2007-08-31

悪夢から逃れるための明晰夢

私はよく悪夢を見た。悪夢の量と質ならかなり負けない。いや、こんなこと書いてると悩みについての戯言と同じになってしまうか。ただ、本題に入る前に、一つだけ書かせて欲しい。笑って頂ければ幸いである。

それは大学2年の夏だった。夢の中で、悪夢を見るという悪夢だった。

夢の中で、まず、私が美人の女性に心臓をえぐられて死ぬ。「あ、死ぬ……」と思っていると、目が覚めて部屋のベッドに居る自分に気がつく。すると、トビラをノックする音が聴こえる。「あれ?」と思ってトビラを開けると、さっきの女性が立っている。そして、部屋に入って来て私の心臓を微笑みながらえぐるのである。また、「ああ、死ぬ……」と思うと、目が覚めて部屋のベッドで寝ていた自分に気がつくのである。そして、また、トビラがノックされ……。

恐くてトビラを開けないと、電話が鳴るのである。出るとその女か、私の親しい人間の声が聴こえる。そして、私がトビラを開けないせいで、その親しい人が殺されると言うのである。それでもトビラを開けないと、トビラの向こうで断末魔の叫びやうめき、罵倒の声、それに私への失望や憎しみ、怒りのこもった拳が、最後の力が尽きるまでトビラを叩き続ける音がするのである。何人かの死に耐えたとしても、私は最後にはトビラを開けざるを得なかった。

目が覚めても、目が覚めても、それは「現実」ではなく悪夢の世界の目覚めなのである。こうした連鎖を数回した後、だいたい午前4時頃に目が覚めるのである。ただ、起きても「これも夢ではないのか?」と気が気でない。恐ろしくて、トビラを開けるのにも勇気が必要であった。もう、寝るどころではない。かといって何もできない。体力も精神力も消耗し尽くして、白々と明けてくる空をぼんやりと眺めるしかなかった。

二、三日続く内に、私はこの悪夢の対処に真剣にならざるを得なかった。掃除や食事、寝る時間にも気をつけたし、匂いの商品も買ってみるなどをした。

こうした努力が実らない中で、「これは、夢なのか? 現実なのか?」と問うことが日常化していった。

そうしたある日、夢の中で「これは夢なのか? 現実なのか?」と考えたのである。すると即座に「ああ、夢だ」と分かったのである。不思議なことに、ほっぺたをつねらなくても現実が現実であるのが分かるように、夢は夢だと分かるのである。いわゆる明晰夢である。

明晰夢となった瞬間に、私はこの無限循環する悪夢から抜け出せた。夢が夢だと分かれば恐くはないのである。その瞬間から、何と言うか、思うだけで入力ができるて自由に制御できるコンピュータから生成される映像を見ているような気分になるのである。もう、悪夢ではなくなる。思うがままである。悪夢と鬪うには明晰夢にすることが有効である。

その方法は、日々、自然に「これは現実だろうか? 夢だろうか?」と問い続けていることである。恐らくは頭のネジが外れていない限り、あなたはしっかりと「現実だ」と判断できるだろう。これが揺らいだらヤバいと思う。そうした問う習慣さえ出来れば、夢の中でも自然に問いが起こり、自然に「夢だ」と判断できるだろう。

ところで、こうした明晰夢を見ることで副作用がある。皆がなるのか分からないが、白昼夢を見やすくなると思う。いや、元々、私は白昼夢を見る方だった。ただ、その白昼夢が自然に浮かんで来るのである。そして、その白昼夢が現実認識と同時進行で起こるのである。つまり、現実で生きていながら、頭の中では夢を見ているのが、微妙に重なっている状態なのである。誰しもボンヤリとしている時に、ふと頭の中に思い出の場所や人物などが思い浮かぶことがあると思う。そうした想起が、より強固に、普通に現実生活をしながら並列プロセスとして起動するのである。現実生活しながら、妄想いっぱい夢いっぱいである。まあ、かなり現実感は薄くなる、というか、「自分」とかそういうものへのリアリティーが薄くなる。

私はよく、歩いているとぼんやりとして、人に話し掛けられるとはっとする。そうした時、私は歩いていながら、夢の世界にふっとんでいるのである。

まあ、この副作用には今のところ害はないと思っている。そんなこんなで今年で27になる。

なんだか、俺、ヤバそうだな……。

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2007-08-30

[本] 夢をかなえる洗脳力 / 苫米地英人

以前にも触れた苫米地さん。気になったのでもう一冊読んでみた。なかなかに興味深かったので、ちょっとメモする。

抽象度を上げて考える

具体的でなくす。特に「私」という殻は抽象度低し。ただしリアルに。無限大の幸せや夢、快楽。最高の抽象は「空」 - 「何でもないものであり、かつすべてを包括するもの」。ただ、これは到達不可能か。そのためには「止観」(「私」などを止めて抽象的に観る)。

パラレル思考
レストランでメニューをパっと見て一瞬で食べたいものを決め、選んだ理由を5つ思い浮かべ、次の一秒で、その理由のそれぞれにつき5つの反論を思い浮かべ、次の一秒で、そのそれぞれの反論への反論を思い浮かべる。計4秒にて125個の「食べたい理由」。
共感覚

他の知覚に色、音、味などを対してマッピングする。記憶を総合、融合する。抽象概念であってもマッピングして身体的にリアルに感じられるようにする。美術館に行って、それぞれの絵画の「音」を聴く、食べ物の色や触感を思い浮かべる、など。

過去とは現在の解釈に過ぎない

選択によって、自動的に未来が一つに決まることはありえない。一つ一つの出来事は「縁」であり、「起」のためには他の「縁」が必要。現在が過去を解釈することで過去は過去として存在する。この意味で現在が「因」で過去が「果」とのこと。思うに「原因/条件→結果/帰結」という因果関係や実在根拠の関係ではなく、「推論→結論」という論理関係や認識根拠の関係か。

「『悟りに向かっている人』とは、じつは悟っているのと同じ」。

未来において夢を叶える人にとっては、現在はどんな状況であろうと不幸なことではない。だから、夢をかなえる人というのは、現状が最高だと思っている人で、過去の解釈も良いものにし続ける人である。確かに「いまが苦しくたって、未来のために歩んでいるから」という人は強そうである。

モノとカタガキは本当の夢じゃない

カネでかなえられるのは夢じゃない。そんなのちっぽけ。他人からみるといかにみっともない。紙に書かなきゃ忘れるような夢も本当の夢じゃない。

ステップ・バイ・ステップでは夢はかなわない

本当に目標とする「らしさ」を獲得しなければならない。「夢」が書き変わってるなら、本当の自分の夢ではない。

なんともあやしい所も多いが(特に心理学などの知識を利用した対人的な心理操作のテクニックなど)、夢と欲望の話、時間の話など大部分はとても参考になった。他の著作も読んでみようと思う。

少し、こうした共感覚やパラレル思考、「止観」などの訓練もしてみようかと思う。

ref

2007-08-29

私の哲学のきっかけのようなもの

たぶん、哲学を好きになる人というのは切っ掛けがあると思う。ある友人は、芸術というものを現象学で考えたいという切っ掛けがあった。ある友人は、そこに手を入れると三次元の切れ目となる場所を見付けたいという切っ掛けがあった。いや、そもそも、そういう空想に浸る傾向があったといういうべきか。

私の場合の切っ掛けは二つあると思う。一つは音楽の問題。もう一つは今回おはなしする、高校時代からの空想だ。

それは中学校三年生の秋口のことだ。私は連続ものの夢をみた。悪魔から友人とともに逃げ、毎晩毎晩、友人が失われてゆくという夢だった。こういう夢が一カ月続いた。

そして、最後一人になった私は、悪魔から逃れるため、砂漠にポツンと立つビルの屋上から飛び降りるたのだった。飛び降りるシーンだけの夢を三日くらい見た後、ビルから落ちる夢を連続で三週間ほど見続けることになった。

こうした落る夢を見続けることで、私は「砂漠に立つビル」という世界が、実体のように感じられるようになった。いや、無いのは知っているのだが、実感としては行ったことがある空間という感覚になってしまった。どうにも、奇妙な感覚であり、心にいつまでもシコリとなっていた。

高校に入り、雑多に乱読をしているうちに、こうした感覚はいくつかのまとまった思考になった。いくらか矛盾もあり雑駁だがしたためておく。

まず、高校時代の私は、時間と空間を無限と考えていた。それ故、いま起きたことは、いつか必ず、将来にもまた起きるだろうし、いま起きていることは、過去にも何度も起きていたと考える習慣がついていた。勿論、ニーチェの永劫回帰の影響である。

こうした考えを更に敷衍すると、永劫回帰するのは、何も「いまの出来事」に限る必要はなくなる。そんなケチなこと言わないで、ありえるだろう「いかなる事象」も過去にあったし未来にもあるだろうということになる。全く無限の時間と空間の中では、有限な物質が自由に振る舞う中で可能な「いかなる事象」でも起きるのである。

こうした思弁は私をどういう訳か興奮させた。「では、私の夢も過去にあったかもしれないし、これから起きるかもしれない」という訳である。

ここで、問題が当然のように生じる。まず、組み合わせとして起きる可能性は限られているのであり、起こる事象も限りがある。ただ、私は夢での出来事が「可能な事象」に思われた。もちろん根拠はない。

次に、そうした「出来事」が起きたとして、それが私に何の影響があるのか、ということである。つまり、私が夢の中で「経験」した「砂漠に立つのビル」が本当に「あった」なり「あるだろう」として、それが、他ならない私に何の影響があるのか、ということである。実はこれは自分が永劫回帰するとしても、その「あった」なり「あるだろう」全く同じ「私」の出来事が、他ならない今まさにこと時に何の影響があるのか、という問題とも関連する。

ここで空想は更に広がる。将来または過去において、全く私が夢で「経験」し「体感」したような出来事が起きるとして、更に、その「私」が夢の中で感じたり考えたりするのと同じような行為をして、全く同じ記憶なりを持っていたとする。つまり、完全に、夢の中の私が、実際のプロセスとして起きたという場合を考える。それが果たして、他ならぬ今ここで表れている「私」にとって意味があるのか。

こうした疑問がそもそもの前置きとなり、ここから急激に私の思弁は変化する。こうした疑問は「そもそも『ある』とは何だろう? 『ある』と『認識』することとは何だろう? そして、何かが『ある』ということと、今まさにここに『ある』『私』とはどういうことなのだろう?」という具合につながっていったのである。こうした問題が、それほど整理されないで、雑駁に矛盾しながら襲って来たという感覚だった。

高校一年の時の日記の記述によれば、私はこの「悪夢」の他に「夜道を歩いている時に電柱が一瞬人に見えてしまうこと」や「どこか遠い宇宙に『ある』もの」を考えていたことが分かる。「他ならぬ私にとって、一瞬電柱が人に見えたとして、人に見えた瞬間に死んでしまったらどうなるのだろう? あるいは人だと思ったまま、道を曲がってしまったら、私にとっては、それは人になっていることになる」「遠い宇宙に、なにかが『ある』としても、私が知る可能性がなかったとしたら、私にとっては『ある』とは言えないのではないか? 私にとっては『あってもなくても同じ』ことだ」

こうして、「世界が過去や将来に回帰したとしても他ならぬ今ここの私にとっては関係がない」ことから、「存在とは認識によって成立する」ことを考えた私は、そのまま「真理」とは「整合性」として考えてゆき、整合性とは制御や予測などによる「有益さ」に基づくという考えに落ち着く。つまらない結論であるが。

ここから、仮に「実体験」のように「あるはずのない経験」をしたとしても、そこに有益性に基づいた整合性がないのだとしたら「それは存在したのではない」と導くことになった。存在は直接に与えられず、現象の認識があるのみからである。まあ、大袈裟な話だったが、当たり前のことを確認しただけである。つまり、夢は夢、現実は現実なのである。「時間や空間の無限/有限」問題や「どこかにいるもう一人の私」問題を考える愚かさを学んだともいえる。

そして「真実の存在」「実在」という問題は消去された。それは端的に知りえない。のみならず、それを知るときには、今まさにここで生きている私には、いかなる意味でも「関係がない」。知りえないのみならず、意味が成立しないのである。

ただ、それでも問題は残り続けた。「夜道の電柱」問題である。あるいは「夜道の幽霊」問題と言ってもよい。私は元来、幻覚を見やすい。UFOだって、軍服を来た幽霊だって、人魂だって一通りは「見て」いる。霊的な場所に行けば当然のように他の人には聴こえない「音」が聴こえるし、体を切られたりもする。

この場合は、実体験のようにないはずの経験をして、実際に切れてしまったという場合である。この場合、夢のように整合性がないのではない。「あった」と言った方がスッキリするのである。

ここで、私は、「それ」は存在はしていないが(いや、実在なんて分からないからか)、私にとっての現象としては「あった」という処理になった。つまり、他の事物の存在を言う時のように存在しているとは決して言わず、ただ「見えた」という「認識」だけがあったと考えることにしたのである。そして、「霊」や「神」、「悪魔」が「存在する」とは決して言わず、そうしたのを「感じてしまう仕組み」が私の認識システムには組込まれていると考えるようになった。

この考えは、「『ある』」は問題ではなく、「認識する」というプロセスが重要なのだという流れになる。万物は存在せず、「存在する」という認識というプロセスが起きているのみなのである。ただ、そうしたプロセスの連関の中で、諸要素そのものは「存在しない」のである。

