2007-06-29

Vimの便利な小技

知らないと不便編

たぶん、これらを知らないと、vimはただの頑固なエディタにすぎないと思う。

  1. インデントなしで貼り付け - 通常のままコピペするとvimはインデントをしてしまいヒドいことになる。そこで、:a! をして変なモードにして、そこにペーストをしてから^Cと打つと綺麗に入力できる。
  2. ファイルタイプの切り替え se ft= - vimはファイルタイプごとにモードを準備するが、そのモードがうざかったり、他のモードを利用したいことがある。そういう時は:se ft=filetypeと入力すればよい。filetypeには補完も効く。単純にシンタックスをオンオフしたいときは:sy on|off
  3. sudoを忘れて権限のないファイルを編集してしまった時 - これはよくやってしまい、編集内容を破棄せざるを得ないと思っていたが、:w !sudo tee % とやればよいらしい。
  4. コマンドラインで現在のファイル名を使う % - コマンドラインで現在のファイル名を使いたい時には % と書けばよい。%< と書けば拡張子を除いたファイル名になる。またカーソルの下のファイル名を利用するには <cword> と書けばよい。
  5. コマンドの結果を取り込む :r!command - ちなみに command の代わりにファイル名を書けばファイルの内容が入力される。ただ、これだと最初に改行が入力されてしまうので!!command を使う。:.!&command でも同じ動作になる。これだと最初に改行が追加されない。%!commandすると現在のバッファの内容が標準入力として command に渡される。
  6. カーソルの下の単語をさくっと拾って置換で使う - vimを使っていると意味も分からず検索を始めてカーソルが移動してしまうことがある。これは * か # を押したためだ。vimは置換などをする時にデフォで最後に検索に利用した文字列を使うので、このテクを利用すれば長い単語の置換するのがとても簡単になる。
      Massachusetts の上で # を押して、
    1. :%s//New York/g とかやると New York に置換
    2. :%g//dすれば Massachusetts を含む行を削除
    3. %v//dすれば Massachusetts を含む行だけ残すことができる。

知ってると便利編

ここら辺から「うほっ」「やべえ、便利だ。手に馴染むし」となると思う。ご愁傷さま。
  1. 補完 - 折角vimを使うなら以下の補完を覚えると生産性が向上すると思う。最近のではポップアップで補完一覧を表示してくれるので更に便利になった。
    1. ワード補完 ^x^p, ^x^n - 以前に打った単語を入力する時に
    2. 行全体補完 ^x^l - 同じような行を入力する時に
    3. ファイル名補完 ^x^f - ややこしいファイル名も間違いなく簡単に
    4. コマンドライン補完 ^x^v
    5. 辞書ファイルからの補完 ^x^k - これは辞書ファイルの準備が必要
  2. 画面をスクロール ^e, ^y, zz, zt - カーソル位置はそのままにスクロールする。挿入モード時も動く。ちょっと前後を見たい時に便利。zzはカーソル行を中心に、ztはカーソル行を一番上にする。
  3. カーソルを画面の上、中、下に移動 H,M,L - High, Middle, Lowで覚える。画面は固定したままで、その中の一番上、真ん中、一番下にカーソルが移動する。3Hで上から3行目に移動するなど慣れると画面の移動がかなり楽になる。
  4. 矩形範囲で一括編集 - 矩形選択をしてから $A と打つと、選択した全ての行末にが入力される。一方、I# と打つと# と入力される。
  5. カーソルの下のファイルを開く gf - カーソルの下にファイル名が書かれていた場合、それを開く。gFだと行番号のところを開く。test.c:32の上で gF すると test.c の 32行目が開く。grep keyword *.c | vi - したりする。
  6. はさまれているものを編集
    1. di" di(で"や(で囲まれているとこを削除する。
    2. ci" ci(で"や(内を変更できる。Change Inner "と覚えるべし。c を v とすれば選択。
    3. "や(だけじゃなく、pなら段落、tならタグ内を編集する。iをaに変えれば中だけじゃなく全部を編集できる。 <li>:h text-objects や http://d.hatena.ne.jp/secondlife/20061225/1167032528 も参照。最強は近い。

使わないかも編

  1. 折り畳み - 以下のように設定するとインデントされているものを折り畳んで表示しないようにできる。全体を見渡したいときに便利。
    set foldmethod=indent
    set nofoldenable
    
      以下のコマンドで折り畳みを操作できる。ごちゃごちゃとやれば覚える。
    1. zo/zO open (per each nest / all nest)
    2. zc/zC fold (per each nest / all nest)
    3. zR/zM open / fold all
  2. ChangeLogメモを使う - vimにはChangelog用のモードが準備されていて、カラー表示は勿論、新規エントリの準備も行ってくれる。これでメモをとっている人には、特に便利な機能と思う。<leader> (通常はバックスラッシュ)の後に o を押すと自動的にChangeLog形式での新しいエントリの準備が為される。vim -c NewChangeLogEntry をメモ用のコマンドとしておく手もある。

道元の「有時」 - 「いまここ」の場

ハイデガー『存在と時間』は道元『正法眼蔵』の影響?にも書いた通り、ハイデガーは彼の存在論の発想を道元から得たとの情報に触れたので、どうにも哲学魂が騒いで騒いで仕方ない。

いや、そういう学問的なものだけでなく、自分の人生の大きな問題でもある。

ただ、私は道元を知らない。『正法眼蔵』も岩波の一巻を買ったきりで、それすらも通読はしていない。有事の巻は含まれていない。

残念ながら手元に有事の巻の原文がないので松門寺さんのサイトに正法眼蔵全文があるので、第二十 有時を読んでみることにする。

とはいえ、情けないことにさっぱり歯が立たない。須田隆良さんによる正法眼蔵 第二十 有時の解説と現代語訳があるのでそれを読んでみる。

そしてもう一度原文を読んでみる。と、なんだか大体分かって来た気がする。が、やっぱり分からない。なんだか、道元はライフワークになってしまいそうな予感。

そこでグーグル様に訊いてみる。知的堕落である。

華頂女子高校のブログの今月のことばが「我 今尽力して現成するなり」を取り上げていて、ハイデガーともからめた解説で、とても参考になる。

「現成(げんじょう)」という語は、ドイツ語ではAnwesen(アンベーセン)であろう。Wesen(本質)の意味を深く解して、20世紀のドイツの哲学者ハイデッガーは、『芸術作品のはじまり』で「神殿を通して神は、神殿の中に現成している。このような神の現成が、それ自身において一つの聖なる境域としての区域をおし広げ、限界づける」と述べている。アンベーセンは「滞在」などの意味だが、彼は「立ち現れ」ることに解している。神殿に隠れている神が、空間をおし広げ、神域をつくるのである。
なんだか道元の「現成」という語が、独逸哲学の翻訳語のような扱いだか、不思議なことに、とても分かりやすい。神殿という場において、不在ながらも本質において立ち現れる神などと夢想は広がる。神と名指されるようなものだけでなく、存在とはそういうことなのかもしれない。

それは置いておいて有時の意味を読むと

道元は「有時(ゆうじ)」の巻で、ありとあらゆる存在である事物や現象は、「われ」が力を尽くして「現成」させている、という。

「有時」は「存在と時間」という意味であるが、ハイデッガーの主著『存在と時間』以上に道元の思考は徹底している。ハイデッガーは、死への存在としての人間が運命や民族を自覚して世界を開くところに時間の根源的現象を認めているが、道元は、もっと普遍的に時は即ち有(存在)であるとし、さらに「われ」とは時であるともいう。

「歴史性」の話が出てくる。実は「場」を考えていて「歴史」が出て来ると私はいつも戸惑ってしまった。『存在と時間』も興味深く読んだのだが、「歴史」ということが分からなかった。いや、そういう形で理解したくなかったのかもしれない。そこで、道元の方が興味深い。

そこでfinalventさんは何を書いてるかと読んでみる。私の前に携帯電話が存在するということ、あるいは現成公案が、とても分かりやすく有時を説明しているように思える。

私は携帯電話に向き合う、いまこの時の場(有時)のなかに、携帯電話ともに生起して存在している。私と携帯電話は分離した存在だが、この有時にあって不可分な存在だ。
こうした主客未分離のいまここの場が有時ということになる。更にfinalventさんは
私は、そのように、ある。そのように存在すべく、在らしめれている。私とはこの携帯電話と共時にこの有時に生起しているのである。
更にさとりも解説している。
そうした有時の己のあらしめられるありかたが明らかになるのが、さとりである。そこで、もの思う我は、この共時にあらしめられる我へと、一方は暗く、なる。

仏道をならふというふは、自己をならふなり。自己をならふといふは自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。

他にも古今の時に不空なりLebenswelt有情などを読むとインスタントに道元の理解/誤解ができた気がする。

方向としては興味があるので道元禅を更に探求したくなった。

[書評] 日本人の正しい食事 - 現代に生きる石塚左玄の食養・食育論 / 沼田勇

本書は石塚左玄の食養・食育の原理を解説・紹介し、その上で、具体的な献立やレシピ、月毎の献立案など実践面も提供している。

付録に石塚家家系譜、石塚左玄年譜、食養会発起人並びに協賛者、明治天皇と石塚左玄、石塚左玄逝去以降の食養関連年表、ビタミン類/有効微量成分/ミネラルの働きが付いている。

昨今「食育」が叫ばれているようだが、石塚左玄は近代日本の食育のベースとなっているようなので、見ておいて損はない。

特に欧米ベースの翻訳栄養学への批判に留意しておくことは大切だろう。日本人と欧米人は身体構造も食の伝統も異なるのであり、食文化の安易な追随は日本の食文化の破壊のみならず、日本食が育んできた健康すらも破壊するやもしれない。

著者について

著者の沼田勇は1913年生まれの医学博士。

北里研究所から軍医として中国に渡り、中支派遣軍150万人の復員時は、消毒薬皆無という劣悪な環境だったが、水分摂取を指導することでコレラ、赤痢などの感染者を一人も出さなかった。これを国連WHOが沼田法として採用。

1954年に日本綜合医学会を創立し現在永世名誉会長。

ちなみに断食・小食療法で有名な甲田光雄は日本綜合医学会第5代会長で、現在名誉会長らしい。

石塚左玄 - 食育の始祖

石塚左玄(1850〜1909)は我が国の「食育」の始祖。陸軍少将、薬剤監。欧米近代医学を学び、陸軍軍医の道に入り、その頂点にまで達したが、陸軍退役後、大日本食養会を創設、食べものによる病気直し、食養医学を唱導、今日の自然医学興隆の祖となる。

沼田によれば、石塚左玄の食養法は以下の五つの原理とのこと。

1. 食物至上論 - 命は食にあり、薬として食を重視する。したがって食を道楽の対象にしない。

2. 穀物食論 - 肉食動物でも草食動物でもない人間にとって、最も適した食物は穀物である。

3. 風土食論 - 順化適応した先祖代々の食、″おふくろの味″を守ること。守らないと淘汰される。淘汰が病気である。

4. 自然食論 - その土地、その季節のものを丸ごと食べること。丸ごととは命全体をいただく。

5. 陰陽調和論 - 健康長寿の秘訣は食のバランスを保つことである。

具体的には、玄米などあまりついていない雑穀の主食に、野菜、海藻、豆類、魚介の副食というのが日本人にとっての理想食なるとのこと。そうした食材を、素朴で単調な、その土地の気候風土に培われた伝統的食構成でいただくのが健康を育むらしい。

食生活の体系を再考する

また、食生活の体系を探り直すために以下の三つを考え直してみる必要があるという指摘も参考になった。

(1) ある民族の食生活の体系は、その風土に規定され、その自然力を最大限に発揮させる農業や漁業の仕組みによって決定される。つまり、生産が消費を決定する。

(2) 食生活の第一義的な要件は、それによって、人間が健康な生命を維持し活動して子孫を残し、永続的な繁栄を保障することである。

(3) 食の嗜好は、(1)の風土と農漁業生産の仕組みのなかで、長い年月の間につくられたものであり、そこに消費者の調理・加工・貯蔵などの相違が重なりあって生まれたものである。

私も、風土を無視した食生活は、結局は心身の健康を損うだろうと思う。私たちの心身は、その風土で生きるように最適化されている筈なのだから。そして、そうした心身を損なうような食生活は、本来の食の機能を果たしていないとも言えると思う。

食は健康を生むことが第一義であり、「おいしさ」はその下の問題である。

いや、無論「おいしさ」も大切である。

しかし、そもそも味覚とは、文化や伝統、ひいては風土の問題なのだ。土地の恵みと、その土地のものを食いぬく営みとの相互作用の中で、味覚は育まれ、継承されているのである[1]。その土地の恵みが「マズい」と言って食えない人間は生きぬけない。味は覚えるものなのである。

その風土の味覚を受け入れるようになることが、本来のその土地の構成員として成人する一つの条件かと思う。「これが食えるようになったら大人」という感覚は、いまだにあるのではなかろうか。

郷土料理の真髄は大概、他の土地の人間にはクセが強過ぎる。「名物にうまいものなし」である。ただ、そうした土地のクセを好むように、土地の人間は成長してゆくものである。それを食わなければ生きぬけなかったのかもしれないし、それが薬なのかもしれない。あるいはその土地の人々の情感が溢れているのかもしれない。

そうした土地のクセを覚えることもなしでは、そんな味覚は薄っぺらい、子供の味覚である。塩辛や梅干しも食べられない海外の人にに日本料理を語られたら、どういう気分になるか考えて欲しい。

それに、子供の味覚は「薬」を好まない。単純に甘い味のみを求める。それに、どういう訳か、インスタント食品や冷凍食品、ジャンク・フードに特有のクセを好む傾向もある。これでは心身を壊す(大概は歳をとると食べずらくなるものだが)。ちなみに、特に昨今は牛丼とハンバーガーという二大牛肉ファストフードが日本人の心身に大きな悪影響を与えているのではないかと考えている。

子供の味覚を脱し、大人の味覚になること、つまり味覚の成熟が心身の健康につながると私は考えている。それは案外に素朴で、質素なものである。しかし、クセがあり、味わい深く、懐しい。


私はしばらく本書を参考に玄米と、旬の日本の伝統的な料理を試してみたいと思っている。また、伝統的な保存食も自分で作って試してみたい。天然の塩など素材にもこだわってみたい。

なんだかとても贅沢なことを言っているが、値段にしたら大したことはない。こうした贅沢は、とても豊かだと思う。

あなたも、「日本人の正しい食事」を試してみてはいかがだろうか。懐しいが、新鮮である。

notes

[1] 生産が嗜好を規定するという点については食文化試論を参照。体で食えも同じ路線の文章。

また、逆に、味覚から生産が生まれる可能性について考える方もいるかもしれない。流通の拡大によって土地以外の味覚に晒されて、本来の味が変化する危険については既に[書評] ワインの個性 / 堀賢一に以下のように書いたので参考にして欲しい。

その土地の風土とそこに暮らす人々の営みの産物としてのワインの個性は次第に絶滅に向かっている。何度も飲んで初めておいしさが分かるようなワインは、その文化を知らない人々には売れない。そして、すぐにおいしさが分かるワインばかりが流通するようになる。そして古いタイプの頑固なワインは姿を消してゆく。
私は、なんでも「おいしー」で済むような個性を失なった味覚など、味覚ではないと思う。なんでも「かわいー」という美的感覚が、美的感覚でないのと同じだ。

また均質化した味覚については海原雄山とメガマックにて、ジャンク・フードとグルメは、日本の個性的な伝統味覚の放棄と大規模な流通による味覚統一現象という同じコインの表と裏であると主張した。この意味で現代日本は「一億総立食い」社会である。

日本人は味覚を、食の伝統を取り戻せるのだろうか?

ハイデガー『存在と時間』は道元『正法眼蔵』の影響?

今日、何気なく沼田勇『日本人の正しい食事: 現代に生きる石塚左玄の食養・食育論』(2005年、農山漁村文化協会)を読んでいたら驚くべき記述に出会った。

ハイデッガーの『存在と時間』の発想は、道元禅師の『正法眼蔵』のなかの「有時の巻」から得たことを、ハイデルベルク大学のヤスペルス教授が弟子丸泰仙和尚に耳打ちして、「日本人は『正法眼蔵』をあまり読んでいないようですな」とつけ加えたということです。(79頁)

これ、本当なんだろうか。つまり、ハイデガーが道元読んでたというのは。そして、『存在と時間』が『正法眼蔵』の「有時」の影響というのは?

