2007-01-31

グールドと上野の想い出

いつもの気違いです。狂ってます。イタいです。スルーして下さい。

そうそう。バッハとグールドが好きな人以外は読まないで下さいな


この映像を見てほしい。

http://www.youtube.com/watch?v=qB76jxBq_gQ

この映像を見て感じるところがある人は、僕の気持ちも感じるところがあるかもしれない。でも、別に理解とか……ね。

僕が以下の映像を見たのは高校生の時だったと思う。場所は上野の東京文化会館の音楽資料室だった。

この場所を思い出すと複雑な気分になる。昔話を少々。


高校時代の僕は時間の許す限り音楽を聴いていた。ジャンルは問わなかった。

バイトで買えるCD枚数はたかが知れていた。僕は高校の図書館や友人からCDを借りまくり、音楽好きだった親のジャズやロックのLPやCD, カセットも聴きまくった。

そして上野の音楽資料室ではCDやLPなどが無料で聴けるのを知ると、僕は上野に通った。学校帰りだけじゃなく、日曜日にも行ったし、学校をサボっても行った。

上野で僕は、一日中、何枚もクラシックを聴きまくった。ピンとこなければあまり我慢して聴かないため、多い時には一日で2、30枚は聴いていたように思う。

勿論、家に帰れば帰ったで、ロックやジャズを聴いていた。


僕は孤独だった。そして幸福だった。

今でもはっきり思い出せる、上野の森のみずみずしい蒼さを。僕は何度も何度も、ヘッドホンの音を聴きながら、その生命力を眺めたていた。

僕は透明な気分だった。そして、音楽は、ただ、美しすぎた。

当時の僕は、「さびしい」とか「人の目が気になる」「人恋しい」などの人間的な感情を、完全に何段も下に見ていたように思う。


今思えば、僕は音楽を聴くというよりかは、音楽に祈っていたのかもしれない。個別の音楽にではなく、全体としての音楽、音楽の美しさ、まさにそのものに。

僕は明らかに「美の神」を信仰していた。別に存在するとかそういうことを言いたいんじゃなくて、音楽の美しさは完全に人の語りえぬ、まさに神の領域の問題だと感じていた。そして、その「奇跡」を讃えねばならないと思っていた。

まあ、完全に気違いだが、たぶん、そういう運命だったんだろう。

なんだかようわからんが、そんなこんなで。

2007-01-27

私は人にすすめない

よく「若いころの苦労は買ってでもしろ」とか言う。「可愛い子には旅させろ」とか。

最近も「若いときに崖に落ちてこそ本物だ」みたいな文章を読んだ気がする。

どうなんだろ?

俺、本当に自分がミサナマの言うほど立派な「崖」「苦労」「旅」をしたんだか分かんないけど、やっぱ本音いうとね、「苦労はしないほうがいいよ」と思う。

いやね。やっぱり「成長」はそりゃするよ。そりゃ認める。んで、それが必要な経験なのかもしれないんだから、そういう経験は認めるよ?俺だって、自分の「苦労」のおかげで、今の自分がいると思うし、自分のアホさ加減とか気づかせてもらったしさ。

でもね。いいかな? 本物の「崖」や「旅」ってのはさ、人にすすめられないよ。少なくともね、俺が経験したような「崖」ってのは、とてもじゃないが人にはすすめられない。

うん。もしかしたら「苦労したほうがいい」って人の「苦労」ってのは俺が経験したようなもんじゃないのかもしんないよね? 俺の苦労は本当にアホでバカで無駄な苦労かもね。だから、確かに俺の基準でものいうのも、ちと、気がひけるわな。

ま、ぼやきなわけだけど、とにかく、「俺のような」経験はしない方がいいと思う。だから、俺は自分の経験とか、人にはすすめない。

なぜって?

だって、俺の経験はヤバかったもん。まじで、まじで、あぶなかった。フツーに、俺が今生きていられるのは、運というか、偶然というか、ま、死んでたな、下手したら、と言う気分。

ねえ? 死にそうな経験ってさ、人にすすめられるもん? それも雑誌とか本とかって公共の場でだよ?

俺はできないね。人が俺の言葉を真に受けてだよ? それで死んじゃったらどうすんの? それで苦しんだらどうすんの?


はは、考えすぎだな。

ま、この時点であれなんだけど、もうちょい話すね。

んでだ。でも俺は自分が好きなわけよ。俺は自分に自身があったりするわけ。はは。「おのずから」「自然に」とか言いながら、ま、「うぬぼれ」ってやつかもね。

んでだ。やっぱ、俺は自分なみの経験が無いやつの話ってさ「あ、この人ってこの程度なんだー」とかって感じで聞いちゃうんだよね。「はは、その程度の心理的成熟しかないんだー。ガキだなー。ま、顔と声とかに出ちゃってるけどねー」とか。

はは。ひでーやつだな。こんなこと書けるのはまさに「匿名」だからだな。

「なんで、そんなことわかんの?」「お前、マジうぬぼれてるだけ」とか言う?

うん。いいよ。というか、そうかもしんないし。

でも、なんか分かるんだよね。そういうのってさ。

ほら、知ったかぶりするやつってすぐわかるじゃん? あー言う感じ。

音楽とか文学とかさ、ちゃんと観賞してないくせに、知ったかぶりでしゃべるやつがさ、どんなに他で知った「知識」とか並べてもさ、「なんだ、こいつ知ったかじゃん」ってすぐわかるじゃん? 直観ってやつ?

あーいう感じ。「ははーん。こいつ、あれだな」とかって思っちゃうんだよね。

ま、逆言えば分かる人には、この文章読んだ程度で、俺の「成熟」や「経験」なんてわかるんだろうから、「恐いな」とおもうんだけどね。

とてもじゃないけど、匿名じゃなけりゃこんなテキトーな文章なんて書けないよ。


んで、何だっけ? えーと、そうそう、俺はバカにしてるわけだ、「崖」に落ちてない人をね。それも、崖に落ちることを止めた方がいいと思ってるくせにね。

ひでーやつだ。はは。

んで、もうちょい言うと、俺は崖に落ちた人には「よくやった」と言う。だって、その人は「必要」があったから落ちたわけだよね。

逆に言えば、まだ落ちてない人は、その「必要」がないんだと思う。だから、落ちたがる人には止める。

ほら、いるじゃん? 恋愛したがったり、芸術とか哲学とか分かるようになりたがったりするやつ。酒の味教えてとか、うまい料理教えてとか言うやつも同じだな。

こういうやつらってさ、ホント、そういう経験って必要ないんだと思うよ。だって、必要だったらさ、誰が止めたってやっちゃうじゃん? んで、どんどん突き進んでいっちゃうじゃん? それこそ崖に落ちるまで、ね。

俺はそういう「崖」に憧れる人たちにはっきり言いたい。「君たちには必要ないんだよ」ってね。

んで、そういう人たちは、そっちの方面について「知ったか」で口をきかないで欲しい。分かる人には一瞬で君に「知ったか」なんて分かっちゃうんだよ。「ははーん。こいつは芸術に憧れてるだけで、芸術の顔、見たことないな」ってね。

いいかい?

やめときな。本当にやめとけ。必要ないことはしない方がいい。

俺は必要だった。だけど、君が憧れてるってことは必要ないんだよ。

俺は憧れるどころか嫌いだったし、嫌だった。好きでもなんだもなかった。「好き」とか言われると頭に来た時期もあったくらいだ。十代の頃の俺は「義務」とか「運命」って思ってたよ。(さすがに今はそういういい方にはならないけどね)

本物の深遠は憧れたってやってはこないんだ。相手からやってくるんだ。いいかな? 憧れるのは無駄な火傷のもとだ。必要な経験をするように人生はできているんだ。運命なんだ。


俺は人に憧れられた。

それゆえ、何人かに影響を与えてしまった。

本当にすまないことをしたと思う。本当に本当に後悔している。必要の無い人間に必要のない苦悩をさせてしまったかもしれない。必要の無い人間に関係のない谷底の散歩をさせてしまったかもしれない。そう思うと、俺は、本当に、どっかの宗教にでも入って懺悔とかそういうことしたい気分になる。

俺の影響を捨て去り、本当に自分らしく生きてほしいと思う。俺をバカにして「ありゃ、若い頃の気の迷いだった」と思ってくれていることを本当に願う。

お願いだから、僕の深遠を皆が忘れさってくれ。

神様、仏様、お天道さま、皆が僕の深遠を忘れ去ってくれるように。


僕は人にすすめない。

苦労しろとか、死んでも言わない。

芸術とか分かるようになれとか、本当にもう言わない。本当です。

だいたいさ、人にすすめられる程度のことしかしてない人生って、なんだよ? 万人向けの人生?

おっとっと。また理屈こねたな。

すみません。神様、仏様、お天道さま。私はバカです。白痴です。私は何も知りません。

んなもんで、人に会ったら「あ、僕、音楽とか詳しくないんでー」とか言ってます。はい。話にならないもんで。あはははは。「あ、僕バカなんで、そういうの知らないですー」とか言ってます。あははははー。

なんていうかな。

俺は、まあ、俺で元気に楽しく生きている訳で、今も周りの人を少なからず幸せにできていると思う。ほんと、俺は、ありがたい。

はは。わけわかんねーな。

ま、そんなこんなで。

死にそうな人に「生きろ」と言えるか

という、ただのぼやき。

***

「生きているのが死ぬほどつらい」そういう体験をしたことがなければ「生きていられるだけで有難い」と感じることはできない。そういう経験が無い人には、ただ生温い偽善ががあるだけ。ただ薄汚い損得計算があるだけだろう。そういう人の言葉は胸をうたない。そういう人が何を言ってもガキにしか見えない。「ただ偽善で言ってるだけだな」なぜか、こういうことはすぐに分かる。

「死にたい」と呟く人に、本当に、偽りなく、心の底から「死ぬな」「生きるんだ」「俺がいる」と言えるだろうか? 生きるということは理屈じゃない。だから心がものを言う。心じゃなけりゃ「愛」だの「命」だのは語れない。見せ掛け、演技、偽善はすぐにメッキがはがれる。 「愛情」「生命」「正義」……こうしたことを語るだけの、心の成熟をしているだろうか?それとも、ただ、歳をとっただけの「大人」なだけじゃないだろうか? ただカッコなだけじゃないだろうか?

理屈じゃない。心を、精神を高めねばならない。生きぬき、苦しむ人に心の底から「生きろ!」と言うしかない。苦しむ人に、絶望した人に「私がいるよ」「生きろ」「死ぬな」こう言える人間に、なっているだろうか? 命や愛を本当に語れる人間になっているだろうか?それだけの人間に、ふさわしい人間になっているだろうか?

繰り返すが、心の成熟の問題である。「ふり」はすぐバレる。

2007-01-24

食の大系

考えるのだが、下のような哲学に基いた食の大系を考えたい。

「おいしい」ではなく「体にうまい!」「体にガツンとくる」というのがテーマ。

1.「スパイス」「香辛料」「ハーブ」「漢方薬」などと呼ばれるシソ科やセリ科などの植物を中心とした味付けで塩分を控える

2. 大豆(豆乳、納豆、豆腐など)や乳製品(牛乳、ヨーグルト、チーズなど)で蛋白質を摂り、肉類を控える

3. 冬は根菜(人参、大根、芋など)や香味野菜(ネギ類、ニンニク、ショウガなど)で温め、夏は葉菜やウリ科(キュウリ、ゴーヤなど)、ナス科(ナス、トマトなど)の果菜で涼しくする

4. 生、焼く(空気)、煮る(水)、揚げる(油)もバランスさせたい

5. 酢、酒、発酵食品もより有効に利用したい

トイレ掃除

なんだかな……。最近、俺はトイレ掃除をしている。

やっちまった……。俺、こういう人間にはなりたくねーんだよな、と思ってたワケなんだが、つくづく業が深いというかなんというか……まあ、この一週間ほど、朝起きたら自室の床を水拭きして、その後トイレを掃除している。彼女ん家でもコソコソと、朝の六時からアホのように便器をこすっていた。

はあ……

分かるかなぁ、俺の気持。俺は「信心深い」ってヤツが大嫌いだったんだぜ? それが最近じゃ「整体」だの「ヨーガ」だの「仏教」だの「業」だの……最後はトイレでウンでも付けようってのか?

