人生を生きるための質問をいくつか。たまにこうしたことを考えると良いと思う。
- 何をしても絶対に失敗しないとしたら、何をするか。
- 好きな人生を選べるとしたら、どんな人生がいいか。
- 人の印象を自由にコントロールできるとしたら、人にどう見られていたいか。
- 何か一つできるようになれるとしたら、何を出来るようになりたいか。
- 何か一つ手に入るとしたら、何が欲しいか。
この記事は以上です。
人生を生きるための質問をいくつか。たまにこうしたことを考えると良いと思う。
この記事は以上です。
音声入力ソフトで書いていると普段とは異なった体験が味わえます。それはいままでの「書く」という認識を変えるものと言えるほどです。
キーボード入力に自信がある人にも、Dragon Speech は本当におすすめです。
homme de lettres (文の人)と呼んだ。そんな彼の言葉は、文章を書く人の良いヒントになると思う。
ヨーガとは一般的には「身体をリラックスさせたり柔軟にしたりするための体操」と思われていますが、それはヨーガ科学の中で、比較的最近になって発達して来た、小さな一部分に過ぎません。
ヨーガの本当の意味は、心の科学です。単にヨーガとだけ言われるとき、それは伝統的にはこの心の科学、つまりラージャ・ヨーガのことを指しています。
ヨーガの起源は 紀元前2500年~1800年のインダス文明に、その遠い起源をもつ可能性が指摘 (wikipedia - ヨーガ)
されているようです。
また、お釈迦様もヨーガを学んだというのは有名ですね。そのため仏教経由で日本にかなり早くからヨーガは伝わっていたようです。
最初に瑜伽として日本にヨーガが伝わったのは、大同元年(806年)、唐より帰国した空海にまでさかのぼる。その後、真言宗や天台宗の「護摩」、「阿字観」等の密教行法として、現在に伝わっている。禅宗の座禅も、ヨーガ・スートラ第2章に記述されるディヤーナの音写である。(Wikipedia - ヨーガ)
また、大乗仏教にはヨーガの実践を重視した伽行唯識学派があり、大乗仏教の唯識の教学を唱導しました。
瑜伽行派は、インド大乗仏教史上、空を説く中観派とともに二大思潮を形成したが、6-7世紀頃から中観派との間によく論争が行われるようになり、一方、教学上の統合の動きもあった。(Wikipedia - 瑜伽行唯識学派)
この唯識も奈良時代より日本に伝わっており、日本仏教に大きな影響を与えていたようです。
法相宗は道昭・智通・智鳳・玄昉などによって日本に伝えられ、奈良時代さかんに学ばれ南都六宗のひとつとなった。その伝統は主に奈良の興福寺・法隆寺・薬師寺、京都の清水寺に受けつがれ、江戸時代にはすぐれた学僧が輩出し、倶舎論とともに仏教学の基礎学問として伝えられた。唯識や倶舎論は非常に難解なので「唯識三年倶舎八年」という言葉もある。(Wikipedia - 唯識)
ただし、あくまで教学としてであり、ヨーガの実践はそれほど無かったのかもしれません。日本の仏教とヨーガを学びつつ、自分が暗黙のうちに受け継いでいる「伝統」を再認識しつつ深めていきたいと思います。
ストレスから開放するための、有力な答の一つは「休日を休日として楽しむ」ことです。しかし、それは慣れないうちは難しいかもしれません。もちろん、お金も何もかかりません。ただ、少しだけ覚悟と準備が必要なだけです。
ストレスから開放されるにはどうしたらよいでしょうか。一つの答は苦しめているものから離れることです。休日であれば自由にストレスの原因から離れることができるはずです。
そのためには思い切って日常から離れることが大切です。とはいえ、これは遠くにいくということではありません。日常の複雑さと世話しなさから離れるということです。複雑でせわしないなまま、ストレスを開放しようと思っても上手くいくはずがありません。
だから休日には思い切ってシンプルでスローな一日を演出するのが効果的だと思います。そうした一日を生活に取り入れることで、ストレスを開放し、平日にしっかりと働けるようになるのだと思います。
シンプルでスローな暮らしに切り替えるにはどうしたらいいでしょうか。複雑でせわしない日常が私たちにしみついているので、なかなか切り替えられないものです。
一つのヒントとして、「3つのC」を無くすことを私は提案しています。それは以下のものです。
自分をストレスから開放してあげる日には、この三つを無くしてあげるのが大切だと思います。
まず休日なので「通勤」を無くすのは簡単と思うかもしれません。
ただ考えて下さい。休日であっても車や電車に乗るのでは、「通勤」と何も変わらないのではないでしょうか? 買物や旅先に「通勤」しているのではないでしょうか。
勿論、日々の暮らしに慣れているので、それが特に複雑でせわしないとは思わないことと思います。しかし車に乗ればせわしなく複雑な操作が必要ですし、騒音と他の人の中での判断に迫られます。電車の移動でも同じことです。乗り物に乗ることはストレスなのです。
これでは、あなたの心は休まりません。
できれば移動はしない方がよいでしょう。歩くくらいにして、ゆっくりとシンプルな一日を守ることが大切です。
旅行するのならば最低一日は乗り物に乗らない日を作った方がよいでしょう。
「通勤」を無くす予定を組めたら次はコミュニケーションを無くせるように計画しましょう。具体的には一切の通信機器の電源をオフにすることです。
理想的には一人がいいと思いますが、安心できる人とゆっくりするのはいいかと思います。大切なのは雑多なメッセージを一掃することです。
「急な連絡があったら」と思うかもしれませんが、人はそんなに急な連絡が沢山ある訳じゃありません。きちんと予定すれば数日間の間、連絡を断つことは可能だと思います。それに、自分を電話やメールから開放させておくために、信頼できる人間に連絡の仲介役を頼んでおくのもよいでしょう。家族がいればそれほど難しい問題ではありません。
常に電話が掛かってくる可能性がある環境では、無意識に常に電話に出る準備をしてしまうものです。あなたもふと電話が鳴った空耳がしたり、メールの着信があったような気がして鳴ってもいない携帯を見たりしたことがあるでしょう。そういうストレスの中ではリラックスできません。
ゆっくりと一日、自分との対話、大切な人との対話を楽しむべきです。そうした時間をしっかりと確保しなければなりません。
「通勤」と雑多な「コミュニケーション」の排除が成功したら、「コンピュータ」を隠して下さい。ここで「コンピュータ」とは情報家電一般を指しますので、テレビやラジオ、オーディオなども布で覆って下さい。
人からの着信がなくても、コンピュータを開いてネットで検索を初めたら元も子もありません。テレビやオーディオを聴いていてもメッセージが次々と飛び込んできます。