いや、俺が知らないだけで、常識なのかな? どうなんだろう。

2007-06-28

[書評] 仏教入門 / 三枝充悳

岩波新書。幅広く仏教の歴史と教義内容を概説した良書。仏教の入門書を色々と読んでいるが[1]、今のところ、これが一番いいと感じる。

インド仏教は、前期(初期・原始仏教期)中期(大乗)後期(大乗後期、密教)と分類し、それぞれに基本的なコンセプトの解説も交えて説明してくれる。

インドの他にもチベット仏教、南伝上座部仏教(テーラワーダ)や中国・日本の仏教も概説してくれる。

因縁や四諦、唯識や如来蔵、因明などの基本概念を、簡単に時代の流れと共に理解したい人にはおすすめ。説明は、とてもドライで宗教本にありがちな嫌味がなくすっと読める。いかにも学者の本だ。

ただ、コンパクトなので知識の羅列に近いとも言える。読み物としての楽しさや等を追う人や、「説教」してもらいたい人とかにも向かないかもしれないかもしれない。

しかし、仏教理解に最低限必要な歴史や概念を無駄なくすっきと理解するのに、これよりもよい本というのも少ないかと思う。仏教に詳しい人も詳しくない人にも一読をおすすめする。

notes

[1] 仏教関係の読書記録 [書評] 仏教誕生 / 宮元啓一 (1995)など……。

[書評] なまけ者のさとり方 / タデウス・ゴラス

123頁と薄くすぐに読める。さとり方は愛すること。自分を含んだ全てをありのままに受け入れるということが、なまけ者のさとり方とのこと。

内容としてはとにかく受け入れることが大切とひたすら書いてある。

意識のレベルが現実を生んでいて、その意識のレベルがよくなるとよくなる。今がそうあるのも、それは内部の波動のあらわれとのこと。ただ、言わずもがなだが、今の低い自分もあるのままに受け入れるのが大切だ。

純粋に高まると、意識は過去も未来もなく、今ここだけの「スペース」になるとのこと。逆に普段の人間はこりかたまっていることになる。

現実が受け入れられない時にいいかもしれない。また、苦行とか禁欲に走りたくなった時にも読んでみるとよいだろう。

書いてあることは当たり前かもしれない。しかし、そうした当たり前の本を手元に置いておくのは、いざというときに救ってくれるものだ。もし、あなたが、そうした当たり前のことを簡単な言葉で整理してくれている本を持っていないのなら、本書を手にしても損はないだろう。

[書評] 琵琶盲僧永田法順 / 川野楠己

最後の琵琶盲僧、永田法順のドキュメンタリー本。彼の出生から出家、修行、師匠の死、結婚と一生を追いかけている。周囲の人々、特に御婦人の描写もある。

他に盲僧琵琶という消えつつある歴史も解説。この説明がなななかで、伝説や口伝なども収録していて、学術的な説明にしあがっている。日本の伝統音楽の一つに、盲僧の活躍があったことは確実なのだろう。

日本音楽の根強い流れの一つに仏教音楽の影響があるが、それも仏教が声明などを各地の寺で演じていたことの他に、琵琶法師が各地で平曲などを披露したのもあるのだろう。そうした芸能としての放浪の坊主が、虚無僧尺八は勿論、あるいは説経節などの芸能にもつながっているのか。

日本の芸能を考える人にはぜひ読んで欲しいし、なにより彼のサウンドを聴いて欲しい。日向の土と風を感じることと思う。強烈なブルーズだ。祈りと歌の本質がそこにはある。

興味は尽きない。ただ、その盲僧琵琶の流れは尽きてしまうのだが。

2007-06-27

最近、笑い声、気になりません?

人の笑い声を聴いて「うわっ」と思ったこと、ないだろうか。

失礼な話だが、俗に言う「オタク」っぽい人が、ウヒヒヒと笑うのを聞くと、「うわっ」と正直、私は感じる。詳細に書けば、嫌悪感がややあり、かつ、「はは、なんて笑い方だ」という蔑みがある。

また、同様な印象の人が、そうした笑い声で、別に笑うタイミングでなく笑うのを聞くと「おいおい」と私も笑いたくなる。

どうして、あんなに、いやな笑い声なんだろう? そして、それを「いやだな」と感じるのだろう?

すぐに思い付くのは、その人の身体に無駄な緊張があることである。特に胸と首を締めつけていないと、あんな高音で小刻みな音はでない。

そして、その緊張を私たちの身体は無意識に感じ取り、嫌悪を感じるのだろう。

あの笑い方だと、笑い過ぎてもハラが痛くなることはないだろう。腹の底から笑ったら、あんな音にはならない。腹の底からの笑い声なら、あんな無様な響きにならない。

そして、そうした無駄な緊張そのものを、私の身体が嫌がっているのだろう。他者の緊張は伝染する。つまり、人が緊張した笑いをする時、自分も緊張をもらってしまう。そして、その緊張を払いたいから、今度は自分が笑ってしまうのかもしれない。

こうした笑いは緊張状態の時に出るのが本当だとすると、そうした人は仲間と笑う時ですら、緊張状態にあると考えられる。また、そうした人が不思議なタイミングで笑うのも、緊張状態にあるからだと考えると辻褄がある。

そして、笑いが胸部の緊張で出るようになると、緊張をほぐす筈だった笑いは、逆に、緊張を強めてしまうのではないかと思う。あのヒヒヒという笑いでは緊張は解けずに強くなるだろう。

逆にゆったりと笑う人はとても印象がよいし、その笑いは自身の健康にもつながってゆくだろう。人間は人の無駄な緊張をかなり的確に感じ取るものだと思う。リキみが無い人をみると優美であったり雄大であったり感じ、リキみがある人を見ると、ギコちなく、小物に見えてしまう。



たまには、腹の底から笑う練習が必要なのかもしれない。腹がよじれて、腹が痛くなる程笑えば、ヒヒヒという締め付けたような笑いは出てこなくなる筈だ。

ただ笑えと言われて、腹の底から笑うのも難しいが、案外、一度無意味に笑い出すと、その無意味さがおかしくなり、よく笑えるものである。

また、本当に笑えるような物に触れるのも勿論いいと思う。とにかく、大きな声で笑えばいいと思う。

それ以外には腹の底から大きな声で唱うとか、話すとか、そういうことをすればいい。息が腹から出るようにすれば、笑いも腹から出るだろう。

私がそうなのだが、なんだか、笑うのが恥ずかしいことに感じている人も多いと思う。テレビを見てゲラゲラ笑っている親を「醜悪」と感じたからか。電車の中などでマンガを読んで笑わないのは勿論、一人で部屋で笑うのも、その姿がサビしくて、私たちは笑わない。

また、カラオケに行っても、歌も腹から声を出すような歌よりも、喉をつまらせたような歌ばかりを歌ってしまう。

笑うには、友人が必要と思う。そして周りの人と一体となって笑わないと、本当に腹の底から、腹がよじれるほど、腹が痛くなるほどは、笑えない。ただ、そうして笑うにたるような芸能が少ないな、と思うが。

いや、何でも笑えばいいのか。ばからしい。

まあ、そういう時間を大切にしたいと思う。

坐禅で読書

坐蒲の代わりにクッションを買ってみた。なかなか安定して坐れる。身体を動かさないようにするのは簡単になる。

次に譜面台を書見台にして本を置く。書見台を使うと良い姿勢で本が読める。

そして静かに印を組み、呼吸を整えて、ページを眺める。すると自然に読書の速度は早くなってゆく。

片手はページを繰るのに必要だが、他の部分を動かすことはなく、心身が集中してゆく。

こうして姿勢を正して呼吸を整えると、読書も一つの瞑想のような気がする。軽い瞑想状態で読書することになる。>

そうするといつもと読書の感じが違う。

2007-06-19

誰かの息が「私」を呼吸させる

あまり人のブログとりあげて云々することはしない予定だったのだが、偶然、
「今吸った息は、誰のものだろう。今吐いた息は誰のものだろう」。(404 Blog Not Found - ここは誰?私はどこまで?
という言葉が目に入った。

まあ、dankogaiさんと同じ感覚かどうかというと違うんだろうけど、これ、よく思う。特に静かに坐っている時、読書やギターに没頭している時。ふと気がつくと、自分が呼吸をしていたり、呼吸をしていなかったりするのである。

まあ、呼吸をしていない時、驚くのは理解してもらえると思う。呼吸をしていないのである、自分が。それがいつからかは分からない。ただ、自然に息をしていないのである。何か、自分が死んだような気さえする程、静かに自分が没頭しているのである。

一方で、呼吸をしているのも驚くのである。いや、こっちの方が息をしていないのに気づくより驚く。ただ、身体が膨らみ、しぼんでいる。自分の意図と関係なく、この身体というやつは動いている。そして息が入り、出てゆく。いや、空気が入り、出てゆくから、自分の身体が膨らんだり、しぼんだりしているのかもしれない……、そう思うほど、確実に空気が動き、身体が動く -- 自分の意志の制御の外で。

この感覚、うまく言えない。ただ空気、呼吸があり、あとはただ広い空間があり、「自分」などという膜は……そう「膜」なのだ、自分が。その広い空間の空気の中で、「呼吸」をしている膜なのだ。だから
ここは誰?私はどこまで?
になるんだろう。

いや、膜でもないか……。うーん。ただ、広がり、消えていることだけとしか言えないなあ。誰か大きな存在の中にいて、その大きな存在の呼吸が全てであって、俺の息ってのは、そのプロセスの一部っていうのかな。それが「ここは?」なのである。「ここは、誰?」

ただ考えて欲しい。「自分」の身体が「動いて」空気が入っているんじゃなくて、空気という「外部」が動いていて、その動きの中で「自分」の「身体」が動いているんじゃないと、断言できるだろうか?

いや、そして、その空気が「自分」なんじゃないか? そう思う瞬間があるんじゃないだろうか?

ねーか。ねーわな。うん。ごめん。



あと、「誰の夢?」ってのも分かる。というか、基本的に俺は、自分ってのを感じない。

よく人に「えーと矢野君、それをやりたいのは何故かな? 自分のため? 人のため?」とか言われるんだけど、端的に自分のためではない。「自分? へ。そんなのねーよ」というのが実感だから。

かと言って人のためと言う気もしない。個人ができる「人のため」って何よ? とか思うわけで。だから、こういう質問されると困る訳で、アホみたいに答えるハメになり、んで、逆に俺は「あーあ、このオッサン、この程度のことしか訊けねーかね」とか思うから、サイアク。

俺は続き物の悪夢をよく見る。最近は見ないが、よく見た。

中三の時は三ヶ月に渡って続き物の悪夢が続いた。ビルを逃げ回って、友人を美人の悪魔に売りながら、コソコソと生き伸び、最後の友人を売り渡したら、屋上から飛び降りるという夢だった。最初は沢山の人がつまっていたビルが最後には俺だけになった。そういう夢だった。

その後は落ちる夢を一カ月は見た。ただ、俺は落ち続けた。ビルは砂漠にポツリと建っていて、ガラスが太陽を反射し続けた。ビルの中には、俺が美人の悪魔に売り渡した筈の人々が何気なく暮らしていた。ただ、それが落ちる俺からは妙に非現実に見えたし、機械じかけの人形にしか見えなかった。

そんな夢を見ながら生きていると(しかも、俺は夜だけじゃなく白昼夢も幻覚もよく見るので)、生きることのリアリティーが急速に薄れてしまう。

こんな夢もあった。夢の中で俺は寝ている。すると玄関に人が来たので俺は玄関に行く。そこには美人の悪魔がいる。俺は、その悪魔に魅惑され、中に入れ、恐ろしい思いをして、結局、殺される。

すると夢が醒めて、自分は布団の中にいるのに気がつく。そうすると再び玄関のノックが聞こえる。そして……。とエンドレスに思える循環をする。たまに、俺はそうした夢の中に自分がいるような気がしてならないし(今もそうだ)、そして、その夢が
誰の夢なんだろう
と素朴に思ってしまうのだ。

どう考えても、その夢や想念というのが自分のものな気がしない。いや、そもそも「自分」が稀薄だ。だから、誰かの夢の中を、今も俺は生きているという気がする。

病気?

だろうな。たぶん。でもね、俺はそんな自分の人生しか歩んでないのよ。

だから、「健全」な人は、理解できなくておーけ。むしろ、無理に俺を理解しようとなんてすると、ケガするだけだと思う。

でもね、これだけは意味不明に書いておくけど、息しかないんだよ。最後には。自分ってのは呼吸だけでしかないんだ。呼吸ってのは、まさに魂なんだ。そして、その魂というのは、もっと大きなプロセス、もっと大きな空気の息吹の中でしか感じられないものなんだよ。

ふむ。よし。さてと。風呂でも入るかな。

はじめてのyoutube ギターでバッハのシャコンヌ

はじめてyoutubeに動画アップしました。とは言え、音声ファイルに文字を載せただけなので、「動画」とは言えないシロモノですが。

演奏は2005年の正月あたりのものです。本当はもっと最近の演奏を載せたかったのですが、残念ながら録音がありませんでしたので、これを載せてみました。



結構、動画を載せるのは楽しそうなので、ハマりそうです。また楽器触りたくなりました。

あ、曲は大バッハのシャコンヌの前半です。今度後半もアップするかもしれません。

ま、ヘタクソですけど、笑って楽しんでくれると、ありがたいですね。感想も貰えると有難いです。

2007-06-17

お金を使うときの7つの心得

私ほど貧乏な人間もいないと思うが、お金の心得を偉そうに書いてみる。参考にしないように。

1. 使うお金に感謝する

節約とか大切だが、いざ使う時には「ああ、お金があってよかった」と思って使うのが大切である。まちがっても「あーあ、何でこんなことにカネ使わなきゃならんかねぇ……」などと考えながら使うべきではない。ロクなことがない。

無理矢理でもいいから「お金があってよかった」と心の中で唱えるとよい。そうすると、その消費で得た財なりサービスなりが楽しいものに思えてくるから不思議である。

「なんで、ここのビールは高いんだ」「あーあ、交通費だけで……」は禁物である。「お金があって、ここでこうして仲間とビールが飲めてありがたい」「こうして移動ができてありがたい」と無理をしてでも唱えるべきである。

金を使う時は楽しめ! 楽しむためには感謝しろ! である。

ちなみに人が使ったお金にも「なにも、そんな無駄なもの」はアウト。「それは、よかった」と言うべきである。

使ったお金に無駄もなにもない。ただ、あったこと、使えたことに感謝である。「それだけ使えてよかったね。楽しかったでしょ」

2. 貸すならあげろ

金を貸した時には、あげたものだと思うことである。「いくら貸しただろう」「いつ返してくれるだろう」などと思っていると、ロクなことがない。

そして返してくれた時には、感謝しよう。返すのは当然という態度だとロクなことがない。

ちなみに人に金を貸す時には大目に貸してあげるもんだし、「困ってるだろうから……」などと恩着せがましく言って貸すのはサイアクである。恩を着せようと思うと変な期待になる。期待を捨てれば心は平安である。

また相手だって「悪いなあ」と思いながら金を受け取ったのでは、ロクなことがない。「いい奴だな。ありがたいな」と思えるように金を渡さなければ、両方のためにならない。それなら、金を渡さない方がマシである。

「お前ならきっと大丈夫だろうけど、ちょっとは役に立つんじゃないかと思って」とか「いや、このお金、そっちの方がいい働きができるだろうから」とか言うのがコツである。きっと、いいことがある。

いつか「この金でお前の好きな温泉でも行って来い」とか「好きな○○でも買いなさい」と言えるようになりたいものである。

3. 金のない時は動くな

金がないときに限って、飲み会やらに呼ばれるものであるが、断わるべきである。間違っても借りようとしたり、ゴチ目当てになってはいけない。

また「金がないから」というのもアウト。当然、相手は「じゃ、出すよ」ということになってしまうじゃないか。

まあ、相手が率先してゴチしてくれるというなら、それほど目くじら立てることもないか。

4. 「ご褒美」でお金を使ってはならない

お金を使うのは、それが投資となり、未来の自分に役立つから、自分を成長させてくれるから、楽しいのである。服も、マッサージなども、そう考えて使うとよい。

疲れた自分へのご褒美、慰謝と考えてお金を使うとロクなことはない。「あんだけ働いたんだから、こんだけ使ってもいいだろう」という発想は、何もストレスを解決しない。後ろ向きである。お金は前向きに使わないとロクなことがない。

人は成長にのみ本当の喜びを感じられると思う。浪費しても興奮や陶酔はあるだろうが、それはすぐに醒めてしまうだろう。

疲れたら休むべきであって浪費をしても特はない。

5. 太っ腹になるな

人間どういう訳か大きな買物をする時には太っ腹になる。普段は198円か268円かで大騒ぎして「賢い主婦」ぶる女性も、家を買うとなれば「キッチン充実」の一言で2198万円も2268万円もなくなる。「だって一生の買物だから」と言うならお値段も慎重にするべきである。これは女性にだけじゃなく、全ての人間にあてはまる問題である。

付言するならばそうして追加した設備が、その値段ぶんの満足を与えてくれることはない。使えば皆同じなのである。比較するから違いとして見える訳で、住み続ければそういうものなのだと受け入れられる。

大体、車でもパソコンでも買うとなるとオプションを付けられそうになるが、そんなものは値段分の働きをすることはまずない。付けたら付けたで、それは使うこともあるかもしれないが、ないならないで問題は生じないものである。

