2008-04-30

暗記のコツ

記憶には、ちょっとコツがあると思う。あまり周りの人が気付いていないと思われるコツを5点にまとめてみた。

  1. 想起に時間をかける。暗記しようと思って教材を眺めるのは効果的ではない。教材をある程度眺めたら、教材を伏せ、思い出せる範囲を白紙に書き出してゆく。間違いでも「創作」でもいいから書いてしまう。その後で教材と照し合わせて、どこが想起できず、どこが間違えていたのかを検討する。間違えたという刺激は記憶を促す。教材を伏せてる時間の流さが勉強の証。
  2. 順と逆の両方の流れを反復する。憶えることは時系列か因果関係、類種関係などで順番が出来ている(そうでなかったら、まずそうした《物語》を作ること)。その順序に沿って前から順番に想起するのは勿論、後から逆に想起をしてみる。歴史であれば時代順に想起する後には必ず時代を遡るようにして想起をする。前者は「○の後に◆が起こる」という時間の流れになり、後者は「◆が起きたのは○があったから」という因果関係になる。同様に、大概の知識は樹形図になったりするので、トップダウンとボトムアップの両方で流れを確認する。本もたまには後から読む。
  3. 印象深いイメージを想像する。ストレートに下ネタ的な印象で刻まれた記憶は忘れにくい。そのイメージを憶えるべき情報と《こじつける》ことも必要。物語化の能力なのかもしれない。
  4. 語呂合わせを恥じずに利用する。歴史の暗記で有名な語呂合わせだが、これを安易と軽蔑する必要はない。私はこれを軽蔑して損をしたと思う。わざわざ自分で作るまでもないかもしれないが、出来るだけ積極的に利用した方がよい。
  5. 場に関連させる。一定の憶えたいことがあったら、自分がよく馴染んでいる場所に関連させる。自分の家や散歩コース、通勤通学の駅名といったものに、記憶する要素を《置いてゆく》ことを想像する。箱に物を詰めるように憶えるのもよい。昔から有名な記憶術。

通常は1番と2番をするだけで飛躍的に記憶力が向上すると思う。そうして出来た《物語》や《流れ》を5番のように《場》に配置してゆくと更によい。

2008-04-28

集中するコツ

集中するためにはどうしたらよいのだろうか。現状で考え付いたプロセスをメモしておく。

まず、《集中》や《没頭》とは以下のような状態だと思える。

  1. 限定された知覚 - 作業に十全に意識が向かう。逆に言えば、他からの知覚は存在しない。身体の不快感や《雑念》がない状態。
  2. 行為の自己目的化 - 作業を「なにかのために」「やらされている」のではなく、その作業自体が面白くてやっていて、その興奮に自分が没頭してゆくという感覚。
  3. 主客の合一 - 最終的に《自我》がなく《対象》もなく、ただ、その作業だけが残って自律的に進んでいくという状態になってゆく。《自分》はその行為を観察するだけという状態。

それを実現するには以下のようなプロセスが効果的だと思う。

  1. 時間と空間を確保する。部屋が汚れていたり、邪魔が入る環境では集中できない。まず、掃除をしてスケジュールを明確にし、邪魔が入らないようにする。
  2. 不快感を取る。体が不快だと集中できない。ストレッチをしたり軽く体を動かすなどしてコリをほぐしておく。特に首・肩・腰。熱いシャワーもよいかもしれない。服装や履物にはゆったりとした暖かいものを準備。意外に爪や歯、そして頭髪は苛々する刺激の原因になるので、入念に手入れをしておく。
  3. 刺激を減らしてゆく。不必要な視覚や聴覚への刺激が入らないようにする。場合によっては、仕切りや耳栓・ノイズキャンセラ付ヘッドフォンを準備する。次に、坐っていて背中や肩が凝れば集中が切れるので、長時間同じ姿勢でいられるような姿勢を確保する。お尻が痛くならない敷物と、背中を曲げないでも作業ができるように調整された机が重要。作業の姿勢で何の刺激も感じないような状態が理想。

  4. リラックスする。次に本格的にリラックスするために呼吸に意識をむける。ゆっくりと深く息を吐いてゆき「リラックス、リラックス」と思う。
  5. 作業に没頭してゆく。視点をパソコンの画面や用紙などに固定し、意識をそこに置いてゆく。そこまでが身体の一部なのだと思う。更には、何かイメージを想像し、そこに意識を向けてゆく。自動的に体が動き、文字が溢れてくることをイメージし没頭してゆく。

    テンションが低い場合には、身体を揺らしたり(イスラム教徒がコーランを憶えている時のように)、音楽を聴くのもいいのかもしれない。あるいは成功するイメージや失敗したときに恐怖などをイメージして、とにかくある種の興奮状態を作ってゆく。

ああ、昔は集中力だけが自慢です、とか言ってたのに。頭の奥がキーンと鳴ったような集中よ、再び来たれ。

参考ページ

2008-04-21

ディオゲネス 僕が一番話したい人

天国で話ができるなら、僕はディオゲネスと話したい。キリストや仏陀を差し置いてだ。樽の中のディオゲネス、全ての権威を疎み、何も持たず樽の中に住んでいた紀元前4世紀のアテネの哲学者、両替商から贋金作り、経理の能力を持つ異色の人間だ。

僕は彼にこう訊きたい。「あなたにとってお金とはなんですか?」「誰かを助けたいとき、それも明らかにお金で助けられるとき、あなたはそうして無為に暮らしていることを悔やんだりはしませんか?」「あなたにとって愛、特に家族愛や友情とは何ですか?」

何で生きるか。この問いへの一つの答に「大切な人がいるから」「助けたいから」というのがある。大概は家族であるだろうし、共に戦っている友人であるかもしれない。彼らを見捨てられない。自分が生きていることが彼らの力となっている。こういう意識が人を生きさせる。そしてそれは「働く」「稼ぐ」という言葉へと結びついてゆく。

「なぜ働くか」という問いへの答に、こういう話があるのをどこかで読んだ。── もし君が働いておらず、お金がなかったとしよう。君の周りに子供がいて、鉛筆が買えないとする。君はどうする? お金がないことを悔やまないか? そして、その子供が自分の子供だったら? 自分の無為のせいで、子供に満足な教育が授けられないとしたら? まあ、僕はくだらね、と思ってしまうけど、こういう問いが響く人もいることだろう。

無為に歳をとり、ある日、小石に躓いて死期をさとっり、自ら息を止めて死んでしまうディオゲネス。働くことって何だろう。生きることって何だろう。

富と力で問題を解決しない賢人

賢人というのは働かないのが多い。キリストにしても仏陀にしても働かない。稼がない。「人はパンのみで生くるにあらず」とか言う。金持ちが天国に行くのはラクダが張りの穴を通るより大変だとか言い出す。仏陀なんか乞食そのもの。愛欲を離れろとか言う。彼自身、30前で妻子を捨てて家を飛び出した。チョー無責任蒸発男。金なし、家なし、嬶なし。まさに宿なし興道。例外的にソクラテスに妻子があるのがとても不思議。

彼等は商売一発当てて、その金で世界を救ったりしない。大富豪となってチャリティーしたりしない。現代でも、チベットでもスリランカ、ビルマでもいいけど、僧侶が平和を訴えてる。僕はそういう人達の賢さを実はちょっと知っている。日本の禅僧だってなかなかに凄い。しかし、だ。彼等が言葉で訴えるより、彼等の中からビル・ゲイツやらジョージ・ソロスやらが出て来たら、きっと紛争はカネで解決する。金融やITは極めて短時間に小さな国が一個買えてしまう金を弾き出す。

僕はたまにこう訊きたくなる。「精神の平安というのはスケールが小さいっス。でも、慈悲で大乗やら阿弥陀の救いやらってアブないっス。大体いつになったらメシアやら阿弥陀仏やらが来るんですか? ここは一発、神や仏の智恵で、驚異的なテクノロジーを発明し、斬新なビジネス・モデルを展開。あるいは市場でそれこそグルのように立ち回るってのはダメですか? 一発稼いで国でも一個買っちまいましょうよ! できる! あんたなら凄い企業を作れる! だってあんた、人間が出来過ぎてるもん! あんたの下で俺は働きたい!! 起業しませんか!」

というか、実際、訊いたことがある。もちろん「あのお、あなたは経済とか政治には興味がないのでしょうか?」という程度の柔らかい言い方で。

「興味ないです」と答えて頂いた。同様に「金で解決」についても興味ないらしい。というか、そういう解決は解決じゃないらしい。結局、金は力であり、力の解決は恨みを生む。仮にも仏道を志す者、不必要な因果を作るべきではないらしい。というか、この話は長くなるので別の機会にする。それはそれでとても筋が通っていたので、ふざけて書くべきじゃない。

人類未完のプロジェクト

政治と経済、つまりは国家と市場、力と金は喧嘩するほど仲が良いを地でいくパワフル兄弟。僕らはこの兄弟に支配されている。「やっぱり幸福はモノだね! 市場原理バンザーイ」とか言って自己疎外して何のために生きてんだか分からなくなって、ついでに資源と市場が足らなくなって恐慌になって「よーし、それじゃあパパ、民族の為に立ち上がっちゃうぞ! ヲぉぉ! 生きる力湧いてきたあ! 国家バンザーイ!」とか言って全体主義になる。それで今度は「やっぱり平和だね! グローバルなビジネスは戦争の抑止力なんだ! 経済バンザーイ」とか言って、そしたら今度も自己疎外→鬱病→自殺で、資源と市場の不足→恐慌になって、貧富の差が拡大してやっぱりナショナリズムが拡大して、「ぅぉおお! なんじゃこりゃぁあ!」ってドンパチ、ドンパチ、ドッカーン!……。

このアホ兄弟というパブリックに隠れながら、僕らは「家族」というプライベートを営んで暮らしている。アホ兄弟に服従しつつ、その存在を支えて、その兄弟のパワフルさに憧れたりもしている。というか、時に家族がアホ兄弟そのものになったりもする。結構、家族も暴力装置だったりもする。というか、昔は「血縁」「地縁」「民族宗教」という三馬鹿兄弟は、ナショナリズムや市場原理よりも猛威を振るったことだろう。

