2006-12-27

インドブーム雑感

いまインドがマイブームだ。仏教からヴェーダ、ウパニシャッド、六派哲学、ヨーガ、アーユルヴェーダと興味は尽きない。

ところが、別に「インドに行きたい」とか「インドについてちゃんと学びたい」とかいうわけではない。なんというか、必要なことをしぼっている感じだ。そのヒントをインドの文化に与えてもらっているという感じ。

必要なこととは何だろう?

自分がコントロールしなければならない物事が世の中にはある。逆に、自分がコントロールしなくてもよい物事も世の中にはある。その中で、自分でコントロールしなければならない物事を学ぶのが大切だということに、やっと最近気がついたんだと思う。

あたり前だって? そう、当たり前だ。だから、自分がコントロールしなければならない物事を優先して学ばねばならないと思う。

そして、自分でコントロールしなければならない物事っていうのは、つまるところ、心と体だと思う。あとは精神っていうか、意志というか、志みたいなのもコントロールするべきものだと思う。でも、ひとまず意志は後回し。

自分の体を健康に保つことが、ひとつの大切な義務だと思う。そのために、自分の体を知らなければならない。

体のやることはつまるところ行住坐臥につきる。つまり、動く、立つ、座る、寝る。

それらを見直すと、結構、自分の体の使い方を知らないことに気付く。私の首と腰は明かに痛んでいる。でも、よく見るとそれだけじゃない。足の裏を見れば、親指の外側にはタコができていて、外反母趾になっているし、小指は哀れに折れ曲り内反小指になっている。クルブシを揉めば痛みがあるし、腓骨は膝の下で出かかっている。軽いO脚になっていて、左股関節は回すと音がする。「ああ、俺って体の使い方、なってないなー」と思う。

そうした間違った心身の使い方をインド文化を学ぶなかで勉強できるのかもしれない。心にも体にもヨーガやアーユルヴェーダがきく。医や食について見直せる。

2006-12-20

場について

いつも通りの気違いぶりですな。スルーして下さい。




身体とは一つの場である。

身体という場の中で、自意識としての「私」と、様々な器官、更には細胞や最近の一つ一つとがコミュニケートしている。

細胞も一つの場である。細胞という場の中で、細胞膜や細胞質、リボソームやミトコンドリアなどがコミュニケートしている。同様に、分子という場には、原子が相互作用していて、また、原子という場では、原子核や電子が互いに間をとりあっている。

この循環に終わりはあるだろうか?




逆の循環もある。

私の身体は、この部屋という場にあり、部屋という場の中で、パソコンや床、照明器具などとコミュニケートしている。

そうして、私のいる部屋も、他の部屋と相互作用を持ちつつ家という場をなし、この家も他の……と循環してゆく。

あるいは、私は他の人とコミュニケーションをとりつつ場をつくり出しているとも考えられる。私は両親などと家族という場を構成しているし、この家族も他の家族との関係の中でより多きな集団をなしているだろう。会社も、国家も、それを構成する人々が創発した場である。

また、こうしたメッセージが読まれる中で、もしかしたら私と読んでいるあなたとで相互作用がうまれ、場が生まれるかもしれない。そして、そうした場も、より多きな場へとつながってゆくだろう。

この循環も「世界」という究極の概念へとつながってゆくだろう。




場の中には、構成要素がいて、互いに特定の間をとりつつ相互作用をしている。逆に言えば、構成要素が特定の間を取るからこそ、場が創発しているとも言えるだろう。

全てのものごとは場の中にある。また、全てのものごとは、それ自体が場であり、構成要素を持つ。

場の中で構成要素が特定の相互作用をする。この形式を私は間と呼ぶ。これは構成要素間のコミュニケーションの「型」のことであり、コミュニケーションで交換されるメッセージや情報に対する「メタ情報」「プロトコル」などと言えるものだろう。

万物は場の中にあるのだから、それが属する場における間に支配されている。一方で、場とは構成要素が間をとることによって成り立つのだから、間とは常に変更され続けるものでもある。




自由の本質は、間を変えることにあると私は考えている。私達は常々、どこかの場に属し、その中で、他者と間をとりあっているのだから、場における自由こそが自由の一番の問題であり、その場における自由とは、間に対する自由に他ならない。

私達は常にその場、その場で生きている。その場、その場は常に変化し、その間も変化する。ところが、人は「間」を固定したものと捉えがちであり、場への認識は閉塞する。これは思考がおかす間違いである。

閉塞した認識の場から自由になるためには、過去の記憶から開放し、その場その場に新鮮な眼を向けねばならない。その眼差しの中で、新たな場の可能性が無意識に与えられるのかもしれない。気付き、閃き、さとり等は「与えられる」。思考の帰結ではない。




間というメタ情報自体を改変するコミュニケーションはいかにして行われているのだろうか。

場の中の対話は、時に対話における間を変革する対話すらなしえる。コミュニケーションにおいて、そのコミュニケーションの基本となるプロトコルを改変するコミュニケーションのありかたがある。

それは水が沸騰するときのように、始めは疑い深く試すように、そしてある時を過ぎると激しく、激烈に。もしくは、情の芽生えのように。

それは「与えられる」。

ある瞬間において、新たな場、新たな間の中に「投げ込まれ」た自分に気が付く。自分で意図的に新たな場、新たな間となったのではない。気が付いたら、新たしい場に「投げ込まれ」ていた。




より広く大きな場を感じること。
より小さく些細な場も感じること。

場は常に流動し続けている。
過去にとらわれるのは「私」の意識だけだ。

目の前の場の中に、本当に必要なものを注ぎ込むのだ。

2006-12-15

ビックリマン・チョコ

身内と駄菓子とかについて話す。小学生の頃のビックリマンチョコ・ブームを思い出した。


いつだったかあいまいだが、ビックリマンのシールがはやってた。ガキはあほみたいにビックリマンチョコを買った。

駄菓子屋の脇のゴミ箱はビックリマンの包装であふれた。中にはお菓子も捨てられていた。おまけのシールが目当てだから、チョコ自体はどうでもよかった。それはある種の社会問題になって学校でも「食べ物を粗末にしないように!」と何度も指導があったのを覚えている。

俺はシールとか集めなかった。んで、さめた眼で眺めてた。ビックリマンはまってた友人とは、絶交というか、まあ、つきあいやめたやつもいた。はまってるやつには、シール持ってるやつとしか遊べないのだから。

そんときから「おいおい、どーしてそんなの集めんの?」と思っていた。んで、今日かんがえてたら「こりゃ、ラカン先生、出番じゃね?」という気分になった。



ガキはなぜシールを集めたのか?

