2008-05-29

出家した知り合い: 小池龍之介と松本圭介

新聞をぱらぱら眺めていると、書籍の広告欄に知っている顔が出ていて驚いた。以前、大学時代にアドルノで喜んでいた先輩がいたと書いたと思うが、この人である。やっぱり僧侶になっていたらしい。『「自分」から自由になる沈黙入門』 も好調に売れているようで嬉しい限りだ。

彼は現在、月読寺の住職で 「家出空間」というサイト をやっているらしい。カフェもやっていたようだが、現在は修行のためにカフェは冬眠中とのこと。

実は僧侶になった知り合いは実は他にも数人いる。中でも 彼岸寺 の松本圭介は大活躍である。『おぼうさん、はじめました。 』という本も出していて書店で見つけたときに驚いた。

と、ここまで偉そうに書いてなんだが、彼らとはそれほど親しくはない。ただ大学の所属が同じだったので顔を知っているという程度だ。両方とも本も読んでいないし、機会があれば挨拶しに行きたいと思っているが、まだ連絡を取ったというわけでもない。それでも、ちょっとでも知っている人間が活躍していると知ることほど嬉しいことはない。彼らと一緒に瞑想したりできたらいいなと思っている。

彼らは従来の枠組みにとらわれぬような形で、カフェを開いたり本を出したりしている。本当に大したものだともう。今後とも頑張って欲しい。

補色残像で集中力を鍛える

集中力について調べた際、残像で集中力を鍛えられるという考え方があることを知った。この数日間、寝る前に残像法を試してみた。その成果(?)をログしておく。

方法としては、このような図形を凝視したり、1分間残像記憶トレーニングなどを試している(バックナンバーも試せる)。

最初はほとんど残像を見られなかったが、次第に長時間、残像を浮かべられるようになった。残像が10秒以内しかみられないのは頭が相当疲れているかららしい。また、最初は色が出なかったが、最近は色もつくようになった。

次に蝋燭で残像法を試してみた。すぐに補色残像をうかべられるようになった。しかし、夜中に完全に火そのものが見えてしまうようになり、怖くなったので即座に中止。たぶん、昔の人や子供が火の玉を見たのは残像だったのかと思う。

次第に残像を見るのに慣れたので文字を残像の対象にしてみる。高校時代に毛筆で書いた「志」という文字を眺めること数十秒、目を瞑ると「志」の字がくっきりと白く浮き上がる。面白いので何度も残像を観ている内に、瞬きなどのふとした瞬間に残像が現れる感覚が残る。数十分でこの感覚は消える。

実際に集中力は向上したのかは分からない。むしろこの数日はとてもイライラしている。

しかし、目を静止する訓練が、気散じに対し効果があるとは思った。訓練しないと意外に目は静止しないものである。一点凝視しようとしても焦点が揺れてしまうことに気づいた。ちらちらと視線が揺れると集中できないのは道理かと思った。

2008-05-28

Paco de Lucía 『Cositas Buenas』 (2004) までの歩み

先日のポーティスヘッドのエントリでマッシヴ・アタックの他にゼロ年代に感動したアルバムがなかったように書いたが、どう考えてもパコ・デ・ルシアの存在を忘れていた。『Cositas Buenas(コシータス・ブエナス)』 (2004) だ。毎度おこがましいが、今回は未だ越える者のないフラメンコのギタリスト、パコ・デ・ルシアを紹介してみる。

1. 生い立ち

パコ・デ・ルシア (Paco de Lucía) は1947年、スペイン南部アンダルシア地方の港町アルヘシラスの生まれた。海を見て育った彼は「海を見ていないといられない」とインタビューで語っている。

アルヘシラスからはモロッコのタンジェへのフェリーが出ている。実は私は19歳の時に地中海を渡ってモロッコへ行ったときに立ち寄ったことがある。海と酒と音楽が調和した静かな街だった。時間が止まったかのように静かな街を、強い日射しに照らされながら歩き、夜は遅くまでバルで飲んだ。パコの大きな銅像が、海に向かってたっていた。この下で、下手なフラメンコを弾いて、地元のおっさんと楽しくやった思い出がある。

パコは若干12歳で兄とのデュオで初レコーディングし、世に認められ兄弟でホセ・グレコ舞踏団と共に世界を巡る。その歳にニューヨークでフラメンコの巨匠サビーカスと出会い独自のスタイルへ向けた助言をもらう。

19歳で初のソロ・アルバム 『La fabulosa guitarra de Paco de Lucía 』 (1967) をリリースする。このアルバムはリカルドやサビーカスの影響の強い、その意味では伝統に近い音色のフラメンコが聴ける。このアルバムで日本でもパコのことが知られるようになる。

2. カマロンとの出会い

軌道に乗り出したパコはここで一人の若い歌い手と出逢う。カマロン・デ・ラ・イスラ (Camarón de la Isla) だ。1950年カディスに生まれ8歳の頃からタブラオで歌っていたカマロンは、1968年からトレス・ベルメハスのタブラオに入門していた。

若い二人のデュエンデは一枚のアルバムを生み出す。『Al verte las flores lloran(君を見ると花が泣く)』(1968) はパコが21歳、カマロンは18歳の作品である。ここでアルバム・タイトルになっている冒頭の濃密な熱気に満ちた曲を聴いてみて欲しい。

意気投合した二人は1977年までに10枚のアルバムをリリースする。カマロンはスペインにおいて国民的歌手と言われるまでの人気を博す。しかし、若くして成功したカマロンはフラメンコの世界に身を崩してゆく。1992年にわずか42歳でカマロンは死んでしまう。死因は肺癌とも麻薬中毒とも言われている。彼の葬儀には10万人以上が駆け付けた。

3. フラメンコの革命

さて、カマロンの伴奏の一方で、パコは独自のスタイルへの追求を突き進めていった。その成果は『Almoraima アルモライマ』 (1976) に結実する。フラメンコの概念を転覆させたこのアルバムは20年以上経た現在もパコ・デ・ルシアの最高傑作との声も高い。ここでは冒頭のアルバム・タイトル曲のブレリアスを聴いて欲しい。

このスピード感溢れる革新的フラメンコはその後も続いてゆき、例えば 『Siroco』(1987) がパコの最高傑作と言われることも多い。とはいえ、私はそれほどの印象を受けなかったが。

5. フュージョンやクラシックへの進出

パコ・デ・ルシアの名をフラメンコの世界の外にまで有名にしたのは何といってもスーパー・ギター・トリオーでの活躍だろう。

1977年、フュージョン系ギタリスト、アル・ディ・メオラのアルバム『Elegant Gypsy (エレガント・ジプシー)』にパコは参加、二人は「Mediterranean Sundance (地中海の舞踏)」にて初の共演を果たす。これがパコのジャズ・フュージョン界での認知の切っ掛けとなる。ちなみにこのアルバムに含まれる「Battle with Devil on the Spanish Highway (スペイン高速、悪魔との死闘」は最速の速弾き曲としても有名である(この噂、本当?)。

アル・ディ・メオラ (Al Di Meola, 1954- ) は74年からチック・コリア率いるフュージョン・バンド「RETURN TO FOREVER (リターン・トゥ・フォーエヴァー)」に参加、76年の同グループ解散後、『Elegant Gypsy』が二枚目のソロアルバムだった。Wikipedia によれば彼は「ギタープレイヤーマガジン」誌の読者投票で四回も「最も優れたジャズギタリスト」に選ばれているらしい。力強い超絶速弾き、特にミュートさせた状態でのボコボコさせた速弾きが特徴的であり、この技は彼がまだ小さい頃、家族の迷惑にならないで夜中に練習している内に習得したものと語っている。

この「Mediterranean Sundance」の好演が切っ掛けとなりパコはジャズ・フュージョン界からも注目され、1979年にはパコ・デ・ルシア、ジョン・マクラフリンとラリー・コリエルと三人での共演が実現する。その後、アル、ラリーやビレリ・ラグエーンなどが入れ替わり参加し、史上例をみない豪華なメンバーによるギター・トリオは好評を博した。まあ要は腕に覚えのあるギタリストがアコギでギターバトルをしたかったのだろう。

ジョン・マクラフリン(John McLaughlin, 1942- ) はイギリス出身のテクニシャンとして知られるギタリストで、1970年代ジャズ・ロックシーンにおいて重要なグループ「マハヴィシュヌ・オーケストラ」のリーダーだった。超絶不思議フレーズを「いかにも何かありそうな」余裕の微笑みとともにいつまでもいつまでも繰り出し続けるのが特徴である。

完全に余談だが、マクラフリンはヒンドゥー教徒に改宗し、確かスリチンモイとかいう名前のヒンドゥー教の高名な指導者の弟子になった。同じく弟子になったカルロス・サンタナとは宗教上の兄弟であり、二人で白い服を来たあやしげなアルバムも家で見掛けた記憶がある。中身はいまいちだったと思う。おもえば面白い時代だった。

さて、バカ話はやめておこう。ここではライブ盤の 『Friday Night in San Francisco』(1980) から「Mediterranean Sundance」を聴いてみよう。

たぶんギタリストにとってはたまらないものがある熱演だが、ギターに興味のない人には冷い目でも見られがちな音楽でもある。それでも、このアルバムとスタジオ盤である 『Passion, Grace and Fire(情炎)』 (1982) は1995年までに計350枚も売り上げたらしい。その後、再結成され 『THE GUITAR TRIO』(1996) もリリースしている。ちょうど私は高校生で、十代の頃、同じくギター好きの叔父が遊びにくると、私がパコ、叔父がアル役でよく真似をしたものだった。

ちなみに、パコが取り組んだのはフュージョン・ジャズの世界だけではない。彼はスペイン民族主義時代の偉大な作曲家マヌエル・デ・ファリャに取り組み、1978年に『Interpreta A Manuel De Falla』、91年には同じく近代の巨匠ロドリーゴのアランフェス協奏曲に取り組み『Concierto De Aranjuez』をリリースしている。

6. 動から静へ - 歩み続けるパコ・デ・ルシア

1998年、50代を迎えたパコ・デ・ルシアは、亡くなった母親へのオマージュアルバム『Luzía』をリリースする。このディスクには、母に捧げたシギリーヤ、そしてカマロンに捧げたロンディーニャが入っており、この2曲でパコは初めて歌っている。悲しみと嘆きとが淡く底に広がった世界に、パコの死を悼むかすれた歌が響く。

2004年には5年間の沈黙を破り、 『Cositas Buenas』 がリリースされた。変幻自在とでも言うべきか。どう言えばいいのだろう。激しさもあるが、過去のようなそれではない。ごく薄く哀しみも感じるが、どこか無邪気な明るい楽しさもある。

この音に触れたときも、いわくいい難いサウンドの中に「ああ、なるほど」と感じた。彼なりの正直に世の中を見つづけた音がそこにあるのだと思った。ただ彼は歩き続けるのだろう。そう私は思う。未だあらわされていないニュアンスをあらわすために。

ちなみに「Cositas Buenas(コシータス・ブエナス)」とは「素晴らしい小さなもの」という意味である。

2008-05-26

Portishead 『Third』

ポーティスヘッドの11年ぶりのアルバム『THIRD』を聴いた。鬱だったのがすっかり吹き飛ばされてしまった。その感動をログっておく。

まいった。すげえ。すげえよ。

まず肉体的感覚。内臓が歓喜している。頭や目の疲労が遠い空に飛んでゆく。前腕のあたりにざわめき。不意に泣きたくなる。やっと俺は息を吹き返せた。深い息がつける。こうした呼吸を忘れていた。数年ぶりにやっと肺が緩やかに動き出し、内臓が動き出してくれた。

期待通りだったかというとちょっと違う。やはり11年たっているのだと感じる。だが、そこに不満はない。嬉しい。よいアルバムがリリースされて本当に嬉しい。正直に、生きててよかったと思う。本当に生きててよかった。本当にありがとうございます。彼らはもう解散なのだろう。それでよいと思う。結局、ライブは観られなかった。去年の暮れ、イギリスに行けばよかった。仕方ない。

この11年何があったのか。Massive Attack の 100th Window (2003) の他、何も無かった。それでバッハとブルースを聴いていただけだ。虚しく。死んだ過去の音楽を。まったく。僕のCD棚を見てくれ。なんだこれは? 俺はこんな男だったのか? 俺は死んでいたのか? なんだこれは?