いや、ここまで書いておいてあれだけど、これは最近の考えに影響されすぎてる。高校の時はもっと、違ったことを考えていた気がする。ただ、最終的にこのプロセスのネットワークという考えは、19の頃のトポス(場)へと繋がってゆくのだろうが。

まあ、いいや。そんなこんなで。

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2007-08-24

ネガコメに苦しみつつ書く人は、みな私の仲間です

ネットをふらついていたら、偶然、こんな文章にぶつかった。たぶん、こういう目にあっている人が腐るほどいるんだろうな、と思う。

私も以前は、コメントやメールも貰ったし、掲示板で晒されたりもして、いろいろな意味で打撃を受けた。いかなる意味でも、書き手の思うようには、読み手は読まないものだな、とかいろいろ思った。というか、誤読の往復があるのみじゃんとか。いやね、こんな私も真面目に書いている時期もあったんですよ。なんというか、「未来」を信じてみたいにね。

まあ、私の独白は今回はいいか。

私は、この人を知らないし、他の文書もまともに読んでいないし、そもそも誤読してるだけなのだろうが、それでも、私は「私は、あなたの味方です」とはっきり言いたい。まあ、こんなトコをこの人が見つける可能性はゼロだろうが。

文章を実際にインターネットで書き始めてから、私は文章をおおやけにすることのリスクについて思い知ることになる。Mixiでは気心の知れた人間に向かって文章を発表しているので、それほど辛辣な言葉はやってこない。

私はmixiに書いているものを、ブログにも転載している。
そこには匿名のコメントが自由に書ける。
読んで凍り付いて、一日寝込むような、死にたくなるようなコメントを今までいくつもらったか分からない。
たちなおるまでたいてい一週間は要した。
それほど読者の多くない私のブログでもこのようなことがおこる。
ベストセラー作家などはどのような苦労をしているのかと眩暈がした。
須賀さんの文章を注意深く思い返してみる。
そういえば、他人のことについてはあれだけ深い洞察にみちているのに、自分についての独白めいたことが一切ないように思えてくる。
他人の目を意識して、ちゃんとおおやけのものを書くということ。
自分の言葉に責任を持つこと。
いつ?誰と?どこで?何を? 2007-04-22

なんというか、せつない。僕はあなたの見方ですと、それだけ書いておく。

2007-08-23

自我に関する雑感(1)

自我とは、他者との交流の各場面場面において、他者からの欲望という形で強要された諸々の「人格」の思考の中にのみ存在する結節点であると、現在の私は考えている。

我々は振る舞う。どこで? それは他者との交流の場においてである。その場において、登場人物は意識的にしろ、無意識的にしろ、相互の欲望を察知しつつ、各々の「役割」を振る舞う。その振舞いが固定化し、持続的に振る舞われる時に、「人格」「人柄」として自他共に認知する。その、様々な場における様々な人柄の、仮想的な結節点が自我と呼ばれる仮想である。

自我に本質は存在しない。自我とは振舞というプロセスの結節点に過ぎない。言わば、流れる川の泡である。泡の振舞いを規定するのは、流れる他の水である。泡の本質、つまり泡の振舞を決定する要因は泡の内部には存在しない。流れる他の水に、泡の振舞を決定する要因があるのである。流れる川の泡の本質が存在せず、その振舞が外部に決定されているのと同じように、我々もまた内部には本質を持たず、ただ外部の決定の内にのみ振舞の源泉がありえる。

それでいながら、泡と我々とは異なる。それは私も認める。我々は主体性を持つ。この主体性において生命の本質があるとも言える。

主体性とは、自己の環境を知ることである。環境を知ることで振舞を変えることである。もし、何かを「知った」のだとしても、振舞に何らの変化もなかった場合には、それは「知った」ことにはならない。それは「情報」ではない。

我々は「環境」を「知り」、「振舞」を変化させる。そして、その振舞の変化において、我々は内部に独自の計算不可能性を持ち続ける。これが主体性である。

では、何故、私たちは「知る」ことで振舞を変えるのであろうか? いや、知ることとは、そもそも何なのだろうか。

このことは「想起」の問題につながる。

ここで、記憶であれ、閃きであれ、気づきであれ、我々の内部から湧いてくるそれらを「想起」と呼ぶことにする。想起によって、我々は目の前の状況からの直接の経験以外の情報を獲得できる。そのうちのあるものは言語的であるし、あるものは非言語的である。

直接に与えられた五感の情報以外の、恐らくは「記憶」と呼ばれる機能に多くを負っているであろう、この想起こそが、主体性を理解する鍵であると私は考えている。

ここで、「知る」こととは、「その場」以外でも、「その場」を想起できることである、と私は考えている。想起において、我々は経験を反復し、行動を変化させるのである。もし、いかなる意味でも想起がなかったとしたら、記憶することや、経験することは、私たちの行動を微塵も変化させないであろう。いや、そもそも「想起が可能」であることを記憶といい、学習といい、経験と呼ぶのである。

そして、興味深いことに、我々は「想起」をコントロールできない。天のインスピレーションが芸術を生むかと思えば、固定観念が人を精神病にするのである。この、想起の問題において、私は主体性が辛うじて存在しえるのではないかと考えている。

なぜ想起できない想起において主体性が保持されると考えるかというと、まず、第一に我々には完全に制御可能なものは何も与えられていないことがある。「したいまま」に暮らすのが自由かというと、それは単に肉体という他者の奴隷になっているのみである場合が多いと思う。その場合、主体性は存在しない。

主体性が「知る」ことに存するのは、この意味においてである。「知る」とは、あることを「想起」することで、「振舞」を変化させることである。そして、この想起の仕組みは我々の理解の外にあり、我々がしかるべき時に、何を想起するのかを我々は決定できない。しかしながら、我々はそうした想起を、完全とは呼べないまでも制御することができる。つまり、常に念じるという行為によって、我々は他の想起を遮断しつつ、特定の想起を存在させることが可能と想われる。

事実、多くの場合、我々は持続的な想起の中で暮らしている。

2007-08-21

変化に適応するための3つの能力

もっとも強い者が生き残ったわけではない。
もっとも賢い者が生き残ったわけでもない。
もっとも変化に対応できる者が生き残ったのだ。
チャールズ・ダーウィン

というわけで変化に適応するための能力について考えてみた。

***

変化を乗り越えてきた人類

生物は常に変化し続ける世界を生きてきた。ある者は変化に適応できなずに滅び、ある者は変化を利用して栄えただろう。

それでは、繁栄した人類は適応の苦しみからは脱却したのだろうか? 残念ながら、人類がこれほどに排他的に覇権を握っているにも関わらず、変化の中で適応しなければならないのは、現代の我々でも同じことである。

確かに我々には「寒さ」や「外敵」といった初歩的な適応能力が問われることはほとんどない。それでも、我々は騒音、大気汚染、食物汚染、日光不足、運動不足といった生物的ストレスに適応しつつ、対人関係、金銭管理に関する社会的ストレスにも適応しなければならない。これらは直接にアレルギーや精神病、成人病の原因である。

専門性を高めるだけでは変化に対応できない

更に高度に情報化した時代では、特権的な技能や知識は即座に流出し陳腐化する。故に、職能を差別化し、特権を維持するためには、常に新しい技能や知識を開発し習得し続けなければならない。競争は熾烈である。

もちろん、職能の差別化や特権を求めないという生き方もあるだろう。実は個人的には、国際能力主義は嫌いであり、田舎で無為に「どうにか/なんとか」暮らしたいとも思っている。また、情報化の果てにはそうした職能の差別化を図るのが無意味となる時代が来るのではないかとも思っているし、既に「能力」という考えそのものが無効に近づいているとすら感じている。

しかし、今、既に日本にある何かを維持しようと考え、更に「情報化による特権的職能者の消滅」という妄想を否定したときには、差別化された職能による特権を求める必要がある。これが「専門性」を高めるという教育の根拠になる考えと思う。

さて、ここで考えたいのだが、専門性を高めることは変化の時代での適応力を増すことになるかどうかである。確かに「強く」「賢い」人材にはなるかもしれない。しかし、適応できる人間とは無縁である。もちろん、「いい人材」であること自体が適応であるし、専門性を高める中での経験が変化に強くする側面があるとも思う。

変化に強い3つの条件

ここで根本的に考えてみたい。変化に強い人間とは何か? 今の私には3つのことが思い浮かぶ。

一つの重要な要素に学ぶのが早いことがあげられると思う。新規状況でも必要な技能と知識を習得できる人間は変化に適応できるだろう。

次にアイディアが湧くことだろう。経験したこともない試練の前にしたときには、誰も何も教えてはくれないし、自身の知識や経験も役に立たないだろう。そんなときには、自身の「閃き」以外には何も助けてはくれないのである。

最後には管理力があることだろう。あるいは一般的に言う「実行力」と言ってもよい。つまりは、構想を具体的なものに仕上げてゆく能力である。あるいは「調整力」でもよい。スケジュールを調整したり、人間関係での便宜を図る能力と言ってよいと思う。時間やカネ、人という資源のコントロール能力である。

こう書いて気づいたが、基本的に私の考えの構図は

「技能/知識」 + 「アイディア」 + 「資源 (時間+カネ+人)」
が何かをするには必要なので、それぞれを獲得する能力である
「学習能力」 + 「発想力」 + 「管理力」
を磨けばよい、という風にまとめられると思う。

重要なのは、「技能/知識」や「アイディア」を持っていることそのものが重要ではないということである(もちろん、あるにはあった方がよい)。それだけでは変化に適応できない。問題は、それらを扱うための、更にメタな能力が必要であるということである。

メタの能力をつける教育を

思うに教育とは、こうしたメタな能力を開発するためにするべきではないかと思う。人生で直面する問題は多岐に渡り、その全ての問題に対する解答を勉強する時間はない(そもそも、解答が準備できない問題がほとんどである)。だからこそ、答を記憶させるような教育をするのではなく、問題と答そのものを生み出す能力をつける教育が必要なのである。

「いい答案を書く能力」のために塾に行くのでは、自分で新しく知識を付ける方法というメタな能力を習得できなくなってしまう。これでは受験に「過剰適応」するばかりであり、他の環境での適応が難しくなる。むしろ、劣悪な状況で自分で工夫をして勉強すれば、「どうやれば、習得できるのか」という能力が開発される。そうしたメタな能力が、「次の学習」で役に立つのである。

同様に教育の現場でアイディアを生んだり管理する能力を鍛えるとよいと思う。子供はクリエイティヴである。状況さえあれば、かなりの数のアイディアが次々と浮かぶ。そうしたアイディアを日記のようにメモしておくことで、年齢と共にくる発想力の衰えをやわらげられるのではないかと思う。また、イメージ・ストリーミング(思い浮かんだことを次々話す)や自動筆記(思い浮かんだことを次々書く)で想像力を保てるだろうし、各種瞑想も発想力を鍛えるのに有益と思う。

そして、子供の時から金銭、時間、人間関係の管理能力をつけるのもよいと思う。予定帳と日記で時間を管理し、おこづかい帳でお金を管理する習慣を持てば、かなり有益になると思う。早い時期から「内輪でない」コミュニケーションの仕方、つまり面接や、人前で話したり発表することを練習しておけば、様々な局面で役に立つと思う。

これは何も子供の教育に限らない。むしろ大人こそ、こうした能力が必要なのである。新しいことを学ぶこともできず、アイディアも湧かないのであれば、状況に適応はできない。時間やカネにルーズであれば、成功することは言うまでもなく難しいし(私はヘタである)、「内輪でない」人とのコミュニケーションができなければ、職を得ることすらできない。

変化の時代だからこそ、目先・小手先の努力はさておき、意識的にメタな能力、底力にコストを割く必要があるだろう。能力の性質上、急激な向上は望めないかもしれない。しかし、持続的な努力はいつか実を結ぶだろうし、その実は死ぬまで輝くことと思う。それに比べ、小手先の実の賞味期限は極めて短かい。

キーワードは3つである。学習力、発想力、管理調整力。ただ、これを鍛えるためにも具体的なチャレンジが必要である。様々な分野に果敢に挑戦することが必要となるだろう。安定した環境では、これらの能力は鍛えられない。

***

変化は避けることができない。ならば、自らが変化すればよい。自らが変化する者は変化に苦しまないのである。果敢に変化に挑戦してゆき、変化を受け入れて生きてゆきたいものだ。

2007-08-20

ストレスと欲望

私は心の専門家でも何でもないのですが、欲望とストレスには大きな関係があると考えています。少し雑感をメモしておきます。

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私はストレスとは欲望を遂行する過程で生じる緊張状態であると考えています。なぜなら、欲望が無ければストレスが生じていないように観察できるからです。例えば、良く見せようという欲望が無ければ対人関係のストレスは無いでしょうし、成功したいと思わなければ仕事のストレスも無い筈です。

この緊張は良い側面も悪い側面も両方あるように思えます。良い側面としては、ストレスは欲望遂行の為のエネルギーとして必要とされるということがあげられます。悪い側面としては、その緊張は心身に悪影響を残しますし、何よりも過度なストレスの下では本来の力を発揮できないという点をあげられます。

こうした考えの下、ストレスとは、良くも悪くも欲望が生じた際に生まれる緊張なのだと私は考えています。欲望のないところにストレスはありません。欲望のあるところストレスが生じると考えています。