実はシールそのものがかっこよかったなんて感じていた奴は少数もいいとこだった。シールそのものの使用による価値は無かったと言っていいだろう。シール貼ってた奴なんて、見たこともない。シールそのものが提供する機能が欲しかったのではないと言えるだろう。

ガキは、さしてカッコよくもなく、貼られることもないシールを何故集めたのか? その答えとして、「集めることそのものに意味があった」と答えることもできるだろう。シールが購入され、交換され続けたのは、シールそのものではなく購入や交換という行為そのものに快楽があったからである。

シールは欲望された。しかし、ガキがそのシールを求めたのは、他の誰かがそのシールを求めると信じているからである。「誰かが欲しがる」からこそ、それは求められたのである。ガキたちは、他人の欲望を欲望したと言える。繰り返すがシールそのものは魅力ではなかった。

シールを効率よく入手するための交換こそが、シールに魔力を持たせたのである。特定のシールを手に入れるためには、相手が欲しがるシールを持っていなればならない。そして、そのシールを持っているためには……とシール交換は無限の循環を生んでいった。

ガキは「誰からも欲しがられるシールを持っていること」を望んだのである。その理由は「そうすることで、どんなシールも手に入れられる」からである。

この論理の破綻をほぐすことはガキにはできない。ガキは「すげー」と言われたいのである。自分が「すげー」と思う必要はない。

自分の欲望は関係ない。だからこそ、欲望は無限のものとなったのである。ガキは無限の交換の中で、他者の欲望と戯れることに快楽を見出したのである。

これがビックリマン・ブームの鍵である。

ビックリマン・ブームとは欲望の拡大再生産の状況においてのみ成立した。ガキたちは、常に未来により多くの欲望が存在すると信じているからこそ、現在のシールを欲望しているのである。

故にビックリマン・ブームの衰退は、まさにビックリマン・シールが完全に覇権を握った時に訪れた。つまり、学校で誰もがシールを集め始め、シールが権力装置として機能し始め、シールの価値が驚異的に高騰したその時に、ビックリマン・ブームは死へと向かったのである [1]

人気の低下の速度は恐るべきものであった。一瞬にして、高嶺の花であったシールも簡単に入手できるようになり、程なくして、ガキたちはシール自体を恥ずかしいものかのように扱うようになった。

ビックリマンは、ガキにとってのバブル体験であったとも言えるかもしれない。


もう少し具体的なガキの行動を書き留めておく。

シールを入手するためにガキは様々な市場を編み出した。まず友人、次に親戚、更に友人の友人という形の人脈が急速に形成され、交換の場を生み出した。また、駄菓子屋の脇、校門や公園など人の集まりやすい場所は、人脈によらない交換の場として機能した。中にはチャリンコをこいで別の小学校に行く猛者も現れた。こうした出会いもビックリマンから派生した楽しみであったであろう。

他方、消費の快楽も明かだが、ガキはその快楽を更に高める方法を編み出していた。それは、質の高いシールを入手するための独特の方法でもあった。



当時の一部のガキには信仰があった。それは「駄菓子屋への一箱あたりの人気シールの割合は一定である。しかし、我々が手前から細々と購入すると、駄菓子屋は補充を不人気シールで行う。つまり人気シールは棚の奥で眠ることになるのである。それ故、我々はできるかぎり多くのチョコを一括購入しなればならない」というものである。

どう考えても筋は通らないが、これは信じられていた。

この信仰を信じるガキは、徒党を組み、金銭を募り、駄菓子屋でビックリマンチョコを一括大量購入したのである。交換の結合は、しばしば金銭的な結合ともなった。

一人のガキがチョコを買っても数枚買うのがいいとこである。しかし、ガキが数人、多い時で10人以上が、溜めた小遣いを出し合うことで「箱単位」での購入が可能になった。

そしてその金銭結合は「一括購入」のためにきわめて「禁欲的」であった。彼らの信仰によれば小出しの購入は質の低いシールを得ることにしかならず、一括大量購入こそが効率よく質の高いシールを獲得する道であった。集団の長はこの信仰を説き、構成員に対し、日々の小遣いの無駄遣いをきつく戒めたのである。

禁欲の日々の後の大量消費 ……「Xデー」はほぼ一カ月おきであった。唯でさえ無駄遣いが好きな方のガキが一カ月間、無駄遣いを我慢し、来たるべきビックリマン大量購入の日と待つのである。

目の前に広がるビックリマン・チョコの山にガキ達は歓喜した。即座にパッケージは破られ、チョコは捨てられ、シールは並べられる。これはまさに宴である。「食物を捨てること」を宴の要素とする文化も多いことも指摘しておきたい。

そして、出資額とシールの価値に基いて、シールは分配されたのである。このシステムはガキにしては極めて精巧にできていた。


notes


[1] まあ実際には公正取引委員会の注意で規格が変わったのが大きいんだろうけど。詳しいこと知らん。

2006-12-10

メキシコ情勢 2

前回と同じく友人のメールから転載。
***
前にメキシコ情勢について書きましたが、もしかしたらその後どうなったか気になる人がいたことを願ってます。以下その続きの今日のニュースです。自分の国なので感情的になってしまいますが皆さんは暇な時にでも読んでやってください。(背景が分かりにくかったらいつでもメールください。)

今日、11月20日はメキシコの独立記念日でした。そして同時に今日は、大統領選挙の結果、不当とされる7月の選挙で当選した大統領を認めない左派と市民運動によるオブラドール氏の「正当大統領」としての就任式がありました。就任式でオブラドールは代替の「内閣」を発表し、社会正義を追求するための「20の計画」を提示し、新しい憲法を作成するための国民投票を行うことを宣言しました。

なぜ、わざわざ独立記念日を選んだのかと言うとそれは当時成し遂げられた、福祉国家の形成、農地改革、石油の国有化、主権を尊重する(アメリカに距離を置く)外交がすべて崩されてきたからです。簡単に言えばオブラドールは「代替の政府」という「運動」を議会、そして市民の間で組織して展開していこうとしている訳です。また、独立記念日に任命され、革命記念日に就任するというのは200年前の独立、そして100年前の革命の歴史の流れにそって予言されてきた社会の変革を実行しようとしているのです。その流れはやがてラテンアメリカの統合へと続く道なのです。