日常で慣れているから感じないでしょうが、ネットは細かい情報がめまぐるしくリンクしていてあなたの好奇心を刺激し続けます。テレビやオーディオも同じことです。常にせわしなくあなたを刺激して、少しでも目を惹こうとしているのですから。
思い切って情報家電に布を掛けて下さい。それだけで家が静かで広く感じられると思います。
3Cを取り上げられると「じゃあ、何をしたらいいの?」と思うことでしょう。ドライブもできないし、テレビもメールも電話もできません。それなら寝るだけになってしまう人も多いことでしょう。
その答は「何もしないこと」です。
あなたは「何もしないこと」ができるでしょうか?「何もしないこと」が心を癒すのです。つまり、「何もしないこと」がストレスフルなあなたに必要なことなのです。
何を想うでもなく坐ったり、何を見るでもなく外を眺めたり、どこに行くでもなく歩いたりする……。あなたは想像しただけで怖気づくかもしれません。「そんな無駄はしたくない」と考えるかもしれません。ただ、その無駄が必要なのです。
その途中で不安やイライラが出てくるかもしれません。そしたら、それを受け入れて、それも自分の心なんだと静かに眺めてゆくしかないでしょう。「飽きた」「無意味」などと、車のキーや電源ボタンへと手が伸びる言い訳が出てくることでしょう。そうした自分の心を眺めていると、本質的なストレスの原因が見えてくるものです。
ただ、あまりに刺激が欲しくなってしまったら、そうなったで仕方ないことではあります。無理をすることはありません。ただ、その際にもゆっくり、シンプルに行動するように気をつけて下さい。無意識に動くと習慣でせわしなく動いてしまいます。
それこそ、ゆっくりと、シンプルでゆっくりとして暮らしに慣らしてゆけばよいと思います。
現代では子供の時からゆっくりとしたシンプルな暮らしを経験したことが無い人が沢山いると思います。家庭、学校、会社……と常に人の気をつかい続け、一人になってもテレビ、ケータイ、ネット、オーディオ、ヴィデオが次から次へと刺激を与え続けます。頭は常に興奮しっ放しです。これでは脳が異常になるのは目に見えています。
早急にこうした現代人のために、しっかりとしたストレスを開放させる取り組み(「何もしない」ための取り組みですが……)が必要になるんじゃないかと思います。
例えばヨーガや気功、坐禅や瞑想、茶道や書道などは重要な文化として再び注目されることと思います。複雑さとせわしなさは、これから更に爆発的な勢いで上昇してゆくでしょうから。
私たちはメディアを持ち歩いている。
それは手帳やノートのような冊子体かもしれないし、インデックス・カードなどの紙片の束かもしれない。紙に限らず IC レコーダであったり、コンピュータであるかもしれない。
私たちはなぜそうしたメディアを携帯するのだろうか。ここでは3つの理由を指摘してみたい。
まず考え付くのは、記憶を補助するためだ。つまり、そのメディアを見ることなしには想起できない情報を得るためだ。例えば、住所録、情報のメモ、スケジュール帳などがこの目的に資すだろう。
私たちは将来必要になるであろう情報を携帯メディアに記録してしまう。「記録」が常に引き出せるのであれば「記憶」する必要がなくなる。記憶の負担と不確実性は軽減される。また、辞書やネットの検索を通じて、外部記憶には自分の入力すら必要出ない場合もあるだろう。この意味で携帯メディアとは 「外部記憶」 であると言える。
ところで、メディアの携帯による記憶の補助はこうした実際的なものだけだろうか?
例えば、私たちはそうしたメディアに家族の画像を載せることがある。つまり、しばしば私たちは携帯の壁紙や手帳の見開きに子供尾の写真を貼る。あるいは、自分の夢や信念などを手帳に書いている人もいる。目標を掲げて、そこからスケジュールをブレークダウンしている人も多い。
これはある意味では「記憶の補助」に他ならないが、それは住所録やスケジュール、情報のメモとは性格が異なる。
家族の写真を貼ったり、夢を書いたりするのは何故だろうか。たぶん、それを見ると「いい状態になる」からだろう。つまり、穏やかな気持ちになったり、頑張る気持ちになるのだ。
こうした特徴は文字や写真に限らず、音楽や音声であっても同じことだし、自分のお気に入りの本を持ち歩くことでもおなじことだ。
気分次第でパフォーマンスは大きく変わる。だからこそ、よく目にする場所に自分を穏やかにしたり奮い立たせるものを置くことで、精神的な面を助けてもらっているのかもしれない。
これは壁に紙を貼ったり、机に写真たてを置くことに似る。音楽についてはまさに自分の部屋を持ち運んでいるようなものだ。この意味で、携帯メディアとは 「持ち運べる環境」 である。
ところで、自分の夢や家族のような大切なことは頭に焼き付いていて、わざわざメディアで運ぶ必要はないように思うかもしれない。もちろん、そういう人もいると思う。ただ、私は人間というのは驚くほどに何でも忘れてしまうものだと思っている。かっとなったり、しょげたりすると自分の夢なんてころりと忘れてしまうものだ †。そういう時に、愛や勇気を与えてくれるものは想像以上に役立つ。
私たちは自分が何を思いつくのか次の瞬間ですら自分でコントロールできない。だから、自分を無意識のレベルから方向づけようと思うのならば、日々目にするもので刺激しておくことぐらいしかできない。つまり、夢や目標を常に目にしておくことで、無意識的な発想に影響を与えられると考えることができるというわけだ。
これは、多くの成功本が言っていることでもある。いわく「目標を紙に書け、目にするところに貼れ、朝と夕に読み上げろ。」もちろん考え方やイメージだけでうまくいくわけはないが、すくなくとも、よい考え方やイメージがなければうまくいくはずがない。
持ち運べる環境である携帯メディアは、こうした無意識の方向づけにも役に立つ。そこに書かれた「自分がどういう人間になりたいのか」「どういう未来が待っているのか」ということが、自分の習慣をつくりだすだろうし、そうした習慣が未来の現実をつくってゆく。
そこに記された情報は引き出せるだけでは意味がない。その考え方が習慣となり、その夢が現実になることが大切である。だから、繰り返し目にして記憶の底に焼き付け、よりよい考え方やイメージを身体化してゆく。
ここに至って携帯メディアは、客観的な情報を記録した外部記憶としてではなく、自分にとって内面化すべき考え方を保持したものとなる。それは自分を方向づける道具である。
これは写真や手帳に限らない。一冊の書物や一つのお守りなどが「トリガー」となり、自分を方向づけるメディアとなるだろう。
さて、ここで上記の視点をまとめてみよう。
外部記憶としての携帯メディアでは、情報を引き出すには常に意識的な操作が必要になる。携帯メディアがある種の「環境」になることで、無意識的に情報を自分に与えることができる。だから自分の方向性を決めたい場合には、そこに自分にとって好ましい考え方やイメージを盛り込むことで、自分を無意識的に方向づける道具となった。