そう、俺はアホウだな。うん。アホウだな。あったりめーだ。

ふむ。んで、開き直ってこの一週間で俺が経験したことを少々

***

「なんでトイレ掃除?」そうあなたは訊くかもしれません。実は、私にもよく分からないのです。宝くじを当てた人や、金持ちや芸能人(たけしとか)の何人かががトイレ掃除をしていて、それで幸運が舞い降りたと言っていたのは存じております。また風水でも水回りや玄関を大切にすることは存じております。

しかしながら、それに直接影響されて掃除をしようということになったのではございません。もちろん、間接的、つまり無意識な影響があったことは否定いたしません。

なんというか、朝起きて「するべきだろう」という気分になってしまったのでございます。そして、一度したら習慣のようになってしまったのです。

***

そうしたトイレ掃除は私に何かを与えるものであったのは間違いございません。だから続けているのでしょう。それは何なのか? 私はそれを言葉にしたいと思います。

まずトイレとは汚れた場所でございます。その汚れに正直に向きあいますと、色々と考えさせられるものでございます。

当然のことですが、トイレは最初から汚ないわけではございません。トイレを汚すのは私たち自身なわけです。つくづく、私ども人間が活動するということは、汚すということなのだと痛感してしまうわけでございます。

私どもが活動すると汚れるわけなのですから、掃除をして汚れを払わねばならないのです。これは、何もトイレに限った話ではございますまい。組織でも制度でも、人が活動すると汚れがたまるのでございます。ですから、時を見て、私どもは汚れを払わねばならないのでございます。トイレ掃除とは、こうした当然のことを、つくづく朝っぱらから痛感させていただける訳なのです。

そして汚れを取るということは、我が身を汚しながらでなければできないのでございます。自分の手などを汚さないような掃除の仕方では汚れを取ることなどかないませぬ。汚れそのものに我が身をつっこむようにしなければ、汚れを払うことはできぬのでございます。

これもつくづく考えさせられることでございます。我が身を可愛いのは当然です。我が身を汚したくないのも当然でございます。しかしながら、それでは身の回りの汚れをとることはできないのでございます。

よろしいでしょうか。我が身かわいさに掃除を怠れば、身の回りはどんどん汚れてゆくのです。それでは生きてはゆけぬでしょう。それゆえ、私どもは、時に汚れ、身の回りを改める必要があるのでございます。汚れることを嫌っていては、私どもはゴミの中で生きてゆく他ございますまい。

汚れねばならぬのなら、ありがたく汚れさせていただくより他ございますまい。汚れを払い、美しくなる様を見させていただけることに感謝するより他ございますまい。そうした心にならせていただいたことに感謝するより他ありますまい。

そうであればこそ、我先にと我が身を汚れになげうち、一心に汚れを払わせていただくのでございます。

***

はは。こんな文書いて、ちと鬱だが……ま、これ、おもしろいな。あ、冗談だかんね? 影響されてトイレ掃除とかしちゃダメよ?

ま、そんなこんなで。

2007-01-23

[書評] アメリカ監獄日記 / 高平隆久

アマゾン本が好き!から本が届いたので早速読んでみた。

これが驚くほど面白かった。こういう機会でもなければ手に取ることはなかったと思うから、このサービスには本当に感謝している。

***

内容としては、日本人の男が日本人の女にハメられ、アメリカでの監獄生活をするという話。実話らしい。読むとアメリカの裁判制度、監獄の制度のできの悪さに驚くこと間違いなし。

完全に悪夢である。

が、その状況に作者が順応してゆき、最後には何にでも感謝できる人間になっていく様に感動すら覚える。

アメリカ文化を読むのに監獄は外せないだろう。黒人音楽、映画や文学などで監獄は当然のように出てくる。知ってるようで全然知らないアメリカの監獄の姿を、本書では学ぶことができる。

巻末付録として「忘れられない人たち」「許せない奴ら」「ギャングについての基礎知識」「監獄で役立つ用語解説」付き。


まず一番の疑問は「なぜ日本人の男がアメリカの監獄にぶち込まれたのか?」だろう。ちと、詳しく書く。

ことの始まりは、40手前の作者が東京のレストランで若い女の子に恋に落ちたことに始まる。二人は婚約をし、会社の都合でアメリカに行くことになると、彼は彼女を連れアメリカで暮らす。彼女は将来は美容の仕事をしたいということで、語学学校に通うことに。

ところが9ヶ月も暮らすと、会社から今度は日本に戻れと言われ、彼は彼女を一人アメリカに残し帰国する。そして、彼と彼女は、電話やメール、それに月に2、3回の出張のみのコミュニケーションとなってしまう。

残念なことに、彼が居ない間に、アメリカに一人の彼女は身を崩してしまう。

彼女は、ビバリーヒルズの部屋を引き払いハリウッドに移り、語学学校はやめ、バイトを始めていた(彼女は学生ビザで入国しているため違法)。生活資金を全て賄っている彼に断りもなく、である。

服装は華美になり、男関係の乱れも彼は感じるようになる。

彼は怒るが、海を越えては限界がある。

愛に燃える彼は仕事を辞め、アメリカへと渡る(空手の道場を開いた)。


しかし、渡米しても状況は変わらない。状況は悪化の一途。彼女とは別居であり、ふしだらな噂を耳にすることになる。そして喧嘩。

彼が逮捕されたのは、そんなある日のことである。

罪状は「レイプ」(後に恐喝、DV(Domestic Violence: 家庭内暴力)が加わる)。保釈金は20万ドル。求刑は16年。

こうして、無実の彼は身柄を拘束され、手際が悪く、犯罪者の巣窟であるアメリカの監獄を渡り歩くことになる。

ちなみに、レイプ、幼児虐待、密告などは「グリーンライト」と呼ばれ、リンチの対象となり刑務官も見て見ぬふりをするらしい (本書でも、「密告」のため、リンチで死ぬ人間が出てくる。また、付録には、ジャンキーの日本人(20歳)もリンチされ、救急病棟に運ばれたとある)。そのため、レイプで捕まった彼は生き延びるため「ゲイ」のふりをしたりもする。

それにしても無罪の男をどうして彼女はこうも告発できたのか? 私の憶測に過ぎないのだが、最初は関係を持った男に入れ知恵された程度に思っていたが、裁判では証拠書類を偽造していることから、犯罪組織と関わりがあるのではないかと思う。彼女の現在の安否がとても心配だ。


監獄での細かい生活は本書を参照してもらうとして、特に気になったことをいくつか。

まず何よりも Public Defender (公選弁護人) が検事と同じ公務員で、検事の後輩という関係にあること。そのため、公選弁護人は検事に敵対しにくく、故に、誤認逮捕で損害賠償ということになるのなら、嘘でも犯人にしてしまうということにもなりえるとのこと。

本書では作者に無断で公選弁護人は四回もたらい回しにされ、面会でもヴィデオチャットを通じてのものであり(しかも相手の顔は映らない)、作者の側の話はほとんど聞いてもらえなかったらしい。しかも当日はその弁護人は欠席し、代理が出廷した。

そして、司法取引とかもぐちゃぐちゃな制度に思えた。とにかく圧倒的に被疑者に不利な制度に思える。

作者は、友人に頼んでちゃんと弁護人をつけた訳で、こうしたことができなかったら作者がこの本を書くことはなかったかもしれない。


そして日本でも同じなのだが、推定無罪の原則なんて全然実現してないこと。捕まりゃ完全犯罪者あつかい。

保釈金があるが、これもレイプは一律20万ドル、10%しか払わないでもでも出られるが、それだとその10%は没収というのは、単純に普通は払えない。そして払えないで監獄にいることで、裁判でも当然不利になる。

「金額が逃亡の抑止力になる」と言うが、結局、金持ちはポンと払って逃げる可能性だってある。せめて相手の所得に見当った保証金の算出くらいしてもいいと思う。あるいは口座凍結など方法はいくらでもあると思う。また、それ専用の金融を国が準備するとか。

現代ならお金で抑止するんじゃなくても、発振器を外せないように取り付けることもできるんじゃないだろうか。


結果として、作者は無実を晴らさず、ドメスティック・バイオレンスで郡刑務所で一年、五年間の米国への入国禁止、保釈金200ドルという条件で、司法取引に応じた。無罪を狙うというのは現実的ではなかったという判断だ。

アメリカと日本で制度が異なる。現段階では日本の方が幾分もマシに思う。

しかし、犯罪者が増加した場合の将来のことは分からない。この先の日本の司法制度がどのように変遷してゆくかを考える上で、とても参考になる体験談であったと思う。

無実の罪で告発される可能性は誰にでもあるだろう。そう考えると「推定無罪」の原則を実現し、また、無罪をきちんと立証できる制度を構築してもらいたいと、私は心の底から願う。


アメリカ監獄日記

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書評/ルポルタージュ

2007-01-17

気付きに襲われること

本当の「気付き」と「煩悩」や「妄想」との見分け方を少々

気付きは、それまでの自分では考えなかったこと
普通に考えたら、そう思わないようなこと
でも、それが本当に心の底から「そうだ」と感じられること
こうした気付きが本当の気付きなんだと思う

「煩悩」とか「妄想」に過ぎない「思考」とは違う
そうした妄想は最初から頭で考えつくこと
それ以前から考えているようなこと
こうしたことは「気付き」じゃない

たとえば感謝

「感謝して当然」
「感謝しなきゃ」
そんなのは本当の感謝じゃない
本当の感謝は、自分にとっても意外なほど突然訪れる
その一瞬前には考えもしなかったほどに「ありがたい」と思うこと
それが本当の感謝だ

感謝に、私たちは「襲われる」だけ
愛も悲しみも、ただ湧いてくるだけ
「自分」が作り出すものではない

「気付き」によって、それまでの「自分」が裏切られてゆくこと
それまでの自分が乗り越えられてゆくこと
「自分」は、ただ「おいておく」しかない

2007-01-16

行住坐臥 (3) 理想の立ち

前回に続いて、現時点の私の理想の立ち方について。

実は、立つ方が歩くより理想作りが難しいと現時点では感じている。歩くことは、重心の移動であり、その効率化の理想は打ち立てやすい。歩くことの究極は、重心の軸を一定の速度で移動させること、滑ることにつながる。軸を身体を一直線につらぬきながら、足首、膝、股関節、腰などにかかる負荷を最低限にすることはイメージとしてはつかみやすい。

しかし、立つことは違う。

人は何故、立つのだろう? とついつい考えたくなってしまう。


現時点での私は、「立つ」ことを以下のように考えている。

伸ばした平らな手の平の上に、傘の柄を載せ、傘を逆立ちさせてバランスをとっている状態だと。

握らずに、ただ載せただけで、倒れないように、落ちないように、バランスをとっている状態だと。

それほど、不自然であり、長時間立つには技が必要なのではないか、と。


技術的には、骨盤を垂直に保つことがなにより大切なのは分かっている。

そして、これがまず難しい。

方法としては、恥骨と腸骨の三角形の平面が、垂直になるようにするのではないかと感じている。

そうすると、腹と背/腰の力の按配が安定する気がする。

方法としては二つあると思う。

一つは上からぶら下げる方法で、腹と背を胸からぶら下げるように脱力し、骨盤を揺らしバランスを確認しつつ、会陰を締め上げてゆき、肚をその上に重く落とす(載せる)という方法。

もう一つは、下から積み上げる方法で、内踝からの垂直線状に会陰が来るように配置し(そうすると恥骨はやや前になる筈。また、股関節はやや前に付いているので、股関節に張りを感じるかもしれない)、そして、その前方に出た恥骨のあたりを軸に肚を載せて揺らしながらバランスを図るという方法。