また、オブラドールは大統領のシンボルとして選んだのは19世紀にラテンアメリカ初の先住民大統領(2番目は現ボリビア大統領)であるファーレスが使っていた顔が上向きの「共和国の鷹」です。因みにファーレスは当時、メキシコの「第2共和国」の憲法をつくり歴史的な社会変革に成功したことからラテンアメリカ中で英雄視されてます。同じシンボルを選んだオブラドールは新憲法を作り「第4共和国」の樹立を目指しているのです。

この社会変革が成功するのはメキシコ国民がどれだけ歴史を認識しているかにかかっていると思います。僕は一人のメキシコ人として不安や恐怖を感じずにこの運動の存在に希望と喜びを感じてます。

メキシコ情勢 1

以下、友人からのメールの転載。
***
この間、メキシコの情勢が不安定で、海外にいながら自分の国の情勢を心が避けそうな思いで追っている日々なので、ここでみなさんにも少しシェアをさせて下さい。

明日、9月16日はメキシコの独立記念日です。普段はスペインからの独立戦争が始まった光景に因んで9月15日の夜には大統領がメキシコのメインの広場に出て「メキシコ万歳!!」と叫びながら鐘を鳴らし、この夜に集まってきた群集がこれに「万歳!!といっ答えるのが通常です。でも今回は既にメキシコ・シティーの広場、そしてメインの通りには47日間にわたって占拠している大規模なデモが続いています。

これは何を訴えているかというと、7月2日の選挙で0.58%という僅差で勝ったとされている保守党の候補を、選挙に不正があったことから認めないということです。この保守党の候補(カルデロン)のキャンペーンというのはひどいものでメディアを使って左派の候補(オブラドル)はチャベスの友達で、独裁者で(政権を握ってないのに)メキシコを共産主義にする陰謀を立ててるひどいやつだという「恐怖のキャンペーン」でした。一方、左派のオブラドルの人気は立候補する前までメキシコ市長をやっていたときにメキシコシティーがこれまでになかった活気にあふれ、首都では85%の支持率で2004年には「世界のもっとも良い市長」の一人(メキシコでは唯一の)として選ばれたくらいです。

明日はメキシコの独立記念日ですが、この日にオブラドルは「全国集会」を開き、なんと新しい憲法を採択し、「代替政権」を樹立しようとしています。これ関してはやりすぎだと思う人がいるかも知れません。しかし、皆さん想像してみてください。もしアメリカでブッシュが2回、不正な選挙によって当選したときにアメリカ人が同じことをしていれば今はアフガンやイラクで死者は出なかったでしょう。47日間耐えて、メキシコの民主主義を支えている人がいるのを私は誇りに思います。皆さんも是非9月16日以降、どうなるかニュースを追ってみてください。(まあ、日本のメディアも期待できないかも知れませんがおそらくニュースにな
ると思います)

んな感じで多少感情的なメキシコ情勢のシェアでした。

2006-12-09

できることは自然の観察のみ

先日、夜中に16km歩いた折、「首と腰、足が自然に動いた。自然に、動作と姿勢を補正した」[1]と書いた。ある動作に対し、注意を向け続けることで、身体の方が自然に合理的な動きを獲得するのである。これは身体を用いる動作のほとんどに言えることだろう。

意図して動きや意識を変えようとしてはならない。それは「わがまま」であり、「無理」を生むことにしかならない。いや、幾分かは練習にはなるから無益ではないが、それでは本格的な身体意識、身体動作の向上にはつながらない。

「わがまま」つまり「我が思うまま」に動かすのではなく、「ありのまま」「あるがまま」が大切なのである。そして、そのためには、身体の意識・感覚・動作などの観察しか私達にできることはないと肝に命じよう。変化という「自然」を見て取ることしか私達にはできない。

たとえばギターを弾くことを考えよう。

実は初心者ほど力が入っている。上達すればするほど、力を抜いて演奏できる。それ故、筋力そのものの差では説明がつかないほどに、初心者と上級者の持続力や瞬発力の差は開く。演奏の上達を、演奏の合理性の獲得と考えるならば、脱力とはまさに演奏上達の要である。

こうした時に「力を抜け」というアドヴァイスは実は意味をなさない。無駄な力そのものの存在に気が付かないからである。あるいは気付いても脱力の方法は分からない。知らない動作を、人はすることができない。

では、どうするか。一般的にはゆっくり弾いたり、あるいは極度にはやく弾くことで身体に気付かせるという手段がとられる。同じ速度で弾くよりも身体の知覚が変わることで気付きがはやいということだ。

もちろん「肩」「肘」「指」「腰」などの緊張部位を示すことも有益には違いない。一時的には意図的にそれらの部位を脱力することもできるかもしれない。しかし、本当に脱力が身に付くためには、身体で覚える、身体が気付くしかない。

ただし、ただ速度を変えて弾けばよいというわけではないのは、言うまでもないだろう。弾きながら、弾いている自分の身体の動作や知覚に「意識」や「注意」を集中させるのである。持続した動作の中から、身体が自然に合理的な動作を選択することを「観察」するのである。「弾くこと」を離れて、自分の身体を観察していると、身体は驚くほど柔軟にそれぞれの局面に対応してゆくのが分かるだろう。

ギター演奏の練習の中にあって、私達のできることは、演奏の観察しかないのである。観察のために、私達は演奏から離れねばならない。

繰り返しになるが、音楽とは人の意図で行うものでは断じてない。身体が行うものである。勿論、意図が有益に働く局面の存在を否定はしない。しかし身体の感性の豊かさこそ利用すべきであるし、その豊かさのない人間は音楽をやる必要はないだろう [2]



また呼吸の問題もいいたとえになるかもしれない [3]

静かに座る。姿勢を正す。ほどなくして外部の音声は意識の外に響く。故にあなたは聴きたい音を自由に選択できる。時計の秒針、木々のざわめき。いや、今は脈拍と呼吸に目を向けよう。

心臓が脈を打つ。身体がふくらみ、しぼみ呼吸を繰り返す。この二つの動作には強い関連があることにすぐに気付くだろう。私は医学的に無知だが、呼吸はいそぐと、脈拍もいそぐ。呼吸がゆるむと、拍動もゆるものである。わずかな差だが、明かに関連している。

脈拍と意識には(これも医学的に知らないが)強い関連があり、脈拍がはやまると意識は興奮し、脈拍がおそくなると意識はしずまる。これもわずかな差だが、明かに関連している。

さて、いま私達は意識をしずめたい。ならば脈拍を遅くすればよい。そして、脈を遅くするには呼吸を遅くすればよい。ということになる。しかし、ここで意図的に呼吸を遅くしても意味はない。苦しくなって息がもたない。ほどなくして、かえって荒い呼吸をすることになるだろう。

