まあ、私は君がブルーズやロックの伝統を面白がって学んで、その音楽を楽しんでくれることと思っているが。

そうした伝統を学ぶ中で、私は君に学んで欲しいことがある。生きる上でとても大切なことだ。それは「謙虚さ」だ。私は謙虚さを学ぶのが遅くとても苦労した。だからこそ君達には早く学んで欲しい。

歴史や伝統に残るものは常にそれなりのものがある。しかし、つまらないと感じる時もあるだろう。そういう時には、ただ、その場を立ち去るだけでいいんだ。「つまらない」と主張する必要なんてない。君のような若造がそんなことを言ったからって何になる? その人達は、何年間も歴史や伝統を積上げて来たんだ。君のようなガキの話なんて聞く耳を持つ訳がない。

歳をとると色々なことが分かってくる。これは真実だ。そして、君もいつか君の歳では理解できなかったような物事に触れ「ああ、あの時は理解できなかったな」と反省することがあるだろう。そういう経験を何度も積むとね、私のような生意気で傲慢な人間ですら「私はいつも未熟で、いつになったら……」という気分になるものだ。巨大なものに触れ続ければ、自分の小ささは明らかなものになる。しかし、これは自信を失うことじゃないんだ。誤解しちゃいけない。ただ「謙虚さ」を知ったということだと、私は考えている。

できれば君は無言で立ち去る前に、こう言うといい。「私はまだ未熟で分かりません」と。君はまだ自分の未熟さを知らない。だから、こう言うのは嘘をついた気分になるだろうし、とてもつらい。しかし、いや、だからこそ、君にはこのセリフを言って欲しい。大人の中には優しい者もいる。いや、自ら未熟と言う若者に、誰が厳しくするものか。大人は君に優しく教えてくれる筈だ。その魅力、その歴史、その重みを。勿論、教えてくれるから君が理解できるとは限らない。しかし、君はその大人の話から多くのことを学べる筈だ。どれだけ深く多くの情熱をそれが集めてきたのかを。そして何より、それがその人にとって、その人の人生にとって何であるのかを。

この時、賢い君は感じ、理解するかもしれない。自分の未熟さを。そして「謙虚さ」の本当の意味を知ってくれるかもしれない。いや、是非そうであって欲しい。謙虚さを知るのは早ければ早いほどよい。それは君の自信や人からの評価を傷つけはしない。自らの未熟さを受け入れることは力なんだということを、賢い君はすぐに理解するだろう。

それでは次回は70年代から現代までのロックを概観したい。それでは。

更新履歴

2007-03-31 作成

2007-04-02 Internet Archiveへのリンク追加(グレートフル・デッド、レッドベリー)

ロックの歴史(4) 70年代〜現在

今回は、皆さんお待ちかねの70年代から現代までのロックを眺めてみる。これは高校生の君達が生きている現代まで繋がっている。だからこそ、君達は私の判断が間違っていることに気がつくかもしれない。なにしろ君達が生きている時代なのだから。ただ、そうした中から君達は歴史を語ることがいかに困難であるかを感じて欲しい(これでは、ただ自分を弁護するようだが)。

70年代

音楽はとても多彩になる。

  1. 既に確立している「ハードロック」が本領発揮する一方、
  2. クラシックやジャズを取り入れた「プログレッシブ・ロック」が活発となり(ピンク・フロイド、キング・クリムゾン、イエス、ユーライア・ヒープなど)
  3. 妖しい化粧とコスチュームの「グラムロック」(T Rexやデヴィッド・ボウイなど)が次々と現れる。
これらはほとんどUKのバンドである。聴けばわかるが、さすが病んだ国イギリスと唸らされる。この「テクニカルで妖しい」系譜は現代まで続いていると私は思う。私はたまにピンク・フロイドやクリムゾンを聴くことはあるが、ほとんど聴かない。

また、これもUKが中心だが、「縦ノリ」なビートの重さの追求は「ヘビー・メタル」を生んでゆく。この歴史を簡単に流すと、ブラック・サバスやマウンテンに始まりジューダス・プリーストが様式を確立し、その後、アイアン・メイデン、モントリー・クルー、メタリカに受け継がれてゆく。現在でも根強いファンがいて、HR/HM [ハードロック/ヘビーメタル] として独自の地位をしっかりと持っている。君のクラスにも一人くらいヘビメタファンってのはいるんじゃないかな? 大概、髪の毛が長めで痩せた奴であり、妙に信者勧誘に熱心である(ただの私の偏見である)。私は聴かない。

