2008-09-29

紙を使うサービス 自宅のPCでポスターやノート、手帳を作ろう

手帳、ポスター、ノート……。今回は紙を使って、そうした身近なものを作るサービスをリストしてみました。自宅の PC とプリンターで、こうした身の回りのものを作ることができます。

他にもおすすめの紙を使うサービスをご存知でしたら、よろしければコメント欄で教えて下さい。

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2008-09-28

多重化する世界

これから世界は多層化するはずで、国家というのはその中の(主要ではあるが)一つのレイヤーに過ぎなくなると俺は思っている。国民国家を成立・維持させる上でマスメディアが果たした役割はとても大きいが、多層化する過程でナショナルなメディアも弱体化することだろう。

同様に教育・メディア・貨幣も多層化するはずだ。これはイギリスの現状を考えれば一番わかりやすいと思う。移民の多いイギリスでは、イギリスという国家の中で、4つの非独立国があり、更に多くの移民が居住しており、各民族が独自の教育やメディアを持ち始めている。それどころかスコットランドなんかは貨幣だって発行している。こうした現象を見る上でも EU は将来を見るいいモデルになっている。

世界多重化の理由はそれが効率的だから。いままでは物流や情報伝達のコストが高かったから国家という単位で物と情報を運び、それを国民という単位でマスに消費していたが、そうしたコストが低くなることで国境を越えた物と情報の移動が起こり、結果として国民というマスの消費は(もちろん主流ではあるものの)低下し、趣味の多様化がクローズアップされてゆくようになる。その流れに逆らってまで国家を煽るのは効率が悪い。

多層化する世界というヴィジョンが明らかならば、それに適したシステムも考えやすい。教育・報道・貨幣とは、従来、国家が共同幻想を実現する道具だった。そうした国家が一つのレイヤー化してゆく中で、上の教育・報道・貨幣が改変されてゆく。あるものは国家よりも広いレイヤーが力を持つだろうし、あるものは国家よりも小さなレイヤーが力を持つだろう。

ただし、重要なのは「地縁」だけではなく、むしろ個人の趣味や興味に基いた結合が重要になる。「地域」や「家族」は更に弱体化する可能性が高い。多くの人が今後、自分の足元を軽蔑しつつ、「あの世」へとはばたいてゆくことだろう。

こうした多様化と従来の「共同体的なもの」の崩壊は無論ネットの影響が大きい。マス以外のメディアの実現は、Blog, Wiki, SNS など CGM がそれを実体化していると言える。そうしたネットのメディアはどれも CMS が支えており、コンテンツの作成を用意にしたことが、基本だが極めて重要だ。だから、これからも更に「世界を変える」ような CMS が出てくれば、世界多重化の速度は加速するだろう。

今後はそうした消費者ベースの情報も、また従来のマスの側の情報(新聞や書籍、テレビ番組など)も、ウェブサービス化し各種 API が公開されてゆくだろう。マッシュアップやセマンティック・ウェブなどの技術により、その蓄積された情報のスケールメリットは上昇するはずだ。国境なんてどこにある?

そうした「地縁・国家」でも「会社・市場」でもない空間で生きてゆく人が、増えてゆくだろう。勿論「食える」ということを含む。いや、そもそも既にネットの世界で生きている人は多いから言うまでもないかもしれない。しかし、そうした勢力の教育やメディアというものが今後形を持っていくのだと思える。

さて、日本では、アジアという単位でのコミットは少ないが、教育・報道で各地の特色が見られるようになってきている。一方、ナショナルな単位での教育や報道は弱体化している。ここにチャンスがあるのは間違いない。地方分権が進めばこれは更に明白な流れになるだろう。

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2008-09-27

動画コンテスト 広告は"見る"から"作る"時代へ

まずは以下の36秒の動画を見て下さい。

小気味よいテンポで作られたCM。しかし、これは「プロ」が作ったものではありません。東芝が主催する東芝ノートPC CMコンテストという 動画コンテスト に投稿された広告、所謂"Consumer Generated Ad"(消費者作成広告)なのです。

もう一つあります。

いかがでしたか? 素人の作った CM とはいえ意外に面白く見られてのではないかと思います。

動画コンテストとは?