現実的には上の方法の組み合わせであり、そのどちらの方法でも、あとは、その肚の上に胸を載せ、首を載せ、頭を載せるということになる。

そして何より、傘を手の平でバランスさせて立たせているように、会陰の上で、骨盤や胸、首、頭をバランスさせて載せているとイメージする必要がある。頭頂から会陰まで、天高くから地中深くへと伸びる、無限に長い、銀色の細い棒が通っていると感じること。

本当にバランスが整うと、上半身が驚く程、軽く感じられる筈だ。


頭を載せるコツをもう少し詳しく書く。

まず顎の下を脱力し(耳から顎がぶら下がる感じで。そうすると顎の下が凹む)、次第に頭頂が糸で天に吊られているイメージで、垂直に高くしてゆく。

そして、首が真っ直ぐになるのを感じながら、第一、二頚椎のあたりを脱力する。

そうすると頭部は前にいろいろ付いているので、頭部が前に転がり落ちる感覚になると思う。それを感じながら、重心を調整するために、やや、頭部全体を後に水平移動させる。

そうすると眉間と耳を結んだ辺りに、頭部の重心を感じると思う。

その重心を前後左右に揺らしてみて、丁度、首の上に乗る場所を探す。

とても難しいが、うまく乗ると、頭部が「ふわっ」と上に浮く感覚があるのですぐに分かると思う。

私は二十代後半にして初めて首の上に頭を載せるのに成功したので、最初、ポイントを見付けられた時はかなり感激した。即座に肩凝りとはオサラバとなった。


逆に会陰は、内踝の上にすえる。

この状態では、感覚としては、やや前につんのめった印象があるかもしれない。

しかし、これは人体の前後の重心がそう出来ているからであり、安定させるには、膝を緩めていけばよい(ただし、この時も、骨盤の角度を垂直に保つこと。もちろん、膝を緩めなくてもよい。しかし、緩めない場合には、股関節への意識と、その柔軟性が必要である)。

以上で、立てる筈である。


しかし、下から考えて、内踝、会陰、肚、胸、首、頭、頭頂(百会)を一列に載せるというのは、なかなか出来るものではないと思う。

できたとしても、それを持続させるのは、並のことではない。

立つことは、口で説明するより、自分の体で感じてゆくしかない。(全部、そうなのだけど、特に立つのは)


そこで、立つ練習をすることしかないと私は思う。

少し負担の大きい立ち方をすることで、体が「その姿勢じゃツラい」というのを学ばせる方法だ。

具体的には、「空気椅子」か「股割立ち」をする。


空気椅子とは、膝を曲げて、椅子に座ったような姿勢で立つことだ。

余裕があれば、踵を浮かして立つのもよいだろう。

股割立ちも、膝を曲げる運動であり、効果は空気椅子と同じだ。

まず、足を広く開き、次に、足を股関節から外旋させ、足首と膝を同じ方向に向ける(決して、足首や膝を回転させてはならない。股関節だけを旋回させること)。

次に腰を落してゆく。理想的には膝と膝の水平線上に恥骨が来ることだが、股関節の柔軟性がそこまで無い場合は無理をしない。

この股割立ちの方が臀部や肚の力具合が掴めやすいかもしれない。

この姿勢で、踵を浮かすと蹲踞の姿勢となるだろう。


この姿勢は膝に極端に負荷がかかる。

だから、もし、やるならこれから言うことに、本当に注意してやって欲しい。もし、以下のことが出来なかったり意味が分からないなら、やらないこと。


まず、最初は少しの時間しかやらないこと。次に、無理はしないこと。痛みがあれば、絶対に即座にやめること。

そして、これがこの姿勢での体操の肝なのだが、これは足の負担を臀部の負担に移行させる練習なのだと思って欲しい。

落ちて来る体幹の重さを会陰で上に押し上げ、曲がってくる足を臀部と肚の力で押し返すのである。決して足の力を鍛える運動ではない。

普通の感覚で空気椅子をすれば膝に負担が掛かり、膝や太股前部が疲労するだろうが、そうではなくて、臀部と肚の力で足をコントロールして引っ張るようにして欲しい。

踵を浮かした場合も、脹脛の力で浮かすのではなく(そんなことをすれば脹脛はすぐに疲労する)、足首の可動域の限界まで足首を曲げることで、自然に足首が浮いてしまうという状況にすること。そのためには膝を曲げる必要がある。

膝は疲れやすいし、壊れやすいが、肚や臀部はとても強力だ。弱い場所よりも強い場所を使うことを、自然に体で身に付けて欲しい。

そして、そうする中で骨盤を立たせる姿勢が自然に身に付くのではないかと考えている。

とにかく、空気椅子や股割立ちは、体幹を鍛え、強力な骨盤のコントロールを学ぶ運動であることを忘れないように。


上記の運動が正しく行われた場合、確かに疲れるかもしれないが、立ったり歩いたりするのが「軽く」感じることと思う。

立つのも真っ直ぐと感じ、歩くのも床の上を滑るように感じると思う。

これは、勿論、急に負荷が減ったことによる負荷の錯覚や、疲労による麻痺が原因というのもあるだろう。

しかし、無駄な筋肉を使うのをやめた結果であることも見逃せない。体が立ち、歩く効率良い方法を学ぶのである。

そうしたら上記の立つことの説明にあるような身体のパーツを串刺しにするイメージをもって立ってみて欲しい。

きっと、浮くような軽さを感じられる筈だ。


立つことは、こうした運動と確認との繰り返しの中でやっとできることなのかもしれない。

ただ、結果として、やはり、前につんのめる印象は残ると思う。

ほうっておくと、前に倒れそうになり、それが故に、歩き始めてしまうのだ。

これを膝を曲げることで解消してもいいが、歩き出す直前の状態としてキープしておくのもいいのかもしれない。

そうすれば、すぐに動き出せることで、フットワークの軽さも光るし、動くのが億劫でなくなる。

現代人にとっては、どっしりと安定立つよりは、恥骨がやや前に張った状態でやや不安定さは残るが、膝の負担はなく、すらりといつでも動けるように立つのが、いいのかもしれない。

どちらがいいのか、現時点の私には分からない。本当に一長一短に思う。


しかしながら、「理想の」と考えている以上、時代や目的で立ち方があるのは私にとっては気持ち悪い。

やはり「理想」は一つであるべきと信じる。

前回だって様々な歩きがあるのを承知した上で、一つの歩きを「理想」としたのだから。

この文書というかブログは現実の話をしているのではない。

理想の話をしているのだ。

そもそも、殆どの人間がそれなりに生活に問題ない程度に立てていることくらいは私だって知っている。


考えるに、結局は立つとは、歩くことと坐ることの中にあるものと納得するしかないのかもしれない。

膝を曲げれ安定させるのは坐ることの途中ととれるし(事実、「空気椅子」や「股割立ち」「蹲踞」は坐ることに近い)、膝を伸ばせば、歩く一瞬前という感じだ。

考えれば考えるほど、立てば立つほど、理想の立ちは見えてこない。

そして考えれば考えるほど、行住坐臥という言葉の中で、住という字の坐りの悪さを感じずにはいられなくなる。


なぜ「住」なのか?

私はアホでバカで本当に恥ずかしいのだが、分からない。

そして調べることもせずに、妄想で考えて申し訳ないのだが、「住」とは「行」と「坐」との関係の中でのみ、立つにしかならないのではないだろうか?

考えるに、「行」とは行くことであり移動である。また「坐」とは、一箇所に腰を据えて落ち着くことである。

住とは、移動もなく、かといって、腰を据えるでもなく、ただ、「いる」「とどまっている」ということでしかないのではないか?

少し言葉にひっぱられ過ぎたかもしれない。


結局、現時点の私には立つことはよくわからない。

「自然体」は、私にはほど遠い。

残念だ。

2007-01-12

行住坐臥 (2) 理想の歩き

私の現時点での理想の歩きについて

まず、なぜ立つよりも歩くが先なのかと問うかもしれないが、人間は立ったら歩いたのではない。歩いたから、立ったのである、と答えたい。

ま、そんなわけで、歩くことはとても大切です。ヴィパッサナー瞑想とかでも歩く瞑想が初心者に一番やりやすいと書いてあるし。

ま、そんなこんなで。

効率的な「歩き」は、ロボットのようであり、アボリジニーやネイティヴ・アメリカンのようでもあり、能や相撲のようであり、黒人のダンサー [1] のようであると私は考えている。

そして、現時点での私にとっての理想の歩きを言葉にすれば以下のようになる。


身は真っ直ぐに伸ばし、かと言って、腰を反らせたり尻を突き出したりせず、

尻、肛門、恥骨、肚、臍に力を込め、とはいえ胃のあたりの腹は空洞のよう力を抜き、

胸を進行方向に向け、とはいえ、胸を張るわけではなく、

脇を締め、肩の力を抜き、

そのまま足首から前傾させて重心を前に移動し、軸足は、踵で踏みながら、重心を感じつつ、

爪先が浮いて来た前足を、肚で滑らせるように運ぶのである。

そして、前足を今度は軸足とし、踵を踏みながら、その足の中で重心が移動する感覚を大切にしながら、同様に腰で後ろ足を運ぶのである。

膝は自然に緩め、必要があれば伸びるのも構わない。特に、歩幅を広くとった時や重心が高い時のの後ろ足の膝は伸びるだろう。

また、常に、足首より、膝頭が前にあるべきと私は考えている。そうで無ければ踵が踏めない。前足であっても膝頭は踝より前方に位置する。つまり、脛骨は常に前傾する訳だが、そうでなければ、前進にブレーキをかける力を生むだろうし、その摩擦や衝撃は膝や足首、腰などに負担をかける筈だ。

踵は常に地面に着くべきであるが、足首の曲がる範囲を越えて膝が前に出てしまい自然に踵が上がるのは問題ないと考える。特に、深い踏み込み、強い前傾姿勢では、足首の曲がる範囲を越えるため、踵は浮くだろう。

思うに、「歩く」とは、踵を前に出すことではない、踵で体を押し出すことである。

また、足が体を運ぶのではない、肚で足を運ぶのである。

どんな状況であれ、つまり、前傾であれ後傾であれ、前進であれ後進であれ、軸は常に安定させる。つまり、どの方向から急に押されても、対応できる姿勢でいることが大切である。

また、理想的には、頭は全く同じ速度で、ブレることなく、進行方向に移動する。「歩く」ときには、どんな状況であれ、頭は常に軸の上にある筈であり、その軸の移動を足裏で完全に意識しつつ進むのであるから、頭は完全に一定速度で進む筈である。前に進むのであれば、頭は上下左右にブレることはない。鏡に向かって前進すれば、頭が静止しているように見える筈である。

私はそれが最も効率のいい歩き方であると現在は考えている。

まあ、ゆっくり、じっくり長い時間をかけて身に付けるというか、自然になってゆくというのが大切ですので、別にこれを読んでも仕方ないとは思いますが [2]


notes

[1] 音楽における「白さ」について 2006/11/01 で以下のように書いた。
脊椎という体の中心から感じられるリズムかどうかが重要なのだ。首、背骨、骨盤という中心を動かしたリズム感だと「黒い」と感じるのだ。逆に言えば、中心が動かず、小手先を動かすのでは「白い」と感じることになる。

踊りで考えると分かりやすい。たとえば手を挙げるとする。ただ、手だけで手を挙げるのが「小手先」であり、足腰の振りで手が自然に挙がるのが中心からの手と言える。音が「こーゆー音がココに出てればオーケー」というのが小手先であり「ノリに合わせてたら自然にソコに音が出た」というのが中心からの音と言える。

この文でも書いた通り、黒人か否かが大切なのではない。体幹で動くか小手先で動いているのかが、大切なのだ。

本文での「黒人ダンサー」というのは小手先で動いてない踊り手という意味だ。残念なことに、現代では黒人であっても小手先のダンサーをよく見掛けるようになった。 [2] ここんとこ、できることは自然の観察のみ 2006/12/09に詳しい。