是非とも冷静になってもらいたい。

また、皆が金がなくて困っている時にも「それじゃ、俺が」となりがちであるが、これもダメである。何の役にも立たない。金がないときには、ないなりの行動をするしかない。

それと商品が少額で「その程度なら」とか思って金を使うのもよくない。それが必要なら高くても払い、それが不必要ならどんなに安くても買うべきではない。

6. 家・車・旅行・外食を節約すればよい

上ともからむが、そもそも家、車、旅行、外食さえ節約できればよい。あとは多少太っ腹でも問題ない。お肉が398だろうが598だろうが対した問題ではないのである。

チリも積もればとも言うが、そんなチリは一度の家・車・旅行・外食の贅沢で軽くふっとんで、その上おつりもくるだろう。

「旅行も外食も節約なんて」と思うかもしれないが、ゆっくり近所の森でも歩けば充分だろう。また料理の本を見ながら豪華な料理に挑戦するのだって良い。個人的には、親しい仲間と、夕日や月でも見ながら語らう方がよっぽど楽しいと思う。

「普段を切り詰めて、たまにの楽しみを」という戦略そのものを否定はしないが、それだと普段が苦しいだろう。ミスで切り詰めるのに失敗するかもしれない。そして、そうしたストレスがある毎日だと、「たまに」でハメを外し過ぎてしまうだろう。人間、タガが外れるとドバドバと無駄をするものである。

どうせなら、毎日がゆっくりと楽しい方が、私は好きだ。

7. 「お金がなくて困った」と言ってはいけない

上で「金がない」と言って飲み会を断わるのはよくないとも書いたのにも関連するが、そもそも人に金がないと言うことが間違いだろう。それは、どう考えても「金をくれ」に聞こえてしまう。

お金がないいな、と思っても、それで何が実際に困るのかを考えてみる。勿論、不利は不利である。ただ、そんなことを困ったと言うより前に仕事を探した方がよい。

日々きちんと仕事があるのにお金が不足していると感じるならば、それはお金がないのではなく、使い過ぎなのである。それを「困った」などと言うのではなく、「使い過ぎるほど使えてありがたいかった。それじゃあ、がんばって働こう」と考えるのである。発想一発で、困ったことも励みになるものである。

***

いつものように長々と書いた。ただ、くれぐれも私は全くの貧乏人であるので、アテにしないように。それだけはお願いしておく。

セコい話術 - 5つの常套句

一応26年も生きていると世渡りというか処世術も覚えてくるものである。恥ずかしいのだが、最近はカワしたり、ナガしたりするセコい話術ばかりが発達してしまった。まあ、何かの役に立つかもしれないので、そんな話術の中でも常套句になっているものをまとめておくことにする。

***

ただ、始めに断っておくが、「セコい話術」という言葉からから期待するかもしれない「言い訳」は紹介しない。言い訳は駄目だ。言い訳はしてはいけない。「こんだけ悪いと思ってるんだから……」「だから誤ってるでしょ……」も駄目だ。ただ謝るしかないし、その上を考えなければならない。

1. 「いやー、勘弁して下さいよ」


使用状況)
  • やりたくないことを頼まれた時
  • 非難された時
効果)

勘弁してくれと言って勘弁してはくれないものだが、それ以上の追求を避けることができる。

具体例)
「○○お願いできるかな」
「いや、すみません、勘弁して下さい」
「え? 頼むよ。どうして?」
「あー、ごめんなさい。すみませんが勘弁して下さい。今度うめあわせしますから」
解説

結構逃げきれる。正直に「できない理由」などをでっち上げるよりは簡単である。言うまでもないが「うめあわせ」は別にしないでもよい。

2. 「いやーキツいっすね」


使用状況)
  • 非難された時
  • 不本意な境遇にさせられそうな時
効果)

ひとまず自分が相手の意見に対して否定的なのを波風立てずに伝えられる。次からは優しく言ってくれる可能性が高まる。

使用例)
「○○さん。××が間違ってたよ」
「あ! すみません」
「本当、○○さんって、いい加減なんだから」
「えー、△△さん、そりゃキツいっすね。イヤ、ホント、すみませんでした」
解説

笑いながら冗談のように言わなければならない。「キツい物言い」を責めてるように取られたらアウト。相手に「そうか、確かにキツい言い方かもな」とふと思わせられる位に言うことがポイント。

類語)

他にも「イタタタタ」「ツメタ」などもあるが、相手が気になるような言い方をするならば言わない方がよい。

3. 「実はどうしても言わなければならないことが一つあるんですが……」と言って長い沈黙

使用状況)
  • 謝る時
  • お願いする時
  • 相手を非難する時
効果)

相手の譲歩を引き出す

使用例)
「○○さん、実はどうしても言わなければならないことが一つあるんですが……」
「え? 何?」
「……」
「え? えーと。もしかして、アレ? いや×の件は別にいいよ、大丈夫」
「いえ、それじゃないんですけど……」
「あ、そうか。この前、俺が△を○しちゃったの、もしかして知ってた? いやー、あれは悪かった。黙っててごめん。謝る。ごめん」
「え? そうだったんですか? 知りませんでしたよ。……その話じゃないです」
「あー……。早く言ってよ。俺、なんかした?」
解説

人は何故だか沈黙を極度に嫌がるものであるから、有効に使えば簡易人心掌握術となる。勿論、忙しい時、周りが煩い場所では効果がないばかりか、逆効果になるので注意。相手と基本的な信頼関係があることも当然必要。

沈黙によって相手の緊張が高まり、相手が硬ばった顔から笑顔になりかけた位の時に言いたいことをストレートに言うとよい。沈黙が途切れたことの安堵が、あなたの言う内容の嫌な印象を消してくれ、話がうまくいく。

類語)
「言いたくないんですが……」「○○さん。間違ってることが一つだけけあるんだけど……」で沈黙。相手は相当いやーな気分になる。

4.「よく分かりました。ありがとうございます」


使用状況)
怒られた時、苦情を受けた時
効果)
相手がそれ以上あなたを追及するのが難しくなる。
使用例)
「おい、これ全然ちがうじゃねーか」
「あ。すみません」
「お前はいつもいつも本当にダメな奴だな。やる気ある?」
「なるほど。○○さんがそうおっしゃるのも尤もです。よく分かりました。ご指摘、ありがとうございます」
「……」
「わざわざお手を煩わせてしまい、すみませんでした。今後とも、ご迷惑かけないように精一杯頑張りますので、これからもご叱責よろしくお願いします」
解説

「やる気ある?」とか「なんで出来ないかなぁ?」に正直に答えるのは愚の骨頂である。相手は心情を吐露しているのであって、そうした発言で事実関係を確認したい訳ではない。

早急に相手の意見を受け入れることが大切である。更に相手の「怒り」を意見として「参考になります」などとリップサービスをした上で、感謝してしまえばよい。

更に、更なるおしかりを頂ければと言えば、普通の関係の怒りは止むはず。まあ、最後のはちょっと言い過ぎではあるが。

類語)

「なるほど」「確かに」「もっともです」「勉強になります」……全面肯定型の相槌。

5. 「さすがですね」


使用状況)
したくない事をお願いをする前
効果)

お願いがしやすくなる。相手が断わりにくくなる。

使用例)
「あの、ちょっとこれ見てくれますか? ちょっとアレで」
「ん? ああ、これね。こうやるんだよね」
「いやー、やっぱり、さすがですね。私なんて本当にまだまだです」
「そんなことないよ。長くやってりゃこんなこと、誰だって……」
「いやいや、そんな○○さんを見込んで、実は折り入ってお願いがあるんですが……」
解説

いわゆる「よいしょ」である。特に「さすが」は使用範囲が広い素敵な言葉である。

しかも、手伝わせた上でよいしょして、お願いをしてしまおうという魂胆である。キタない甘えの技なのだが、これが上手くいくから面白い。人肌脱いであげて褒められた爽快感が、そのまま兄貴風となり、「おうよ、何でも言ってみな」という気分になるのだろうか。

男はいつの時代もベタに弱い生き物である。

類語)

「やっぱり○○さん、違いますね」というのもある。何が「やっぱり」で「違う」のかは誰にも分からない。

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問題解決の技術

大袈裟なタイトルだが、以下のようなプロセスをやれば問題は解決に向かう。I. II. III. の大きな枠内では、行き来をしながら考えるとよいと思う。

I. 理想と現実を設定する

  1. 問題を設定する。「何が困ってるの?」
  2. 現状を確認する。「今まで何して来たの?」
  3. 狙いを設定する。理想を規定し、その意義を確認し、目的とする。「どうしたいの? どうなったらいいの?」

II. 方法と目標を設定する

  1. 仮説や前提となる枠組み、原理を設定する。「問題の本質はどうなっていそう?」
  2. 方法を案出する。必要なコストを見積る。「どうすればいい? 何があればいい?」
  3. 目標となる結果、効果を設定する。「いつまで、どこまでやる?」

III. 実行しレビューする

  1. 手法を実行し、記録する。
  2. 結果を分析し、現状や仮説を再検証する。

おすすめ音楽CDトップ10

影響を受けた文豪、思想家、芸術家などに続いて、必聴の名盤と思える音楽CDベスト10のリストを作ってみる。例によってジャンルごたまぜ。自分の好みで並べます。

1. タチアナ・ニコラーエワ, バッハ:フーガの技法 (1967, 1992)

堂々の一位はニコラーエワおばさんのフーガの技法。

静謐な息遣いの満ちた空間に純粋に積上げられるフーガ。時に静かに染み出すように、時に激しく突き刺すように、深く重い彼女の音が舞う。

その音楽によって空間は支配され、ただ人間は息を呑むのみ。深い海の底か、高い天の上かは知らないが、ただ力強い生命力が満ちている。

本当はメロディアの1967年録音の方がいいのだがCDがないので、ひとまず92年ハイペリオン盤を推薦する。

2. カール・リヒター, バッハ:マタイ受難曲

二位にはリヒター先生が来るに決まっているのだが、曲はどうしよう。個人的には「音楽の捧げ物」や「パルティータ」、更にカンタータやオルガン作品なども外せないが、ここはマタイ受難をあげておく。

CDも複数あるし、DVDもある。ただ58年録音のこれがベストだろう。また、映像で観るのをお薦めする。圧倒の一言である。

カール・リヒターを聴くという経験は、熱せられて青白い炎をあげる、緻密な細工が施された鉄の網に全身を包み込まれ、そのまま、胸の奥までバラバラに焼き切られてしまうということと言える。
とアホなこと書いたが(参照)、それは、理性が支配し、そこに感情が従うから可能なことだ。

リヒターはバッハの音楽の「秩序」そのものに語らせようとする。そしてその客観性においてのみ、神の如き「秩序」は現前し、聴く者を圧倒する。

3. ギドン・クレーメル, バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ (1980)

シャコンヌの演奏のいいものを知らない。しいて挙げるとすれば、この1980年録音の方のクレメルだろうか。とても良い演奏だと思う。もちろんソナタとパルティータ全曲収録の2枚組もある。

勿論、好みがありシェリングやシゲティ盤、あとスークあたりも外せないだろうが、個人的にはあっさりし過ぎに感じる。

あとピリオド楽器には私はあまり興味を感じないのだが、機会があれば聴いてみるべきだろうか。

4. Massive Attack, 100th Window(2003)

ここでマッシブ・アッタクを入れる。この一曲目 Future Proof は個人的には歴史に残る名作と思っている。その意味で、発表から数年だが私にとってのクラシック(古典)であり、一生聴き続けると思う。

私の先生は彼らの音楽を

自分の現実から目をそらさず、自分が今そこに存在する事に必死に絶える彼らの表現は、地方都市から世界へと発信し、遠く離れた異国の若者たちに指示されて行く。しかし、更に悲しい事には、このような発信と共有とを可能にした、発達したメディア社会そのものが、彼らをより深刻な闇へと突き放して行く。
と評している。

叫んでも、逃げだしても、ラリっても、自殺しても何にもならない時代の、ディジタルな叫びは、現代に当然生まれる表現である。そして当然生まれる表現であればこそ、そこに高い芸術性が生まれるのは必然であろう。

別にネガティブでも何でもなく、そうした現実からやっていくしかない訳だし、何よりもこれは音楽であり表現の問題であり同情とかそういう問題ではないことに注意して欲しい。単純に、4番目にいい音楽であるから、4番目に入れた。

また現在これが私が評価できる最も最近の音楽となっており、これ以降も興味はあるのだが、なかなかアンテナが低いこともあり、見つかっていない。

5. グレン・グールド, ゴルトベルク変奏曲 (1955,1981)

かなり迷うが、結局はこれだろう。若いときのもいいが、個人的には晩年のでいいと思う。

できれば聴き比べてみると良いだろう。若者の溌剌とした精悍な演奏は、晩年の孤独に老いた妖しい光によって締め括られる。元々削られたように正確な彼の音は、更に削ぎ落とされ続けた年月を経て、逆に仄かだが深い光がにじみだしている。

それを老年の衰えとは私は思わない。

6. Nirvana, Nevermind (1991)

かなり迷うが6位はニルヴァーナに送りたい。一曲目の Smells Like Teen Spirit は世界を変えた……筈。

「売れる」「有名になる」ことを受け入れられない彼等の音楽の苦悩を思うもよし、昔のように単純に叫べない怒りをカートがいかに叫んだのかを聴くもよし、「古き良き」アメリカの歌をいかに現代の若者が伝承したのかを聴くのもよいだろう。あるいは、「否定」を聴くかもしれない。

ただ、少くともスメルズは一般に思われる程パンクで過激な音ではなく、メロディーラインも「ポップ」である。

そこでアメリカの歌が問題になる訳で、そうなるとトーマス・ドロシーやレッドベリーを呼ばなきゃならない訳で……。まあひとまず、アンプラグトのカートが唱う Where Did You Sleep Last Night を聴いてみて下さい。地下生活者の日記 - 気狂いブルースにyoutubeの動画が貼ってあります。

7. Jimi Hendrix, Electric Ladyland (1968)

7位じゃ低過ぎるだろうが、ジミヘンの登場である。

彼のアルバムはどれもベスト盤のような出来で、ライブはライブで彼のギターの真骨頂を見られるし、死後にリリースされ続ける自分のスタジオで録った音源もまたおもしろい。だが普通に考えれば、このエレクトリック・レディーランドになるだろう。

特にVoodoo Chileはどう考えてもブルーズの一つの到達点だそうし、Little Wingは彼が死ななければ生まれたであろう、ロック(白人)もソウル(黒人)も越えた未来の音楽を予感させる。

8.Janis Joplin, Cheap Thrills (1968)

スタジオ録音では、彼女の真骨頂たる語りと歌の混在したパフォーマンスが味わえないのであるが、私にとって、ジャニスと言えばSummertimeであり、Ball and Chainであるので、その二曲をおさめたチープ・スリルは彼女を代表するアルバムと思う。

そりゃ、ビッグ・ブラザーの演奏は下手だけど、フル・ティルト・ブギーのPearlがいいかというとそうでもない。何か違うのである。ビッグ・グラザーには、なんというか混乱の中を、その混乱を受け入れつつ、新しい何かを生みだそうとするエネルギーに満ちていると思う。

ただ、やはりジャニスはライブ映像を見て欲しいとは思うが。語りと歌が混在する中に、本当の表現とは何かという問いの答があるように思う。

9. John Coltrane, Selflessness featuring My Favorite Things (1963)

ここで、コルトレーンの登場である。

ジャズである。パーカーもモンクもバドもガレスピーもいるが、いやいやマイルスとか言う人もいるだろうが、コルトレーン、しかも至上の愛などを差し置いて、このアルバムである。

このアルバムの一曲目マイ・フェイバリット・シングスは、数少ないジャズ・セッションの「熱気」を収録したテイクだと思う。ジャズに複雑な理論は必要ない。ただスウィングし、ひたすら音と音、リズムとリズムがぶつかればよいと思う。そこに人を震えさせるものがある。

もしパーカーやガレスピーで秀逸な録音があれば、そちらになるかもしれないが、不勉強で発見できていない。少なくともパーカーは本当に凄いのだが、録音が悪いのでリストには挙げられない。

10. Son House, The Complete Library of Congress Sessions(1941-1942)

遅すぎる登場で、こんな下のランクに書くなら書かない方がいいんじゃないかと思うが、それもあんまりなので一応のせる。

本当は、この人も映像で見た方がいいのだが、それだと歳をとっているので、このアルバムを聴けば彼の音楽の幅が分かると思う。

救われない悩める魂を抱えながら、それを必死に詫びながら、そして赦しと救済を求めながら、それでも逞しく生き抜いてゆく、強く、甘く、せつない男の世界があると思う。本物の表現である。

いや、これどう考えても1位か2位だろ……。うーん……。そうだ、もう一枚ジャケを貼っておいて赦してもらおう。 彼は1988年まで生き続け、様々のものを見守り続けた。

有名な所では、彼はロバート・ジョンソンに強い影響を与え、また彼が成長し彼を超えていったのも見ていたとされる。また、ロバート・ジョンソンを含めた多くのブルーズマンの死にも出会った。一緒に暮らしていた女性が死んだこともあった。

変化の時代だった。機械化によって黒人の農村社会は崩壊し、黒人は都市化していった。そして、ブルーズも都市化し、エレキ化していった。

彼は変わらなかった。彼は音楽のスタイルを変えなかった。エレキは持たなかったし、レパートリーも広げなかった。

時代が彼の音楽から離れると、彼はギターを離れ、ただ農村の労働者になるのである。

そうして、白人のブルーズファンに発見されれば彼らに演奏をしたし、民族音楽研究の若者が現れれば彼らに演奏をした。何も変化はない。媚びることもない。いつものブルーズ、本物のブルーズだ。

デルタ・ブルーズの父、サン・ハウスはそうした男である。

なんだかウイスキーのCMみたいになってしまったが、時代を超え、変わらぬ本物として生き抜いた男を、私は尊敬してやまない。


そんなこんなでおすすめCDトップ10は修了。

え? モーツァルトは? パットンとかロバジョンいないですが……。オイオイ、レッドベリーは? パコちゃん(パコ・デ・ルシア)やピアソラ先生は?