後半では逆にそうして複雑化するロック・シーンに抵抗するかのように、ニューヨークやロンドンなどで暮らす、貧しい白人の不満の叫びは「パンク・ロック」を生んでゆく。特にセックス・ピストルズはパンクの伝説として語り継がれている。私は心情や方向性としてはパンクは大正解だと思うが、残念ながらその音楽性の低さからあまり聴いていない。ちなみに、そのストレートさこそがパンクの良さなのであって、私はパンクを全然分かってない男と言える。よく私は友人にいじめられるので、君達はしっかりとそこらへんを理解して、いじめられないようにして欲しい。

あと、クィーンも抜けないはずだが。私はあまり聴いていない。

考えてみりゃ、私はほとんど70年代を聴かない男らしい。そんな男がこんな文書を書いていいのか不安である。こんな文書を信じて軽い気持で人と話すと、好きな人は異常に好きなので、とんでもない喧嘩になることがある。注意が必要である。

一方でアメリカでは何があったかというと、ウエスト・コースト・ロックやサザン・ロックを挙げておきたい。

  1. サザン・ロックのオールマン・ブラザーズ・バンド
  2. ウエスト・コーストのドゥービー・ブラザーズや、
  3. 「ホテル・カリフォルニア」のイーグルス
などである。

個人的にはオールマンのデュエイン(デュアン)・オールマンのスライドも好きだし、ドゥービーの「Long Train Runnin'」や「Listen to the Music」での細かい刻みは好きだし(ただ、これはR&Bを見ればもとがあるのだが……)、「け、あれかよ」とか思いながらもやっぱりクリーンサウンドで哀愁のあるアルペジオフレーズと「ういっ!」というディストーションサウンドを基本に忠実に使う「ホテル・カリフォルニア」はやっぱり良さがあると思う。これは私がギター好きだからというのも大きいと思う。ただ、「それで彼らが何か新しい音楽を生んだか?」と訊かれれば「うーん」と悩み「いいえ」と答えてしまうだろう。

またクラプトンが参加した、南部バンド、デレク&ドミノスの「いとしのレイラ」も私は大好きだが、ドゥエイン・オールマンのスライドが特に注目されるので、クラプトンの文脈というよりここに書いておく。ちなみに、デュエインのスライドも辿ればT-ボーン・ウォーカーあたりにつながり、エルモアに抜けるだろうし、やっぱり、そこら変のR&Bとモダン・ブルーズあたりはもうちょい知っておかないと、人様に文章を書いてはならないとつくづく痛感する。

こうして70年代は多彩なジャンル・様式を確立した時代で、中には現代にも続くロックの様式も含まれている。特にUKの分野の発達は目覚ましく、ロック通ぶるなら、押さえないわけにはいかないだろう(何度も言うが、私はあまり興味はないが)。

80年代

80年代前後には新しいジャンルや様式が形成されるというよりは、個性的な実力派が続出し「ニューウェーブ」と呼ばれてゆく。これはスティングのポリス、イギリスの歌姫のケイト・ブッシュ、パンクをうたう東独のニナ・ハーゲンなどが注目される。

またロックを「白人の音楽」として無視して来た黒人からもプリンスが登場した他、一般に「ワールド・ミュージック」呼ばれるのだが、非西欧社会からもロックの影響を強く受けつつも民族的な要素を持った音楽が発信されていった(ヨーロッパのジプシー社会からジプシー・キングス、マリのサリフ・ケイタ、南アフリカのマハラティーニ&マホテラクイーンズなど)。

一方、違う文脈で別の機会にR&Bから説明たいのだが、ラップやヒップホップもこうした背景を元に生まれていることも記しておく。

あと、アイルランドのU2(Internet Archiveに音源)やアメリカ・ロック演歌としか思えないブルース・スプリングスティーンなど、ちょっと従来の文脈とは違うロックバンドも成立していった。

ヘビメタな重さと、ポップなメロディーとをほどよく組み合わせた上に、高音のヴォーカルと、高度なギターテクを誇示するようなバンドも90年代前半あたりまで、よく売れた(ガンズ・アンド・ローゼズ、エアロスミス、ボンジョビ、ミスター・ビッグ、エクストリーム、ドリームシアターなどなどなど)。同時に、速弾き超絶技巧ギタリストがなぜか流行り、ヴァンヘイレン、イングウェイ・マルムスティーン、インペリテリなどが「誰が世界で一番最速か」を競っていた。今となっては何が何だかよく分からない。