更にストレスと欲望について考えると、ストレスは欲望を煽るように思えます。対人関係でストレスがあるからこそ、良く見せようというストレスを強く感じる訳であり、現状の仕事のストレスがあるからこそ成功したいと更に欲望するのです。ストレスが欲望を煽るからこそ、人は調子の悪い時に限って大きな賭けに出てしまい、大きく敗れるものです。

一度欲望かストレスが湧くと、それが相互に煽り合います。これは失敗の連鎖を生む悪循環に陥ることもありますし、逆に、成功の後にもすぐに次の欲望が湧き続けるという成功の連鎖ということにもなるのでしょう。

***

ところで欲望が達成されたらストレスが解消されるかというとそうではありません。そもそも欲望とは自己矛盾的なものです。欲望は何かを欲望しつつ、その何かが達成される瞬間には、その欲望は消えてしまっているのです。私達は「手に入らない」から欲望するのであり、容易に手に入るものを欲望することはできないのです。

例えばほとんどの男性は、女性を口説いた後に、ある種の落胆を感じた事があると思いますが、これは欲望の達成よりも前に、それが確実になった瞬間に欲望が消滅してしまうことが原因であると考えています。その意味で、私たちの欲望は一度として満足に達成されることはないのです。

ある女性に話したいと思う欲望は、話せた瞬間に消え、触りたいという欲望に変わります。触りたいという欲望は、それが成功した瞬間には更なる欲望に変わってゆきます。欲望に目途はありません。人は、いくら人を抱き締めても、相手への欲望を充足させることはできないのです。

欲望は常に充足されず、先送りされます。元々の欲望の達成の瞬間には、当の欲望は消失しているのです。だから、原理的に味わえぬ欲望の達成を求めて、人は欲望に突き動かされ続けることもあります。これは「中毒」や「執着」と呼ばれる状況です。

***

執着となった欲望追求はとても苦しいものです。通常思われるのとは違い、中毒者は「楽しく」欲望追求するのではなく、「苦しみながら」欲望を追求するものです。アル中もパチンコ中毒も、ニコチン中毒も、苦しみながら追求するのです。決して楽しく酒を呑むアル中や楽しくパチンコを打つパチンコ中毒、楽しくタバコを吸うニコチン中毒はいません。原理的に欲望は達成されないのですから、苦しくて当然なのです。そして、その苦しみ、そのストレスが、更に強く「原理的に味わえぬ欲望の達成」を求めさせてしまうのです。

同様に、名誉欲、金銭欲、知識欲、逃避願望などは原理的に充足されません。その欲望が達成される瞬間に、その欲望は消え、虚しさが立ち現れ、即座により強い欲望が現れるのです。欲望に支配された人間は、いかなる成功が続いたとしても、苦しいものです。これは単純な故に激しい悪循環に陥ります。

ただし、ここで注意して欲しいのは「成功する」ことも、あるということです。ただ、もし成功したとしても、その欲望は充足されず、消えると共に次の欲望を生んでゆき、更にストレスを与えるのだということです。苦しい人が上手くいくことは少ないとは思いますが、分野によっては無いとは言い切れません。

例えば、美への執着が完全な悪循環に陥ったある種の芸術家は、いかに成功し続けようとも苦しみから脱することはできません。人からの評価を受けることになったとしても、自分の美への欲望が循環を起こしているので苦しみだけを連鎖させます。

これは作品の着想が思い付いた瞬間が一番しあわせで、その完成間際になると苦しみだけとなり、完成したら作品が既に他人のものとして感じるという芸術家が多いことからも理解できるのではないでしょうか。完成間際には欲望は既に乗り換えているのです。そうした芸術家は死ぬまで「何か」を欲望し続け、ひたすら苦しみながら死んでゆくのでしょう。

彼らは「あれを作りたい」と欲望しますが、完成するときには、その当の欲望は消え去ってしまい、決して作品の成功による満足を感じられないのです。

ただし生前に「成功」した芸術家はまだ話になりますが、人からも評価されないで死ぬ芸術家も多いので、非常に悲惨です。この件については話題はいくらでもあります。ただ、そのどちらも、自らの巨大な欲望が苦しみとして連鎖している点では変わりないので、生前に認められようが、認められなかろうが、その苦しみにおいては大差ないのかもしれません。

苦しむ、苦しむと書いてきましたが、そもそも、私は楽しそうな顔をしている芸術家は芸術家ではないと思います。かなえられないものを追うしかなかった苦しみの人生を生きる必要が、稀に与えられるのでしょう。

誰が偉いわけでもありません。様々な運命が人それぞれにあるのでしょう。アル中や芸術家を「苦しい苦しい」と書きましたが、そうした苦しみがあるからと言って、その人を貶めることは私はしません。彼らが、そうした運命、苦しみを担って生き抜いているとしたら、それはそれで素晴しいことと思えます。

***

何を書いてるのだが、分からなくなりました。また書きます。

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永遠の他者としての「私」の欲望

最近、とみに感じることがある。自分とは他者なのではないか、ということである。

「自分」が他者とは矛盾も甚だしく思うかもしれない。確かに矛盾かもしれぬ。ただし、自分が純粋な「観察者」であるとしたら、通常の「自分」とは観察対象に過ぎないとは考えられぬだろうか。観察する者が本来の自分であるのだとしたら、観察対象とは自分の外にあることになり、つまり、他者であることになりはしないだろうか。

例えば「お腹が空く」という状況があったとする。この「お腹が空いた自分」というのは、それが観察者によって気づかれた時に、観察対象になっている。ここで「分離」が起こるのである。また、足が痛い自分が観察された時にも同様に分離が起こる。「自分」の痛みではなくなるのである。

この分離に際して気づくのは、自分が何を思うのか予測も制御もできないということである。ふと痛くなり、気づいた時には痛さに埋没してしまうのである。分離して初めて埋没に気がつく。

***

自我に埋没している時、「気づく者」はいない。自我とは欲望である。欲望の去来を気づく者は予測も制御もできない。気づく者にとって、欲望たる自我は他者であり、予測や制御の外にある。ただ、分離によってのみ、欲望は消える。

欲望の担い手として仮想されたもの、欲望の結節点が自我である。ここで、欲望とは何かを入手しようとすることだけを意味するのではない。怒りも、何かを排除したいという欲望である。誠に、人間は欲しがるか怒るかの欲望に捕われ続けるのであり、その欲望の「主体」が自我という仮想である。つまり、自我とは欲望の結節点として仮想されたものに他ならないのである。

そして自我の欲望とは、気づく者の欲望ではない。欲望は我々に与えられる。気がついた時には、没入してしまうのが常である。それは外部からやって来ているのだが、気が付けない。

自分とは、他人との関係の中で定まる一つの「仮面」を持続的に呼んだものである。人との関連の結節点を持続的に名付けてものである。そうした他者の関係のなかで欲望が伝染される。他者の欲望に従うことで、自分は仮想される。

***

対象化できない、ある出現し続ける持続そのもの、つまり世界を世界たらしめる「連続した(?)」一瞬。

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2007-08-19

千葉で群発地震の活動が開始

最近、地震のため変な時間に起こされてしまう。なんだか異常なほどに地震が多い。少し調べてみた。結論から言えば、今回の千葉の地震は「群発地震」であり、直接に千葉での「大地震」につながるものではなさそうだ。

気持ち悪いのでググってみると、今回の一連の地震は「群発地震」ということらしい。

2007年8月13日より房総半島九十九里浜沖で群発地震活動が始まった。 この領域では6−7年周期で活発な群発地震活動がスロースリップイベント(SSE)と同期して発生してきたことが知られている。 2002年SSEに同期した群発地震活動は海域で始まり内陸に拡大した。 今回の活動は2002年の海域の活動域の北方で始まり陸域の活動域の北部でも地震が発生している.(NIED 独立行政法人防災科学技術研究所「2007年8月 九十九里浜沖の群発地震活動」)

なんだか分からないが、この書き方だと、6、7年の恒例の活動が恒例のように始まったというように読める。

そう言えば、少し前にも地震が連続して起きた時期があったようにも思う。その時にも「変だねえ」と言い合いながら、結局大きな地震は起きず、いつのまにか地震が起きなくなったように記憶している。

更に群発地震ググると、群発地震では、同規模の地震が起きるらしい。

とくにどれが本震という区別もなく,似たような大きさの地震が,ある期間に比較的せまい地域で集中的に発生する現象を,群発地震と呼びます.NIED 独立行政法人防災科学技術研究所「地震の予備知識 - 7.2 群発地震」

地震には「本震余震型」と「群発地震型」というのがあるらしい。

通常、大地震の後に発生する余震は、その数が時間とともに減衰する。一方、群発地震では活発な地震活動が一定期間継続する。(産業技術総合研究所「群発地震発生のメカニズムを解明」)

こうした文書から考えると、今回の千葉の地震は、直接に千葉での「大地震」につながるものではなさそうに思える。ただ、群発地震であっても大きな地震が来るのだとしたら被害も出るのかもしれない。結局はよく分からない。

やはり、水と食料くらいは準備して、部屋にある危ないものは取り外しておこうかな、と思う。

2007-08-14

仏陀の教える生きる目的、生き甲斐 - スマナサーラ本より

いつものようにスマナサーラ本 (参照) を読んでいるとこんな仏陀の教えにぶつかった。生きる目的、生きがいとは何かという問いに、ストレートに答えていると思う。

あなたが生きることが、他の人々の生きる支えになるように、助けになるように生きなさい。そのときはじめてあなたの生きていることがたいへん重要な意味を持つことになるのです。人の役に立つ人生を送ることができるとき、はじめて自分に、生きるという目的が生まれるのです。

「そうか」と妙に納得した。自分が生きていることが、人の生きる支えになるということが生きることの目標、生き甲斐であるなら、常にどんな人でも実際にできて、誰にとっても本当にありがたい生き甲斐になる。

以前にも、生きる目的、目標ってのをぼやいた時に (参照)

苦しむ人に、絶望した人に「私がいるよ」「生きろ」「死ぬな」こう言える人間に、なっているだろうか?
などと書いたが気持ちでは同じだ。ただ、私の文はあまりに恥ずかしいだけの不完全な代物だった(が、匿名ブログなのでこういう痛いアイタタタなのも消さない)。

苦しむ人、生き甲斐を見失った人、生きる意味が分からなくなった人には「その、あなたが生きることが、生きてくれることが、私の支えになる、私の心を助けてくれる。あなたが生きることに意味はあるのです」と語れるということか。まあ、語るとかそういう問題じゃないが。

人は人の生きる支えとなるように、生きてゆけばいいのか。そう心掛けて、しっかりと生きてゆこう。


関連ページ

[図書リスト] ヴィパッサナー(vipassana)瞑想 / テーラワーダ / スマナサーラ

2007-08-13

[書評] 仏教的生き方入門 / 長田幸康

前回に続いて本が好き!からの献本。

著者がチベットで様々な人に会い、そこで感じたことが描かれている。仏教の本というよりは、時系列でなくテーマ別に並べた紀行文のように読める。

一つ一つの項目は短かいので、どれもサラリと読める。それに、出てくる話も「がんばらず」「ゆるく、賢く、楽しく生きる」という話なので、疲れない。

日々の疲れた日常で、ふと息を抜きたい時にいいかもしれない。

また、チベット仏教の本はあまり読んでないが、こうしたチベットの人の本をさらりと読んだ上でチベット密教の瞑想や理論の本を読むと理解が深まるかもしれないが、どう考えても本書が主題にしているのは「普通のチベットの人の考えてること」であり、必ずしもチベットの仏教ではない。だから、チベット式の生き方なだけであり、仏教的な生き方かというと、まあチベット人は仏教と一体化しているのだから一致している点は多いのだし、いいかとも思うけど、ちょっと違う気もする。

チベットと言うと、政治の話をどうしてもしたくなると思うのだが、著者はそうした話をほとんどしていない。勿論、そうした言葉で憎しみをかきたてても仕方ないと言えば仕方ないのだが、それが不思議であった。もしかしたら、そうした恨まないというのも「がんばらずに暮らす知恵」なのだろうか。それとも、やっぱり出版社の意図か。

不思議に思ってググると著者のブログが見つかった。

眺めるとすぐに中国の武装警察が、チベット最古の僧院で仏像を破壊というエントリが目に入ってきたので安心した。まあ、まさか現地にあれだけ行っていて、社会派なことの一つ思いつかないはずわないと思ってはいたが。

最後に、本書には著者プロフィールの後に http://www.k-word.co.jp/ というアドレスが書いてあるのだが、韓国取材のコーディネートに強いらしいキーワードという出版企画会社が出てくる。これはどういう意味でしょうか。




仏教的生き方入門
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書評/宗教・哲学

関連ページ

チベット総合情報 - I Love Tibet - 著者のサイト
チベット式 - 著者のブログ

[書評] 世界がキューバ医療を手本にするわけ / 吉田太郎

本が好き!からの献本。

著者は長野県農業大学校にて農政業務に従事しているらしい。基本的には農業政策が専門であり、医療は畑違いとも述べている。都庁で働いていたが、ベストセラーになった『二〇〇万都市が有機野菜で自給できるわけ - 都市農業大国キューバ・リポート』を読んで感銘を受けた田中康夫長野県知事に直接スカウトされたらしい[3]。こちらの本に対するAmazonでのレビュアーの評価は極めて高いので、この本も読んでみたい。

著作は他に『一〇〇〇万人が反グローバリズムで自給・自立できるわけ - スローライフ大国キューバ・リポート』, 『有機農業が国を変えた—小さなキューバの大きな実験』、訳書にジュールス プレティ『百姓仕事で世界は変わる—持続可能な農業とコモンズ再生』などがあるとのこと。