まあハナから無理ですな。

柔軟性を高めて深層筋を使う(1) 脊椎の力はすごい

人間は脊椎動物の一種です。中枢神経(脳と脊髄)を守る頭蓋骨や脊椎(背骨)はとても重要であり、損傷が発生すればかなりの被害が出ます。

よく知られているように、脳を経由しないでも運動が起こります。

脊髄が中枢となって起こる反応を脊髄反射と呼びます。例えば、熱いものに触った時に無意識に手を離す現象が脊髄反射です。他にも、つまずいてバランスが崩れた時にも反射が起こります。人は脳を利用しなくても運動をするのであり、脊髄は脳と同様に大切なものです。

そうした基本的な運動をすら司る脊髄を収めた脊椎は、それ自体の運動能力も高いものです。

「胴体力」「深層筋」などと呼ばれる筋力は、主に脊椎の中心からの運動に関連したものです。脊椎の筋肉は、手足の筋肉に比べると意識的な操作が難しいのですが、はるかに力の量も持久力もあるのです。また安定した優美な手足の動きを可能にします [*]。

特に呼吸や姿勢に関連した運動に関しての脊椎周辺の筋肉の能力の高さは本来驚くべきものの筈です。

私たちは無意識に無意識に横隔膜、鎖骨、肋骨や脊椎を動かしながら呼吸しますし、そうした中で絶えざる変化の中で常に無意識にバランスを取っています。しかも転びそうになると自動的に補正をします。そうした無意識のバランス補正ができなければ、いかに手足が健康でも、歩くことは勿論、立っていることすらできないのです。

呼吸や姿勢は小脳が司っているので、意識に上ることはあまりありません。しかし、その継続時間の長さと必要な力を考えれば、そうした運動を可能にしている脊椎の能力がいかに高いのかが分かるかと思います。

昔から「肚で持つ」とか「息で持ち上げる」などと言いますが、これは呼吸に関連させ脊椎周辺の深層筋を利用するための意識なのでしょう。こうした意識を利用して、昔の人は歳をとっても重い物を長時間運べたのでしょう。

使えない深層筋がコリになる

そうした深層筋は意識に上ることが少いので、強い力を持続的に使用する必要のない多くの現代人は、深層筋を利用できていません。

それ故、巨大な力を持つそうした筋肉は凝り固まっています。

肩凝りや腰痛などの多くの場合は、こうした深層の意識しにくい筋肉が緊張状態になっている為に起こっています(勿論、構造上の疾患の可能性もあるので医師の診察が必要です)。特にストレスや不安、怒りなどの心理的緊張が、そのまま深層部の筋肉を緊張させている場合もあると考えられます [1]。

高い能力があった場合、それを使わないのは無駄なだけじゃなく、苦痛すら生んでしまうのです。

柔軟体操で脊椎運動に慣れる

それではこうした脊椎の力を上手に利用するにはどうしたらいいのでしょうか。

本当は若い時から重い物を長時間、正しい姿勢で持ったり運んだりするのが一番です [2]。自然に呼吸で運ぶ息遣いを学べます。

ただ、それは成年した人には酷な話ですし、第一、急にそんなことをすると身体を壊してしまいます。

そこで成年に向けた様々な方法があります。イメージ訓練や呼吸法、そして立禅や坐禅など一定の姿勢を持続させるなどの方法がすぐに思い付きます [3]。

しかし、こうした方法は具体的な大きな動きがないので文字で説明しにくい上、それなりに一人でやっても手応えを感じにくいかもしれません。こうした方法はお近くの武術、気功、ヨーガ、瞑想、坐禅などの教室に通って長く続けてみるのがよいでしょう。

そこで、これからの連載では柔軟性を高める運動をする中で、深層筋の利用を促してゆきたいと思います。シンプルでゆっくりとした柔軟体操なら、安全に深層筋のコリを開放してあげられると思います。また、伸ばす中で意識しにくい深層筋の存在を意識できることと思います。

ゆっくり、静かに、気持ち良く

コツはゆっくりと小さく動かすことです。

せわしなく動かしたり、大きな動きであったりすると表面の動きにばかり意識がいってしまい深層に意識がいきません。静かに、小さな力の動きをしばらくすることで深層の動きがつかめるのです。

大きく動かすと「いかにも」という気分にはなりますが、効果は出にくいです。大きくて、せわしない動きには緊張がつきものだからです。目標は深層部の弛緩なのですから、心身を緊張させる「いかにも」な体操はやめて下さい。

また安全の面からもゆっくりと静かに動かせてあげて下さい。そして無理に曲げたりしないで、気持ちいい程度に動かして下さい。繰替えしますが緊張させても仕方ないのです。

残念ながら、このブログはあなたの結果に対して何の責任を負うこともできません。とにかくゆっくりと動かして下さい。これは効果を出す一番の方法でもあるのですから。

notes

[*] 脊椎による動きと音楽については音楽における「白さ」についてを参照下さい。

[1] 怒りとシコリの関係については体の中の心 - 感情は実在するかを参照下さい。

[2] 長時間、意識して歩くことによる身体感覚の補正については体の動きに気づいたを参照下さい。

[3] 意識的な姿勢や呼吸による身体意識の補正についてはできることは自然の観察のみ行住坐臥 (1) はじめにをご覧下さい。

部屋を広く見せるレイアウトのコツ

今回は部屋を整理するコツについてです。部屋のレイアウトの参考にしてください。

ポイント1: 床と壁のまとまったスペースを死守

分散したスペースよりも、まとまったスペースの方が広さを感じさせてくれます。

また人間の目は優れたもので、そのスペースにホコリがあるかないかでも広さに影響を受けます。小まめにモップをかけましょう。

(1) 背の低い家具を利用する

物の多い人は仕方ないですが、基本は低い家具が良いです。少なくとも入口からの対角線には低い家具を置いた方がいいです。背の高い家具は入口から見えない壁際に置きましょう。

(2) 家具は壁際にまとめて配置する

分散させずに、端にまとめること。そうすることで中央にスペースが作れます。何故か進入経路に分散させる人がいますが、それは狭く感じさせるし、第一、部屋が使いにくいと思います。

ポイント2: 入口から目に入る場所はスッキリさせる

第一印象は印象の大部分を決定します。故に入口からの眺めは確保しましょう。

(3) 入口からの対角線上に物を置かない

進入経路に物を置く人はあまりいないでしょうが、念のため。中心は対角線の上なので、つまり中心には何も配置しないようにしましょう。ただ、背の低いものはあまり気にならないかもしれません。

背の高めな机や椅子も対角線から少しズラすと美しいと思います。

(4) 入口の対角線の先に最も見て欲しい物を置く

具体的には、小物を置く場所や、綺麗な棚、すっきりした机も印象がいいです。あるいは下のような鏡もいいと思います。

逆にベッドやゴチャゴチャした家電などを置くのはダメです。とても狭く見せます。

ポイント3: 部屋を明るくする

暗い部屋、重い空気の部屋は部屋を狭くします。明るく、軽い空気の部屋にするようにしましょう。そのためには掃除が大切でハタキで目に見えないホコリを落としましょう。こういうのが空気を決めます。

ちなみに窓を塞いだりしちゃダメですよ、念のため。

(5) 色を寒色系で統一させる

白や青など寒い感じの色が広くさせる。普通には白と淡い青系で統一し、そこに普通の木目の家具を置くのが楽だと思います。

家具も白や寒色系で統一しようと思うと金もかかる上、寒色系は統一させなきゃならないし、白は汚れやすいわで大変と思います。まあ、そうした色気で統一して、小さめ家具をステンレスなんかにして端々が光ると綺麗は綺麗ですが。

小物にはシルバーやクリスタルなどの光る物、あと酒瓶なども開放感を感じると思います。あとの小物は革物や基本黒系で無難に。

ダメなのは赤、澄などの暖色系。あとゴタゴタした模様、特にキャラクター物は狭く感じさせます。これらを捨てるか隠せば広く見える筈です。

(6) 鏡を使う

どうしても光や奥行が足りない部屋の場合、部屋の中の綺麗な場所や物、あるいは外の景色を映らせるといいでしょう。

大きな鏡で外の景色を映り込ませたり、部屋の綺麗な場所を映し込ませると、かなり広い感じがします。ただ、フレームが部屋の雰囲気にあるものを選ぶのが難しいと思いますし、設置も難しいです。

小さな鏡も、その前に小物や観葉植物なんかが置いてあって、それが映っていると広がりを感じさせてくれます。

ただ夜中とか恐くないですか? 鏡って。私は使いません。

ポイント4 カーテンと照明で好感度アップ

(7) 長いカーテンを使う

すっきりしたカーテンを高い場所から、床スレスレまで落とすと、カーテンのヒダが縦の線を強調し天井を高く見せてくれます。カーテンが品のよい物だったら効果は絶大。また、床までピッタリと合った長さのカーテンは、静かな安らぎを与えてくれます。

背の低い家具をコントラストで配置するのもいいでしょう。

(8) 間接照明を使う

小さなスポット・ライトを買って来て、本棚の脇にでもつけて、スペースを強調したい壁から天井に向けて照らします。壁や天井のスペースが強調され広さを感じるし、何よりも白熱灯の光が間接照明となり更に柔らかくなっているので気分が落ち着くはず。間接照明についてはあなたの知らない照明術 akiyan.comを読むのをお勧めします。

またローソクもいいと思います。夜はゆっくり間接照明やローソクで暮らしたいもんです。

*

尚、スペースをアピールするコントラストのためにポスターや小物などを利用する手もありますが、それは上級者向けということで……。私みたいのがやると、ちらかってるだけ、センスがないだけになってますんで、人には到底すすめられません。

ただ知り合いの妹がジャズメンのコラージュのポスターを入口から対角線の壁に貼っていたのは評価できました。ジャズメンの顔写真やアルバムを寒色系に変換して、それを小さくコラージュしたものです。

全体的には寒色系なので引いて見えるし、普通の絵画やポスターに比べると絵柄が細かく鮮明でないので、煩わしさを与えません。色使いもなかなかセンスのあるもので、個人の部屋に貼るのに最適でした。

逆に映画のポスターやバンドのポスターなどを貼っている人をよく見ますが、あれは個人の部屋に貼るもんじゃないでしょう。

あれは広告です。目を引くために作ってあるのだから煩わしくて仕方ありません。

例えば洗剤の「ア○ック」なんかのパッケージがA0のポスターになって部屋に貼ってあったら煩わしいでしょう? ポスターは宣伝なのでほとんど同じものです。

もちろん、それをコントラストに使うこともできるでしょうが、それはかなり広い部屋でしかできないでしょう。

あとはとにかくマメにホコリと湿気対策をすることです。無意識下でホコリと湿気は私たちに影響していて、その部屋の空気を決めてしまいます。窓を空けて換気して、ハタキでホコリを落とし、モップがけをしましょう。

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2007-06-16

シンプルに暮らす(3) 「整理」のための6つのルール

フローとストックの区別で部屋の掃除すっきりパソコン利用法を書いてみると、シンプルにすっきりと暮らすにはルールがあることが分かった。それをまとめてみる。

1. 作業スペースに物を置かない

道具の配置を決め、床と机など作業スペースの上には何も置かないようにする。作業スペースは広さがあるため物を置きやすく、しかも一度置き出すと際限なく物を置いてしまうのである。

これは仮想世界にも言え、デスクトップやホームディレクトリには物を置かないようにしたい。

2. 収納スペースをこえて物を持たない

収納スペースが保有できる物品の量を規定する。つまり、新規参入は常に古参廃棄を意味のである。簡単に言えば、買ったら捨てろということ。できれば収納スペースはギリギリではなく余裕があった方が優雅である。

あるいは収納を増やすことも考えられる。ただ、家具は床や壁を食うのであり、家具自体が部屋を狭くすることにも留意が必要。部屋が倉庫になってしまう。多くの物を持ちたいのなら広い部屋に住まねばならない。それが叶わぬなら、それほどの物を持つべき富を持っていないと諦めるべきだろう。

とにかく無駄に物を買うべきではない。また、不要物は即座に捨てるべきだ。

3. カテゴリで分けず「状況」で分類

カテゴリやジャンルによる分類はかなりのコストがかかるので個人の場合、簡単に破綻する。規定の場所への出し入れが面倒なだけじゃなく、分類基準そのものが作業進行につれて変化してしまうからである。

そこで、個人の場合なら、作業の状況で整理した方がよい。つまり、未確認、未着手、作業中、完了、放棄、委譲などのステータスで物を分類した方が管理も簡単だし、作業もはかどる。単純に空間的に時系列に並ぶのが良いと思う。

特に大量に情報が流入し、破棄せねばならない状況なら、分類しているのはコストの無駄だ。

これは、いわゆるデヴィッド・アレンのGTD (Get Things Done)や野口悠紀雄推奨の「押し出しファイリング・システム」と同じ方法論であると言えると思う。詳しくは、[書評] 3分LifeHackingに書いてあるGTDのリンク[書評]「超」整理法を参照して欲しい。

例外は、長期間固定した整理基準を持てる物の管理(例えば文房具など)や、複数の人との環境の共有の場合である。こうした場合にはしっかりと分類基準を定め、コストをかけて管理してゆかねばならない。

4. 状況を明確に区別して行動

これは、入力(入手)、分類、整理、作業、提出、検索、レビューなどの作業の各段階を、明確に区別して行動することを意味する。

特に入力と分類は混同しがちであり、入力時に分類しようとすると、入力にはストレスがかかりフルに入力できなかったり、あるいは、分類が適当になってしまう。

データの入力だけでなく、洗濯物をタンスにしまう時もそうだ。持って来たままガボっとタンスに入れるのではなく、一度床に置いて、引出しの中身も分類しつつ、仕舞えば効率的だ。仕上がりが丁寧であり、かつ、時間も短かい。

また、整理と検索とレビューも混同しがちである。探しながら整理したり、検索してレビューした気になってしまう。個人ではジャンル利用の整理は必要ないということにして、検索の時には検索、レビューの時にはレビューに専念した方が効率的と思う。

5. 「ひとまず」な受け皿をつくる

雑多な情報を最初に分類しようとすると破綻する。ひとまず一つの「入口」を決めておいて、そこに何でも入れられるようにした方がよい。分類するにしても大雑把な方がよい。

つまり「受信箱」「避難所」「その他箱」などを作り、参入した書類、洗濯し終わった服、買物などを置けるようにしておく。折を見て、その中身を減らしてゆけばよい。

また、なにかを分類する時には「その他」のスペースを作ることも忘れてはいけない。

6. 物理管理で、時間・空間把握能力を利用する

パソコンの中の情報やノートの中の情報だと、その情報の操作は頭の記憶に頼るしかなくなってしまう。閃きは結局頭の中で起こるが、記憶は苦しいストレスとなる。

人間は「どこ」と「いつ」は直感的に反応できる。つまり高速でありストレスがない。これを利用しない手はない。

アイディアを生んだり、レビューする時には、情報を物理的にした方がよい。つまり、集めた情報をカードにしたり、チャートを書いたり、印刷物にして綴じたりして、机や床の上などに、どばっと並べてみると良いだろう。ディスプレーを覗き込んだり、ページをくっていた時にはない発見がある(digi-log: 3時間でレポートを書く方法も参照)。頭の記憶を視野を超えて広がる空間に置かれた紙がサポートしてくれる。

また、ファイルやカードを並べる時もジャンルではなく時系列にすることで、物理的な位置と時間経過が一致するので効率がよい。ファイルやカードを日々さわっていると、そうしたものが身体化してくるのが分かる。

音楽や文書もHDにつっこんでいると、何がそこに「ある」のかが分からなくなり、それはそれでストレスになり効率が悪い。CDに焼くなり印刷するなりして物理的実在にしておいた方がアタマに楽だと思う。