こうして80年代は高度なテクと優れたセンスに支えられ、様々な人々が様々なことをやったが、結局何があったのかよく分からない。ただ、個人的な思い出から言って、ガンズなどはとても懐しいし、インギーの真似もよくやったので、悪くいうのもあれだが、今のインギーなどを見ると「一体、何だったんだ」という気分になる。そう、ガンズも一体何だったんだろう。音楽とはそういうものかもしれないが。

(あとR.E.Mとか書かなきゃ)

90年代から現在

もう書くのに疲れてやめたいが、あと一息なんで書くことにする。

とにかく個人的にはニルヴァーナ(Nirvana)である(Internet Archiveに音源あり)。グランジである。オルタナティブ・ロックである。ヴォーカルのカート・コベイン(コバーン)(Kurt Cobain, 1967-1994)は死んでしまったが、パール・ジャムやアリス・イン・チェインなどまだ元気な筈である。時代背景としては上述の「高音ヴォーカル、超絶テク・ギター」や商業主義などへのアンチテーゼであり、ある種「パンク」である。しかし、上述80年前後のパンクと異なり、ヴォーカルの歌唱力が凄まじく、難しいことはせずにストレートでカッコいいリフ、マジで真剣なドラムとベースは「そうだよ! これだよ!」という気分にさせてくれる。ドラム、ベース、ギター&ヴォーカルのスリーピースでばっちり決めている。シンプル・イズ・ベストである。ギターソロも難しいことはしないが、逆にそれがかっこよく思う。

若者文化を変えた「Smells Like Teen Spirit」や「Rape Me」が必聴なのは勿論だが、「When Did You Sleep Last Night」も必聴である。この曲から、レッドベリーやトーマス・ドロシー(Thomas A. Dorsey, Georgia Tom,1899-1993、「ゴスペルの父」)などのアメリカン・トラディショナル・フォークやゴスペル、「ロックンロールに行かなかった」R&Bなどに興味を湧かせ、100年単位で育まれたアメリカの歌に思いを馳せるのもいいだろう。深い深い世界である。深過ぎて何が何だか分からないが、そのうちこの分野も書きたい。

ただ先日若者に「ニルヴァナ? ああ、あの古いロックですね」と言われた。現実は厳しい。

あと特筆すべきはビョーク(Bjork)(Internet Archiveに音源)だろう。ギターもベースもドラムもなく、サウンドはまったくロックではないのに、なぜかロックなのである。ただの天才少女として終わるか、新しい音楽を生むかは、私はまだ分からない。

さて、90年代は、ニルヴァナとビョークなどにより新しいジャンルへ向かった時代だったと思うが、一方で終末を感じさせる年代でもあったと思う。

  1. まず、マリリン・マンソン(Marilyn Manson)(Internet Archive)。ハードロックからメタルの終点であり、「ああメタルは、これで終わりだな」という気分にさせてくれるんじゃないだろうか。
  2. 次にケミカル・ブラザーズ。音楽はまるでオモチャ。音楽的可能性を捨てて、ただ遊んでいる風であり「ああ、こういうのも終わりなんかな」という気分にさせる。
まあ、個人的な感想だが。

あとはUKでレディオヘッド(Radiohead)(Internet Archiveに音源。Creepもある)とかオエイシス(オアシス,Oasis)(Internet Archiveの音源)とかも外せないだろう。

ただ、UKシーンで私がアホみたいに注目しているのは、ブリストルである。別名「踊れないダンスミュージック」。

  1. まずポーティスヘッド。ヴォーカルのベスの歌唱力の高さが、表現の閉塞感を鬼気迫るもにしている。私はジャニスの次に彼女が凄いと思う。
  2. マッシブ・アタック(Massive Attack)(Internet Archiveに音源あり)の「Future Proof」では、冷たいシンセの電子音が逆に既に私達が肉体化してしまったことを教えてくれ、ギターは生き物のように呼吸し時に叫ぶ。パンクのように叫ぶことすら疲れてしまったような閉塞感、しかし、それでも未来に向かわなければ人間は生きてゆけないことによる深刻な闇の激しいサウンドは、これまでの人類史上存在したか疑問である。