Youtube などの動画共有サイトが普及して、誰でも一般に動画を公開できるようになりました。こういうのを消費者がメディアを作るということで消費者生成メディア(CGM)ともいいますね。

その中から企業広告としての価値のある動画が出現しました。企業と関係なく作られたこれらは「勝手広告」とか「消費者作成広告」呼ばれているらしいです。以下のメントスやZ会のものが有名なようです。

どうでしょうか? 素人が作った物とはいえなかなか面白かったのではないでしょうか?(実は、私個人はZ会のはつらかったですし、メントスのも「もったいないな」と思っていやでしたが、それでも面白さは分かります)

こうした消費者が作る広告に価値を見出した企業としては、今回の東芝さんのように、消費者が広告を作るのを奨励するために 動画コンテスト を実施しているというわけです。

揺らぐTVCM

TVCM には莫大な費用がかかります。大学生の頃、広告論の授業で TVCM 撮影の現場を見学したことがあります。菊川怜さんが主演(?)の保険会社の TVCM でした。数十秒しかない TVCM に時間と費用がふんだんに利用されていることを学びました。制作費に数千万円、タレント出演料で数億円、更に放映するTV局の枠(スポット/タイム)を買うために数億円がかかるとのことでした。

しかし、こうしたTVCMの効果に疑問があるのも事実です。パナソニックは2005年の年末、ボーナス商戦まっただ中の10日間、一切の広告をやめたそうです。しかし、松下の主力製品「ビエラ(薄型プラズマテレビ)」の売れ行きは落ちなかったらしいのです(参照)。トヨタも2005年に北米で一番売れた車種が TVCM を一切打たなかったものだったとのことです(民放の根幹を揺るがす、ある“深刻な”事態(1)〜テレビCMの限界が見え始めた - ビジネススタイル - nikkei BPnet)。もちろん、すべてのTVCMが無駄とは言えませんが、既に知名度のある商品ではTVCMの効果が少ないことがあるようです。

また、TVCM を飛ばす機能が高性能になってゆけばこれも TVCM にとっては危機です。

視聴者主導だから「面白い」と感じる

消費者作成広告・勝手広告が力を発揮するのは、逆にそうしたブランド力のある商品に対してでしょう。知らない商品やサービスの広告と言われても見る気はしませんが、既に知っていものに対して「何かおもしろそうだ」という印象が与えられれば、その動画を見て、更に細かい情報へのリンクを辿れるというわけです。

どうでしょうか? 実際に上の動画を見て面白いと思い、いくらかの情報を摂取したのではないでしょうか? これはウェブがユーザ主導だからありえる効果だと思います。垂れ流しでは「面白い」という実感を得にくいのですが、自分でクリックして自分で見ている動画では「止める」という選択肢のある分、「面白い」という感覚を得やすいのではないかと思います。

そうして自分で「面白い」と思ったものは紹介したくなるものです。ブログなどで取り上げられることもあるでしょう。CMを紹介するなど一部のタレントのファン以外では、TVのものでは考えにくいことですが、ネットの動画では逆にユーザ主導の手間がある分、起こり得ることなのです。

そうなれば、企業、CM作成者、視聴者(=紹介者)の誰にとってもいい話です。

もちろん、ネガティヴなイメージが与えられないとも限りませんし、そうした否定的なメッセージが youtube などに掲載されて人気を集めてしまうかもしれません。企業が消費者生成広告を後ろ押しするのは諸刃の剣でもありえます。POLAR BEAR BLOG: CGM広告は是か非かにはそうした否定的な面を列挙してあります。そこにあるハインツのネガティヴな動画もご覧下さい。

CMを作る楽しさ

動画編集のための装置がどんどん低価格化して、誰でも動画を作れる時代になっています。数年前では考えられないことです。

動画を作るのはとても楽しいのです。自分で作り込んだ映像をディスプレイで見るのは不思議な高揚感があります。

しかし、実際に人に見せられる映像を作るのは大変です。私も数年前に Adobe Premiere や AfterEffect などを利用して動画編集をしていましたが、内容のあるものを作るにはコンテを切り、人と物を準備しなければならず大変なものでした。

ところが、CMであれば時間も短く、アイディア一発で作ることが出来ます。しかも、それを応募する動画コンテストがあるのならモチベーションもあがります。

これからは趣味で CM を作る人が増えていくかもしれないなと思いました。

参考リンク

2008-09-26

変化する時代への雑感

自分の十年前を思い出しながら、リーマンショックという今の成り行きを眺めていると非常に感慨深い。

私の学生時代、つまり90年代後半とは、欧米の投資銀行や企業買収ファンド、ヘッジファンドなどが猛威をふるった時代だった。日本は果てしなく弱く、アングロサクソンは強かった。