キューバ医療の強み

本書に出てくるキューバの医療の「強み」は以下の通りとなるか。

  • 医療は無料 がん治療から心臓移植まで医療費はタダ。
  • 地域予防医療 - プライマリ・ケア、予防医療。ファミリードクター制度(医師一人あたり「顔が見える」範囲の120世帯程度を受け持つ)。
  • 代替医療導入 - 鍼灸、漢方、マッサージ。気功、ヨガ、自然食。
  • バイオなどのハイテク
  • IT化 - オープンソース利用のオープン・アクセスな医療情報ネットが全国の医師を繋ぐ。Linuxが全国をカバーした世界初の例とのこと[0]。

こうした強みを活かし、乳幼児死亡率は米国以下、平均寿命は先進国並みという結果を実現しているらしい。

度重なる経済難という事態の中、なぜキューバが世界に先駆けてそうした医療を実現できたかというと、ある意味で捨て身だったからこそ、徹底できたものと思える。

キューバが医療情報を世界に先駆けてIT化できたのは、紙がなく、当時は将来性も定かでなかったインターネットを利用する他に途がなかったからである。バイオや代替医療で成果を上げたのも、通常の医薬品が入らないから、漢方やバイオなどに頼る他になかったのだろう。

それにしても、絶望的な危機に際して、それを利点にすりかえる粘り強さと先見の明は、さすがゲリラ戦術による「革命」で国家を打ち立てただけのことはある。

昨今のキューバ情勢

キューバの昨今の情勢について wikipediaの「キューバ」の項目 を読んでみる。

1990年代初頭、経済的に依存していたソ連圏の崩壊で、キューバの経済事情は悪化した。特に、1989年まで続いた年間1,300万tに及ぶソ連の原油供給が中断したことで、キューバ経済は多大な打撃を受けた。また、アメリカの相次ぐ経済制裁法(1992年のトリチェリ法、1996年のヘルムズ・バートン法)により、一時は食糧不足にも苦しめられた。
2000年代前半に生じた原油価格高騰や、アメリカ同時多発テロ等の影響、更には2002年に生じた砂糖価格暴落とベネズエラの政変による石油供給中断等により、キューバは2002年に経済難を経験し、同年の経済成長は1.1%と低迷した。しかし、翌2003年は当初予想(1.5%)を上回って2.6%を達成し、2005年には「革命史上最高」の11.8%の経済成長を達成している。

そう言えばサルサを学びにキューバの音楽学校に留学した友人がいるが、彼が見たのは2002年のキューバだったか。キューバの「惨状」を見た彼は「やはり経済だ」「投資だ」と決心し、大学卒業後は野村証券でバリバリと働いていると聞く。ちょっと胃潰瘍になったりもするみたいだが、「銀座のレストランで彼女と上手い物を食う」ことを、心の支えにしながら励んでいるらしい。こういう言い方をすると、嫌味を言っていると邪推されぬかと心配するが、彼はいい経験をしたと本当に思う。いや、本当の本当に嫌味ではない。

ラテンアメリカの動向は日本に伝えられない

さて、本書は、キューバがチャベスのベネズエラとも密接に連携していることも述べている。キューバの医療とベネズエラの石油は脱グローバリゼーション、ラテンアメリカの統合のための強力な武器になっているらしい。

以前、メキシコ人の友人のメールを本ブログにも転載したが[1]、ラテンアメリカは激動している。まあ、私ごときが言うことでもないが、日々世界を飛び回っている彼から入る世界情勢と日本のマスメディアから入る世界情勢との温度差には驚く他にない。こういう言い方もどうかと思うが、日本のメディアではラテンアメリカやアフリカ、アジアは存在しないも同じである。

本書でもそうした温度差のことが述べられている。キューバ医療の情報は英語圏、スペイン語圏ではかなり豊富なのに対し、日本語ではほとんどないらしい。もちろん、日本の医療が優秀であるのも一つの重要な理由であるのだろうが、それでもこれほどの大国であるのだから、万一の危機ためにも、世界の情報をある程度は流通してもいいと思う。

もちろん、日本において経済危機はあってはならないし、ありえないと信じたい。しかし、状況は刻々と変化し続ける。膨張し続ける医療費に対し、日本の経済が現在のようには応じられなくなる日も来る可能性もある。また、経済難に陥る可能性も完全に無いとは言えない以上、経済難の中、医療の水準を高めたキューバの事例はとても参考になるだろう。

食料と医療は、あらゆる状況でも確保されなければならない。もちろん、日本人はキューバのような状況になったとしても、優れた独自の解決能力があるとも思いたいが、この著者の他の本も読んでみようかという気になった。




世界がキューバ医療を手本にするわけ

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書評/ルポルタージュ

関連ページ

[0] 本書にはこうあったが、キューバがLinuxだけというのは不正確なようである。実際には米国政府の禁輸政策に対し第三国経由で流入したWindowsも使っているようだし (参照)、Netcraftでキューバ政府公式サイトの使用サーバを見るとほとんどがFreeBSDである(勿論FreeBSDもオープンソースに違いはないが)。内部では未だWindowsを利用しているらしく、今年の2月にオープンソースへ以降するかどうかを審議している記事もある (参照)。
[1] メキシコ情勢 1メキシコ情勢 2。ちなみに今でも「メキシコ情勢」とググると一ページ目に出現する。いかに、うちの国がメキシコに興味がないかが分かる。
[2] キューバの有機農業 - 著者のサイト。
[3] 都庁から県庁職員へ転身/吉田太郎さん - 朝日新聞2004年10月31日の記事。都庁に勤めていた著者が田中康夫長野県知事にスカウトされた経緯が書いてある。

2007-08-12

性欲のコントロール

南直哉『日常生活のなかの禅』に性欲のコントロールについて具体的に述べてあるのでメモしておく。

1. 異性を見ない環境

2. 自然との接触 - 人工物に囲まれると自然を求める本能が内向して性欲になるとのこと。

3. 単調、単純な人間関係と生活 - ストレスが性欲を刺激する。

4. 野菜中心の食事と6時間程度の睡眠 - この程度の節食、節眠が妥当とのこと。

5. 坐禅 - 切り札とのこと。

6. 意志と生活スタイルを共有する仲間 - 最後にして最も重要とのこと。

ただ、こうした方法をもってしても駄目みたいである。

しかしながら、以上をそろえて実行しても、性欲を完全にコントロールすることは不可能である。ましてや性欲そのものを消滅させるなど、尋常な方法では無理であろう。

また、以前に読んだヨーガの本にも、禁欲とはかなりの覚悟を持ってしないと危険と書いてあったと思う。それに、こうしたことが「苦行」になってしまうと仏教の教えに反するとも思う。思うに、禁欲するのではなく、修行の進んだ結果、禁欲のようになるのだろう。

それなら、なぜ性欲のコントロールについてメモをしたかと言うと、上の方法はどれも取り入れたい生活のスタイルだからである。自然の中で単調に暮らし、節食、節眠しつつ坐禅をすること自体は、とても受け入れやすい。

「悪」があるのに「音楽」はありえるのか

「『悪』があるのに、『音楽』はありえるのか」こう高校時代から悩んでいた。私は沈黙するしかないのではないかと思っていた。高校時代の私は音楽が不可能であると思っていた。

地下生活者さんがNHK-BS「死の国の旋律〜アウシュビッツと音楽家たち」という番組を取り上げていた(地下生活者の日記 - 沈黙に抗って)。その中からゾフィア・チンビアさんという、アウシュビッツ絶滅収容所の囚人オーケストラのメンバーの言葉を孫引く。

私は自分から逃げていました。

私は、何度も自分に言い聞かせました。
「アウシュビッツの後、どう生きていけばいいのか?」
「私の人生に、そして世界にどんな意味があるのか?」
「人間に意味はあるのか?」
あの場所からは、今も絶望の叫びが聞こえています。

***

「『悪』があるのに、『音楽』はありえるのか」こう高校時代から悩んでいた。私は沈黙するしかないのではないかと思っていた。高校時代の私は音楽が不可能であると思っていた。

「音楽の不可能性」「沈黙としての音楽」「音楽としての沈黙」こうした言葉を私は、まあ、弄んでいたとも言える。頭でっかちな愚か者である。こうした頭でっかちは、何の役にも立たないものである。また、レヴィナスじゃないが、死者について云々することもまた悪としか言いようがないし、ヘーゲルじゃないが、真の悪とは自分の周囲すべてに見出す眼差しのことだとも言えるのだから。何しろ、私はアウシュヴィッツを体験した訳ではない。しかし……と書きたいが、書かないことにする。

だから、もし、あなたがこうした悩みを持っていないのなら「なにを理屈っぽく悩んでんだか」と、スルーして欲しい。これは、そうした悩みに取りつかれてしまった愚かな苦しめる人、ある意味で病気の人にのみ向けて書いている。現在の私の状態を記すことが、そうした人に何らかの役に立つかとも思うからである。

***

折角なので、脱線して高校時代の昔話をしたい。

そういえば、予備校の進路指導の先生に「君は一体なにを悩んでいるの?」と訊かれ「音楽の不可能性」と答えた記憶がある。「沈黙の音楽という矛盾の中以外に音楽がありえないことだと思います」というのが、その時の私の主張だったか。

「悪が存在するのに!」と私は何度か怒っていたと思う。私の怒りもまた欺瞞的なものであるが、その欺瞞さにも気づいているからこそ、私は苦しかったとも言える。いや、欺瞞にしか伝わらないことのもどかしさに苦しんだと書くべきか。「君が悪を経験した訳じゃない」と彼は答えていた。

思えば、いい人だった。総白髪の下に笑う、優しい目を思い出す。「沈黙の音楽」に対しては「そりゃ、音楽は音が出ないと駄目なんだから」「結局は、娯楽なんだから」と、親身に答えてくれた。特待生として無料で通っている私に、何度か数時間単位で話相手になってくれた。とても感謝している。

当時は受け入れられなかった彼の意見も、今は何個か受け入れらる。中には、確実に正しいと今なら思える主張もある。そのうちの一つは「録音はしない方がよい」ということだ。いや、これは難しすぎる問題なので置いておこう。ただ一言書くとすれば、「記録装置」と「芸術」とは本質的に矛盾するということにでもなるか。いや、それもまた間違いである。

***

私は音楽を練習する傍ら、大学時代はドイツ研究の学科に在籍し、ドイツの思想と歴史を学んだ。一般のメディアで流通できる悲惨さをはるかに越える「学術用」の映像や写真、統計資料や数多くの告白など細かい記録等にも目を通す機会を得た。一方、私の哲学的興味の中心は両者ともナチスとの関連を考えざるを得ない思想家であるニーチェとハイデガーだったが、一方でベンヤミンやアドルノ、レヴィナスやアーレントなども学ぶ機会を得た。

ふと思い出すと懐しい。エンゲルハルト・ヴァイグルのアドルノやライプニッツなどの授業は人気がなかったが、素晴らしかった。ドイツ人の教授により英語で行われるゼミには、私を含め二人しかいなかった。ドイツ語、ラテン語、英語のテキストを読みつつ、もどかしさの中で、かじりつくように教授の話を理解しようと努め、また、私の解釈を述べた。熱意の前に、言葉の壁は低く、薄いものである。私にとっていくらか堪能な日本語や英語で行われた他の授業よりも、こうしたドイツ語を軸に行われた授業の方が今となっては重要であり、他では学べなかったであろう重要なことをいくつも学べたという充実感を思い出す。数少ない「大学で哲学できた」記憶である。ヴァイグルの著作はいずれ本ブログでも取り上げたい。

極論だが、日本語で行われる西洋哲学の授業は、何の役にも立たないと思う。レヴィナス、アーレント、ハイデッガー、ベンヤミン、ヘーゲル、カントなどを読むゼミにも複数参加したが、結局、何も得られなかった。僭越甚だしいが院生や教授のコメントを聞いても「くだらん」としか思えなかった。「翻訳」になり「哲学」にはなりえないとでも言おうか。ゼミ「もどき」のおままごとにしか感じなかった。思考と言葉は切っても切り話せないのだから、授業を日本語で行うのなら、日本の思想家をテクストにすべきと思う。ただ、それもこれも、私が悪いのであって、大学は現在の状況での需要と供給があっている訳であり、それはそれで問題がないのだとも言える。それに私が「悪い生徒」であることだって否定はしない。悪い生徒だったから勉強できなかったことを否定はしないが、良い生徒になって勉強できても仕方ないとも思うので後悔はない。そう言えば、哲学で院に進んだ友人は「どこに行っても哲学はできないよ、哲学研究だけだよ」と常に悲しそうにしていた。彼も順調に悲しさを乗り越え、順調にPh.Dを取った頃か。

また、アドルノと言えば、日々悩んでいて死にそうに見えた同じ学科の先輩が「矢野君、僕は分かったよ」と一言言って、『否定弁証法』だったか『啓蒙の弁証法』だったかを持って踊りながら廊下に消えていった光景を今でもはっきりと思い出す。彼はどうなったろう。院に進んだか。結局、家の寺でも継いだか。それとも、やはり死んだろうか。

***

大学での授業の他にも、19の時、私は歐州を周遊しつつ、最初の絶滅収容所のあったダハウなどにも足を運んだ。二度もネオナチ風の若者にからまれる経験もしたし、ベルリン郊外の老人に明らさまな人種差別をされる経験も得たし、騒がしいネオナチの集会のすぐ側で一泊する幸運も得た。