こうして90年代から現代は古い音楽が整理され、新しい音楽に着実に向かっている時代であると私は感じている。あくまで個人的な感覚から言えば、

  1. いかにも超絶技巧なヴォーカルとギター、いかにもなシンセの音などは否定。そんな目新しさにはアキアキ(全員。特にニルヴァナ。ブリストルも「自然に感じる」シンセの音。ケミカルはそれを逆手に利用)
  2. 若者連帯したムードは微塵もなく、深刻な精神的な闇、社会の閉塞感が歌われる(全員)
  3. 「売れたい」ことも否定し、「真剣」に音楽している(ニルヴァナ、ブリストルに顕著)
  4. オケやシンセの導入によるバンド概念の変更(ビョーク、ブリストル)
などの特徴があると言えると思う。まあ、あまり真剣にこの問題考えてないから、本気にしないように。だいたい問題は「音」であって、こんなアイデアの問題ではない。

アホみたいにハイペーズで書いて来たので、絶対いつか書き直す。少なくとも90年代から現在はもっと書かねばならないだろう。だから、たびたび、このサイトを見にきてくれると嬉しい。

何度も書くが、こんな駄文を信用しないように。そもそも、音楽においてジャンルなどの言葉は後付けで、それも商売のために生まれたものばかりである。言葉で音楽を語るなんていうのはバカらしいところもいいところである。

なぜ、こんな文章を私が書いたか、分かるだろうか? それは、こういう文書を私が高校生の時に欲しかったからである。音楽に入る中で、CDを片っ端から聴いていたのだが、ライナーノーツだけじゃ断片的で、簡単で大雑把なロックの歴史の概説が欲しかったのである。でも本を読むのは疲れる。パンフレット程度の分量で、ある程度ロックを概観できる文書がとても欲しかった。そして、正確さなんてどうでもよかった。結局、大切なのは音楽で自分が何を感じるかなので、大雑把に見渡せればそれでよいと思う。

この講座では、出来る限り大雑把に全体を見渡せるように配慮し、本来書きたいコメントを半分にした(そうすれば、全体の分量は半分になるから)。まあ、こういうアホのような文書を読みたい高校生が現在いるかどうか分からないし、もっとよい文書がネットにはあふれていることだろう。それに、こんな泡沫ブログなんて見付けることも大変で、結局、埋もれてしまうことだろう。

しかし、こうした文書を書くことは、自分のロックの歴史を整理するのにとても役に立った。だから、まあ、書くことが、私だけには最低、有益だったのだから、まあ、それでよしということにしておこう。

では、最後に、読んでくれて、どうも読んでくれてありがとうございました。

更新履歴

2007-03-31 作成

2007-04-02 Internet Archiveの音源へのリンク追加(Nirvana, Marilyn Manson, Radiohead, Oasis, Bjork, Massive Attack)

ロックの歴史(1) ブルースの歴史

高校生の君達が知りたいのは、クラシックや日本伝統音楽ではなく、きっとロックだと思う。そこでこれから四回に渡ってロックの歴史を追いかけてみたい。今回は、ロックの歴史を押さえるために、北米黒人音楽、それもブルースの話をしたい。

なぜか?それはロックだけでなく、現代のポップ音楽の潮流の源泉が、この北米黒人音楽にあるからである。つまり、ロックだろうがR&Bだろうがヒップホップだろうが、元をたどれば、この世界に来るからである。元を知っておくのも悪くはなかろう(別に知っていたから偉いわけじゃないが、無駄な混乱は減るものである)。

まあ、高校生の君達の大半はよさがすぐには分からないだろう。が、中には耳が付いている者もいるかもしれない(あまり期待はしていないが)。そうした君の為にも、音源を見つけ次第、貼りつけてゆくつもりだ。また、今は網羅しようという気ないから穴だらけのリストだが、いつか更新するかもしれない。たまに覗いてみて欲しい。

戦前ブルース (1920-40年代)

カントリー・ブルースあるいはデルタ・ブルースとも言う(ただし、正確にはデルタだとテキサスやアラバマ、ジョージアや南北カロライナが入らない言い方になってしまう。この「デルタ」は「ミシシッピー・デルタ(ミシシッピー川の三角州)」のことである)。詳しい発祥は不明だが、南部の大規模農場で(奴隷のように)働いていた黒人が生み出した音楽である。楽器はアコースティック・ギターとブルース・ハープが特徴的である。