では、どうするか。ただ、ひたすらに自分の呼吸という身体動作に意識・注意を向け、その動作を観察するのである。ただ、ひたすらに、呼吸ごとの身体の膨らみ・縮みを観察する。呼吸は荒くなったり、しずまったりするだろう。そうした変化をありのままに見て取るのだ。そして、その中で自然に身体が呼吸を合理的に制御するのを待つのである。

こうして呼吸に目を向けることが、呼吸をしずめる一番の手段である。



繰り返すが、呼吸がしずまると、脈拍・意識もしずまる。それ故、姿勢を正し、呼吸に意識を向けるというのが、しずかに何かに取り組むときための一番の方法であるのではないだろうか。

もちろんギターの時と同様、観察するためには、意識はその個々の動作に埋没していてはならない。全体に対して無意識となってしまう。そうではなく、個々の動作を越えた次元で全体を感じる意識こそ求めねばならない。その観察の次元では呼吸も個々の動作の一つとなる。そして、そうした全ては自然なのである。

そうした状態、つまり完全に意識的な状態を維持することが私の理想となっている [4]。自然が自然に「ただある」ということを意識し続けているということだ。そして、そうした状態で、現代の日々を営むことである。遁世しようというわけではない。むしろ、情熱に燃え、そのために合理的に生きたいのだ[5]。本物の情熱、本当に豊かに湧き上がった情熱は「自然」である。ただし、自然が常識的な成功につながるかどうかは別問題だが。

最後に、とにかく無理はいけません。わがままはいけません。ありのまま、あるがままに生きましょう。ラクで楽しくね。


notes


[1] digi-log: 体の動きに気づいた
[2] digi-log: 音楽はない。あるのは音だけである が関連。人間の自由、感性、豊かさについてはそのうち書こうと思う。
[3] 以下は上座部仏教に由来するヴィパッサナー瞑想に強い影響を与えていただいた。身体の意識や知覚、動作などを考える場合に東洋の瞑想の知識は多いに参考になる。
[4] digi-log: 気付き続け、必然の中を自在に生きる 参照。
禅の理想をひとことで言うと、常に、一瞬たりとも途切れることなく、心に何が起きているのかを気付き続けられるようになること、ということになる

[5] 情熱は盲目ではない。情熱とは意図的なものではない。情熱とは自然なものである。情熱とは合理的に「あるがまま」に「あるべきところ」へ向かう「生の力」「人の力」そのものであると私は考えている。

この「力」についてはうまくいえないが、digi-log: 新しい言論へのメモ では
力とは何か?人の集まり「これだ!」という力、「そうだ!」という力、これは制度に還元されない元来の力である。制度を乗り越え、その場、その場の局面を乗り越えてゆく人間の力である。しかし、それを名指す言葉は現在ない。「これだ!」とか「そうだ!」と人が感じる力、としか言えない、今の私には。なさけないことだが。
と書いている。

2006-12-08

連綿分かち書き組版

先日の digi-log: 書くことの革命 の中で俺のアツい勢いだけをぶちまけてみた。その中で、

1. 漢字を使わない
2. 句読点を使わない (センテンスからの脱却)
3. 平仮名、縦書き、連綿での自然な分かち書きを用いる
4. 複製も編集もされない。「いま・ここ」の一回性のものとして書かれる。
5. 明確な複製との差異を持つ「オリジナル」として書かれる。

ということをかかげた。うん、執筆時はオーケーだね。これぞ芸術って感じ。

「え?じゃあ配布はどうするの?」

はい。そこで考えているんですが、フォントを連綿にしたもの作れないでしょうか。もちろんプロポーショナルで(「し」とか三倍くらい長く)。そいつをTeXみたいな組版ソフトでもって美しい「連綿組版」しちゃうというわけです。そうすれば仮名を中心としたスベースで分かち書きされた文書を、テキスト情報として扱え、表示は連綿分かち書きになるというわけです。

イメージとしては手書きで勢いイッパツで紙に書いて(毛筆)、そいつをべたの平仮名と半角スペースでテキストファイル化。んで、そいつを処理すると「連綿分かち書き組版」されたPDFが出てくる、という妄想。文節末かどうかで文字毎に異なる処理が必要なので普通のワープロにフォントつっこむだけじゃダメだと思う。

# 確かTeXのギリシャ語のパッケージでσ(シグマ)の単語末を見極めて処理するのがあったような……なかったような……

執筆されたものをコピー(画像として)という手もアリなんですが、それじゃあ……ねぇ……。

よっしゃー、作るぞー! 作ってやるぞー!

というかフォントは最低限つくれても、TeXでそんなことやる能力、俺にはないか……。というか、そんなことやってる暇ないか……。

いや、そんな難しい話じゃないかな? 「連綿分かち書き組版」やりたいなぁ。うん、そんな難しい話じゃない……はず。

# いやいや、今も連綿の書体あるんだから、それで我慢してりゃいいじゃん。読めるよ。平仮名ばっかでも、連綿で半角スペース入れりゃ。

んで、この「連綿分かち書き組版」されたPDFが「キレイじゃん」「美しいねえ」とかってなって、更に「平仮名言葉っていいね」「漢字つかわないと、変換もいらんからラク」とかってなるといいなぁ。

# 俺みたいに頭の固いヤツは平仮名だけで書くの苦労したけど、平仮名だけの能力に気付いた時には頭の仕組みが変わったみたいだったから、何人かも「漢字なし日本語」の試練を前にすると考え方変わるんじゃないか、とか。

2006-12-06

Portishead 新音源

2ヶ月前にポーティスヘッドが音源をMySpaceに公開していたとのこと。ただし、3rdアルバムへの素材的な音源のようで、「曲」ではないのかもしれないが。

http://www.myspace.com/PORTISHEADALBUM3

どういうわけだろう。ポーティスヘッドの音、感性は俺の感覚と一致する。初めて聴く音が明かに「なつかしい」。求めた音が出ていることへの身体の躍動。血がうずく。

よくわからない。よければportishead を調べてみてほしい。俺は Sour Time と Glory Box が好きだ。

2006-12-05

書くことの革命

過激なことを書く。

最近、文章は手書きで縦書き、万年筆か毛筆で書いていた。原稿用紙も使ったが、やめた。まっさらな紙にさらさらと連綿で書いてゆく。自然に漢字を使わなくなる。漢字がなくても単語が連綿で一塊になっているため読みずらさはない。