ポーティスのサードのおかげで暫くはやっていけそうです。嬉しくて仕方が無い。本当にありがとう。

本当に世界は素晴らしい。どんなに腐っていても芸術は現れる。どんなに醜くても美は現れる。本当に世界は素晴らしい。本当に嬉しくて仕方が無い。

2008-05-23

金澤正剛『中世音楽の精神史』

バロックが好きな人は時代を下るよりも遡ると楽しいと思う。

ルネッサンス、アルス・ノーヴァと遡ると最終的にはアルス・アンティーカ、ノートルダム学派のペロティヌスとレオニヌス、あるいはヒルデガルト・フォン・ビンゲンあたりに行きつく。いまいちこの時代背景が分からないので、この本を読んでみた。

2008-05-22

プロティノスは龍樹に会おうとしていた

ヘレニズム後期の哲学者プロティノスは龍樹に会いにいこうとしていたらしい。

以前からプロティノスは華厳というか仏教に近いと感じていたが、先日なにげなく高校時代に買った本をパラパラしていたらこんな文にぶつかった。

プロティノスは三十九歳の年に、ローマ皇帝ドルディアヌスのペルシャ遠征に加わった。彼はペルシャに入ったら、すぐインドに赴くつもりであったらしい。なぜインドに行きたがったかというと、その頃インドには、仏教の大哲学者龍樹(ナーガールジュナ)が九十幾つかで生きていたからである。(紀野一義『「般若心経」を読む』p.97)

プロティノス(Plotinos 205年? - 270年)は、新プラトン主義(ネオプラトニズム)の創始者といわれる哲学者で、万物は究極の根源「ト・ヘン(一者)」から流出した「ヌース(理性)」の働きであるという流出説と、己の身体をも放下したト・ヘンへの神秘的合一としての「エクスタシス(脱我)」の説が有名。 彼の哲学はアウグスティヌスにも影響を与え、キリスト教神学に取り入れられたらしい(wikipedia より)。

プロティノスがペルシャやインドの哲学に興味を持っていたのは知っていたが、まさか龍樹に会いにいこうとしていたとは知らなかった。

ヘレニズムはプラトン、アリストテレスと、仏教の龍樹、キリスト教とが交わるポイントになるので興味深い。

2008-05-21

ジョン・トッド『自分を鍛える』

1800年生まれの著者が語る『自分を鍛える』は、古めかしい精神が好きな人にはたまらない本だと思う。人格とかいう古くさい言葉にピンとくる人にとってはちょうどよいと思う。私の中学生の頃からの愛読書でもある。

世の中には様々な自己啓発書がある。テンションを上げたいとき、誰かに叱って欲しいとき、人生に迷っている時などに、そうした本が手にとられる。

コンピュータの小技はさておき、根本的には人間の暮らしや営みは変わらないので、人間関係や自己管理の問題に全ては集約してゆく。そして最終的には「優れた人格」を形成するということになってゆき、よい人格とは「よい習慣」を身につけるということになる。

トッドの唱える人物像は、以下のような言葉に端的に表われている。

何事にせよ頭角を表す人物というのは、最初に慎重に検討を重ね、それからしっかりと決意を固めるや、断固たる忍耐心を持っておのれの目標に邁進し、脆弱な精神力の持ち主ならくじけてしまうようなちょっとした難問にも、少しも動揺しない人間だけである。

何よりもまずいのは、優柔不断が習慣になってしまうことである。[……] 自分の進む道は慎重に、しかもきっぱりと選ぶことである。そしていったん選んだら、何が何でもそれに食らいついて離れないことだ。(p.58)

目標の持ちずらい時代にピンと来にくい言葉だが、言わんとしていることはもっともだと思う。人間は努力すれば相当のことができるだろうが、あれこれやっていては何も出来ない。だから、一つのことを決める必要がある。しかし、そんな人生の目標なんてものはそうそうやって来ないから難しい。

原題は『Todd's Student's Manual Self-Improvement』というだけあって、学生用の修養書なのだと思う。だから、特に勉強の面での指導が目立つ。勉強によって優れた頭脳を養うことが大切というわけである。トッドのいう優れた頭脳とは以下のようなものである。

徹底的に鍛え抜かれた頭脳というのは、ふとしたはずみで調子よく働いたり、大きな能力を発揮したりする頭脳ではなく、一定の時間があれ ば必ず一定の成果を引き出す態勢が常に整っている頭脳のことである。……刺激がないと働かないような頭脳の持ち主は、その刺激を待っていなければならず、生涯ほとんど何一つ達成することはできない。(p.33)

こうした粘り強さと徹底とがトッドの説く姿勢である。勉強の意味とは何かという質問に、こうした自己管理能力を向上させることにあると答えることもできるだろう。

何事も入念にやることが大切という姿勢は以下のように語られる。

問題を調べる場合、おおざっぱな概念だけをつかんでおこうという態度で調べてはいけない。急いでいるとしても、徹底的に調べられるまで待つべきだ。

重要性の大小にかかわらず、たとえそれが何であろうと、少なくとも調べる価値があるのなら徹底的に調べるべきである──二度と調べる必要のないくらいに。そうすれば、いつまたその問題が持ち上がっても、考えは決まっているのであわてふためかないですむ。(p.71)

こうした人物観の下、よい習慣をつけることの大切さを説く。中でも時間を守ることに重きが置かれる。

同じこと、同じ仕事を、毎日同じ時間に繰り返すようにするのである。(p.48)

これがよい習慣を身につける近道なのだろう。そして、計画を立てて努力する大切さを説く。

計画は前の晩にじっくり練っておき、朝起きてもう一度確認したら、すぐに実行に移さなければならない。前もって計画を立てておくことで 、そうしない場合よりも、一日に驚くほど多くのことが成し遂げられるのである。(p.49)

久々にこの本を手にとって思うのは、ライフハックだなあ、という感覚である。目標を達成するには入念に、徹底的に、計画的にやっていくべきだというのはあまりにもっとも過ぎる。目標を見つけた人は言われなくとも入念に、徹底的に、計画的にやってゆくことだろう。

問題は「目標」を見つけることである。頑張る方法や成し遂げる方法というのは、このトッドの方法でいいのだろう。しかし、「でも、なんでそんなに頑張るの?」という問いが残ってしまう。

最後の章で、トッドは正直にこの「なぜ?」に答えようとする。目標とは何か? 快楽か? 富? 人からの賞賛か? 結局トッドは、こうしたことはことごとく虚しいと答えてしまう。トッドは正直な男なのだと思う。一般的に目標となるものを掲げ、それを否定した上で更に、彼は目標について語る。

「不滅の魂は何か大きなものを求めてふくらんでいかなければならない。うわべだけ光るものか、あるいは内から本当に光を発するものを──人の世の称賛か、あるいは神の称賛を──求めて。」

われわれが魂を「ふくらませて」目ざさねばならないこの「何か大きなもの」とは、本当に「大きなもの」なのかもしれないし、あるいはわれわれが勝手に「大きなもの」と思い込んでいるだけにすぎないのかもしれない。しかし、いずれにしても、何を本当に人生の目標にすべきであるかは、たいへんむずかしい問題であるということである。そして、キリスト教の精神や教えは、人がその能力を発揮する目標を持たずに生きよ、とはけっして言っていないということである。

彼にとっては、めざすもの、求めるものが無くてはならないのだろう。「不滅の魂は何か大きなものを求めてふくらんでいかなければならない」というのは滑稽でもある。しかし、その求めるものは実に疑わしいことも彼は意識的である。そして、最後に彼はこう語り、この本を終わらせる。

私が願うのは、計画を立て目標をめざして進む間は、常に満ち足りて安らかな気持ちを保ち、自分は無為に生きているのではないのだとはっきり自覚するようであってほしいということだ。そうすれば、魂は崇高で本当に質の高いものへと成長し、あなたが神の清らかな光に照らされた運命をたどっていることがわかるのである。

彼の口からは慈悲や愛、平和という言葉が最後まで出てこない。これが不思議といえば不思議なのだが、もしかしたら、そうしたものは求めてはあらわれないことに彼が気づいているからこそ、語られない言葉であったのかもしれない。

この本の冒頭で、成功や頭脳について、彼はこう語り起こしている。

頭に飾りとしてつけた一本の新しい羽根がうれしくて小躍りしている裸のインディアンと、ニュートンやボイルなどの頭脳では、雲泥の差がある。では、その違いは、いったい何から生じるのか。(p.17)

いくらかのニュートンについてに暗い印象のある人間にとっては、この語り起こしそのものが、答となっているとも思える。

2008-05-19

生産と創造 技術と芸術

別に技術や生産を憎んでいるわけではない。便利なことも、効率合理性もべつによいと考えている。ただ、そうしたものを制限するような思考をただぼやいてみた。

***

こういう二分法自体に問題があるのだろうが、生産と創造は違う。

生産とは複製である。オリジナルなくコピーが製作されることである。それはある目的に向かう組み立てであり、仕立てである。それ自体の意味は他の何かへの意味へと転送され続ける。それは蓄積であり所有である。

創造とは生産ではない。それはオリジナルの誕生であり、根源的なものへの模倣・回帰である。それ自体の戯れに蕩尽的な満足がある、手探りの生み出しであり、拵えである。それは所有の挫折である。

ここで、世界とは労働において立ち現れるとか、そうした世界における痛みとか癒しとか、その避けられなさがとか、そういうこともグダグダ書きたいが、まあ、ひとまずそれは置いておく。

***

生産では、全てのものが生産の合理性のなかに吸収されてゆく。自然も他人も自分の身体も全てが生産の効率合理性のための手段になる。純粋な手段としての技術が誕生する。仕立て上げる技術に私たちはうかされ、誰でもない誰かとしてその技術にうかれる。

生産の合理性はそもそもは自己保存のための手段であったのが、次第にそれ自体が目的となり、世界の自然を、社会の自然を、人間の自然を支配してゆく。うかれた者には大地は遠い。

技術の前に次第に手応えのあった道具すら損われてゆき、やがて身体すらも手応えを失ってゆくだろう。運動や健康、更には生命すら、手応えのないヨソヨソしい技術に支配されてゆく。

美はもはや存在しない。人は誰でもない誰かとして、技術にうかれるだけなのだから。手ごたえや手ざわり、響きや味わいなどはかき消されてしまうだろう。全ては仕立てへと集約されていくのだから。

***

人はかつて生産をしていたのだろうか。人は農耕と工芸、芸能とに代表される労働は生産であったのだろうか。

それはむしろ創造ではなかっただろうか。創造という言葉ですらおこがましければ、創造に立ち会うことではなかっただろうか。一つの根源をまねぶことを通じて行われる営みではなかったろうか。進歩ではない、誕生と創造の瞬間への回帰と模倣、そうした奇跡の今ここへの「引用」あるいは召喚ではなかったろうか。そうしたものとして労働がありえたのではなかろうか。

創造の問題を考えるとき、こうした疑問が頭をよぎった。まあ、分かる人には、ただのあれなんだけど。

2008-05-18

ネット接続を玄関に追い出す

ただのぼやきなんだけど、ネット端末としてのパソコンは玄関に置きたくなった。今回のエントリで言いたいこと、これだけ。

***

昔、電話ってのは玄関にあった。玄関の下駄箱の脇にやたらに背の高い電話専用の台があって、そこに電話ってのは置かれていた。どかーん、て。音もジリリリリンと、目覚まし時計に負けないくらい派手だった。

時が経ち、電話は居間に移動した。畳の床に転がり始めた。音はジリリリくらいになって、その内、プルルルルになってしまった。こうして電話するのに寒い廊下に立つ必要はなくなった。

はるか昔、電話が居間にある頃の日本に暮らしていた私は、ハリウッド映画でベッドの脇に電話があるのに違和感を感じたものだった。そう、確かに私は、胸毛モジャモジャの西欧人が午前四時に電話で叩き起こされて「ヘイ、ジョージ。一体いま何時だと思って……え?! 何だって?!」とか言ってるのみて馬鹿じゃなかろうかと感じていた。電話は寝室に置くもんじゃないだろう、と当時の私は感じていた。

しかし結局、日本人だって、家族監視の前で電話をするというのはつらかった。電話は次第に個室に移動した。夫婦の寝室に電話は入り込み、子供部屋にも電話が備えられた。「もしもし。矢野と申しますが、○○さんいますか?」と自分の部屋から電話を掛けるようになった。それでも家族のフィルターは通っていた。

そして気がつけばベル、PHS、携帯電話と電話は個人化し、脱衣場やトイレにまで付いてくるようになった。電話でられないと「いや、ごめん、フロはいってたわ」とか言うようになった。ええ。携帯電話のおかげでいつでもつながれます。