[書評] 天才はいかにうつをてなづけたか / アンソニー・ストー

単純にバカと天才紙一重という話ではなく、チャーチル、カフカ、ニュートンなどの「うつ」などの精神的な障害を彼らがいかに乗り越え、また、そうした障害から能力を引き出したのかが分かるという良書。類書を私は読んでないが、かなり丁寧に書かれたという印象を持つ。本書を読んで「やっぱり普通に生きたい」と思うもよし、「あぁ、私はこっちだ。天才として生きるしかない」と思うもよいだろう。

ただ、普通に考えて、あまり人の人生とりあげて精神的な問題を考えて、創造性を考えるのも、どうかと。ある人をこまかく見りゃ、だれだって異常に見えるもんだと思う。それなりのことをした人は、結局、それなりのストレスがあるわけだし、それなりの行動をするだろう。あまり、真にうけて、いろいろ考えない方がいいとは思う。

まず、チャーチル。絶望的な状況においてイギリスを奮いたたせた彼の勇気は、生まれつきのものでは断じてなく、逆に挫折感の克服から、自ら生み出したものだということらしい。

ただ一人、自分の精神的な挫折感を受け入れ、これを克服した人間がいて、その男は当時のような急場においても、自分の信念を持ち続けた。その男は望みのない事態の中でも真の希望とは何かを見分け、敵に包囲された状況にあっても、常識を超えた勇気を保ち、攻撃的な稀薄を燃やし続けた。(……)生涯を通じて自らの挫折感に戦いを挑み続けてきたからこそ、国民に向かって挫折は克服できると教えることができた。

そして、その「勇気」とは、信じることから生まれた「妄想」であるのであるが、状況次第では、そうした妄想のようなものが、まさに現実を創りあげてゆくこともあるということになる。その想像力は、やはり精神的障害なしには、ありえなかったということらしい。

私たちはチャーチルの「信じるからこそ実現できる内面の世界」について度々ふれてきたが、(……)、チャーチルは内面の世界にこそ現実を見いだした。(……)、一九四〇年、「信じるからこそ実現できる内面の世界」は、普通の人間には滅多に起こらないような形で、外側の世界と一致した。(……)。あの暗い時代、イギリスが必要としたのは、聡明で、落ち着きがあり、安定感のある指導者ではなかった。イギリスが必要としたのは、預言者であり、自分が英雄になるという妄想をもった人間であり、敗北が明らかな状況にあっても、勝利を夢見ることのできる人間であった。チャーチルはまさにそのような人物であった。人を生き生きとさせる彼の性質の根底にあった活動的な力は、彼が真実の自分を見いだした想像力の世界に由来していたのである。

もし彼に精神的な障害がなければ、そうした「勇気」や「世界」を創造するだけの想像力はなかったろうし、ゆえに人を奮い立たせることはできない。障害がなければ安定した生活は送れたであろうが、そうした安定した人物を1940年のイギリスは求めてはいなかった、と。

次にカフカ。「あまりにも幼なすぎる頃に、愛は無償で与えられるものではな」いことを学んだ彼の人生は無力感に支配され、アイデンティティーは常に危機にさらされる。

カフカは『父への手紙』の中で、「私を圧倒した非存在の感覚」について語っており、この感覚には父親の存在が大きく影響していると述べている。彼はある夜味わった恐怖について思い出している。その夜、水が飲みたくなって泣き出してしまった彼を、父親はバルコニーへ放り出した。「その後数年間、苦しい幻影に悩まされた。権威の象徴であり巨大な男となった私の父が何の理由もなくやってきて、夜中に私をベッドから起こしてバルコニーへ連れ出す。私は彼にとって何の価値もないのだ。」
三重高速に囚われた子供は、何をしてもいつも悪いのは自分になる。カフカが父親に次のような手紙を買いたのも不思議ではない。「あなたがかかわった全ての状況で、ぼくは自信を失くしたんです。そういう状況で、ぼくは限りない罪の意識にとらわれてきたんです。」

それは人から離れることへとつながる。

そして、カフカは、一生をかけて、だれとも仲良くしなくてもいいような人間関係を求めてきた。なぜならカフカは、自己主張の封印によって、あるいは他人への盲従によって、アイデンティティを見失う傾向があったからである。

一方で、「絶対的な愛」「完全な受け入れ」を求めてしまう。フェリーチェは婚約者。

「ここ三ヶ月の間、フェリーチェ、あなたはそちらにいましたか? 一日でもぼくからの便りがなかった日があったでしょうか。そんな日はないはずです。でも今日、火曜日もきみからの便りはありませんでした。日曜日の四時からずっときみからの便りがありません。明日の配達まで六十六時間以上ありますが、ぼくの心の中には思いもよらず起こりそうな良いことや悪いことが、入れ替わり立ち替わり浮かんでくるのです。」
そうした状況の彼は「書く」ことでアイデンティティーを確立してゆく。

「芸術家志向というのは真実ではありません。誤った見解の中でも甚しいものであう。ぼくには文学の趣味などなく、文学そのものなのです。ぼくはそれ以外の何者でもなく、それ以外の何者にもなれないのです」

カフカは精神病ではない。しかし、精神病的な幻想に引きこもるのを防いでいたのは、書くことであったと、私は信じる。というのも、書くことはコミュニケーションの手段であるし、他の人と遠くかけ離れているとはいえ、接触する機会を保つ手段であるからだ。カフカのような気質をもった人々にとって、書く才能を備えているのは、他の人と直接接触しなくても自己を表現できる方法を手にしているという点で、理想的である。

恐怖に縛られている人にとって、書くことは別の働きをする。カフカは、『審判』を書くのは悪霊払いだと、ヤノッシュに語っている。書くことは、人と直接接触することなく自己のアイデンティティを確かめるだけでなく、無意識の世界に抑圧された過去の経験を意識にのぼらせて解き放つ除反応でもあり、悪霊を鎮める方法でもあり、言葉によって悪霊を釘付けにする方法でもあった。カフカは、書くことあるいはその他の想像的な活動が生き残る方法であることを、見事に証明してくれる。

こうして書くことは彼を救うが、しかし、それは「ひきこもり」であるだけであり、その不安定さをカフカも気づいていたという。

ただカフカはその書くことが人に認められ自信につながっていったのであり、その点でやっと人との交流にもたえられるようなアイデンティティーが成立したということだ。筆者は、もしカフカが長生きをしたら、生活は普通の人とさほど変わらなくなり、作品を書く内面的な力も失われていたと予測する。

次にニュートンについても、そのうつ病や分裂病の兆候などの病理学的な特徴を分析した上で、科学的発見と正確との関連を考えている。幼年期の愛情の欠如が、野心や嫉妬心を醸成してゆくという流れ。

また抽象的、客観的な思考能力も関連があるとする。

私たち大多数の人間は、長いこと物事を主観的に考えないでいたり、身体的な要求あるいは人間関係に対する欲求を断わったりするのは、それほど容易ではないと考えている。抽象的な思考によって偉大な貢献をしたこれら天賦の才をもった人々は、特に人間的な身近なつきあいをしておらず、身体的な要求や欲求を抑制したり、あるいはそういったものに無関心であった。ニュートンと同じように、身近なつきあいをもたなかった人には、デカルト、ホッブス、パスカル、スピノザ、カント、ライプニッツ、ショーペンハウアー、ニーチェ、キルケゴール、ウィトゲンシュタインなどがいるが、これらの人たちは要するに世界に名だたる思想家である。(……)この人たちのうちの何人かは独身主義者であり、同性愛者であったし、そうでなかったとしても、束の間の女性関係しか経験していない。

また、孤独であることも長い集中力を実現するのに必要だという。

まだまだ、いろいろつづくが、このへんで。

2007-06-15

『インテグラル・ヨーガ』ヨーガ・スートラの分かりやすい解説

本書はスワミ・サッチダーナンダによる、パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』の解説書だ。『ヨーガ・スートラ』の全文が載せられていて、それぞれについてサッチダーナンダの解釈、解説が書いてある。この解説がなかなかで、神話や寓話も援用しつつヨーガの基本概念やスートラが意味することを説明してくれる。ヨーガを通じて平安な心を得たい人は是非よんでおきたい一冊である。

パタンジャリのヨーガスートラ

『ヨーガ・スートラ』とは

ヨーガ・スートラはインド哲学の1派であるヨーガ学派の根本経典。成立は2-4世紀頃。パタンジャリによって著されたとされる。
とwikipediaにある(参照)。

ただし、パタンジャリがヨーガを"発明"したという訳でないことにも注意が必要かもしれない。

彼は既に存在していた思想と行法を系統づけ、編纂しただけである。しかし、以来彼は"ヨーガの父"とみなされるようになった。そして彼の『スートラ』は、現代に百花斉放しているさまざまなタイプの瞑想とヨーガすべての土台となっているのである。

体を柔らかくする体操としてのヨーガではなく、「心の科学」としてのヨーガが本書の内容である。

サッチダーナンダがヨーガスートラを平易に解説

魂の科学としてのスートラの本文は

1. これよりヨーガを明細に説く。
2. 心の作用を止滅することが、ヨーガである。
3. そのとき、見る者(自己)は、それ本来の状態にとどまる。
という具合でなかなか分かりにくい。それに対し、著者が分かりやすく、説明してくれる。

ともすると哲学的で何回な内容が、彼の具体的な話や、神話や寓話などによってほぐされ、心にすーっと入って来て、「いかに生きるか」「私とは何か」という問題に、明快な答を与えてくれるだろう。

平安は「無私の奉仕」を通じて

「さて、その教えは?」ということになるが、誤解を避けるために詳しくは本書を読んで欲しい。が、それじゃああんまりなので一応抜書すると彼の中心となる主張は以下の通りである。

〈自己〉について語る聖典は、単なる知的理解のためのものだ。だが自我(エゴ)のための本当に実利的な真理は、非常に単純だ。ただ無私たることを学べ。献身的な生活を送れ。何を為すにも、それを他者のために為せ。献身する者は常に平安を享受する……。私が聖典についてあまり多くを語らないのはそのためである。私の学生たちはおそらく、私が『ヨーガ・スートラ』について本を書くことを望んでいるだろう。だから私はこれらのすべてを語ってきたわけだが、私自身としては、本当はわれわれには聖典は要らないと感じている。生活のすべてが開かれた書物、すなわち聖典である。それを読もう。(……)日々の行動から学べなくて、どのように聖典を理解しようというのだ?

「自己」は「観察者」になる

誤解を恐れずさらに書くすると、本来の自己とは常に「目撃者」や「見る者」「知る者」であり、見られたり対象化されるものではない。その知る者以外は見られ、知られる自然であり、それは体や心を含む。つまり、心や体は「見られる」のであるから、本来の自己ではないのである。繰り返すが、本来の自己とは対象化される性格のものではないのである。

こう書くと、そうした自己に出会う方法はないように思えるが、私たちは常々自分を「知っている」と思う。これは心を鏡として自分を映しているからだと考えられる。ただ、その心という鏡は常に曇ったり歪んだりしているのが実情であり、本当の自己を正確には写せない。

そこで「心の止滅」が重要となり、戒めを守り、坐し、呼吸や心を整え、集中し、瞑想し、三昧に達すると本当の自己となるということである。そうすると、自己に知られる「自然」は、自己を鍛える必要がなくなるため、完全な平安になるということだ。

自己は「行為者」であることをやめ、気づき続ける「目撃者」となり、善悪を離れ、自由となるだろう。ただ、だからと言って心や体が苦痛を覚えない訳ではない(自己は苦痛から自由にしても)。それ故、苦痛を生まない行動を自然にする訳であるが、それは「個人的な期待のない無私の奉仕」である。利己的な行動は結局は必ず苦痛を生み、無私の奉仕は結局は苦痛から離れている。

"期待を伴う愛"が長続きすることは、めったにない。だから、苦痛なき思いに見える愛といえども、もしそれが利己に根ざしたものであれば、結局は苦に終わる。

一方、"怒り"のような思いは、はじめは苦しい。だが、背後に個人的な動機を持たない無私な人間の怒りは、はじめは相手に悪い感情を起こさせるかもしれないが、結果的には相手を正し、より良い生に導く。

そうした無私の奉仕に生きる人にとって、人生とは「遊戯」となると彼は語る。

ただし、

33 他の幸福を喜び 不幸を憐み 他の有徳を喜び 不徳を捨てる態度を培うことによって、心は乱れなき清浄を保つ。
とあり、その解説に
邪な人々というのも確かにいる。それは否定できない。ではそういうときわれわれはどういう態度をとるべきか? 無関心である。「そう、そういう人もいるだろう。だが昨日の私もそうではなかったか? そして、今日の私は多少ましになってはいないか? その人も、明日には多少ましになっているだろう。」彼に忠告しようとするなかれ。邪な人間というものは、まずそんな忠告は取り合わない。彼に忠告しようとすれば、こちらの平安が失われる --
ともあり、あくまでも怒っていいのは、教師や親など立場が上ということが確保されている場合以外には、慎重にならねばならないだろう。利己と無私を区別するのは、難しいのだから。

さて、あまり深入りすると泥沼なので、この程度にしておく。是非とも手にとって欲しい。ヨーガの真髄に触れられるかもしれない。

*

やはりインドは奥ぶかいと感じさせてくれる一冊。ヨーガに興味がある人だけじゃない。仏教に興味がある人、インドそのものにに興味がある人にとって、興味深い本であろうし、何よりも、生きることを悩める人には本書を通じヨーガの叡智に触れてほしいと願ってやまない。

著者の解説は分かりやすく、とても面白い。決して堅苦しい説明ではなく、ある意味気楽に読めるだろう。そして、その中には人生に対する教訓が豊富につまっている。ただ、無私に生きることを説くのは著者の解釈のように思えるので、他の人のスートラの解釈も読んだ方がよいかもしれない。

全体として考えると、いかにヨーガが仏教と近い場所にあったかを改めて感じる。ただ、それも他のインド哲学を知らない私には、詳しくは分析できない。機会があれば、他のインド哲学やヒンドゥー教の本も読んでおきたい。

それにしても、なぜ、インドはこんなにも深いのだろう?

2007-06-13

おすすめフリーソフトウェア (Linux)

無駄に自分が利用しているソフトをまとめたくなった。Linux環境なので、普通と違うソフトが並ぶが、Winでも動くのが多いと思う。

文書作成

エディタ

個人的にはカーソル移動をホームポジションで行いたいので、viかemacsになってしまう。まあキーバインディグを変更してしまえば、何でも同じような動作にはできるのだが……。

vim
最近のメイン。元々はemacs使いであった。日本語書くのにモード変更ってのは向いてないが、それでも軽快なカーソル移動はその欠点を補って余りある……かな。minibufexplとskkをemerge(portage)で入れてるのと、まあ.vimrcはいじってるが、人に見せるほどでもない。

ちなみに、vimでskk動くと興奮しません? しませんか。そうですか。

scribes
最近よく使っている。良さも悪さも、よく分からない。
emacs
最近立たせない。昔はあれほど愛していたのに。
cmemo
簡単なエディタが必要なら。
cssed
CSSのチェックに使うかな。
kate
とてもリッチなインターフェイスでおすすめ。使ってないが。
scite
便利そうだが、あまり使わない。
tea
わりかし便利だが、あまり使わない。

オフィス&DTP

あまり重そうなソフトは使わないのだが、グラフ描いたりもするから入れてある。

openoffice
オフィス文書は全部これ任せ。普通に使えると思うんだけどMSに慣れた人は嫌がる。
scribus
使ったことないがDTPソフトとのこと。
dia, kivio
ダイアグラム作成。あまり使わないな。

PDFヴューア

Adobe Readerを使うとPDFにストレスを感じるので、他のソフトを入れるべきと思う。

kpdf
軽快・多機能なPDFビューア
evince
軽快なPDFビューア
acroread
不思議なほど重いPDFビューア。たぶん、これが軽いソフトならPDFは現在ほど嫌われてないと思うんだけど。

その他

stardict
辞書ソフト。マウスでなぞるだけで辞書ひき。こうした辞書があると中国語もドイツ語もフランス語も適当に読めてしまう。

ネット

あまりタラタラ見ているとキリがないのでコンソールベースを使ったりする。また、調べたいことを事前に紙に書いておいたりもする。

firefox
基本。addonはあまり使ってない。tabmixplusでタブ操作を便利にして, adblockで広告を除去している程度。あとmozexでテクストエリアの編集に外部エディタを利用できるようにしているか。
w3m
コンソールベースのブラウザ。禁欲的なウェブ環境に必須。
snownews
コンソールベースのRSSリーダ。これまた禁欲的。コンパイル時に文字コード指定を忘れないように。
wget
一般的なものをダウンロード。もっと便利なソフトとかもあるんだろうけど、これで十分。