ここで重要なのは、外部記憶としての携帯メディアと自分を方向づける道具としての携帯メディアは性格が大きくことなるということだ。ちょうど「持ち運べる環境」としての携帯メディアという性格を軸にして対照的である。
その一つの違いは、情報を引き出すときに意識的であるか無意識的であるかということだ。客観的な情報を引き出すのには意識的な操作があってもいい。しかし、自分の夢や習慣にしたいことを意識的な操作を通じてしか取り出せないのでは意味がない。何気ないときにふと自分に教えてくれる仕組みでなければならない。
また、外部記憶としての携帯メディアは「情報を忘れるための道具」である。そこに「記録」することで「記憶」をしないですむ。これはワーキングメモリ(短期記憶)の負担を軽減する。雑多な情報が頭をかすめてワーキングメモリを圧迫している場合には、それを「記録」してワーキングメモリの外に追い出してしまった方がよい。
一方で自分を方向づける道具としてのメディアは「情報を身体化するための道具」である。自分の夢や考え方を記録することで忘れてしまってよいのなら、そもそもそんなことは記録しないでしい。そうした自分を方向づける情報は徹底的に記憶され、長期記憶に保存され、習慣となり、身体化されねばならない。
携帯メディアというとデジタルとアナログという軸で語られることが多いが、こうした目的を軸としたことから考えてみると、よりよい利用法やあるべき姿が浮かび上がってくると思う。
† いい言葉を耳にしてテンションが上がったとしても、その言葉をころりと忘れて、同じ間違いを犯したりすることを私は何度もしている。この点を ノートの取り方(5) 常に追記する では以下のように書いた。
人間は何でも忘れてしまう。本当に大切なことをいとも簡単に忘れてしまう。ふと気が付くと、自分が何をするつもりでそこにいるのか、その何年という時間を注ぎこんでいたのかすら、あっさりと忘れてしまう。何かの痕跡なしには、何も保つことが出来ない。だから、私たちは痕跡を残し続ける。
ここで痕跡を残すというのはメディアに新しいデータを載せることに他ならない。
文具について書いていると、紙についても書いておきたくなった。そして、その紙への愛の泥沼が、逆に僕が万年筆を離れる理由になった。
紙に意識を持つようになったのはごくごく最近のことだ。ゲルインクペンを利用していた頃に紙に興味なんてなかった。安いノート、ルーズリーフ、コピー用紙で十分だった。ゲルインクペンのボールは滑らかに転がりつつぬるぬるしたインクを溢れさせ、そうした紙の表面の違いを乗り越えて逞しく進んで行ってくれた。
万年筆は違う。万年筆は金属のペン先が紙の表面をなでる。指先から紙の表面の感触が直に伝わる。長い時間書いていると、この感触が指に残り、左の側頭部の後ろの方にこびりつく。その金属が紙を擦る音が耳に残る。紙とペンが悪いと不快でたまらなくなる。指が、脳が、食事を求めるようにいい紙を求めてしまう。場合によっては下敷きまで欲しくなる。実際によいペンや紙を見たり触ったりすると涎がでるような生理的な反応まである。
万年筆を使ってから、筆記用具は人差し指の延長だと強く感じるようになった。気がつくとペンが自分の体の一部のようになった感覚に襲われる。僕は右手がペンになっていて、道具なしで紙に文字を書いているという夢を何度も見ている。肘から先、あるいは肩から先、あるいは臍から上の肩を中心とした右上半身がペンになっていたりする。
僕がペンという男性であるとき紙は女性だ。ペンという獣であるとき紙は柔らかい子羊だ。より滑らかで柔らかく、より洗練されていて無駄がなく、しなやかでありながら表面的にはかすかな脆さを見せる紙が欲望される。
その紙にペン先が触れる。溢れ出すインクの上で滑らかにペン先はおどる。その運動の痕跡は筆跡として刻まれ、描かれた線は文字として永遠のものとなるだろう。ああ、至福の一時である。
と、いうのはあくまで妄想の世界の話で、金もないのでこの欲望は十分に追求されなかった。そうホイホイと紙やら万年筆やらを買ってはいられない。こりゃやってられんな、と万年筆の世界におさらばした。
もういいよ、俺は水性ペンで。
私の文具遍歴を綴る第4回。今回は前回の情報処理機時代に使用していた水性ボールペン OHTO Liberty (オート リバティー)について。
さて、情報処理機にはまればはまるほど、私は紙から離れるようになった。紙はスケジュール帳とメモ帳しか使わなくなった。
大学でのノートについては、ルーズリーフも大学ノートもやめて、安価なコピー用紙を利用するようになった。コピー用紙にノートをとり、それをクリアフォルダにはさむのである。もちろん他の資料もはさんでおけて便利だった。その紙だって「本来はテキストデータ化されるべき」と考えていた。そのうち授業のノートもノートパソコンでとるようになったし、授業を録音して音声認識ソフトにかけたことだってあった。
こうした状況にて、ペンには保存されるべき上質な中性紙に対する特性ではなく(あまり知られていないが、普通のノートやルーズリーフの紙はかなり上質である)、粗末なコピー用紙で書く快適さが求められていった。
また既に述べたが、ゲルインクの書き味と私の感覚に乖離が生じ始めた。G-1の筆触の最大の特徴は、書き始めに筆尖を紙に置いた瞬間のヌルリとした感触である。不透明な生温かいものに爪の先が触れたような感触である。これは書くべきものが決まっているときには、そこから逞しくペンを滑らせる原動力となった。
しかし、そのよどみは一瞬だが心を惑わす。さらに大袈裟に言えば、その一瞬に思考は居つき、濁ってしまう。
よりシャープで滑らかな、よどみない筆触を私は求めた。またデザインの面でも洗練されたものを求めた。
さらりと書ける筆触を備えたスタイリッシュなペン -- その解答は OHTO (オート)の水性ボールペン Liberty であった。1000円とは思えない軸の重量感と高級感がまず私を捉え、次に OHTO の 300 シリーズのセラミック・ボールによる硬質でさらりとした書き味が私を満足させた。替え芯がやや高めだが、その種類は豊富だし、軸が丈夫なので愛用しつづけた。このペン軸とはかれこれ8年の付き合いとなった。
しかし、情報処理時代の文書入力の基本はキーボードである。その意味で、 OHTO Liberty はメインの筆記用具でありながら、メインの文書作成の道具になることはなかった。実際、長時間の筆記にはペン軸は重く、筆触は硬すぎると現在では思う。
前回に続いて私の文具の遍歴を綴ってみる。今回は大学生になりコンピュータと出会ってからの時代について。「情報処理」による「思索」や「筆記」に対する影響は絶大だった。