このアホ兄弟をいかに打ち倒すか。一つの戦略が、カネとチカラの妄想から離れること。貪ろらず、争わないこと。いわゆるガキの理想論。二千年以上やってる人類未完のプロジェクト。人が欲を離れ経済を縮小してゆけばいい。人にも環境にも優しい。奪い合いは減る。さらに権力を求めなくなれば紛争は起こらない。競争原理? 競争して進歩してどうするの? その富と力で誰かを蹴落としたいの? そもそも、ある種の犠牲が全体の利益になるって、結構ヤバイ思想ですよ? とかいう思想。それじゃあ悪い奴にやられちゃわない? とか言うと、それでも、そういう「悪」を自分で作るよりかはやられちゃった方がいいでしょ、そうしてりゃ、そのうち「悪」はなくなるよ、とか言う理屈。

まあ、まず無理。人は平気で殺し、少しでも貪ろうとして暮らしてゆく。人類が争わず、貪らないようになることは人類滅亡するまではやってこない。貪れば争うし、争えば貪る。「俺が一番! 弱肉強食だぜい!」「私がキレイ! ねえ、誉めて誉めて!」「俺は頭がいい! 俺に着いて来い!」「美味いもん食いたい!」「きれいな場所行きたい!」「あれ欲しい! これ欲しい! うぉぉお!」ドンパチ、ドンパチ、ドッカーン……。

《貨幣=国に広く流通するもの》を変える

ディオゲネスは樽に入る前にこんな経歴がある。あるとき彼は「《国に広く流通しているもの》を変えるのが自分の使命」との神託を受けた。彼は「広く流通しているもの」を「貨幣」だと思ったらしい。思想でも宗教でもなくて。それで彼はどうしたか。彼は贋金を作ったらしい。そして、国外追放になった。

実は、僕は彼が作ったのは贋金だとは思わない。だって、贋金をいくら作って流通させたところで、「国に広く流通しているもの」が変わるわけじゃない。本当によくできた贋金は本物そのものであるはずだ。だが、その贋金は「貨幣」を変えはしない。成功したらディオゲネスは金持ちになるだけだし(国家に流通する貨幣の量を誰が正確に知れよう)、失敗したら「贋金作ったバカがいた」でおしまいである。贋金じゃあ、貨幣は変わらない。

彼が作ったのは法定通貨とは全く異なる貨幣だったんじゃないかと僕は思う。つまり、全然似ていない贋金。彼は、その国の権力が定める貨幣とは全く違う通貨を考案し、それを流通させてしまったんじゃないかと思う。

そんなことが可能なのか。まあ普通には無理だろう。しかし可能性はある。

例えば、ディオゲネスがディオゲネスのオリジナルなコインを作ったとする。名前がないと不便なので、このコインを「ゲネス」と呼ぶことにしよう。ディオゲネスは、このゲネスを持って八百屋に行って、キャベツを買えるだろうか。そんな訳はない。それは「お金」じゃないからだ。

ところが、だ。ゲネスをディオゲネスの所に持って来れば必ず「本物の金」と交換すると言ったらどうだろうか。もちろん、八百屋の親父は嫌がるだろう。でも、多めにディオゲネスが、このゲネスを渡せば、しぶしぶ納得するかもしれない。そしてディオゲネスがゲネスを街中にばらまけば、八百屋の親父はディオゲネスの所で交換する前に、理髪店でゲネスを使うかもしれない。そして理髪店の親父は、そのゲネスで魚を買うかもしれない。ディオゲネスの所に持っていけば、ちゃんとした金にしてくれる。だったら、別に受けとっても問題はない筈だ。人々がそう思う限り、ゲネスは受け取られ続けるだろう。

ディオゲネスは両替商だった。どれほどの規模だったかは知らない。しかし、もしかしたら、かなり大規模にゲネスをばらまくことが可能だったかもしれない。両替商から銀行まではただの一歩で、ただの貯金と貸出を行う商業銀行から、貨幣を発行する発券銀行までもあと一歩だ。貯金の証書を貨幣のように流通させればよいだけだ。事実、日本の法定貨幣である「円」は日銀の一種の「借用証書」に他ならない。もしかしたら、ディオゲネスは、街の貨幣をゲネスで支配してしまったのかもしれない。

もし、ゲネスが流通したとしたら、ディオゲネスは流通しているものを変えたことになる。法定通貨の《複製》である贋金ではなく、自らが《オリジナル》であることによって。

そして、ディオゲネスは国から追放される。国と国家は密接な関係を持つ。歴代の王は貨幣に自らの肖像を刻む。貨幣への冒涜は国への冒涜である。事実、日本でも不用意に貨幣を損傷させてはいけない(貨幣損傷等取締法)。通常、所有物に対し私たちは破壊する権利を持つ。自分の携帯を破壊しようが、家を壊そうが、それが自らの所有に属する限り、行政はなんらの規制をかけない。しかし、貨幣は違う。自分の貨幣を損傷させてはならないし、損傷させるために集めることもならない。なぜか? 《流通するもの》の性格が損なわれるからだ。

貨幣。ここにおいて国家と市場は緊密に接続する。もし、僕が話すように彼が贋金ではなく貨幣を創造したのだとしたら、ディオゲネスは一時的とはいえ本当に国に広く流通しているものを変えてしまったのかもしれない。その貨幣をコントロールすることで、彼は様々に人の欲望をコントロールできたことだろう。そしてあるいは、人の欲望に失望したのかもしれない。

ディオゲネス。樽の中のディオゲネス。君はシノベの街で何を見たのだろう。僕は君がただの贋金作りであったとは到底思えない。何かを気付き、国家に財産を没収させたのではないだろうか。カネの魔力について教えて欲しい。人が働くことって一体なんなんだろうか。

神々にように人を支配できる人間が、犬のような人へ

国を追われたディオゲネスは船旅の途中で海賊に捕らえられ、奴隷商人に売られてしまう。ディオゲネスは商品になってしまう。奴隷商人に「おまえは何ができるか」と訊かれ、彼は「私は神々のように人を支配できる」と答えたらしい。人はみな欲望の奴隷である。私は一人、真理への道を知っていて、欲望を離れている。だから私は自分の主人である。そして、自分の主人であるものだけが、他人を自由にできるからだ、と。このディオゲネスの演説を聞いたクセニアデスという富豪が彼を買い取り、息子の家庭教師とし、更に経理を担当させた。きっと息子の成長も商売も成功したのだろう。喜んだクセニアデスは彼を奴隷から解放する。そう。ディオゲネスはまっとうに働けた。教育も商売もできたのだ。

自由人になったディオゲネスはアテネの町にやってくる。そこでソクラテスの弟子のアンティステネスという哲学者と出会う。アンティステネスはソクラテスの物欲に振り回されず、魂のために生きるという教えを実践すべく、財産を捨て、粗末な身なりで街を歩き、人々に簡素な暮らしの素晴らしさを説いていた。ディオゲネスは彼の姿に打たれ、自らも犬のような暮らしを開始したらしい。

「犬のような人」。ギリシア語で「キュニコス」。英語のシニックやシニカルの語源。こうした言葉は、このディオゲネスから生まれた。冷笑的というよりはただの犬。犬も住まない汚ない桶で雨露を避け、晴れた日には日向ぼっこ。農夫から恵んでもらったキャベツを川で洗って飢えをしのぐ。

それでも彼は尊敬された。ある日、アレクサンドロス大王自らがディオゲネスを訪ねた。日向ぼっこをしているディオゲネスは寝そべったまま。そんなディオゲネスにアレクサンドロスは話し掛ける。
「こんにちは。ディオゲネス。私はアレクサンドロス3世です。ギリシアは私のものです。人々は私を恐れますが、あなたは恐れないのですか」
「君は善い人かね それとも悪い人かな?」
「私は善い人です。我が師アリストテレスから善く生きることを学んだつもりです」
「君が善人なら、私は君を恐れる理由はないだろう」
「なるほど。その通りです。私はあなたのような智者にあえたのを嬉しく思います。何か望むものはありませんか?」
「それじゃあ、私の前に立たないで欲しい。日の光を君は遮っていてね。日向ぼっこは私の大きな楽しみでね」
「それは失礼しました。あなたはアテネで尊敬できるただ一人の人です。質問させてください。私はどう見えますか? 私は善い人なのでしょうか」
「人物は行動で評価される。君は多くの人を殺した。人殺しは善い人のすることだろうか。君は人殺しを償う以上の善行が存在すると考えているのかな」
「私がギリシアを征服したのは平和のためです。私は世界の隅々まで征服し、世界に平和をもたらします。これが私の使命なのです」
「戦いは戦いを生むだけだ。アテネはそうして滅んだ。君もそうして滅ぶだろう。平和ならここにあるよ。何もしないこと。これが平和だ。君も鎧を脱いで日向ぼっこをしないかね? 贅沢な料理なんて食べないで、キャベツでも川で洗って食べたらどうだい?」

立ち去りながらアレクサンドロス大王は部下に「私はアレクサンドロスでなければディオゲネスになりたい」と語ったらしい。

こうしてある種の尊敬を集めながらもディオゲネスは樽の中で無為に人生を送って90歳まで生き長らえた。一方のアレクサンドロス大王は33歳で毒殺され、後には後継者争いの大戦争が勃発した。

力は悪なのか?