ある動作に対し、注意を向け続けることで、身体の方が自然に合理的な動きを獲得するのである。これは身体を用いる動作のほとんどに言えることだろう。

意図して動きや意識を変えようとしてはならない。それは「わがまま」であり、「無理」を生むことにしかならない。いや、幾分かは練習にはなるから無益ではないが、それでは本格的な身体意識、身体動作の向上にはつながらない。

「わがまま」つまり「我が思うまま」に動かすのではなく、「ありのまま」「あるがまま」が大切なのである。そして、そのためには、身体の意識・感覚・動作などの観察しか私達にできることはないと肝に命じよう。変化という「自然」を見て取ることしか私達にはできない。

行住坐臥 (1) はじめに

インドブーム雑感 2006/12/27にて「体のやることはつまるところ行住坐臥につきる。つまり、動く、立つ、座る、寝る」と書いた。この点について、最近の雑感を少々したためた。

意拳という中国拳法がある。

創始者の名は王向斉といい、彼は「国を代表する達人『國手』であると人々から賞賛されていた」。そして彼の創始した意拳は「中国武術の精髄を集大成した拳法との意味で大成拳とも呼ばれる」 [1]

その「中国武術の精髄」である意拳は、他の中国武術と違い「套路を持たない」。つまり型稽古がないのである。

「修行法としては站樁(タントウ、立禅)によって架式(適切な姿勢)と内功を練ることが中心となる」。

つまり「立つ」ことで、適切な姿勢が自然に身に付け、それにより「気」の力を得ることが修行の中心となるのである。

また、その意拳を学び、太気至誠拳法を創始した澤井健一も、「立禅」と「這」(ハイ、ゆっくりと粘り這うように歩くこと)を修行の根本とした [2]


武術とは、ひとつの身体の究極である。

その武術において、「立つ」と「歩く」がこれほどに注目されることは、注目に値する。

立つことができ、それで歩ければ十分ということだろうか。そして、手は後からでもついてくる、ということだろうか。

考えるに、戦いにおいて、力(筋力)や技は有効である。しかし、力(筋力)には限度があり、状況は無限にあるが故に技も無限にあり、全ての技を身に付けるのは不可能である。

力でもない、技でもない、本質的な力が求められるのである。

あらゆる場において有効な力とは、身に付いている姿勢と「気」ということになるのだろうか。


また、昨今の深層筋「ブーム」にも目を向けたい。

深層筋とは表面にある筋肉と異なり、意識的に動かすことが難しい筋肉である。姿勢保持や呼吸などにも関わり、力も強く、持続力もある。

それ故、使えるか使えないかの差は、非常に大きい。

深層筋を鍛える/意識するためには、動作を遅く、長く行わなければならないとのことである。

「立つ」と「歩く」によって得られる力の一つに、この深層筋の力があると私は思う。


長い時間、立ったり、ゆっくり歩いたりすることは、実は難しい。

普通の立ち方でも歩き方でも、なかなかできない。特に意拳で行われるように、踵を浮かした中腰で両手を顔の前に上げて立ったり、這うように歩くのは、普通は長時間はできない。

立てば直ぐにふくらはぎや太股前部、腰の筋肉が痛くなるだろうし、歩けば軸がぶれてしまうはずだ。

これは表面の筋肉を使っているからであり、軸の感覚が弱いからである。

「立つ」と「歩く」を鍛えると、表面の小さな筋肉を自然に使わないようになり、奥の大きな筋肉を使えるようになる。また、軸の感覚も安定する。


日本の芸能の多くは「摺り足」を重視する。

これは、深層筋をフルに使い、軸を安定させて歩く結果なのだろう。

高く足を上げるのは無駄なのだ。

足を前方に運ぼうとすれば、脛の表面の筋肉の働きでなく、深層筋の力で自然に爪先が受くはずだ。そうすれば、踵を付けたまま、滑らかに重心の移動に合わせて足を運べる[3]

そして、その効率的な所作に日本人は美を見出したのだろう。

どうように能が武士階級のものであったことも注目したい。彼らは見るだけでなく、自身も演じたのである。つまり、深層筋を有効に利用した歩きを自身も練習するための場でもあったのだろう。


この行住坐臥の文化について、ちょこちょこと書いてゆきたい。

最後に偉大な人の言葉を二つ。

荘子

真人の息は踵を以ってし、衆人の息は喉をもってす

王向斉

拳とは何か? 拳とは力を奮い起こすことである。局部の方法ではない。

行住坐臥(2) 理想の歩き 2007/01/12 行住坐臥(3) 理想の立ち 2007/01/16 行住坐臥(4) 理想の坐り 2007/03/26 行住坐臥(5) 理想の臥 2007/03/28

notes

[1] 以下 wikipedia の各項目より
意拳(いけん・yi quan)とは王向斉によって創始された中国武術。 中国武術の精髄を集大成した拳法との意味で大成拳と呼ばれることもある。(意味には別説あり。) 中国武術は複雑な套路(型)を持っている門派が多いが、意拳は套路を持たないことを最大の特徴としている。 修行法としては站樁(立禅)によって架式(適切な姿勢)と内功を練ることが中心となる。 また散手(組手)を積極的に行っており実戦武術としての評価も高い。 意拳の流れを汲む武術として太気拳(太気至誠拳法)、 韓氏意拳、 心会掌 、神意拳などがある。
王向斉(おうこうさい・王薌齋1886年 - 1963年)は、中国の武術家。意拳の創始者。

少年時代に形意拳の代表的な達人であった郭雲深の閉門弟子(最後の弟子)となり、武術を学ぶ。 その後、南北をめぐって数々の中国武術を研究し、そのエッセンスを抽出して創意工夫の末に意拳を創始する。 実戦でのずば抜けた強さから当時、国を代表する達人「國手」であると人々から賞賛されていた。比武(試合)においては、王がただ相手に軽く手を触れたように見える何気ない攻撃を繰出しただけで、相手はまるで落雷に遭ったかのような衝撃を受けて倒れてしまったという。また対戦相手は王の動きを目で捉えることができず、まるで顔が七つあるかのようにも見えたという。

王の著名な弟子には姚宗勣、澤井健一などがいる。

[2] 木村文哉『武道的身体のつくり方』(2005、河出書房新社)に「澤井健一から、盧山が習った稽古法は『立禅』と『這』だけだった、と盧山は言う」とある。 [3] 多くの摺り足では踵が受くが、それは不自然に思う。

浮かしたとしても、それは脹脛の力ではなく、足首の曲がる限界まで来て、結果として踵が浮いているという状態だろう。体を動かす力に使う程、脹脛は強くない。

宮本武蔵『五輪の書』に以下のようにある。

足のはこびやうの事は爪先を少しうけて踵を強くふむべし、足の使ひやう時によりて大小遅速はありとも常にあゆむが如し、足に飛足、浮足、ふみすゆる足とて是三つ嫌ふ足なり、此道の大事に陰陽の足と云ふことあり是れ肝要なり、陰陽の足とは片足ばかり動かさぬ物なり、きる時、引時、受る時までも陰陽とて右左ゝゝとふむ足なり、返すゞゝ片足ふむことあるべからず、能々吟味すべきものなり

尚、踵を浮かす健康法というものがあるらしいが、私は賛成しない。踵を浮かせば、脹脛に疲労がたまり、ひいては大腿四頭筋が固まり、最終的に腰を痛める筈である。その影響は首にもいくだろうし、膝も壊しかねない。

そうした人の脹脛にあるツボを押すと激痛が走るものである。ここでのコリは、漢方やアーユルヴェーダで考えると、冷え性や頭痛、便秘などの原因になる。

同様にハイヒールも良くない。これも「足を細くする」などと言っている者がいるが、上述の結果となるに決まっている。

2007-01-10

香西秀信 『議論術速成法―新しいトピカ』

Amazon.co.jp:香西秀信 『議論術速成法―新しいトピカ』

この本ではレトリック学者である筆者が、思考の型を収集・分析することで議論に強くなる方法を描いている。こうした方法は弁論術が隆盛した古代ギリシャ時代より考えられていた方法である。さまざまな弁論家の思考の型を集積し、そうした思考の型のカタログを作成し、思考について深く考えてゆく。こうして天才弁論家の型を効率的に学習することで、議論を有効に進められるというわけである。

ギリシャ人は「思考の型」を「トポス」と呼び、こうした「思考の型」のことを本書の題名にもある「トピカ」と呼んでいた。筆者はこの「トピカ」や議論術の歴史を概観しつつ、タイトル通りの実践的な議論術を促成しようとしていく。

様々な論客や弁論家の鮮やかな論破の方法を辿ってゆくだけでも胸がすっとする事請け合いだ。それに加え、アリストテレスのトピカの解説を始め、論争における常套句の有効な利用方法、反対に常套句への対処法、あるいは、ペレルマンとオルブレクツ=テュルカのアリストテレス研究に基づいた、人が物事を選択・判断する時の論拠についての筆者独自の考察は非常に有益である。

また、筆者は、主にアリストテレス式とキケロ式のトピカを比較する中で、有効なトピカのためには「生の」トピカが有益だと主張する。チェックリスト型であるキケロのトピカよりも雑然としていて本人しかわからないような「生の」トピカが結局、議論には有益であるというのだ。著者はリチャード・ウィーバーの仮説を下に、人には書体があるように、議論にはその人独自の癖があるのであり、自らが気に入ったトポスを多く身に付けるのが最も効果的なのだという。つまり、多くの議論や読書を通じ、自分が気に入った論法や論理を集積・分析するのが議論術を強化する近道なのだというわけである。

ディベートや会議のために議論術・説得術を強化したいという人のほかにも、人がある事柄に対して議論をし、判断を下すということについて詳しく考えたいという人にもこの本は非常に有益である。一読をお勧めする

エドワード・サイード 『戦争とプロパガンダ』

Amazon.co.jp: サイード『戦争とプロパガンダ』サイードの『戦争とプロパガンダ』は中東の問題への正確な視点を私に与えてくれた。やはり私もアメリカのニュースをたれ流している日本のメディアによって歪まされ、毒されていたことが分かった。いや、それどころか状況を理解するのに必要な基礎知識すら掛けていたことも実感し恥ずかしい思いだった。

興味深い話題に満ちた本であったが、中でも中東に若手を中心にした民主的・政教分離的な路線が芽生えており、そこに中東の未来に明るい兆が感じられたことが快かった。

2007-01-09

21世紀の経済学がなすべきこと
5. 暫定的な最低限の処置

前節で見たように問題は経済学だけではなく現代社会の経済観自体の問題にないります。そのためには根本的な経済観を変えなければならないと書きました。しかし実際に自然・資源やエントロピー論を元に一から学問を起こすのは困難であるでしょう。またその繁雑さから影響力も限定されるとも考えられます。

ひとまず私はこの問題に対し提言があります。すなわち経済は価格では買えないものを消費してはならないというものです。つまり有限で環境破壊をする資源の利用に対価は払えるはずはなく、経済学はその取引をやめるように提言すべきであるということです。経済学はその提言をするに足る十分な情報と手法を持っているからです。

通常、私たちの社会では文化芸術作品や歴史的遺跡には高値がつきます。中には政治機関の認定により取引を禁じられるものさえあります。これは個人や一時代の人々により消費・破壊されてしまうことを防ぐためです。この保護の考えにより作品や遺産は杜撰な取扱いを免れ人類全体の遺産として残るというわけです。

ここで考えて欲しいことがあります。化石資源は地球が長い年月を掛けて生成してきたものであり人間による生産・再生は不可能です。使いきってしまったら後はないのです。有限であり再生できない化石資源は人類文化遺産のように値段が付かないはずのものではないでしょうか。

一方、地球温暖化も値段が付けられないほどの人類に対する被害です。環境エネルギー庁の『総合エネルギー統計(平成三年度版)』[8]によれば、 1990 年には地球上では75 億トンの石油に匹敵する化石燃料が消費されました。この化石燃料の消費から発生する炭酸ガスは年間220 億トンであり地球上の炭酸ガス2 兆トンの1% 以上です。石油が枯渇すると予測されている45 年後には炭酸ガス濃度は現在の50% 近く増加することになるということです。このような被害を金銭的に償うことは明かに不可能です。