「社員は悪くございません」私が高校三年生だった97年、山一證券の社長は泣いて頭を下げた。「みんな私たちが悪いんであって、社員は悪くありませんから! 善良で能力のある社員たちに申し訳なく思います。」

山一本社所属の従業員や店舗の大多数はメリルリンチが設立した「メリルリンチ日本証券」に移籍・譲渡された。私が外資金融を知ったのはその時が初めてだった。

私はバブルを知らない。知っていたとしても愚かさとしてであり、強さとしてではない。当時、「日本式」とは「間違った」の代名詞として響いていた。終身雇用、年功序列、メインバンク制、護送船団方式、稟議制度に代表される集団主義的・ボトムアップ方式の意思決定……。

ことは経済だけではない。それまで隠蔽されていた政治腐敗は常に暴露されつづけた。中2の冬に阪神淡路大震災と地下鉄サリンがあり、中3の間はオウム報道が常にテレビに映っていた。

高1の夏にはサカキバラ事件である。また、高校生の間に暴露された官僚の腐敗(「ノーパンしゃぶしゃぶ」)は、若いだけにその下劣さに、私は憤りを通り越し、萎えた。私の高校出身の官僚もノーパンしゃぶしゃぶのリストに乗っていた。

地震が起きても燃えるに任せるしかないリスク管理のできない国。強欲で無能な官僚と政治家の国。国家をゆるがすような宗教団体に全く気がつくことなく毒ガスが撒かれる国。下劣なワイドショーで真相には一向に迫らないメディアの国。社員が「善良で優秀」であっても経営が悪くて破綻してしまう国。

そうした世代の目がアメリカに向かうのは当然だった。高校に通っていた時にも、多くの同級生がアメリカのビジネススクールで MBA を取ることを一つのマイルストーンにしていた。

漢文や古文は無駄で、その分を英語に回すべきだと語っていた友人は強く指示を得ていた(私は漢文をよく読んでいたのでそれに反対だった)。

私はというと、そうした国際金融の枠組み自体に違和感を持ちつづけていた。山一證券破綻についても、その前のアジア通貨危機の関連で捉えており、そのアジア通貨危機の引き金としてのヘッジファンドを代表とするグローバル資本への違和感を募らせていた。ただ、図書館でマルクスを借りたりして、現国の先生と話したりもしたが、いまいちピンと来なかった。

私と同級生たちの目線は同じだったと思う。ただ異なっていたのは紙一重だった。

*

こうした孤立化は高校の同級生の大部分が公務員か上場企業の社員の息子であったのに対し、私が中学校しか出ていない千葉の町工場の息子であったことも強く関係しているとおもう。

貧困の問題は強者には関係がなく、苦しむのは貧しい者である。私は肌で所謂「産業空洞化」を実感していた。家庭と工場に別がなかったので、小さい頃から帰宅後には仕事に駆り出され現代の若者風の遊びは出来ず、景気が悪化すると、この国の加工業と銀行の状況変化を食卓で感じつづけた。

ちなみに、子供の学歴と親の年収は強い相関関係がある。高校に入ってすぐ、この国が世襲の身分制の国に他ならないことを私は強く認識していたし、それ以上に、富める一族には富めるだけの理由があり、貧しい一族には貧しいだけの理由があることも強く感じた。

それは金銭的な問題ではなく、マインドセットの問題である。私は親の経済力の無さにも勿論苦しんだが、それは自分のバイトでまかなえたし、勉学に勤しみ、情報を探索すれば世の中には奨学金制度や学費免除制度がある。

しかし、親の精神や意識の貧しさは、巨大な問題であった。情勢に対する先見の明の無さ、刹那的な消費、虚栄、強欲、愚痴に苦しんだ。

私は親の仕事を助け、金銭的にも助け、工場が潰れた後には、次に始めた仕事も助け、最後に私が就活してコンサルタントの会社の内定が決まりかけたときに、父親が「トレンディ・ドラマのようだ」とか「嫉妬をおぼえる」などと俺に言ったときに、俺の中で、それまでに既に限界に達していたものが崩れたのだと思う。