本当に人間が何かを求めるということは無駄なのだろうか。「犬のように」生きるしかないのだろうか。犬のように生きるとき、目の前に悪があればどうするのだろう? 犬のようにただ吠え、噛みつくだけなのか? イエスのように、十字架に磔にされるだけなのか? 「わが神、わが神、なんぞ我を見捨てたまいしや」と叫ぶだけなのか。

力があれば、と思わないのか。力を思うことは無駄なのか? 愛とは誰かを救うための力の謂ではないのか? 大切な人に力を与える力のことではないのか? 分かっている。違うのだろう。それは火に油を注ぐだけなのだ。それは愛ではなく、愛執であり執着なのだろう。子供可愛さに人は不正を犯す。すこしでも力を残そうと親は躍起になる。これは許されない。

個人的な「愛着・愛執」にとらわれてはならないのだろうか。だから、仏陀は父親をほとんど見殺しにした。彼の死を聞いても眉一つ動かさなかった。まさにこれが「出家」という言葉の意味するところであり、キリストの「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる」という言葉の意味するところだろう。

「あんたらは人を愛さなかったけじゃないのか?」「家族を大切にしなかっただけじゃないのか?」そうじゃないだろう。それくらい僕でも分かる。愛したからこそ、力を離れるという愛もあるのだろう。そうとしか言えないのかもしれない。

「愛」はあまりに主観的な経験で、普遍的な議論には乗りにくい。常に愛情とは「特定の誰か」への愛情である。愛が素晴らしい。確かに。しかし、人は何を愛するべきなのだろうか。分からない。だから愛の物語には様々なバリエーションがある。愛するもののために力を尽くしてゆくドラマがある。国家に身を捧げる美談や不正をしてまで親を助ける美談がありえる。国家を超える愛。家族への愛。そこに崇高なものを見て取ることは自由としか言えない。しかし一方で、国家のために我が子を犠牲にするという「愛」もありえた。信仰のために家族を犠牲にするという「愛」もありえた。これじゃあ、何がなんだかわかりやしない。だから愛のドラマを読んでもその場では感動するが、実際には何の役にも立ちはしない。

結局、どうしようもないことだし、結局、人の運命なのだろうか。元来がものぐさ者であっても子供が生まれてはりきって働く者もいれば、王であっても子供がある程度育ったらそそくさと森へと駆け出してしまう者もいるのだろう。我が子を愛するものがいて、真理を愛するものが居る。国家を愛するものがいて、美を愛するものが居る。どちらが欺瞞でどちらが正しいかなんて誰にも分かりやしない。

それでもこうして相対化すると、誰もが何かを愛しているように思える。だから、力は恐ろしいのかもしれない。愛と我侭とを区別できるのだろうか。我が子のために国家を裏切ることはいいかもしれないが、我が子かわいさに国家を滅ぼしてしまったとしたら? 逆に国家のために我が子を殺してしまったとしたら? どちらも美談になりえると同時に眉を顰める話にもなる。女のために芸術のためにわが身を滅ぼす。誰が笑えよう? 愛とは時に破滅へと導くものなのだから。

だから哲人はこうした「個人の愛」と「真理への愛」「神への愛」を別にしたのだろうか。欲望と「個人の愛」の区別はほとんどない。子供へのいい家、いい部屋、いい教師……。欲望は溢れ出す。限度を超えないと誰が言えようか。ただ、私はそうした生き方を否定するわけじゃない、ただ、人間のある生き方について考えたいだけだ。諦めることだけを学ぶことが人生なのだろうか? いや、「普通」はそんな善悪の見境はつくと抗議もしたい。俺は正義と大げさに言うほどじゃないが、悪いことはしていない、と言いたい気もする。が、それに自信はない。人間、気が付くのはいつも手遅れになってからなのだから。

貨幣は問題なのか

力で問題は解決しない。力で世界平和はやって来ない。なぜか? 一つの考えをメモしておく。

いかに一人が富と力を独占しようとも《商品》は残る。《貨幣》のあるかぎり人は全てを商品と見做し続ける。そして、人は人を《商品》として考えることをやめない。やがて彼とは別の《商品の体系》を生み出し、貪り、争うことだろう。人が商品の大系を生み出す限り、争いはつきない。なにせ既に誰かが世界制覇を為しとげているかもしれないし、誰かが富を握っているのかもしれない。しかし、実はそんなことは関係ない。実際に神がいて全てを支配していたとしても、結局は人は貪り、争い続けるだろう。

ディオゲネス。《流通するもの》を変えるためには「贋金」以外に方法はなかったのか。なぜ、それに失敗したのか?

《貨幣》はどうすれば変わるのだろう。貨幣が人の欲を煽る。人を数字にする。人を手段にする。ディオゲネス。やはり犬になるしかないのだろうか。

***

いつもの通りにめちゃくちゃだが、こんなところで。

2008-04-18

ヴィジョンを創造し、共有する対話とは

数字や論理は強力だ。それは会話を支配する。だからこそ、新しい価値を考えたり、未だに存在しない未来を語るにはふさわしくないことがある。人を惹きつける言葉は何か。もっと本能的で情熱的な思考が必要なのではなかろうか。鬱々しい気分を晴らすべく思い付いたことを熱く書いてみた。

  1. 計量的思考を批判し、アナロジーで思考する。ヴィジョン創造や共有においてメタファーは有力な道具となる。というか計量的思考も本質的に言えば一つのアナロジーに過ぎないわけで、一つのものに偏るのは危険である。数字は確かに説得する。しかし情熱を抱かせることはない。情熱を抱かせるのは人間の言葉、物語だけである。そして熱意を立ち上がらせる物語に類推思考は欠かせない。
  2. 常識や論理を懐疑し「正しさ」を再構築する。論理を外面化してもトートロジーを話すだけか、従来の常識を無反省に話すだけになる。常識とは集団が共有した知恵であり、生産的である反面、検証が必要なものである。常識が正しいなどという根拠はない。何故か人間にとって、それが正しいと思わされるということが起こるということだけであり、それは状況の変化にさらされれば、ただの屁理屈になる性格のものである。一方で、常に正しい論理は、たんにトートロジーであるだけであり、それは何も生みださない。「正しさ」の崇拝は危険であるか、不毛である。
  3. 自分を引き付けた言葉そのものを学び、説得力そのものを内面化する。誰しも人の言葉を聞いたり、読んだりして説得されたことがあると思う。その時に、説得された内容を検証することは勿論だが、その説得がなぜ起きたのか、その論理は何か、と問うことも有益である。こうした問いを通じて、論理を自分の内面にしてゆく。そうして生まれた自分だけの語り口が、結局は何かの価値を生み出し、人を説得するのだと思う。常套句とトートロジーによる外面化した論理では新しいものは生まれないし、結局は人を説得はしない。人は人にしか説得されないのだから。

結局は、互いのメタファーに共感できるような人間関係、アナロジー的思考を共有できる対話の場がないから、数字や論理、場の論理による思考が横行してしまうのだろう。意識的に「正しさ」を懐疑したり、アナロジーや物語を紡ぐような場を設けることが大切だ。

更にいえば、新しいものがうまれたり、信頼がうまれるのは、その人の言葉とその人自身が結びついた時だ。その人の経験、それを通じたその人の語り口、仄めかす比喩、それに基づく物語、こうしたものが総合されたものを、私は人の人格と呼びたい。つまるところ、人格とはその人が語る物語であり、その物語を可能にするその人自身である。と、ただのぼやきだが。

正直、気分が滅入った時には、なんというか、徒にこういう文書を書いていると気分が休まる。

効果的活動のための4つの場

どのようにしたら効果的な活動が実現できるのか? その鍵は「対話」が握ると僕は考えている。しかし、自由な対話は時に「場の空気」によって妨害される。それでは対話を促進するような「場」とはどういうものなのだろうか? いま思いつく4つの場をメモしておいた。

digi-log: 創造性とコミュニケーションには効率的ではなく効果的な活動が必要 では、創造とコミュニケーションでの成果をあげるための指針を書いた。効果的な活動に必要なことは対話を通じてヴィジョンを共有し、チャレンジを推奨しつつ無駄な「管理」をら、個人が作業に没頭するということであり、逆に、人が悪しき「効率主義」に陥るのは、人の評価を気にしてしまうからだと書いた。

効果的活動の柱となるのは対話である。対話こそがヴィジョンの創造とその共有を可能にする。対話こそが信頼を生み、管理の削減と、個人の試みや没頭を可能にする。対話はクリエーションやコミュニケーションにおける効果的活動に必要不可欠な、新しい価値の創造と共有、相互の信頼を生み出す根源となる。

ミーティングと個々の作業でも、対話は行われるように思える。しかし、それらは効果的に目標を達成しない。このことについて考えてみると、そもそもミーティングにも、それぞれの作業にも二つの性格があるからだということになる。全体として以下の4つの対話の場が必要となるように思う。

  1. ヴィジョン創造の場: 全体の物語が創発する場。個人と個人の創造性がぶつかる。試みが生まれてゆく。「これをすることに意味はあるのか」「目的は何か」「自分たちは何をしたいのか」が問われてゆく。問題解決の技術で書いたIに相当。
  2. ヴィジョン共有の場: ヴィジョンが共有され、個人の仕事の責任が明確となってゆく。試みは企画となる。メンバー間の信頼の調整も行われる。「どうすればいいのか」が問われつつ、不必要な管理が排除される。問題解決の技術で書いたIIに相当。
  3. 個人没頭の場: 信頼と責任に基づき、個人が作業に没頭する。自己裁量の枠内での試みが行われる。
  4. チームプレーの場: 集団で作業を行う。作業を通じてのヴィジョン共有や信頼向上が起こる。

上のように書いてしまえば何のことはない。しかし、現実的に「ヴィジョン創造の場」や「個人没頭の場」が確保されることは少ない。だから、うまくいっている職場には必ずと言ってよいほど、職場の外で、ヴィジョン創造のためにグラスを傾けるコミュニケーションの達人がいたり、個人没頭のために仕事を持ち帰る創造の達人がいる。多くの職場が、そうした隠れた少数の人に支えられている。しかし、往々にして「職場の外」で活動する彼らは通常の評価を得られないことも多い。

単純に言えば、いま欠けている場があれば、そうした場を確保すればよいということになるか。つまりバランスを取ることだろう。人間の関係には様々な対話の場が必要であり、ある状況で行われた対話が、他の状況での対話を促進する。必要な場を確保することがリーダーの役目ということになるのだろうか。

2008-04-16

健康に関して「もっと早くに知っておけば」と思った5つのこと

健康と美容には、ちょっとした意識を持つだけで十分だ。最近そう感じるようになった。以前に 最近の心得 で書いたことを中心に、身体を健康に保つ上での注意点をまとめてみた。