***

何で昔の人は電話を玄関に置いたのだろう。そもそも、門とか玄関とか昔の家はなんであんなに立派なんだろう。

防犯? かもしれない。でも、そういう昔の家の人ってのは鍵をかけないで出掛けたりする。

もっと精神的なものだった気がする。ウチとソトに敏感だったという気がする。居間に客を入れなかったかと思う。あくまで客は客間までだったかと。ウチにソトの人が入るのが嫌だったんだと思う。

最近、そういう気分がなんとなく分かる。自分の部屋に人を入れたくない。いや、昔からそういう気分はあった。本棚とか見られるの厭だった。人様のベッドに何のことわりもなく腰おろしちゃう奴ってデリカシーねえなあ、と思ってた。それが、最近、更に過敏になってきた。

プライベートな空間。一人になれる空間。人に干渉されない空間。そうした空間がとても貴重になってきた。

そうしたときに通信機器というものは、どうも自分に干渉してくる。あるだけで気になる。電話だけじゃない。ネットにつながったパソコンも同様に自分へのメッセージを予感させる。その予感だけで、実際にメッセージが伝達されたのとほとんど変わりがない。

ネット接続できるのを居間にしてみた。そうすると自分の部屋の温度というか騒音のレベルが少しだけ下がった気がする。まあ、気のせいなんだけど。そのうち、玄関にしてみようかなと思う。

2008-05-17

"精神力"は鍛えるもの

集中力や記憶力の衰えを感じていたのだが、スポーツ分野のメンタル・トレーニングの本を読んでいると、こうした問題を小技でしのぐという考え方ではなく、積極的に精神力を鍛えてゆくことの必要性を感じた。

先日、久々に書店に行きふらふらと集中力に関する本を探した。田舎の書店なので本の数はそれほど多くはないが、それでもスポーツのコーナーにてメンタル・トレーニングの本を見つけ「これだ」と思った。

スポーツにおけるメンタル・トレーニングの重要性が高まっているらしい。技能においては同等の選手がひしめく状況では、モチベーションや「あがり」の問題などの精神面での差が結果につながるからだ。

メンタル・トレーニングの本をパラパラしていると、強い既視感に襲われた。要は速読や視力回復のトレーニングと同様なのだ。学生時代、速読や視力回復のトレーニングをよくやっていた。視力は向上しなかったが、速読や短期記憶の向上には役立った。

中には、リラックス法や呼吸法、イメージによる冥想(自分で自分にあるイメージを思い込ませる)、一点集中視(単純な図形や蝋燭などをみつめる)などがあり、当然にヨーガや禅と同様のものに見えてくる。

本に載っていた集中力を鍛えるトレーニングをやってみると、確実に昔よりも出来なくなっていた。気が散ってしまったり、イライラとしてしまうのである。過去にすうっと出来たことを憶えているだけに、そうした自分が可笑しかった。

そうして思い至ったのは、人間は精神を鍛えるなければ衰えてゆくということだ。日々を漫然と生きているだけでは集中力や記憶力、やる気や緊張の制御力は緩やかに失われていくのである。一見無駄に見える特定のトレーニングが、実際にはリターンの大きい投資であることがあるのだ。

単にその場での気散じを免れ、集中する「小技」というものも便利だが、日々、鍛えておくことの重要性を痛感した。考えてみたら「ポジティヴ・シンキング」などと言っただけで、ポジティヴ・シンキングができるならばそれは空虚な戯言に過ぎないだろう。実際のトレーニングの継続が大切なのだ。

走ることを極めるためには、走るだけでなく筋力を鍛えたり、フォームを学習したりするだろう。集中力、モチベーション・コントール、忍耐力、記憶力などもトレーニングを通じて維持・向上してゆくものなのだろう。

最近、そうした努力を怠った自分が、昔にように集中したり記憶したりモチベーションをコントロールできると思うから痛い目にあうのだろう。逆に、自分がそうした「能力」が低下していることが判然として気分がすっきりとしたくらいだ。

ここでルターのことが脳裏をよぎる。彼は初のドイツ語訳の聖書を作成するという大事業を一人で行っていた。それだけでなく彼は政治的にも難しい立場に置かれ、日常は多忙を極めていたらしい。

そんな彼に人々は「忙しくて祈る時間などないのではないか」と訊いた。彼はこう答えたという。「忙しくて大変だからこそ、私は祈らないではいられないのだ」と。

また、特に多忙の日にはこうも語ったという。「今日はすべきことがあまりにも多いから、一時間ほど余分に祈りの時間をとらなければならない」と。

モチベーション、集中力を高める時間は贅沢ではない。それは将来のために必要な投資なのだ。

2008-05-16

なりたい自分をイメージすること

充実感とは何だろうかと最近かんがえている。それは自分の強みの発揮であり、価値観の反映であると思えてきた。

自分の強みとは何だろうか。そういうことを考えてみることが自分の価値観、ひいては充実感の基礎となる。

強みのない人間などいない。比較の問題ではない。人と比較せずに、自分の強みとはなにかを考えてゆく。自分にある長所、自分がしたいことを考えてゆく。すると自分には確固とした強みのがることが分かるだろう。この強みを明確にしておく。もし自分に強みがないと思うときは疲れているときなので、あれこれ悩む前に風呂に入って眠った方がいい。

その強みを拡張してゆけば、自分の人生の価値観というものも明確になってゆく。積極的に自分だけの価値観を明確に文章化しておくとよいと思う。

価値観は、極端というべきほどに明確にすることが大切だ。ともすると価値観といえども常識に流されていってしまう。曖昧な表現ではだめだ。自分の強みを確固として反映させるような明確な価値観を確率しておく必要がある。どんな苦境であれ、自分の価値観の観点からは問題がないと断言できるような独自の価値観を構築しておくとよいと思う。

そうした価値観からは、自分が充実している行為が導き出されると思う。人を愛したい人、芸術を鑑賞したい人、事業を成し遂げたい人。そうした人はそれぞれにそこに充実感を感じるから、それを価値観の根本に据えるだろう。そこに没頭してゆけばよい。自分の強みが発揮され、価値観に沿った行動を為してゆける。ここに充実感があることだろう。

こうして自分の価値がどのように達成されてゆくのを静かに見守ってゆきたい。自分の価値観に背いてはならない。それは充実感を与えず、生きることを空虚にする。

自分の価値観・強みを日々繰り返し明確にし、それをイメージしながら自分の人生を耕してゆきたいものだと思う。

2008-05-15

風水をヒントに部屋のレイアウト

少しだけ、部屋の模様替えをした。人生で何度レイアウトをかえたのか分からないが、今回は風水をヒントにしてみた。とても落ち着いた気分で「そりゃそうだ」という気分になった。全然よくわかってないのだけど、ポイントをメモしておく。

  1. 背は壁に向ける。風水では背中は玄武というらしい。玄武とはよく分からないが、亀みたいなものらしく、環境では山や岡を意味するらしい。だから後にはしっかりとしたものがあるべきらしい。普通に背後に扉や窓があると落ち着かないものだ。だから、しっかりとした壁を背にするという教えは合理的と思う。壁がない場合には丈夫な衝立でもよいらしい。
  2. 前には開けたスペース。風水では前方は朱雀らしい。開けた土地を意味するらしいので、前方には何もないのがいいらしい。確かに前方に物を置かず、出入口を目線に入れておくと安心する気がする。
  3. 右にサイドテーブル。右は白虎というらしく、低い姿勢で構えているものを置くとよいらしい。右利きの人間はサイドテーブルを右におくのはある意味で当然。また、メインの机に物を置かないためにも、サイドテーブルはあると便利。
  4. 左に本棚。左は青龍らしく、背の高い家具ということで本棚とかがいいらしい。イメージとしては天を駆ける龍が智恵を運んできてくれるという感じらしい。右にサイドテーブルを置いてしまったら、本棚は左ということになる。

あとイスを「生気」という方向に向けることが何よりも大切らしい。僕の場合には偶然に壁に背を向けると生気という方角を向くようになった。こういう智恵というのも備えておくと、どちらでもいいことをさくっと決めるときに便利な気がした。

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2008-05-14

最近のPC環境(Linux)

最近のPC環境 (Windows)とか書いたが、結局、ThinkpadもLinuxに戻ってしまった。不思議なことに Linux をインストールした記憶がない。気が付いたら debian が動いていた。

WM は ratpoison. たまに ion3. これは両方ともアプリをフルスクリーンで表示するマウスいらずなWM. そこにエディタとブラウザと、mlterm で screen で zsh が動いている. 超シンプル。ゼロストレス。

エディタは gvim が多い。でも、日本語でモードのあるエディタってのは使いにくいのも事実なので rubyroom というフルスクリーン・エディタをつかっている。gtk-key-theme-name = "Emacs" なので、あまりストレスなく文書を書ける。これでサクっと書いたら、さくっとあほな python スクリプトで、このアホなブログにも簡単コミットできるようになっている。scimでなく、uimを利用。理由は vi 互換モードがあるから。ちなみに、いま気がついたんだけど emacs はインストールもされていない模様。嗚呼。

ブラウザは風博士を利用。軽い。機能も十分。それと、たまに firefox 3 beta に vimperator 環境にも浮気。いまのvimperator環境 - Dis Communication - 符号無しFirefox 3 Beta + Vimperator で最速ブラウジング windows 導入プロセス備忘録 - WEBデザイン BLOGナレッジエース - Vimperator 0.5.xで使えるプラグインの紹介 などを参照。w3m や wget も忘れてはならないお友達。

画像の表示は qiv が好き。qiv -fsd .8とかするとスライドショーになる。音楽と動画は mplayer. mplayer -really-quiet -loop 0 (-nosound| -novideo) とかしてることが多い。

2008-05-13

思考力を鍛える読書術(2) 本全体を把握する本の読み方

思考力を鍛える読書では、シントピカル読書(並列読書)を推奨したが、そもそも書籍を全体として捉える教育を受けた覚えがない。したのは細部を細かく読んでゆくことだけだ。それでは木を見て森を見ずになってしまう。そこで、素早く本全体を把握する読書法を推奨したい。

本の読み方は教育されない

文字の読み方は教育された。しかし、本の読み方は教えてもらった記憶がない。

ここで言う読書とは、分析し、批評するための読書だ。著者の主張や意図、その問題意識や視野、その論証や根拠、その結論などを検証してゆく読書だ。

こうした読書をなぜか私達は教育されない。つまり、『本を読む本』でアドラーがいうところの「基本読書」のレベルしか教育されない。文字が読めれば本が読めるというわけではない。

本は「部品」から構成されている

僕が読書の初心者に伝えたいのは、本は一息に書かれたものではないということだ。本は一息で読めるはずの小さな部品から構成されている。だから、読む方も、そうした部品に分けて読み解いていった方がいい。

本を読むには部品の構成を把握する必要がある。簡単に言えば、一冊の本は章から構成され、その章は節から構成される。節は段落から構成されるだろう。つまり、本とは入れ子構造になっているとも言える。

一冊の本がこうした部品から構成される理由は、人間が把握できる文書の長さには限度があるからだ。論証する文章が長過ぎると読者の思考がついてゆけなくなる。だから一息に読める程度の長さの文章を部品にして書籍は構成される。

細部を忘れ、全体を把握する

無理に一息に読まず、こうした区切りを積極的に利用したほうがいい。

節なら節という単位で把握をしてゆき、次に節の詳細は忘れてしまおう。そして、複数の節がどのような組合せで章を組み立てているのかを考えるといい。そうすれば、章で述べられていることが分かりやすくなる。最後に、章の組み合わせですっきりと本全体を把握することができるだろう。

章全体、ましてや書籍全体を一続きのものとして捉えようとすると、思考の息が続かない。何事も、ある程度のまとまりで把握したら細かい所は見ないようにするのがコツだ。木を見て森を見ずという言葉がある。目の前の文字の連続を見ていると全体を見渡せなくなってしまう。あえて、身を引いて細部を忘れることで、すっきりと本全体を見渡せるはずだ。

構成を再構築する

ただし、ここで大きな問題がある。こうした構成が目次の章立てと一致していないことが多々あるということだ。あまりに内部構成が明らさまな章立ては野暮ったいのだろう。だから実際に読みながら、表面の章立てではない、内部構成を考えなければならなくなる。

ここで著者の問題意識や概念装置、理論と仮説などを検証しつつ把握する必要が出て来る。そうした作業を通じて、自分で議論の流れの全体を再構築してゆくことになるだろう。

ここまで読めば、著者の視野や仮定、推理などの限界なども見えてくることと思う。それでもなお、その主張と議論に魅力があることがある。ここに至って、その本と付き合えたと感じるのかもしれない。