前々回に紹介したゲルインクと大学ノートという時代は突然に終止符を打つ。私が1999年の夏に「情報処理」つまりコンピュータに目覚めたからだ。
「情報処理」概念は私のたどたどしく慎ましい「思索」の生活を吹き飛ばしてしまった。事実、私は書き抜き、思索、詩、メロディーなどを雑多に大学ノートに書くことをやめてしまった [a]。私はキーボードを叩きデータを入力するようになっていた。
もちろん入力が楽しかったのではない。情報処理が楽しかったのだ。だから「入力」としての自分の思索は極端に減った。同時に「記憶」よりも「記録」に頼ることになり、読書はしても読解したり、その内容と喧嘩することが減った。
逆にプログラミングやアルゴリズムを学んだ。収集・蓄積したデータをスクリプト的に処理(検索/置換/ソート)することは、僕にとってあまりに魅力的だったし、ある程度のプログラムが、データを処理するさまにはくらくらと眩暈がした。
私はスキャナーとOCR(光学的文字認識)ソフトを買い、ヘッドマイクと音声認識ソフトを買った。全てを情報処理可能にしたかった。CD は mp3 や flac に、書籍はテキストデータになっていった。
文書が「機械処理可能なデータ」であるためには、構造も整えておくと都合がよい。私は「内容」と「見た目」を分離する「マークアップ言語」に激しく興味を持った。つまり TeX や HTML の出番である(もちろん wiki やら rdoc やらその他おおくのマークアップ言語に触れた)。こうした「文書を(機械処理するために)構造化する」ことは私の思考に大きく影響を与えたと思う。
同時にアウトラインエディタやマインドマップのようなリニアでない執筆を可能にするソフトも書くことに大きな影響を与えた。それまでの時系列に並び編集性が低いリニアな思索は、ツリー状に分散しつつリンクする極めて編集性の高い二次元・三次元的なものに変化した。少し大袈裟な言い方だが。
更に脱線すると、こうして収集してゆく膨大なデータを仲間と構造化しつつ共有するという構想を立てて興奮したりもした。本の内容をもとのテキストデータと関連させつつマインドマップのようにした上で、その複数のマインドマップを更にリンクさせてゆき、内容で構造化させるというアイディアだった。ある意味でシントピコンとも言える [1]。いまなら google book search とマインドマップサービスを連成させれば簡単にできるかもしれない。著作権のあるクローズドなテキストとの連携/共有は難しいかな? [2]。
ちなみにこれは Wikipedia も Youtube もない時代の話である。大学の情報社会学の先生が google を「ゴーグル」と発音したりもしていて、それもゆるされた時代だった。僕の説明のまずさもあり(これは強調されてよい)、おもしろいことに、そうした CGM 的なものは「情報処理」というよりも、社会運動とか宗教に近いものとしか認識されなかった。
別にこのことで「俺は先進的だぜ」とかいいたいんじゃない。考えた人は僕以外にいくらでもいたはずだ。僕が言いたいのは、人の意識というのは後からでしか変化しないし、変化すると簡単に変化するということだ。僕は wikipedia や youtube を見る度に「未来はやってきたんだなぁ」とかいう深い感慨をおぼえる。つまり、言いたいことは一つだ。「人の理解を求めるな! ただ作れ! 理解はそうすれば得られる!」
そう未来は必ずやってくるのだ。だから、その未来を作って行けばいい! 人の理解はそれからでいい! 過去や現在に引きずられないで突っ走れ! 人の理解を求めて精緻に語れば語るほど、人は様々なものを失ってしまうものだ。
と脱線しすぎたので今回はこれまで。この時代に私はゲルインクペンを離れたが、それは次回に。
[a] 若いときには、雑多な思いをノートにぶつけたり、一つのテーマについてノート一冊を書き抜くことを私は強く勧める。そうしたノートをきちんと保管したら一生の宝になると思う。「ノートの取り方 (1)」 を参照。
[1] シントピコンについては [書評] 本を読む本 / アドラー を参照
[2] この時期の私は「情報」を客観的に処理可能なものと捉えていた。現在ではこういう立場をとっていない。たとえば、情報と向き合うときに気をつけること や 技術の発達が価値体系を変革する などを参照。
前回に続いて文具について。今回は文具と筆触、思考について思うところをメモ。
優れた筆記用具とは、より少ない労力で、より美しい書きぶりを実現するものであるべきだと思う。
少ない労力とは軸の形状、質量、重心、太さはもとより、インクフロー、ボールの転がりやすさ、さらには価格、入手しやすさ、携帯のしやすさまでが問題となるだろう。一方で、美しい書きぶりには、筆跡の明瞭さ、書字ニュアンスのつけやすさなどが上げられると思う。
その点で多くの筆記用具、少なくともシャープペンシルと油性ボールペンはまず「書くための」文房具のリストから外すべきものだと思う。両方とも書くときの疲労が激しい。ただし、両方とも用途はある。例えば、伝票を書くのに油性ボールペンは必須だ。
また美意識は多様であり †、薄い筆跡を好む傾向が私の時代にもあった。硬く薄い H や 2H シャーペンの先で、小さくかすかに慄えるだけのような痕跡を刻むのが美しい文字という美意識がありえた。こうした美意識には限りなく薄く、淡い筆記用具が求められる。
ただし個人的には、これは筆跡の消去、あるいは文字の機械化と、それに伴う手書きの喪失そのものを喜ぶような美意識であると思う。端的に、私はそれを美しいとは思わない。
明瞭で濃く、滑らかで柔らかい書き味と書きぶりを私は好む。ちなみに私は書が分からない。ただの好みだ。それでもこうした「文字情報」以外のものが、結構いろいろと影響するのではないかと感じている。
最近つかっている文具の紹介 を書いたら自分の文具の遍歴について綴りたくなった。今回は中学高校時代に使っていた Pilot Dr.Grip について。
私とボールペンとの出会いは中学2年生に始まる。近所の本屋で売っていたノート術とかの勉強の仕方の本で、鉛筆やシャープペンではなく、ボールペンを使うことを勧めていた。濃い筆跡の方が記憶に残りやすいのだという。それ以後、私は書くときにはボールペンを使うことになった。
学生時代、書くとは勉強することであった。そして勉強とはノートに書くことであり、ノートにはマーキングが必要不可欠だった。当時、私は蛍光ペンを利用していたので水性では滲み、具合が悪かった。また油性では書き味に問題があった。私はゲルインクを使うようになった。Pilot の G-1 と、それと同じ替え芯を利用する Dr. Grip を利用していた。そのくっきりとした筆跡が私の記憶力向上に資したのは確実と思われる。