消費して消滅してしまう化石燃料は以上のことから本来は価格には表せないものです。つまり経済的に取引されるべきものではないのです。

では私たちは自らの労働の他にはエネルギーを持たないのでしょうか。いえ、エネルギーを持たないというわけではありません。我々には太陽が与えられています。私たちは太陽のエネルギーのみを使用しなければいけません。日光・風力・地熱などの発電手段は太陽を利用したエネルギー取得手段です。また水力発電も太陽が運んだ水の位置エネルギーを利用した発電手段です。

ところで薪やそれを加工した炭もたしかに太陽から与えられた資源です。太陽の力によって成長する木々から生産されるからです。しかし、それらの燃料の使用も地球温暖化を促進する要素になります。地球の自浄作用を越えない範囲での使用なら問題ないということになります。

さて、以上に述べたように私たちは枯渇や環境破壊する資源を利用すべきではありません。実際、昔の世界のほか今でも多くの社会ではそれらの資源を利用していません。これは古からの知恵であるとして尊重すべきものです。

しかし、急激にそれらの資源利用を停止するのは理想論です。現実には不可能ですし、やるべきでもありません。ひとまずは枯渇と環境破壊の危険性を視野に入れた価格設定が必要で、段階的に価格を上げてゆくべきでしょう。最終的には太陽からのエネルギーを利用した方が効率的であるようにします。

この議論を成立させるために経済学は以下のことをしなければなりません。

* 現行の仮定による経済が与える打撃の計算

* 妥当な化石エネルギー価格の計算

* 妥当価格による社会打撃

* 太陽源泉のエネルギーの開発支援

* 太陽源泉のエネルギー利用支援

それらを調査した上で政治・行政の場に資料を提出します。

現行の社会が与える未来への打撃と、枯渇や環境破壊から自由なエネルギーの使用による現在の社会に対する打撃を計量化し、そのトレードオフにより価格を設定しなければなりません。

これらの問題を取り入れた上で一般に人口問題と呼ばれる問題に対処しなければなりません。食料や水という生存に最低限必要な物資の経済も考えねばなりません。これは上記のようなその場しのぎの経済学では間にあわないでしょう。本格的にエネルギーやエントロピー論と資源の有限性に基づいた経済学が必要になります。


概要と文献 1. 結論——21世紀に必要な経済観 2. 序論 — 資本主義の問題に対する経済学の沈黙 3. 交換価値と無限の自然に立脚した資本主義批判 4. 従来の資本主義批判の限界と新しい経済学

5. 暫定的な最低限の処置(現在の記事)

21世紀の経済学がなすべきこと
4. 従来の資本主義批判の限界と新しい経済学

前節ではマルクスによる資本主義批判を振り返り、技術革新が資本主義減速の退避策の要になることが考えられました。その上で自然を無限と見ることと交換価値で自然を見ることの関連を見てとりました。

資源枯渇・環境破壊という問題に対して経済学は有効な提言はできません。これは経済学が交換価値のみに立脚したことによる限界です。

経済学的思考はこの限界を打ち破らねばなりません。資源の有限性や環境破壊の危険性やエネルギーの経済は現在の死活問題になりえるからです。

ここで注意が必要なのは資源の有限性を考慮していないのは経済学だけの責任であるとも言えないのです。なぜなら現実の社会が資源の有限性を考慮していないからです。つまり、現実の社会が交換価値のみを考えて資源を無限であるかのように考えているからです。

もし有限性を認識しているのなら価格調整が図られるというのが経済学の発想です。もし有限であるということを現実の社会が認めているのなら現実に価格調整は実現するでしょう。あるいは地球温暖化現象に見合った額になるために環境税などが付加されるべきです。しかし現実社会は資源の有限性や環境破壊には留意していないのです。

もし環境破壊も枯渇もしない資源があった場合を考えてみて下さい。有効に利用することに問題はないはずですね。問題は事実は異なるのに今の社会が枯渇も環境破壊もしない資源かのように消費していることなのです。

現実社会が考慮していない変数を学問が取り入れることは不可能ですが、しかしながら、このことは資源枯渇・環境破壊問題を経済学が考えなくてもよいということではありません。経済学はこの問題を有効に提起できる限られた学問なのです。経済学は被害を最小限にすべくこの問題に対処すべきです。現実から作られた経済学が現実に影響を与えなければいけない時なのです。経済学は統計データ・理論や計算道具を十分に持っているはずです。

経済学は交換価値のみによる経済学からの脱却しなければなりません。そのために自然破壊や資源の問題かエントロピーの問題を根底にすえるべきでしょう。その上で政治・行政の場にアプローチをしていかなければなりません。以下の本では資源の有限性に立脚した新しい経済学が構想されているようです。K. William Kapp, The SocialCostsof Private Enterprise[4]、宮本憲一『環境経済学』[9]、NicholasGeorgescu-Roegen のエントロピー論[1,2]、玉野井芳郎の「広義の経済学」[10-12]などがあります。


概要と文献 1. 結論——21世紀に必要な経済観 2. 序論 — 資本主義の問題に対する経済学の沈黙 3. 交換価値と無限の自然に立脚した資本主義批判

4. 従来の資本主義批判の限界と新しい経済学(現在の記事) 5. 暫定的な最低限の処置

21世紀の経済学がなすべきこと
2. 序論 — 資本主義の問題に対する経済学の沈黙

現行の資本の活動は労働者を疎外し天然資源や自然環境を破壊・枯渇させています。

世界的に労働者は“race to the bottom” と呼ばれるまでの労働条件の悪化を経験しています。しかし先進国では労働者はそのような苦境にありません。これは先進国では資源浪費による技術により労働者搾取の率は低いからです。そうして世界的な貧困化は先進国の目には入りません。しかしほとんどの国では労働条件の悪化は進んでいるのは事実ですし、先進国でも不況や産業空洞化という形で隠蔽された労働条件悪化は進んでいると言えます。

一方で天然資源消費の歯止めは一向に掛かる気配すらありません。二酸化炭素の発生を規制しようとした京都議定書も有名無実化しているのが現状ですし、石油資源も先進国の思惑のみが先行し有限資源の保護の発想は微塵もありません。それどころか利権を巡り戦争を起こしているありさまです。そのような剥き出しの利権主義が横行する中で一時期発言権を持った環境保護団体は黙殺されがちになりました。

以上のように富の源泉である労働力と資源・環境は徹底的に搾取されるているのです。このような事態はは今世紀の死活問題のはずです。しかしこのような状況に対し学問・政治議論・ジャーナリズムはほとんどの有効な対応をとれていません。

とりわけ経済学は労働条件や資源・環境を計量的に扱えるはずであり、本来はこの状況を政治的に解決すべき知恵を提供できる学問のはずです。ところが現状の経済学はGDP・失業率・インフレ率などのマクロ経済的な考察には熱心ですが、資源や環境の問題に対して政治的にはほとんど沈黙を守っています。いわんやエネルギーや食料・水を巡る人口問題に対しては解決を諦めているかのようです。

本試論では以上の問題意識をもとに従来の経済学による労働者搾取問題と資源・環境問題を洗い出し、その上で経済学は何をすべきなのかを考えてみました。


概要と文献 1. 結論——21世紀に必要な経済観

2. 序論 — 資本主義の問題に対する経済学の沈黙(現在の記事) 3. 交換価値と無限の自然に立脚した資本主義批判 4. 従来の資本主義批判の限界と新しい経済学 5. 暫定的な最低限の処置

21世紀の経済学がなすべきこと
3. 交換価値と無限の自然に立脚した資本主義批判

本節では中村(1995)による経済学が自然を無限と仮定したことへの指摘をうけ、マルクスの『資本論』による労働者の搾取についての問題を振り返ります。マルクスの資本主義の批判を再考することで、現行の社会では労働における搾取以外が想定されていないことを再確認しておきます。

さて、マルクスが経済を考える場合に想定される価値とは交換価値です。交換価値を説明するためには彼の貨幣についての議論を整理する必要があるでしょうが、ここでは簡単に使用価値と交換価値の対比で説明したいと思います。

マルクスは元々は財はその有用性によって評価されていたと考えます。つまりこれは何々のために使えるからとか、これは食べられるからという形で価値を持っていたのです。このような価値を彼は使用価値と呼びます。一方で交換価値とはあるものの有用性による価値ではなく交換する場合の価値に立脚した価値です。これは貨幣経済においては貨幣によって明確に計量化できます。マルクスは交換価値のみが経済の対象であるとし、使用価値は経済学の領域の外にあると考えています。

マルクスは資本家が得る全ての価値は労働によって生まれていると考えます。その労働によって生まれる価値を剰余価値と呼びました。交換価値の視点から利潤を生み出す要素は労働であると考えるのが妥当でしょう。交換価値で考えた場合に搾取されている可能性があるのは労働者のみであるからです。

マルクスは、総資本Cを不変資本(=労働手段)c と可変資本(労働賃金)v に分け、労働の搾取による剰余価値mと利潤pの関係を考えました。賃金との関係で剰余価値と呼ばれたものが、総資本との関係では利潤と呼ばれるのです。

この関係の考察から彼は労働者の搾取と資本主義の限界を示します。

総資本における利潤の割合を利潤率p’と呼ぶとp’ = m/C (1) となります。一方で労働賃金と剰余価値率の比率を剰余価値率m’と呼ぶと m’=m/vと表せます。

これを変形してm = m’vとして(1) に代入するとp’=m’v/Cとなります。

この式は、利潤率を上げるには剰余価値率が高く、総資本における労働賃金の割合が高ければよいということを表しています。総資本における労働賃金の割合は労働の種類によって一定になってしまうでしょう。ですから資本家は剰余価値率を向上させるように努めるのです。てっとり早いのは賃金低下や労働条件の悪化です。

しかし、このことはv/Cを減らします。そしてv/Cの減少は利潤率p’ = m’v/C を減少させます。一方、こうした労働者の搾取と、それに伴なう労働者の倫理低下のため剰余価値率m’ も低減するでしょう。この悪循環により利潤率の低下は止めることはできません。

総資本に対する利潤率の低下は資本主義の死活問題です。利潤は再生産の要なのです。利潤を生まない産業への投資は経済的にはありえません。利潤の低下は再生産の縮小を意味するのです。もしこの条件だけならば利潤の低下と、それに伴う再生産の縮小により、資本主義経済は速やかに終息する筈です。

では、何故、現実の資本主義経済は終息するどころか、更に拡大発展を見せているのでしょう?それは労働者の搾取によらない利潤の確保の手段があるからです。それが技術革新です。技術革新は剰余価値率を飛躍的に高めます。終わることのない技術革新とは、資本主義経済が生存するために無くてはならないものなのです。つまり、一般的に考えられているように、技術革新は未来のために必要なのではありません。現状の維持にとってさえ必要なのです。

こうして、生きるか死ぬかの瀬戸際で次々と生まれる技術は、資源・環境問題に対しては考慮されません。同時にエネルギー的に考えても損失を生むだけです。そもそも資本主義経済は、そういった余裕を持てる仕組みではないのです。「もう、十分だ。進歩はやめよう」と考えた時には、資本主義経済は終わってしまうのです。それ故、国家や市場、経済学者は、技術革新と、それに対する資本の効率的配置に興味があるのです。

しかし、交換価値のみで考えることによる弊害は無視できないものです。なぜなら、交換価値で評価された資源・環境は、無限に交換可能だと見なさざるを得ないのです。そもそも、あるものが交換可能であるということは、無限とも見なせる量の代替品があることによって成り立ちます。この無限と見なせるという思考が、自然を無限と捉える思考へと流れていったのでしょう。

中村(1995)は経済学が無限の自然を仮定した経緯を「リカードからミルへと続く古典経済学において、無限の自然を仮説として経済を論じるスタイルが確立した(p.126)」と指摘しています。この「仮説」は「暗黙の前提」になっていったのだと言います。

現代の経済学では、地球を有限とするのか、あるいは無限として議論するのかも明らかにしていない。……自然を定義せずに……経済活動や成長を論じること自体、無限の自然を暗黙の前提にしていることにほかならないのではないか(pp.125-126)。