まとめ

大切なのは、読書の目的を明らかにして、メリハリをつけることだ。本を理解するためには一度で理解しようとするよりも、作業を分けた方がいい。

つまり、節を理解するときは節を理解し、全体を理解するときには更に細部を飛ばして理解するということだ。漫然と文字を追っていると時間の浪費になる。大切でなさそうな部分は、ひとまずさっと目を走らせるだけでいい。

そのとき、隣に目次を書き写したのを置いておき、重要な文に線を引いてゆくこと。文字を読むのではなく、線を引いているという気分で読むと速く読めると思う。更に、全体を把握するときには、傍線のところだけに目を走らせるようにする。

更に言えば、丁寧に読むことを敢えてやめてみるといいかもしれない。目についたポイントや「あれ?」っと思ったところに線を引いてゆくだけで、細かい内容を読む必要なんてないと思う。線を引いたところだけを読んで、なんとなく議論の流れがつながっていれば十分だ。

だいたい、ほとんどのことは人間忘れてしまうのだから、忘れそうなことは最初からインプットしなくてもよいと思う。細部にこだわるのは後からで十分だ。

たぶん、これが最短で本の内容を理解する方法だと思う。

そして最終的には、シントピカル読書(並列読書)をしてゆくとよいと思う(「思考力を鍛える読書」参照)。

2008-05-12

ネットで集中力について調べてみた

集中力についてネットの情報をいくつかまとめてみました。個人的には、リラックスも重視すること、小刻みな目標と「ごほうび」を設定し手書きで貼るという指摘が有益でした。それと集中力を鍛える残像法なども生活に取り入れてゆこうかなと思います。

直伝!healthクリック流 集中力を高める7ヵ条 -healthクリック

とてもよくまとまった良記事です。特に、達成感を自分で演出すうことや、小さな集中を繰り返してゆけばよいという指摘は個人的に有益でした。

healthクリック流の 集中力を高める7ヶ条は以下の通りです。

  1. 環境を整える。 --「頭寒足熱」。
  2. 優先順位をつける。
  3. 不安や迷いを断つ。
  4. 達成できる目標を立てよう。
  5. 緊張感はほどよく。
  6. ゲーム感覚も利用しよう。 -- 達成感を自分で演出する。
  7. 「集中」を繰り返そう。-- 例えば5分の集中を繰り返してゆくとか。

また、長期の集中にはアロマが効くらしいです。レモン、 バジル、 レモングラス、ローズマリー、ユーカリ、ペパーミントを推奨しています。

やる気を引き出し、集中力を育てよう! -healthクリック

同じく healthクリック さんのところの記事。他にも素晴らしい記事が多いので要チェックのサイトだと思います。この記事では、集中できなかった時のことをメモして分析することが有益との指摘がなるほどと思いました。

集中にはやる気が肝要。そのやる気を引き出すには、好奇心・目標・報酬を利用するとのことです。

また、積極的に集中力を鍛える方法として残像法・メンタルトレーニング・禅を紹介しています。他にも写経や裁縫など単純作業も集中力を鍛えるそうです。確かに備えあれば憂いなしなので日頃から集中力を鍛える習慣を持っているのはよさそうだと感じました。

集中力を養う3つのポイント + α | Lifehacking.jp

Lifehacking.jp さんの記事。ライフハック関係の良記事が多いので RSS 購読させてもらっています。

この記事では NHK の「ためしてガッテン」の番組の内容をまとめています。 気散じは聴覚から起きやすく、

  1. 周囲の環境から入ってくる音をキャンセルするために環境音を使うこと
  2. 自筆で書いた「小刻みの目標」と「ほうび、あるいは励まし」が書かれた紙を前に置き、集中が切れそうになったら自分を引き戻す。
  3. 集中・休息のメリハリをつける
というのが有効だということです。

ためしてガッテン:過去の放送:脳もビックリ! 集中力アップ大作戦

Lifehacking.jp さんの記事でも取り上げられていた番組の詳細がNHKのサイトにありました。「ためしてガッテン」はとても有益な情報が多く、昔、縁があってこの番組でアルバイトのADをやらせて頂いたこともあり、日頃から愛着をもって見させて頂いています。この記事(番組のまとめ)でも、集中力と脳について驚くような事実が紹介されています。

それは、集中するほど脳は動かなくなるということです。脳の大部分が働かずにいることで、脳の働きが一点に集中するということです。だから脳への刺激を減らすことが大切なそうです。だから Lifehacking.jp さんがまとめていたような方法が大切なのでしょう。

「集中・休憩のメリハリをつける」を細かくメモしておくと、集中する前には、関心を惹くものを身近に置かない、音楽や呼吸でリラックス状態を作る、「集中儀式」で脳をスイッチ・オンにする、集中している間には定期的に休憩することも大切だそうです。

集中力を身につけるには

以前にもノートの取り方(1)のときに参照させて頂いた開倫塾のページです。他にも学習に関しての深い記事がたくさんあります。

集中力を高めるために以下のことを提唱しています。

  1. 目標・目的を持つこと - それを普段目にするものに貼るとなおよい。
  2. 集中を妨げるものを取り除く - 勉強する5W1Hを定め、コツコツと努力する。
  3. 坐禅で集中力を養う

集中力アップ.COM 残像によるトレーニング、集中力を高める方法

そのものズバリな名前の 集中力アップ.COM さんのページより。集中し続けることはできないので、リラックスとの切り替えが重要との指摘には「なるほど」と目から鱗が落ちる思いでした。

集中力アップには

  1. リラックス
  2. 切り替え
  3. 目標設定
が必要とのことです。

このページでも healthクリック さんのところとどうように残像法トレーニングを推奨しています。カードの販売やセミナーも開催しているようです。

集中力・記憶力強化法「集中力テスト」

集中力についてのありがちな様々な誤解を教えてくれます。私には集中が続く時間は個人差があるという指摘が有益でした。「できるだけ」これでいいのです。5分やって、5分休んで、また5分やって・・・いいではないですか。にはなるほどと思いました。

IDEA*IDEA

IDEA*IDEAさんにも集中に関する記事がありました。脳が創造性を発揮できるようになるまでの時間 | IDEA*IDEAでは 創造性を発揮するには8分必要なこと、100円で集中力をあげる方法 | IDEA*IDEAでは集中力を高めるにはガムを噛むとよいことを教えてくれます。

2008-05-11

思考力を鍛える読書術(1) 一つの問題への並列読書法

読書は思考の力を向上させる営みであるべきだと思うが、漫然と読んでいるばかりでは著者に説得されてしまいがちである。一つのトピックに答える複数の議論を吟味するシントピカルな読書が、思考力を鍛える上では有効なのだと、最近になってやっと気付いた。

自己に潜在する欺瞞を見抜く難しさ

私はよく詐術に欺かれていた自分に気づく。 具体的には、自分が無意識に思い込んでいた判断の根拠が、 単に欺瞞でしかなかったことに気づくのである。

自分の外にある欺瞞を見抜くのは私にも容易いと思う。 しかし、自分にとってすら当然になった欺瞞を見抜くのは難しい。 無意識に刷り込まれている迷信や価値観、歴史館が私にはあり、 それは私の思考の一部になっていて、 そこを批判されると感情的になってしまう。

無意識に己に刷り込まれた詐術を見ぬくには物事を 批判的かつメタに捉える必要がある。 具体的には、ある争点に対しての判断の枠組みを明かにし、 更にその枠組み自体を懐疑してゆくことが求められる。 潜在する枠組み自体に懐疑の目を向けないことには、 いつまでも流通したドグマの欺瞞に欺かれ続けることになる。

自己に潜在するドグマを見抜く最善の方法は 奇譚のない議論であろう。 しかし、そうした議論に相応わしい友というのは得難い。 勝ち負けではなく、自分にとってすら無意識であるところの 思考の枠組み、価値観、視点などを浮き彫りにできるほどに 語り合える機会というのはそうはない。

そこで、書物に頼ることになる。が、ここで私はよく罠に嵌まる。 著者の考えを無批判に受け入れてしまうということである。 有名な書物であった場合にその説得力は強い。 人と話す時にもそれで筋が通るようになる。 こうしてその思考の枠組みを無批判に導入してしまうことになる。 確かに優れた著者の本は欺瞞を免れたものであるかもしれないが、 人の考えた思考を導入するだけでは知的であるとは言えない。 考える力、懐疑の力、欺瞞を見抜く力は養えない。

批判的に読めばいいのだろうが、 何しろ著者は私よりも名実ともに知的であり批判的に読むことは難しい。 著者と異なる視座を持つこともできるかもしれないが、 その違和感を掘り下げることは通常の読書ではなかなかできない。 そもそも、著者と異なる思考の枠組みに気づけるということ自体が 私の場合には非常に難しい。

自分は本との向き合い方を間違っていたようにも感じる。

比較読書で優れた議論を相対化する

思考を鍛えるには、本とどう読めばいいのだろうか。 そうしたことを、たまに思っていたのだが、 最近やっと、アドラーなどが言うシントピカル読書、 あるいは比較読書というものを積極的に行えばいいということだった。

上でも述べたように、一つの書物に向かっているだけでは批判的になることは難しい。 殊に自分の意見が確固たるものでない場合には、私は単純に著者に説得されてしまう。 だから、その著者の考察に別の優れた著者の考察をぶつけるのである。 こうすれば、ある著者の優れていたと思われた考えが相対化されてゆく。 これならば私にとっても思考を深められるという訳だ。

そのためにも、一つの問いを決める必要がある。 その問いに対し、複数の書物がどのように答えるのかを考えるのである。 更には、それぞれの著者の主張とその議論、別の意見への反論などを並べてゆく。 その時点で議論は相対化されるだろうし、どこに論点があり、 各自の思考の枠組みも透けて見えるかもしれない。 そうして積極的に自分の意見も練る中で、自分の無意識に抱えていた 価値観も浮き彫りになってゆくだろうと思う。

しかし、一つの問いに対して様々な意見が飛び交うような争点は そんなに多くはないし、そうしたものの多くは抽象的であり、 各著者の議論を整理するのは大変なことである。 あるいは、時事的な問題であり、判断のために必要な情報や事実が無限に拡散してしまう。

理想的には、一つの問い掛けがあり、その問いに答えるにあたって 必要な情報は少なく限定されていることが望ましい。 情報の摂取や事実確認に奔走されては懐疑や思考の能力は養えない。

次にそうした問いに対して様々な知性が様々に答を出していて、 その答を通じて、それぞれの価値観や視座そのものが懐疑されることが望ましい。

だが、そんな都合のよい書物があるのだろうか。こう悩んでしまうかもしれない。

しかし、元来、書物の世界はそうした書物が主流であったことに気付く。 つまり、これは一つの原典と複数の注釈書を読むような読書である。 原典とは解釈に開かれた一つの問い掛けであり、 解釈に必要な情報はそこに集約されている。 原理的には原典さえ読めば、自分の意見を出すには十分な情報を得られたことになる。

そして、その原典に対しての注釈書は議論を学ぶ上では非常に有意義である。 ある原典への解釈に様々な意見が述べられるが、 それを仔細に整理すれば、どれも一定の真実が含まれていて、 それぞれの価値観が浮き彫りになるだろうし、 どこから先が議論のできぬ領域なのかも見え隠れする。

こうした原典と注釈書という読書のスタイルは、 少なくとも本の向かい方を習い、議論の能力を高めるのには、 最善ということになると思う。

小さい内に、原典と注釈による比較読書を行えば、 本にどのように向かえばよいかが見につくのだと思う。 こうした懐疑の力をもって、 「善く生きる」などの普遍的な問題に進んでいければ 実りのある読書となることと思う。

2008-05-10

子供の暴力を誰が管理するか

子供だからと言って「犯罪」を許してはならない。犯罪をゆるさないためには暴力装置が必要である。と、たぶん人がこんなこと書いたら、トンデモだと思って批判的に考えるんだろうけど、勢いでちょっとメモしておく。

犯罪に満ちた子供の世界

子供の世界は犯罪に満ちている。恐喝に強要に脅迫、名誉毀損に侮辱に信用毀損、窃盗に横領に器物破損、更には傷害に暴行である。小中学校の子供にとって、これらの犯罪のどれか一つにも遭遇しない日というはありえないだろう。