都内の有数の進学校に合格したときも、国立大学に合格したときも、一度も褒められはしなかったし、教育費の面での負担の愚痴をぶつけられたが(そもそも高校時代から私はほとんど自分の稼ぎと奨学金で食って学んでいたのだが。大学入試の金は祖母に借りた)、少なくとも嫉妬などという言葉はなかった。

まあ、父も辛い時期だった。それは理解できる。数々の暴力も罵倒の言葉も全て赦せる。しかし、しかし、である。私は未だに「嫉妬」という言葉を吐く父親を理解できていないようにも思う。そうして愛に飢えた男は不安定で脆く、弱いのだが、そうした自分を私はどうすることもできないのかもしれない。

*

そんなこんなで、孤立した私だったが、大学時代には様々な国の友人との出会い、グローバリゼーションの問題について思索を深めていけた。

イニャシオ・ラモネの 金融市場を非武装化せよ などを読み、トビン税やATTACに強い興味を持ち、01年に来日したベルナール・カッセンの話をきいた。柄谷行人とマイケル・リントンらの地域通貨にも興味を持ったのもこの流れだった。

日本の友人は少なく、中国人や欧米人の集まりばかりに顔を出した。大陸の人間のストレートさと自負心、そしてそれを支える教養に、私は心が癒された。

次第に欧米金融を中心とした多国籍企業を目指す日本の同級生より、そうではない仕方でのグローバリゼーションを考える人々との交流が増えていった。

2001年9月11日にもそのように通り過ぎた。私の実家にはアメリカ、中国、ドイツから次々と国際電話があり、日本にいる留学生の友人からも電話があった。彼らと国境を越え、メールやチャットを交わす中で、私たちは何かを感じていた。

いや、その議論の中身ではなく、そうして一つの事象についてインターナショナルに語れること自体が、その「何か」だったのかもしれない。

互いに自国のマスメディアの外の情報を交換し、互いの国のメディアについて議論した。

ITと関連しつつ、私は何かを強く感じていた。それはマスメディアの外、ナショナリズムの外、資本主義の外にあった。

*

皆がそれぞれに考え、生きている。それぞれがそれぞれの道を歩んでいる。

私が高校生だったときの世間の常識はすっかり変わりつつある。狐につままれた気がする。そんなものなのだ。時代というものは、マスメディアが伝えるものは、大人の言うことは。

まあ、そんな雑感を書きたかった。

2008-09-25

投資銀行モデルの終焉とアメリカの危機

21日、米投資銀行1位のゴールドマンサックスと2位モルガン・スタンレーが銀行持ち株会社に移行することになった。これにより、主要な投資銀行は消え去り、投資銀行モデルの終焉が決定的となった。

自己資本規制の適用を受けずに資本市場から資金を調達し、ハイレバレッジな投資を行い、高収益を稼ぎ出してきた投資銀行だったが、今後、両者の監督権限は証券監視委員会から連邦準備理事会(FRB)に移り、自己資本規制比率に縛られることになる。これに伴い、主要な投資銀行が消え去っただけでなく、彼らの「ブラックボックス」も消え、残った両社もまったく違った存在になることだろう。

こうした危機的な状況下でアメリカ当局は公的資金の投入と空売り規制という二つの麻薬を打った。こうした処置は、短期的には痛みを和らげるが、公金投入が政治的に困難な問題であるのは90年代の日本を思い出せば明らかであるし、空売り規制は市場の流動性を大幅に損ねる。特に、空売りによって下げ相場での利益を確保する手法を得意とするヘッジファンドなど、常に利益を出さねばならないファンドは、そのいくつかが破綻に瀕しているという噂である(Bloomberg.co.jp:ヘッジファンド業界:空売り規制が打撃、成績は10年で最悪か-WP)。90年代、ワシントン・コンセンサス下で他国に押し付けた金融政策を思い出せば、そのあまりのダブルスタンダードに傍から見ても恥ずかしいほどだが、これだけの麻薬を打たねばならないほどに状況が危機的であることが分かる。

必要な処置は麻薬ではなく、本来の体力の増強である。それは具体的には不透明なレバレッジを外し、資本の信用を高めることに他ならない。そのためにはどうしたらよいだろうか?