時間がない? 大丈夫。時間を使うようなことはここでは薦めていない。

(1) 姿勢と呼吸を意識するだけで健康・美容に効果がある。

一番簡単で効果が大きいダイエット・美容法は、姿勢を良くすることだと思う。姿勢や歩き方は人の見た目の印象に無意識的に強い影響を与えているし、よい姿勢と深い呼吸は血流をよくし、無駄な肉を取り肌と体を美しくする。

意識を持つだけでも十分効果がある。下腹部に力を込めて、胃の辺りと項を伸ばすようにすればいい。また、呼吸を深くすると体と心の緊張は取れやすい。また、日頃から自分の呼吸に意識を向ける習慣をつけるだけで、呼吸は深く穏やかなものになり効果が現れる。

更に姿勢や呼吸をよくするためにはヨーガが一番だと思う。柔軟性・バランス感覚を養いつつ、姿勢を保つ筋力を向上させてくれるだろう。また、呼吸法を練習したり、心肺機能を鍛えるべく有酸素運動(ジョギング、水泳)をしてみるのもいいだろう。

(2) 腹筋はやたらとしない方がいい。

間違った腹筋は腰痛の原因になるし、過度に腹直筋を使う癖をつけてしまう。姿勢と呼吸に気を使うだけで、若い男なら腹は十分に割れるし、女ならウェストはくびれる。要は常に下腹部に力こめて腹から呼吸すればいい。それだけで腹はひっこむ。

それでも腰回りの贅肉が気になるなら有酸素運動やヨーガ、バランスボールやスタビライゼーションなど筋力とバランス感覚を同時に鍛える運動をする方がよいと思う。

(3) 起きる時間を日の出の時刻にすると短時間睡眠で身体が楽。

人間は暗い場所で眠るように出来ているので、明るいと睡眠の質が極端に下がる。だからに日の出の頃に目覚めるようにするのが効果的だ。そして起きたら太陽を眺めるようにすればサーカディアンリズムも整う。リズムが整うと驚くほどに身体が楽になる。日の出が無理でも起きる時刻は一定にした方が身体は楽なのは確実だと思う。

それに本当か嘘かしらないが23時と午前1時に寝ていると健康によいと言う。できることなら日没後には仕事をやめて日の出と共に働くようにしたい。digi-log: 朝起きるコツdigi-log: 寝付きをよくするために も参照のこと。

(4) 「よく噛む」の効果は大きい。

噛むことは誰でもすぐ出来る効果の幅が広い健康法だ。よく噛むことはストレスを解消し、胃腸の問題を改善する。過食をなくすのでダイエット効果もある。固いものをしっかりと噛めば、こめかみから顎のコリをほぐし偏頭痛を取り、ひいては眼精疲労回復にも効果がある。

最近、顎が疲れるほど噛んだこと、あります?

(5) ちょっとした時間で身体をほぐせる。

頭や顔を洗う時に耳の裏から目の周辺にかけてをマッサージする。湯船の中で足の裏を揉む。暇があれば前腕や手の平を揉む。首や肩を伸ばす。寝る前に前屈や股割、合蹠などの柔軟を少しだけやってみる。どこも結構こっていると思う。

***

体は気を使わないといけない。病気の問題は勿論、肉体面の問題が思考や精神にも強い影響を与えるからだ。加えていえば、見た目が人に与える印象は絶大で、生活のストレスの大部分が人との関わりによるものである以上、見た目に気を使うのは合理的とも言える。

運動を生活に取り入れたとしても、それにかけた時間は能率アップでばっちり回収できるはずだ。ついでに言えば寿命も伸ばすだろうから、人生のアクティヴな時間を大幅に増やすことができるだろう。

2008-04-14

創造性とコミュニケーションには効率的ではなく効果的な活動が必要

極めて何でもない話。書いてしまったので残しておく。

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まず言葉を整理しよう。結果に対する「質」的影響を「効果」と呼び、「量」的影響を「効率」と呼ぶことにする。従って、効果的活動は結果の質を高めるだろうし、効率的活動は量を増やすだろう。

私達は往々にして効率を求めてしまい、結果として効果を損ねている。確かに生産労働であれば効率が最優先されるのは当然である。しかし、創造性とコミュニケーションを発揮するべき状況で、効率を追うことは危険である。効率的な作業が、効果的な活動を抑圧してしまうからである。

ある上司と部下がいたとする。上司が部下に「頑張ってくれ。やればできる」と毎回励ます。部下は次第にやる気を失ってゆく。上司は今度は「やる気を出してくれ」と言う。部下はどう思うだろうか。

また、ある男女がいたとする。女が男に「かまってくれない」と不平を言う。男は「そんなことはない」と反論する。「だって、夕食も週に3回は共にしているし、休日も一日は家族のために充てているじゃないか。年に二回も旅行に行っているし。そのために僕がどれだけ努力をして時間を割いていると思ってるんだ」女はどう思うだろう。

量的な価値への関心は、創造性や人間関係を損ねることはあれ、満足させることはない。私たちの関心や興味は、最終的には質的な価値によってしか満足させられないのだから。

なぜ私達は効率を求めてしまうのだろう。すぐに思いつくのは、量的な価値は、定量的な測定がしやすいということ。一方で質を定量的に計算することは難しい。つまり、質よりも量の方が評価の基準となりやすいのだ。

だから結果を求めるよりも、人からの評価を求めるとき、私達は効率を追い求めてしまう。そして、己の労働を誇り、自己の正当性を強調する。求められているのが満足である限り、量的な追求は意味をなさないのにも関わらず。常に評価の基準は己を隠蔽しつつ、人々を物陰から支配し、やがて誰もが憧れる目的として君臨するものである。

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効果的な活動とはどうしたものだろうか。本当に効果のある活動のために留意すべきことは何か。よく分からない。そこで思いついたことをリストにするという逃げをうつことにする。

  1. 対話を重視する。会話のノイズを恐れないこと。何気ない世間話はもちろんのこと、表情、姿勢、仕草といった情報を交換していることが、大切な問題や思い切った意見を話すときに大きな助けとなる。
  2. 物語・ヴィジョン・成果を共有する。「自分が何をしようとしているのか」「その意味は何か」を問わない人間はいない。情熱を生み出すには劇的な物語が有効。それぞれの人間の未来を描いてゆく物語、組織全体の未来へ向かう物語、それぞれの仕事が顧客との関係で語られてゆく物語を共有してゆくことが大切だ。「こんなことをしていても意味がない」ではいい仕事にはならない。魅力的なヴィジョンを皆で共有するように努力したい。もちろん、こうした物語は対話を通じて創発されるものでなければならない。
  3. 「試み」を歓迎する。失敗も歓迎する。アイディアは「試み」としてうまれる。完全な「企て」つまり企画としては登場しない。試みに何かをする自由を歓迎する必要がある。もしも、試みの推奨で組織が上手くいかないのならば、それは組織のヴィジョンそのものか、構成員の能力に致命的な問題がある。
  4. その「管理」は本当に必要なのかを常に問う。対話はいつのまにか管理へと堕す。だからこそ常に「その管理」は必要なのかを問う姿勢が必要である。もちろん、ある種の効率の追求は推奨されるべきである。しかし、その効率の追求である管理が、創造性とコミュニケーションを奪っていないのかに常に配慮する必要がある。
  5. 個人が個人として作業に没頭できるようにする。個人が個人としての力を十分に発揮できるのは、彼が仕事に没頭しているときである。急かされたり、焦らされたりしている状況ではない。だから、一人一人が信頼され、自分への自身を持って作業に没頭できるような配慮が必要である。

一般には、以上とは逆の状況が起こりやすい。対話はなく、当然にヴィジョンの共有は起こらない。同時に新しいアイディアも産まれない。その理由は、そうしたことに割ける時間がないからである。一方で、想像やコミュニケーションとは無縁の形式だけの「管理」(会議と書類)には膨大な時間が割かれ、一人一人は怠慢を疑われつつ労働をチェックされ続け、仕事に没頭できる環境が与えられない。

と、いう訳で極めて何でもない結論。書いてしまったので残しておく。

戦争を語ること、戦争で語られないこと

祖母の言葉を思い出していたら(祖母の知恵)、戦争について書いてしまった。

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昭和20年3月10日、電話交換手だった祖母はその夜のうちに32人の同僚の内28人を失った[1]。逃げることもできなかった彼女たちの焼け焦げた死体は消し炭のようであり、財布のがま口で死者の数を推定せざるを得ないほどであったという。

彼女たちは逃げられなかった。通信網が機能するうちは、逃げることを禁止されていたからである。当時の電話は、機械ではなく人間が一々接続作業をしていた。だからシステムが生きていたとしても、人間が逃げてしまっては通信が出来なくなってしまう。軍や政府にとって通信網は生命線である。電話交換手が「最後まで」業務を遂行する必要があったのだ。

飛来するアメリカ軍に対し、日本側の迎撃も虚しく東京の通信網は1時間後にダウンする。

そうして祖母が逃げられる頃には、周囲は完全に火の嵐となっていた。煙は成層圏にまで届き、風速は25mを越えたという。

多くの者は逃げることを諦めた。バラバラになって路上で死ぬよりは皆と一緒になって死ぬことを望んだのだらしい。しかし、私の祖母とその友人は、その嵐に向かって飛び出し、かろうじて生き伸びた。生き残った彼女たちは遺族に「何故あんたたちだけ生き延びた?」「逃げたのではないか?」と恨まれた。

敢えて言うが10万人が死んだ夜だ。彼女だけが特別ではない。そして、こうした悲劇も、空襲のあった街ならばどこでもあった話と思う。そう、そんな彼女たちの話はこんな絵本にもなっている。よろしければ手にとってみて、子供にでも与えてやって欲しいと思う。

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この文も彼女の戦争には何ら触れていない。ただの「それらしい文」の羅列である。自分で言うと自虐なんだかかえって傲慢なんだか分からないが、ゼロ点である。彼女の戦争はこんな文では一部分も描けていない。