その書き味はぬるぬるとしたものだった。さらさらではない。ねばりがある。しかし、油性ボールペンのような書くことに抵抗するねばりではない。溢れんばかりのインクフローに支えられたぬるぬる感だ。紙の上にインクを押し出しながら、ペン自体が進んで行くような粘りであった。当初はこのペン自体が自律して進むような感覚に戸惑うほどだった。
ゲルインクペン、殊に Dr. Grip を利用することで、私はくっきりとした筆跡と、負担の軽い書字環境を手に入れることになった。滑らかにペンは進み、字は何年たとうが明瞭さを保つ。溢れんばかりのインクで紙の上を進んで行ってくれる、あのゲルインクペンがなかったら、中学高校時代に、あれほどに文字を書いたのか疑問である。
また、あの明瞭な筆跡と鉛筆ではなくインクであることによる文字の独特のニュアンスがなければ、いまとは異なった文体で言葉を綴っているのではないかと思う。その意味で、Dr. Grip は私の思考の基礎(というほどの大袈裟なものは何もないが)を形成したといっても何も大袈裟ではない。
本屋に行くと文書はA4一枚でまとめろという本が多いことに気がついた。これは文章の文字数と時間の関係でも書いた「短文」ということになる。
そうなると通常のビジネス文書は、書くのに40分、読むのに音読で3分 or 黙読で45秒 or 速読で3秒ということになる。
これは実感としても分かる気がする。書くときには調査や構想などは別として純粋に執筆だけに40分以上はとっている。また、人の文書を読むのも「じっくり」なら3分、普通で1分弱、ぱっと見なら数秒というところだろう。これは誰でもやっていることだと思う。
そういえば社会人として初めてレポートを書いたとき、10枚くらい書いてしまい、えらく怒られた記憶がある。「1頁しか読まないよ。あとはポイだ」とマーケティング畑出身のチームリーダーは教えてくれた。そのTLは丁寧に机にレポートを叩きつけ、ゴミ箱に放り込んでくれた。これはとてもいい刺激になった。その演技力にもしびれた(皮肉じゃない。時に人は演技を通じてメッセージを強く伝えることができる)。
「短文」が必要な場所に、私は「長文」を書いたということだ。これはルール違反であり、論外だ。量より質とはいうが、量の条件を違反すると質の審査すら受けてはもらえないのだ。
さて、一方でプレゼンは時間にして20分以上やっているので「長文」ということになるのだろうか。長くても40分以上はやらない。でも、僕の感覚から言うとこれも短文な気がする。
と、ここまで書くと、いままで字数で考えてきたけれど、どちらかというと文書の構造が二重になった文が長文と考えるべきかもしれない。同じ階層の見出しだけが並ぶのが短文、見出しの階層が二段構えになったのが長文。そして、その字数が1500字とか1万5000字とかいうことなのかもしれない。まあ、今回はこんなところで。
僕は街に出ても本屋と文房具屋にしか用がありません。困ったやつです。そんな私の最近つかっている文房具を紹介します。
てなとこでした。なにかおすすめ、ありません?
Googleマップ ストリートビューの気持ち悪さ を書いたら、Googleマップが地図ではなく仮想世界であることに気づいた。このことをどう考えるべきだろうか。
Googleマップ ストリートビューは地図ではない。地図とは俯瞰するものだ。その中で移動できるのもは地図ではない。仮想世界だ。グーグルは地図を作成するふりをすることで、リアルで広大な仮想世界を安価に手にいれてしまった。
Google マップとは「地図」ではなく、仮想世界をリアルかつ安価に構築する技法だったのだろう。これほどにリアルな仮想世界を作るには、実際に撮影してしまうのが一番安あがりだ。こうして「構築 = 撮影」した仮想世界を活用するだけの能力を Google は十分に有している。この映像を更に分析し、衛生からの画像とも合成することで 3D 世界としての操作性を上げることも可能だろう。
そこから何が起きる? ネットゲーム? いや、そもそもゲームですらない本当の「第二の世界」だろう。そこでリアルに買い物するのは難しくない。道は準備されたので店舗さえあれば仮想世界は更に広がる。ショッピングの客が増えれば、そこで働く人間も増えることだろう。(既に Everyscape という建物の中にまで入れるサービスが存在する。)
成功すれば、Google はまさにモノに溢れた「世界」を一つ、デジタル化して保有することになる。広告収入は莫大だ。ネットの 3D のインターフェイスは失敗の連続だった。しかし、この計画の成功はそれほど難しくないように思える †。
だから、グーグルのネットゲームでは部屋しか準備しなかったのかと思う。あのネットゲームの部屋とストリートビューを接続するのは難しくない。あのネットゲームの「冴えなさ」は「大企業病」などではなく、戦略だったのだろう。
現代人は世界をモノとして捉えがちだ。だいたい話は「行った、買った、食った」である。その「行った」はだいたいは視覚的な情報に過ぎず、写真で代用可能となっている ‡。そうなると、観光やショッピングの「意味」の大半はこの仮想世界の中で行えるということになる。
音楽をライブで聴くことがある種の「贅沢」であり、通常はCDやmp3などの複製で聴くことが日常となったように、観光やショッピングで「現地」へ足を運ぶことがある種の「贅沢」となるという時代は、そう遠くないのかもしれない。
† もちろん、世界をモノとして捉えるなど、私個人にはナンセンスだが。技術の発達が価値体系を変革する で書いたように、今後、技術発達の「行き過ぎ」が私達の価値観の再考を促す場面が増えることと思う。
‡ 街は人と人が出会う場所ではない。その意味で出来事は起きることはない。街はモノの世界である。人はモノと出会うために街へと向かう。そして、世界の意味が出来事でない以上、その意味は物的証拠が担う。フィクションの世界、あるいは現実でもそうなのだろうが、ある場所に「存在したこと」を証明するために、「土産」と「写真」を入手するという行動がよく見うけられる。
グーグルマップ・ストリートビュー (Google Map Street View) はなぜこんなに気持ちがわるいのだろう。
たぶん他にも見方があると思う。教えていただけるとありがたいです。
知的生産のプロセスについてもう少し考えてみた。すると、既存文脈の解体と新規文脈による再構築がなされているというのではないかと思いついた。
先日は知的生産のプロセスを以下のように考えた (知的生産のプロセス):
このプロセスは以下のようにも考えられると思う:
2番目の「情報との戯れ」と3番目の「新文脈の創発」が自分にしかできない。他人はもちろん情報処理機たるコンピュータにはできない †。