交換価値で自然を見ることと自然を無限と見ることは同じコインの裏と表の関係です。つまり交換価値で資源・環境を見ることは自然の無限性を必要とします。この交換価値で物を見るという態度は今までの見方でした。しかし、技術革新は今世紀に入り地球規模の環境破壊を生むに至り、大規模な消費により化石燃料の枯渇が問題になりつつあります。この「暗黙の前提」が環境破壊と資源枯渇問題を生んだのです。ですからこの問題に対処するには別の価値観・枠組が必要なのです。


概要と文献 1. 結論——21世紀に必要な経済観 2. 序論 — 資本主義の問題に対する経済学の沈黙

3. 交換価値と無限の自然に立脚した資本主義批判(現在の記事) 4. 従来の資本主義批判の限界と新しい経済学 5. 暫定的な最低限の処置

21世紀の経済学がなすべきこと
1. 結論——21世紀に必要な経済観

始めに本試論の議論を整理します。

本文は第2節で述べられる以下のような問題意識に基づき本試論は作成されました。すなわち、現行の資本の活動は労働者を疎外し天然資源や自然環境を破壊・枯渇させているにも関わらず、経済学に代表される知がなんら有効な対応を取っているようには見えないことです。

経済思想を整理する意味も含め第3 節では資本主義批判の大御所とも言えるマルクスの議論を紐解いてみました。これは彼の使用価値と交換価値の議論と、利潤と剰余価値の関係による労働者疎外の議論の確認という作業になりました。一方で中村の言う現代経済学による「無限の自然」という暗黙の前提も確認しました。この二人の議論から次の結論が導かれました。

  1. 交換価値により財を見ることと無限の自然の仮定は表裏一体であること
  2. 経済学が〈交換価値=無限の自然の仮定〉に立脚していること
  3. 〈交換価値=無限の自然の仮定〉に基づく資本主義批判では労働者疎外の問題を捉えるのが限界であり、現状の経済学では資源枯渇・環境破壊問題は捉えられないこと

確かに労働者疎外に基づいた資本主義批判は当を得たものでした。しかし、現実社会では資源・環境問題が発生した現代では〈交換価値=無限の自然の仮定〉という枠組自体の問題が検討されなればなりません。これは第4 節において論じられ以下のような結論に至りました。

  1. 〈交換価値=無限の自然の仮定〉という発想は経済学だけではなく現実社会そのものの発想であること
  2. 資源の有限性とエントロピー論に基づいた発想を導入すべきであること
  3. そうした新しい発想を経済学が政治や社会に提言すべきであること

長い目で見た場合に上記のような新しい経済学は確かに必要不可欠です。しかし、石油や二酸化炭素の問題は差し迫っており新しい経済学の普及を待つ猶予はないように思えます。そこで第5 節では現状でもできる経済学の暫定的な仕事を以下のように掲げました。

  1. 石油使用の継続による資源枯渇と環境破壊の被害の計算
  2. 太陽由来のエネルギーの導入による経済失速のマクロ経済的損失の計算
  3. 段階的な石油価格の上昇と太陽由来のエネルギーの導入支援金のモデル作成

つまり本試論の議論をまとめると以下のようになります。

  1. 〈交換価値=無限の自然の仮定〉という経済観の打破
  2. 有限かつ環境を破壊する資源を太陽由来のものに切り替えるべく計算すること
  3. エントロピー論と資源の有限性に立脚した新しい経済思想を確立すること

以上を政治や社会に提案し浸透させることが経済学の最優先の仕事になります。これが本試論の結論となりました。


概要と文献

1. 結論——21世紀に必要な経済観 (現在の記事) 2. 序論 — 資本主義の問題に対する経済学の沈黙 3. 交換価値と無限の自然に立脚した資本主義批判 4. 従来の資本主義批判の限界と新しい経済学 5. 暫定的な最低限の処置

21世紀の経済学がなすべきこと

大学生の頃に書いたメモです。勢い一発の間違いと勘違いと思い込みの産物ですので、まったくアテにしないで下さい。

概要: この試論では労働者搾取問題や資源環境問題に対し経済学がなすべきことを模索しました。

まず、マルクスの労働者疎外の理論と、中村の経済学による「無限の自然」の仮定をそれぞれ検討し、〈交換価値=無限の自然の仮定〉に立脚した経済思想の限界を指摘しています。

その上で経済学がなすべき二つのことを提案しました。一つは有限かつ環境を破壊する資源を太陽由来のものに切り替えるべく計算すること。もう一つはエントロピー論と資源の有限性に立脚した新しい経済学を確立することです。


概要と文献 1. 結論——21世紀に必要な経済観 2. 序論 — 資本主義の問題に対する経済学の沈黙 3. 交換価値と無限の自然に立脚した資本主義批判 4. 従来の資本主義批判の限界と新しい経済学 5. 暫定的な最低限の処置


文献

  1. Georgescu-Roegen, Nicholas, 高橋正立訳. エントロピー法則と経済過程. みすず書房, 1993.
  2. Georgescu-Roegen, Nicholas, 小出訳. 経済学の神話. 東洋経済新報社, 1981.
  3. Imler, Hans, 粟山純訳. 経済学は自然をどうとらえてきたか. 農文協, 1993.
  4. Kapp, K. William , 篠原泰三訳. 私的企業と社会的費用. 岩波書店, 1959.
  5. Marx, Karl H.. 資本論, 一. 岩波書店, 1969. 向坂逸郎訳. 向坂逸郎訳.
  6. 石川, 英輔. 大江戸リサイクル事情. 講談社, 1994.
  7. 中村, 修. 1995. なぜ経済学は自然を無限ととらえたか.日本経済評論会.
  8. 環境エネルギー庁. 総合エネルギー統計(平成三年度版). 環境エネルギー庁, 1992.
  9. 宮本, 憲一. 環境経済学. 岩波書店, 1989.
  10. 玉野, 井芳郎. エコノミーとエコロジー. みすず書房, 1978.
  11. 玉野, 井芳郎. 生命系のエコノミー. 新評論, 1982.
  12. 玉野, 井芳郎. 科学文明の付加. 論創社, 1985.

仏教関係の読書記録

ここんとこ読んだ仏教関係書物7冊へのコメント

Amazon.co.jp: 中村元『龍樹』

中村元 (1912-1999)『龍樹』 (2002、講談社学術文庫)

★ 「空=縁起=中道」 → 八不

「空観」とは「諸事象・諸事物が相互依存によってあるので、自立存在はない」とする考え方。ちなみに、この相互依存によるあり方をナーガルジュナは「縁起する」と言ったらしい。そして、それを「有る」とも「無い」とも言えないので「中道」とも呼ぶ。彼の主張は「八不」である。それは不生、不滅、不去、不来、不常、不断、不一、不異である。


Amazon.co.jp: 中村元『論理の構造』

中村元『論理の構造』(上下、2000、青土社)

アリストテレス、西洋現代論理とインド論理を主眼に日本や中国の論理を整理。知覚、概念、カテゴリー、判断、推理について人類はどう考えたのか概観できる。力作。

学説とか興味ない最近の俺でも、その枠組みを概観できたのはよかったなー、とか思った。それなら目次みるだけでよかったかな?


黒崎宏(1928-)『純粋仏教: セクストスとナーガールジュナとウィトゲンシュタインの狭間で考える』 (2005、春秋社)

★「純粋仏教」=「八不」→「一重の原理」→「自受用三昧」

一重の原理とは「倒れたらもう倒れられない(立ち上がらないと)」「去ったらもう去れない(来ないと)」というように、同じ行為は二重にできないという原理。これは龍樹の八不から抽出できる原理である。

これと、セクストスを経由したピュロンの懐疑主義による、知らないことの不安を脱するために思考がなされるが、思考は結局、全ての判断は保留せざるを得ず、人は不可知であることにゆきつく、そして思考を保留した時に(なお知ることを求めているにしても)ある平静に辿り着く、というような考えを組み合わせ、受け入れることしかない、苦しみも受け入れればもう苦しめないというような自受用三昧を提唱。

ちなみに懐疑論が説く、思考が判断留保にゆきつく他ない、ということを説得する議論の論理展開は強力説得的で、けっこう興味深い。(とか言いながら俺はもう論理とか哲学に興味がない)

黒崎は純粋仏教=自受用三昧と述べ、十二因縁や四諦や因果応報も否定している。


宮本啓一 (1948-) 『ブッダが考えたこと: これが最初の仏教だ』 (2004、春秋社)

★ 最初の仏教= 苦楽中道

ブッダの説の中心は中道であり、中道とは苦楽中道に他ならないと主張。

欲→行為→苦しみ

ブッダは出家当初はヨーガ行者の下で瞑想を修め、その後、苦行を積んだ。しかしながら、瞑想の思考停止は一時的なものであり、苦行による欲望の押さえ込みも限度があることに気が付く。

生存欲 → 欲 → 行為 → 苦しみ

そこで彼は思考によって欲が生じるのは根本的な「生存欲」によるのだとブッダは気が付いて悟ったのだと著者は考える。十二因縁説の無明を生存欲と考え、これをのりこえるために智恵をつけるのがブッダの教えと著者は述べている。

また、仏教誕生の地インドの思考を概観し、仏教に輪廻思想がなかったとする考えを批判。

俺としては生存欲と欲は同じ項目だと思うんだけどなぁ……


宮本啓一『インド哲学七つの難問』(2002、講談社メチエ)

仏教の他にもインド6派哲学を概説しつつ、存在、自己、知識、因果などを、説明している。

ま、学派の学説とか哲学問題とか最近の俺あんま興味ないから……


宮本啓一『仏教かく始まりき: パーリ仏典「大品」を読む』(2005、春秋社)

大品とはマハーヴァッガのことで。マハーヴァッガは律蔵の一つで、律蔵は出家僧の規律などについて書いてあるものを意味する。


保坂俊司 (1956-) 『仏教とヨーガ』(2004、東京書籍)

ヨーガは、バラモン教やヒンズー教はもとより仏教、禅などの基礎となっており、日本にもヨーガの伝統は息づいているという話。そして、現在の日本の葬式仏教、カルトな某学会みたいな仏教、健康美容ヨーガ、オームみたいな怪しいヨーガを乗り越えて、本当に心身を共に鍛える仏教ヨーガを作り上げよう、という主張。

「宗教」という用語や概念の問題から始まり、様々なヨーガの歴史、学説なんかを概説。仏教とヨーガの関係も検証してます。

「整体である」こと

二泊三日で大学時代の友人の家に遊びに行っていた。お世話になったので、御礼といえるほどじゃないが、その友人と父親をマッサージをして整体をしてみた。二日やり、二人の姿勢が自然になり、本人も体が軽くなったと言う。そこで色々と感謝されるわけだが、まあ、それについて、俺は俺で雑感を少々 [1]