都会に出てレコーディングをした黒人もいるにはいたが、多くの場合は黒人相手の酒場での演奏であり、踊りの伴奏であった。そのためあまり録音は残っていない。それでもローカルなレコード会社の録音が残っている場合もあるし、忘れてはいけないのは、アメリカ議会図書館(Library of Congress)のアラン・ロマックス(Alan Lomax)の大規模なフィールド・ワークによるものも多い。ちなみに、Library of CongressのAlan Lomaxコレクションのページでは、アメリカ南部の他、スペイン、カリブなど彼のしたフィールドワークのコレクションの一部を見られる。写真や音源の一部もこのページから視聴でき、その中にはLeadbellyのMidnight Specialもある。

なぜ20年代からかというと単純である。その前は録音がないからである。ちなみに、クラシック・ブルースというのもあるが、これはややジャズに近いと思うので他の時に解説する(本当はR&Bやジャニスの説明に絶対必要なのだが……)。また、シティー・ブルースなど紹介すべきものは腐るほどがるが紹介しない。黒人音楽はデルタしかなかったなどとは夢にも思わないように。また、下の人しかいなかったなどとは思わないこと。一部の一部である。

ブラインド・ウィリー・ジョンソン (Blind Willie Johnson (1897-1949)
正確に言えばゴスペルの人であるが、迫力のダミ声と、護身用のナイフから繰り出されるスライドギターの音は、まさにブルースのそれである。中でも暗くエネルギーに満ちた「Jesus Is Coming Soon」や「Trouble Will Soon Be Over」は必聴である。君には、闇が聴こえるだろうかか、それとも光が聴こえるだろうか?ちなみに「Blind」は盲目という意味である。 Internet Archiveに音源あり
チャーリー・パットン (Charlie Patton, 1891(1887?)-1934)
「デルタ・ブルースの父」として有名。特にウィスキーや煙草で喉がかすれたような、がなるような声が特徴。多くのブルースマンに影響を与えたが、中でもシカゴ・ブルースのハウリン・ウルフへの影響は特筆すべきだろう。有名な話だが「A Spoonful Blues」のスライドギターはちゃんとSpoonfulと言っているように聴こえる。 Internet Archiveに音源あり
サン・ハウス (Son House, 1902?-1988)
二十代半ばでチャーリー・パットンに影響された彼は、牧師をやめてブルースマンとなり、以後「悩める魂」を歌い続けた。特に「Death Letter Blues」での気魄の演奏は時間や空間の感覚すら狂わせ、空恐ろしい、夢の世界のようになってしまう。

一度すたれた後も農場で働いているのを白人に「再発見」されたため、映像も残っていて、豪快なスライドギター演奏も拝むことができる。再発見前の録音も、アメリカ議会図書館アラン・ロマックスの録音も、再発見後の録画も全てチェックして欲しい。チャーリー・パットンと共にロバート・ジョンソンに影響を与えた。私はサン・ハウスが一番のお気に入りである。 Internet Archiveに音源あり

スキップ・ジェイムス (Skip James, 1902-1696)
「再発見」組の一人。ピアノもギターも両方こなせる天才である。音楽は「Hard Time Killing Floor Blues」で特に発揮される、さまようような、負けたような、独特のかすれ声が疲れた君を魅了するだろう。 Internet Archiveに音源あり。
ロバート・ジョンソン (Robert Johnson, 1911-1938)
最も有名なブルースマンである。ストーンズやクリーム(クラプトン)、ツェッペリン、ボブ・ディランなどロックの立役者に巨大な影響を与えたことは、今時そこらの猫でも知っている。勿論、ブルースマンに至ってはエルモア・ジェイムスやマディー・ウォータズに直接指導したこともあり、影響は幅広い。

「Crossroad Blues」が有名だが、どれも必聴である。図書館に入っていなければ Robert Johnson くらいは入れてもらってもいいのではないだろうか。初期の多くのロック・ミュージシャンが「RJを知らない奴とは話したくない」と言っているが、普通の高校生の君は真似をしていると友達がいなくなるから注意。 Internet Archiveに「Phonograph Blues」「Love In Vain」の音源あり

ブラインド・レモン・ジェファーソン (Blind Lemon Jefferson, 1893-1929)
今まではミシシッピーの人間だったが、この人はテキサス系のブルースの元祖と言えるだろう。デルタ・ブルースとは違う、乾いた味わいがある。レッドベリーやライトニン・ホプキンスらに直接影響を与えた。もちろん盲目。 Internet Archive に音源あり

ミシシッピー・ジョン・ハート(Internet Archiveに音源あり) など、もっと載せるべき人間はいるのだが、まあ、デルタ周辺の基本的な人のみということで。

シカゴ・ブルース (1950-1970年代)