幼ない頃からこの絵本を読んで育ち、種々の体験記を読んだ上で、かなり大きくなってから祖母に本腰を入れて話を聞いた際に、本の印象と彼女そのものの戦争が大きく異なっていることに戸惑った。どう違うのかを書くのは難しい。そもそも、この文そのものが、既に欺瞞に満ちているようである。

彼女だけではない。以後、何人かの戦争体験者とも話した。そして本も読み続けた。それでも、本で語られる戦争と、体験者が語る戦争は違うのである。別に作者の能力がないとか、捏造をしているとかいう訳ではないだろう。それでも、明かに何かが抜け落ちているのである。

私は体験者が語り開きつつある空気を信じる。いや、語り開きつつあると私に感じられた空気を信じる。私にとっての彼らの戦争とは、本が伝える戦争とは異なるのである。体験者が自ら筆を取り、真に語ったとしても抜け落ちるものがあるのである。そうとしか私は思えない。決定的な空気の質の差があるのである。

私は悩んだ。そして、ある程度の「結論」のようなものが出てきた。試しに書いてみる。書いている内に答えも深まるかもしれない。こんな話、誰にもしていないのだが。

ある意味で常識的なことだとも言える。「文体」や「文藝」が邪魔をしてしまうのだろうということである。書かれる以上、文藝的であることを避けられない。しかし、日常としての戦争、あるいは戦争としての日常を描くには、通常の文体は、あまりに文藝的すぎるのであろうか。そう。あまりに文藝的過ぎ、劇的過ぎるのである。

戦争としての日常は、人の死を劇的に描かないことでしか成立しえない。しかし、人の死をいかなる意味でも劇的に語らずに物語は語られうるのだろうか。死を無意味に語るような文体は存在するのか、この問い自体が、あまりに文藝的であり、恐ろしい問いではなかろうか。語ることは文藝的になりすぎる。文藝的になることを許さぬ深刻な問題であるときですら。そう「深刻」という単語自体が文藝的すぎる。事は極めて深刻なのである。

敢えて言えば、彼ら体験者の言葉は「深刻」ではないのである。どこか夢でもみたような語りになるのである。断片的で、途切れ途切れであり、現実味は薄れるのである。「核心部分」においてそうなる。曖昧になり、夢を見たかのようになる。

いかなる意味でも文藝的でない、夢を見たかのような祖母の言葉で語られる戦争以外に、私にとって真実の戦争はありえない。不謹慎な物言いであることを十分に自覚した上で敢えて言えば、戦争を「深刻」に語ることは文藝的すぎであり、それは真実ではない、ある種の詐術のである。彼らには「深刻」という感覚すら無いのである。そういう「余裕」はない。ただ、断片の言葉の端の端が、その呼吸の間が、語り開かれるべき現の場の空気を立ち現せ、仄めかすだけなのである。10万人が一夜にして死んだ夜はそのようにして、つまり語ることの否定を通じてしか語りえない。いや、この物言いは文藝的すぎる。もっと本当の意味で深刻であり、本当の意味で残酷であり、つまり、空虚なのだ。敢えて言おう。あっけらかんとしているのである。紙でも燃えるように「燃えちゃったんだよ」と語るのである。

もう少しだけ言ってみよう。人が愛することが無意味であること、人が死ぬことが無意味であること、人がただの肉であること、こうしたことをいかなる意味でも文藝に陥らず、物語るということは恐ろしいことである。不可能なのである。既に私の物言いは文藝的である。違う。敢えて言う。その夜において、人が愛することが無意味であった、人が死ぬことが無意味であった、人がただの肉であった。いかなる文藝的な嘆きを受け付けぬほどに、それが現実であった。

いや、私はこんなことを言って「俺は現実主義者だぜ。本当の現実を恐れずじっくり見てるんだぜ」なんて嘯きたいのではない。そういう物言いをしているうちは、ある意味、文藝的であり、ある意味、羨ましい。頑張れ、若者と言いたい。逆である。私の言いたいのは、人が愛するということは意味があり、人が死ぬということは恐ろしく、人はただの肉ではないのである。これは疑いようがない。これを疑う人はまだ人生を知らないと言っていい気もする。若い戦士の銃の引き金が軽いのと同じ理由だ、人生を知れば引き金は重くなるものだ。あるいは、単純に「愛は無意味だ」という言明そのものが愛の意味を語ってしまうし、死にしても同じことであることを考えてみてもいい。

更にはっきり言おう。愛に意味があり、死は恐ろしく、人は物ではない。だからこそ、それが「そうではなかった時」それは「現実」ではないのである。人間は愛を死を人間を無意味なものとして物語る言葉を持たないのである。「意味」の連続である人の言葉は「無意味」を表現することができないのだ。いや、これを空虚な戯言とは取らないで欲しい。この言葉の意味をよく考えて欲しい。人は空腹を語れる、苦痛を語れる、友を失なった悲しみを語れる。それどころか悲しみを感じない自分への違和感を語れる。更には悲しみを感じない違和感すら失われた違和感すら語れる。しかし「現実」はそこで終わる。何も感じさせる猶予もない圧倒的な殺戮、圧倒的な虐殺、つまり「無意味」を語ることは不可能なのだ。

体験者の言葉は夢のようになる。時間的・因果的な関係は悉く無効になる。確かに意識があった筈であるにしろ、彼らは言葉を失い、物語る力を失い、時間も因果関係も失う。彼らは「大切な部分」において、ある意味で「記憶」を失うのである。人は言葉において物語ることができ、物語において時間と因果関係が存在するのである。物語を失った「記憶」は時間を失い、断片となる。いかなる意味でも無意味だからである。本当の意味で無意味なことを人は物語れない。夢を見ているようになるのである。夢の話をするように、現実であったはずの話をするのである。現実を話しているのに、人は空を飛び、その時には死んでいた筈の人間が話し出し、語り手自身も死んでしまったり、全然べつの場所にいたりする。そういう風にしか語れない、つまり語ることを拒みつつでしか語れない「現実」が存在するのである。

しかし、まさにそこが彼らの経験の中心であると思った。言うまでもなく彼らは異常者ではない。それが正常な人間の正常な反応なのだろう。

言葉となった戦争は劇的すぎる。言葉は常に文藝的でしかありえず、文藝的でない言葉は存在しえない。死を何如なる意味でも文藝的でなく語れる人間は存在しえない。それは人間ではない。辛うじて、夢の中を語るように断片による仄めかしが出来るだけである。しかし、これは語り得ない。不可能だ。

いや、こんな物言い自体がふざけている。不敬である。冒瀆である。その上、気がついたらホロコーストの哲学の影響をもろに受けてしまっている。ほんと馬鹿みたいだ。

notes

[1] 非番が2人。つまり実質「生き伸びた」のは2人だけ

2008-04-13

祖母の知恵

祖母は別に偉人ではない。それでも戦争を、殊に東京大空襲を生き抜き、激動の戦後を病気の祖父と二人の子供を育て抜いた彼女には、明らかにそれと分かる知恵があり力があり、身内のことで馬鹿みたいだが、幾度か私は大したものだと感じたことがある。いくつか祖母の言葉を書き留めておく。

  1. 「無理は無理だよ」 何かに失敗し、力尽きた人に言う言葉。彼女は決っして人に無理をさせない。「頑張れ」とか「だらしない」という言葉は彼女の口からは絶対に出ない。そう、無理は無理。無理を通そうとするから人間は苦しむ。人の出来ることには限度があり、無理は無理と諦めるしかない。
  2. 「気持ちがいいからやってるだけだよ」 彼女は朝に晩に死んだ夫の仏前で般若心経を唱える。しかし、それに宗教的な意味合いはないという。「するべき」とか「やったらいい」とかではない。ただ気持ちがいいからしているのである。死者のためだとか、功徳のためだとか、万が一にも悟ろうだとかとは無縁の、目的のない読経。恐らく、生きることも恩着せがましくなく、抽象的なものを妄想せず、ただ気持ちよくやっていくべきものなのだろう。
  3. 「自分おだてて笑ってりゃ世話ないね」 お喋りな彼女はよく笑う。自分が美人だったとか頭が良かったとか言って、けたけた笑う。健康の一番の秘訣だろう。ちょっとお馬鹿さんにしていると人生は明るく、周囲もくつろげる。
  4. 「おんなじがいいんだよ」 食事、掃除、買い物、風呂、就寝……。彼女の行動は決まっている。同じように同じ生活を日々繰り返している。大したことをしているわけではない。ただ、決まったことを決まったようにしているだけだ。炊飯ジャーも洗濯機も使わず、米は圧力釜で炊き、洗濯物は手で洗う。電話は昔ながらの黒電話。安らぎとは、変わらないこと、繰り返しの中にあるのかもしれない。
  5. 「あたしゃ大切なのは家族だけだね」 彼女の優先順位は完全に決まっている。複雑な事情の時の判断にも戸惑うことはない。答はすぐに出てくる。何故か。大切なものは家族だけであり、後のことは問題ではないからだ。家族のために精一杯やればいい。後はどうでもいい。―― あたしゃ家族のためには精一杯やったよ。彼女はそう言って、また、けたけた笑う。

私から見て、祖母は外人である。ドイツ人やアメリカ人の若者の方が明らかに文化的に近い。「何でもあべこべだねえ」と祖母は言う。恋愛や性への意識、結婚観、家族観……。数えればきりがない。全てが違う。日本語が問題なく伝わるのが不思議なほどである。本当にあべこべなのである。

平等も自由も博愛もない。からっきしない。性別や民族について極めて強固な偏見と差別を持ち、「女はどうあるべき」といった義務や忠義の意識が強く、やっぱり天皇陛下であり、当然のように中国人や韓国人に根強い侮蔑意識がある上、驚いたことに肉屋や食堂など「肉を捌く職業」にまで偏見があるほどである。結婚は見合い、つまり家と家がするものであり「恋愛結婚」は「恋の熱に浮かされた阿呆のすること」と言う。近所の目を必要以上に気にして暮らし、会えばいい顔をしてお喋りをして裏では陰口を叩いている。民主主義と全体主義の区別なんて夢のまた夢である。