パリからのベンヤミンの足跡を追い、スペインのポルボウという街の海岸にある彼の墓に花をたむけた。ベンヤミンの自殺、彼の絶望を少しでも知りたかったからか。ポルボウは、芸術と都市、メディアを考え抜いた偉大な思想家が死ぬには、あまりにふさわしくない街だった。街の人は誰もベンヤミンを知らなかったし、観光案内の女性ですら、すぐに分からず、「有名な哲学者」と言って「ああ、あそこか」という感じで教えてくれた。墓参の後、砂浜に面した田舎臭いレストランは地中海の海の幸を味わわせてくれた。新鮮な魚介をトマトソースで煮ただけという単純な料理をオレンジの香りがひきたてていた。私は白のスペインワインを飲んだ。海が美しかった。

***

脱線から戻るが、私は、そう悪を思いながら、芸術を思った。悪とは……は、まあ、置いておく。

現在の結論を書くと、やはり「音楽」は「不可能」なのであろう。それは「幸福」が「不可能」であるのと同じだろうし、「永遠」が「不可能」であるからである。まあ、一切皆苦で諸行無常というやつである。しかしながら、その「不可能性」こそが、「音楽」が「音楽」であることを「可能」にしているとも思い続けてはいる。しかし、これは欺瞞であり、やはり不可能は不可能なのである。他の人は知らないが、私にとっては、私にとってだけは、音楽とは一つの欺瞞に他ならない。欺瞞じゃなく音楽と出会える人もいると思うので、あくまで私にとってだけの話である。こうした理解が私にとっては一番妥当な所になっている。

もし、読者の中にこうした悩みを抱えて生きている人がいるなら、私は応援を惜しまない。そういう人に向かって、更に書くと以下のようになるか。

無力であり不条理であること。ただ、そこに打ち拉がれていること。そこだけを忘れなれば、もしかしたら、奇蹟としての赦しや救済が与えられるのかもしれない。しかし、そんなことは「ありえない」し、望むこと自体が冒涜的である。恥知らずである。こんなこと書いただけで、つまり「奇蹟があるのでは」と思うだけで、死んだ方がいいかとも思う。恥に震えながら、ただただ、責められ続け、打ち拉がれ続けるということなのだろう。そういう人になれ、という訳ではない、そうじゃなくて、既にあなたがそういう人だった場合に、もう、それはそういうこととして受け入れなさいということだ。自分の繊細さまで責めていると、体がもたない。

一切の娯楽は無効であるとするなら、現代の人間活動のほとんどは無効になるだろう。悪が存在するのに、そして自らが悪になるかもしれないのに、いや、自らが悪だというのに、娯楽は可能だろうか。娯楽を否定することは、人間の否定だろうか。

恐らく、人間は娯楽を排除しても生きてゆける。私はそう信じる。自我や所有や欲望を投げ捨てても、生きてゆけるのだと思う。だから、娯楽の否定は人間の否定ではないと信じる。しかし、これも娯楽を楽しむ人に言う台詞ではない。欲望と所有に万歳の人、娯楽が娯楽として存在する人、音楽が音楽として存在する人はそれでいい。そういう人に向かって書くのは、無益であるし、暴力である。私が向かって書いているのは、そうではない人、娯楽が娯楽でない人、音楽が音楽でない人だけだ。

ただ、一人、精進してゆくしかないだろう。

***

なんだか、意味も分からないが、長くなったのでこの辺にする。

最後に誤解しか与えないだろうが、ペンデレツキの「広島の犠牲者に捧げる哀歌」のアフィリエイトリンクを貼っておく。メシアンも、なにか貼りたいな。

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2007-08-11

[本] 日常生活のなかの禅 - 修行のすすめ / 南直哉

内容はとても素晴しい。図書館で借りたのだが、購入しようと思っている。

ただし、以下の二点で「不誠実さ」を感じてしまった。些細なことだが、述べさせて頂きたい。

まず、題名についてである。本書は、題名が予想させる昨今流行の「禅的生活」系の本と異なり、非常に哲学的内容である。思想書、哲学書と言ってよい。禅のエッセンスをちょこっと取り入れて生活を潤わせましょ、なんて本ではまったくない。

こうした一般に開かれたような題名をつけてしまうと、少し禅に興味を持った人が手に取ってしまう危険性がある。そうすると「やっぱり禅は訳が分からん」となって禅という世界への第一歩のアクセスを失ってしまうだろう。

本書の本論の冒頭を写しておけば、私の言いたいことが伝わるかもしれない。

第一章 「根拠」の外部へ - 本物の「自己」とは何か
1. 「私」に根拠はあるか
「自己決定の破綻」

本章ではまず、存在の根拠を設定するような形而上学的なものの考え方や語り口と対照することで、私が考える釈尊や道元禅師の思想のユニークさを提示しておこうと思う。

気楽な「禅のすすめ」を求めている人は他書も手に取った方がよいかと思う。

これは本書の価値を貶めるものではない。自己や他者とは何かについて倫理的、存在的に悩む人は極めて少数である。ならば、そういう自己の問題を考えたい人が手に取りやすい題名を付けるべきである。

事実、本書の題名では私が仮に書店で見ても、本書を開くことすらしなかったと思う。本書を読めたのはamazonの書評のおかげである。読みべき人が目につきやすい題名にするべきだろう。

もう一つの問題点は、本書の思想の重要なベースがレヴィナスとラカンにあるのは私には疑いようもないのだが、どこにもレヴィナスのレの字もないことである。

[書評] 道元 - 自己・時間・世界はどのように成立するのか / 頼住光子では著者は井筒俊彦の意識と本質に関する分節─無分節理論の影響を最低限はしかるべき形で記していた。

しかし、本書ではそうした目立った記述は見られない。レヴィナスを知る人が本書を繙けば、著者の仏教理解のベースにレヴィナスが流れていることにどうしても気がつく。それが、あたかも仏教の思想、著者の解釈としてレヴィナスの考えが出てくると知的に信用ができなくなる。一言レヴィナスを触れてくれれば知的に信頼ができるので、残念である。

そう思いググってみた。著名なレヴィナシアンの内田樹のブログに仏教ルネサンスという記事があった。

老師は永平寺での修行の日々のあいま、87年にすでに拙訳『困難な自由』を読んでおられた古手のレヴィナシアンだったのである。 (……) だが、まことに意外なことに、どうやらレヴィナスと仏教は「相性」がよいようである。 ヨーロッパ的知性からすれば「存在するとは別の仕方」とか「絶対的他者」というのは思量の困難なものであろうが、仏教ではそれこそが中心的な論件である。

もし著者がレヴィナスと原始仏教の経典、曹洞宗の伝統的な教義、道元思想などの境界を的確に指摘しつつ、恐らくは多分に存在する著者自身のアクチュアルな思想を述べていただけたら、本書は更に素晴らしい名著となったことと思う。


ただ、上の二点は非常に些細なことと言えば、些細なことである。本書の内容を損なうものではないと言える。

この頃、忙しかったので、購入後に精読をして改めて内容についての書評を載せたいと思う。

2007-08-10

AD: 初めて食べる発芽玄米の懐しさ

発芽玄米を私は初めて体験した。初めてなのに、どこか懐しい。

普段話さない父も「玄米は昔食べた。あれは腹を下しやすいから……」などとブツブツ言いながらも少し食べ、「そういえば、俺が子供の頃は……」と、いつになく昔話を始めた。

玄米パン、玄米茶……素朴で懐しい響きである。

ゆっくりとしっかりと米を噛み締めてみて欲しい。ほんわかと茶色い玄米の一粒一粒に忘れてた味、夏の夕暮れの味がすると言えば、読者には笑われるか。

ゆっくりと、しっかりと、一粒一粒、私はしばらく玄米を食べ続けてみたい。


発芽玄米普及プロジェクト発芽玄米普及ブログキャンペーンに当選し、発芽玄米1kgを送付していただいた。

まずパッケージである。

言い方が悪いが「ウリ」は健康である。通常の玄米よりも「ギャバ」という栄養素が豊富の摂れると謳っている。

また、以下の全27ページのリーフレットも付属していた。玄米の健康面での長所、炊き方、レシピなどが紹介されている。玄米生活を楽しくしてくれそうである。

さて、そうした玄米を炊いてみた。玄米だからといって炊くのは簡単である。白米の時より水を多めにする程度であり、白米と手間は変わらない。

ご覧の通り、全体的にほんわかと茶色い。懐しい夕暮れの色である。

一口たべてみる。

硬い。一粒一粒がきちんと口の中で存在を主張している。穀物を食べている、という実感が湧いてくる瞬間である。

そうした玄米をゆっくりと咀嚼する。そこには米をしっかりと「潰した」という実感がある。

風味は白米の比ではない。しっかりした骨格と風味、自然を生き抜いた「野生」すら感じると言えば大袈裟か。

とても素朴な味である。癖があるとかそういうことは全くない。玄米茶が普通に飲める人なら、おいしく食べられると思う。

しっかりと米を噛むこと

「こめかみ」という言葉がある。私たちの祖先は硬い米を食べる中で、咀嚼時に動く部分をそう読んだ。

ふと、そうした古代の祖先に想いがゆく。

なぜ、顎ではなく、こめかみが動くのか。ご存知の通り、こめかみは顎の上に位置し、普通の食事の時に動いているという意識はそれほどない。事実、柔らかいもや大きなものを食べる時には、こめかみはほとんど動かない。白米ではこめかみが動くほどに噛み締めることはないだろう。

こめかみが動いたのは、米が固く、細かかったからである。しっかりと噛み締めねばならなかったが故に、こめかみが動いたのである。同様に「噛み締める」という言葉も、何か大切なことを自分に取り入れるという意味である。

古代の祖先は、「こめかみ」がしっかりと動くように食事をし、しっかりと噛み締めて生きていたのであろう。それに比べると、現代のこめかみはおろか、顎すら退化するほどに「噛み締めない」食事とはいかがなものかと思わずにいられない。

顎が細いと現代の子供を嗤うなら、風味も歯応えもない白米やパンの代わりに、本物の風味を備えた玄米やパンを与えるべきでなかろうか。ちなみに、歐州の本物のパンの風味や歯応えは堂々たるものである。学生時代にドイツからの友人には「日本のパンはスポンジのようだ。それも、やたらに歯にニチャニチャとからみつく。パン自体の味に乏しい」と嗤われたことも思い出す。「そんなに柔らかいものばかり食べて問題はないのか?」

確かに噛むことの健康面での重要性は多く指摘されるところである。PL広島情報局: 楽々ツボ教室: 頭痛にこめかみには

こめかみには、三つのツボが縦に並んでいて、頭部の血液循環と密接な関係にあるところです。(……)玄米、たくあん、するめいかなど、時間をかけて奥歯でしっかり噛んで食べると、こめかみの筋肉が働いて、頭部の循環がよくなり、頭痛の予防や解消に役立ちます。
とある。実際、きちんと噛んでいればこめかみあたりの頭痛の予防にかなりの効果があるだろう。

以前にも[書評] 日本人の正しい食事 - 現代に生きる石塚左玄の食養・食育論 / 沼田勇にて

日本人と欧米人は身体構造も食の伝統も異なるのであり、食文化の安易な追随は日本の食文化の破壊のみならず、日本食が育んできた健康すらも破壊するやもしれない。
と書いた。

今も考えは変わらず、その思いは確固としたものになるばかりである。日本人なら、こめかみが動くほどにしっかりと米を噛み締めながら生きてゆきたいと私は思っている。まあ、読者がそうした私の無益な叙情を笑わないでくれれば、幸いである。

ただ、読者も「日本人の正しい食事」を試してみてはいかがだろうか。懐しいが、新鮮である。

関連ページ

[書評] 日本人の正しい食事 - 現代に生きる石塚左玄の食養・食育論 / 沼田勇
[書評] ワインの個性 / 堀賢一

http://www.hatsugagenmaifukyuu.com/blog/mt-tb.cgi/13

悩みについての戯言

私は悩むことにかけては自信があるのだが、それは全く得にならない。「ああ、悩んでてよかった」ということは今までもなかったし、これからも確実にないだろうと思う。

しかも、悩んでいれば当然悩んでいる人が友人になる。ルイトモである。おかげで悩みのネタには苦労しない。誠に持つ者には与えられ、持たざる者は最後の一つまで奪われるのである。

かくして悩みは雪ダルマ式に巨大化してゆく。

個人的な小さな悩みが世界人類全体の苦難についてまで膨らむのに一分は掛からない。

ところで、私は悩むことに自信があるのだが、悩むことは当然、自慢にならない。悩むことに得がない以上、誰も悩みたいとは思わないからである。故に、誰も自分よりも悩んでいる人を見て「いいなあ、素敵だなぁ」とは思わないのである。

世界が悩んでいる人を評価していたらどうなるだろう。

電車に乗ったら
「夏は愛され悩み顔 - 悩みメイクの20のコツ」
「勝ち組、負け組 - 分けるのは日々の悩み方」
「成功者は悩む - 日本人よ、誠実に悩んで生きよ」
という広告がぶら下がっているのである。

ふと、耳をすませば「ねーねー、彼ってかっこいいよねー」という女子高生の会話。もちろん「もう、悩んでる顔がたまらない」という訳である。

そして笑っている人間には侮蔑の言葉である。
「なんで○○君ってさ、意味もなく笑ってるんだろうね?」
「ねー、きもいよねー」
「やっぱりさー、いつも悩んでなくちゃねー」
「ねー」