バックグラウンド動作は -b, リジュームするなら -c。

リンクを追って取得するなら -r で。-np で上には行かない。-k でリンクを相対に変換。-lで掘る深さ指定。

リファラは --referer="hoge" で, ユーザ・エージェントは -U で設定。

mmsclient
mmsプロトコルなものをダウンロードできる。

コミュニケーション

あまりネット経由で人とコミュニケーションしないが、まあ、一応。

mutt
メーラ。昔はmewを使ってました。最近はgmailに堕落。
Wengo
VoIP. チャット。使ったことないな。skypeも入ってるけど……。

ビューア

画像ビューア

普段はqivとgqviewで十分かと。

qiv
軽いので常用。-sでスライドショー, -fでフルスクリーン, -dでディレイを指定。
gqview
サムネイル一覧が便利なビューア。
gwenview
KDEのサムネイル一覧が便利なビューア。便利そうだが使ってない。
gthumb
サムネイル一覧が便利なビューア。便利そうだが使ってない。
picasa
googleのビューア。便利そうだが使ってない。

動画視聴

mplayer
通常はこれをコンソールから利用している。
vlc, totem
使ってないが、よいのだろう。

マルチメディア編集

画像編集

あまりしないが、以下のペイント系とドロー系があると便利だろう。

gimp
有名なペイント系エディタ。使い方覚えておくと、通常の画像操作に必要なことはほとんど出来るので便利。
inkscape
ドロー系エディタ。

音楽作成

基本的には、jack立てて ecasound で軽くリバーブくらい掛けたのをヘッドフォンでモニタしながら、jackrecで生のまま録音している。

重ねたい時は簡単ならaudacity、ちょっと凝りたいとか、hydrogenのドラムやMIDIとも重ねたいならardourといったとこ。

最後はjaminとかでマスタリングしてエクスポートしたwavをaudacityで編集して、ノーマライズしたのをCDに焼く。結構、本格的な音楽CDの一丁あがり。

昔じゃ無料でCDまで焼くなんて思いもよらなかったですよ。高校の時とかにPC欲しかったなぁ。

ardour
マルチ・トラック・レコーダ。かなり高機能。重ねて録る時に利用。
audacity
ardourよりはシンプル。ただ録音したい時や、音ファイルの編集に利用。
hydrogen
ドラム・マシーン。結構つかえる。
patchage
Jack Audio Connection Kitのためのパッチを繋げるソフト。qjackconnectやqjackctrlでもいいが、ちとおしゃれかな。
ecasound
コンソールベースでマルチトラック・レコーディングもできるし、エフェクトもかけられる。大事なことなしで、簡単にちょっとリバーブかけながらモニタしつつ、元の音源はエフェクトなしで録音したい時などに重宝している。
ecamegapedal
上記のエフェクトをGUIで利用できる。
arcangel
オーヴァードライブ、ディストーション。ナゼかよく使う。ドロドロな音になって、それが好きだったりする。
jackrack
LADSPAのエフェクタを利用できる。あまり使わない。
jackmix
ミキサ。
jackEQ
jamin
マスタリング。イコライザ。
timidity++
音源のパッチを利用したソフトウェア・シンセ。音源選べば結構本格的にもなる。
fluidsynth
同上。
bristol
往年のシンセのエミュレータ。よく分からないが、よく出来ていると思う。
amsynth, zynaddsubfx
シンセ。
vkeybd
ヴァーチャル・キーボード。MIDI鍵盤つなげんの面倒で、ちょこっとMIDIで音を出したい時に便利。
seq24
MIDIシーケンサ。

動画編集

あまりしないので分からない。昔はDVで撮ったのをkinoでキャプチャして編集したりもしたんだが……。

kono
キャプチャと編集。
avidemux
cinelerra
ノンリニア・エディタ。いわゆるPremiereもどき。すごい。結構使える。
diva, jahshaka
まともに使ったことない。

その他

fdclone
コンソールなファイラ。あまり使わないが、いざという時のために入ってる。
screen
まあ基本でしょう。
mlterm
端末。何故かこれを使って長い。
ion
シンプルなウィンドウマネージャー。個人的にはポコポコウィンドウが開くのは、見た目はいいが効率的ではないと思う。まあ、そんなの個人の感性の自由だが。
gparted
パーティション変更ツール。

シンプルに暮らす(2) すっきりパソコン利用方法

今回はシンプルにパソコンと付きあう方法について考えてみたい。以下の文書を書いて分かった方法論の基礎は以下である。

  • 入力と分類、検索と概観を明確に区別して行動する。
  • カテゴリ分類ではなく、状況分類する。
  • ファイル・システムに頼らない。

1. デスクトップ壁紙もアイコンも消去

デスクトップは部屋における床と基本的に同じであると考える。つまり「最低限のもの以外」は置かないことである。床に物を置き出すと際限がないように、デスクトップにアイコンやショートカットを置きだすときりがない。よって基本は最小限にすることである。

それを実現するにはファイル保存のコツがいる。2を読んで下さいな。

2. ファイル保存はカテゴリー分類ではなくステータス分類

ファイルの保存は誰もが大概カテゴリーとかジャンルで保存する。そして崩壊する。理由は分類作業そのものが手間なのと、分類体系そのものが作業をする中で変更してしまうからである。

個人の場合、カテゴリー分類をする必要はない。それは他人に公開したり共有する場合に必要なものであり、個人では、分類の枠組みを考えたり、それを変更したりする手間を考えると割に合わない。また、仕事をする中で、分類の枠組みそのものが変更になってしまうことは往々にしてあり、その移行の手間も馬鹿にならない。

私はカテゴリー分類をしない。ただ、まったく分類をしないのも使いにくい。その代わりに、そのドキュメントの状態で分類をしている。

方法は簡単である。私はLinuxを使っているが、基本的にはドキュメント用のフォルダを作り、そこに仕舞うことである。私の場合、~/doc (My Documentに相当)以下には、

  • INBOX(ひとまず全部入れる受信箱)
  • PROJECT
  • ARCHIVE(完成品を保存する)
  • SOMEDAY(「いつかやるかも」な未完成をしまう箱)
  • FRIEND(人から貰ったもの、あげたものを人別に分類)
  • TRASH(ゴミ箱)
が作られている。

使い方は以下の通りで、大体理解してもらえるかな。

  • ひとまずドキュメントやプログラムは適当に受信箱に入れておく。
  • ちょこちょこ書いて完成したらARCHIVEに保存する。
  • 直ぐに完成しなかったり複数のファイルや資料が必要なものだったら、時期を見てフォルダを作ってフォルダに入れ、それをPROJECTに移動する。
  • 書き始めたはいいが「別に今やる必要ないな」とモチベーションが低下したらSOMEDAYに放り込む。
  • 勿論PROJECTになったものも完成したらARCHIVEに入れる。
  • 特定の人から貰ったり、あげたりしたものは、個人的なものは人別に分類してFRIENDに放り込む(唯一、自分で作成していないものが保存されるフォルダ)。
  • 基本的にいらないが、すぐに消すのが恐ければTRASHに放り込む(勿論、WIN/MACなら付属のゴミ箱を使う)。

こうした操作をすれば、ひとまず、作業中のファイルやフォルダはすぐに見つけられる。つまり、未分類なものはINBOXにあり、現在進行中はデスクトップかホームディレクトリにある。あるいは、プロジェクトになっているものはPROJECTフォルダにある。このプロジェクト・ディレクトリの中身もホームディレクトリにリンクしておけば、簡単である。ただし、くれぐれもデスクトップのリンクは最小にしておく必要があるので注意。

あとは作業の終了や放棄に従いARCHIVEやSOMEDAY、あるいはFRIENDSやTRASHに放り込めばよい。ファイルを見つけるのが大変になりそうに思うかもしれないが、高度な検索機能と変更日時による並べ代えができるので普通は問題は生じない。ただ、「分類」は「探すため」というよりも「分類」する中で発見をするために行う場合もあると思うので、次の節ではそのことに触れたい。

ちなみに、docフォルダ以外には、musicとmediaとlibとtmpフォルダなどがある。musicは自作の音源が保存され、後は以下の通りである。

+ media(外部取得のメディア)

- music

- video

- document (主にPDF)

+ lib(設定ファイルや簡単なスクリプトなど)(設定ファイルは規定の場所にシンボリックリンクしている)

- etc (設定ファイル)

- dotfile (設定ファイル)

- bin

- cgi-bin

- shell

- emacs

- tex

+ tmp (消えても問題ないもの)

- src (一時利用しているソースなど)

- log

ファイルシステムでドキュメントを把握しない

そうして数々のドキュメントやプログラムが保存されてゆくが、段々とSOMEDAYやARCHIVEに雑多にファイルやフォルダが保存されてゆく。これは、これで良く、その上でフォルダを作って分類しようとすると、簡単な分類程度なら良いが、はまるとただの時間の無駄となる。「分類」には人をハメてしまう魔力があるので注意が必要である。

もし、何かを探したいのなら全文検索すればよいのだが、探すというより、眺めたい時があるものである。つまり、自分の作業を概観したり、自分の書いたものから新しいアイデアを見い出したいと思うものである。

こういう時には別途ドキュメントを作成した方がよいと思う。一見、無駄に見えるが、結局は時間労力の節約になる。つまり、

  1. 表計算ソフトにファイル名を貼る。
  2. 必要なら簡単なコメントを書く。また、変更日時なども貼ればよい(これはスクリプトを書けば簡単な話だが、普通の人は大変かもしれない)。
  3. ジャンル分けを別途記号にしておき、分類記号をセルに入力する。

これで、簡単文献データべースの完成である。好きに並べ変えたり、抽出したり、グラフを作ればよい。楽しい楽しい夢の世界である。中途半端にフォルダを掘ったりしていては分からないことも発見できるし、何よりもフォルダを掘ったり消したりコピーしたりするよりも時間の節約である。

そうじゃなければ印刷してしまうのも手である。全部印刷して簡易製本してしまうのが何よりもオススメだが、単純に最初の一頁だけを印刷して、机の上にカルタのように並べて、いじってみてもよい。新しいアイデアが湧いて来てくれると思う。

ファイルシステムが革新的に進化しない限り、表計算ソフトや印刷して並べる以上に、簡単かつ効果的な仕事の概観や分類は不可能と思う。

外部より取得したメディアの管理

私はネット経由で取得したものをほとんど保存しない。印刷できるなら印刷するし、焼けるなら焼くし、カセットテープに入れたりする。

特にある程度まとめて印刷して簡易製本してしまうのは、かなりオススメである。目が楽だし、読むのは早いし、分類も本棚利用なので簡単である。もちろん短かい文書はディスプレイで読んでいるが、ディスプレイだけで読むとなると、ネットの文書は短かい文書しか読まない習慣が気がつくとできていることだろう。

ちなみに、カセットテープはオッサンたる私には非常に便利である。語学や講演などの一定の長さがあり「CDに入れるほどでもないけど、いつか聴くかなぁ?」的なmp3はカセットに録音して並べておき、高校生の時のヘッドホンに付っこみ散歩のお供にする。そして、必要なくなれば上書きする。これである。講演を途中で止めても、また再生を押せば、止めた所から聴けるのである。すばらしい。物理的実在インターフェイス万歳である。少なくとも無駄にダウンロードしておいてHDに置いておくのも精神衛生上悪いし、作業しながらの流し聞きは、あまり頭に入らない。

以上のように、私はネット経由で取得するメディアも少ないし、しかも、それも悉く物理的に実存させるので、HDでヴァーチャルに管理はしない。一時はCDをmp3やflacにしまくったが、全部消した。そうした聞き方ではタレ流しになってしまうのである。ま、そういうのは、それでもいいが、それならネットラジオで充分かと。

それでも、あえて言うならば、こうしたメディアはファイルシステムで管理しようとしては絶対にいけない。PDFなら文献管理ソフト(Jabrefなど)、画像なら画像管理ソフト(picasaなど)、音楽や映像ならジュークボックス型音楽再生ソフト(amarokなど)で管理するべきだろう。ウェブページは難しいが、firefox の scrap ソフトを利用するのが一見すると良さそうに見えた(使ったことないが。ウェブについては次節で述べる)。

ただ、どれもインターフェイスとしての完成形態にあるとはとても思えず、一般的で個人的な用途には、まだまだ本棚やCDラック、カセットなどには勝てないんじゃないかと思う。目も疲れるし。

日付と目的でブックマーク管理

ウェブサイトをいかに管理するのかという問題は常に人々を苦しめている。ブラウザ付属のブックマーク管理ソフトから、外部のブックマーク管理専用ソフト、更にはソーシャル・ブックマークまでが存在し、人々はそれらをさしたるヴィジョンもなく利用し、破綻し、結局グーグルに頼っている。

私はブックマーク整理をあきらめている。どうせアドレスが変われば何の役にも立たない。分類しようが、タグだろうが何だろうが、長期的に見れば破綻するのである。

また通常の情報源としているのはRSSリーダーであり、ネットをふらふら辿って面白いサイトを探すということがほとんどない。

現在私は、はてブとブラウザ付属のブックマーク機能のみを利用している。そして、はてブの方は自分で管理するという意図は一切なく、人に「こんなページあるよー」と見せるためである。

一方、ブラウザのブックマークでは、単純にそのブックマークをした理由で分けている。例えば、現在のフォルダ分けは以下のようになる。

  • 巡回……常々チェックするRSS非対応なサイト
  • 本…amazonや図書館の本情報へのリンク
  • 見せたい…知人に見せてあげたいサイト
  • ad…まあ、あれ
  • -----------------------
  • ○○寺…今度行こうと思った寺関係の情報
  • 長期滞在…彼女と行こうと思ってる旅行関係の情報
  • ストレッチ…体を柔らかくしてくれそうな情報
  • トピック…上のようなトピックをしまったフォルダ
  • -----------------------
  • 20070611…一昨日ブックマークしたサイト
  • 20070609…その二日前にブックマークしたサイト
  • 日付別…上のような日付別のフォルダをしまうフォルダ

だいたい説明を読めば私が何をしているのか理解して頂けると思う。やっているのは以下の通り:

  1. 基本的に巡回するサイトやadなサイトは取り出しやすい位置に置いておく。「分類」は重視せず、巡回の頻度で分けておくと楽。
  2. 本関係の情報は購入や予約のために整理しておく。済んだら「済」フォルダに入れる。
  3. 「ねぇねぇ、これ見てよ。スゴくね?」もまとめておく。で、見せたら「済」フォルダに入れる。
  4. 何か目的が明確にあって調べた場合には、その目的のためのフォルダを作り、そこに仕舞う。
  5. そうでないなら日付別にフォルダを作ってしまう。

以上のようにしておいて、日付やトピックのやつは定期的にちらっと覗いてみて、古ければあっさりと捨ててしまうとよい。どうせ昔のブックマークなど役に立たないのである。捨てるのも面倒ならば、「済」に放り込み、見えないようにすればよいだろう。どうせグーグル様がいるのである。

上記のようなあっさり管理にしてから、常にすっきり、さっぱりになってくれたし、情報摂取に際して充分に実用的と感じている。なんだか「俺様スゴくね?」な文ばっかりでアホみたいだが、ブクマ管理で苦しんでいる人は是非。

メモはChangeLogメモとアウトライナー

パソコンやネットというのは、それ自体が与えてくれる情報もあるのだが、その情報を得るための情報、ある操作を実現するための情報が必要になる。ブクマも情報を得るための情報であり、それは上記のような方法で解決したが、案外、パソコンを使う上でのコワザも増えるものである。

こうした情報を印刷したり、手書きでメモするのもアホらしい。コピペで簡単にメモしておいて、必要な時に出せればよい。どうせパソコン使うための知識であり、パソコンを使う時以外には何の意味もない情報である(逆にパソコン関係以外の情報は積極的に印刷し、手書きのメモを加えるようにしている)。

私はいわゆるChangeLogメモを利用している。これは一つのテキストファイルに何でもメモを書きこんでしまうという方法である。有名な方法であり手法は確立しているので、知らなければググって欲しい。Winな人なら専用ソフトで一発で開いてメモできたり、秀丸にマクロしこめば幸せになるだろう。また、EmacsやVimでも簡単に書けるので幸せである。

この際、カテゴリ分類を私はしなくていいと思う。粗い分類は最低限の役にはたつが、結局は最低限の役にしか立たず、あっても無くても同じである。直近のメモを参照するのもエディタの検索を使えばよいので簡単に参照もできる。また、時間や場所の記憶というものは人間とても強いので、一枚のテキストに書かれたメモならばかなりの速度で発見できる。わざわざ分類するメリットは見えにくいし、カテゴリ分類を気にするあまり、あっさりメモすることが出来なくなる危険性がある。また、一週間くらい前のメモを見るとカテゴリを書き直したくなったりしてしまい、何をやってんだか分からなくなってしまう。

とは言いながら、時間記憶に頼るのも限度というものがある。一年以上前のメモはかなり記憶もあやふやだし、メモしたことすら忘れて、同じ情報をググったりしてしまうものである。それに昔の情報だと適切なキーワードが思い浮かばず「あー、あれ、あれ、うー」となってしまう。ほとんどボケたジーサンであるが、人間そんなもんである。