現実世界では枠組みが与えられない。むしろ、あらたなパラダイムを創造することが仕事になる。それ故、問いをたてられれば仕事の大部分は終わる ‡。
だから個別の情報を理解・記憶しても意味がないことが起こる。それが、どの程度、新規の枠組みを想像するに足る操作性であるのかが問われる。ただし記憶にしろ記録にしろ、操作可能にしておくのは必要不可欠だ。自由に操作できなければ、つまり戯れられねば、どうして新しい枠組みが閃けようか。
問題は新しい文脈の創発だ。だから創造的な仕事ではメッセージは新しいパラダイムに他ならず、パラダイムがメッセージになっている。内容と形式との問題は、ここにおいて超越される。
さて、ではどうしたらいいか。ということで次回へ続く。
† 逆に言えば「情報との戯れ」と「新文脈の創発」以外は、本質的に情報処理機でできる。つまり、大半の作業は、コンピュータが行える。現に書籍やレポートのコンピュータによる自動生成は既に行われ、そうした本は売られている。
‡ 通常の学習では枠組みも問題が与えられる。だから、学習者は記憶された個別の情報を基にして、その問題への答を記述する。問いがあるおかげで 3 番目のプロセスの必要がない。そして、多くの場合、外部記憶(= 記録)を利用できないので、記憶の能力が重要視される (持ち込みが許された試験の場合には、外部記憶の操作能力が大切になる)。
佐藤優と朝鮮の専門家・鈴木琢磨の対談『情報力』を立ち読みしました。情報の収集と分析について参考になりました。
佐藤の情報整理は簡単なもので、資料を時系列に段ボールに入れて、それに日付を書くというだけのものでした。
段ボールはミカン箱で、特に分類もなく資料を放り込むのだということです。箱がいっぱいになったら日付を書いてしまうのだそうです。一年間に5、6箱になるそうで、その程度であれば頭で整理できるというわけです。検索には日記も役立つらしいです。
大事なのは、整理の時間を減らすことでした。時間と人間を軸にして記憶を補助するのが一番効率的なのでしょう。
細かいメモは取らないということです。取ったとしてもキーワードや固有名詞くらいなそうです。メモを取らないことで自分の記憶だけが頼りになります。メモがあったとしても、記憶に残らないような情報は役に立たないということなのでしょう。
面白いと思ったのは、記憶を引き出すための「トリガー」(引き金)を大切にしていたことです。北朝鮮やロシアで買った特徴的なお土産を見れば、それが引き金になり、その時の記憶をすべて引き出せるのだそうです。
実際の記憶のないメモ帳のメモなどは意味がないのです。自分の記憶を引き出すためのトリガーが一つあればいいのです。
トリガーといえば、苫米地の変性意識とアンカーとトリガーを意識した洗脳が連想されます。無意識の膨大な情報を引き出すには、こうした方法が有効なのでしょう。
私達は日々、携帯電話やコンピュータを利用している。このような道具を使って文章書くという言葉私たちの日本語の運用、ひいては思考というものに、変化を与える可能性はあるのか。またあるとすれば、それはどのような変化だろうか。
ひとまず、この問いに関連しそうな情報をまとめておく。
私はここでいたずらにテクノロジー恐怖論を唱えたいのではない。テクノロジーは便利にもなれば、不便利にもなりえる。あくまで使い方の問題であり、どのように発展させていくかという問題だ。そうした全体を考え、テクノロジーの未来を考える上でも、こうした視点は欠かせないと思う。
それに以下の情報が「正しい」のかすら分からない。ただ考え始めるきっかけにはなるかもしれない。少なくとも数人の人が「何かが起きている」とは感じている。その「何か」を知るよすがにはなろう。もちろん、その考える「方向」すら「正しい」か分からないが。
まず、タイプ入力 (ワープロ書き、パソ書き、キー入力) についていくつかの文章を ひろってみよう。
例えば内田樹はこのように言っている。(参照)
文房具のテクニカルな条件の変化にともなって文体は変化する。
私の場合はワープロの登場によって、あきらかに文体に変化が生じた。
それは「無限の修正の可能性を織り込み済みで書き飛ばす」ことが可能になったことで 、それまでだったら「深追い」するはずのなかった「あまり追いかけても先の展望のな さそうなトピック」に対してマメに反応するようになったということである。
ワープロ導入によって、字数的にはそれまでの10倍以上のキャパシティが確保され、 それからあと私は「どうでもいいようなアイディア」を執拗に追い回すようになった。
阿部和重も読売新聞のインタビューでタイプ入力による文体の変化を語っている。(参照)
「器械を介して書く際、人格の乖離(かいり)が起こるのは避けられない 。少なくとも漢字変換の機能が介在するわけで、もうこれが自分の文体だなんてとて も思えない。作家がソフトに慣れる過渡期の10年でもあった。10代の女性の方が 、画面で文章を編集する感覚には優れていたりする。しかし文体信仰が簡単に廃れる はずはない。完全手書き派も復権してくるでしょう。」
インタビュアーは阿部の文学をこう解説する。
キー入力という手法の変化が、原稿と作者の間に新たな距離を生んだ。そ の距離を利用して阿部氏は、キレやすく多重人格的な、それまで日本の小説には現れ なかったタイプの人物を造形する。
二人はタイプ入力に対して肯定的である一方で、同様の変化に気づきながらも、それ を否定的に捉える人もいる。書道家・石川九楊がその一人だ。タイプ入力での文体につ いてこう述べている(『二重言語国家・日本』p.68)†。
筆蝕を欠いたワープロから文体が生れるかどうかは疑わしいが、[...]良く 言えば、私小説的膠着から解放された軽やかで、希薄な文体、また、自省が足りず、 飛躍に飛躍を重ね、あるいは馴れ馴れしくまた犯罪臭の強い自己完結的文体が生れて くる。ワープロ時代には推理小説や SF 小説が氾濫することになる。
また、他の石川の本からの、孫引きになるが博報堂生活総合研究所『生活新聞』 (No.395)では縦書きと横書きとタイプ入力での比較がなされたらしい。それによると、 書かれている内容の違いとしては以下のようになるらしい。
「文体、言い回し」の違いは:
特にタイプ入力の特徴は:
こうした特徴の分析の妥当性は知らないという留保はした上で、実際に自分のものも含めて、ネット上で書かれたものを考えると特徴としては当たっているように私は思う。殊に、私もよく書くライフハック系、自己啓発系の文書がネット上で氾濫することはこのタイプ入力の特徴そのものであると言える。
以上のタイプ入力の特徴を私なりにまとめてみる。
こうした傾向についてどう考えるか。楽観的かつ具体的になり、楽であるのはキー入力の長所であると言えると思う。一方で、内省が少なく、分裂的・自己完結的となるのは端的に短所である。