戦前の巨人がひしめいたデルタ・ブルースの世界は40年代に急速に終息する。大規模農場は機械化し、黒人労働者が不要になり、過去の黒人コミュニティーも崩壊したからである。黒人たちは仕事を求めメンフィス、シカゴと北上し、トラックの運転手や自動車工場で働くことになる。中でもシカゴでのブルースマンの活躍は特筆すべきものがある。

デルタ・ブルースと異なり楽器は電気化される。エレキ・ギターの強烈な音量に、アンプリファイされたブルース・ハープ、それにドラムとベースという編成になる。白人向けに「洗練」した者もいるが、ここでは南部臭さ、泥臭さを残した人間を紹介する。

エルモア・ジェイムス (Elmore James, 1918-1963)
ロバート・ジョンソンの弟子の一人。ミシシッピー・デルタの出身でデルタの項目に入れてもいいのだが、エレキだし、こっちでいいかと思った。「Dust My Boom」などで聴ける強烈な三連のスライドギターリフで後のロックギタリストに大きな影響を与えた。また激しく、甘い歌声も胸を熱くさせる。
マディー・ウォーターズ (Muddy Waters, 1915-1983)
「Hoochie coochie Man」で知られる「シカゴ・ブルースの父」。デルタ出身。エルモア・ジェイムス同様、RJから技を盗む。私は違ったが、普通はストーンズを聴いて、マディーを聴き、そしてRJというのが標準的なロック青年の系譜である。
ハウリン・ウルフ (Howling' Wolf, 1910-1976)
マディーと同じくシカゴ・ブルースを支えた巨人。毒のあるダミ声はパットンの影響を強く感じさせる(実際、パットンに直接習ったこともあるらしい)。そのダミ声とヒューバート・サムリンのキレのあるギターが組み合わさったサウンドには悪魔も逃げだすだろう。
ライトニン・ホプキンス (Lighting' Hopkins, 1912-1982)
「テキサスの不良おやじ」「永遠の不良中年」である。シカゴ・ブルースの人じゃないが、ここに(項目の作り方はいつか見直すべきだな)。レモン・ジェファーソンに習ったらしい。デルタな泥臭さではなく乾いたキレと渋さが最高にかっこいい。ラフな服装に黒いサングラス、葉巻を咥えて「ハハハ」と不敵に笑う様も最高にかっこいい。私の高校時代のアイドルである。 Internet Archiveに音源あり
ジョン・リー・フッカー (John Lee Hooker, 1917-2001)などもここに挙げるべきだろうが、どうしよう?

モダン・ブルース (1970-1980代)

一時廃れたブルースが、イギリスの若者の心をつかみ、ストーンズやヤードバーズなどを生むと、再びブルースはブームとなる。シカゴの巨人たちの他、「再発見」組も注目される中(これはフォークの文脈との絡みもある)、より聴きやすいブルースも支持を集める。B.B.キングやアルバート・キング、バディ・ガイ、オーティス・ラッシュなどである。いわゆる「ブルース・ブーム」であり1980年前後に我々極東の島国にも余波が来た。

ここら辺になるとかなり聴きやすいが、個人的にはあまりブルースらしさを感じないように思う。君はどう思うだろうか? それに彼らを取り上げたら、ジョニー・ウィンター(Johnny Winter, 1944-)やスティーヴィー・レイヴォーン(Stevie Ray Vaughan, 1954-1990)などテキサス出身の白人ブルース・ロックなども私は扱いたくなってしまう。

それにこの時期には「ロック」が成立しているので、現代の若者は「ロック」の方に興味を持つだろうから、そちらを優先する。まあ、とにかく、表に出てこようが出てこなかろうが、我々が知ろうが知るまいが、ロックの後にもブルースは脈々と受け継がれているのだと記憶の片隅に入れておけばよいだろう(特にデルタでは昔ながらのスタイルがかなり残っているらしい)。


次回は軽くヒルビリー(カントリー&ウェスタン)と、今回は省いたR&Bの二つを押さえ、ロックンロールが形成され、それが白人の音楽としての「ロック」となるところを追い、そこから現代までを追う予定だ。え? クラシックや日本伝統音楽の講座? 大丈夫。言われなくても、そのうちやるから。

変更履歴

2007-03-30 作成

2007-04-02 Internet Archiveの音源へのリンク追加

2007-04-02 Library of Congress の Alan Lomax Collection へのリンク追加

2007-07-08 「ブルーズ」を「ブルース」に表記変更