すべきことは決まっているのである。ひたすらに女として家を守り、近所付き合いを大切にし、ひいては天皇陛下の日本である。「なんてったって天皇陛下のお膝元」に暮らす彼女は御満悦である。玄関開けたら皇室カレンダーで皇太子様一家の笑顔が出迎えてくれる。「何であのカレンダーかけてんの?」と私が訊くと、なんとなく気持ちがいいと答えるのである。モンゴル人がチンギスハンの肖像画を飾っているのより意味が分からない。

私は年寄りが大好きである。外国人とブッシュあたりを小馬鹿にしつつ酒を飲んでクラブで踊って、疲れちゃったねとか言ってカラオケで始発を待つならば、年寄と大福でも食べながらお茶を飲んだ方がよっぽど刺激的である。老人の話は、生きる知恵、この国の姿、この国の歴史そのものである。そして、そのどれもが、文書になることを頑なに拒む性質のものである。「それ」に触れねば分からない。書いたそばから嘘になるのである。もしかしたら、この文体でなければ彼らを記録できるのかもしれないが。

2008-04-12

4年前のメモ帳より

昨日のエントリで、4年前のメモ帳を開いたら結構おもしろかった。写しておく。たまに手書きのメモやノートをこちらに写すのもいいかもしれないと思った(といって面倒だからしないだろうけど。そもそも人に見せないと思って書くから書けるわけだし)。

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よくコンピュータは脳に喩えられる。違う。脳はシステムであり、コンピュータはデータの集積。脳はそれ自体が一つであり、個々はその全体に向かい機能している。コンピュータはただの一つ一つのデータの集積であり、一つとしての意味は持たない。

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個人があって社会が生まれたのではない。情報が並列化される社会という基盤があってこそ個性は生まれる。日本に個性がないとすれば、それは社会がないからだろう。

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弱肉強食は現実の認識であり、人間が目指すべき理念ではない。人類が人類たりえるのは人類という理念があるからであり、その理念なくしては人類は獣にすぎない。

  • 概念として成立可能か
  • 現実世界での想定が可能か
  • 今の現実から実現可能か
  • 現状認識
これらを分けて考える必要がある。愚かなやつは、それが分からない。
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全ての必要なことに日付を。また仕舞う時には番号を振れ。時間という場所という、人が最も想起しやすい手掛りを与えてくれる。

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意識は科学で解明できない。意識は虚構であり物語であり、事実ではないのだから。科学は再現性に支えらえるが、再現性のある意識などは悪い冗談だ。神が妄想であるように、意識も、自己も妄想であり物語に過ぎない。

ただし技術が意識を制御できるようにはなるだろう。そうした時に、私たちはいまの私たちではない。技術万歳! 人類そのものも技術が支配してしまえ! 人類が技術を生むのではない。どうしてそんなことがありえよう? 技術が人類を生むのだ。技術というロジックが我々を未来へと運ぶのだ。産業の技術が、医療の技術が、資本の技術が、金融の技術が、ありとあらゆる技術が、我々を未来へと運んでゆく。我々とは何の関係もなしに。技術に運ばれる我々は、いつかナイーヴな我々を嗤うだろう。今の私達が過去の人々をナイーヴだと嗤うように。

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ねじまき鳥読了。傑作。カフカ、ドストへの意志を感じる。特有の比喩や登場人物の表現などが無ければ更に良かった。夢と現実、想像、呪い、預言、性などの坩堝。執拗に物語が練り込まれ、重ねられる。春樹が描けなかったところに魅力がある。淡白な主人公=語り手、目をひくが無内容な比喩、無駄な権力や財力というストーリーは無駄なだけ。その向こうにある彼の力、意志を考えざるをえない。恐らく春樹は翻訳されたときに真価を発揮するのだろう。彼の日本語は余計なものだ。翻訳により彼の日本語が脱落して春樹は完成すると思える。彼は確かに何かに近付き、描いた。その道具は誤ったものだったが描けた。仄かにだが彼の居る日本に安堵感のような淡い誇りを感じかけてしまうほどだったが、逆に春樹が日本には物理的にも文化的にも属さぬことに深い絶望も感じる。

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真実とは現実に対して物語られる一つの解釈であり、現実に対する解釈として語られる物語である。

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以前にも じじいのぼやき(2)じじいのぼやき としてぼやきをブログに写したことがあった。何事も続かないな、俺。

2008-04-11

情報の価値を決める4つの基準

情報とは何か、情報の価値基準は何かについての偏った考察。

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世界の情報は、私を圧倒している。全てをしっかりと読むには新聞は大きく厚く、TVは膨大な時間のコンテンツを放映する。ウェブページは無限にあり、RSSは無数のエントリを運ぶ。電話やメールがパンクすることは私にはないが、世界は人に溢れていて、その気になればメールと電話のやりとりで時間を潰せることも目にみえている。DVDもCDも書籍も、追い掛けられる上限を遥かに越えている。

私は少しでも情報摂取を効率化しようとした。新聞は見出しを眺め速読し、TVは「ながら視聴」しかせず(個別情報のためというよりは、NHKがどのように報じているかを知るために)、ウェブのリンクを辿ることは禁止し、RSSリーダを利用し、登録フィードも50を越えないようにした。調べ事は事前にメモしておいてダラダラとブラウジングすることを避ける。集中したいときには携帯の電源を切り、人と会う前には話すことをメモし、電話をするならばメールをし、メールは即座に返事をする習慣をつける。DVDやCDは事前に視聴すべきものを調べてメモしておき、書籍もリストを作り、速読する……。

こうして速読や記憶術に触れ、メモやノートの技術を考え、時間管理術を覚えていった。無限の情報を圧縮し、少しでも自分の管理下に置こうとしたのである。情報管理の基本は一つである。自分にとって摂取すべき情報を規制するということ、つまり「情報の選別」と「情報の摂取」との二段階を明確に分離することである。そうすることで価値のない情報にかける時間を出来るかぎり減らすことができる。

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しかし、それでも情報は溢れていた。ここで私は立ち止まった。そして問うた。私は何をしているのか。情報を摂取しているのだろうか。そうだとしたら情報とは何か。なぜ情報に触れるのか。情報に触れることで何をしたがっているのだろうか。

情報とは何か。情報とは「それを摂取することによって、その後の行動が変わるもの」といえることに思い至った。そうだとしたら、その後の行動に影響を与えないものは情報ではないと言える。ここで、行動とは「私の行動」に他ならない。私が情報摂取することで他の人の行動が変化するということはありえないだろうから。

こう考えると、私が情報に触れる理由が分かる。情報に触れることで、私は、今の私が知らない自分を生み出したいのである。その情報に触れなかったら取らない行動によって導かれる未知の未来へと向かうために情報を摂取しているのだ。そうした未知へと向かわせる以外の情報の価値は低い。

それでは情報の価値基準を定義できないだろうか。4年前の手帳(2004-2-19)に以下のような走り書きを見付けた。少し考えてみるとそんなに悪くなさそうなので写してみる。

  1. 関わりがあったり、自分の関心があること。その事柄に興味があり、関わっているとき、大きく影響を与える。自分がその情報を使えるときに、その情報の価値は高い。逆に言えば、自分の関心のない事柄に関する情報は、いくら客観的な価値があると言われているにしろ情報ではない。
  2. 真実であること。リアルであること。別に情報が客観的事実である必要はない。主体にとってのリアルであり、真実であればよい。独特の説得力があればよい。ある種の世界を眺める視座や、分析する語り口が主体の行動に影響を与えるのは、その語りがリアルであり、切実であり、何よりも主体にとって真実であるからである。もちろん事実であるというのは強い説得力を持つが、詐術的メディアに囲まれた世界で「事実」ほど疑わしいものがあろうか。自分のリアルという感覚以外に何を頼れるのだろうか。事実であろうが真実を感じさせないもの、身を切るようなリアルな質感を感じさせない情報は情報ではない。
  3. 意外であること。未知であること。驚きを与える情報が主体の行動に変化を与える。既知であったり、当然である情報は行動に変化を与えない。それは情報ではない。
  4. 入手・摂取コストが高いこと。記号に対し、深く影響を受けるためにはコストをかける必要がある。ある意味で、意外さの驚きとはこの「コスト」かもしれない。時間をかけ取り組む必要があるということそれ自体が、主体に変化を与える要因となる。ある種の理解し難さが情報の価値を向上させるのである。コストが掛けられない場合には簡単に通り過ぎてしまい、主体に変化を与えない。長年つきあうには「手強さ」が必要である。

逆に言えば、価値が低い情報とは「自分との関わりや関心が低く、リアルさがなく、意外性がなく、入手も摂取もしやすい情報」ということになる。こうした情報は主体に何らの変化も起こさず、故に主体は未来に向かうのではない。こうした情報は人を「情報処理機」に堕とす。私たちを囲む、実に多くの「情報」が、こうした「情報」なのではなかろうか。真に意味のある情報と付き合いたいのなら、選別の過程でこうした「情報」を排除する必要がある。

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そうした自分を変えるような情報を見つける方法はあるのだろうか。価値のある情報は客観的には決めにくい。関心や好奇心、裏切られたりリアルに感じたりする感性は人それぞれである。一つだけ言えることは、自分の直感と予感を信じるということである。

藝術を愛好する人ならば、ある種の芸術作品が、理解のし難さで己にぶつかりつつも、何故かそこに価値の予感を感じることがあると思う。そして、それが、長い時間を経てからやっと分かる日が来ることがある。自分のその分野に関する強い関心、リアルさ、未知さ、理解コストの高さがあいまって、その作品の価値の高さとも言えると思う。その「理解」が出来たときには、自分は化学変化が起こっているのだから。

また、ある種の古典とは、価値のある情報である可能性が高いと思う。生き長らえる古典とは、長年に変わらない人間の関心を主題とし、意外な真実をリアルにあぶりだす。そして摂取コストが高いことが多い。そうした作品を鑑賞することで、異なった未来が開けるということが多いのだろうと思う。