この両方の側面を、私達は実際にブログや掲示板を覗くことで感じることができる (既にこの文書、このブログが例証である)。これが現代人の特徴であるのか、タイプ入力というテクノロジーが与えたものなのか、それともその相互作用であるのかを考えるのは興味深い……。††
携帯電話での作文についてはどうだろうか。先にワープロに対しては肯定的だった内田樹は否定的な態度をとる(参照)。
ケータイで映画評を書いて送信したことがあった。
まことに困難な仕事であった。
画面が小さすぎて、少し長い文章を書くと、 主語が視野から消えてしまうのである。
何度も自分が何を書いているのかわからなくなった。
ケータイでは複文以上の論理構造をもつ文は書けない。
それはいずれ「複文以上の論理階梯で思考する」習慣の消滅をもたらすであろう。
他の文書では「携帯メールを主要なコミュニケーションツールとする人々はいずれ『複文以上の論理階層をもつ文章を書くことができない』人間になる可能性がある」と述べている。(参照)
携帯メールの入力作業というのは、私には「書いてから1秒経たないと文字が見えてこない鉛筆」で文字を書いているようなもたつき感をもたらす。
私のようなイラチ男の場合、ときどき誤入力をして意味をなさない同音異義語が画面に出てくると、こめかみに「ぴちっ」と青筋が走り、そのまま「え~い」と携帯電話をゴミ箱に投げ捨てたい衝動を抑制するのに深呼吸をせねばならぬこともある。
このような「どんくさい」ツールは複文以上の論理階層をもつ文章を書くことには適さない。
論理の流れは感情の流れより「速い」からである。
親指ぴこぴこではロジックの速度をカバーできない。
文房具の物理的限界が思考の自由を損なうということはありうる。
ここで提起されているケータイ入力固有の問題は
更に言えば、ディスプレイの小ささの話でも、複文が表示されないということはな いが、複数の紙を広げたような一覧性は、通常のパソコン画面では得られない ‡。
さて、こうしたケータイがある程度の論理構造を持つ文書を書くのに適さないとすれ ば、ケータイによるメールは自然にシンプルな構造をもって書かれることになるだろう 。すると読者は読むのが楽になる。
書く者の不便は読む者の利便につながることがある。実際に、パソコンでのメールが 普及したばかりの頃、書くことと送信することの容易さから長いメールが氾濫した時期 があった。これは書く者の楽さが、読む者を苦した例だ。同様に、いま私が書いている このような長く勿体ぶった文書を私はケータイでは書くことは想像も及ばない。もしケ ータイで書くとすれば、よりシンプルな表現となるだろう。それは読者の負担を著しく 軽減するはずだ。‡‡
一方で、多くのケータイ小説は短文の連続であり、改行の連続である。つまり段落と いう構造を持っていない。それでも一定に意味内容を飽きさせずに伝えているのは、イ メージを伝えやすい典型的な表現や心情描写が多く利用されているからだろう。
これは人気のあるアニメーションの絵が全てシンプルであることを想起すればいい 。未来から来たネコのアニメにしても、アメリカのネズミのアニメにしろ表現はシンプ ルであり、かつ登場人物は徹底的にパターン化されている。既視感のある登場人物をイ ラスト的に描写することで、表現を受容するのは飛躍的に容易になっている。
以上のケータイ入力での文書の特徴を列挙してみる。
このことから考えて、ケータイ入力はシンプルな表現を書き手に強制することで、 は読む方の負担が少なくしてくれる。その一方で、表現は常套句の連続になりがちであ り、典型的ではない問題を伝達するのには向かないと言えると思う。
さて、こうした分析を通じて考えることは、道具と表現との深い関連性だ。私は安易 に「現代人はこういう技術を手にしたからこうなった」とか「現代人はこうした性格だ からこうした技術を好んだ」と結論するつもりはない。
確かに道具がある種の表現を形成するのかもしれない。あるいは、そうした表現をしたい人間が、そうした道具を生み出し好むのもしれない。しかし、これはどちらか一方の現象というよりは、深い相互作用があるのだろう。
一人の人間として、ある道具に触れることである種の表現が形成されることが確かであるだろうし、そうして形成された表現は自分のものとして好ましくなりもするだろう。そして、更にそうした道具を進化させることだろう。
あるいは、道具の方向性に反りが合わずに苦しむことになるかもしれない。問題は「現代人」という抽象概念ではなく、一人一人の個人の表現の問題である。
例えばケータイでシンプルかつ典型的な表現をしていれば問題ない。そういうことをしたい人はそれがよい。同様にコンピュータで、入力が楽なことによる明るく具体的な文章や、日本語入力が介在することによる分裂的で犯罪的な文章を書いているのも問題ない。
問題は、そうした性格と異なることをしようとしたときだ。ケータイで複雑な表現をしようとすれば苦しむことになるのはみえすいている。あるいはコンピュータで内省的で連綿とした、観念的な表現をすれば苦しむことになるだろう。それは、その道具がその逆の方向で進化したからであり、その結果として人の文化がそこにあるからである。文化があるときに、人はそれを無視して進むことはできない。
こう考えると、多様化した現代では、「時代」に合わせるのではなく、自分がなしたいことによって、多様な選択肢農中から、道具を考える必要があるのだと思う。
† ただし本書では、石川九楊はタイプ入力の問題以前に、縦書きと横書きの問題を中心に考察している。
†† ここでは意図的に「……」で終始してみた。私が普段こういう終始をしないの は、日々読んで下さっている方ならご理解いただけると思うが。為念。
‡ もちろんデュアル・ディスプレイにしたり、画面を分割して複数の部分を表示さ せたりすることは可能であるが、プログラマを除いてはあまり普及していないと思う。
‡‡ いや、むしろケータイでは何も書かないだろう。そして、それが読者にとって一番ラクだろう。
先日 Amazon の kindle がアメリカで爆発的な人気の一方で、日本ではソニーと松下が電子書籍端末事業から撤退することについて雑感を書いたが(参照)。電子書籍端末(ebookリーダ)の普及は私たちの生活に大きな影響を与えるものだと考えている。ここではその期待をリストアップしてみた。
ところで、こう言っては何だが、書籍の電子化にはそれといった期待をしていない。勿論、辞書が電子化したことによるメリットがあったように、書籍の電子化はメリットをもたらすだろう。しかし、これはただ単に書籍にデジタル化したメリットであるに過ぎない。この考えでは何も新しさは誕生しない。
と、こう考えていると、単純にノートパソコンが高性能化すればいいだけという気もしてきた。どうなんでしょう?