高校、大学となるうちに犯罪は減る。万引や横領は規模を拡大して行われ続けるが、対人的な犯罪は格段に減る。ただし、怪しげなサークルなどで盗撮や痴漢、強姦や拉致をする輩が大規模に存在するが、それはある種の「不良」ということで例外として考えておく。実際、彼らは犯罪を犯しているという自覚はあるはずだからである。高校時代に同級生が駅で盗撮をして警察に捕まった。彼は少なくともそれが犯罪だということは自覚していた筈だし、実際に犯罪として扱われれた。

問題は小中学生の犯罪である。性的なものこそ皆無だが、極めて悪意に満ちた対人的な犯罪に満ちている。端的に言葉や拳の暴力が飛び交い、所有物は奪われ、傷つけられる。

どうして子供は刑が軽いのかという問いに、社会が責任を負うからだと言う答がある。それ自体は納得できる。店舗などでの窃盗を「子供だから」とゆるすのは感覚としては分からなくもない。しかし、対人的な暴力を、どうしてああまで野放しにするのだろうか。心に深刻な傷が残る人はかなりの数にのぼるのではないかと思う。それでも社会としては「子供のしたこと」として厳罰では臨まない。

いや、問題は刑が軽いとか重いとかという問題ですらない。子供には犯罪を犯しているという意識がないのだと思う。だから、暴力は野放しとなる。そして、被害にあう子供は、そうした被害を大人に訴えることがない。その理由の一つに、訴えたところで、加害者への罰が現実的にほとんど無く、報復の方が恐ろしいからだろう。

保護されないことを通じ、子供は「自分に振りかかってきた火の粉は自分で振り払わねばならない」と考えざるを得なくなる。そして、弱いということを認めることが恥ずかしくなるだろう。いじめられる奴はそれなりに理由がある、という理屈である。言いたいことは分かる。しかし、これは酷であると思う。

問いはシンプルだ。犯罪はしてはならないと教えるわけにはいかないのだろうか。そして、犯罪はどうあれ刑罰を受けるということを実地に体験させるということである。そうしたことを通じ、被害者には弱いことを認めることは恥ずべきことではなく、罪を犯したものを当局に通報することこそ善であるというようなことを教えるべきではなかろうか。

子供時代の暴力の思い出

ここで、いつものように無駄な思い出話。

私は端的に暴力は振るっていいものだと思っていた。正義とは暴力が存在しないことではなく、暴力を制御することであるとは中学生の頃から考えていた。暴力が存在しない世界など想像もできなかった。

だからこそ、有効に根回しをし集団を作り上げ、不意を突いて敵を襲った。普通の人間において、人数差を凌ぐ個体差はありえない。集団を作ることが支配への道である。私は普段は優しく振舞い、時に集団の暴力を行使するにあたり残酷に振る舞った。

いざとなったら殺す気で釘を打った角材を持ってチャリンコを漕いで、「怖い兄貴」のいる不良の家に行ったこともある。ちょっとした不良ならバタフライ・ナイフを器用に扱っていたものだった。上級生数人に袋叩きにされたこともあるし、木刀をつきつけられ土下座して謝ったこともある。

ある日、ナイフを所持していたのを祖父に見られ「そんなの持ってると、やられるぞ」と言われたのだが、僕はそうした事情をどう祖父に説明したらいいのか分からなかった。武器もなしに、どう正義を為せるのか。意味が分からなかった。僕はナイフが怖かった。だから暴力には従うだろう。これは情けないことなのだろうか。ナイフが怖いのはいけないことなのだろうか。ナイフが怖くて、自分もナイフを持ち、ナイフに頼る輩が怖くて、ナイフに頼ることはいけないのだろうか。僕はこう考えたが、泣いてしまって、うまく言えなかった。

祖父は「逃げることだ」と教えてくれた。戦場を生き抜いた智恵であったかもしれない。しかし、自分の大切な友人も残して? 無力であることを恥しめられて? 固定された集団において、弱い者は更に弱くなり、奪われる者は最後の一つまで奪われるのである。どこまで逃げる? 不登校になればよいのか?

そうした戦いの果てに、中学校時代の最後の頃、僕は「いじめ」の存在しない帝国を築きあげた。いじめの元を巧妙に制御したのである。「不良」を集団の暴力の下に無害化し、特に酷い「不良」は不登校においやった。「いじめ」は無くなった。私は本当にそう感じていた。正直に自惚れを書くが、僕は内心で惚れ惚れとしていた。が、実はそうだと感じていただけであり、私の見えないところで「いじめ」はあったらしいのだが。

私は果たして正義だったか。勿論、偽善であろう。だが、偽善であることに恐れはなかった。私は私の正義を実現すべきだと思った。出来うる限り、暴力を有効にコントロールし続けた。当時、正義に悩んでプラトンやソクラテスを読んだが、馬鹿らしくて投げ出してしまい、以後、ずっとプラトンとソクラテスは嫌いである。

権力のシミュレーションゲームをしていた気分の僕は、卒業アルバムで「誰とでも仲の良い人」にランクインしていて、なんというか笑ってしまった。何人かとはまともに付き合ったが、僕はどう考えても「誰とでも仲良く」するようなタイプではない。

子供の犯罪にどう向かいあうか

端的に、子供時代の暴力に関して、警察のお世話になるべきだったと思うことがいくつもある。僕は人間全ての人が、人の痛みが分かるわけではないと考えている。そして、人の痛みが分かる人は教えられなくても分かるものである。端的に、人の痛みに同情させようとする教育は馬鹿らしいと思う。彼等は人が苦しむのを見て喜ぶのであるから、B君が苦しむことはやめましょう、じゃ話にならないのである。

何人かの人間は人を騙しても平気であるし、何人かの人間は痛がる人間を見て楽しがる。これは疑いようもない。人の不幸は蜜の味である人は確実に存在する。僕はこういう人間が変わることは教育によっては起こらないのではないかと思う。よっぽど素晴しい女性が献身的に愛情を注げば別かもしれないが、大抵の場合、彼等は徹底的に親から損なわれていて、しかも幼年期から暴力による成功体験が豊富なので、通常の会話やら授業やらで更生できるような性質ではない。彼らの良心には期待はできないのである。

だから、国家には刑法が存在し、行政は強制執行権を持つのだろう。強制執行できない法律、つまり暴力を振るわない法など空虚でしかない。

ここで僕は、小中学生に対しても犯罪という概念を教えるべきだという発想になる。そして実際に恐喝や暴行があった場合には「A君すみませんでした」じゃなくて、もっと具体的に暴力が、振るわれるべきだと思う。つまり良心に訴えるのではなく、体罰か勾留、財の没収という形で「痛い目」にあわせるのである。

現状では暴力のふるったもん勝ちという状況である。そうしたことが成功体験としてインプットされる前に、犯罪はペイしないことを体験することが教育であるように思う。社会の原理として、私人の暴力は暴力支配装置たる当局が取り締まるものだと教えるのである。「子供だから」という形で暴力を野放しにするのはとても危険であると思う。

子供にとっての「当局の暴力」とはつまり学校の暴力ということになる。これを認めるしかないのだろうかと思う。学校は子供の所有物を「公共の福祉」のもとに「没収」し、子供の暴力に対し断固とした暴力による刑罰を与えるということである。少なくとも、先生が殴っていたら、子供の暴力があそこまで野放しではなかったと思う。そして殴る先生をもっと頼ったろうし、告発はもっと有効だったと思う。もし、学校が暴力装置であることを認めないのだとしたら、やはり暴力装置の親玉である警察に頼るしかないことになる。

どちらにしても、子供のすることだから、と言って何の強制力も発揮されず、被害者が自分の弱さに泣き寝入りするという状況はおかしいと思う。

と、ここまで書いて、やっぱり最初から感じていた、トンデモな話だなと感じる。これは僕が常々批判する恐ろしい管理社会を増長させるように思う。どこかで話のポイントが拡散している。けど、まあ、こんなとこで。そのうち整理できるかもいれないし。

2008-05-09

集中するコツ(2)

集中状態にはどうするか。digi-log: 集中するコツ でも書いたけど、なんだか自分向きの方法がやっと確立してきた気がする。ポイントをメモしておく。

  1. 体を動かす。腕立とスクワット。軽く走ったりするのもよいかも。軽く汗ばみ息が上がる程度でいい。そしてストレッチ。首と肩と背中を特に伸ばしておく。
  2. 頭から水をかぶる。桶で数杯、頭から水をかぶる。入浴やシャワーよりも、冷水の方がすっきりとする。そういえば、昔から真剣に何かをしたい時には水をかぶるようにしていたことを思い出す。
  3. 密室にする。鍵を掛ける。窓を閉める。カーテンを引く。入口に背を向けない。
  4. 長い時間静止できるように坐る。だいたい集中が切れるのは、姿勢にくたびれてしまった時。だからよい姿勢を作る。机の高さや角度に注意する。また、姿勢筋を鍛える必要あり。
  5. 声を出す。音読したり歌ったりする。そんな大声じゃなくてもいいと思う。
  6. 息を止める。基本はすっと吸って、息を保ち、長く吐き、また少し止める。寝息を参考にする。寝息は規則的でしかも意外に止まっている時間が長い。この止めるのが重要。その間に集中状態に入りやすくなる。
  7. 集中する。頭の中心に意識を向ける。そして無音の「しーん」という音に耳を澄ませる。どういう訳か、周囲に音がしても、この「しーん」という音は聴こえる。この「しーん」が「キーン」に聴こえてくるはず。そうなれば大概のことは出来る。

どう考えても集中状態をつくろうとするのはオカルトだ。でも実際に、かなり気を使わないと集中が切れて、気が散り、すぐに小さなイライラが襲う。昔は体力も集中力もあったのだとつくづく思う。

2008-05-08

”ふれあい”が人間関係を壊す理由

私は《ふれあう》という言葉が嫌いである。なぜなら、それは端的に人間としての関係を損ねるということだからである。更に言えばコミュニケーションの否定である。

《ふれあい》では相互理解が起こらない

《ふれあい》状態では意見交換は起こらない。馴れ合いが起こるだけである。そして馴れ合いは相互理解を生み出さない。

こうした状態は、両者が均質であることが前提となる。

もしも意見が異なった場合、もっと言えば互いの意見の土台が異なった場合、こうした《ふれあい》ではどうなるか。

決まっている。それまでの力関係がそのまま反映されるだけだ。どちらかが(あるいは場合によっては双方が)無理に合わせるように振る舞っているということになる。

《ふれあい》の場では、「意見」の点においても「思考の土台」の点においても、《強者》は《弱者》を抑圧する。強者は弱者を簡単に黙殺できるのである。

ふれあいを求める心

私達は馴れ合いを好む。だから《ふれあい》を好む。端的に言えば、それは楽だからである。

また、効率的と言ってもいいだろう。少い言葉で意志が伝わる。コミュニケーションのコストが低い。これは素晴しいことだ。

しかし、それでも私は《ふれあい》を推奨はしない。そうした馴れ合い状況とは、相互の意見交換と異なる土台の確認という作業を通じてのみ生じるものであるからだ。そうした状況は結果として生じるに過ぎないものであり、ふれあおうとする姿勢とは欺瞞である。

帰属意識からの脱却

こうした馴れ合いの大きな特徴は、集団や共同体への帰属意識として捉えられるだろう。共同体の論理が則ち、馴れ合うための共通の土台なのである。

こうした共同体の論理が構成員を縛り、外部を排除することは、従来では有利かつ有効に機能したと思える。しかし、状況は変化し、このような共同体への固執は有効に機能しないばかりか、ほとんどの場合には有害である。

現在、私たちが構成するであろう組織や集団は、構成員を拘束するような性格の《論理=制度》を保有することは現実的ではないし、そうした《論理=制度》が外部を排除する性質であることは有害でしかない。

では、どうするか。

まず、私達は率先して自分や相手の思考の土台となるものを疑うということだろう。少なくとも帰属など鼻に掛けないことである。現在は、帰属により信頼の基準を置くような状況ではない。暴力に訴えないということは言うまでもない。

そして、私達は、相互が異なっているということを承認していつつも、人と人が、ある程度の距離の中で共に居られるということを学ぶべきだと思う。そして、常に互いの意見を参考にしつつも、批判を加えたり、拒否できるという安心感が信頼に繋がるのではないかと思える。つまり、こうした相手のコミュニケーション的な理性への信頼が、これまでの共同体の帰属意識を乗り越えるものなのだろう。

そうした懐疑と公共性の確立の結果として、安心し信頼したコミュニケーションがありえるのかもしれない。その結果として「ふれあい」と形容するような状況もあるのかもしれない。ただ何度も繰り返すが、これは結果としてであり、ストレートに「ふれあい」を賛美するような姿勢は欺瞞でしかないだろう。