「なんだ、漢字いらないじゃん」と感じる。平仮名だけしか使わなくても、きちんと単語の分けめを示せればいいのだ。ひとつの言葉を連綿で続けて書けば、単語の分け方で混乱はない。自然な分かち書きというわけだ。

平仮名の連綿で書くことが、日本語の書字の本来の姿なのだろう。平仮名が上から下へと流れ、言葉がひらりひらりと降ってくる様は、とても美しい。それに比べると、格子につめこまれた平仮名の哀れなこと。漢字のおまけにしか見えない。

現在は以下の点に留意して文字を綴っている。

  1. 漢字を使わない
  2. 句読点を使わない (「センテンス」からの脱却)
  3. 平仮名、縦書き、連綿での自然な分かち書きを用いる
  4. 複製も編集もされない。「いま・ここ」の一回性のものとして書かれる。
  5. 明確な複製との差異を持つ「オリジナル」として書かれる。

いま「書くこと」の大きな変革が起きつつある。それは電子化に支えられ進行している。この変化があるのは明かだが、その方向は私には分からない。ただ、思想、文学など「書くこと」に関わる全ての分野に大きな影響を与える事件が起きていることは肌で感じている。

その変化の中で、どのような感覚が主導権を握るかは分からない。自分でも自分の考えが主導となるとはとうてい思っていない。歴史上、手書きの連綿が復活することは無いとさえ思う。欧米でも筆記体はずいぶんと廃れているようだ。

しかし、時代が流れる方向に逆のものに、私がこれだけ強く確信をもって魅かれているということは、どういうわけなのだろう。そこに極端な力が宿っているとしか思えない。それとも、ただの時代錯誤の狂言なのだろうか。

わからない。

いや、ただ考えて欲しい。なぜ、いまスピリチュアルなものがこれほど人気があるのだろうか。それらのレベルは低く見えるのに、なぜ人々は走るのだろうか。鬱病や精神病、神経症、ホルモン障害、自傷や自殺がどうしてこれほどの問題になっているのだろうか。

もちろん、こうした問題に加え、ニートやフリータ、地方や小児の医者不足、教育崩壊、介護などの問題に対し、様々な人がこうした問題に取り組んでいる。それも成果をあげることだろう。それは大切なことだ。

しかし、それらは「本当の問題」ではない。ただある本質的な問題から生まれた「結果」にすぎない。その本質的問題とは私たちの社会が「絶望的に貧しい」ということだ。現代日本社会の個別の問題は、本質的に「絶望的に貧しい」ことからの帰結でしかない。

この「絶望的な貧しさ」と闘うことが、私の使命である。そして、その方法は、書くことの革命にあり、それが本質的な問題に取り組むことであると、私は確信している。この点、後日もう少し説明することにしよう。

私の豊かさ、私の感性の豊かさ、私の自由は、果たして「絶望的な貧しさ」を乗り越えられるかどうか、私にとって、ここに全ての問題がある。

2006-12-04

製本でネットと本の力を融合

「ネットでは短文しか読まれない」という問題に対し、簡易製本することで乗り越えられるのじゃないかと考えた。

*

以前、文章の三つの長さについてメモをした[1]。文章とは短文、長文、本の三種類に、長さ・内容の点で分類できるというものだ。それぞれの文字数は原稿用紙でおおよそ3-4枚、30-40枚、300-400枚ということになる。A4換算では、1枚、10枚、100枚である。また、短文は「記事」や「コラム」、長文は「レポート」や「論文」の長さであるとも言える。

ところで、通常のブログでは「短文」までしか読めないのではないかと思う。印刷してA4で一、二枚程度でないとディスプレイの横書きの日本語を眺めるのはつらい。短文を読むのにかかる時間は、一分で400字読むとして3、4分、800字として1分半から2分[2]。どうだろう? それ以上だと読む気を失ってしまうのではないだろうか。そうであるならば、私達は「短文」程度の文章にしかネットでは普段触れていないことになる。

形式は内容を規定すると私は考えている。つまり、文章の長さは内容を規定する。そして「本」は「長文」が有せない内容を表せるし、「長文」は「短文」では有せない内容を表わせると考えている。

この考えが正しいとすると、普通にネットでの情報を摂取していると短文の長さの枠内での内容しか摂取していないことになる。つまり、通常のネット利用では「長文」や「本」の内容にアクセスできないということになる。

これは問題である。ネットを眺めればひとまずの情報が手に入るとき、本を読むという行為は少なくなると思う。そうであれば、「短文」にしかアクセスしないことによる情報量の低下をもたらし、更には「長文」以上の内容の吸収力の低下も懸念される。こうして「ネット短文」への依存の悪循環が生じる。

「ネット短文」の悪循環を「印刷」で乗り越える

しかし、私が言いたいのは「本に戻れ! ネットを捨てよ」ではない。ブログやwiki、掲示板などで普通の人が文章を公開する技術を手に入れたことは評価するべきである。そして、必要なのは、その「公開する技術」を高めることである。

一つの解決策として、「印刷物」としてネットで公開するというのはどうだろう? ブラウザで読むことは想定せず、印刷し、更には製本して読むことを想定したネットの利用を私は推奨したい。技術的な問題はない。現代の高機能なプリンタならば両面印刷や製本用の割付は難なくこなす。それを製本し、書籍の形態にすれば、ネットのフリーの力と書籍のインターフェース[3]のよさを両方利用できるはずである。読者はテキストを入手し、好きなフォント、多きさ、デザインで書籍を作れるのだ。自由なテキストを本にしてこそ、ネットの力もいかされると思うのだが、どうだろう?

「んじゃ製本機?」と思うかもしれない。ちがう。実は製本機は必要ではない。

グルーボンド! グルーボンドがあれば、簡単に紙を書籍状にできるのだ。両面印刷された紙を束ね、グルーボンドをペタペタやればいい。とても手軽で安価だ。ボンド自体は100円で20本入りが変えるし、装置も500円も払えばお釣りが来た気がする。ホチキスなんて使ってる場合じゃない!私はグルーボンドを初めて使ったとき、本当に感動した。

好みで表紙や背表紙に凝ることもできる。別にどうでもよければ、固めの紙を表紙にして、背表紙に製本テープを貼って、自分でタイトルを書けばいい。

ネットと本は融合できる! 安価で手軽に!