片や人気のある作品とは、情報が低いことも多い。摂取や理解のしやすさが主体の変化の契機を奪うし、娯楽とは既に成立している感性の反復であるので、微妙に好奇心を煽りつつ、そこに意外性や未知は含まれていない。更にリアルさや関心の度合いは高いにしろ、時間の経過とともに風化してしまう。

所謂、成功本や金持ち本を読むと、平凡でない人は平凡でない情報に触れている場合が多い。古典にじっくりと取り組んでいる割合も多く感じる(本なのだから本を勧めるのはある意味当然だが)。あるいは、そうした外部のメディアに頼らず、「現実」や「自分」という未知に真っ向から挑んでいるのかと思う。

2008-04-08

生きる意味について - 人は充実感で生きる

昨晩、生きる意味について理屈では説得できないと書いた。この点についてもう少しだけ。生きる意味について、私にとっての現在の大枠の見取り図を、積極的に書いてみた。

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「生きる意味」とは「意味の根源」であり理屈では伝達可能である。「神」や「生命の神秘」「人生の使命」のようなものである。それは確かにある人にはあるが、無い人には伝達不可能である。それを外部化して、あたかも言語伝達可能かのようにしてしまうところに宗教の凄さと怖さがあると思う。これはdigi-log: 自殺について言っておきたい6つのことに書いた。

言葉とは意味のネットワークであり、生きることがその意味を究極的に担保している(神様信じる人はそちらも可)。そうした意味の根源を失った人にはいかなる説得も通用しない。実は生命を実感したり人生の使命を感じるとは、神や自然、藝術を実感するのと同じく神秘的であり理屈を越える。恋に落ちるのと同じように、突然に、裏切られるように、人生の意味や、生命を実感するときがある。そんなもの。理屈では無理。それを強要しようとすると、ただのカルト。追いつめられた人間が更にコミュニケーション・チャンネルを失います。

しかし、生きる意味はあると私は言いたい。というのは、そういうものを感知する機能が人間には備わっているからだと考えるからである。神や愛、使命、あるいは生命や自然の神秘なるものが実在するかは知らない。しかし、そうしたものを「感じ取る」機能が人間に備わっているのは疑いようもないように私には思える。

人が生きていると、人生に巻き込まれる。人との関わりの中で情が生まれ、頼られ、死なせてもらえなくなる。殊に大切な人ができた場合、その人は死ねない。人との情に理由はなく、その理屈の外の直観が人を生かす。

生きる意味はこのように「出会われる」。主観的な視点ではなく、人からの視点の中で、人は死ねなくなる。死なせてもらえなくなる。自分が生きる理由が人のためというのはおかしいのだが、人のためというのは十分な生きる目的となる。これはdigi-log: 仏陀の教える生きる目的、生き甲斐 - スマナサーラ本より でも書き抜いたことと同じである。

あなたが生きることが、他の人々の生きる支えになるように、助けになるように生きなさい。そのときはじめてあなたの生きていることがたいへん重要な意味を持つことになるのです。人の役に立つ人生を送ることができるとき、はじめて自分に、生きるという目的が生まれるのです。

そうして生きることは、快楽であるとは限らない。いやむしろ苦痛すらありえる。しかし、それでもそれは生きる目的になりえる。なぜか? それは、そこには充実感があるからである。「死ねない」「やることがある」という情熱が人間を生かす。この充実感こそが人の生きる意味と言えるものだろう。

人間とは快楽ではなく充実感で生きる動物である。自らの価値観や意味付けに基づき主体性を発揮し、外へと向かう活動をすることによって、人は充実し、生きる意味を掴む。これは奉仕の精神とも言える。逆説的だが、無私においてこそ、人は自らの生きる意味を最も強く感じるのである。

逆にいえば、苦痛を最小にし、快楽を最大にする行動をするとき、人間は生きる意味を消失する。独り善がりでは意味や価値は発生しえない。充実感は生じ得ない。それどころか欲望は膨張し続け、虚しさだけが支配する。大げさだが、これが現代人の病理かと思う。

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充実感拡大と価値観・主体性確立の好循環を起動させるにはどうしたらよいか。「そういう機能があると思う」では説明になっていない。快楽最大化・苦労最小化は悪なのか。充実感と出会い、自らの価値観に目覚め、それを「使命」と感じるとはどうしたことか。神秘と出会うとは何か。快楽最大化・苦労最小化は悪なのか。そもそも価値観やら主体性とは何か。と、いろいろといい加減だが、こんなとこで。

2008-04-07

6つの自殺への誤解

鬱病などと同様、自殺についても思い違いや誤解が多い。本当は言葉は無意味で、一緒にいるしかないのだけど、言葉を批判するのにも言葉は使えるわけで、いくつか書いてみる。

  1. 「死にたい」は病気です。精神科へ行きましょう。 もう精神病や精神科に偏見がある人も少ないと思いますが、とにかく偏見を捨てて病院に行きましょう。自殺したいと苦しんでいて「あ、わたし、鬱病だったんだ」ということがあります。行くか行かないかを迷うより、どの病院がよさそうかを悩みましょう。7つの鬱病への誤解 参照。
  2. 死ぬのが駄目なのに理屈はない。まず、死にたいときには頭を使わずに休みましょう。下手に「生きる意味」を求めだすとはまります。「命が大切」「人には使命」「苦しみは教訓」……。色々な人や本が生きる意味を教えてくれますが、言葉はあなたの胸を打たないでしょう。より深刻に「自分って生きてる意味が無い」と感じるだけです。こうした言葉は意味のある人にだけ意味があり、理屈で伝わる性質のものではないからです。

    生きる意味とは、恋に落ちるのと同じように、突然に、裏切られるように、実感するものです。静かに生きて運命と出会うのを待ちましょう。周りの人も下手な人生論はやめましょう。理屈での説得は無理で、それを強要しようとするとただのカルトです。苦しむ人には苦痛なだけで、追いつめられた人間が更にコミュニケーション・チャンネルを失います。鬱病の人と接する5つの心得 とか [書評] なぜ私だけが苦しむのか / H.S.クシュナー とか参照 。

  3. 「死ねる」のは勇気ではない。これはよく嵌まる罠。勇気と無謀は違います。「死ねもしない」とか言われた気になって怒りパワー爆発させたりするが、これは間違いです。死ぬのが怖いのは極めて健全で素晴らしいことです。まだ生きろと体が言っているのです。怖いうちはまだ生きられる。「畏怖」という言葉があります。臆病なんて下らないこと言わず、生命に畏怖の念を持てた素晴しい経験なんだと俺は叫びたいです。更に要らんこと言うと、人間ってのは畏怖の念を持って生きてゆくもんだよと言いたい。
  4. 人生ってのはもちつもたれつ。多少、人に迷惑かけるくらいが丁度いい。「人様に迷惑かけるくらないなら or 生き恥さらして暮らしてゆくなら、死んだ方がいい」って理屈はやめましょう。大概の人間は、実は迷惑ウェルカムです。「助けて」と言いましょう。厚顔無恥なのは嫌だけど死ぬ程に恥を嫌がる人の「迷惑」なんて大したことはない。はっきり言えば死なれる方がよっぽど「迷惑」。迷惑や恥を嫌い孤立し合うより、助け合う程に人生の味わいを感じるものです。
  5. 大概の人は苦しんで生きている。別にあなたの苦しみを否定する訳じゃないし、「だからその程度の苦しさで根をあげるな。○○さんは立派に生きている」などと言う気ではありません。人と比べるのは最低です。そうじゃなくて、幸せな人と自分を比べてしまう人に言っておきたいだけ。みんな同じだよと言いたい。人類史上、人から悪口を言われない人は存在しなかったし、これからも存在しません。皆おなじようにして生きています。だから、苦しいといえば大概の大人は助けてくれます。
  6. 自殺以外はゆるされる。死んでも解決にはならない。何をしてもいいとは言わない。よくないことはよくない。ただし、してしまったことは仕方がないし、個人的には俺はそれを赦すだろうし、謝罪と償いによって赦されるべきだと思う。死んで詫びることは時代錯誤だと思う。自殺よりも償うことを考えるとこです。大丈夫、魂だか何だか知らないが、そういうのも救済されます。ばっちり確実です。ただし、まだ起きていない罪を許しはしません。殺したいと言うなら許さないし、死にたいというのも許さない。大切なのは、起きたことを諦め、起きていない悪を憎むことです。

初めて自殺しようとする女の子を止めたのは高一の時だったと思う。その子は飛び降りようとして、泣き叫んで、僕は一晩中、なんと言えば適当なのか分からないが一緒に過ごした。彼女は僕の胸で泣き続け、空が白くなる頃に寝入った。部活の合宿でのことで、次の日、事情を知らない人々に白い目で見られ続けた。まあ「すけべ」な行動してたと思われたらしい。

別に恋人でも何でもない。二つ下の後輩の女の子だった。葬式などの折、その代の後輩に会うと消息をそれとなく訊くのだが連絡がつかないらしい。悪い男につかまってなければいいが、と思うが、まあ、いろいろ仕方ない。どこかで幸せに暮らしていることだろう。かわいい子だった。

世の中、「死にたがり」の女の子で満ちていた。単純に戦場だ。残酷で、悲惨で、無力さに直面し続けるだけだった。実際、かなり前には、ちょっと縁遠いところでは死なせてしまった。まいった。親はまったく何をしているんだ。顔を見てみたい。と思って実際に見てみると、出てくるのは溜息ばかり。

あの頃の大概の女の子は心の傷を持っていて、その傷を目に見える形にして、抵抗のよすがにして、逆に苦しみつつも、しっかりと生きたがっていたように思う。難しいのだが、実は、彼女が大切にしているものが、そのままに自分を殺すものだったりするのかとよく思った。それに気づいた体が無意識に手首を切っているのかと。風邪をひいたら熱が出るみたいに。まあ、よく分からないけど。これは昔の女の子の話。今の女の子は全然知らない。