すばらしい。

眠れない夜に悩むこと

私は悩むことを愚かなことと考えている。しかし、私は悩む。それも、人よりも断然悩む傾向がある。

開き直るわけではないが、そんな私はとてもじゃないが、悩むことを否定して生きているわけにもいかない。だから、少々、悩むことについて悩んでみる。読者よ、笑うなかれ。いや、笑ってくれた方がよいか。誠に愚か者は救いようがない。

本当に残念なことだが、悩むのが愚かであり時間の無駄であることをいくら頭で理解しても体が聞いてくれないのである。自分がいて悩むというよりは、惱みがあって自分を突き動かしているようになってしまう。

特に蒲団の中がつらい。寝られないのである。何かが湧き上がり、いてもたってもいられなくなる。羊を数えれば寝られるかと思い三千匹以上を数えて朝になったこともある。

想像して欲しい。「羊がサンゼン、サンビャク、ゴジュウ、ロッピキ、羊がサンゼン、サンビャク、ゴジュウ、ナナヒキ」と数えている姿を。蒲団の中でもだえているのである。確実にアホウである。それも真剣に寝たがっているのだから、救いようがない。

そう、昔は大学ノートに悩みを書きつけた。ひどいもんである。下手くそな文書はもちろん、どうしようもなく下手な絵から(それも女の絵である。救いようがない)、詩から(ほとんどが女性や芸術についてである)、作曲から(あははははー)という状況である。全滅の壊滅状態であり、状況は絶望的である。

中でも絵がひどい。私が夜中に渾身の集中力を注いで描いた「美女」の絵を見て欲しい。筆力があまりに足らず、なんとも、不気味な不細工が描かれているだけである。それが、ただ下手ならそれはそれでいいのだが、画力がないくせに、どうしても美女に描きたくて様々に魅力的にしようと努力しているのだから、更に本当にお話にならない。本当に始末が悪い。

しかも、その「美女」とやらが電車の中で見ただけなのだから、話にならない。知りあいでも何でもないのである。今となっては、その彼女が本当に美女なのかそうかも、全然分からない。ただ若い時の熱に浮かされていただけなのだろう。

ただ、それでも若い時はよかった。惱みのモヤモヤが性的なモヤモヤと同様に処理されやすかった。つまり、ゴチャゴチャ大学ノートにエネルギーをぶつけ、ちょっと疲れたな、という頃にアレをしたら、案外すっきりと寝られたのである。単純なもんである。

問題は最近である。「ブラフマチャリヤ」とかほざいてみても、案外できてしまうわけだし、アレをしなくてもよくなってきてしまった。当然、眠れない時にもしたくなるわけでもないし、しても寝られない。

まあ、それはそれでよいのだが、なんともはや。

いや、そんな話ではなかった。惱みの話であった。

いや、何だかアホな文書を書いてたら、どうでもよくなってしまった。万一、ここまで読んでしまった方に「アホな文書」というのもすまないが、まあ、いわば、寝付けない夜に、寝るためのアレの代わりに書いただけである。

いや、失礼。申し訳ない。

2007-08-07

[WEB] スラッシュドット ジャパン | 5000円以下の地デジチューナー、実現は難しい?

スラッシュドット ジャパン | 5000円以下の地デジチューナー、実現は難しい?

5000円以下の地デジチューナーの製造に関して、製造メーカー側の担当者は「廉価版でも2万円を切る程度が精一杯。端子などをぎりぎりまで減らしても、1万円を切るのも難しい。5000円のチューナー開発はまったく見えない」と語っているそうだ。また仮に実現が将来的に可能だとしても、現時点でそれを言ってしまうと買い控えがおこる事もメーカー側は懸念しているようだ。

どうも大変そう。

そうなると、結局は延期か、補助金とか投入することになるのかな? どうなんだろ。

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[WEB] 池田信夫 blog 地デジFAQ

2007-08-05

泣くや怒るは活元運動

久々に野口晴哉『整体入門』を眺めていると、こんな文にぶつかった。

感情が高まってきた場合に、そのままにしておけば体に異常を起こす。そこで自然に泣く、怒る。そういうようなことも活元運動の一種で、昔々は今のように泣くとか怒るとかいうのがけっして悲しいとか口惜しいとかの表現ではなく、その人が自分のエネルギーの鬱散のために、怒ったり泣いたりしていることがあったのだろうと思います。

体の中の心 - 感情は実在するかでも

最初は身体反応しかなくて、「感情」なんて呼ばれるものは無かった、そして、次第に特定の身体反応が多くなり、また会話も増えたので「感情」という観念を生んだんじゃないかと考えた。
と書いたが、「怒り」の問題はどうも奥が深そうだ。

「怒る」という身体の反応、その状態と、表現を考えねばならないし、その中間にあるらしい「感情」ということも理解しないといけない。

問題は、「怒る」という「身体動作・反応」が、どこからどこまでで、どこから先が「表現」としての「怒り」になっているのかだろうか。また、「身体動作・反応」を引き起こす「身体の状態」も怒りと呼べるだろう。

ちょっと簡単に分けて考えてみる。

  1. 「怒る条件」…敵対状態の出来など
  2. 「怒りという身体状態」…血圧上昇、筋肉硬直、アドレナリン分泌など
  3. 「怒りという身体動作」…目が見開く、肩がいかる、腹が硬直するなど
  4. 「怒りという表現」…悪口、暴力など

私が思う「活元運動としての怒り」とは3を指す。2までの状況を3の動作をすることで解消するというわけである。また、怒声や暴力も喉や筋肉の緊張を解消するだろうから3に入れたいが、4との線引きが微妙である。

「怒るのを我慢する」というのは1-3まで起きたのに4をしないことだろう。また、本当に「怒らない人」というのは1を認識しない人なのだろう。というのは、1になれば2になるのが人間であり、それを3で解消しなければストレスが残り体に毒である。本当に怒らない人は、怒らないことでストレスが溜まらない人なのだから、2になってもいけない。

さて、問題は、この、どこに「怒りという感情」を置くかである。普通に考えると、3の前後になるだろうか。

うーん、よく分からないな。まあ、メモということで。調べれば、きっといい文献があるんだろうし。

関連ページ

怒りを受け入れること
[書評] なぜ私だけが苦しむのか / H.S.クシュナー

速読の極みは記憶術か

少し雑感をメモしたくなった。また意味不明なことを書くので申し訳ない。

***

読書が高速になると、文字を追うことはなくなる。すると紙面を追い、なにがしかを理解することになる。そのなにかを理解しているから読書として成立するのだが、それが何なのかは分からない。ただ考えてみれば、もともと文字をリニアに読んでいたときにも、何を理解していたのかは分からない。

それでも何かが頭に残っている。ふと、風呂から出た時に、紙面の内容が頭をよぎる。または、眠りにつく前のふとした瞬間に内容が頭をよぎる。下手をするとページそのものや文字列が目の前に受かぶ。気がつくと無意識に脳が読んでいるのである。

それがどうしてだか分からない。ただ、思い出せるのである。ただ、憶えたという実感がない。気持ちが悪い。

ところで、本の内容を眺めていると、ただ、そこに書かれた個別の情報を再編集して頭に入れているという感覚になることもある。個々のものを理解しているのではない。ただ、そのメタな情報を理解しているという感じ。

読書の一番の問題は記憶していることだろう。音読しても筆者しても思い出せないことはある。逆にページを眺めるだけでも、思い出せることがある。

ここまで考えると、速読術の極みは記憶術になるのだろうと思う。それは「憶えること」の訓練ではない。思い出すことの訓練である。一瞬という時間を明確に確実に思い出せるのなら、一瞬でも目に入った情報を思い出せるようになる。

まあ、そんな風に人間の頭はできてないだろうし、そうなっちゃったら病気とも思うが。

脳を特殊な状態にする。

最近、プログラムを勉強している。すると、ともすると脳ミソが特殊な瞑想状態に近くなる。そうした方が気持ちよく、作業もはかどる。

[本] 頭の回転が50倍速くなる脳の作り方~「クリティカルエイジ」を克服する加速勉強法 / 苫米地英人にもあったが、弛緩しつつ集中している特殊な状態というのがあり、その状態でのパフォーマンスは高くなるということなのだろう。

そういえば以前、論登 大遊@筑波大学情報学類の SoftEther VPN 日記 / 理的思考の放棄という文書を読んだ。彼の重要な主張は、プログラミングでは論理的思考を排除する必要があるということである。そうした状態でこそ、高いパフォーマンスをえられ、しかも、それはプログラミングに限らないと言う。

まず最も重要な前提知識として、以下の 3 つのことを遵守することが必須である。
① 努力しないこと
② 論理的に考えないこと
③ 頭を使わないこと

更に論理的思考の放棄3という文書では、「論理的思考の放棄の具体的方法」を述べている。磁石の中に留まる鉄球をイメージしながら、作業をするのである。

さにそのとき、目的としている作業に 100% 完全に没頭することができる。脳の思考能力の多くを、上記の鉄球と磁石のイメージに費やしているので、無駄な考え (論理的な思考や、無関係なことを思い出すなど) を自動的に消滅させ、「何も考えないで」作業を完了させることができる。

これは明らかに瞑想である。

瞑想の能力を高めることで雑念を消して作業に没頭し、特殊な「思考」を獲得できるのだろう。しっかりと、はげんでゆきたいものである。

2007-08-04

会話や交渉をうまく運ぶための5つの方法

話術というほどではないのだが、物の言い方について、偉そうに書いてみる。

1) まず褒める。褒めることはおだてることではない。相手の現状を評価することである。相手の現状を認めることなしに、交渉は不可能である。例えば、あなたの車を見て「いやー、なかなか素敵なお車ですね。でも、もっといい車があるんですよ」と話す人間と、「いやー、ひどい車ですね。ですから、もっといい車があるんですよ」と話す人間のどちらから車を買うかを考えればよい。

2) 話を最後まで聞く。大概の人は人の話を最後まで聞かない。ええ、絶対に聞いていない。そして話の途中で「それってさ、こういうことでしょ」とのたまう。途中で話を切られて、私の言いたいことが当たっていたことは記憶にない。相手の話を最後まで聞き抜くことが必要である。私も若い頃にこれで失敗をした。話が長くて暇で仕方ないなら、相手の意見をどうやったらより簡潔に表現できるか考えればよい。ただし、間違っても、話を聞きながら自分の意見を練ってはいけない。そうした、気配は読まれるものである。

3) 直感で意見をしない。人の話を聞くと、ついつい「それなら、こうすればいいじゃん」などと助言や批評をしたくなるものである。これは間違いである。はっきり言って、他人の助言や批評なんて何の役にも立たないのである。これも私はよく間違えた。相手がいくら疑問形で話していても「それは、大変ですね」「難しいですよね」と答えるところである。本当に相手を思っているなら行動で示すか、後々別の機会に「わざわざ」助言をするとよい。

4) 逆説で応じない。人が話した後に「でも」で会話を始める人は確実に損をしている。あいては無意識的にしろ意識的にしろ、その後に自分の意見を否定する言葉が続くと思って身構えてしまう。「そうですね」や「確かに」「なるほど」などから話をついでゆくとスムーズになる。

「パパ! 見てみて、英語の成績よかったでしょ」といわれた後に「でも数学はだめだねえ」という父親と「そうだね、よかったね。でも、数学はいまいちだね」という父親、「そうだね、よかったね。そして数学もその調子でがんばればきっとよくなるよ」という父親のどれが子供を優秀にするか考えてみればよい。

5) 腹を立てない。上の方法は自分がやるものであって、相手に強要すべきものではない。相手が最後まで話を聞かなかったと言って腹を立てるのは間違いである。

「そんな『いい人』になってちゃ、自分が損ばかりじゃないか」と思うかもしれないが、そんなもんである。そういう努力を「損」と取るか「徳」と取るかの問題か。

関連ページ

セコい話術 - 5つの常套句

教育費について

ぼんやりと、生涯でのカネのかかりそうなイヴェントを想う。

結婚、出産、教育、家、老後……。だいたい、ここらが大きな出費か。

結婚式にカネを使うのは愚かかと感じるので、これは大したカネを使わない。次に出産。これは、まあ、あれだ。安産ならありがたいな。

そして、教育なのだが、これがどうにも苦しい。結論から言うと、金をかけたくないのだ。かけたくない、というよりは、かけるのはよくないと思う。私個人は中学は公立で、三年間、親に塾にやってもらった。そして、○成に入った。そして、まあ、ボンヤリと授業についていったら、東○に入った。

こう書くと、中学の塾が効いたとも思う。ただ、そのせいで、親からはずっと教育費のことで小言を言われ続けた。嫌でたまらなかったので、高校の夏以降は、奨学金とバイトで学費と生活費をまかなうことにした。結構ハードだった。

ふと、スマナサーラじゃないが「怒りでやると、結局だめなんですよ」と言いたくなる。俺は、怒っていた。だから、学業はダメになった。

俺は、塾に行かない方がよかったと思う。別に後悔している訳じゃないが、いま考えると、そちらの方がよかったとしか思えない。金銭的な親との軋轢もなかったろうし、受験という精神的ストレスもかなり低かったはずだ。そして、別に公立高校に入っていても、東大くらいは簡単に入っただろうと思う。

そう思う以上、子供を塾に通わせたくない。カネが惜しいんじゃない。ただ、中学の間、自分の子供には、ああいう世界とは無縁であって欲しいと思う。いや、それも嘘か。

そもそも、塾なんて役に立たない。勉強は自分でするしかない。自分で勉強できない子供なら、塾に入れたって同じことだ。カネで学歴を買っても仕方ない。

自習できればよい。自習して教科書を暗記すればよい。分からないことがあれば、俺に聞けばいい。それで、いいのではないかと思う。どうして、俺が、大学生かせいぜい院生のバイト程度の授業に金を払わにゃならん?