notes

[1] 「文章の長さ」digi-log, 2006.11.12 http://digi-log.blogspot.com/2006/11/blog-post_6706.html
[2] 通常アナウンサーが250-300字/分程度の速度で読み上げているらしいので、普通の人が文字を読む速度もその程度かそれよりやや早い程度と考えられる。
[3] 「インターフェースの未来は「物」概念を変える」 digi-log, 2006.12.3 http://digi-log.blogspot.com/2006/12/blog-post_8448.htmlにも書いたが、現在の実世界を模倣したインターフェースではディスプレイという障害のために、実世界の書籍には追いつけないだろう。もちろん、コンピュータのインターフェースが革新する場合もありえる。ただし、その場合には、また他の問題が生じるだろうが。
[4] 電子書籍端末の普及がネットに与える変化では、ネット短文の問題を電子書籍端末の普及が解決するのではないかと考えている。

2006-12-03

異文化の笑いは難しい

大阪人はぼける。んで東京人な俺はつっこまない。すると大阪人は「なんでつっこまんの?」とか「ここつっこむとこ!」とか言う。時にして「つまらんやつだ」と説教くさくなり、時にして「話にならなん」と怒りだす。東京人としては悩むところ。

まあ、とにかく異文化の人との笑いのコミュニケーションは難しい。

*

例えば、アメリカ人にはひたすら笑い続けるしかないのかもしれないと思う。それで笑ってみるのだが、やっぱり、それはそれで体力が続かない。アメリカ人の笑いには体力がいる。

そう。今でもはっきりと覚えていることがある。あるアメリカ人の友人の部屋にゆくと、背景と合成処理して小錦くらいに大きく見える赤ちゃんの写真のポスターが貼ってあった。合成処理したものなのは明かだった。

んで、特に面白くもなかったので何も言わないと、友人が「おい、これ、ハワイで生まれた赤ちゃんなんだよ」とか言う。俺は軽く笑ってあげる。

すると彼は更に言う。「本当なんだよ。こんなに大きな赤ちゃんが生まれたんだよ! ワッハッハー!」笑い声がアホのようにでかい。

それで、おれは「ここ、ぼけるとこかな?」とか思い「マジで?」とか言った。すると彼は「オーノー。本当なわけないヨー」とか言う。

そんで「やっぱ、日本人はジョークわかんナイネー」みたいな顔してる。いやね、ちがうんですけど……。んでも、とにかくそいつは笑い続けている。よっぽど、その画像処理で作られた小錦サイズの赤ちゃんが面白いのだろう。意味がわからん。

俺からすると、「マジで?」というとこで、笑てってほしかったりすんだが、このボケはボケとしてとられないんだろうな。というかアメリカ人はボケもツッコミもないのかな? ようわからん。

*

そういえば、笑いといえばドイツ人である。ドイツ人の笑いは「音」である。

日頃から「シュプレース」とか「シュプランヒェース」とかわけのわからん音を発し「お、この音おもしろい」とか言って爆笑している。それで、突然「おい、おもしろい言葉おもいついたんよ。聴いてみて、聴いてみて」とか言ってくる。んで聴いてあげると「シュプレース、シュプレース」とか連呼して一人で笑っている。

その友人だけが特別アホなんだろうと思っていたら、その友人の友人もその冗談で笑っている。「おお、それいけてるよ。おもしれー」とか言って、ドイツ人二人はしばらく「シュプレース、シュプレース」とか言って手を伸ばしたり縮めたりしながら笑いころげていた。

「なんてアホな民族だ」と俺は感動したものだが、恐るべきことに、やつらはそのネタでゆうに二週間は笑っていた。ドイツ人はつくづく恐ろしいものである。

*

そいつは日本語がそこそこ分かったので「おい、ドカンがドッカンって意味分かるか?」などと教えてみる。一瞬キョトンとしたゲルマン人の顔はなんとも愛らしいが、脳味噌は笑いを求めてフル回転である。勿論、その後には大爆笑である。「フトンがフットンだ」など教えた日には、会う人みなに教えて笑い転げていた。

俺は「それのどこが面白いんだ?」と訊いた。彼は(アホのくせに)「まず第一に音というのは人間の……」といかにもドイツ人らしく論理的に語り出す。そして「ドイツ人というのはいかなる状況でも、つまり、戦場でも監獄でも、面白いネタが全然ない状況であっても笑いを作り出し、笑いころげられるのだ」とか言う。まことに、とんでもない民族だと思った。

*

そういえば、イギリス人の笑いは残酷で有名だが、実際に笑ったら人格が疑われるんじゃないかというほど悲惨な話をすることがしばしばである。

「いやー、馬鹿なやつがいてね、精神科医だったんだけど、性欲の抑圧がいけないとか言ってさ、極端な性欲解放主義者になってさ学会からも追放されてさ、変な精神治療器を作り上げで、最後は薬事法で逮捕されたんだよ。ギャハハハハ。まず自分を治せよ。ギャハハハハ。性欲の抑圧ってさ、そんなにセックスしたかったんかね? ギャハハハハ。で、笑えるのがさ、そいつがなんでそんなに性欲の抑圧を憎んでたかっていうとさ、子供の頃、母親が自分の家庭教師と浮気してたんだよ。ギャハハハハ。それを父親に言ってしまったから大変でさ。何しろ昔の田舎の話でさ。父親は母親にえらくつらく当たったらしんだな。それで母親は自殺しちゃったんだよ。ギャハハハハ。何も死ぬことないじゃん。ギャハハハハ。それで性欲抑圧がお母さんの敵って訳なんだよ。ギャハハハハ。人の精神治そうと思う前に、まず親離れしろよ-。ていうか、性欲とか関係ないしー。ギャハハハハ」って感じ。「え? それ笑っていいの?」と心臓が凍る。ついつい、目は笑っているのかと青白い目を覗き込んでしまう。となりのアメリカ人も笑っているが、最後の方は、ややオッカナビックリである。

*

しかし、やっぱり大阪人との笑いのコミュニケーションが一番苦労する。というのは、アメリカ人もドイツ人もイギリス人も、俺が笑わなくて「はは、ジョークのわからんジャップはかわいそうだな。こんなに面白いのに」といって一人で笑っている。やつらはいつも俺が笑わなくても笑い続けている、気味が悪いほどに。

大阪人は違う。彼らは怒る。「おい、そこツッコむとこ!」とか指導してくる。自分が面白いと思うなら一人で笑えばいいじゃないかと思うんだけど。

それに不思議なのは「まじで?」と言うのがボケにならないところだ。「つっこむとこ」とか言わないで「まじなわけねーじゃん」とか言って笑えばいいと思う。思うに、どんな状況でも笑いに持ち込むことが、笑いの能力の大切なことだと思う。「笑いの能力がある」というなら、どんな場面も笑いに持ち込んで欲しいものだ、少なくとも怒ったりするのは笑いの精神に反することだと思う。