2008-04-06

[書評] 自死という生き方 / 須原一秀

「本が好き」から頂いた本。読んで戸惑う。人間とは「自らの死」にまで、主体性を発揮するものなのだろうかと。

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縁の遠い人が、本書に書かれていたような理由で死んだ。一昨年の夏の終わりだったか。自殺と聞き、その「死因」となる嫌な話を聞きたくないなと眉を顰めたが、死因はあっけらかんとしたものであった。――人生の楽しみは十分に味わった。後は老けるだけで、自分も嫌だし、人にも迷惑をかける。だから、まだしっかりとしたうちに死にたい。こういう書き置きが、首を吊った自室の机に置かれていたらしい。享年は七十に届くか届かぬかという頃であった。

健康的にも経済的にも人間関係的にも問題はなかったという。話に陰は微塵もない。からりとしている。それ故であろうか、ご家族の立ち直りも早かったらしい。この話を伝えた私の恋人もその死を是とする。このあっけらかんとした感じに、気持ちの悪さを私ははっきりと感じた。が、元より会ったこともない人の話である。保留にして胸の底に沈めた。人の死に対し、是非を論じても詮無きこととして。

そうこうしている内に、新聞の広告で本書を度々目にした。興味を持っていたところに「本が好き」の献本リストにあがっているのを見つけた。これを機会にと思って送ってもらった。しかし、私にとってはいい本ではなかった。

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まず私個人の視点として「事後的な死の肯定」と「事前の死の推奨」は異なることを述べておきたい。

私は個人的に自殺してしまった人に対しては敬意を表することに決めている。自らの死に向き合い、覚悟を決め、周囲の迷惑の少い方法を選んで逝った人には、事後的な死の肯定をする者である。 ―― ですから、自決した著者には素晴しい死に様であったと敬意を表します。また、父であり夫でもあった著者の突然の死を受け止めているご家族の方にも賛嘆の言葉を送ります。私は著者の個人的・主体的判断に対し、事後的に難癖を付けようとするものではございません。これだけはくれぐれも誤解なきようお願い申し上げます。

さて、この本は一人の個人の「遺書」でもあるが、同時に一つの「自殺肯定論」である。つまり「事前の死の推奨」である。一般論として「老人道」に殉した自死を認め、それどころか推奨する本である。結論から言えば、こうした性格の本書に対しては、私は反対する言葉しか出てこなかった。

たぶん本書が以下のような本だったら私も好意的だったのだと思う。――ありがたいことに私は家族にも健康にも仕事にも恵まれ、存分に人生を謳歌させてもらった。何度も「ああ、もう死んでもいいなあ」という時があった程だ。それでおこがましいんだけど、この歳になると人生に対しても、自分に対しても「高が知れたもの」と思えて来てね。我侭を言って申し訳ないが、後は自分が幸せな内に、つまり自分がしっかりした内に、人様に迷惑を掛ける前に、自分でケリを付けたいんだ。それに病気も老いもやっぱり怖くてね。僕には現代延命医学によって限界まで「生命維持」されるのが「人間らしい」とはとても思えないんだ。そうなる前に死にたいんだよ。僕の最後の我侭を赦してくれ――

恐らく、私の遠い縁の人も、そして本書の著者も、心情としてはこうした所なのではないのだろうか。こうした「遺書」なら私は事後的な死の肯定をした上で、延命医療と安楽死・尊厳死の問題について考え、技術に対し生命倫理思想が追いついておらず、そのままでは「人間らしい死」を遂げられぬ時代の犠牲者として死を悼むことができたと思う。

ただし、事前的な死の肯定を否定する私は、そういう人に対しても、残酷かつ無責任にも「駄目だ」「死ぬな」と言うのであり、そして、その人の苦しむのを見たり、立ち直るのを見たり、結局は自殺したりするのを見るのであろうが。

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私が理解し難いのは本書の「老人道」という観念である。これについては私は正直よく分からない。筆者によれば、官僚的幕藩体制の中で自尊心と主体性を維持すべく「死にたがり」になっているのが武士道らしく、老人道とはこの武士道に似たものであり、武士道的切腹と同じく、「自分らしさと自尊心と主体性」を維持すべく行われる自決であるということだ。

この「自決」は、その他の「自殺」と老人道的自死は峻別される。だから筆者は自分の死が経済的・健康的・人間関係的な要素がないことを強く重視する。あくまで自らの老人道的な主体性が侵された時に、死をもって応じるという姿勢のようである。

老人道を生きる人間は、「病気・老化・自然死」というどうしようもない体制の中で、「そんなものに翻弄されてたまるか!」という気概をもって「自分らしさと自尊心と主体性」を維持し続け、最後までその気概を維持し続けているという証のために死んで行くのである。

それだけでは観念的な自殺としか思えないのだが、筆者にはもう一つ老人道には必要な要素があるという。それは人生や自分の高を、その極みにおいて体得しているということである。つまり、「人生の高」「自分自身の高」も体で納得する必要があり、青年期にありがちな頭で観念的に理解しているだけでは駄目なのだと説く。そこで始めて命を捨てられるという訳か。老人となるまで生き抜いて初めて、病老死に苦しむ前に「主体性」に殉じる権利もあるというところか。

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思想が前向きであるのはよいことだと思う。しかし、死を事前に肯定する思想はあっけらかんとしてて、私にとっては気持ちのよいものではなかった。

殊に「厭世的」な考えに対する批判には絶句した。厭世的な物言いは、苦しみつつもなお生きることに向かうのであり、生を肯定する。死を勧めはしない(例外はあるのを知っているが)。

よく分からないが、投げ込まれて、打ちのめされてゆきつつも、主体性を発揮してゆくのが人生ではないのだろうか。最終的に病老死苦すら肯定できるようになるような気がする。誰だって、どうしようもない事態に足をすくわれ、それでも猶、それを主体的に引き受け、生きてゆくのではないのだろうか。美しくはないが、それでもそうして醜く、無益に、苦しみながら生きてゆくのではなかろうか。

本当に生きられない時には体が死んでくれるだろう。自分で体を殺すのは結局は観念による肉体の殺害であると思う。人間は「自らの死」にまで主体性を発揮する必要はあるのだろうか。それは結果として殺してしまった場合には仕方がないにしても、殺すことは殺すことであり、赦すにしても、許すことはない。

以下の点は示唆的だった。

  • 自然死では、眠るようようには死ぬことは例外的である。殆どの場合、非常に長い時間、激しい痛みに苦しむことになる。しばしば、身体を動かすことはできず、排泄物を垂れ流し、意識も朦朧とした状態で数年間も生命維持されることになる。相当の覚悟が必要になる。
  • こだわりを捨てれば青年期・壮年期はいいものだ。「青年と壮年の読者に言いたい。こだわりを捨ててちょっと工夫すれば人生はなかなか良いものである。定年後も老後も、工夫しだいでなかなかのものである。そして、運と健康と工夫によって、その期間は相当に長いものになるかもしれない。しかし、その先は誰にも保証できない。」

自死という生き方
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書評/宗教・哲学

2008-04-03

意志の弱さ - その傾向と対策

私は意志が弱い。意志が弱いとは自分の思ったように自分が制御できないということだ。そうすると自分が思っていたような結果がついてこない。そこで、個別の問題に分解して、それに対する対策を考えてみた。

  1. 集中できない。気が散る。作業に没頭できない。 何かをしていてもすぐに他の事に気を取られてしまう。例えばすべきことがあるのに、掃除したくなる、買い物に行きたくなる、ネットを開きたくなる、などなど。
  2. 優先順位がつけられない。依頼を断われない。やるべきことがあるのに、人から言われたことをしてしまう。八方美人は誰も喜ばせないのに。
  3. 欲望に負ける。我慢ができない。睡魔とはよく言った言葉。他にも敵は食欲や性欲。生理的欲求でないところがミソ。

要は仕事に対しては十分な集中を与えられず、他人やら欲望やらに時間を取られてしまうという状態。逆に言えば、他人の依頼をガツンと断わり、欲望に煩わされず、仕事に没頭できればよい。

  1. 集中状態を意図的に作る。 集中するのを待つのは効率が悪い。集中を呼び出す儀式を持つとよいかもしれない。例えば、まず、座ったら結果を出すまで動かない決意をする。そして、姿勢を正し、目を瞑り、頭の中心を見るように意識を向ける。目を開いたら、パソコンなり用紙なりの中心に球体をイメージしつつ意識をそこに保持する、集中が途切れたらやりなおし、とか。オカルトですな。
  2. 優先順位一覧を作る。 人付き合いも無しにはできない。だから優先順位と目安を決めておく。週に一度とか月に一度とかも決める。そして、その横に言い訳も書いておく。
  3. 意識的に欲望と戦う。 まず、一定時間は席を動かないように決める。欲望に負けそうになって集中が切れても机で粘る。眠くてもベッドには行かない。思うに欲望とはストレスの捌け口な気がするので、ストレス解消をスケジュールしておく。性欲のコントロールも参照

まあ、本当は溢れんばかりの熱情で仕事に没頭できたら一番なのですが。結論から言うと、体を動かさないということになりそう。どんなに欲望や他人に負けて集中が切れても、時間的・空間的なコミットは死守する。

2008-04-01

「タバコは、世界で2番目に多い死因であり、10人に1人がタバコが原因で死亡している」

Wikipediaで以下の文にぶつかった。

タバコは、世界で2番目に多い死因であり、10人に1人がタバコが原因で死亡(毎年540万人)している。現在喫煙している者のおよそ半数(約6億5千万人)が最終的にはタバコが原因で死亡するといわれている(以上、WHOによる)。世界銀行からの出版物[31]では、2030年までには、6人に1人(年間約1000万人)が喫煙によって死亡すると予測されている。喫煙は、世界で最大の予防可能な死因であるとされる。

本当ですか?

ちなみにオーストラリアのタバコ警告はすごい。

写真が入るとインパクトが違う。この箱からタバコを取り出して平気で吸えるってのはある意味、尊敬する。タバコ入れが売れそう。

更に火事の原因で一番らしい。

平成15年版消防白書によると、建物火災の10.6%、林野火災の14.7%がタバコが原因であり、放火に次ぐ主な出火原因となっている。かつてはタバコが出火原因のトップであった。

関連エントリ

タバコをやめるということ - 「禁煙」に抗して