まず、現在の金融の「リスキーな商品に手を出す」インセンティブ構造を変化させねばならないと思う。また資産価値や信用の低下が「雪崩を打つ」ために「ババを引きたくないから問題を先送りし、マクロ的には更に問題を大きくする」という構造にも問題があるだろう。少なくともこの2点の構造が改善されない限り、今回の問題は回復をみることは難しい。

第一の構造のためには社員や経営者への責任を追求する法律が必要だろう。局所的な視野で「成功」を収めたCEOへの「金色のパラシュート」をもう許してはならない。第二の構造のためには、資産価値の査定や保証に対し、当局の監視が必要かもしれない。そして、その査定に対し保険がきちんと効けば価値低下の雪崩は防げるはずだ。

さて、それにしても米国の地位低下を証明するかのように、今回の金融危機に対しての中東系・中国系の対応は静かなものである。去年CITIに8100億円投資したアブダビから声は聞こえてこないし、中国当局にいたっては米銀への貸出自体を規制するという報道まで出た(中国の監督当局、国内銀行に米銀への貸し出し停止を指示=香港紙 | Reuters)。香港の英字日刊紙サウスチャイナ・モーニング・ポストによれば「今回の指示は、本土の大手金融機関の信用危機へのエクスポージャーが数十億ドル規模に上るとの報告を受け、中国政府が深刻化する米国の金融危機に対し、自己防衛に入ろうとする最初の動き」とのことである。MUFGがモルスタに9000億出資するように、日本が出資をしているのと大きな差である(ていうか、ちゃんとドューデリしたん?)

いまのところ日欧は米を助ける姿勢で一貫していると思う。しかし、それはどこまで続くのだろう。当初から問題視されている総額62兆ドルに上るという CDS 市場はどうなってしまうのだろう(ちなみに8/21現在の東京証券取引所第1部の時価総額は397兆5984億円日経: 東証1部の時価総額、400兆円割れ 約5カ月ぶり )。この爆弾が爆発すると大変なことになるということで AIG は救済されたというのが大枠の理解だが、実際にこの問題を軟着陸する術はあるのだろうか?

万が一、CDS が爆発したら、ドルが暴落し、キャピタル・フライトが起こるだろう。そうなると、どこかで、ヨーロッパすらも独自の道を選ぶタイミングがある気もする。そのとき、日本はどうするのだろうか? そのとき、アメリカの赤字を補填している」とも噂される財務省証券(米国債)を売ることが出来るのだろうか? それとも、その国債すら抱えたまま米国の属国として沈んでいくのだろうか?

大枠で考えると、現状は既に破綻していた米金融を処理しているだけで、ヨーロッパと中国、中東(と日本? アメリカ?)のマルチラテラルな世界システム移行は、ほとんど完了していると見るべきなのだろうと思う。米国経済のバブル崩壊は数年間言われ続けていたのにこれほどに問題が巨大ということはそう理解するしかないと思う。

それでもIMF、世銀のラインの問題は残るが。

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2008-09-21

リーマン破綻: 何が終わり、何が始まろうとしているのか

「終わり」が始まった。それは誰の目にも明らかだろう。

しかし、一体、何が終わろうとしているのだろうか。そして、「終わり」はどこまで続くのだろうか。何点か現在の雑感を率直にログしておく。

*

まず、確実なのは、投資銀行が単独のビジネスとしては限界に達したということだろう。投資銀行のビジネスとは有価証券の発行による資本市場からの資金調達である。顧客企業の資金調達を証券化によりサポートし、M&Aなどでの戦略をアドバイスする。さらに各種資産の流動化による資金調達(不動産やローン債権の証券化など)、金利や為替等の金融派生商品を用いた財務リスクヘッジなどを行う(投資銀行 - Wikipediaを参照)。間接金融から直接金融への流れのなかで我が世の春を謳歌した投資銀行だったが、結局は商業銀行へ吸収されてしまうのだろう。[22日追記] 21日に投資銀行首位のゴールドマンサックスと2位モルガンスタンレーが銀行持ち株会社になり、かくして100年弱続いた Investment Bank というビジネスは終了した。(GSとモルスタが銀行持ち株会社に、投資銀行モデル終えん| Reuters

ただし、この流れ自体は1999年のグラススティーガル法撤廃からの規定路線と言えることに留意が必要だ。同法は世界恐慌後の1933年、預金部門と融資部門とを明確に分離すること(銀証分離)を定めた法律だった。この法律の目的であった預金者保護が、金融工学によるリスクヘッジで可能との認識が成立する中で、商業銀行も投資に乗り出していた。この中で、投資銀行は単独に存在する意義を失い、既にM&Aが進んでいた。つまり、投資銀行の単独の存在が消失するのは規定路線であったと考えられる。そのため「投資銀行がなくなり商業銀行になればいい」と私は短絡的には考えて居らず、今後むしろ大きな問題が生じてしまうのではないかと危惧する。投資銀行モデルの終焉とアメリカの危機 | digi-log に書いたような対策が必要だろう。