そう。思うのだが、子供には、漢文と古文の素養を持って欲しい。だから、嫌でも論語くらいは暗誦させる。大学中庸、春秋あたりを素読したい。

英語? 漢文をベースにしておけば、英語なんて問題ない。

老後は小さな線香臭い仏間で、儒、道、仏の経典でも繙きつつ、坐禅でもしていたいものだ。そんな人間、現代では存在自体が悪かもしれぬが。

まあ、いつも通り、意味不明。

「なぜ?」と人に訊かない

基本的には、細かいことを書きたくないし、書くべきではないとも思う。気づきの能力をつけるためには、自分で気づくしかないのだから。

ようは、練習や生活のなかで「自分の内部から気づきなさい・学びなさい」という「大人への階段」を渡らせているのです。ただ、しつけは厳しいようですが。これも大人への階段です。
パーソナルトレーナー武田さんの感性(ブログ): 「気づき」とは

一方で「しつけ」のように、理屈抜きにしこまねばならない細かいこともある。こうした細かいことを教える時には、わざと理由を教えないことで、気づく場所を残しておいてあげるのも、やさしさか。そうなると、昔の日本の教育はやさしいと思う。

そういえば、子供に積極的に「なぜ?」と問わせるのがよい教育とか言われるが、その質問に大人が答えていたら教育にならないだろう。

「なぜ?」とは大人が子供に問うことかと。その大人の問いに子供が考えればよい。そして、それが子供が気づくのを促すすべとなれば、ありがたい。

私は「なぜ?」と大人に聞いた記憶がない。そんなことをしたら、「自分で考えろ」と言われるのがオチだったからだ。そうした教育が間違っているとは思わない。

2007-08-03

[WEB] イエス・キリストを理解してない人たちへ、−(仏陀を理解していない人たちも)/ ドクター苫米地ブログ

ドクター苫米地ブログ 2007年02月22日 イエス・キリストを理解してない人たちへ、−(仏陀を理解していない人たちも)

苫米地さんのブログを開いてみた。するとキリストとブッダについて書いてあった。最近、私はキリストとブッダについて想うことが多い。簡単にすぎるが少々メモしておく。

いわゆる「宗教」にある「御利益」という考え方の矛盾をキリストとブッダは乗り越えており、私たちもそうした思考停止的な狂信を乗り越え、ある意味では空しいことを、ダイナミックに考え続けることしかないと述べている。

特に、

イエスや仏陀のもともとの発見が、本質的に無矛盾であるということです。矛盾がないというのは、徹底的に考え抜いた末に、全く新たな水平線が広がる可能性があるということです。矛盾があれば、それは、考え抜く価値もないわけです。
との主張に同意。

また、以下のポイントにも納得。

御利益はありえない。信仰、苦行、生贄への神からの見返りはありえない。神は人と対等ではなく、人を超えている。カルトはそれぞれに「御利益」を認めている。そこに論理破綻がある。キリストと仏陀はこの論理矛盾を解決している。

キリスト「神は既に我々と共にある」 神と人間が契約するなどとはおこがましい。神は人を超えている。「神の一方的かつ無条件な愛」があるだけ。「御利益」を否定し、神が、神の愛が既にあることを主張。

ブッダ「全ては空」 神を含め万物は永遠に独立に存在できないと主張。縁起。全ては空であり、空しい。

こうした無矛盾の「思考」の果てに「サトリ」があるか。

[本] 頭の回転が50倍速くなる脳の作り方~「クリティカルエイジ」を克服する加速勉強法 / 苫米地英人

ちょっと立ち読みをしたのだが、とても参考になったのでメモ。自分にとって興味深かったところだけ。

1) 脳を特殊な状態にする。「集中状態」とか「並列処理状態」とか。その為には、まず、逆複式呼吸でリラックス、次に目を瞑りオデコの中心を見るなどして集中状態にする。非線形な処理をできるようにする。

2) 常に次を予想する。丸暗記をしようとしない。予測をしてから外れれば「外れた!」という印象が刺激となり記憶に残る。過去問を解くよりも、教科書をこうした方法で憶えてしまえばよい。また英語の勉強も映画やドラマを予測しながら何度も見ればよい。

3) 抽象的なものごとを身体的に把握し、操作できる能力をつける。事前に各実在物の情報を獲得しておいた上で、瞬時に各々の抽象的な情報を把握・分析・操作する訓練。そして、抽象化のレヴェルを上げる。

「止観」も参考にしたとの言及もあり、最後の方に仏教の説明もある。最近の私の考えと、とても近い方法論と感じた。

よし、脳みそ鍛えよ。

参考ページ

ドクター苫米地ブログ
苫米地英人 - wikipedia

速読読書術(5) マーキングのすすめ

何度も読むような本の場合には書込みが有益になります。キーワードを○で囲ったり重要なところに線を引く人は多いと思います。書込みにより印象付けられますし後から探す時にも便利になります。

ただ、ある線が何で引かれたのか分からなくなることもあります。そのためには読書記号が有益です。

速読読書術(4) 音読をやめ、一度に読み取る範囲を広げる

目的をはっきりさせて内容を整理して読むだけでは、当然、読書の速度に限界があります。ここでは一つ一つ文字を追うスタイルの読書をやめ、ブロックごとに読んでいく読書法をjおすすめしたいと思います。

音声化しなくても意味は理解できる

まず受け入れて欲しいことがあります。それは文字の意味は音声化しなくても把握できるということです。そして、その視覚のみによる意味理解の方が、音声化による意味理解よりも数段高速であるということです。

このことは文章を音声化しないで黙読している人にとっては自明のことでしょうが、頭の中で音読をしながら黙読をしている人にとっては受け入れずらいかもしれません。というのは特に意識をして読書の速度を上げようとした人でない限り、本を読むことは文字を頭の中の声により音声化することになっているからです。自然に文字を見ると頭の中では音になっているのです。

この音声化が無駄なのです。人は文字を見ただけでも意味を理解できるのです。

音声化しながら文字を追っている人は頭の中の声を消して読めるように努力してみてください。これは必ずできるようになります。そのためには音にするよりも速く目線を動かしながら読むことで、頭の声を消して読めるようになることと思います。速く読もうとすれば自然と頭の声にしている余裕はなくなるからです。また頭の音声化する能力を他の動作に向けてしまうのも手です。つまり別の音を聞いたり、あるいは話しながら本を読むことも効果があります。

音声化しないでも意味が把握できるようになればしめたものです。この動作に慣れてきたら一文字一文字追っていった目線を数文字ごとに追うようにしてください。一行を半分に分けて、その半分に一瞬だけ視線を当てたら次の半分に移るようにするのです。目線がジャンプするような感覚です。一瞬の視線でも数文字程度ならすぐに理解できることでしょう。これだけでも以前よりかなり速く読めるようになるはずです。

これだと内容が頭に残るか不安だと思うかもしれません。ただ、安心してください。音声化したところで、本の内容はたいして頭には残らないのです。意味を追いながら素早く読むことを何度もした方が本の内容は頭に残ると私は考えます。なぜなら、素早く読むことで意味の聯関を把握できるようになるからです。議論の全体像や概念や情報の様々な聯関という本が持つ有機性は、本の理解や記憶の保持に貢献するのです。

あくまで、議論や主張の確認や目新しい情報の検索のようにして読書してみて下さい。そして、全体像や意味の聯関を把握し味わって下さい。短時間で本を読める上に把握するのが難しい本の有機性を頭に格納できます。漠然とした読書による分散した記憶に比べて有機的な情報は記憶に残りやすいと私は考えます。

ただし、難しい本の場合には速くは読めません。これは当然のことで理解が伴なわないからです。あくまで意味が辿れるからこそ(確認、検索ということで)視線を進めてゆくわけで、意味も分からないのに視線を素早く動かしても仕方ありません。

一度に読みとる塊を大きくする

さて、数文字の塊で意味を把握して読めるようになったら、その意味を把握する塊を大きくして意味把握の速度も速くしてゆきましょう。これには二つの努力が必要になります。一つは視野の拡大でもう一つは意味把握の速度の向上です。

視野を広くするためにはいくつもの方法があります。大小いくつも書かれた同心円を見る、八の字や星などの図形を辿る、ページ一杯にばらばらに書かれた数字を探しながら辿る、ページ一杯に枡目に点を書いたものを見る、などです。こうした訓練を辛抱強く続けることで視野は確実に広くなります。

最初は数文字であった視野はすぐに広がり、縦書きの文庫本程度なら一行に対し二回見る程度でよくなると思います。

そして、なんとか一行を一目で見えるようになれば、その時には同時に数行を一目で読めるようになっているはずです。数行を一目で読めれば一ページは数回の視線移動で読めるようになります。あとは更に視野を拡大して一ページを一目で読めるようにもなるでしょうし、更には見開きを一目で読めるようにもなるのだと思います*3。

一方で、視野が捉えた情報を把握するための訓練が必要になります。これは文法に着目して一目見てどの単語がどういう文法的機能なのかを把握する訓練です。また、一目で一文以上の文章を読むとなるとそれぞれの文章の関係を把握する力も必要になります。言い替えれば一目で見た情報を頭に格納する訓練です。

こう書くと理論的なようにも聴こえそうですが、意味をパッと把握するということですのでかなり感覚的な問題になります。ある速読の学校ではこの訓練のため、一つか複数の文を見て即座にその単語や文の関係を図にする練習をやっているそうです。

そうした練習も有益だとは思いますが、それぞれの要素の関係を意識的に把握しながら読んでいき、意味関係のパターンのストックを増やしていけばいいのではないかと私は思います。基本的に文の中の単語の関係は一定のパターンしかないはずですし、段落内における文の関係もだいたいのパターンはあると思いますおおまかに言えば逆説があるかないか、など)。

そうしたパターンを頭に入れておけば「あ、これはこういう意味だ」と素早く直観的に文章を理解できるようになるというわけです。

***

以上のようにして視野を広げ、そして広げた視野の内容を素早く理解するようになれば、かなりの速さで本を読めるようになります。そしてこうして速く読んだ方が記憶に残るのです。

確かに一回読んだだけでは記憶の違いは分かりにくいかもしれません。しかし、速く読めるということは反復しやすいということです。現在、私は新書なら三十分程度で読めますが、その本を三時間かけて一度読むよりは、同じ三時間で六回読んだ方が頭に残ると断言できます *4。

以上の方法で本を素早く読めるようになると同じ本を何度も読めるようになります。二度目や三度目の方が一度目よりも内容を理解しているので速く読めるはずです。一度読んで内容を覚えていなければ何度も読めばいいのです。素早く何度も読むことで記憶が固定されてゆきます。

速読読書術(3) 得たい情報を明確にし、目次を利用する

通常の読書では時間がかかるわりに記憶に残らないと述べました。これは読書の目的が明確ではなく漠然と文字を追っているからだと私は考えます。そこで、読書の目標を明確にし、本の全体像を頭に入れてから読むようにすることを提案したいと思います。

読書の目的を明確に

目標が明確な読書が有意味になるのは記憶にあるのではないでしょうか。試験などで必要な読書や、知りたいことを調べている時の読書は頭には残ったことと思います。

通常の読書では意識は分散してしまっていて記憶に残りにくくなっているのです。そして単調に文字面を追っているばかりだと読む速度も落ちてしまうのです。

つまり読書の目標を明確にして速く読もうという気構えをするだけでも、通常の読書よりも速くなり記憶にも残るようになります。主体的に読書をすることが大切なのです。

読書の目標とは

それでは読書を主体的にするための目標とは何でしょうか。

ここでは漠然と知識・教養を付けたいという場合を考えてみたいと思います。つまりその本を読むことで何が得られるのかは分からないが、ひとまずその本を読んでおきたいという場合です。

もちろん読むことで頭にはいくらかの情報を残しておきたいとします。自分にも人にも「その本は読んだことがある」と言えるようにする読書です。

そのような場合に読書によって得たい情報は以下のようなものでしょう。

  1. 本体情報(一次情報)
    • 作者が言いたい主張
    • 主張の説得の論理
    • 自分が知らなかった情報
  2. 属性情報(二次情報)
    • 本の基本情報 (題名、著者名、出版社、発行年など)
    • 著者の経歴や立場
    • 関連する本や参考文献
    • 本の位置付けや評判

本文に向かう以外の時間が大切

ここで注目すべきは本文を読まなくても入手できる情報が多いということです。

読み始める前と後には本の基本情報や著者の経歴や立場などを必ずチェックするようにしましょう。ある情報がどこで得られたかを記憶することは非常に大切なことだからです。

そして機会があるごとに著者やその本に関する知識を入手し、読んで得た情報と関連付けていくように心掛けましょう。これは記憶を保持するためにも役立ちます。

まず目次を読む

さて、著者やその本の知識を整理できたら、じっくりと目次を読むことをお薦めします。

目次が提供する情報は膨大です。著者が何を主張しようとしているのか、どのように主題を問題にしているのか、その主張を論じるべく著者はどのような論理を展開しているのか - こういった問題は目次を読み解くことで容易に読み取れます。