そこで私は一年に一、二回はメモを分類整理している。その際に、最初はスクリプトを書いたりもしたり、最初にメモする時に書いていたカテゴリを利用したりもしたが、現在では、アウトライナー(アウトライン・プロセッサ)にコピペして、それを手で分類することにしている。手間のようだが、メモするたびにカテゴリを分類したり、それを枠組みが変更するたびに書き直したり何だりしているよりは、年に一、二度、アウトライナーで自分の一年間のメモと戯れるというのもよいと思う。

方法は簡単であり、一つ一つのメモをノードに切り分けてしまい(ここはスクリプトを書けると一瞬だが……)、次に項目を立ててゆき、それにドラッグ・アンド・ドロップすればよい。大概のアウトライナーで簡単にできる操作であると思う。

こうして分類をしておけば、参照する時に多いに楽である。

「なら、最初からアウトライナを使えばいいじゃん?」と思うかもしれない。私も一時そう思ったのだが、それは最初から分類する必要があるということであり、書いたり調べたりするたびに分類のインターフェイスと付きあうことになり、結局、分類をゴチャゴチャとやるという時間の無駄に陥るのである。

入力と分類、検索と概観などを意識的に分けることが、こうした無駄からの脱却につながるのだと、私は結論している。

おわりに

上記の方法でかなりシンプルかつ効率的にパソコンを利用できるんじゃないかと思う。もちろん、こんな方法はありふれた誰でも知ってる方法かもしれない。また、これよりよい方法があるだろうとも思う。つまり、現在の私にとっては満足のいく方法とは言えるというだけで、これがベストだと言って、皆に押しつける気は微塵もない。それじゃ宗教だ。

ただ、一つのアホウな私の無駄な苦労の結果として、上記のような認識があったのだと参考にして欲しい。

2007-06-09

シンプルに暮らす(1) 部屋の整理は"フローとストック"で

Simple is best. ── この言葉を私が理解したのは、完璧さを追い求めて苦しんだ後のことだった。そう、その夢は敗れた。複雑にするのは簡単であり、シンプルに保つのは難しい。では、どうすればいい? 現在、その一つの答は「フロー」と「ストック」の区別であると思っている。

ストックとフローの混同が混乱の要因

常に部屋が散らかっている人がいる。きっとあなたの周りにもそうした人がいるだろう。少し観察してみれば分かるが、そうした人にはいくつかの傾向がある。

観察を通じて私が気づいたことは、物を「フロー」させているのか、「ストック」しているのかが分かっていないということだ。

  1. フローとは流れるものであり、比較的短時間で流入し、廃棄される。
  2. ストックとは溜めておくものであり、比較的長時間存在する。

どういうわけか掃除下手はフローのものをストックしてしまい、ストックがフローにうずもれている。そして「掃除する」と言うと、フローを手に取りにくい配置に付かせてしまったり、ストックを手に取りやすい場所に並べてしまったりするのである。

また、家具というストックを「模様替え」と称して動かすことを「掃除」と勘違いして、ちっとも部屋が綺麗にならない人が読者の周りにもいると思う。そうした部屋には決まってフローに対する「受信箱」や「避難所」は存在しない。

はっきり言ってフローを「元に戻」したって意味はない。そうした部屋は使いずらく、結局はすぐに混乱する。そして「俺はきれいな部屋だと仕事ができない」とか何とかぬかすのである。適当に片付いた部屋は美しいだけでなく、効率的なのであるのだが。

フローは目のつく場所に

フローへの適切な対処とは常に廃棄し続けることである。その為には同種のフローを一箇所で受け止め、適宜、必要なストックを抽出し、早急に廃棄するシステムを確立すればよい。

基本的に、フローに対処する場所は手に取りやすく、操作に手間がかからないことが肝要である。フローを手間のかかる場所に入れてしまうと混乱が生じ、ストックされてしまう。これが所謂「ゴミを溜めこむ」現象である。

ストックの場所は正確に

次にストックに対しては、比較的手間のかかる場所でもよいから、正確に配置を決定し、使ったら戻すことを励行することが肝要である。ストックを流動的に部屋に転がすと混乱の元である。

おおまかなルール

こうした問題に対処するルールは簡単でありシンプルと思う。

  1. 「受信箱」と「その他箱」を作る。
  2. 収納スペースが保有数を制限する。つまり、新規参入は常に古参廃棄を意味する。
  3. 配置決定に際しては、床に一度ぶちまけて、グループ分類してゆく。引出しも床に並べる。
  4. 配置を決め、床と机など作業スペースの上には何も置かないようにする。

これをもう少し詳細にリストすると以下のようになる。

  1. メモはメモ帳で受けとり、メモ帳が使い終わると廃棄される。
  2. 書類はトレイで受けとり、ファイルにストックされるか、廃棄される。
  3. ファイルは棚から「押し出」されて廃棄される。
  4. 書籍は本棚から「押し出」されて廃棄される。
  5. 服はタンスに配置され、季節毎に押入かゴミ箱に向かう。
  6. 小物は引出しなどに散在し、たまに捨てる(難しい……)。
  7. 家具は床に配置され、壊れたら廃棄される。
  8. 道具は引出しに配置され、壊れたら廃棄される。

さて、それでは個別に考えて行こう。

1. 壁は何もつけない

基本的に、壁には何も付いていない方がよいと考える。

特にフローの情報を貼るのは最悪の結果となる。

よくコルクボードや黒板を利用して情報を目につかせようとする人がいるが失敗する。何年も前のライブのフライヤーなんかを貼るのがオチである。また、その周囲にヘンテコなオブジェかなんかを付け出したら、センスの悪さを主張するだけである。部屋にボードは貼るもんじゃない。

壁にフローの情報を貼るのがダメなの理由は、手間がかかるからである。磁石やらピン、画鋲、あるいは水性ペンやチョーク、黒板消し……こうした道具が即座に取り出せ、かつ、仕舞えない限り、黒板やコルクボードの類は機能しないのである。こうした環境を維持管理コスト対効果を考慮すれば、個人での利用に向かないことが分かる。こうした道具は複数の人間に情報を周知する必要があるときにのみ、意味を為すのであり、個人で使う道具ではない。個人の情報管理はノートで充分である。

壁にストックされる情報源といえばカレンダーや時計だろう。これくらいは壁に備えてもいいかもしれないとは思う。ただ個人的には、どちらも卓上の物を利用した方が、作業中に見やすいし、カレンダーなら書き込みも楽だ。それにシンプルで実用的なカレンダーを貼って予定を書き込んでおくのも見た目が悪いし、かといってアートなカレンダーを貼るのも難しい。また、自分の部屋なのに、時間や日付を確認するのにガバっと振り返るのもアホだろう。カレンダーよりも予定帳や日誌を利用した方がよいと思う。

あと壁のストックといえば、ポスターや心得書きなどがあるが、これも勧めない。壁面が余っていて寂しいからという理由でヘンテコなポスターなど貼るべきではない。そのままであれば品位のある空白であったろう壁面が一気に安っぽくなる。もちろん、それなりのポスターなどを選べればいいのだが、これが結構の出費と探す手間を覚悟しないと難しいのである。簡単には、有名画家のレプリカを額付きで買えばいいのだが、これも日本の住宅事情では浮いてしまう可能性も高い……。言うまでもなく自作の心得書きや書なども余程自身がなければ、やめた方が無難である。

2. 机周りのフローはトレイに、引出しにはストックたる道具のみ

机はフローが激しく混乱しやすい。かといって、道具というストックも豊富に存在するので、掃除ヘタは必ず机周りでコケるのである。

フローに対しては散在させず、一つの書類トレイを準備しこれに当て、適宜、ファイルしてストックしたり、捨ててゆくことが大切である。また引出しはストックの場所と心えて、道具しか入れないこと。そして机の上は純粋に作業スペースとして確保することである。

まず、百円ショップに行き、引き出しをしきるプラの板とペーパートレイを買って、スーパーで段ボール箱ももらってきて欲しい。

そしたら、机の上、引き出しの中の物は全て一度段ボール箱に入れ、捨てられる物は捨て、最低限必要な物を取り出した後、日付を書いて押入に放り込む。そして、その箱が一年たったら箱を開かずに捨てる。これでスッキリした筈だ。掃除の基本は、まず、おもいきってゼロにすることである。

次に引き出しの中をプラの板やトレイでしきり、そこに最低限の道具をしまう。使う道具を選び、ゴミをしまわないこと。なにより道具の場所はきちんと確定すること。場所の確定がゴミを紛れ込ませるのを防ぐ。

深い引き出しにはファイルくらいは入れてもいいが(というかファイルを入れるためにあるのか)、他の引き出しには絶対に道具以外は入れるないように。特に引き出しにフローのものを入れると確実に破綻する。理由は引出しの開け閉めが手間だからである。

ペーパートレイを机の上なり、本棚なりの上に置き、これを未整理の書類入れと確定し、それ以外の場所に書類を置かないようにすること。また、このトレイ内の書類は適宜ファイルする習慣を作ること。また捨てたらいいのか分からないものに対する、一時非難トレイも作っておくとよいだろう。

机の上は理想的には何も置かないのがベストである。ただトレイやペン立て、ノートを置く必要もあるだろうし、更にファイルや本、カードボックスを置く必要もあるかもしれない(私は机のそばの本棚にそれらを置いているが。ちなみに、日付スタンプも置いている。日付を入れるのが楽である)。最低限の道具以外には置かないようにしたい。

書類フローをトレイとファイル・システムで対応できるようになれば机の混乱は無くなると言っても過言ではない。そして、道具の配置を決定し、そこに戻すように心がければスッキリとした作業ができると思う。作業後には、書類はトレイかファイルにあり、道具は所定の場所に戻るので机の上には何もなくなる筈である。

3. 床には家具しか置かない

床には家具以外は置かないこと。マガジンラックなどは、フローとストックを混乱させるので捨てるべきである。またタンスの上や押入などに一時避難場所を作ることで床や机に物を置くことを避けられるだろう。これも床の上は机の上と同様に考えておくとよいと思う。

4. 服はタンス内の配置を決めて対処

服は一定期間内ではストックなどだと捉えて対処する。故に配置を正確に決め、収納できない分量をストックしないことが重要である。

まず、床の上に全ての洋服を畳んで並べ、それを種類別に分類する(ウール、セータ、下着……)。そうすると明らかに着そうにない服がゴロゴロしているだろうから、捨てるものは捨て、捨てられないなら段ボール箱に日付を書いて押入に放り込む(一定期間経過後廃棄)。

今が夏なら冬物は押入にしまい、夏物のみをタンスにしまう。この際、タンスの引き出しを全部床に並べて、最善のしまい方を探求すること。そして、種類別の配置を決定した後は、それに従うこと。これは机の中の収納と同じである。

もし、しまえないならタンスのサイズか服の量に問題がある。あるいは、夏と冬ではなく、春夏秋冬で入れ替えが必要なのかもしれない。

単位季節あたりの服の量はタンスの収納力よりも小さいことが必要である。つまり、タンスの追加を考えない場合、服を買ったなら捨てる必要があるということである。このことを肝に命じないと、必ず服の管理は破綻する。

4. 書類はクリアホルダとボックスで管理

ファイルしなければ書類は溢れる。トレイの上の書類は即座にファイルに組み入れることが大切である。またフローの書類なのかストックなのかを見分けることも大切である。

まず、安くクリアホルダを大量購入し、剥せるラベルとファイルボックスをいくつか購入しておく。書類をホルダにはさみ、ラベルを貼り、それをボックスに入れればよい。立てるだけで整理したと考えて差し支えない。あとは、そのボックスの置き場所を机の上か本棚、あるいはその両方に作ればよい。

これで押し出しファイルシステムになるので個人のフロー書類の管理にはこれで万全である。使ったものを手前にしまい続ければ、自然に使わないファイルは遠くに流れてゆく。たまに遠くに流れたファイルを見て、捨ててしまえばよい。

あとは少数のストックの書類を他の場所にインデックス式に管理しておくと更に万全である。勿論、そうしたホルダに目立つ印をつけておけば、押し出しファイルの中に入れておいても、さほど問題はないだろうが……。

5. メモは二冊のノートで管理

とにかくメモは散在させないことが大切であり理想的には一冊のノートで対応するのがベストだと思う。ただ、スケジュールはカレンダーになっていた方がみやすいので、その併せ技がベストと思う。

A5かB5の開き易いノートを購入し(パタンと閉じるのはダメである)、常に机の上には置いておき、それに一切を書くのがよい。使う前にページ番号をふるとよいことがあるかもしれないが面倒なら別によい。これが、メモ情報の受信箱となる。

次にスケジュール帳も準備しカレンダーの代わりに開いておくとよい。できればTODOも書けるのがよい。別に書けなくても、余ったページに書いたり、ポストイットを貼ればすむ問題なのでどちらでもよい。

この二冊で、メモ、スケジュールとTODOを全部管理してしまえばよい。机の上に広げられることや、持ち歩きに便利なこと、デザインが気にいることが大切である(アドレスブックも必要だが、これはPCで管理すればよいだろう)。

時間の管理には「野性的感覚」を必要とすると私は信じるので、電子ツールは適さないと思う。またアイディアを練る時も同様の理由から電子ツールは適さないと思う。まあ私がオッサンだからであり、若い時からそうした道具に親しんでいる人は違うのかもしれないが。

ちなみに、メモ帳からカードを作ってカードボックスでごちゃごちゃいじったり、PCのアウトラインエディタやデータベースなどで管理するのもいいと思う。

6. 本の管理

まず一般には蔵書管理なんてことはしなくてよい。本棚における物理的存在で充分である。

ただそれは本をストック的に管理できる場合のみであり、全ての本を本棚に置けない時、本をフローのように扱う時に問題になる。段ボールにしまった本や捨てた本は、やっぱりカードにでもしておかないと記憶のかなたにすっとんでしまう。一時は蔵書命みたいなことを吹聴していた私も住宅事情の前には敗北するしかない。

こうした問題に対処すべく、簡単な読後感や要点を書いたカードを作るのもよいだろう。同様に図書館で読んだ本や立ち読みで読んだ本もカードにしておいた方がよいだろう。書誌情報はインターネットで簡単に取得できるので手で書く必要はないと思う。

ネットの蔵書管理のサイトを利用すうのもアリといえばアリだが、カードをボックスのなかでいじっていた方が記憶に残る気がする。身代わりは、いかに情報が少なくとも、やっぱり物理的存在の方がよいと思う。

ただ、それも読む分量が一定の時であり、カードを作るのは手間である以上、フローに対処するには向いていない。結局は破綻するのだから、そんなもんだと思って気楽に考えるのがよい。どうせ全てを記録はできないのだから。

7. オーディオ、テレビは物理的に存在させる

テレビは捨てろ……と言いたいが、必要ならば、しかるべき家具の上に鎮座せしむるべし。個人的にはPCで見るのは、かえってダラダラと見てしまうんじゃないかと思う。ダラダラでなければきちんと時間をとって見るのはよいと思う。

オーディオは専用の器具を利用するのがベストと思う。一時はセッセとmp3やらflacやらにしてHDに溜めこんだが、やはり電子化し仮想的な存在というのは扱いずらい。というか、音楽がタレ流しになってしまう。CDという物理的な制約が「聴く」という行為を意識的にしてくれる訳で、タレ流しも防止され、「聴く」楽しみも逆説的だが増す。

同様にCDをデジタル化して物理的に不在にしようとしたが、結局はCDは並べておいて、そのジャケットを眺めながら音楽を選んだり聴いたりするのが楽しいという結論になった。

たぶんDVDとかもデジタル化するよりは物理的に存在させとくべきかと思う。

8. 小物はフローかストックかを特に意識して管理

文房具はストックの道具であるので対応が簡単だったが、小物はその性格が難しい。

「うわ! これいい」と思って買ったものが、早くも一週間もたつと新鮮味が薄れ、三ヶ月も経つと「?」になるのである。そういう意味ではフローであるので早急に廃棄すべきなのだが、一度ストックしたものを人間なかなか捨てられないのである。また人から貰ったり、思い出の品だったりと掃除の敵の中でも最もタチが悪い。

連休の一日目の朝に、部屋の小物(小物と言うが大きくてもよい。要らなそうな家電とかも)を一度床に並べてみるとよいかもしれない。そして、それを分類して、捨てられるなら捨て、次に収納の引出しを並べて、そこに配置してゆく……。これは服の整理と同じ作戦である。

ただし、服であれば季節毎に流動させ一定期間ではストックと捉えるという作戦は功を奏するが、小物は季節も何もないので、意識して捨てる必要がある。これが難しい。

一度、何もなかったことにして段ボール箱にしまって、廃棄予定日付を書いて押入に入れるのもアリとは思うが、本質的に使うアテのないものだから捨てるのが分かりきってる以上、この作戦を遂行するにも心理的葛藤があるだろう。

ただ言っておくが、三年以上一度も使わないものは、恐らくその先の三年間も使わないであろうし、十年先も使わないだろう。いや一生使わないだろう。一生使わないものを何故保管するのか? 使わないならゴミではないのか? ならば理性をもってして、怠惰に流れる情緒に一撃を加えるべきである。さあ、立ち上がれ!