一方、今回の流れのなかでは、金融工学によるリスクヘッジや、レバレッジをきかせた投機に潜むリスクの高さも明かになった。「貸してはいけない人に貸す」べく、リスクを隠蔽して資金を集めたことは、語弊があるが「不正融資」であったとも言える。今回の事件の後、こうした手法もなりを潜めるかもしれない。少なくとも短期的に言えば、投資をしている商業銀行もいまはレバレッジを外し、リスクを精査して信用回復に努めることになると思える。この意味で、今回終わったかもしれないのの二番目は金融工学への過剰な信仰である。

しかしながら、レバレッジをきかせた証券化のリスクを学ぶ機会は、アジア通貨危機 (97)やそれに続くロシア危機(98)の際の巨大ヘッジファンド LTCM の破綻やエンロン破綻 (01) の際にも学べたはずだったのであり、中長期的に考えると証券化による「不正な」レバレッジや「神話の捏造」がなくなるということを望むだけ不毛かもしれない。投資銀行を吸収した商業銀行は、再び手を変え品を変え仕掛けてくることだろう。

リスキーな証券には手を出すべきではないということだけは今回の教訓とするべきと私は思う。既に再編された金融が日本に上陸し「サブプライムローン」を仕掛けはじめている。今後、更に甘い言葉がメディアに蔓延することだろう。もちろん、短期的にはそこで利益をあげる者も出てくることだろうし、他ならぬあなたも利益を上げられるチャンスかもしれない。しかし、大多数は損をするのは確実だし、かつ、その先にあるものは今回と同じ信用収縮であり実体経済への打撃である。何も自分の国の経済を自分で破壊するのに加担することはあるまい。故に、当局の規制に期待できない現状においては、一人一人が今回の教訓を是非とも活かさねばならないと思う。大枠で言えば、賭博で儲けるのは胴元と決まっている。この国に住む一人一人の知性により「不正」が行われないということを、私は祈っている。

そして、次に終わりかけているものを思い浮かべると、ドルの基軸通貨性がひらめく。既にユーロ圏は安定した通貨運営を実現しており、産油国も独自の通貨構想がまとまっている (湾岸協力会議 - Wikipedia 参照)。今後、彼らにドルを支えるメリットは相対的に低くなる一方であろう。通貨構想は東アジア (東アジア共同体 - Wikipedia#地域金融と通貨の統合アジア通貨基金 - Wikipediaアジア通貨単位 - Wikipedia を参照) やラテンアメリカ (南米共同体 - Wikipedia参照) にもある。尤も、即座にドル一極体制から、基軸通貨の多極化へと移行するとは思えないが、ドル覇権はゆるやかに退いてゆくことだろう。この流れも、ブレトンウッズからニクソンショック、スミソニアン、プラザ合意という流れから自然なものであろう。

これを経済のブロック化と捉えるむきもあるが、むしろ、複数の経済圏レイヤーが多重的に世界を覆う状況になってゆくと私は考える。つまり、一つの国が複数の経済圏に属するということだ。スープラナショナルなレイヤーが各国通貨レイヤーを仲介し、さらに国内での通貨もローカルな通貨運用が実現してゆくのではないかと考えている。現在の企業を中心としたマネーの他、今後、地域や趣味に基づいた通貨も増えて行くことだろう。つまり、単一ドル覇権も終焉を迎えるが、新な単一基軸通貨が出現するのでも (IMF が提案する可能性はあるが)、また、ブロック化するのではなく、多極化しつつ、かつ、多重レイヤー化すると私は考えている。そうでなければ先の大戦の二の舞となってしまうだろう。

最後に終わりかけているものを妄想すれば、アメリカ経済そのものである。米国からキャピタルフライトが起きる可能性は否定できず、下手をするとセットとしての日米経済がデフォルトになるかもしれない。が、これはありえないことだと考えては置く。されども、相対的に米経済のプレゼンスは低下してゆかざるをえないとは思っている。ドルの基軸通貨性を失ったときに双子の赤字は余りに大きすぎる。

そうして20世紀はようやく終わるということか。私はそういう思うに駆られる。そして、新しい時代となるのかと。しかしながら、その感覚はあまりに希薄でありぼんやりとしている。

なぜか?