2008-05-07

技術の支配 進歩の虚しさ

技術には道具にあるような手応えがない。それはひたすらに進化に駆り立てる空虚な仕立ての連続である。

道具の手応え

道具。それは本質的に《身体》の延長である。それは手応えの内に私に握られる。手応え。それは手に応える。道具は手に握られつつ、手に応える。手は握りつつ、道具に握られる。そうして延長される《身体》。完全なる把みと握り ── つまり《把握》 ── の手応え。それが道具である。

道具がうまく使えるということはコツを押さえるということである。コツとは《骨》に他ならず、その芯=心を押さえるということである。それは無意識な《手探り》を通してのみ把握できるものである。エチュードは道具を覚えるのに役立たぬとしたら、それが手探りを残していない時である。

技術の気配

一方、技術に《手応え》はない。《技術》とは個別の経験の積み重ねの帰納による、一つの《論理》であり《制度》である。それは個別の経験を集積しつつ、利益と興味の下に平均化する。人の《なぜ》の問いは内部において無効だ。人の問いは《いかに》に集約される。

把握を許さぬ技術は常に私の《気配り》を要請する。無意識の気配りを受ける技術はやがて《気配》を持つ。気配を持った技術は既に私にとっての《他所の人》となってくる。そして私は常にその他人からの《眼差し》を感じる。眼差される者は、無意識にその眼差しから予め前渡しされた《責め》を感じ、眼差しを恐れるままに、その《制度=論理》を無意識に内面化してしまう。こうして技術は私を支配する。

技術の気配に人は支配されてゆく。技術とは場の空気の際たるものだ。場の空気とは、とりも直さず、その《場》に《居る》者の《眼差し》への恐怖である。その《責め》は予め前渡しされており、個人はその《制度=論理》を無意識に内面化する。無意識に内面化した《論理=制度》への疑問は問われることはない。それは、まさに場の《気配》そのものであり、既に《場》自体が《他所の人》のように他所他所しく、私を眼差しているのだから。

立前としての進化

技術は常に《進化》を要請する。《なぜ》を問うことなく、その《論理=制度》の内部にて、ひたすらに《いかに》を問い続け、それを進化させることを《駆り立てる》。技術の《論理=制度》は内面化し続け、《進化》が私の唯一の目的となってゆく。本質的には無意味に、技術に習熟し、技術を改善させてゆくことを技術は駆り立てる。

技術は何かを創り出すことではない。常に手応えなく、何かを《組み立て》《仕立てる》ことである。そこに《なぜ》の問いは無効である。技術においては、ひたすらに次の《よい仕立て》のために、《仕立て》が仕立てられてゆく。

よい糸はよい布のために仕立てられ、よい布はよい服のために仕立てられ、よい服はよいファッションのために仕立てられ、よいファッションはよい異性獲得のために仕立てられ、よい異性獲得はよい結婚生活のために仕立てられ、よい結婚生活はよい老後生活のために仕立てられ、よい老後生活はよい死のために仕立てられ、よい死はよい死後のために仕立てられ、よい死後はよい生れ変わりのために仕立てられ……。全ては、何かより善きものに役立てられ、より良いものに見立てられるようにして、仕立てられる。

もし、生きることが《技術》に基づいていたら、つまり組み立てによって仕立てられていたとしたら、それは恐ろしく虚しいことである。前には組み立て仕立てあげられたものしかない人生とは、まさに立前の人生である。しかし、技術は生きることはそうしたものであると責め立て、進化へと駆り立てる。

こうして私達の人生から《手探り》は奪われる。ただ物事は次から次へと仕立てられ、手応えは与えられることはない。次から次へと技術は進化し、私達の進化を仕立てる。手応えの中で身体は拡張されることはないどころか、身体は技術の眼差しに責め立てられ続け、萎縮し続ける。《世界》はよそよそしく《進化》を求める眼差しで私を責め立て続ける。

2008-05-06

嫌いな技術 - 携帯電話と Windows の苛々

携帯電話と Windows には共通点した問題が存在する。それはユーザからは理由が不透明な、不完全さを持っているという点である。

携帯電話では通話の途切れが起こる。我々は無意識にしろ意識的にしろ、目に見えない《電波》を気にしつつ話さねばならない。通話が途切れると「電波悪いね」と言う言葉で納得を与えるだろう。

ところが実際には、電波が悪いことは我々に知られることはない。ただ通話が途切れたということの説明としてのみ電波が語られるだけである。それは本質的には《理由》ではない。

Windows ではどうか。

Windows も同様に速度が低下し、時にフリーズする。 その説明が常に存在しない。 少なくとも私を納得はさせない。

レジストリだとかスタートアップだとかファイルのゴミだとかアップデート時のゴミだとかが語られるが、それらは断じて《理由》ではない! 「あ。これだったかー。これ取ったら元通りだ」ということがありえない。

私たちは理由も分からずに、致命的な障害に堪えなければならない。

我々は携帯電話や Windows の不完全さを生産者の責任にはしない。

大概は仕方のないこととして諦め、時に何故かユーザのせいにする。「地方だから」「ウチ、電波悪いんだわ」「携帯、古いから」「山入るとダメだねー」「変なサイト、アクセスしてない?」「ごちゃごちゃ訳の分からんソフト、インストールするから」「Windows は定期的に再インストールしないと駄目なんだよ」(!!)……。

訳の分からないうちに、小さな苛々が蓄積される。

確認しておくが、携帯電話にとって通話とは致命的な機能であり、OS としてタスク管理は致命的な機能である。つまり、通話が途切れる電話は電話じゃないし、理由不明に速度が低下したり、あろうことかフリーズするような OS は欠陥品である。

こうした苛々に私は堪えられない。それは道具にはなりえない。徹底的に私を支配しようとする技術である。

2008-05-05

体・相・用で分類してみる

様々なカテゴリー論が歴史上作られてきた。僕はそれらをあまりよく知らない。ただ、ぼんやりとカテゴリーについて思い付いたのでメモしておく。雑多で未完成。

基本形

はじめに仏教のカテゴリー。これを基本に考えたい。

  1. :そのもの自体。ときにそれを構成する要素に目を向けること。
  2. :その形や関係。
  3. :それが与える働きや影響。

あるいはいかさまアリストテレスに、

  1. 質料(ヒュレー)
  2. 形相(エイドス)
  3. 作用・目的
というのもありかと思う(本当は四原因説。四原因説 - Wikipedia 参照)。

概念規定において

記号 存在 知覚
情報 意味 認識
知識 価値 判断

まず、概念になりえそなものを体相用に分類すると、記号と情報と知識ということになると思う。記号が実体であり、それは他との関係においては情報となり、知識という働きをするがある。

更にそれぞれについて体相用に分類すると以下のようになる。

  1. 記号は関係においては存在を持っており、それは働きにおいては知覚される。
  2. 情報は関係においては意味を持っており、それは働きにおいては認識される。
  3. 知識は関係においては価値を持っており、それは働きにおいては判断される。

変な文だが、要は人は記号の存在を知覚し、情報の意味を認識し、知識の価値を判断するということ。ただし、それが働きとして現れるときには、次のカテゴリーに移行している考えられる。つまり、記号が知覚されたら、情報として人は捉えるだろうし、情報を認識したら、それは知識になる。知識の価値を判断したら? 恐らく人は行為する。

思考において

思考の類型も三つに分類できる気がする。

  1. 実体・本質思考: 「そもそも○○は」と話す人の思考。語の定義などから話す方法。人間拡張の思考や擬人法、入れ子思考もここ。背理法や脱構築なども基本的には本質を敷衍した結果の破綻を利用するのだからこの思考法と思う。
  2. 関係論思考: 他との比較を通じて話す思考法。「ちびくろサンボが黒人差別だというなら、ベニスの商人はユダヤ人差別じゃないのか? あれも発禁にするか?」というような思考。
  3. 因果論・影響論思考:ある意見がどのように働くかをもって考える思考法。「確かにAはBかもしれないが、もしそうなったらアメリカは黙っているか?」というような思考法。

比喩において

なんだか、ここらへんの用語も以下のように分類するとすっきりする気がする。と思ったけど、全然しない。

まず、記号について

  1. シニフィアン:意味するもの
  2. シニフィエ:意味されるもの
  3. シーニュ:シニフィアンとシニフィエとの対としての記号

次は概念の比喩による拡張について

  1. シネクドキ:概念の論理的な包含関係を利用。「花見いくぞ」と言えば「桜を見にいく」こと。菜の花ではない。
  2. メトニミー:概念の対象の現実の隣接関係を利用。「なんだ、その頭! 頭切ってこい」と言えば頭のそばの毛を切ること。頭を切っても誰も喜ばない。
  3. メタファー:概念の与える印象の類似を利用。「たい焼買ってこい」と言われたら鯛の形に焼かれたものを買っていくこと。魚屋で鯛を焼いてはならない。

そしてメタファーがどのような関係を持つかを考えてみる。すんげえいい加減。理解不足。

  1. シンボル:あるもの集団や個人、作品などを特定のもので象徴する。日本のシンボルとしての桜。
  2. アレゴリー:抽象的観念や思想を特定のもので暗示する。狡猾さのアレゴリーとしての狐。
  3. メタファー:まあ結局はメタファーです。

更に無理をしてみる。

  1. ステレオタイプ:特定の何かを代表するあるもの。典型。「短気な職人」は「江戸っ子」のステレオタイプ。
  2. プロトタイプ:それを通じて一般化できる何かを示すあるもの。
  3. アーキタイプ:文脈として文化の奥に秘められる何か。元型 - Wikipedia 参照。

工学において

  1. 物質
  2. 情報
  3. エネルギー
  1. マテリアル
  2. デザイン
  3. ファンクション

2008-05-04

文体形成とテクノロジー

文体形成における手書きとパソコンについての妄言。

手書きもパソコンも関係ないという意見がある。どちらも同じ文書が出てくるのだという。

それはある意味でそうなのだろう。文体にたいして特に意識のない人、あるいは既に自分の文体が確立している人は、手書きであれワープロであれ関係ないのかもしれない。この点に僕は触れない。

しかし、文体の確立過程をパソコンで行った者はそれが分かる気がする。あるいは最初の創作をケータイで行った者にも言えることだ。彼らの文章からはカタカタという音が聴こえてこないだろうか。例えば、僕はある芥川賞作家の文章を読むと不意に IME の変換ウィンドウが目の前に見える気がする。あるいは、いくつかのライトノベルはワードの画面がちらついてしまったり、ケータイのボタンの触感が浮かんでしまったりする。

これは、ただの妄想だろうか。恐らく妄想だろう。その作家がパソコンで文書を書いているかどうかを僕は知らない。もしかしたら手書きなのかもしれない。文体形成が手書きだったのかパソコンだったのかも分からない。古典を模す文体が、その当時の人々とは少し違っていて、それが結局、僕に違和感を与えているだけかもしれない。

また僕はラノベをよく知らない。現代の人の文体というものそれ自体が、僕にはワードやIMEの変換ウィンドウやケータイのボタンという質感を与えているのであって、全然、文体形成とは関係ないのかもしれない。その可能性は十分にある。

それでももう少しだけ言うのならば、古典を模したような小説には「不道徳」という印象を受けた。いや面白いことは面白い。別にそれはそれで問題ない。ただ違和感がある。ある種のジャンル小説としてなら十分といえる。

たとえばある小説では「未知」なるものは語られないように感じた。既視感。この物語で語られることは予め知っている。胡蝶が誘う夢と現の世界。夢で出会う女。幾ばくかの迷信と伝承。僕にいわせれば、それは文藝というよりは純文学的というジャンル小説なのだ。

そこに疑問が残る。その疑問を紐解いてゆくと「不道徳」という言葉が出てくる。これはどういう意味だろう。いや面白ければそれでよいのかもしれないが。実際最後まで読ませてくれたわけだし。

私は日本語について無知なのでよくわからない。それでも、この小説が持つ、ワープロでカタカタと変換されてゆく字句の気持ち悪さを感じてしまう。言葉が紡ぎだされていないと感じる。しかし、これは僕の妄想なのだろう。もし、本当に僕の感じた違和感が存在するのなら、こうしたことをそれなりに実力のある作家なり編集者なりが注意するのだろうから。

しかし、更にもう少しだけ言うと、最近の何人かの《文藝》は悪戯を感じる。悪戯にはやっていいものと悪いものがある。これは人を騙しおおす可能性があるので、やらないほうがいい悪戯だと思う。

それに引き換えると、正面からワープロの文体であることを自覚している作家のいくつかは肯定できる。つまりラノベはラノベでいい。少なくとも彼らには不道徳という印象はない。彼らは、それでしか語れないような表現を為しているように思う。

こうして書いているとクンデラか誰かの言葉を結局は思い出す。たしか、新しい実存を描き出さない文藝は不道徳だというような言葉だったと思う。そういうことなのかもしれない。

2008-05-03

ブログとの付き合いの変化

ブログについてちょっとだけ整理したくなったので書いておく。

ブログの目的の変化 - 書くことと読まれること

ブログと一言で言っても様々な機能があり、様々なことを実現していると思う。いまちょっと考えても以下のことをブログは実現している。

  1. チラシの裏 - 書くだけで満足。あるいは便所の落書きとも。
  2. 備忘録 - 時系列・カテゴリ別の分類や検索機能を備えた個人情報システムとも。
  3. 文書の公表
  4. コミュニケーション - TBやコメント機能

digi-log は極めて 1 の傾向が強いながら、「読まれている」という意識が強まると 3 の傾向も持ってきたと言えると思う。最近は明らかにdigi-log: 匿名で書くこと で書いていたような気分では書いていない。

最近は「読まれていること」を意識してしまっている。誰かが読むのだから自分の考えを伝達したくなる。ただの繰り言を綴るチラシの裏や便所の壁であるより、ある程度の文書を不特定多数に簡単に公表する手段として、僕はブログを捉え始めている。こうして digi-log は、内面の吐露の記録ではなくなりつつある。

なぜか?