一方で確かに東京人の「それサムい」というのも最悪な反応だとも認識している。相手が笑わせようとしてるのに、斜めに構えて批評を加えるという態度は良くない。ただ、笑わなきゃいいだけだろう。冗談にこういう態度を取るのは世界広しと言えど東京人くらいな気がする。この点では大阪人の言う「東京人はツメたい」というのも納得する。

ただ、それも「愛想笑い」「営業スマイル」という文化で疲れきっている東京人の溜息なのかもしれない。と言えば、東京人に甘過ぎか。

「物」概念はコンピュータとネットでどう変化するか

IT時代の〈モノ〉: "コンピューティングとネットワーキングによって「物」が従来の物ではなくなりました。" とか書いたけど、これけっこう重要。

今までは「ある」と言えば物理的に形や重量を伴なって存在していたが、コンピュータの登場によって「音楽」とか「データ」、「文章」が形態や重量を伴わないで存在できるようになった。この変化は、人に認識にどのような変化を与えるかは考えると面白い。

ところで、同じ「情報」にアクセスするにも、その情報を収納した物質を介したアクセスと、コンピュータによる架空のインターフェースを介したアクセスが可能になった。これは「ハンバーグを作るレシピを知りたいな」と思った時に「あ、確かあの本棚にある、あの本の前の方にのってたな」とか探すのと、ネットで「ハンバーグ レシピ」とググるときの差と言える。

それを収納した物質を介さないで情報に触れられるようになったことで、そのインターフェースが問われることになった。多くのインターフェースは「ボタン」などの現実に存在する物質の比喩を使って、現実から離れないインターフェースを提供している。しかし、それが本質的にコンピュータやネットワークにおける最善のインターフェースであるかは分からない。フォルダやファイルという概念は最善のインターフェイスであるとはかぎらない。

実際、国産のTRON OS超漢字では「実身、仮身」という独自のリンク機能を内蔵したファイルシステムをとっている。ネット上でもソーシャル・ブックマーク・サービスなどでは、ファイルやディレクトリによる「一情報、一経路の分類」ではなく、タグによる「属性を与えることにより、ある情報を複数の属性から探せる分類」へと変化している。あるいは、全文検索による「分類の放棄」もある。

それにしても、インターネットは文字を読むには優れていないと思う。本の方が圧倒的に読みやすい。それは画面と紙の光度の差、解像度の差にあるだけでなく、コンピュータのスクロールで「場所」が感覚的に把握しずらいことや、本にはあるしおり、マーキングができないことにもあると思う。読みかけの本や書類をポンと机に置くような気軽さ、難しい文章や長い文章をマークしながら重要部分をポストイットするというようなことができない。長い文章を読む道具として考えた場合、表紙・背表紙・目次・索引を備え、書きこみや付箋に対応した「書籍」というインターフェースは、ブラウザのインターフェースをはるかにしのぐ。

しかし、私が言いたいのはコンピュータのインターフェースが本のそれを真似るのでは意味がないということである。不可能である。画面がいくら大きくとも、背表紙が並んだ本棚や乱雑に表紙をさらす机などを再現することは、画面のサイズがいかに大きくなろうが、それはあくまで真似に過ぎない。

本質的に新しいインターフェースを人類は開発しなければならない。そして、それは知性のありかたすら変革するものだろう。媒介は内容を規定するのだから。

すでに何人もの研究者がそうした未来のコンピュータ、インターフェースを考えている[1]。この情報という概念を変化させ、情報にアクセスするという概念すら変化させるところが、コンピュータの凄いところ、希望であるのかもしれない。それは政治や文学、さらには生きるということ、肉体という概念すら変えるのかもしれない。こうした問題についても参照すべき多くの研究がある[2]。ただし、そこにある不安を私は拭えずにはいられないのだが[3]。

notes

  1. ブッシュのMEMEX、アラン・ケイのDynaBook、テッド・ネルソンのXanadu、ダグラス C. エンゲルバートなどをググってみるとよい。最近はエンゲルバードがHyperScopeをリリースした。私はちゃんとテストしてないが。
  2. ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」、マーシャル・マクルーハン (1962)『グーテンベルクの銀河系』、ジェイ・D・ボルター (1991)『ライティング・スペース - 電子テキスト時代のエクリチュール』、ノルベルト・ボルツ (1992)『グーテンベルク銀河系の終焉』、
  3. 例えば身体が獲得すべき感覚を養わずに成長した場合、人間がどうなるかを私は不安に思う。実感としての速度、距離・長さ(目測や投擲・移動の実感)、重心感覚などの感覚を既に私の世代は上の世代よりは失なっている気がする。まあ、わからないが。
  4. 山口裕之 (1998) インターネット講座「メディア・情報・身体—メディア論の射程」

関連エントリ

  1. 電子書籍端末の普及がネットに与える変化

十二因縁の独自の解釈

自分にとっての十二因縁説とは、認識論哲学と心理学を厳密に論理的に結合した理論である。主張としては、智恵が明るくないと、妄想や煩悩を生み、ありもしないことに苦しむということ述べていると思う。つまり「バカ → 妄想 → 欲望 → 行動 → 苦しみ」である。以下、私独自の解釈(勘違い)を述べる。

***

まず、以下のように考える。

1. 智恵が明くないこと(アヴィジャー)

2. 概念形成すること、そのもの(サンスカーラ)

3. 判断すること、そのもの (ヴィジュナーナ)

4. 対象化すること (名前と形象、ナーマ・ルーパ)

5. 主体の形成 (六入、感覚器官)

6. 主客の接触 (触れること、 スパルシャ)

7. 知覚 (受けること、 ヴェダナー)

8. 衝動・欲望 (愛・渇愛、トリシュナー)

9. 取得への執着 (取ること、ウパダーナ)

10. 所有物や「存在する」ものごとへの執着 (有ること、バーヴァ)

11. 生への執着 (生まれること、ジャーティ)

12. 死や老いへの執着 (老死)

11の「生」の「生まれること」が苦しいのだが、これを「生への執着」と解釈すると、私的には論理が流れる。ポイントとしては、まず、人はよく知らない時に、何かを概念化してしまうのであり、そうして、概念化したものに判断をするようになる。そうする事で世界を客体と主体に分けることが始まる。こうしてお膳立ての揃った世界で、接触が起こり、感情(渇愛や嫌悪など)が生じ、行動が生じ、所有の執着が生じ、「我が物」という考えが起きることになる。そうした貪りが昂じると、何より我が身が恋しく、そうすると老死病などの恐怖・迷い苦しみが起こってゆく。こう私は考える。