とはいえ……やっぱ……。

まあ、完璧な片付けは人間できないものである。そこは、仕方ない。あきらめよう。

おわりに

考えてみれば、掃除とは、メモ、書類、書籍、服、小物、家具などを部屋に流動させることなのだろう。その意味では全てはフローしている。ただ、それを一定期間においてはストックとして配置を決め、使ったら戻すことで対応する。しかし、それも、用途を終えたら廃棄する流れの中にあるのである。掃除下手とはゴミを溜めこむ人間であり、廃棄の流れをどこかで切ってしまう傾向を持った人間なのだろう。

2007-06-08

影響を受けた文豪、思想家、芸術家など

ジャンル関係なく、自分にとって影響のでかかった順。作品の優劣は全然関係ないので注意。

1. J.S.バッハ シャコンヌやフーガの技法、音楽の捧げ物、マタイ受難などを分からない人とは口をききたくない。彼の音楽だけでなく、大きな意味で人生そのものに影響を受けていると思う。時に家庭的な暖かさがあり、時に修行僧のような崇高で深い厳しさのある音楽、職人としての無心の内に発揮される「技」と、時代の移り変わりに絶望しつつも「本質」を捉えてゆく目線……などなど。

2. ニーチェ 高校時代から『ツァラトゥストラはこう言った』を中心に、私の生きることの根源にインストールされた。高校生の時に一応ちくま文庫の全集読んだから、勿論、他の本にも影響を受けた。

3. ドストエフスキー 2位でもよいかもしれない。小学生の時に『罪と罰』にはまり、高校の時には一応新潮と岩波で文庫で出てるのは全部読んだ。中でも『カラマーゾフの兄弟』『地下室の手記』。かなりの影響を受けたのは、私と話せばすぐ分かるはず。はっきり言えばカラマを暗記するほど読んでない人と話しても無駄な気がする。今の時代だけどドスト、今の時代だからこそ、ドスト、いつの時代でもドスト、である。

4. ヘッセ 小学生の時に、父親が初めて「まともな小説」として買ってくれた『車輪の下』を読んでからはまる(その時、父親が同時に買ってくれたのはカミュ『異邦人』だった)。「大人なんてあてにできない」との胸の、かなりの社会批判的、絶望的な結論の読書感想文を書いた記憶あり。ドストと同じく高校生の時には新潮文庫で出てるのは全部読んだ。中でも『知と愛』『シッダールタ』。『春の嵐』『荒野のおおかみ』も外したくない。芸術と放浪、女性、恋愛、長く短かい人生と死についてのベースになる。高校の時は黒板に『知と愛』の登場人物を書いて友人にゴルトムントの愛の遍歴を説明して「リディア!」とか叫んでいたし、ちょうど電車の中で『春の嵐』のゲルトレートがムオトとくっつくのがはっきりしてクーンが自殺しようとした時に、父親が危篤との旨の電報を受けとったシーンを読んじゃって、泣いちゃって泣いちゃって困った思い出とか多数。ヘッセが好きだから、女を欲っする人間になったのか、それとも元々女を欲っする人間だったから、ヘッセが好きになったのか、今となっては分からない。

5. カール・リヒター その真剣さ、その正確さ、その濃密さ。そしてドイツ人の営みの深さと偉大さ。オルガン、音楽の捧げ物、そして何よりマタイ受難。パルティータの5番で見せる緊張と、その向こうにある甘さも見逃せない。いや、「甘い」とか「厳密」とか、そういう問題じゃない。厳密さと甘美さという矛盾はその極限において融和する。焼けつくように甘く、身を切り刻むように厳密である。例えるならば、カール・リヒターを聴くという経験は、熱せられて青白い炎をあげる、緻密な細工が施された鉄の網に全身を包み込まれ、そのまま、胸の奥までバラバラに焼き切られてしまうということと言える。

6. カント 中三の夏にブックオフで手にとった『純粋理性批判』は、私にとっての哲学の始まりであり終わりかもしれない。高校、大学時代を通じて読み続け、他の三大批判書は勿論、それ以外にも深く影響を受けた。大学でも哲学科だったので学んだことも付け加える。個人的には「常識」としての哲学はカントでいいと思うし、それで充分と思う。枠組みとして「古い」かもしれないが、未だに現代の「常識」の基礎となっているのは否定できないと思う。

7. サン・ハウス 悩める魂から発っせられる圧倒的生存力と詫び。特に「Death Letter Blues」。音楽という営みはかくあるべきかと。いや、音楽ではなく、生きるということも。彼がドブロ以外を手に取らないことに思う所が多い。若い時の録音は勿論、「再発見」後のビデオも必見である。

8. ハイデガー 大学の時に『存在と時間』を何度も読み、いくらか本格的な哲学理解の始まりとなった。ニーチェの講義、『哲学の寄与』の他、平凡社ライブラリー文庫で出てるのにも影響を受けたと思う。大概何を読んでもハイデガーの用語で整理してしまう悪い癖がついたとも言える。私にとっては禅僧と仏教の話をしてもハイデガーの出番である。

9. カミュ 特に『シーシュポスの神話』。岩をかついでも笑え、と。最近影響は薄れたが高校時代は大いに参考になった。

10. タチアナ・ニコラーエワ 「フーガの技法」における、その静寂、その激しさ、その息遣いに多いに学ぶ。初めて聴いた時には音が飛んでいるのが光って見えて、手に掴めるようだった。はっきり言って、彼女のフーガの技法のよさが分からん人は耳がついてないんだと思う。

11. 仏陀 十二因縁や四諦、八正道、縁起、三学、四法印など。まあ、彼が言ったのか何なのかよう分からんけど。大乗からはあまり影響は受けないが、『ダンマパダ』『スッタニパータ』などからは「孤独に歩む」「傷付いた手で毒を拭うな」などなどの影響を受けている。あるいは私にとっての「形而上学の破壊者」とも言える。

12. グレン・グールド 彼のバッハ演奏のボックスは高校時代に愛聴した。特に通学の電車の定番だった。フーガの演奏において強い影響を受けた。また「天才」について考えると彼を思い浮かべてしまう。漱石を読んだのも彼の影響と言える。

13. ジョン・トッド 『自分を鍛える』を中学生初期の頃に読み、建設的に自分に厳しくなった。他の本を読んでないが、この本だけは、強く私の中に残り続けている。たまにブックオフで100円で見掛けるので、何人かに配っている。

14. ヴィトゲンシュタイン 大学時代から『論理哲学論考』『哲学探求』を読む。うまく言えないが影響が大きいと思う。大学一年の夏休みは拙い語学力で『探求』をドイツ語で読み、翻訳をしたのはいい思い出。

15. ハビエル・ガラルダ 高校生なりたての時に『自己愛とエゴイズム』『自己愛と献身』『アガペーの愛・エロスの愛』を読む。愛や友情、ナルシズム、孤独などについてのヒントをくれた。いかにも悩んでそうなタイトルが恥ずかしかった。

16. ヴァルター・ベンヤミン 私が親族以外で墓参りしたことあるのはバッハとベンヤミンのみ。一つの自分の理想なのかもしれない。

17. スマナサーラ『自分を買える気づきの瞑想法』『ブッダの実践心理学』などの書籍の他、ネットで聴ける彼の講演など。急激に仏教化した一因。

攻撃性のある言い回しが多すぎるし、論が粗いときもあるにはあるが、彼の持ち味なのか、仏教の持ち味なのかは知らないが「Aを求めると、Aは逃げてゆく」という因縁説に基いた話がとても説得力があり、かつ面白い。Aを求めると、そのAは妄想なので当然に現実には現われず、かえって弊害のみが現われる。正しくAを求めるにはAが生じるための条件を現実的に満たさねばならないという理屈。そして、そうした条件というのは以外にもAを求めないような行動だったりするので、聞いていて説得力があるのに面白かったりする。

18. フェルメール 美について考える時に欠かせない一人。

19. 「レオン」(映画) 自分のかっこよさの原型になっている気がする。強くたくましく、キュートでいたいものである。個人的には「レオン」と言うよりは「リーオン」に近い発音で呼んでいる。

20. 菅原道真 特に『菅家後草』。苦痛を見すえる眼差しがすごい。これを女々しいで片付ける人とは話が合いそうにない。また、これだけ長い抒情詩をこのレベルで書いたのは日本でこの人しかいないのではないかと思う。さすがは天神様である。

私の仏教と禅の理解

いつの頃からか「仏教」に興味を持った。石飛道子『ブッダ論理学五つの難問』を読んだのが切っ掛けだったと記憶しているから、それは一昨年の夏からということになるか。

「仏教」は、私にとって、信仰や宗教、倫理や道徳ではなく、「論理」として私を魅了した。それは「因果」「因縁」「縁起」と呼ばれる。「四諦」や「十二因縁」は勿論のこと、更に「八正道」すら、私はそれを「因縁」の理論として理解した。つまり、仏教は因果という論理による、存在論、認識論、価値論(倫理)を包括した哲学体系であり、その体系に基づくトレーニング体系である、という理解の下に私の仏教の興味は始まった。

以上は私の「誤解」である。

仏教とは釈尊による教えであり、仏道とは彼によって説かれた仏となるための道だが、釈尊はそうした教えや道を体系にはしなかった。彼は、体系という単一の教えや修行法を普遍的に適応せず、一人一人に個別に、その場その場の問題に適うように彼は話したのである。そうすることで、「体系化」と、それに不随する形而上学化を防ぎ、「具体的な効果」を挙げていったのである。彼の簡単な助言により、弟子は次々と悟る様が初期の経典から窺える。釈尊の教えは、体系化できず、個別具体的に、人々を悟りへと導くものなのである。

こうした当意即妙な彼の教えは、後に「方便」という言葉、いや文化を生むことになるだろう。「嘘も方便」というときの方便であるが、何も「嘘」をつくのがいいということを言うのではない。相手を悟りに近付ける方法が方便であり、その方便で一段階悟りに近付いたら捨てねばならない「仮の教え」が「方便」である。画一的で固定した教えではなく、当意即妙にして確実に相手を悟りに近付け、かつ、その用途の後には捨てられるべき「方便」として、仏の教えはありえると考えられるのである。この方向性は大乗仏教、密教となるに従い強いものとなっていった。

かくして仏教の教えを体系的に知ることは不可能かつ無意味であることが知れる。故に決定版の仏教の解説書は存在し得ない。存在するのは「方便」のみなのだから。しかも、それを本で読んだところで、その「方便」が自分にとっての「方便」になるか判断は出来ない。故に既に悟り、仏道を究めた人、つまり「仏」となった人に会うことが、仏道にとって重要であることが分かる。ただ、その人が「仏」であるのかどうかは、自分を悟らせてくれる迄は分からないのであり、この問題は非常に厄介である。

先日、禅寺の住職と話した折、彼が「悟り」に対し懐疑的なのが印象深かった。

「世界中を探した訳じゃないですが」と断わった上で、彼は語った。「きっと『悟った』人なんていないでしょう。海外を含め、今まで様々な仏教徒を見ましたが、そうした人に出会ったことはないし、これからも会うことは無いと思います」

ここで注意が必要なのだが「悟り」つまり成仏(仏と成る)は、彼によれば、二つあるらしい。一つは全くの自由自在となり望まずして全てが叶う状態となることであり、無限の存在となることである。もう一つは有限な存在として「全てを、あるがままに、受け入れること」「自分を投げ出すこと」である。彼がいま問題にしているのは無限となる悟りのことである。

「有限な存在である人間は無限である仏にはなれません」彼は語る。「つまり、人間そのものが、阿弥陀にようになることはかないません。もし可能であるとしたら、それは死後の話でしょう。ただし、死後を私たちは直接に経験できない以上、この話は無益な雑談の域を越えません。勿論、そうした超越存在になる努力をする人々を否定する訳ではありませんが、私に興味はありません。

しかしながら、私たちは有限であることを自覚することはできます。そうして自分を投げ出すことはできるでしょう。自分を投げ出し、全てを受け入れた時、『私』という小さなものは限り無く小さくなります。もしかしたら、消してしまうこともできるかもしれません。我々は『我執』と呼びますが、本来、我のこだわりは妄想であると考えております。故に、妄想である『我』を消すことは可能なのです。

だからこそ、悟る『ために』坐ってはならないのです。

無益に、何の目的もなく、ただひたすら坐るのです」

そして、やや沈黙の後に言葉を続けた。「いえ、坐禅に座らせられるのです」

坐ることが、何をうむかは分からないし、うむと考えて坐るのは邪道ということになる。ただひたすら坐るのである。

「黙って十年坐ること、さらに十年坐ること、その上十年坐ること」

いやはや、難しい。

ただ、一つ確実に言えるのは、理由もなく坐れる人は運命が坐らせているのだろう。つまり、その禅寺で日夜坐る人々は個人的な意図が完全に無いとは言えないだろうが、ホンネはそうであれ、少なくともタテマエは「無功徳」「無意味」であることを了解して坐っている。いや、本心から、無意味として坐っている人もいることだろう。そうして坐れること自体が、運命の導きであり、まさに坐禅が坐らせているといっても過言ではないと思う。

逆に言えば、そうした運命に坐らせられた人以外には坐禅を云々する権利はないということだ。「坐禅は無駄だ」と批判した所で、坐っている当人は「はい、そうです」なのである。「坐ってどうなる?」と訊いても「何にもなりません」なのである。坐禅について、ロクに坐ってない素人が云々しても仕方ない。坐禅を口や頭で云々しても仕方がないのである。それは「感じる」しかないのである。

こうした問題は坐禅に限らない。例えば芸術である。優れたの内の何人かは芸術家は、己の芸術活動に意味を与えていない。「これがしたいから」芸術しているのではなく、ただひたすらに「芸術をさせられている」のである。優れた竹細工師が「竹と戯れているだけ」「竹に遊んでもらっている」と語る時、彼の境地を窺うことができると思うのは私だけではないだろう。

そして芸術が「無益」であることも知っている場合が多い。少なくとも「情操教育として」「金銭を稼ぐため」「名声を得るため」などの理由で「芸術」をしている人間も多いだろうが、それが本質的な芸術ではないということを認めてくれる人の方が多いと思う。

そして芸術も口や頭で云々しても仕方ない。ただ感じるしかないのである。

それにしても、私は坐禅に坐らせられるのだろうか? よくわからない。もしかしたら、そうなるかもしれない。

ただ、現在の私は同じ「無意味」なことをするのなら、今暮らしている人々と、無意味な混乱と喧騒の中で生きるのもいいかな、と感じてはいるのだが。

2007-06-07

頭陀行とは

「頭陀」とはサンスクリット語の「ドゥータ」という言葉の音訳であり「払い落とす」という意味らしい。何を払い落とすのかというと衣食住に対する貪欲を払いのけるための修行である。その項目は12とも13ともあり十二頭陀行、十二頭陀支、あるいは十三頭陀行、十三頭陀支などと呼ばれる。

  1. 糞掃衣…糞掃衣以外着ない
  2. 三衣…大衣、上衣、中着衣以外を所有しない
  3. 常乞食…常に托鉢乞食によってのみ生活する
  4. 次第乞食…托鉢する家は選り好みせず順に巡る
  5. 一坐食…一日に一回しか食べない
  6. 一鉢食…一鉢以上食べない
  7. 時後不食…午後には食べない
  8. 阿蘭若住…人里離れた所を生活の場とする
  9. 樹下住…木の下で暮らす
  10. 露地住…屋根や壁のない露地で暮らす
  11. 塚間住…墓地など死体の間で暮らす
  12. 随所住…たまたま入手した物や場所で満足する
  13. 常坐不臥…横にならない。座ったまま。

これは「戒」ではないらしい。つまり守るべきと決められたものではない。そして、これは「苦行」の一つとも聞く。

ただ、ここで思うのは釈尊は苦行を斥けたのではないかという疑問だ。そう彼は「中道」を提唱し、享楽も斥け、苦行も斥けた。なんとなれば、そのどちらも精神の成長を促さないからである。最低限の「戒」を守ることで足るとし、あとは「定」、つまり瞑想と、そこから生まれる「慧」によって人は「無明」から脱っすると考えたのである。

それでは、この頭陀行とは「外道」なのか? どうも、そうではないらしい。釈尊は励行していたようである。

思うに、「悟る」と、自然にこうした頭陀行のような生活になるのではないだろうか? 上の行を自然にこなす人間になっているのではないだろうか。

多くの宗教者は、金銭を活動によって得ることを禁じ、乞食(「こつじき」と訓みたい)によって生きた。釈尊も道元もそうであったと思う。つまり、そうした頭陀行としての人生があるのだろう。

我々は「こじき」を軽蔑する。働かざるもの食うべからず、である。

しかし托鉢に生きる人生というものも、しばし考えてみたいと思う。