まず、身体の改善は、指圧や整体によるものではない。

つまり、私が揉んだり捻ったりしたから、体が治ったのではない。

ただ、私と友人の二人が、友人の体について一定の時間をとったことに意味があるのだ。

言い換えれば、私が「整体した」ことに意味があるのではなく、「整体としてあった」「整体であった」ことに意味があるのだ。




日常生活で自分の体に意識を向けることなど殆どないだろう。

意識が向くのは痛みを出した場所だけであり、痛んでやっとその場しのぎの対応をするのがせいぜいであろう。

そして、痛みを発するのは、痛みの原因とは違う場所も多いのにも関わらず、真剣に体をチェックする訳ではないので、本質的な問題には意識がいかないことも多いだろう。




私たちは日頃、それほどに自分の身体に対して無意識である。故に、意識を向けるだけで、体は自然に治癒の方向に向かってくれるものだ。

私は指圧や整体により、既に痛い場所ではない場所、思いもよらない場所が弱っていることを意識させる。

身体や脳は馬鹿ではない。

刺激することで、非施術者の身体は反応し、自然に緊張した場所は緩み、気の抜けている場所には張りが出るのである。

こうした改善は私の技ではない。非施術者の身体や脳の仕事である。




次に考えるのは、姿勢を良くしようと意図しても無駄であるということ。

私が身体を刺激すると、非施術者の姿勢は自ずと正しくなる。

しかし、もし身体が無意識の状態で、頭で「姿勢を良くしよう」と考えても、いい姿勢にはならない。

つまり姿勢が悪い人は人に「姿勢を良くしろ」と言われても、本当の意味でのいい姿勢にはなれないのである。




体が本当に理解しないと駄目なのである。

故に私の刺激が必要になる。私の刺激により、脳や体が緊張と弛緩を正しく理解すれば、おのずと姿勢は良くなる。

だからこそ、私は、施術後の改善された姿勢での、「楽さ」「軽さ」「気持ち良さ」を十分に味わってもらいたい。

本当に良い姿勢とは疲れるものでも、気をつかうものでもない。

自然に、気持ち良く、おのずからなるものなのである。




私が施術すると、ほとんどの人がすぐに体をグニャグニャ動かしたり、小走りしたりする。これは身体の自然な欲求として出てくるものだ。

昨晩は還暦の父親が夜だったのに「体を動かしたくなった」と言って、すぐに薪割りを始めた。体が軽く、楽しくできたそうだ。

こうした「気持ち良く」「楽に」体を動かしていることが、私の施術よりも全然重要なのだと考えている。



notes



[1] digi-log 2006/10/30 体の中の心 - 感情は実在するかでは、今回の自然反応の身体と異なり、精神についての雑感を書いた。

[2] digi-log 2006/11/21 体の動きに気づいた でも以下のように書いた。

意識してではない。自然になった。

「その動かし方、ちがうよ」

首と腰、足が自然に動いた。
自然に、動作と姿勢を補正した。


また、digi-log 2006/12/09: できることは自然の観察のみ でも同様に以下のように書いた。
「わがまま」つまり「我が思うまま」に動かすのではなく、「ありのまま」「あるがまま」が大切なのである。そして、そのためには、身体の意識・感覚・動作などの観察しか私達にできることはないと肝に命じよう。変化という「自然」を見て取ることしか私達にはできない。

2007-01-06

体で食え

最近、カレーの連荘。毎日スパイシーな料理を食っている。

ラムカレー、タイのグリーンカレー、四川風(?)スパイスたっぷり麻婆豆腐、肉じゃがにコリアンダーやらクミン、赤唐辛子、胡椒、鬱金、生姜、ニンニクをぶちまけた不思議カレー……、そうそう普通のルーから作ったカレーも今日食べた。

別に元気がめちゃ出たとか、そういうことじゃないが、まあ、雑感を少々
あ、別に誰かを批判しようとかしてないんで、そこんとこ、よろしく

以前にも書いたが、食と医はそもそも同じであるべきものと思う。つまり、日常の食事が、病気の予防であればいいと思っている [1]。まあ、ミノモンタ路線と言われれば、それまでだけどね。

食事で健康という考えのの中でも、現在はスパイスに注目している。スパイスと言ってもハーブだとか香味野菜だとか根菜だとか薬味だとかもここではスパイスと呼ぶことにする。

日本はあまり肉とか食べなかったからスパイスとか発達しなかったんだろうと思うが、やはり肉を食うときは毒を消すためにスパイスを多くとった方がいいんだと思う。そもそも、ほかほかして元気になるし。




こういう医食同源を考えてると、グルメちっくに「うまい」とか「まずい」とかって何だかバカらしくなる。

というか、俺もかなり分析的に食ってしまう方なんだが、そういうのって最低だと思ってる [2]。が、最低だと思うのだけれど、なかなか治らない。




一部の人間には俺はグルメとか思われたりしてる訳なんだが、なんだかな、と思う。

確かに肉、野菜、魚、コーヒー、酒など自分の感覚で評価が下せる。というか、下すも何も、頭にポンポン出てきてしまう。んで、素直に感動とかしちまうんで、それを人に話しもんだからややこしい。

味の評価がポンポン出てこない人や、無理しないと出てこない人は、俺みたいなタイプをうらやましく思うらしい。まあ、わからんでもないが……あまりいいことではない。

というか、最近味を云々するのは、下品かな、とか思ってみたりもしている。だって、食とは自然の恵みを肉体が効率良く吸収するための人類の文化であって [3]、それを感謝とか抜きに金の力でホイホイ運んだり火を使って「うまい」の「まずい」のと言うのは、食文化の本質に反する行動ではないかと思うんです。

逆に「こいつは何でも食う」とか言われると喜んじゃいます、俺。




だから、何でも「うまい」と食べられることが、食事という営みにおいては最も上品なんじゃないか、とか。

しかし、それだと作る人間がだらけるかもしれない。

それはいかん。自然の恵みに人間が力を加えて、更に食の効果を高める営みが食なのだから、その営みを放棄するのはいけない。だから、積極的に状況に合わせて効果的な食事を作るべく、努力が必要なのは言うまでもない。

そういう問題じゃなくて、食べるときに自然への感謝がないのは下品だな、と。それだけ。




脇道から戻ると、 俺たちって世代として味覚が変なんじゃないかとか思ってみたりしている。

さっき「分析して食うやつはクソだ」とか書いといて、こういうこと言うの変に思うかもしれないが、こっちが本筋。

味覚ってのは、上の話からつなげるけど「自然の恵みを効率良く肉体が吸収するため」にある能力だと思う。だから体に良いのがうまいのが本当だと思う。新鮮だったり、自分の足りない栄養が入ったものが「うまい」と感じるはずだと思う。

つまり、その場、その場で食いたいもんは変化するはずであり、人によっても違うはず。客観的な「うまい」なんて成立するはずはない。

しかし、この体にいいものを「うまい」と感じる機能が、俺たちは弱っているんじゃないかと感じている。




これは「グルメ」という幻想、客観的な「うまい」が成立すると思い込んでいることによるんじゃないかと。

だから「うまいものが分からない」とか言うやつがザラにいる。「酒の味、教えてくれ」とかなんとか。あのね、教えてもらわなきゃ分かんないのはラッキーなんだよ、お前には必要ないんだよ、と思う。




ホントは客観的に「うまいもん」なんて無いといいたいくらいだ。

まあ現実的にある程度の線でみんな「うまい」と思うのがあるから難しいんだけど、誰もが同じであって、その基準からそれると「味覚音痴」っていう排除の論理があるのが気持ち悪い。

んで、そういう「味覚音痴」の人ってのが、俺の言う「グルメ指向」の人なんだ。

自分で何がうまいのか自信が持てない。だから人の言ってた「うまい」に追従する。時に、人の言うことは間違いや勘違いであったり、同じ調理人だって失敗することもある。

それでも、そうした目の前の現実を無視して「ここは、おいしい店だ」とか言うから「味覚音痴」ってことになるんじゃないかな。




食うというのはそういうことじゃないと思う。

必要な栄養が効率よくとれることが一番であり、味は飽きなければいいはずだ。

文化として保持されて来た「普通の」手法を「普通に」きちんと行えば、ある程度「うまい」はずであり、この受け継いだ手法をきちんと皆が行うということが食文化なんだと思う。

金で世界中からもってきたもんを、ごちゃごちゃやれば、そりゃうまいもんできるだろうけど、それって食文化じゃないと思う。




なんだか訳わかんなくなったので、この辺で。

まあ、とにかく、食うときは、目の前の食い物に全力で向かっていって、食うべきなんだと言いたい。

そん時「あの店では」とか「あの時のアレは」とか考えない。つまり比べない。記憶と目の前の食い物を比べちゃだめなんだ (まあ、ほとんど自分に向かってだな、このセリフ)。

んで、ストレートに体が欲しがっているものを、人の目を気にしないでガンガン食べろ。

でも自分が勘違いしてる可能性もあるから、ちゃんと体にきくこと。そうすれば、身体と味覚のバランスも自ずから整うんじゃないでしょうか、とか。はは。わけわからん。






notes


[1] digi-log 2006/11/07「医食同源」 では以下のように書いている。

食物に健康上の効能があるのは当然のことかもしれません。食物は身体をつくりあげる材料です。食物の栄養がなければ私達は身体を維持できません。食物が身体に影響を与えるのは、ごく自然なことです。

元々、薬も自然にあるものを加工したものです。その多くは元々薬草として知られたものを症状に合わせ、身体に吸収しやすいようにしたものだったはずです。現代の化学やナノテクノロジーで作られる薬品は自然界に存在しない物質を利用していますが、それ以外のものは自然界に存在するものの中の病気に効くエッセンスを絞り出したものです。

どうしても、という場合は仕方ないですが、できるだけ普段から身体にいいものを食べ、ちょっとした病気も自然のもので対応できるのが人間の自然なありかたという気がします。健康は対処両方より、予防の方が断然ラクですしね。


[2] finalventの日記 2006-11-26
「太宰の人間失格は私の愛読書だった」
にもこうある。この感覚は完全に私の感覚とも共通していると言える。

太宰の人間失格で一番の要所はたぶん、こっそり自分には食欲というものがない、と語っているところだ。

 私も食欲というものがない。まあ、ないわけでもなく、おやつとか食ってるわけだから、嘘べぇであるが。このあたりはうまくいえない。

 他人がもくもくと食っているのを、私や太宰のような人は、アライグマのように見ているのだ。この変な感覚というのは、ある一群の人に共通だろう。

 もうちょっと言うと、自分がいやになるのだが、自分の味覚が優れているとか言うつもりはないのだが、どうも味を分析的にとらえている。すごく残酷に料理の味を見ている。もちろん、そういう自分がいやで自暴自棄に食ったりもするのだが。

 それでも、ま、ここまでは許せるかとか食い物を審判している。実は、それは食い物じゃなくて他者をこっそりと審判しているのだ。まあ、そういう人間類型なのだろうと思う。こういう人間はサイテーだと思うし、なかなか救いようがない。


[3] digi-log (2006/11/12)「食文化」 では以下のように書いている。

食文化も、農耕と同じように、エネルギー効率化の技術であったと思うんだ。消化をたすけ、病原を排除する。一つの食材が大量に取れる地域では、同じ食材を異なる味にし、また保存性を高めることは大切だったと感じる。
(……)
限られた恵みから食の効果をいかに引き出すか。これが食文化だと私は考えるんだ。

価値相対主義

〈いいもの〉としての神を書いてたころのメモ。


意見は相対的だ。価値は相対的だ。だから互いを排除せずに語り合う。だから暴力によらないで、金によらないで語り合う。

互いに対等に話し合おう。自分が正しい根拠なんてない。自分が絶対正しいと思わずに、間違っているかもしれない、相手が正しいかもしれない、そう考えて語り合おう。

話し合いの中からより正しいことを見付け、話し合いの中からより正しいことを学んでゆこう。語り合い、自分の間違いに気付いてゆこう。

こう言う僕も間違っているかもしれない。だから、互いに対等に語り合おう。

自己価値中心主義、自己価値絶対主義を避けよう。それは金と暴力のドグマなんだ。




しかし、共に語り合うに相応しい人は少ない。こういう人を語りに引き込む話法は成立しないか?うーん、もう少しじゃないか?