確かに終わりは始まった。しかし、終わりの終わりは来るのだろうか? この問いを問う私は、ともするとブラックホールに吸いこまれるような眩暈をおぼえてしまう。始まりが来ない限り、終わりの終わりはやってこないからだ。

私には、未だ始まりは見えてはいない。が、明るい未来は確実にやってくるものと私は信じている。

参考記事

参考リンク

2008-09-10

私のファイリング・システム(書類整理法)

書類を整理する仕組みを持っていますか?

無意識的に手を伸ばして必要な情報にアクセスできるメリットは、集中して仕事しているときに絶大です。キーワード検索やマウス操作では思考を中断されます。

全文検索できない紙をどのように整理したらいいのでしょうか。最近では以下のような方法で安定しています。

  1. クリアホルダとファイルボックスを使う。まず使うファイル製品を決めましょう。私は100円ショップで10枚100円で買えるクリアホルダを利用しています。はさむだけなので簡単に利用でき、中身が見えるのがポイント高いです。数枚から数十枚程度の書類ならこれでオーケーです。それ以上の分量になるものはファイルボックスを利用しています。立てて並べるならこれで十分です。穴を開けるなんてやってられません。
  2. 薄いファイルを作らない。初心者のはまる罠です。細分化したファイルを作ると見つけるのが大変です。最初は大雑把な分類だけをしておいて、ファイルに入りきらなくなってからファイルを分けるべきです。分類したいという過剰な欲望こそが、書類管理の一番の敵なのです。
  3. 「はがせるラベル」で見出しをつける。大雑把な見出しをつけるようにします。「はがせるラベル」なら気楽に見出しを書き込めます。見出しだけを眺めて探す方が楽です。できれば日付もつけると日記と連携できるのでさらに幸せになります。
  4. ファイルは立てる。ファイルを寝かしたり積んだりしたら死んでしまいます。必ず立てるようにしましょう。そのためには、ファイルのための場所を決めましょう。私は机の横の出窓と、本棚の一番下の段を利用しています。最初は多少スカスカになるほどスペースを準備しておいた方がよいでしょう。
  5. 資料は時系列で並べる。繰り返しますが過剰な分類への欲望は破滅への道です。私は二つのルールを決めています。一つは「押し出しファイリング」方式です。これは「使ったファイルを手前に戻す」というだけのルールです。こうすれば同じ時期に使ったファイルがまとまるので利用しやすいです(詳細)。未来に使う予定のファイル置き場も作っておくと更に便利です(「現在」や「一週間後」を示す厚紙を置いておく。いわゆる43files)。
  6. 事務は名前の五十音で並べる。事務的な情報は相手がいます。そうした会社や人に関係した情報は五十音順にならべています。抽象的な概念よりも実際の人間や会社の方が想起しやすいし、名前も変わらないから五十音順で並べても問題がなくアクセスが楽だからです。事務といってはあれですが友人との私信や家族に関連した情報もこの方法で整理しています。例えば旅行の資料を保管したい場合には「誰と行ったか」で考えて、その人のファイルの側に置いておきます。
  7. 「その他」を作る。「薄いファイルを作らない」というルールを守るためにも、「その他」は絶対に必要です。名前で分類するにしてもすぐに個人名のファイルを作る必要はありません。継続的な関係になる前には、ひとまず「その他」に入れておけば十分です。くどいですが過剰な分類への欲望は破滅への道です。ファイリングシステムなんて、見つけられればいいのですから。

以前は情報をせっせとで電子化していた私ですが、この数年、いくつかの分野では電子化したデータより実物の紙を管理した方が効果的だと感じまして、本棚の一部と机の横をファイル置き場にしました。すっきりと情報が整理されているのは気持ちいいです。それに、利用したファイルが利用順に時系列に並ぶので、情報が自然に組織化されてゆきます。

もちろん全てが紙である必要はありません。考えたり、アイディアを出したりするときに参照するものが無意識的に取り出せる必要があるだけです。検索して見つけられればいいものは、Google DocsでPDFを管理する理由 で書いたように Google Docs で管理しています。