まあ、こんなことばかり書いていても仕方ないのですが……。思い付いたので書いてしまいました。誰かの役に立てばありがたいです。情報と向きあうときに気をつけること は本当に自分に向けての注意です。
3時間でレポートを作成する方法 では以下の手順を推奨した。
ただし、文献が決まっていない場合は更に時間がかかるとも注記した。これらもあわせて、プロセスを書くと以下のようになると思う。
プロセスの混同は効率的ではない。だからプロセスに意識的であることが重要だ (この点については 「整理」のための6つのルール の 6 節を参照。整理や学習も似たようなプロセスになっているのだと思う)。
また、執筆については コンピュータ上での執筆時に、気が散って書けなくなるのを防ぐために を参照。問題設定がまだの場合には、性格が違うが 問題解決の技術 が役に立つかもしれない。
上のリストを眺めると、「収集」と「選別」は信頼できる他人に任せられることに気づく。これは、ある意味では事務的な作業だからだ。また、執筆そのものでさえ、他の人に任せるなり共同作業にすることができる。勿論すべてを自分で行うのが本来だが。
つまり、純粋に自分しかできないことは「理解」「記憶」「閃く」「原型作り」の 4 つだけである。故にこの出来が全体の結果を決めるといってもよいと思う。
しかし、このプロセスは蔑ろにされがちであると思う。情報を収集をしたと思えば、それらをざーっと眺めつつ、即座に執筆に入ってしまうことが私は多かった。
その重要な 4 つのプロセスを効果的にするにはどうしたらよいか。
上に書いたようにプロセスに意識的になり、他のプロセスと混同しないことが大切なのだろうか。
実はそうではないと思う。一般に、表現することが記憶を補強し、記憶することが理解を補強すると私は考える (ノート法について書いたときにも、暗記よりも想起に注目すべきと書いた)。他の段階では、区別が重要だと思うが、この 4 つについては常に一つ先のプロセスを行いつつ循環するのがよさそうだ(ただし、閃きはプロセスという気がしないので記憶の段階に含めておく)。つまり、理解するときには記憶するように努めてゆき、記憶や閃きを待つときにはアウトラインやプロトタイプをイメージしながら行うということだ。
これは文書を書く必要がないような学習をする際にも有効だ。つまり、学習の際にも敢えて論文や自分が授業を行うなどの何等かのアウトプットをイメージをして学習すると効果的かもしれない。これは資格のためだけではなく、特定の分野のスキルや知識を付けたい場合にも有効だと思う。繰り返しになるが、理解するために記憶しつつ、記憶するために架空の論文や授業のアウトラインを作成してゆくのだ。こうして理解と記憶、発想力がつくのではないかと思う。
先日のポスト でタグについて少しだけ調べたけど、いまいち釈然としなかったので、もう少し調べてみた。タグ活用のヒントになるかも。
タグについて調べてみると、タグにはどうも7種類ほどあるらしい。
(Polar Bear Blog より)
- アイテムが何に関するものか (ex. cat, Microsoft, Steve Jobs)
- アイテム自身が何であるか (ex. article, book, blog)
- アイテムの品質や性質を示したもの (ex. funny, stupid, これはひどい)
- タスク管理 (ex. toread, jobsearch, あとで読む)
- アイテムを誰が持っているか
- カテゴリーの精緻化(単体では使われないタグ)
- セルフリファレンス(myで始まるタグ) (ex. mystuff, mycomment)
これの上から5番目までを順番を入れかえて、便宜的に以下のように書くとする。
これは文になる。
例えば:
こうして文を書けるのだとすると、この構文で twitter なんかから自動でブクマにポストできたり、あるいは、ブクマを検索するときに、そうしたタグ種類に意識的なものがあると便利だと思う。そうすると「任天堂の」ものなのか、「任天堂に関する」ものなのかが区別されて、いくらかは便利かもしれない。というか、その程度の機能は既にあるのかな?
更に、時間や状況を指示する構文も準備すると更に便利な気がする。「来週に」とか「旅行の時に」とか「買い物の際に」というような指示を行う。例としては
他にも、その情報源を示す構文もいいかも。こうした情報がしっかりと紐づけできて、シンプルに運用できるととよさそう。
タグにタグ付けできない現状では、現状のタグに以下のような拡張をすると良いのではと思う。こうすることで、利用者にとっても便利だし、かつ、タクソノミーとかフォークソノミーとかオントロジーとかよく分からないけど、そういったコンテンツの客観性のある分類を集合知的に行うという活動にも支障がなくてよいと思う (だからトピックのタグには接頭辞はつけない)。
はりきって記号の接頭辞を考えたけど、まあ、別に「人:矢野哲也」とかでも良いのかもしれない。それに、記号ってのは拒否される可能性あるし……(でも全角で入れればきっと通ると思う)。
ともかく、こうしたタグに分類をしておいて、バシバシ「@旅行」「@鈴木と会った時」「@週末」「@買い物」「@プログラミング」「@いつか」という状況タグやら、[!読む」「!試す」「!ブログに書く」「!購入検討」「!借りる」というアクション・タグを打てばよいと思う。
いくらでも複雑化はできるので、こういう夢想をするのはバカらしいのでこの辺にしておきます。
でも、これを読んでタグについての考察が深まれば有り難いです。また、こうしたタグの分類や活用に関してアイディアがあれば紹介して頂けると嬉しいです。