一つには、ネガコメが怖いからだろう。外面的な話のコメントというのは動揺を与えない。例えばどこかに行ったとか買ったとかいう話にネガコメを受けても大した衝撃にはならない(というかネガコメ自体しにくい)。それが内面の話になるとネガコメが気になる。だから次第に内面の吐露は減ってゆく。

結局、ネガコメに負けてゆくということになる。それでよいのか。いいのだろう。分からないが。

いや、別にネガコメだけじゃないのかもしれない。ポジティヴなコメントを貰えれば嬉しいし、アクセスがあれば嬉しい。こうした読まれていることへの反応が、このブログに質的な変化を与えた。

つまり、ただの「書きたい」という欲望だけで存在したブログが、次第に「読まれたい」という欲望も備えていった。後戻りはできないと思う。ここの二つの欲望のどこかで僕はバランスを保つだろう。それがこのブログのこの先の性格を決める。

人が読む文書を書くことでしか記録できないことがある

僕は以前、全然別のブログを自宅サーバでやってた。YahooBBのADSLでDynamicDNSで。ApacheとかMTとかをGentooの上で転がしてた。

テーマは政経的時事ネタとパソコン関係だった。結構いい調子になってガツガツ書いていて、ある日アクセスが高まりサーバが落ちたりした。政経というのは人が集まるもんだと思った。それでなくてもアクセスが多くなると部屋にあるパソコンがうるさいし、夏には暑くて仕方なかった。ネガコメは勿論、スパムもウィルスも飛んで来たしアタックも受けた。僕はたまに本気で頭に来たりした。そう、予想以上にブログは時間も精神的エネルギーを奪うものだったのだ。

僕はブログをやめた。そして、そうした反省から digi-log にも時事ネタを書くことは避けた。丁寧にコメントに対応することもやめた。いらないコメは容赦なく削除するようにした。

ところで先日、以前のブログのエントリをいくつか目にしてみた(印刷してある)。そうするといろいろと考えさせられた。自分の考えというものは結構変わってくる。それを過去のブログが教えてくれるものだと思った。

僕は紙に色々と書く人間だ。しかし時事ネタのことを書くことは殆どない。時事ネタはどうせ時が過ぎれば興味が失せるから書き残すというモチベーションが湧いてこない。人と話すときのネタになるだけで、後から参照すべきようなものではないと考えてしまうのだ。

だから以前の時事ネタについて書いていたブログの過去ログはとても面白かった。誰かに見せることが前提になる文字にしなければ、こんなに色々と考えなかったと思うのだ。

それは役に立つのか?

イエス、と僕は思う。ただ自分だけに語りかけるよりも、人に語りかけている文書を持っているということは、自分の思わぬ面を自分に見せてくれる。だから、人に読まれることを前提とした文書を書いてゆくのも悪くはないのかもしれないと思った。

***

コメントにはスルーを前提にしてしまえばいいと思うようにもなった。たぶん「いい人」をしていると何の対価もないブログなんてやってられないのだから。そして元々の内面の吐露は、別のブログや紙にひっそりと書いておくことにしよう。それが元々の姿というような気がする。

2008-05-02

メキシコとドイツの友人の間で

中国人の話を思い出したら、メキシコ出身の留学生と組んで、ドイツ出身の留学生と討論したことも書きたくなった。何の役に立つわけでもないけど、前回に続いて大学時代の回想。

***

ホセはメキシコからの留学生で社会学を専攻していた。彼はそれまでにも西洋によるラテンアメリカ文明の破壊を批判することが度々だったが、西洋人を前にして話すのを見るのはその時が初めてだった。

メキシコ人の認識として、独自に育まれ栄えていたラテン・アメリカの文明は西欧によって破壊され、長い植民地支配を通じて徹底的に搾取されたという思いが強い。その破壊の爪あとは深く現代に至っても十分に社会機能が回復したとは言い難く、それに加えて西欧の搾取的圧力は未だに続いていると捉えている。要求するところは西欧による社会破壊の補填ないしは回復の補助、そして、現行の搾取的圧力の停止、というところである。

何の切っ掛けだったかホセがカールに西欧批判を始めた。私はいつも聞いているホセの話に耳を傾けつつ、ドイツ人のカールがどう答えるのかを楽しみにした。

カールはアホなやつである。世界で一番アホなやつだと思う。これは罵倒の意味ではない。一緒にいて楽しいという意味だ。こいつは様々にアホ話を考えつづけ、日々女の尻を追っかけまわしていて、一度だけだけど過ぎた火遊びの消火活動を手伝ったこともある。

「西欧がいかなかったらどうだったと思う?」私の予想を裏切り、アホのカールは切り返した。「あなた達の文明の価値自体を認めないわけじゃないが、二つの点でそうした単純な西欧批判には私は常々疑問がある。

一つには恐らく、私たちの介入なしには自由や平等といった人権は守られず、奴隷としての人生を生きる人が存在し、女性は差別され、人々に自由は与えられなかったであろうが、それをあなたは認めるのだろうか。

二つ目には、科学――これは私たちの合理精神の際たるものだが――抜きにしては、工業技術や医療・都市衛生技術の恩恵を受けられないわけだが、私はそうした生活がそれ以前の原始的で迷信にまみれた社会よりもよいと思うのだがどうだろうか?

つまり、政治的な面と経済・健康的な面から見て、西欧は多大のものをあなたたちに与えたと私は思う。ゆえに、西欧がラテン・アメリカを訪れたことは――勿論、幾分かの過ちを私たちが犯したことを認めるにしろ――、あなたがたにとっても実りの多いものだったと私は思う」

アホのカールはバリバリに論理的ドイツ人モードで話し出した。カールは「土管がドカン」で三日間は笑ってられるアホなのだが(異文化の笑いは難しい 参照)、ドイツの教育を受けているのでちょっとした話になるといやに論理的に話し出す。

以前にも、カンボジア人の留学生がカールを見て「ハイルヒトラー!」とかやりだして「ねえねえヒトラーについてどう考えてるの?」「ホロコーストについてどういう風に考えてるの?」といい始めた時にも理路整然とそうした問題に対して納得のできる答をしていた。私は最初ヒヤヒヤしまくったのだが、独裁者と虐殺の問題は若きカンボジアのエリートにとって非常に重要であり、有益な話を聴けたと感謝していた。最初に「おい、カンボジア人、空気読め」とか言いそうになった自分が恥ずかしくなるほど、ドイツ人とカンボジア人はそれぞれの国の独裁と虐殺の問題をしっかりと受け止め、有益な意見を交わした。

ホセはこう答える。「文化にはそれぞれ独自性がある。

それに女性の差別を西欧によって撤廃したというのは嘘だ。ジェンダー論による近代批判が示しているように、西欧思想は新しい形の男女差別を生み出したことは疑いようもない。所謂、近代家族制度の下で、労働を支える妻としてあるべきと女性は差別されたのは明かだ。これを前近代の家族制度と比べること自体が馬鹿げている。

「自由」や「平等」にしても、西欧がもたらしたものというのは傲慢ではないだろうか。何しろ非西欧人にとっては西欧思想とは白人優越主義であり帝国主義であった。つまり、私達を植民地支配し、自由と平等を奪い去るものに他ならなかったからだ。君達がもたらした不自由と差別は規模の面でもその深刻さの面でも極めて恐ろしいものだったんじゃないかな。僕たちにとっての自由や平等は、あくまでも西欧への抵抗から生まれた」

んで、矢野はどう思う? とか振られる。まいったな。「まあ、俺は基本、ホセだな。西欧近代がもたらしたものは災難だったと俺は思う。日本だって西欧に不平等条約された訳だし。

仮にお前らが来なくても、日本は十分な生産力と技術を持った国になったんじゃないかなあ。江戸時代の後期には既に工場での労働集約も行われていたし、都市衛生も進んでいた。そのうち平等も実現したんじゃないかなと思う。

ただ、確かに西欧の技術はやっぱり凄かったんだろうというは思う。明治時代に科学を学んだ人の本を読むと、いかに西欧科学が圧倒的だったかを感じるし、そして、そうした合理主義と当時の日本の土壌がいかに断絶していたのかを痛感する」

「俺は技術も認めない。合理主義もだ」とホセは言う。「それがどう役に立った? 技術に支えられた社会の産業化は、貧困を生んだだけだろう。それまで木や葉っぱを使って自分で家を立てられた人々が、産業化した社会においたてられて、ゴミを拾って暮らさざるを得なくなるようなことが起こる。それまでしっかりと生きてゆけた人が、突然「無教育」な社会不適合者になるんだ。

貧困を生んだのはお前ら先進国だよ。カネを貸しつけて、莫大な負債の利子で俺たちを苦しめる。そして傀儡政権を作って自由に政治もコントロールできる。貧富の差は拡大し、慢性的にインフレが民衆を苦しめて、一部の富裕層ばかりに富が集まるんだ。

それに、お前ら先進国なら最新技術の商品を見て喜べるだろうけど、僕たち発展途上国ではフラストレーションの対象なだけだ。買えないんだよ、単純に。アメリカや日本で作られたTV番組やCMを見るにつけ、貧しさを痛感するだけだ。学校の放送室でロックを流すというようなアニメがあったんだけど、僕はそれを見て心底腹が立ったよ。メキシコには音楽を流せるような放送室を備えた学校なんてあるわけないんだから。そんなものは俺は見たくないんだよ。

技術は金持ちの独占だ。ドイツや日本はいいよ。知財だって有利だ。メキシコはどうなる? 最初から競争になんて入れやしない。そして貧富の差はどんどん拡大してゆくんだ。僕にとっては技術なんてものは何の恩恵もなかった。そりゃテレビは見るよ、日本製だけどね。政府に独占されたチャンネルで、面白い番組はアメリカや日本で作った番組だらけだけどね。だからそんなもの無くてもいい。技術なんて僕たちには関係ない」

「それでも西欧の援助で救われる人がいる」とカールは言う。「医療や衛生という技術は実際に人命を救っている」

「僕たちにとって目の前で感じる西欧の技術は軍事力だよ」とホセは言う。「医療と衛生? 馬鹿馬鹿しい。銃とミサイルだよ。西洋の技術で救われた以上に多くの人間が、西洋の技術で殺されたとは思わないかな? 西洋は強さそのものだ。僕達は無力で搾取されるだけだ。槍と剣の時代なら民衆も立ち上がれただろう。でも現代兵器を前にしたら完全な虐殺があるだけだ。戦車や戦闘ヘリどころか、戦闘ロボットまで作っているんだろう。軍事力の格差がこれほどに開いているのは恐しいことだし、本当に愚かしいことだ。

そうそう。知ってるかな? カリフォルニアとニューメキシコは僕たちの土地だったんだ。長い独立戦争がやっと終わってまもなく、1848年の米墨戦争でメキシコは全領土の3分の1をアメリカに取られたんだよ。許せないのはカリフォルニアにいる人間自体がメキシコ割譲地の話を知らないってことだ。メキシコの軍隊ってのは何のためにあるか知ってる? まさかアメリカと戦える筈がない。僕たちは彼らと戦える武器は買えやしないからね。メキシコの軍隊ってのは、自国民を服従させるためだけにあるんだよ。これがアメリカに支配された国の現状だ。

技術ってのはいつもアメリカの技術だ。政府はアメリカの言いなりだからすぐに関税が撤廃されて、技術的に未発達の産業はすぐに吹っ飛んでしまう。そのくせメキシコが優位な産業では関税は撤廃されない。本当に自由貿易協定はクソだよ」

「それはあまりに一面的で歪曲した見方だ」とカールは言う。「現実に西欧が人類を幸福にしているじゃないか。幸福にしているからこそ、西欧の原理が受容されているんだろう。

もしも西欧の原理が否定されるべきならば、代案が出ているはずだろう。政治では民主主義国家がそれぞれの国民の主権を代表しつつ利益を守り、経済では資本主義市場が合理的な分配を可能にしている、文化でも文化産業が表現の自由の下に皆に需要される娯楽を十分に提供している。それらは何ら否定されるべきものではない。しかも、その普及は常に進んでいる。グローバリゼーションの下で世界はやっと一つになろうとしているんだ。民主主義と市場原理とポップカルチャーが国境を越えた平和を実現しているんだ。

君は、民主主義を否定するのか? 主権在民を否定するのか? それとも国民国家そのものを否定するのか? 国家主権の不可侵がなければ国民を守るものは何も無くなってしまう。世界政府はただの幻想だ。そして、国家主権が民衆にあることがことを認めねば、国家は国民を守らないし、利益が反映されない。そのプロセスは民主主義以外にはありえない。

資本主義を否定するのか? 市場原理を否定するのか? 私的所有の不可侵を否定するのか? 契約の自由を否定するのか? 誰もが自由に契約を結べ、自分の財産が守られ、その上で、誰もが自由に平等に市場で取り引きできる。純粋に合理的なゲームがそこで行われている。これを否定するのか?