「押し出しファイリング」や「山根式ファイリング」など有名なファイリング方法が提唱されていますが、私にはどれもしっくり来ませんでした。試行錯誤の中で、時間と人で分類するのが効果的と感じるようになりました。そして、二つのファイリングルールがあることで自然に「資料(利用時の時系列順)」と「事務(名前の五十音順)」に分かれています。部屋の整理はフローとストックの区別で での考え方によれば、資料はフローで、人との関係はストックということになるでしょうか。

私はこの方法にとても満足しています。どうぞお試しください。また他にもよい書類整理の方法があったら教えて下さると嬉しいです。

関連記事

  1. [書評]「超」整理法 / 野口悠紀雄: 「押し出しファイリング」についての本についてのコメントです。クリアホルダやファイルボックスについても書いてあるので参照ください。
  2. 部屋の整理はフローとストックの区別で: ファイル整理についても書いてあります。
  3. Google DocsでPDFを管理する理由: 電子ファイルの管理はGoogleに任せることにしました。
  4. 整理のための6つのルール
  5. 情報と向き合うときに気をつけること

参考記事

とても参考になりました。

  1. Organizing Filing System
  2. How to Simplify Your Filing System; or, Why Stacking Just Doesn’t Work

2008-09-09

Google DocsでPDFを管理する理由

PDF の管理や整理は頭痛の種でした。

PDF で提供される情報は良質なことが多いのですが、PDF は閲覧にも検索にも不便で、死蔵しがちになってしまうのです。いい整理方法はないものかと PDF を管理するソフトも試しましたが、どうもいまいちでした(iTunes も試しました)。

しかし、試しに Google Docs で管理すると、今までで一番すっきりとしました。今回は、そのおすすめする理由を書いておきます。

  1. 軽快にPDFを閲覧できる。 Google の PDF ビューワはめちゃくちゃ軽快です。PDF のリンクを押すとさくっとサムネイルネイル(画面の縮小表示)付きにビューワが立ち上がります。スクロールもとってもスムーズです。はっきりいって Adobe Reader でローカルで見るよりも楽です。PDF を開く苦痛がなくなります。
  2. タグで分類できる。 Google Docs では「フォルダ」と呼んでいますが、一つのファイルに複数のフォルダに置けるので、機能的には「タグ」とか「ラベル」と呼ばれるものです。ファイルを柔軟に整理・分類することができます。
  3. オンラインでアクセスできる。 保存した PDF にどこからでもアクセスできます。共有機能もあるので知り合いにファイルを見せるのも簡単です。
  4. そのうち全文検索できる(はず)。 現在ではまだできないのですが、Google のサービスなのでそのうち全文検索機能がつくのは目に見えています。PDF の全文検索を実現するソフトは多数ありますが、検索インデックスの生成のために CPU パワーを使います。しかし、Google Docs であれば Google のサーバがインデックスを作成するので、私たちは何の負担もなく、全文検索を利用できます。

使い方は簡単。Google Docs のメニューにある Upload というボタンを押せば、アップロード用のフォームが開きます。最大ファイルサイズが10MBという制限があったり、メールからのアップロードができないといった制限がまだありますが、それでも通常の利用には何の問題もないでしょう。

ぜひ試してみてください。

関連記事

2008-09-05

音声認識ソフトで書いて感じたこと

音声認識ソフトで入力すると様々なことが見えてきます。私たちが文字を書いているということは一体どういうことなのかを考えさせられます。

通常は文書を書くときには紙に手で文字を書いています。すると文章とは手で書いているという感覚におちいることがあります。キーボードで入力していても手で書いているという感覚は似ています。

しかし、こうして音声認識で書いていると手で書くという感覚は起こりえません。しかし、だからと言って口で書いているという感覚も起きない。

では、どこで書いているのか?

その答は、文章は「目で書いている」という感覚です。

書いた文字を目で見ながら、次の文章ひねり出しているのです。おそらくそうした書かれた文字を見なければ、次に書く文章は変わってしまうことでしょう。音声認識で書くとこのことに一番気づかされ、驚かされるほどです。

だから文書の書かれる視覚的なインターフェースが重要だということです。もしかしたらキーボード、万年筆、毛筆、紙という触覚上の違いよりも、視覚上の影響の方が大きいのではないかと考えてしまいます。

縦書きと横書き、手書きとパソコンでの違いは触覚だけでなく、こうした視覚上の違いもあるのかもしれません。

2008-09-01

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