中島義道『カイン』

この本は、五十を越えた中島が三十年前の二十歳そこそこの自分に手紙を送り、助言をするという形で進んでゆく。つまり「強い」今の中島が「弱い」若き日の中島に語りかけているのである。


中島がその三十年で得た強さとは世界を表象として捉えるということに尽きる。他者をことごとく自分の表象として、ただ自分の前に立ち現れる意味の集積として捉えることで、他者によって過剰な影響を与えられることがないようにしたというわけだ。

中島はこの作業を「殺す」という表現で表す。これは、中島にとって他者を表象として捉えるということが殺すのにも匹敵する覚悟が必要であり、なおかつ殺すのにも匹敵する他者の排除であったということを示している。私は普通の人であれば彼の程度の他者の排除・無理解を平気でしていると思う。世界を表象として捉えることが殺すことになるという中島の繊細な感性が哀しい。

また一方で中島は怒る技術が重要であるとも主張する。怒ることで自分の中の人間という動物を呼びさまさねばならないということだ。怒らない人は人間ではない、この主張には思い当たる節があるのではっとした。

この本は一見すると傲慢に破天荒なことをズケズケと言ってゆく本であり面白く読めるが、その背後にある中島の体験のつらさ、悲惨さが見え隠れし痛ましいほどである。こうした本を書く目的を、中島は到る所で親への復讐であると述べており、また、実際に「やさいい」親を非難し死んで四年過ぎた父親も許してはないと述べるほどであり、だからこそ、この本の後書の日付が母親の命日というのはあまりに痛ましすぎる。

2007-01-02

ネットワーク透過なアウトラインプロセッサ

最近の俺はプログラマだった。何してたかって? ごりごりperlとjavascript書いてた。んで、ajax+LAMPなブログシステムっていうか、まあそういうweb applicationみたいなの書いてた。

どうでもいいんだけど、いろいろアイディアがあった。

まず、スクロールがいやだった。記事をページをスクロールしないでも表示できる分量に切って見せるようにした。冗談で見た目をプレゼンテーションぽく、してみたりした。

次に書いたり編集したりするのにページロードしなきゃならんのがうざかった。んでajaxなことして非同期でテクストエリアのデータをごにょごにょできるようにした。高速なページの新規作成、編集が可能になった。

あと、記事のリストの操作性もどうにかしたかった。こいつもajaxにドラッグアンドドロップで記事のリストを通常表示のページから編集できるようにした。もちろん、一つの記事が複数のカテゴリーに登録できるようにした。

***

プレゼンテーションぽく表示するのは俳句や短歌などを表示するのに向いていると思う。これを綺麗なフォントで縦書きで表示したら、結構、需要ある気がする。ってか、もうそんなサービスくらいあるかな?

また、こうした非同期で高速に編集できるブログサービスだと、文書を人に見せる道具というよりかは、個人的なメモにもどんどん利用できると思った。ローカルなブラウザでjavascriptは実行されるから、ローカルアプリと編集動作の速度が変わらない。

まあ、事前にデータをリモートからロードするからそれがハードディスクから読むのよりは遅いのと、メモリにのっけるから、そこらへんがうざい程度。

***

でも、このブログみたいに読まれることよりも、便所の落書きか自分のメモ帳として利用している場合には、高速に編集動作ができるのは、なによりもうれしい。

んで、もっと個人の情報管理に使えはしないだろうかと思った。

***

んで、俺はさらにコードを書いてみて、事態は 「Web OSだぜ!」ということになった。

いやね。俺はweb osってあんま魅力感じてなかったんだよ? ローカルでできることネットにのっけてどうすんの? みたいな。

でも、作れば作るほど、webで全部できるようにすることには魅力があることに気がついた。

***

ちと、脇道。(てか、いつも脇道だけど)

ほら、はてブとかdel.icio.usだっけ? あるじゃん、ソーシャル・ブックマークとか言うやつ。でも、あれ、インターフェースとしてはあんまでしょ。とか思う。タグだとか言ったってやっぱ面倒だよ。

大体、最初にユーザに分類させるというのがよくない。情報は客観的に分類できるものではないんだ。主観的に状況に併せて分類というものは自然に起きてゆくものなんだ。分類の方法そのものが流動的であるから、特定の分類方法にのっとって最初から分類を促す情報管理法は必ず破綻する。

だからインデックスカードとか京大カードを管理する方法というのは、結局、次々書いて箱に放りこんで、それが仕事なりアイディアなりで関連して互いにくっついてゆくのを日々見守るしかないんだ。最初から分類しようとすると絶対に破綻する。

これはネットの情報の場合であっても同様のことだ。デジタル情報はコピーもリンクもできるけど、基本的に分類は破綻するというのは変わりがない。だから、最初に分類を促すシステムというのは、ちっと情報管理を考えた人間にとっては最悪なサービスにしか見えない。

まあ、ネットの場合は全文検索がすぐれてるから分類しないで放りこんで、あとでザクッと検索かけるというのが現実的なのかな? 最初セコセコ分類しておいても、結局全文検索かけた方が見付かる、とか、そもそもググった方が早いとかなったりする。それは、当然のこと。

まあ、やりゃわかるよ。アイディアとか創造という行為と「分類という思想」が相性の悪いことは。

***

それでも、人は分類する。なんでかというと、「探す」手間を減らすというよりは(いや、最初はそうだったろうけど)、分類という行為事態がアイディアを醸成するためだ。

上で、「仕事なりアイディアなりで関連して互いにくっついてゆくのを日々見守るしかない」と書いたけど、そういうこと。最初から分類項目ができてんなら、ごちゃごちゃ分類しないで仕事すりゃいい。分類を「あーでもない、こーでもない」とやることで、考えても見なかった関連が思いついたりする。

固定した分類じゃなくて、こうした試行錯誤の分類はそれ自体が創造行為なんだろうと思う。

***

んで、脇道から戻るけど、いまのサービスは「固定した分類」って思想が主流で、「試行錯誤の分類」がやりにくい。

じゃ、どうする?

んで、俺はドラッグアンドドロップで分類ができるインターフェイスが必要だと考えたわけ。それも、一つの項目が複数の場所にも置けるようにしたら更に「あーでもない、こーでもない」って分類しながらアイディアが湧きやすいかな、と。

まあ本当は手を使ってほんとに箱にいれたり出したり、机の上にばーと並べるのがベストなんだけど、そういう実世界インターフェイスってのは、まだだしね。

で、結論としては、ひとまず全部の情報を「受信箱」みたいなのに放りこんでおいて、後からドラッグアンドドロップという(リストから選択したり文字を打つよりかは)最低限直感的な方法で関連情報を並べてゆく、ということになった。

***

そしたらね、考えたんだけど、ブックマークとかメモとか全部をこうしたインターフェースで管理できたらいいなー、とね、思い浮かんだんだ。ブクマとかメモとかウェブページとかブログとかメールとか関係なく、全部、放りこんで、それをドラッグアンドドロップで分類するというインターフェイスをね。

そうすりゃ、全て同じインターフェースでやれて便利じゃん? と。

またローカルアプリよりウェブアプリの方が旨味があるかな、と。そのサイトの中にブラウザ出しちまえば、なんでもできる。ローカルアプリだと、そのアプリ立てて、他のブラウザからD&Dすんのとか、ちと面倒。また人にメモとかブクマ見せんのとかも楽だしね。

***

んで、さらに考えたのが、結局分類されたものはアウトラインのようになる。だから、ネットワーク透過なアウトラインエディタをウェブアプリで作ろうとしているんだな、俺は、と考えた。メモもウェブサイトも同じインターフェースでD&Dできるんだからね。

さらに言えば、そのウェブアプリは「ブラウザ」も持つから、他のウィンドウもタブも開く必要はない。(とかいってxmlhttp.requestでクロスドメインする方法とか、よくわかってないんだけどね)

まあ、ある意味、超漢字の実身仮身みたいなのをウェブアプリで実装して、そいつを共有させたりもできるようにしたりしてんのかもしれない。

***

まあ、書いてるのもだるくなったんで、そんなこんなで。

新年も妄想いっぱい、夢いっぱい。

***

アウトラインというのは情報にアクセスするための道具ではない、アウトラインはそれ自体が情報である。アウトラインとは情報構造化の仕方であり、その構造化の仕方の重要さを考えると、それ自体が作品となりえるだろう。

例えば、百科事典は情報を大量に抱えているが、私たちはそれを通読しない。百科事典の情報の構造化の手法は五十音でありとてもじゃないが、通読するものではない。もちろん、関連事項などのリンクがあるが、通読するには全体的な構造化がなされている必要がある。情報とは別にアウトラインがその情報の価値を高めるのだ。

情報がネットワーク化され、要素に簡便にアクセスできるようになった近い将来には、更に情報とは別に「アウトライン」をやりとりする需要が高まるとわたしは考えている。ブラウジングしにくいサイトに対し、目的にあわせたそのサイトの「アウトライン」を利用することで、効率的にそのサイトを閲覧できる。

実はこの何年間もwikipediaを構造化したいと考えているのだが、ようやく具体的なフェーズに移行できそうだ。

あ、本気にしないように。

2007-01-01

タバコをやめるということ - 「禁煙」に抗して

身内と禁煙について話した。雑感を少々。まあ、どうせ、いつもの通り、うまくは言えないし、最後は「業」だとかなんだとかぼやくだけなので、そういうの嫌いなひとはあらかじめ。ということで。

禁煙って最近はやってるでしょ? んで、周りでも何人かいるわけです。「タバコ止めるぞー」とかね、宣言するわけです。すると周りの方々も「がんばれー」とか「気合いだぞー」とか言って、なんて言うのかな、「応援」ってやつをするわけ。

「気合い」だとか「頑張る」だとかって、そういう問題じゃないでしょ? だいたい「応援」って何だよと。中には「お前の精神力が試されていると思って」とか言う人もいるでしょ? いやー、そりゃないでしょ。っていうか「精神力」ってなに?

「やめる」とか「やめない」とか、そういう問題じゃない。欲望とは湧いてくるものであって、その欲望が湧いているうちは「禁煙」は成功していない。欲望は俺たちのコントロールの外にある。「禁煙するぞー」と思わなくなったときに禁煙は完成する。

だから、禁煙から離れて初めて禁煙はなる。それは自分の心身が「吸う」とか「吸わない」とかと別の次元に行ったときに成功する。「吸わない」といううちは成功できていない。もし、無理してるとしわ寄せが来るはずだ。また、ストレスで周りに迷惑ってのがオチ。

まあ、欲望をコントロールすることはできない、というのが俺のスタンス。我慢とかってのは、結局よくない、と思う。無駄なこと。

「おいおい、それじゃあ、人間の努力ってのは……」と思うかもしれない。うん。俺は基本的に努力だと思ってる努力というのは全て無駄だと思う。というか、それがもとで、変な方向に病んでいってしまうんじゃないかと思う。

「努力」というやつで目先の利益は掴めるかもしれない。でも、その努力で心身のどこかが病むことがある。何かにとらわれてしまうことがあるんだ。それは、とっても恐ろしいことだ。まあ、ならんとわからないけど、ならんほうがいいと思う。

「うん、俺、タバコいらんな」となるのが筋だと思う。っていうかそうなる筈。俺たちは「うん、とらわれてたけど、いらんな」「捨てた方が楽だな」という瞬間がある。努力じゃない。意志だとか精神力だとか気合いだとかじゃない。じゃあ何か。

それは気づくことだ。シンプルに、とても乾いた幸せな気分で、それが「いらない」ことに。それが「無駄」なことに。だから「禁煙」というやつで大切なことは「禁煙」しようという意志じゃないんだ。自分を見つめることなんだ。自分の動作に意識的であることなんだ。

タバコの箱を手にする自分を見つめるんだ。別に「やめよう」とか「いいじゃん」とかいう問題じゃなくて、ただ、見つめるんだ。そして、自分の心身の動きを観察するんだ。静かに、ゆっくりと。

自分がライターに手を伸ばす。火を付ける。そしたら、そうした自分を見つめるんだ。ネガティヴでもポジティブでもどうでもいい。静かにタバコを吸おうとしている自分を見つめることなんだ。その時、その場で、何がおきているんだ? それを見つめることだ。

ある日、タバコを吸おうと箱を見たとき、「ああ、吸う必要はないな」と思うかもしれない。あるいはある日、タバコをくわえ、ライターの火を見つめたときに、「ああ、いらないな」と感じるかもしれない。自然に、シンプルに乾いた気分で、気づくことができるんだ。逆に必要だと思うかもしれない。そしたら、それで結構なことじゃないか。

ただ、惰性をやめることなんだ。俺たちは惰性にとても弱い。その惰性を少しずつ意識的に減らすことで、本来の自然な心身に戻ることができるはずだ。

気合いだとかそういうモダンな概念じゃなくて、自然な治癒力に賭けた方がいい。そのためには惰性を排すること。自然に自分の心身が気づいてくれるよ。無理はとても危ないことなんだ。