また目次を頭に入れておくことで、全体の中での位置付けが分からずに漠然と文字を追うということもなくなります。

目次は本の地図です。もし目次が頭から抜けて全体の構造を忘れてしまった場合には、必ず目次を参照し直しましょう。

目次を読む際には分からない言葉も見付かるかもしれません。こういった場合には辞書や事典を引いたりする他、索引を利用するのも手です。きちんと目次を理解してから本を読む始めると理解が違います。

本文は流し読む

目次を読むことで本の全体像を掴み終えたら実際に本文に取り掛かりましょう。とは言え、もう著者の言いたいことや議論の組み立ては頭に入っています。自分が知らなかったり特別に面白いと思うことや衝撃を受ける所を探して読むような気分になります *1。

一方で自分にとって当然であったり興味がない部分は、確認する程度の注意力で読み飛ばしてゆくことができます。どうせ興味のないところはゆっくり読んだところで忘れてしまうからです。

もちろん、著者の言うことの意味が分からなかったり、反論したくなる部分もあることでしょう。私はそのような部分で悩むことはせずにひとまず印を付けて後で読み返すことにしています。後から読めば理解できたり、一見嘘に見えても他の部分との兼ね合いで著者がそう書いていることが分かる場合があるからです。

一見するとおかしな部分が実は後に衝撃的に正しい内容であるということは往々にしてあります。その場の簡単な判断でそのような出会いを潰してしまうのはもったいないことです *2。

おわりに

以上のように読書によって得たい情報を明確にし全体の内容を把握してから読むことで、漠然と著者の議論に付き合うことがなくなりめりはりを付けて文章を読めます。読むというよりも、議論や主張の確認や目新しい情報の検索といった心持ちで本を読むことになります。こうしてすっきりと全体を把握しながら読むことで、内容をきちんと把握できますし読書時間も短時間になることでしょう。

速読読書術(2) 一般的な読書の問題点

まず速読の方法についての具体的な説明に入る前に、私が速読術を考えるに至った経緯からを辿ることで、一般的な読書の問題点について考えてみたいと思います。一般的な読書の方法の問題点は二点あると私は考えます。すなわち読書に時間が掛かることと本の内容が記憶に残らないことです。

以前の私は始めから終わりまで一文字ずつ丁寧に文字を追い本を読んでいました。頭の中では文字を音声にして文章の意味を理解していました。つまり黙読にしても「音読」で文章を読んでいたのです。

この読み方は学校教育の影響でしょう。学校でこのように文章を読むように習ったものと思います。授業では新しい文章はまず音読されてから意味について考えました。

この読み方ですと読書に必要以上に時間が掛かり、にもかかわらず本の内容があまり記憶に残らないのだと指摘したいと私は思います。

この読み方では作者の議論に最初から最後まで付き合ってゆくことになります。全体の中の位置を把握することなく目の前の文を単調に読み進む読書です。

この読み方だと読書しているという満足感は得られるのですが、私の場合には読み終わると頭に内容が残らないことがしばしばありました。たしかに読んでいる間は作者の言葉を追えているように思うし、所々では素晴しい意見や情報に出会えることがあります。しかし読み終った後で本全体の内容を振り返ると、著者が何を言っていたのか覚えていないのです。この読み方では簡単な要約を作ることすら困難でした。著者がどうやって主張を議論していたのかについてはお手上げです。読んだのに覚えていないのです。

***

いま考えれば全体を把握できないのは当然のことです。目の前の文字を追うだけで全体の議論のどの部分にいるかを考えなければ、全体の主張や議論構成などは把握できるはずもないのです。これはまさに「木を見て森を見ず」という状態です。結果として「森」を見ていないのでは一つ一つの木の印象も弱められてしまいます。人間の脳は聯関のない情報はすぐに忘れてしまうからです。

当時の私はせっかく本を読んだのに忘れてしまうのでは勿体ないと思い、内容をメモしたりノートにまとめることを考えつきました。本を読みながら一定のまとまりごとに要約をノートに書いていったのです。しかしこれは非常に膨大な労働です。本を読む速度は著しく遅くなりますし、もし一部分でも要約が不完全だとノートをとる意味がなくなってしまうからです。それに書いても全体の内容は思ったよりも頭に入りません。これはすぐに挫折しました。

同様に本を筆写したこともあります。しかし筆写しても時間と労力を使うだけで一向に頭には残りませんでした。筆写よりもむしろ要約を作成しながら読み進む方が頭に残りました。

これらの読書の方法の問題点は二点です。すなわち読書に時間が掛かることと本の内容が記憶に残らないことです。メモをしようが筆写しようが駄目なのです。

私はこの問題に直面しこのままではいけないと思い、巷に溢れる速読術の本を読み漁りました。その結果、本を読むのではなく本を読み終わった状態にするという、自分なりの速読術を考案・修得するに至ったのです。

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*1: ただし理解速度に制約されないと考える人もいます。曰く、そのとき理解していなくとも内容を頭に入れることはでき、後から思い出し理解することができるということです。ただ残念ながら私がその段階には達っしていませんので、そのような読書が可能であるのか判断ができません。脳の潜在力からすれば可能な気がしますが、ここでは読書速度は理解速度に制約されることにしておきます。

[続き]

2007-08-02

速読読書術(1) はじめに

速読技術は本を読むという過程を大切にするのではなく、本を読むことで得られる情報を最大限に重視することにより成立します。ですから娯楽で本を読むのではなく知識や教養のための読書に対して有効です。楽しみのために読むのならば過程を損なう速読は必要ないでしょう。このことから速読の真髄は本を読むのではなく、本を読み終わった状態にするために読むことにあるのだと私は考えています。私は速読の技法を二段階に考えました。

まず第一段階は読書の目標を明確にすることです。通常は本を読む目的は著者の主張やその議論を辿ることでしょうから、目次を精読することで全体像を掴むことが肝要になります。全体像が掴めれば本文を読むための労力と時間は激減します。

第二段階ではページから意味を汲み取る速度を向上させます。そのために、頭の中で音読しながらの黙読をやめて、文字が並んでいるのを見るだけでその意味を把握できるようにします。音にするよりも見るだけの方が速いので読書速度は向上するのです。そして、広い範囲の文章を一度に把握できるように努力してゆきます。

こうした訓練により得られる能力により読書速度は急激に上昇します。もちろん、有効な読書速度は理解速度に制約されますが *1、簡単な内容の本であれば十分以内での読破も可能になるのです。

2007-08-01

じじいのぼやき(2)

じじいのぼやきと同様、じじいメモから何個か写してみるテスト。

知性とは、いかなる境遇であれ、自己の感性の自由を構築する力である。

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謎のない人には魅力がない。しかし、その謎を制御できぬ人は更に魅力がない。

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日本とは、私にとってオウムと震災の空間だった。

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何かを失った悲しみは、懐しさに裏打ちされる。しかし、懐しさにひたる人は、それを既に失っていることに気づいていない。

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豊かさとは、多様性である。「ゆらぎ」を育むことである。

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敵は人ではない。無知や誤解こそ敵である。闇と鬪うなかれ、闇を照らす光となれ。

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全てのウェブサイトはアプリケーションである。データではない。

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人が知るのは「あと」ばかりである。(あと=痕跡、結果、現象)。それによって、比較や解釈ができ、変化を知るようになる。人は「あと」を見て、比較・解釈を始め、「それ」に捉われ、恐れ、恐れるが故に、「それ」を思う。ある人は「それ」を「死」と呼ぶ。私は「貨幣」と呼ぶ。

関連ページ

[1] digi-log: じじいのぼやき

情報管理の方法(1) 理論篇

自分でなんとなくしている情報管理方法を文書にしたくなった。大した内容じゃない割に長くなりそうなので「理論篇」と「実践篇」に分けることにする。基本的にはGTDのただの劣化コピーかと思う。

1. 基本方針

  1. 個人が必要なときに必要な情報を取り出せるようにする。 これが大目標。美しい管理システムや大規模なシステムを目指したりしない。少くとも「管理のための管理」にならないようにする。
  2. 探す、思い出す、迷う、悩むというストレスから脱却する。「次に何をしたらいいか」「必要な情報はどこにあるのか」を探すのはストレスになる。ストレスは仕事の効率を下げるのであり、一定のコストを費してでも情報管理をした方がよい。
  3. メタ情報は作らない。 そもそも作れない。管理のための管理、整理のための整理になる。数人以上のシステムならば必要だが、個人では必要ない。空間配置による物理的・視覚的なアクセスを最大限利用する。
  4. 行動(仕事)や状況を軸に、情報を管理する。 メタ情報を利用せず、物理的存在によって整理するので、実体を配置する軸が必要になる。そこで、客観的に思える「カテゴリー分類」などは利用せず、主観的な「すべきこと」「アウトプット」を軸にして情報を自然にまとめてゆくのが、最も効率的と考える。そうすれば、ある「すべきこと」をする時に近くに情報の実体が見つかるはずである。また、「買物」「誰々と会った時」などの状況で分けておけば、ある特定の状況の時にすべきことを忘れることがなくなる。

2. 情報の種類

情報の分類は最小にしたいが、以下の分類を最低限実行する。尚、全ての情報は日付情報を持つ。それによって日記との相互作用が生まれる。全ての情報は最終的には行動となる、つまり「TODO」や「スケジュール」となる。何も生まない情報は、情報ではないと考えるからである(ただし「いつかやる」というアイディアもあり得るので保存はれる)。

aからdはメモ帳の一ページやカード、紙切れなどに書かれる。eのスケジュールはスケジュール帳、fの状況別TODOは状況別のリストに書きこまれる(あるいはポストイット利用)。gのプロジェクトは別格で、ファイルやボックスという形で存在する。詳しくは実践篇で。

  1. 参照 - 発言者が自分以外のものの記録。人の発言や書籍やウェブからの引用など。発信者情報を持つ。往々にしてアイディアを生む。
  2. 記録 - 出来事などの記録。日記的帳簿的な情報など。発信者情報を持たない。往々にしてアイディアを生む。
  3. アイディア - 自分が生んだひらめきや理解、認識などの記録。往々にして「TODO」を生む。
  4. TODO - したいことやすべきことのメモ。夢やいつかやりたいなども。完璧主義から逃れるために、締切や達成予想状態などの「見切り」情報を持つこともある。作業に必要な情報(a-c)は、これを軸に束ねる。往々にして「スケジュール」を生む。§3参照。
  5. スケジュール - 時間が指定された特別なTODO。TODOから移動してくる場合もある。スケジュール帳に書き込まれる。§3参照
  6. 状況別TODO - 時間は設定されないが、特定の状況でないとできないTODO。状況別のリストを作成する。§4参照
  7. プロジェクト - 目標は一つだが複数の手順を持つTODO。大きな目標だけをTODOにしておくと「あれ? あれやるためには、次はなにしたらいいんだっけ?」となるので、細かく行動を分けておく。また、関連情報もひとまとめにしておけばよい。通常は一つのファイルやボックスを利用する。

3. 目標とスケジュールの管理

以下の程度の目標や予定を管理する。§2 での TODOや スケジュール はここに移動してくる。

  1. 大目標 - ミッション・ステートメント(使命の宣言)、あるいは夢、抱負と呼ばれるもの。大枠の行動を基礎付ける。具体性は求められない。落ち込んだ時、悩んだときに読むもの。文字だけでなく、写真(欲しい物や、憧れの人、自分や家族などの笑顔の写真など)も入れておくと嘘のように役に立つ。
  2. 長期目標・中期目標 - 数年単位、数ヶ月単位の目標設定。資格取得や旅行などある程度具体的な目標が望ましい。この目標を以下のスケジュールに反映させ、結果をレビューすることで、漫然とした生き方を排除する。
  3. 月間・週間の予定と反省の記録 通常のスケジュール帳のようなものを利用して、スケジュールを書き込む。通常の仕事はこれで充分。
  4. 毎日の予定と反省の記録 時間割や日記・日誌のようなもの。どんな仕事をして、どんなメモをしたかを書いておけば、全ての情報には日付を入れておくので、日記が簡易目録にもなる。また、20分単位程度でいいので行動を把握しておくと、後々作業時間を把握したいときに便利になる。

4. 状況別TODO

時間の指定のない不定期なTODOは状況や場所、人で管理すれば間違いない。「せっかく、あそこに行ったのに」「せっかく、あの人に会ったのに」ということが無くなる。

この他に、「Next Step」(次の一歩)というリストも作っておき、「あれ? 次は何するんだっけ?」という悩みを無くす。他に「いつかやる」というリストも作っておき、たまに見て目標に移動させたりするとよい。

  1. 場所で分ける やるべきことがあり、不定期に行く場所を列挙する。例えば、本屋のリストにチェックスべき本を書いておいたり、PCのリストにPCで調べておきたいことを書いておく。
  2. 人で分ける 仕事のやりとりがある人で分ける。人間は人の記憶に強いので、人を軸にして情報を整理すると便利なことが多い。名刺を糊でクリアホルダに貼り、そこにその人と関係ありそうな情報を全部投げ込んでおく。委任したりされたり仕事はここに入れるのがベスト。また、会話や電話、メール、手紙などの内容をメモ程度でも記録しておくと、思わぬ時に役に立つし、会う前にざっと眺めれば「前に会ったあの日は確か……」などと話せ高感度アップ。誕生日や好みなども記録しておけば人間関係も向上する。

ex) 私の場合:

  • 次の一歩
  • いつか
  • PC
  • 買物
  • 本屋
  • 移動中

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