逆に、老死病の恐怖・迷い・苦しみをなくすためには、そもそもの生への執着がなくなればよい。生の執着を無くすには、所有の心、つまり我が物という考えを無くすべきだろう。我が物という考えを捨てるためには、取得の行動を捨てるべきであり、そのためには、衝動を捨てればよい。衝動を捨てるためには、我と対象の接触が無ければよいのであり、そのためには、我も彼もなければよい。

そのためには判断一般の成立がなければ主客の分離は成立しないのであり、そのためには概念形成が無ければよいのである。あるいは判断一般と行ったが、それは意識とも呼ぶべきものかもしれず、その意識の成立は概念形成へと向かう意識の「どこかへ向かってしまう」性質と呼ぶべきものである。一見すると「意識」と「判断の成立」、「意識が向かうこと」と「概念形成」とは違うことのようだが、本質的には同じことに私には思える。

そして、その「概念形成」「意識が向かうこと」を捨てるためには、どうするか? それには暗いことを捨てるしかない。ただ、その無明を、どう照らすのかに、私は答を見出せない。ただ、何か「明るい」状態の時、サンカーラは生じず、判断的意識は成立しないのだろう。そう、私は理解している。

***

まず論理が一貫していることに注目して欲しい。初めから終りまで、前の項目が後の項目を生み、前者が無くなるとき後者も無くなる、前者が増えるとき後者も増えるという論理が一貫している。また、後の項目は前の項目で必ず説明され、どの項目も結局は妄想としての老死の苦へとつながる。

また認識論哲学と心理学の自然な結合も注目して欲しい。1から7までは認識論哲学であり、7から12は心理学である。これが論理的に自然に結合されていると思う。

そして、哲学や心理学の話題になる概念はこの十二因縁のどこかに必ずあてはまる。つまり、この理論によってその概念が何から生じ、何を生むのかが説明され得ることになる。

また、ある問題による苦労があった場合、その直前の項目を減らすことで、その苦労を除けるという、実際的な方法も与えてくれる。論理的な価値だけでなく、実際的な価値もこの理論にはある。

シッダールタは菩提樹の下でこの「十二因縁」説を閃いたから悟ったと『マハーヴァッガ』にある。ただ、その解釈がやはりいまいちよく分からない。

変更履歴

2006-12-03: 初出
2007-05-13: 大幅に変更

『ダンマパダ』より

ダンマパダより特に気にいったものを抜き書きしてみました。
(166)
たとえ他人にとっていかに大事であろうとも、
他人の目的のために自分のなすことを捨て去ってはならぬ。
自分の目的を熟知して、自分のなすことに専念せよ。

<注意>「なすこと」とは自分を幸福にするものである。これは解釈の問題ではなく、もともとそういう意味の言葉で、「自分を幸福にするのに専念せよ」と翻訳してもよい。

(186)
たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。

(283)
一つ一つの樹を切るのではなく、林を切れ。
危険は林から生じる。林と下生えとを切って、
林から逃れた者となれ、修行者よ。

<注意>これは煩悩を絶つことを意味している。

(330)
愚かな者と共に歩むな。
孤独に歩め、
悪をなさず、
求めるところは少なく。
森の中の象のように。

(338)
たとえ樹を切ったとしても、
根を断たなければ再び樹が成長するように、
妄執の根源となるサンスカーラを滅ぼさないのなら、
この苦しみはくりかえし現れ出でる。

<注意>サンスカーラは妄執を生み出す「概念形成」のこと。「潜勢力」と訳してあったけど意味不明だから原語にしておいた。このサンスカーラについては、 2006/12/03に書いた十二因縁説についての記事 を参照のこと。

2006-12-02

気付き続け、必然の中を自在に生きる

うまく書けるか分からないけど、 禅的な生活の理想について語ってみる。

俺の禅の理想をひとことで言うと、 常に、 一瞬たりとも途切れることなく、 心に何が起きているのかを気付き続けられるようになること、 ということになるかな。 五感や意識の変化を常に認識し確認し続けられるようになることといえる。

私達の意識への入力はとても少ない。 普通に考えて五感があり、 それ以外は思考とか感情とかがある程度と言える。 外界からの入力を五感が感じ、 それと平行して思考や感情が起きている。

この常に変化する五感と、 どこからか知らないが湧いてくる思考や感情を制御することはできない。 五感が感じたことは、 どう考えても感じてしまったわけだし、 考えたこと、 思い付いたことはどう考えても考えてしまっている。 また感情だって、 その感情になってしまったらどう考えてもそうなっている。

「その感情なかったことにしよう」とか「この考えやめ」とか「この匂を感じてるのやめ」とかは意識だけで制御できない。 それは既に与えられた状況であり、 感じてしまったものは感じてしまったのである。

この常時変化する外部と内部からの入力を監視し続けることが、 ひとまずの俺の禅の目標ではないかと思う。

***

例えば皿洗いをしているとする。 皿を手で感じ、 足は床を感じているだろう。 もちろん、 もっと細かいことを身体が感じているだろう。 一方で頭や心も動き続ける。 あることを思い出して頭にきたりすることもあるだろうし、 ぼーとしていることもある。 この後なにをするか考えだすかもしれない。 こうした状況の変化の全てに意識を向けて確認しておくのである。

こうした状況の中で、 皿を落として割ってしまうかもしれない。 「あっちゃー」と思うかもしれない。 そうしたら「俺は今『あっちゃー』と思った。 悔しがった」と確認する。 「はは、 いま上の空だったからそりゃ落とすわな」と思うかもしれない。 それもそう思ったんだと確認する。 「ああ、 俺は阿呆だ。 皿も洗えない」と思ったんだったら、 そう思ったんだと確認する。 事柄も内面の変化も全て確認してゆく。

確認し続けていると、気付くことも多くなる。「皿が落ちた」→「滑った」→「指先の意識が鈍くなっていた」→「集中していなかった」というような連鎖が一連の流れとして一瞬のうちに出てきたりする。そうすると「はは、そりゃ落とすわな」という「あきらめ」とかいう気分になる。世界は必然の連続であることに気付けば、無駄な思念の入る隙はないというわけだ。

***
一瞬も途切れることなく、内面、外界の現象を気付き続け、必然の連鎖を気付き続けられることが、ひとつの理想となる。その必然の連鎖こそが因縁とか業ということになるのかもしれない。また、滑てが因縁ゆえ「空」ということになるのかもしれない。