ポップカルチャーを否定するのか? ジャズやロックの普及、アニメや漫画という娯楽が自由に発信され、享受されたのは、文化産業の恩恵だろう。誰もが自由にアートを創作して、誰もが自由にそれを鑑賞できる。

君たちが、西欧に批判をするときは、あまりに現実を無視し続けている。ただの理想論だ。現実を批判することなんてない。それを非西欧というコンプレックスで無駄に西欧批判をするなんて尚更に虚しいことだ。誰もが一票を持っている。誰もが市場のプレイヤーになれる。誰もが文化を創出できる。誰も止めていない。自由で平等な社会だからだ。君たちは、その自由で平等な社会で活躍する能力や勇気が少しばかり足りないだけなんだ。そして、その制度に批判を投げる。過去やナショナリズムに引き摺られてね。未来を見ていけばいい。西欧の原理は未来を生み出せる。

更にホセに言わせてもらえば、確かに過去の侵略の歴史は申し訳なかったと思うが、それでも現代に残っている発展途上国の債務は結局は君たちの国の人間が使ったのだろう。君はそれを一部の富裕層が使ったと言うのだろうが、それは説得力がない。民主主義と資本主義の未成熟があったから不幸にして一部の旧支配階級が甘い汁を吸ったのだろうが、それは貸した側を責めるべき問題だろうか。それは国内の問題だ。実際、日本は過去にあった債務を返済し終え、今では債権国となっている。そうした経済発展をこそ見習うべきじゃないのかな。そして、一部の利権を許さないような民主主義と資本主義の発展が大切なことだろう」

「全然違うよ」とホセは言う。「確かにメキシコだって選挙はあるよ。でも、メディアだって何だって親米の奴等が持っているんだよ。普通の人には絶対に自由貿易協定がどんな打撃をメキシコに与えるかなんて分からないんだ。それに大統領は勝手にアメリカに油田を渡してしまったりするんだよ。普通の人には全然分からないところで話は決まっていって、富める人は更に富み、貧しい人は更に苦しくなるんだ。

1994年のメキシコの通貨危機だってそうだった。92年のNAFTA(北米自由貿易協定)によってメキシコに大量のマネーが流れ込んでバブル状態になり、そのバブルがはじけてペソが大量に売られてメキシコ中央銀行のドルは底をつき、ペソは通貨切り下げ、大変なインフレになり失業者が溢れたんだ。それでも一部の富裕層は、その時に政府が発行した国債で儲けたんだよ。そしてIMFが介入して、税金を上げ、福祉の予算を減らすんだ。こうして全然関係ない市民が、国際金融のきまぐれで生活が苦しくなるんだ。僕はお父さんとお母さんがいつもお金のことで喧嘩をしているのを見て、とても苦しかった。僕のお父さんは大学で教えていたけど公務員の給料が切り下げられてしまったんだ。

発展途上国は先進国のマネーの流入に対して無力なんだよ。いや先進国であったとしても国際金融のマネーにはどんな国だって無力と言っていいくらいだ。イギリスのポンド危機、97年のアジア通貨危機、98年のロシア財政危機を考えてみてよ。どれも普通の人が苦しむんだ。通貨が金儲けの道具なんておかしいんだよ。苦しむ人がいて、そこで莫大な儲けをはじきだす人がいるシステムを、僕はどうしても許せない」

「それは偶然の事故、あくまで例外だよ」とカールは言う。「国際的な為替の取引は、通貨の安定の為に為されているんだ。誰かが儲けられるかもしれないが、それはその人が能力があったということじゃないのかな。もしも、通貨を市場原理によらない他の方法で定めてしまったら、実物経済と通貨の力関係のバランスがおかしくなってしまう。それは90年代のそうした不幸はあったにしろ、全体としては経済も通貨も安定を保っている。どんなに優れたシステムであれ、ある程度の事故は起こるものだよ。そうした例外ばかりを見て、どこか一部の人間が私腹を肥やすためのシステムというのはあまりに穿った見方だと思う。

それに流入した投資が行われた以上、それを活かすという選択肢はいつもある訳だ。結局、ペソの暴落だって、その前に実体経済を上回る投資が行われたバブルだった訳で、仮に、その投資に見合うだけの経済成長があればよかったんじゃないかな。失敗を恨むよりも、チャンスを見詰めた方がいい」

「発展途上国の人間に、そんなこと出来るわけないだろ」とホセは言う。「だいたい教育が先進国と全然違うんだよ。それにワシントン・コンセンサスが債権者を守るためのものであるのは明かじゃないか。そこで暮らす人々のことなんてこれっぽっちも考えていない。僕が言いたいのは、成功のためのチャンスを与えるシステムはいいから、何もしていないのに苦しい目にあうようなシステムをやめて欲しいということだ」

「リスクがあるのは必然だ」とカールは言う。「リスクのない社会なんて存在しない。狩猟であれ農耕であれ常にリスクは存在する。だからこそ、人は同じリスクを負うのならば少しでも成功を目指して努力をしてゆくのだろう。ホセは怠け者の言い訳にしか聞こえない。ホセの言う投資家だって、失敗する危険性を背負っているからこそ、リターンを得られるのであって、常に成功する投資家なんて存在しない」

「それは違う」とホセは言う。「必ず儲けているんだよ。機関投資家は。どんなに失敗した投資をしても彼らは数十億円という収入を得ているじゃないか。彼等が損を出したからと言って、給料が払われなかったりすることなんてあるかい?」

「それは、彼らを雇った人間、つまりは会社の株主なり銀行なりが担保しているんだろう」

***

はあ。なんだか疲れたのでここまで。読んでくれたあなたも御苦労様。まあ、そんなこんなで話はいつまでもいつまでも続いたとさ。めでたしめでたし。

2008-05-01

《場の論理》への抵抗

往々にして《場の論理》は《個人の論理》を抑圧する。それは個人を平均化し続け、やがて自らもゆるやかな熱死を迎えてしまうだろう。いかに弱い個人が場の論理に対抗するのか。なんだかアブないような話だが、数点メモしておく。

***

よく成功本には「主体性を発揮する」だとか「自由を尊重する」とか書いてある。正論だ。しかし、それは役に立たないことも多い。なぜなら、それは場を支配する者が取れる戦略だからだ。それは子に対しての親であり、部下に対しての上司だ。優れた親や上司が部下の主体性や自由を大切にすることは素晴しい。しかし、間違った親や上司に遭遇したときにはどうしたらいいのだろうか。そのような状況でどう「主体性」を発揮すればよいのだろうか。弱者に主体性を発揮する自由は与えられていないのだから。そもそも「強者」すら主体性を発揮できない空間で、どんな自由や主体性があろう?

問題は弱者がいかに場を改善するかである。別に大袈裟な問題ではない。例えば、誰も本音では行きたくないが、その場の空気で何故か行ってしまう二次会を、いかに弱者が回避するのかという問題でもある。高田明典『現代思想の使い方』 のゴフマンの解説をヒントに、何点かメモしておく。

  1. 直球勝負 「空気が読めない」という非難を受け入れ、正論を述べる。そして行動上も抵抗する。大抵は成功せず、マジョリティーには結束を、マイノリティーには自己満足のみを与えて終わる。ただし、一度も「正論」を青臭く叫ばない人間というものは個人的には信用できない。三十過ぎてまでそれでは病気だと思うが。
  2. 欺瞞的服従 口でも文句を言わず行動も従う。あるいはたまに「間違っている」と言ったとしても行動は従う。そして場の論理に従っているフリをして、集団そのものの敗北を待ち、土壇場ではしっかりと裏切る。そして最後に「ね。だから言ったでしょ」というヤツ。
  3. 不服従 勝目がないために言論上では場の論理に従うフリをして、いざとなると実際には従わずに制裁を受ける。所謂「決められたことを守らない人」。いい加減とか無責任とか思われる。しかし、制裁を実行するところで集団にもコストが掛かるので場の論理を再考する契機が与えられる。
  4. 客観的に破綻を暗示 場の論理に従っているフリをして、その論理を大袈裟に話すことで場の論理の破綻した帰結を仄めかし、「それヤバいね」という空気を醸成し、その場を逃れる。言動上では何らの抵抗も抗議もせず、場の論理の破綻した帰結を「いかにも無意識を装いながら」集団に示し状況をすり抜ける。成功したとしても、その集団の土壌自体が変わることはない。

2 と 4 の方法では集団は実際に変化を起こさない。4 の方法は一回限りの現象であれば有効だが、何度も同じことが起こる場合には効力を発揮できない。つまり、真剣に集団が場の論理を再考するのは 1 と 3 だけである。しかし、そのどちらの場合にも、問題を提起した本人である個人は集団からの相当の攻撃を受けることになる。

戦略としては 2 (欺瞞的服従)を中心に、どうしてもというときに 4 (客観的に破綻を暗示)を行うという形になるのだろう。そして、次第に 3 (不服従)で打撃を与えつつ根回しをしてゆき、ここぞというところで 1 (直球勝負)をする。

親子の関係であれば、基本は親に服従しつつ、どうしてもという時には相手の論理を大袈裟に拡張してその場をやり過ごす。つまり日常では自分の言葉は語らない。そして、次第に不服従を取ってゆき、逆に、そうした服従の論理の上に家族という制度が辛うじて成立していたことを想起させてゆき、ある日、正論で直球勝負をかけてゆく、ということになるだろう。

労使の関係であっても変わらない。基本は服従し、どうしても逃れたい要求に対しても、自分の言葉で反対するのではなく、相手の論理の転倒によって逃れる以上のことはしない。そして、根回しをしつつ不服従してゆき、最後に直球勝負をするということになるだろう。

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個人が無責任であり、無能であることを集団は何よりも恐れる。反抗する個人は御しやすい。彼らには《意見》や《要求》があるから、既にマジョリティーが成立させた論理や倫理観、あるいは実際的な暴力やカネの力で戦えば勝敗は見えている上、そうした個人の声を押し潰してゆくことで、集団の論理はカイゼンされ、更にしたたかなものになってゆく。

答はシンプルだ。無能になればよい。抵抗することはない。ただある日、自分には出来ない、と言えばよい。巨大に思えた構造も、実は個人の服従に支えられていたことが、不服従によって曝け出される。

集団は個人のコミットに支えられる。コミットとはその集団の価値観において優秀でありたいということだ。優秀であることを捨ててしまうとき、その場の論理は拘束力を失なってゆく。優秀への欲望を捨てたときに彼はその集団から自由になる。そうして自由になった個人が、再び自らで《価値》と《優秀さ》を定義しなおし、再びコミットを誘うに足る集団を作りあげられるのか、そのまま滅んでしまうのかは分からないが。

なんだかアブない文章になってしまった。こんなところにしておく。